「インド仏跡地巡拝」をして、インドで見聞したこと2007.3.1
  曹洞宗の僧堂では、朝食・昼食時の始めに、複帕(ふくは)で包まれた応量器(おうりょうき)(食器)を(ささ)げ、「展鉢(てんぱつ)()」を唱える。偈の前半は、釈尊の身の上に起きた事柄と地名をむすびつけている。

佛生迦毘羅(ぶっしょうかびら)成道摩掲陀(じょうどうまかだ)説法波羅奈(せっぽうはらな)入滅拘稀羅(にゅうめつくちら)如来応量器(にょらいおうりょうき)我今得數展(がこんとくふてん)願共一切衆(がんぐいっさいしゅう)等三輪空寂(とうさんりんくうじゃく)

説明を付け加えると次のような意味になる。

釈尊は、現在のネパール国にあるカピラヴァスツ迦毘羅(かびら)で生まれ、マガダ国摩掲陀(まかだ)のブッダガヤの菩提樹(ぼだいじゅ)の下で成道する。成道後、ヴァーラーナシ国波羅奈(はらな)鹿家苑(ろくやおん)で五人の修行者に始めて説法をする。そして、ガンジス河の支流の河畔近くのクシナガラ拘稀羅(くちら)沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で入滅した。

如来(にょらい)(修行を完成した人)も用いたこの応量器を、我れ今開き用いるについては、衆生とともに三輪(施者、受者、施物)に執着しないことを誓う

大本山永平寺東京別院長谷寺が企画した「インド仏跡地巡拝の旅」に参加した。巡拝地は、この「展鉢(てんぱつ)()」でなれ親しんでいる地名である釈尊の、生誕・成道・初転法輪(しょてんほうりん)・入滅の四大聖地と祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)、ナーランダ大学跡などその他の聖地である。

期日は平成19年2月22日(木)〜3月2日(金)の9日間。参加者は、大法監院老師をはじめとして、長谷寺から6名の僧と女性5名、添乗員1名を含む計19名である。参加した最高齢は、女性のEさん89歳。


「仏教小年表」1)によると、釈尊(しゃくそん)は世紀前566年に誕生し、80歳で入滅する。インドで生まれ

 仏教の伝播図(拡大は図面クリック)
 

た仏教は、パキスタン、アフガニスタンを経て、シルクロードを通り、500年後の世紀前2年に中国に伝来する。そしてその500年後の世紀後538年に、朝鮮半島を経由して、日本に伝来する。実に、インドから日本に伝わるまでに、1000年以上の時を必要としたのである。

成田空港を11時30分に離陸した満席のJALの航空機は、いにしえの人が天竺(てんじく)と呼び、あこがれた、その仏教誕生の地に向かう。2度の機内食と飲み放題のアルコールやソフトドリンクに手をだしながら、中国上空を通り、右手の窓に白いヒマラヤ山脈を覗かせて、9時間半後にはデリー空港に着陸する。

空  港

“使い古された”と形容できるターミナルビルでは、入国審査カウンターの前で長い行列を作っている。行列から離れて、トイレを済ましてきた小柄なFさんは、「まいちゃったよ、便器が高くて届かないんだよ、大便器で済ましてきたよ、行ってきてみなよ」と私にすすめる。たしかに小便器の取り付け高さは、やっとの位置である。デリーで一泊し、翌朝に到着したラクノー空港の小便器の位置はもっと高く、爪先立ちしなければ用が足せなかった。

坐禅では、両足を反対のももの上にのせる、結跏趺坐(けっかふざ)という坐り方をする。初心者には、結跏趺坐(けっかふざ)で坐り続けるのは苦痛である。以前、耕雲寺坐禅会にKさんという熟年の男性が来た。背が高く、痩せていて、(あし)が長い。坐禅は初めてだといって坐り方を教えられていたが、結跏趺坐(けっかふざ)を苦もなく組み、平気だという。(あし)の長いインド人だからこそ、結跏趺坐(けっかふざ)という脚の組み方を考案したのに違いない。胴長短足の多い日本人には無理な坐り方である。最近は、脚の長い人も多くなり、変わってきてはいるが。

入国審査では、2時間近く待たされた。私の並んだ列では、ふたり前で審査が止まってしまった。カウンターを覗いてみると、審査官が書類をひっくり返したり地図をめくったりしている。そのうち席を外してしまった。何十分待たされただろうか。違う審査官が来て坐り、何事もなく審査を始めた。審査を受ける人の混雑には関係なく、交替時間が来たので引き上げてしまった感じてある。

翌朝、このデリー空港からラクノー空港への国内便を利用した。手荷物検査をひとつのゲートでしていたが、そのうち、もうひとつのゲートも開かれた。しばらくすると、そのゲートは、ボディーチェックの際に乗る台を、上司の指示によって右に動かし、左に動かし、前後に動かして位置決めをやりだした。昨日今日ボディーチェックが始まったのではないだろうに。その間、手荷物X線検査はストップし、私を含めて検査を受ける人は辛抱強く並んでいる。

「インドでは、問題がないほうが問題で、うまく事が運ぶことはないと思ったほうが良い」と、添乗員は真面目な顔で話していたが、まずは納得した。


専用バスでの移動

釈尊は、インド東部のガンジス河中流域で布教活動を行った。今回巡拝する聖地も、その活動された地域に点在する。この地域は、インド国内でも貧しく、文盲率も高い。

デリーで一泊した翌朝、デリー空港から空路1時間で、最寄(もより)の空港であるラクノー空港に着く。ここから35人乗りの大型の専用バスで、仏跡地を巡拝した。添乗員の話では、この巡拝のためにデリーから回送してきたバスである。

 専用バス  樹木が続く道路
   
 ドライブインでの紅茶休憩  どこでも人なつこい子供達
   


舗装されているがセンターラインがない国道を、かなりのスピードで走り、振動がお腹にひびく。発車前に、揺れるので座席の前半にふたりがけで坐って、後ろは空席にして下さいと注意があったが、その意味が納得できる揺れである。

旅行説明会で、10時間近くのバスでの移動が何日か続くといわれ、日本での長距離バスでの移動を想像し、ある程度の覚悟はしていた。しかし、ホテルを早朝4時半から6時前に出発し、8時間から長いときは14時間以上を、冷えすぎても空調の調節が効かず、窓もかたくて開かず、揺れの大きいバスでの移動が、旅程の半分を占める。気が張っているのと好奇心で体力が持ったようなものである。

 のんびりと歩む牛車  人力三輪車
   
 乗れるだけのせた車やバス  
   


国道の両側には樹木が続く。数十メートルごとに、白・茶・白のペンキが30センチ幅の鉢巻状で、幹の一定高さの位置に塗られている。それが延々と続く。夜間と雨季に、道路の幅と方向を示す目印にするという。

ロバの背に荷を載せ、牛が荷車を引き、人力三輪車が人を乗せて行く。屋根に人を乗せたバス、大型トラックが走行する。古代からの乗り物と20世紀の乗り物が、21世紀の同じ道路を利用する。そしてインド式の交通マナーに驚かされる。片側2車線以上、中央分離帯の幅が2メートルもある道路でも、渋滞を避けて、分離帯の切れ目から対向車両が入ってくる。運転手はクラクションも鳴らさず、当然のように対向車両のために車線を譲る。

 ボルトを締めなおす  塀で乾燥させ、燃料とする牛の糞
   

 

 私たちの乗るバスに、オートバイに乗った人が合図を送ってくる。タイヤに異常があったようだ。運転手と助手がタイヤのボルトを締め直している。しばらくして、スピードを落としたとき、歩行者がドンドンとバスをたたいて叫んでいる。また、運転手と助手が同じタイヤのボルトを締め直す。タイヤは8本のボルトで取り付けられているが、2本のナットが外れている。ほかのタイヤを見てみると、3輪のうち2輪のタイヤのナットも2本ずつ外れている。このあと、ノロノロ運転でホテルまで行くこととなった。部品の調達ができず、翌日から仮修理のままの運転となる。
 どこまでも続く農地  豊富な果物
   

郊外に入ると、車窓から見える景色はどこまでも平地であり農地である。しかし、北海道で見るように、同じ農作物が、はるかかなたまで整然と続くという感じではない。所々に林があり眺望は妨げられるが、サトウキビなどのいろいろな農作物が混在して、先の先まで植えられているのがわかる。この旅行中、小高い丘さえ見るのが珍しいほどの平坦地である。

添乗員の話では、この地方は貧しいが、飢え死にする人はいないという。路上で山のように積まれて売られている、いろいろな果物などを見ると納得できる。

釈尊の時代も同じであったに違いない。農作物が豊富に生産できたからこそ、生産に従事しない、数多くの修行者や思想家などが生まれ、生活できたのであろう。

托鉢(たくはつ)で日々の(かて)を得ている釈尊と、それをよく思わない婆羅門(ばらもん)(バラモン教の司祭)との興味ある問答が、原始仏教経典である“雑阿含経(ぞうあごんきょう)の耕田”に記されている。

ある朝、釈尊は托鉢(たくはつ)のために、ある婆羅門の家の前に立った。婆羅門は釈尊(世尊(せそん)沙門(しゃもん))に向かって言った。

沙門(しゃもん)よ、われらは自ら田を耕し、種をまき、しかる後に食する。沙門よ、なんじもまた、自ら田を耕し、種をまいて、しかる後に食するが良い。」

世尊は、答えて言った。

「婆羅門よ、われもまた、耕し、種まく。耕し種まいて、しかる後に食するのである。」

だが、世尊は(すき)も持たず、牛も引かず、しかも耕し種まくという意味を、かの婆羅門は解することを得なかった。

「沙門よ、なんじは、――われもまた耕し、種まく――というが、われらはいまだかって、なんじの耕す姿をみたことがない。なんじの(すき)はいずくにあるか。なんじの牛はどこにいるか。」

かく問われた時、世尊は説いて言った。

「婆羅門よ、信仰はわが()く種である。智慧はわたしの耕す(すき)である。身において、口において、また意において悪業をまもるは、わたしの田における除草である。精進はわが牛であって、行いて退くことなく、行いて悲しむことがない。かくのごとく私は耕し、かくのごとく私は種をまいて、甘露(かんろ)()を収穫するのである。」

大地を耕して、荒地を開き、それを美田となして、そこからゆたかな収穫をあげるというのが農耕のいとなみである。しかるに、世尊のいとなみとするところはなんであるか。それは、人間の荒蕪(こうぶ)(ひら)いて、そこにうるわしい人間性を開発し、ゆたかな人間のいとなみを獲得しようとする。いうなれば仏教とは、人間開墾のいとなみであるということができるはずである ・・・(増谷文雄著「阿含経典による仏教の根本聖典」「原初経典阿含経」(2)から)

バスは運転席室と乗客席室をガラスで仕切っている。運転席室には、運転手と助手の2人がいるが、助手は席がなくステップなどに坐っている。運転席室は冷房の設備がない。驚いたことに、運転手と助手はホテルに泊まることを許されず、バスの中で寝泊りしている。食事もホテルの裏口からもらって、ホテルの外で食べる。添乗員の話では、バスによっては助手にも席があるが、その他のバスの仕様や運転手・助手に対する待遇は、インドでは普通であるという。インド憲法はカースト制度を認めていない。しかし、現実には強力に機能しているといわれる。

釈尊の教団での階級は、出自と無関係で、出家後の年数で決められたという。最古の仏教思想や初期の仏教教団の状況などを伝える経典“スッタニパータ(経集)”で、釈尊は、多くの貴賤についての事例を挙げ、最後に次の一偈(いちげ)をもって結論して教えた。

人は、生まれによって賤民(せんみん)たるにあらず、生まれによって婆羅門(ばらもん)たるのではない。

人は、行為によって賤民(せんみん)となり、行為によって婆羅門(ばらもん)となるのである >・・・(増谷文雄著「仏陀その生涯と思想」(3)から)

物乞いと物売り

小さな女の子が赤ん坊を抱いて物乞いに来る。抱いた赤ん坊の吹き出物だらけの顔を、指差しながら物乞いする女の子もいる。女の子は、お姉さんなのだと思っていた。後の話で、地方では13才までには結婚し、30才をすぎると孫ができるという。女の子はお母さんのようだ。手首のない、あるいは足首のない男の子や、いざりながら物乞いする男の子が寄って来る。

添乗員も現地ガイドも、「金を与えないでくれ」と口をそろえて言う。簡単に金が得られるから、働かなくなるのが理由である。ガイドの話では、デリーでは政府が職を斡旋しても、物乞いの方が何倍も実入りが良いので、物乞いに戻ってしまう。信じられない話だが、親が手・足を切り落として、物乞いに仕立てることもする、と参加した一人は話していた。

女性のHさんが、子どもを抱いた女の子に金を与えた。それを見た何人かが、当然のように手を出しながらHさんに迫る。Hさんは、急いで、巡拝者しか入れない仏跡地に逃げ込んだ。

釈尊誕生の地ルンビニーでは、バスを降りた場所から仏跡地まで、人力三輪車に分乗して往復した。帰りに、私の乗った人力三輪車が動き出しても、4〜5才の女の子が手を出しながらついてくる。突然、車夫が女の子を足蹴(あしげ)にして突き放してしまった。車夫は飛んできた母親に罵声をあびせている。あまりのことに、同乗していた女性のEさんと目を合わせた。

バスは各仏跡地の入口のそばに止まり、物乞いや物売りを避ける。添乗員やガイドは、「私たちが間に入ると、物売りにあとで何をされるか分らないので、間には入れない。とにかく無視しなさい」と注意される。しかし、仏跡地から遠く離れてバスが停まる場合もある。

釈尊の成道の地ブッダガヤでは、バスが駐車した場所から仏跡地の大菩提寺まで約500メートルを歩く。その間、日本語の達者な青少年が、バスを降りた時から、数珠(じゅず)などを売る相手をきめて、最後まで付きまとう。何が何でも売り物を強引に手渡そうとする。身の危険を感じるほどである。無視していると、「あなた、私が話しかけているのに、黙っているのは失礼ではないか」などと言う。聖域の雰囲気を壊し、これから礼拝(らいはい)する気持ちを()せさせる。しかも、夕食後、ホテルのエレベーターの前で待ち伏せ、さらに翌早朝、ホテルのロビーで待ち伏せている。女性のHさんは、「一流のホテルで、門衛もいるのに、物売りをホテル内に入れるとは不愉快である」とフロントに抗議してきたと話していた。

仏典にもっとも多く記されていると言われる山の霊鷲山(りょうじゅさん)では、30分かけて登る。ここでも、あまりのしつっこさに大きな声で「ノー」と言うと、「うるさい」と怒鳴り返されてしまった。

「日本寺で教育を始めた日本語教育が無計画であったために、裏目に出た結果である」、と記してある書物4)もある。

仏跡地

インドでは仏教が密教化し、ヒンドゥー教のなかに埋没してゆく。ヒンズー教では、釈尊はヒンズー教のヴィシュヌ神の化身とされている。さらに13世紀初頭のイスラム進撃とともに寺院は徹底的に破壊・掠奪(りゃくだつ)され、仏教徒はインド外に逃れ、残った者達はイスラム教徒に改宗させられる。以来600年間、19世紀にアレキサンダー・カニンガムによって再発見されるまで、仏跡地は荒廃して所在さえ不明となる。

英国統治時代、アレキサンダー・カニンガムは、1862年にインド考古調査局を設立して、遺跡地の調査研究を推進、または修復し、さらに1902年同局の総裁としてインドに渡ってきたジョン・マーシャルの大規模な科学的発掘によって、それまで伝説となっていた仏跡地も、ようやく再発見され明確になって来たのである。

その作業にあたりその重要な指針となったものは、4世紀末から5世紀はじめに、インドを旅行して学んだ法顕の「仏国記」や、7世紀にナーランダ大学に留学した玄奘(げんじょう)の「大唐西域記」や、同じく7世紀末の義浄の「南海寄帰内法伝」などの、聖地巡拝探訪記録の結晶の賜であることを忘れてはならない。いわゆる文字の国、中国の世界史的貢献であろう。・・・(前田行貴著「インド佛跡巡礼」4)から

 畑の中に見えてくるレンガ工場
 

車窓から畑の中に、細長い円錐形の煙突が見えてくる。レンガ工場である。工場の周りの土を掘って原料としている工場もある。旅行中かなりの数のレンガ工場を目にする。この地方の建物の多くは、レンガを積み上げて建てられている。発掘された遺跡もすべてレンガで構築されている。

今回の「仏跡地巡拝」では、四大聖地を含む13箇所の仏跡地を巡拝した。そのほかにヒンズー教徒のガンジス河での沐浴風景、世界遺産であるタージマハールなどを見学した。





2月23日:祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)
菩提樹(ぼだいじゅ)(あが)める巡拝者

平家物語の冒頭にある“祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色〜”で馴染んでいる地名である。コーサラ国のスダッタ長者とジェータ太子の協力で建立した祇園精舎は、竹林精舎が南の伝道の中心地であるのに対し、北の伝道の中心地になる。 
  初めに訪れた仏跡地であり、東南アジアから来た信者が熱心にお祈りしていた姿が、今でも印象に残る。「摩訶般若羅蜜心経(まかはんにゃはらみったしんぎょう)」を皆でお唱えする。

  祇園精舎は、1863年アレキサンダー・カニンガムにより発掘。
祈り続ける巡拝者
集合写真

2月23日:舎衛城(しゃえいじょう)

スダッタ長者とジェータ太子がいた強国コーサラ国の首都で、交通の要に位置することから商業都市として繁栄していた。


2月24日:ピプラワ
  シャカ族の首都。シャカ族の首都カピラヴァストゥについては、インド領内のこのピプラワとネパール領内のティラウラコットのふたつの説がある。

2月24日:ルンビニー
アショーカ王石柱前での誦経(ずきょう)

ネパール領内にある釈尊生誕の地。1896年インド考古局フューラーによって付近の発掘調査がおこなわれ、アショーカ王石柱が発見される。石柱に刻まれた文字より、この地が釈尊生誕の地であることが確認される。建物により遺跡は覆われ保護されている。「摩訶般若羅蜜心経(まかはんにゃはらみったしんぎょう)」を皆でお唱えする。

建物で保護された遺跡

2月25日:クシナガラ
ラーマパール・ストゥーパ

釈尊涅槃(ねはん)の地。大涅槃寺の堂内には、1876年アレキサンダー・カニンガムによってヒラニヤヴァティ河の河床から発掘された6.1mの巨大な涅槃像が横たえられている。大涅槃寺は、1927年にビルマ仏教徒によって建立された。

広くない堂内では、各言語で唱えられるお経が反響していた。「舎利礼文(しゃりらいもん)」を皆でお唱えする。

釈尊を荼毘(だび)にした場所にはラーマパール・ストゥーパ(荼毘塔)がある。

大涅槃寺(だいねはんじ)
涅槃像(ねはんぞう)

2月25日:ケサリア
正面

最近発見された巨大なストゥパー(仏塔)。発掘した箇所と、未発掘の箇所が同じストゥパーではっきりと区分され、埋没していた状況が分る。

左半分は未発掘、右半分は発掘済み

2月25日:ヴァイシャリー

釈尊を外護したリッチャヴィ族の都。80歳の釈尊が最後に雨安居(うあんご)した場所。

ヴァイシャリー城跡は、1903年にアレクサンダー・カニンガムによって発掘された。


2月26日:霊鷲山(りょうじゅせん)

大乗仏教の中で、特に法華経を始め、大無量寿経、観無量寿経、般若経などが、この霊鷲山で説法されたと伝えられている。

雨上がりで、下界に雲海のように霧がたちこめる。「法華経如来寿量品(ほっけきょうにょらいじゅりょうほん)」を皆でお唱えする。


2月26日:竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)・ビンビサーラ王の牢獄跡
竹林精舎

竹林精舎は釈尊に帰依したマガダ国のビンビサーラ王が、竹林園を寄進したのに始まり、カランダ長者が精舎を建立した。歴史上寺院建設最初のもの。

ビンビサーラ王の息子アジャータシャトル(阿闍世)は、デーヴァダッタ(提婆達多)にそそのかされて、父王を幽閉し殺害する。

ビンビサーラ王の牢獄跡

2月26日:ナーランダ大学

世界で古い大学の代表の一つに挙げられる。特に5世紀から12世紀にわたり仏教教学の最高学府として栄えた。玄奘の学んだ7世紀当時も、数千人が学び、大乗仏教が研究の中心であったが、他の諸派の仏教教義も研究された。12世紀にイスラム軍団の焼き討ちに遭い、数ヶ月にわたり延焼した。その間仏教徒たちはネパールやチベットの山岳地帯にからくも持ち出した経典類を運び、また一方では消火のために土を覆って逃げたので、以後700年間埋没したままであった。

現在、発掘されているのは全体規模の一割にも満たないという。

発掘作業

2月26日:ブッダガヤ
大菩提寺(だいぼだいじ)

釈尊成道の地。ブッダガヤの聖地では、イスラムの破壊から守るため、仏教徒が精舎(しょうじゃ)(寺院)全体に土を覆って、小高い丘と偽装し、イスラム軍団の破壊から免れた。ここも六百数十年のあいだ土の中に埋もれ、忘れ去られていたが、1880年にアレキサンダー・カニンガムによって、高さ52メートルの精舎が発掘・復旧された。

瞑想する僧

2月27日:サールナート(鹿野苑(ろくやおん)
初転法輪寺(しょてんほうりんじ)

サールナートは釈尊が成道ののち、5人の修行者に最初に説法(初転法輪(しょてんほうりん))して弟子とした地。

釈尊の雨安居の場所に建てられた初転法輪寺は、スリランカの大菩提会が1931年に建立した。堂内で「大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)」を皆でお唱えする。お参りのあとで黄色い袈裟(けさ)をまとった僧が、一人一人に橙色の糸を手首に結び付けてくれた。一ヶ月たった今、私の手首にはまだ糸が巻かれている。
(追記:手首に巻かれた糸は、細くなりながらも、三年半後の平成22年9月まで残っていた)

ダークメーク大塔は、弥勒菩薩(みろくぼさつ)仏陀(ぶっだ)となって救済されるという予告を受けられた処とされる。


ダークメーク大塔
ダークメーク大塔の下で法話を熱心に聞く信徒

2月28日:迎仏塔
  迎仏塔はサールナートの手前1kmにある。釈尊の来訪を知った5人の修行者は、修行者としての苦行を捨てた釈尊を無視しようとした。ところが釈尊が近づいてこられると、その毅然とした威容に感銘し、丁重に迎え入れる。その場所に、後世仏塔が建立され迎仏塔となる。

2月28日:ベナレス  ガンジス河の夜明けとヒンズー教徒の沐浴

3月1日:アグラ  タージマハール

ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャーンが、最愛の妃ムムターズ・マハールの死を悼んで建設。1653年に完成。世界遺産登録。


 その他の写真(クリック)

 追 記

サールナートの考古学博物館の門前で、黄色い袈裟(けさ)をまとって赤銅色に日焼けした僧が、「私は曹洞宗の僧であったが、今は小乗仏教で活動している」というようなことを話しかけながら、印刷物を配っている。私は小乗仏教なんて言わないで、南伝仏教とかほかの言い方があるのではないか、と思いながら印刷物を受け取り博物館の中に入っていった。

子どもが大人に混じって働いているのを目にしてきた。無邪気な笑顔でバスに手を振ってくれる子ども達は、ほとんどはだしである。そして、小さな子どもの物乞いにも無視してきた。なんとなくやり切れない気持ちであった。

博物館内で印刷物を読みながら、こんな人もいるのかと、締まりのなくなってきた涙腺がさらに緩んでしまった。赤銅色の僧 後藤恵照師は、1978年に渡印して以来、建立したサールナート法輪精舎を拠点として、貧しい地元の子ども達のために、無料の日曜学校を開き、最近では女子裁縫学校を開校したこと、そして、旅行中に持参した文具、衣類、医薬品などで不用になった品を求めていることなどが印刷物には記されている。資金を送る支援窓口が日本にも開設されていることが書かれていたが、この高ぶった気持ちは日本に帰れば失せると思い、博物館からの帰りにも、まだ門前におられた後藤恵照師にお布施をお渡しした。配られていた印刷物を添付(クリック)する。



 参 考
 (1)三枝充悳著 「仏教小年表」 大蔵出版

 (2)増谷文雄著「阿含経典による仏教の根本聖典」大蔵出版「原初経典阿含経」筑摩書房

(3)増谷文雄著「仏陀 その生涯と思想」角川選書

(4) 前田行貴著「インド佛跡巡礼」東方出版

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