銀嶺の巫女 プロローグ

銀嶺の巫女

プロローグ


 東の空が真っ赤な朝焼けに染まり、眼下に広がる雲海が黄金色に染まり始めた。

「すごい……こんなの初めて……」

 初めて見るその光景にグレイスは思わずつぶやいた。

 ここは礁国空中補給基地“シュネルギア”の第一飛行甲板上。

 この上にはもう何もない。ただひたすら広い、広い空が広がるばかりだ。

 彼女の生まれた嶺国では空は狭い。

 谷間に囲まれた土地には昼間でも陽が当たらない場所さえある。もちろん苦労して山の頂にまで登れば別なのだろうが、そんな無意味な行為をしている余裕は彼女達にはない。

 自分がこんな所にまで来るとは思ってみてもいなかった。

 だが間違いない。今、彼女はここにいる。

「グレイス~!」

 アントレーネの声がする。

 振り返ると遠くの方で彼女の“パル”が手を振っているのが見えた。

「あ、ここ、ここ!」

「もう、みんな集まってるわよ!」

「あ、ごめん」

 だだっ広い甲板に、ぽつんと立っている艦橋塔。

 その甲板上には見渡す限り礁国の新型飛行機械リベッラが並んでいる。

 礁国の科学技術はこの“大空陸”随一だ。

 シュネルギアという赤錆びた巨大な鉄塊をこんなに空高く浮かせることができるなんて、現物を見るまでは絶対に信じられなかった。

 グレイスの生まれた嶺国では空を飛べるのは鳥と虫、それにスキーでジャンプした一瞬の間だけと相場が決まっている。

 鳥のように空を飛びたいなどという望みはあまりにも荒唐無稽すぎて、物語の主人公にでもならない限り叶えられない夢だった。

 だが今、彼女はこの空の上にいて、始まりの巫女達が失った伝説の翼を再び手に入れようとしているのだ。

「はやく~! なにしてるの?」

「今行くって!」

 グレイスは居並ぶ戦闘機の間を駆け抜けた。

 そのコクピットからフルフェイスのマスクを付けたパイロットが彼女に手を振った。グレイスも笑って手を振り返す。

 あの仮面のようなマスクの下には、礁国の兵士達のそれぞれ皆違った顔がある。みんな立派なおじさん達で、みんな不健康だ。

 甲板の下にある機関部から真っ黒い煙が立ち上っているのが見えた。風向きによってはこちらに流れてくるから始末が悪い。あれに巻かれると本当に息が詰まりそうになる。

 礁国は国中があんな煙に覆われてしまっているという。だからみんな体が悪いのだと。

 一度どうしてそんなことになっているのか兵士の一人に聞いたことがある。すると彼は答えた。

『飛ぶためには、仕方がなかったんだよ』

 今ではグレイスにもその気持ちがよく分かる。

 礁国の飛行機械はお世辞にもエレガントとは言えない。飛ばすために一生懸命努力していないとすぐに落ちてしまう。

 それでも大空を、雲間を鳥のように飛んでしまったらもう後には引き返せなくなるのだ。

 おじさん達がそれを語る時、その時だけ疲れ切ったような眼差しが子供のようになる。

 だからグレイスも思う。

 もっと自由に空を飛びたい……飛ばせてあげたい!

 彼女が来た時にはもう残りのメンバーはみんな揃っていた。

「もう……」

 アントレーネが肘で小突く。

「ごめんなさい」

 腕を組んで立っていた作戦総司令がグレイスの顔をちらっと見る。

「これで全員だな?」

 がっちりした体躯の軍人達の前に、灰色の巫女服に純白のベールを纏った十二人の少女が一列に並んでいる。

 無骨なシュネルギアの上でそこだけ異質な空間だった。

 総司令は巫女達の顔をゆっくりと一人一人見ると、おもむろに口を開く。

「これよりあなた方プルンブム嶺国と、わがアルゲントゥム礁国の合同作戦、コードネーム“墜ちた雛鳥”の開始を宣言する!」

 総司令は再び少女達の顔を見渡した。

「もはや君たちに語るべき言葉はない。我々は誰もが為すべき事は為したと信じている。だから、行って来い! そして我々に翼をもたらしてくれ!」

「はいっ!」

 巫女達は一斉に答えると背後に停まっていた二機の輸送機に整然と分乗していった。

 甲板の飛行機械が次々に離陸を始める。それが空を舞う様はまるでイナゴの群れのようだ。

 やがて彼女達の輸送機の扉も閉ざされ、咳き込むような音を立てながらプロペラが回り出すと、ゆっくりと青い空の中に滑り込んでいった。

 総司令が彼女達に対して黙って敬礼するのが見えた。

 中に乗っていた少女達も無言で敬礼を返す。

 乗っている者全てが、この先には地獄の釜が口を開けていることを知っている。

 生きて帰れる保証など何もないことを知っている。

 でも、ここにこうして身を投げ出さない限り微かな希望さえ得ることができないということも、みんな知っている。

 雲間から美しい宮国の大地が見えてきた。

《それにこうして飛んでいけるんだし!》

 飛べることを思い出してしまった鳥は、もう地上には戻れないのだ。