銀嶺の巫女 第6章 リ・マージョン

第6章 リ・マージョン


 薄暗くて暖かい。

《えーっと……ここ、どこだっけ……》

 グレイスは定まらない頭で考える。

《そうだ……墜ちた雛鳥作戦に行って、帰ってきたんだっけ……》

 そんな気がするが、でもここはどこだろう?

 グレイスが布団の端から顔を出すと、見知らぬ白い部屋だった。

《えーっと……ここ、どこだっけ……》

 その時だ。いきなり敵襲のサイレンが鳴り始めた。

《えぇぇ?》

 グレイスは慌てて飛び起きた。敵が来たと言うことはシムーンか? だとしたら彼女達が行かないとみんなやられてしまう!

 グレイスは廊下に飛び出したがそこには誰もいない。がらんとしている。何だかふらふらするが、ともかく格納庫まで行かなければ……

《えーっと、格納庫ってどっちだっけ?》

 だがその場所が良く思い出せない。ともかく走っていくが何か迷路のような所に迷い込んでしまった。シュネルギアの中はこんなに分かりにくかっただろうか?

《ここ、どこ! あたしが行かないと、みんな死んじゃう!》

 どこをどう走ったか思い出せないが、彼女は何とか飛行甲板にたどりついた。

 だがその時はもうシュネルギアの周囲は無数の宮国シムーンに取り囲まれていた。

《どうして?》

 こいつらをやっつけるには彼女が行ってリ・マージョンするしかない!

 でもアントレーネは? 彼女のパルはどこだ? そもそも彼女達のアンシエンシムーンは?

 見回すが誰もいない。どういうことだ? 彼女は置いて行かれたのか? たった一人でここに?

 胃がぎゅっと掴まれるような恐怖を感じて……

「うわあぁぁぁ!」

 グレイスは目を覚ました。

 冷や汗で体がびっしょりだ。

 彼女はぼんやりとした目であたりを見回す。そこは金属の壁で囲まれた小部屋の中だ。一方には円い窓、もう一方には鉄の扉が付いている。横には小さなデスクとクローゼットがある。

 グレイスは思い出した。ここは戻ってきた彼女達に与えられた士官用の個室だった。

「また?」

 彼女は大きくため息をついた。あれから毎晩こんな夢を見る。これだけ何度も見れば慣れてしまうかとも思ったが全然そんなことはない。

 窓の外はもう明るくなっている。何だか寝足りない気もするが、寝たらまたいやな夢を見てしまいそうだ。グレイスは立ち上がるといつもの巫女服に着替え始めた。

 するとドアをノックする音がした。

「はーい」

「起きてる?」

 アリエスの声だ。彼女が起こしに来るなんて……戻ってからは彼女も朝が早い。聞けばやっぱり寝ていると嫌な夢を見るそうだ。

「今起きたとこ」

「朝食の後、ミーティングだって」

「わかった」

「じゃ、先に行くね」

「ええ」

 服装を整えるとグレイスは部屋を出た。

 あれから今日で四日目だ。

 遺跡を出て敵のシムーンを振り切った後、彼女達は何とかシュネルギアにたどり着くことができた。それができたのは本当にあの厳しかった訓練の賜物だ。

 彼女達が帰り着いた時、兵士達がみんな出てきて出迎えてくれた。広い甲板がぎっしりと人で埋まって、その全員が彼女達に向かって帽子を振ってくれているのだ。あの光景は、多分一生忘れないだろう。

 たった一日半離れていただけなのに……作戦は前日の朝始まり、次の日の夕方終わった。だがその長さはグレイスのそれまでの一生に匹敵する長さだったように思う。

 その間に本当に色々なことがあった。

 そのほとんどがどうしようもなく辛いことばかりだ。

 だからそのことはなるべく考えないようにと努力しているのだが、でも何かの拍子にふとその想いが浮かび上がってくると、途端にぽろぽろ涙がこぼれてきてしまう。

《でも無駄じゃなかったのよ……》

 その時はこう思うしかない。仲間達の死は無駄ではなかったと。彼女達がグレイス達を聖地まで送り届けてくれたのだと。だから彼女達は戻ってくることができたのだと。

 朝食まではもう少し時間がある。彼女は飛行甲板の方に向かった。

 そこにはグレイス達が取り戻してきた始まりの巫女が失った翼―――二機のアンシエンシムーンが鎮座している。その周りではたくさんの研究員や整備員が機体の調査中だ。

「おはようございます」

 グレイスは彼らの指揮をとっているドクター・バルヌフに挨拶する。

「ああ、おはよう」

 ドクターの目は睡眠不足で真っ赤だ。

「また徹夜ですか?」

「昼間にはあんた達が使うんだから仕方ないだろう?」

「体壊さないようにしてくださいね」

「わかっとる!」

 あれ以来彼らもまた必死だ。これだけの犠牲を出して、グレイス達が命がけで持ってきた機体だ。それなのに何も得ることができなければ、それこそ多くの人命が無駄になる。

 その真剣さは彼らとて同じだった。

 グレイスはドクターと別れると食堂に向かった。

 食堂には既にヴォルケとアリエス、アントレーネが来ていた。遅れて入ってきたグレイスに、アリエスが言った。

「どうしたの? 遅かったじゃない」

「あ、ちょっと甲板にね」

「ああ、そう」

 三人はうなずいた。彼女達も暇があればシムーンの所に行っているのは知っている。正直本当に彼女達がそれを持ってきたのか、朝起きたらなくなってしまっているんじゃないかと心配なのだ。

 グレイスは自分の分の朝食を取ってくる。食堂ががらんとしているのがどうしても気になってしまう。

 出発前にはここに巫女が十二人揃っていた。だが今はたった四人。

 一緒に来た仲間達、カナーリ、ブリッサ、シュトラーレ、モントーネ、ラテルネ、グラナータ、それに……

《ヘリファルテ……イーグレッタ……》

 彼女達が撃墜されたという話は戻ってからヴォルケに聞いた。その瞬間を目撃したのだという。

 だがそれを聞いてもグレイスはまったく実感がわかなかった。ヘリファルテとイーグレッタが帰ってこない? そんなバカな……彼女達は巫女達の中でも最高のパルだっただろう? それがどうして?

 そんな感じでBチームの仲間にしても、あそこで爆発は見たのだが何か絵空事のようで、本当に彼女達がいなくなったのだと言われてもまだよく信じられない。

 まるでちょっとどこかに出かけて不在であるかのように。

 それに加えてシュネルギアも今は妙に閑散としている。出発時にはどこもかしこも兵士達で一杯だったのに……その理由もまた明白だ。あの時見た輝き。黒カタツムリにたかっていた“虫”が消されていった時、彼らもまた消えていったのだ。

《悲しまないと……だめなのよね?》

 何かの拍子にいきなり涙が噴き出してくるかと思えば、彼らのことを追悼しようと思っても、妙に心が空虚で感情が湧いてこない。一体彼女はどうなってしまったのだろう?

 朝食は今ひとつ味がしなかった。それは他の三人も同様らしい。巫女達は黙々と義務のように食事を終えると、ブリーフィングルームに向かった。

 そこには総司令のリフェルドルフ、副司令のベネトラルフ、ドクター・バルヌフといったいつものメンバーの他に、もう一人士官がやってきていた。

 その男の顔にグレイスは見覚えがあった。

「あ、あなたは……」

「おう。久しぶりだな」

 以前イーグレッタの発砲騒ぎの時にその場を沈めた中隊長だ!

「あの?」

 グレイスが総司令の方を見ると彼は答えた。

「ああ。今度彼が君たちの司令になる」

「あ? はい……えっと……」

 そういえば名前をまだ聞いていなかった気がするが……

「ウルガヌフだ。よろしくな」

「あ、はい。よろしくお願いします」

 そんなやりとりをしているグレイスを他の三人が驚いた顔で見ている。

 アントレーネが小声で尋ねた。

「えっと? 誰?」

「あ、ほら、この前食堂で喧嘩した時来た中隊長さん」

「あ!」

 ヴォルケとアリエスはその日は夜間飛行で、アントレーネはいきなり冬の夜のお勤めの事を聞かれてパニックになっていたため、三人とも彼の顔が分からなかったのだ。

「あの、それではお願いします」

 残りの三人もウルガヌフに挨拶をする。それを見てリフェルドルフが言った。

「彼は今度発足した“嶺国・礁国合同シムーン航空部隊”の部隊長に任命された。君たちも同様にそのメンバーだ。今は合わせて五人だがな」

「あ、はい……」

 巫女達は一様に苦笑いする。だがリフェルドルフは真顔で続ける。

「僅か五名とは言っても、君たちが我々の切り札であることは間違いない。君たちには私だけでなく、両国の全兵士と全国民の期待がかかっている。気を引き締めてかかって欲しい」

 巫女達ははっと顔を上げる。確かにその通りなのだ。笑っている場合ではない。四人は一斉に答えた。

「はいっ!」

「うむ。では紹介はその程度にして、本題に入ることにするか」

 巫女達は気を引き締めた。本題―――彼が何を言い出すかは明白だった。

「で、まず、一昨日、昨日との飛行テストで、通常飛行に関してはほぼ問題ないと聞いたが、それでいいかな?」

 総司令の問いにグレイスが代表して答える。

「はい。シミレより反応がいいんで、やり過ぎないように注意する必要はありますけど」

「なら残りは、リ・マージョンだが……」

 それを聞いて巫女達は一様に暗い顔になる。

「まだ再現のめどは立っていないのかな?」

「それは……」

 シムーンとシミレの最大の違いはリ・マージョンである。それがシムーンの最大の脅威でもある。もしそれさえなければ礁国の航空技術は日進月歩だ。現在の最新鋭機リベッラでも飛行高度や速度はかなりシムーンに肉薄している。近い将来肩を並べることができるかもしれない。

 だがリ・マージョンだけはどうしようもなかった。

 未だにそれについてはほとんど全く分かっていなかった。ただ凄まじい破壊力があり、凄まじく美しいということだけだ。

 グレイス達はそのリ・マージョンを一度成功させているのだ。あれが夢でなければの話だが……でも二人で同時に夢を見るはずがない。だからあれは本当だったはずなのだが……

 従って彼女達が期待されるのは当然だ。

 だが戻って再びそれをやろうとしたら、なぜか全然できなかったのだ。

 そんな巫女達の顔を見てリフェルドルフは軽く首を振る。

「もちろん君たちを責めているわけではない。これまで誰も行ったことのない領域だからな」

「すみません……」

 最初は比較的簡単にできると思っていたのだ。リ・マージョンのやり方についてはドクターが収集した資料の中に、宮国のリ・マージョン実行マニュアルがあったからだ。マニュアルといっても正式な物ではなく、あるシヴュラの日記のような物ではあったのだが。

 それによれば、巫女がまず心を合わせてやりたいリ・マージョンを思い浮かべる。通常はアウリーガが例えば「鮫のリ・マージョン」などと指示を行う。するとシムーン球に―――アニムスの心臓のことを宮国ではそう言う―――リ・マージョンの軌道が現れるのでそれに従って操縦する。その際にアウリーガにサジッタがどう協力するか? とかいったことが、ざっとだが書かれていた。

《あれがあるから簡単って思ったんだけど……》

 だが、彼女達はまず最初から躓いていた。

 二人でリ・マージョンをしようと思っても、アニムスの心臓は全く何も反応してくれないのだ。

 マニュアルにはそんな場合の注意事項は一切書かれていない。反応するのが当たり前といった様子で、おかげで一体何が良くないのかさっぱり分からない。

「そこでリ・マージョンの再現テストだが、ドクターに一つアイデアがあるそうだ」

「え? 本当ですか?」

 巫女達が一斉にドクター・バルヌフの顔を見る。ドクターはまたちょっと咳き込むと答えた。

「うむ。これは一つの仮説なのだがな。宮国ではシムーンを操作することを“シムーンと話す”と言って、リ・マージョンすることを“空に祈る”と表現する。これは単に修辞的な問題かと考えていたが、もっと本質的なことかもしれないとな」

 そう言いながらドクターはごそごそと鞄の中から分厚い本を取り出した。

「そこでだ。実際に祈ってみたらどうかと思ってな」

「それは何ですか?」

「宮国のテンプス・パテューム教会の聖典だ。これにあちらの礼拝で使われる祈祷が全部載っている。その中にシムーンを動かすためのキーワードがあるのではないかと思うのだ」

 巫女達は顔を見合わせた。ドクターはグレイスに手招きする。グレイスがドクターの所に行くと彼はどさっとその本をグレイスに渡した。想像以上に重い。

《えっと、こんなの渡されても……》

 とりあえず戻って彼女は中を開いてみるが……いきなり目が滑ってしまう。

「うわぁ! 難しそう」

 彼女は宮国の一般的な会話と嶺国教会で使われている祈りなら分かるが、こんなのを読めと言われても……

「見せて?」

 ヴォルケがグレイスから本を受け取って中をぱらぱらと見る。

「これなら何とかなるかも」

「うわ! じゃお願い! ヴォルケ様!」

 グレイスはヴォルケを拝む。

「あのねえ、あんた宮国語の授業も寝てばっかりだったでしょ?」

「だって……」

 そのやりとりを聞いてリフェルドルフが言った。

「それではヴォルケ君とアリエス君にそれは頼もう」

「え? 私もですか?」

 アリエスが慌てたように自分を指さすが……

「あたしとパルなんだから仕方ないでしょ?」

「あ……はい……」

 ヴォルケにそう言われてうなずかざるを得なかった。

 アリエスも確か語学力はグレイスとどっこいどっこいなはずだ。ついでに言えばアントレーネも同様だから、ここはだれと組んでも同じような物だ。というか、宮国語が本当に上手な子は通訳とかそちらに引っ張られるので、こちらに来た子はおおむね語学はダメなのだ。その中でヴォルケはある意味文武両道の凄い子だったりするわけで……いてくれて良かった!

 それからリフェルドルフがグレイス達に言った。

「グレイスとアントレーネはこれまでのやり方を継続してみるように」

「はい……」

 二人はうなずいた。難しい本を読まなくていいのはいいが、何度やってもダメだった物を繰り返すのも結構辛いのだが……

 そんな二人を見てドクターが尋ねる。

「ところで君たち、今までシムーンと話す際に、どこの言葉で話してるかな?」

「え?」

「リ・マージョンを起動させようとする時、嶺国語で考えてないか?」

「え? 言われれば……あ!」

「ああ。そうだ。宮国語で考えてみなさい」

「わかりました!」

 目の中の鱗が落ちたとはこのことだ。

 さすがドクターだ! 言われてみれば当然のことではないか? シムーンは元々宮国の機械なのだ。何か尋ねる時は宮国の言葉で話さないと分からないに違いない!

《もしこれで動けば!》

 宮国のマニュアルなのだ。宮国語で唱えろなんて一々記すはずがない。

 話を聞いてヴォルケ達の顔も明るくなっている。グレイスは彼女に言った。

「これでうまくいけば、それ読まなくていいかも」

「そうよね」

 ヴォルケもああは言った物、顔にはうんざりだと書いてある。

 だがグレイスはまだちょっと不安だった。なぜなら敵に追われてリ・マージョンした時、宮国語で何か祈ったりしただろうか? 全くそんな記憶はないのだが……



 その不安は的中した。

 彼女達がいくら宮国語で祈ってみても、相変わらずリ・マージョンはできなかったのだ。

 その日の午前中もずっとグレイスとアントレーネは頑張っていたのだが、全ての試みは無駄に終わっていた。

「そろそろお昼よ。一度戻りましょう」

「うん……」

 グレイスは重い気持ちで答える。

 シミレで訓練していた時は空を飛ぶことは純粋に楽しかった。だが今は逆に辛い。

 確かに飛んでいる間は気が晴れる。だが降りてしまうと遊んでいたのではと思われているようで、兵隊達の目が気になって余計に気が沈んでしまう。

 今ここにいない人達―――巫女仲間だけでなく礁国の兵士達も、彼らはまさに彼女達のために犠牲になったのだ。ここで結果を出さなければそれが全て無駄になってしまう。しかもこれは彼女達にしかできないお勤めなのだ。誰にも代わってもらうことはできない。

 だが気は沈んでもお腹は減る。グレイスはシュネルギアに着艦しようとした。

 そのときいきなり横からヴォルケ達のシムーンが割り込んできたのだ。

「うわぁぁ!」

 グレイスは慌てて避けた。

「何やってんのよ?」

 グレイスは通信機に向かって叫んだ。

『あ、ごめんなさい……』

 ヴォルケの声だ。

「もうちょっとでぶつかるところだったわよ?」

『ごめんなさい。ちょっとぼっとしてて……』

 グレイスも彼女達にそれ以上強くは言えなかった。なぜならシムーンから降りてきたヴォルケとアリエスの目の下には、明らかな睡眠不足の黒い隈ができていたからだ。

 彼女達は宮国の祈祷をするために毎晩ほとんど朝方まで二人であの本を読んでいた。そうでもなければヴォルケがそんな凡ミスをするはずがない。

 食堂で四人は昼食を前にして大きくため息をついた。ヴォルケ達もまた全く捗ってはいないようだった。

 そのとき近くで食事していた兵士が話しかけてきた。

「あんた達、葬儀の話は聞いたのかい?」

「葬儀?」

 グレイスが聞きかえすと兵士は言った。

「宮国でさ、この間の和平会談で死んだ子の、確かアングラスだっけ? その子の葬儀、やったらしいじゃないか」

「ええ?」

 それは彼女達には青天の霹靂だった。

「どういうこと?」

 アントレーネが身を乗り出して尋ねる。

「さあ。俺にも詳しいことは……」

 そのとき食堂にウルガヌフが入ってきた。彼は中を見回して巫女達がいるのを見つけると、側に寄ってきた。

「あの、アングラスの葬儀って?」

 アントレーネの問いにウルガヌフは答える。

「あ、お前らも聞いたか。どうやらそうらしい」

「どうして宮国の人がアングラスの?」

「さあな。多分宮国は敵国の巫女にも慈悲深いって所を見せたかったんじゃないのか?」

 それを聞いてグレイスは、宮国にもちょっといいところがあるのかなと思いかかっていた気持ちが一瞬で吹っ飛んでしまった。

「でも、それでもちゃんとお葬式してもらえたんなら……」

 アントレーネの声にもあまり嬉しそうな様子はなかったが、アリエスはそれを聞いて激怒した。

「ふざけないでよ! 一体どんな顔してお葬式よ? あんな奴らに見送られたってあの子が嬉しいわけないじゃない! 大体あんな所に遺体さらしといて見つかったら今度はお葬式って、何考えてるのよ! 見せ物じゃないんだから!」

「アリエス」

 ヴォルケがアリエスの肩に触れる。だがアリエスは収まらない。

「あんたたち、何で平気なの? あいつらお姉ちゃんとヘリファルテを殺したんだよ? その他にも一杯殺しといて、ちょっと葬儀してやるふりして、それで帳消し? 何様だと思ってるのよ!」

「アリエス、落ち着いて!」

 ヴォルケがアリエスの肩を抱いて何とかなだめるが、彼女は今度はテーブルに突っ伏して泣き始めた。

 その様子を見てウルガヌフが言った。

「おい、ちょっとおまえ、疲れてるだろ? 今日はもういいから休め」

 だがそれを聞くとアリエスはがばっと起き上がって涙を拭く。

「いえ、大丈夫です。できます!」

「できるって、夕べも寝てないだろ?」

「いえ、大丈夫です!」

「大丈夫には見えないから、今日は……」

 彼がそう言った途端に、アリエスの目から涙がぼろぼろとこぼれだした。

「大丈夫なんです。私、頑張りますから。だから、止めさせないでください。お願いします……」

 そう言うと彼女はいきなりテーブルに頭をこすりつける。

 そんなことをされて慌てたのはウルガヌフだ。彼はアリエスの隣に行くと言った。

「おい、誰も止めさせるとか言ってないって。ただ、今日は疲れてるみたいだから、ちょっと休めって言っただけだ」

「でも私が頑張らないと、みんなが……みんないなくなっちゃったのに、私だけが……」

 ウルガヌフは他の巫女達の顔を見る。

 呆気にとられていたヴォルケが慌ててうなずくと、彼女はアリエスの肩を抱いた。

「アリエス。今日は休みましょう。私もちょっと休むから」

「ああ。そうしろ。それからとにかくあまり根を詰めすぎるな。夜遅くまでするのもそこそこにしておけ」

 今度はヴォルケが不満そうな顔をする。

「でも……」

 ウルガヌフは首を振った。

「いや、それでお前らが潰れたらもっとひどいことになる。分かるだろ? そこは?」

 確かにそれはそうだが……今ひとつ納得のいかないという巫女達の顔を見て、ウルガヌフは言った。

「それじゃこれは命令だ。お前ら、朝五時起床。夜十時就寝。それ以降起きてやがったら、有無を言わさずベッドに叩き込むからな?」

「……はい」

 怖い顔で睨むウルガヌフに二人は不承不承うなずいた。それからヴォルケがアリエスを支えるようにして彼女の部屋に連れて行った。

 ウルガヌフは残ったグレイスとアントレーネの方を見る。

「お前らも分かってるな? 確かにうまくいってないのは分かるさ。でもこういう時こそ焦らず落ち着け。難かしいのは分かってるがな」

「ありがとうございます……」

 ウルガヌフにしても他の兵士達にしても、みんな彼女達に優しい。それだけ彼女達が期待されているということでもある。だがこういう場合正直、優しくされる方が心に堪えてしまう。

 その時アントレーネがウルガヌフに尋ねた。

「あの……結局できなかったらどうするんでしょう?」

 それを聞いたウルガヌフは難しい顔になる。

「さあな。俺も詳しくは知らないが、一度基地に戻るかもしれないな。そうしたところでできる保証はないが……でも控えの巫女に触らせてみたら何か違うかもという話はある」

 空軍基地か! 確かにあそこには控え組の十二人がまだいるはずだ。

「でも一度成功している奴が触るのが一番近道のはずだとは思うがな」

「はい……」

 それもまたその通りだ。少なくともグレイスとアントレーネは一度、リ・マージョンを成功させているのだ。あれが夢でなければの話だが。

「移動する場合は研究チームごと移動することになるんで、今すぐって訳にもいかない」

「はい……」

 ドクター・バルヌフ以下のシムーン研究チームは、このシュネルギア上に結構大がかりな研究施設をこしらえてしまっていた。またここの整備員もあれからずっとシムーンに付きっきりだ。すなわち彼らが現在の嶺国と礁国におけるシムーン整備のエキスパートだ。グレイス達が現在両国における唯一の“シムーンパイロット”であるのと同じように。

 ウルガヌフはヴォルケとアリエスの分の食事を指していった。

「ともかく、食い終わったらそれ、持って行ってやれ」

「あ、はい」

 それから彼もまた少し肩を落とすとつぶやいた。

「戦い方なら教えてやれることもあるが、お祈りの仕方じゃな……」

 それもまた彼女達でなければできないことだった。

 グレイス達は大急ぎで食事を済ませると、アリエスとヴォルケの食事を彼女達の部屋に持って行った。

 二人はアリエスの部屋にいた。

「お食事。持ってきたの」

 アントレーネの言葉に、ヴォルケが力なくうなずく。

「ありがとう」

 ベッドの中ではアリエスが毛布に潜り込んで低い声で泣いているのが分かる。

「……どうして、あたしじゃなかったの? どうして……あたしがここにいるの?」

 グレイスは思わずヴォルケの顔を見る。ヴォルケは黙って目を伏せた。

 どうして彼女達でなく自分が生き残ったのか?

 それは戻ってから彼女達一人一人が常に心の中で自問し続けてきた問題だ。

 その答えなら誰でも知っていた。人の生死を決めるのは神様なのだと。先に行った者達はあちらの世界で神様が必要としているから呼ばれたのだと。残った者はまだこちらで為すべきあるのだと……これは彼女達自身が同じ立場になった人々に何度となく言ってきた言葉だ。

《なのにどうして?》

 答えは分かっているはずなのに、どうして気がついたら同じ疑問が頭に浮かんでいるのだろう?

 その時急にアントレーネがベッドの端に座ると、誰に語るとも無しに話し始めた。

「あたしいつも思うの。どうして自分が生きてて、アングラスが死んでしまったか……」

「アントレ?」

 だが彼女は一人で話し続ける。

「みんな辛かったの。毎日毎日、亡くなってく方ばかりで。ちょっと冗談でもって気になっちゃうのよ」

 彼女は何を言っているのだ?

「あれ、言ったの私なの……彼女が担当になったら帰って来られないんじゃないかって。別にそんなに傷つけるつもりじゃなくて、ただ空気が重かったからちょっと冗談を言うつもりで……人が死ぬ事なんてあそこでは当たり前だったから、心が凍ってしまってたのよ。きっと。でも……彼女は笑ってた。私神様なんかじゃないからって。みんな笑って……でも後で泣いてて……」

 うわ!

「ちょっと、アントレ……」

「みんなそう。いい子だったから神様も身近にいて欲しかったのよ。私なんかよりも……きっと……」

 アントレーネの目が虚ろだ。それを聞いているヴォルケも黙ってじっと床を見つめている。アリエスは毛布の下でぴくりともしない。

 えっと、ちょっと、これって……

 この空気はまずいのではないだろうか?

「えっと、みんな!」

 とりあえずそう言っただけなのだが……その声に全員がグレイスの方を振り返った。

 だがその先言うことを何も考えていない。

《え? えーっと……》

 三人は彼女が何を言い出すのか、じっと続きを待っている。

「ごはん」

 グレイスはそう言って手にした盆をヴォルケに差し出す。

 ヴォルケはなぜか目を丸くしてそれを見ると、今度はまじまじとグレイスの顔を見上げて、最後に吹き出した。

 それから今度は体を折ると腹を抱えて笑いを堪え始める。その笑いは何故かアントレーネに伝染し、更には毛布の下のアリエスまでがひくひくし始めた。

「え? 何で? 何か変なこと言った?」

 ヴォルケが首を振る。

「いいえ。何も変じゃないけど……でも、おかしくって……」

 それから食事の盆を受け取ると、毛布の下のアリエスに言った。

「グレイスから。ごはんだって」

「あ、うん」

 ヴォルケの呼びかけにアリエスはもぞもぞと体を起こすとベッドの端に座った。それから涙を拭くと差し出された食事を受け取ってぱくぱく食べ始めた。それから彼女はグレイスの顔を見上げると、笑っているとも泣いているともつかない表情で言った。

「あなたが残った理由、分かる気がするわ」

 それを聞いてヴォルケもうなずいた。

「うん。そうかもしれないわね」

「ちょっと、どういうことよ?」

 ヴォルケ達が答える前にアントレーネが立ち上がるとグレイスの手を引いた。

「午後のテスト、始めましょうか」

「え? うん。でも……」

 アントレーネはグレイスの手を掴んだまま引っ張って部屋の外に出て行った。

 しばらく歩いて誰もいないところで、アントレーネは振り返る。

「ありがとう」

「え? だからあたしは何もしてないって」

「ううん。あなたがいつも明るくしてくれるから、みんな頑張れるの」

 明るく?

 それから彼女はグレイスの頬にキスをする。

「え? なに?」

「ありがとうのキス!」

 そういうつもりではないのだが……ただ、彼女は今では天涯孤独の身だからアリエスのようには辛くなかったというだけだと思うのだが……

 それとも……もしかしてニブいと言われているのだろうか?



 それからグレイス達は更に何日もリ・マージョンを行うべく努力を続けたが、相変わらずそのきっかけさえ掴むことができずにいた。

 その日も彼女達は朝からテスト飛行を続けていたが、もはや思いつく限りのことはすべてやった後で、もう何をしていいのか全く分からなくなっていた。

 何しろ問題はリ・マージョンがうまくいかないことではなく、始まりさえしないことだ。これでは本当に今やっている方向性が正しいかどうかも分からない。もしかしたらとんでもなく的外れなことをしているのかもしれないのだ。

 その点ヴォルケ達の作業はまだましといえた。聖典を読んでそこに出て来る祈りを次々に試していくというひどくつまらない作業だが、それでも一歩一歩進んでいる感がある。だがグレイス達のしていることは文字通り雲を掴むような作業だった。

 グレイスはむしゃくしゃしてきていきなり大声を上げた。

「うわあぁぁぁぁぁ!」

 急な叫び声にアントレーネが驚いて聞きかえす。

「なによ? 急に?」

 グレイスはため息をつくと言った。

「あれって、本当に本当だったのかな?」

「あれ?」

「あいつに追いかけられた時、リ・マージョンしたと思ったけど、あれって……まさか敵がやってたのを見間違えたんじゃ……」

「そんなことない。私見たもの。アニムスの心臓に軌跡が出るのが!」

 ああ、確かに彼女はそう言っていた……

「でもあたし見てないし……」

「シムーンの後ろに光跡が出たのは見たでしょ?」

「うん……」

 やっぱり夢を見たわけではないのだ。二人とも同じ物を見ているのだから……

 グレイスは今度は何だか段々腹が立ってきた。そしていきなりスロットルを全開にする。

「おおおお!」

 グレイスはシムーンを真上に飛ばし始め、それから操縦桿を倒す。

「きゃあ! なによ! いきなり!」

 機が水平になった瞬間、今度はいきなり真下に向かって突っ込んでいった。

「うおおおおお!」

「ぎゃああああ!」

 アントレーネの悲鳴に構わず今度はまた機を水平に戻して、小回りに旋回する。

「うー……」

 これはあの時こんな風に動いた軌道だが……もちろん後ろに光跡など出ていない。こういう事も色々試してみた後なのだ。もちろん無駄だったが。

「いきなりやらないでよ! 怖いじゃないの!」

「じゃあどうすればいいのよ!」

 グレイスはそう叫んでがんと風防を叩く。

「……」

 頑張っているのだ。みんな頑張っているのだ。それなのに彼女達は……

 また目に涙が溢れてくる。

 どうして彼女達はこんなに無力なのだろう? どうして神は彼女達にそんな使命を与えたのだろう?

 嗚咽が漏れそうになるのをグレイスは黙って堪えた。

「グレイス……」

「なに?」

「ちょっと外の空気吸わない?」

 後ろでがくんと風防が開く音がした。

「え?」

 グレイスが振り返るとアントレーネが座席から大きく乗り出して伸びをするのが見えた。

「気持ちいいわよ」

「何考えてるのよ? こんな時に!」

「グレイスも、ねえ、嫌?」

「ふざけてる場合じゃ……」

 ないんだと言おうとして、グレイスはアントレーネの目からも涙がこぼれているのに気がついた。

「えっと、どうして……」

「グレイスが泣くの見るの、嫌だから……ちょっと気分を変えたいなって……ごめん。怒った?」

 グレイスはしばらく絶句した。

 そうなのだ。彼女はいつもずっと後ろからグレイスのことを見ていてくれたのだ。

「ごめん……」

 ここで怒ったって仕方ない。グレイスは自分の席の風防を開いた。

 爽やかな空気が満ちてくる。

「ああ……」

 考えたらシュネルギアの中はどこもかしこも油と錆の臭いがする。

「ここって空気美味しいね」

「うん」

 しばらく二人はそうしてぽけっと空を眺めた。上の方をぽっかりとした雲が流れていく。

 そういえば戻ってきてからこんな感じで空を眺めたことはなかった。

 するとアントレーネが言った。

「昔はあの雲、食べられるって思ってたわよね?」

「ああ? そうなの」

「ええ? グレイスは違うの?」

「あたしは、あの上に乗りたいなとは思ったけど、食べたいとは思わなかったな……」

 だが言われてみると食べられそうな気もしてくる。そう思った途端にお腹が減ってきた。

「お昼、まだだっけ?」

「まだ時間があるけど……もうお腹空いたの?」

「だってアントレがそんな話するから……」

「別にそんなつもりじゃ」

 二人はクスッと笑って再び空を眺める。

 それからグレイスは今度は見るとも無しに横でくるくる回っている丸い奴―――ドクターが言うにはヘリカル・モートリスという物らしい―――を見た。普段はあまりそちらは見ないようにしている。あまり見ていると目が回ってくるからだ。

「これってさ……マフィンに似てるよね?」

「え? 何が?」

「横の、回ってるヘリカル……何とか」

「そうかしら。パンケーキの方に似てると思うけど」

「ああ、パンケーキ! そっちでもいいな。何か食べたくなっちゃった。バターたっぷり乗せて、シロップいっぱいかけて……」

 思っただけで口の中によだれが出てきてしまう。

「そんなこと言わないでよ。あたしも食べたくなっちゃうじゃない」

「でもパンケーキって出てこないよね」

「子供のおやつだからかしら?」

 そんなことを話しているとますます食べたくなってくる。でも食堂で出て来ないなら自前で作るという選択もあるのではなかろうか? パンケーキというのはこの手のお菓子の中では一番簡単な物であるからして……

「ねえ、アントレ。もしかして、パンケーキくらいなら作れたりする?」

「え? あはははは。ごめんなさい」

 グレイスはがっくりしながら言った。

「あたしもどうしてか分からないんだけど、黒こげだったり中が生だったり」

「あははは。どうしてかしら。いつもお祈りしながら作るんだけど……」

「今度こそ上手に焼けますようにって?」

「そうそう……ええええ?」

 いきなりアントレーネが驚愕の叫びを挙げた。

「どうした?」

 グレイスが慌てて振り返ると……

「え? 神託?」

 グレイスも驚きのあまり目が丸くなった。

 二人の間にあるアニムスの心臓に、明らかに不思議なラインが現れているのだ。これは間違いなく神託だが……

 やがてそれはふわっと消えてしまった。

 グレイスとアントレーネはしばらく無言で互いの顔を見つめ合った。

「えっと……今、アントレもお祈りした?」

「ええ」

「パンケーキが上手に焼けますようにって?」

「ええ。あの時のことを思い出して……」

 再び二人はしばし顔を見合わせて、それからばたんと風防を閉じる。

「もう一度やってみようか」

「ええ」

「それじゃ行くよ?」

「ええ」

 それから二人は一斉に祈る。

「「パンケーキが上手に焼けますように!」

 途端に再びアニムスの心臓が輝きだして不思議なラインが現れた。

 そのまま彼女達が祈りを続けると……急にふわっと滑るような感覚がしてシムーンが勝手に動き始めたのだ。

 今度のは前回のと違って、まずくるっと水平に一回転して輪を描くと次いで描かれた輪の周りを螺旋型に回りながら一周しはじめた。

 そして気づいたら彼女達の後方には飾りの付いた環状のリ・マージョンが完成していて、やがてそれはふわっと光って消えていった。

「……」

「……」

 グレイスとアントレーネは呆然とそれを見つめていた。

 その時だ。

『ちょっと! あんた達! 今どうしたの?』

 通信機からヴォルケの声がする。

「あ? ヴォルケ? そっちからも見えた?」

『見えたわよ。もしかして、それ、リ・マージョン?』

「ええ。多分」

『どうやってやったの? それ』

 聞いた途端にグレイスとアントレーネは爆笑した。

『何がおかしいのよ!』

 ヴォルケが怒るのも無理はない。

「ちょっと待って。もう一度試してみるから」

『え? ええ……』

 グレイス達は通信を切ると、再び祈った。

「「パンケーキが上手に焼けますように!」

 アニムスの心臓は再び彼女達の祈りに答えて輝きだす。それからまたシムーンは同じリ・マージョンを行った。

「ねえ、今出た神託、リ・マージョンと同じ形だったわ」

「え? そうなの?」

 グレイスは後ろ向きだから神託の形までは確認していなかったが……

 要するに神託とは、これからこんなリ・マージョンが始まりますよということを示しているのか?

『ねえ、グレイス! アントレーネ! どうやったのよ?』

 通信機からまた声がする。グレイスは答えた。

「分かってみたら凄く簡単だったの。お祈りをすれば良かったのよ」

 それを聞いてヴォルケは一瞬黙り込む。それから不審そうに答える。

『お祈り? そんなの今まで何百も試したじゃないの?』

「えっと、そういうのじゃなくって、普通のお祈りでいいの。でも多分二人で同時に同じお祈りをしないとだめかも」

『それもやったけど……普通の?』

「うん。今やったお祈りはね、パンケーキが上手に焼けますように! ってお祈り」

『はああああ?』

 驚くのも無理はないが……

「ヴォルケ達もやってごらんよ! 難しくないから」

『いいけど……』

 とても信じられないという口調だ。まあ仕方がない。自分たちだってもし彼女達の立場なら、絶対そんなの信じないだろうし。

「ヴォルケ達、できたらびっくりするよね? きっと!」

「ええ!」

 グレイス達はわくわくしながらヴォルケ機に注目した。

 だが……いつまでたってもリ・マージョンは起こらない。一体どうしたのかと思っているとまた通信が入った。

『全然ダメじゃないの!』

 少し怒った声だ。

『十回くらい試したけど、ウンともスンとも言わないわよ?』

 ええ? どうしてだ?

「でも、こっちじゃそれでうまくいったんだけど。ねえ、アントレ」

「ええ。嘘じゃないわ」

「じゃあもう一度あたしたちがやってみるから」

『いいわよ』

 それからグレイス達は通信を切らないまま声を出して祈った。

「「パンケーキが上手に焼けますように!」

 途端にシムーンは反応してリ・マージョンを描く。

『えええ?』

 ヴォルケとアリエスが驚く声が聞こえる。

「でしょ?」

『どういうことよ?』

「どういうことって聞かれても……」

 そこにアリエスの声が割り込んだ。

『なんか担ごうとしてるんじゃないの? 本当は別なことやってるんでしょ?』

「そんなことしてないって!」

「そうよ。本当なんだから」

 グレイスとアントレーネが口々に否定する。

 アリエスはそれ以上は疑おうとはしなかったが、ぼそっと意地悪そうにつぶやいた。

『大体パンケーキが焼けないとか、信じられない!』

 グレイスはちょっとむっとして答えた。

「んなこと、どうだっていいでしょ! お料理上手な人には分からないのよ!」

 別に好きで料理下手なわけではないわけで……その時だ。二人の会話にヴォルケが口を挟んだ。

『あなた達パンケーキ焼く時、いつもそんなお祈りしてるの?』

「いいじゃない。だって本当にうまくいかないんだし……」

 ヴォルケはグレイスの愚痴には答えず今度はアリエスに尋ねた。

『アリエス? あなたそんなお祈りしたことある?』

『ないわよ。当然じゃないの』

 その途端にヴォルケからの通信が途絶えた。

「え? どうしたんだろう?」

「さあ……」

 一体どうしたことかとグレイス達がヴォルケ機の方を見ていると……いきなりヴォルケ機がきらきらとした光跡を出し始めた。それから雲のようにふわふわっとした軌道を描いたかと思うと、何かのリ・マージョンが完成していた。それは消える時にほわ~んという音を立てた。

 少なくともグレイス達の行ったリ・マージョンとは別物だが、間違いない! ヴォルケ達もリ・マージョンを行ったのだ!

 グレイスは通信機に向かって叫ぶ。

「ヴォルケ! ヴォルケ! 今のなに?」

『……朝の祈りよ』

 ヴォルケの声がちょっと興奮で上ずっている。

 途端に通信機の向こうからアリエスの爆笑する声が聞こえてきた。

「何がおかしいのよ?」

『朝の祈り? いい! それいい!』

 何がツボなのだ? よく分からないが……

「何なの? それにどうして今度はできたの?」

 アントレーネも不思議そうに尋ねる。するとアリエスが言った。

『これ、グレイス達にできるかどうか確かめてもらいましょうよ』

『え?……そうね』

 一体何を話し合っているのだ?

 そう思っているとヴォルケが言った。

『あたし達の行ったお祈りは……』

「うん」

『もうちょっとだけ寝かせてください。お願いします』

「ええ?」

 ちょっとびっくりしてグレイスが口ごもっていると、ヴォルケが再び言った。

『グレイス。あんたそういう悩みはなさそうよね? アントレーネもでしょ?』

「え? うん。確かに」

「ええ」

 グレイスは朝はいつだってすぱんと目が覚める質だった。

『じゃあやってごらんなさいよ』

 グレイス達は不承不承ヴォルケの言うことに従った。

「それじゃ行ってみるよ?」

「ええ」

 グレイスとアントレーネは二人で今のお祈りをやってみた。

「「もうちょっとだけ寝かせてください。お願いします」

 だがアニムスの心臓は反応しなかった。

 何度やっても同じだ。

 そして二人にもおぼろげに真相が見えてきた。

「これって、なんて言うか、切実なお祈りじゃないとだめってこと?」

 グレイスの問いにヴォルケが答えた。

『多分そうなんじゃないかしら。私達はパンケーキ焼けるから、そんなお祈りする人の気持ちなんて分からないでしょ? だからお祈りに、何ていうか、気持ちが籠もらなくて。それはそっちも同じで、朝起きるのが辛い人の気持ち、分かる?』

「え? えーっと……あははははは」

 アリエスに限らず西カテドラルにいた頃から時々そういう子はいたが、皆グレイス達早起き組の毒牙にかかっていたのだ。

 しかし、ということは?

「でもそれじゃヴォルケ、あなたも?」

 ヴォルケがむっとしたような声で答える。

『なによ? だから毎朝一生懸命起きてるんじゃないの!』

 ヴォルケが寝坊している姿は今まで見たことがなかったが……あれってそんなすごい努力の賜だったのか?

 そこにアリエスが口を挟んだ。

『でもびっくりしたー! ヴォルケが最初言い出した時は』

『だって他に知らないじゃない。あなたが本気で願ってる事なんて』

『だからってこんな……』

「で、どうだった? 初めてのリ・マージョン」

 そこにアントレーネが尋ねるとヴォルケが嬉しそうに答える。

『それはもう……なんていうか、ふわっとしてとっても気持ち良かったっていうか……」

『そうよね。何か夢みたいだった。ねえ、もういっぺんやってみようよ』

『いいわよ』

 二人の通信が切れるとすぐにリ・マージョンが始まった。またさっきのふわふわっとした奴だ。また出来上がりでほわ~んといった音がする。

「あたし達もまたやろっか?」

「ええ」

 グレイス達も負けじとパンケーキのリ・マージョンを行う。

 二機のアンシエンシムーンはしばらくそうやって自分たちのリ・マージョンを行っていたが、しばらくしてアントレーネがつぶやいた。

「ねえ、何か匂わない?」

「え?」

 グレイスも鼻をひくひくさせると、確かに何か甘い香りがするような気が……

「外かしら……」

 そう言ってアントレーネが風防を開くと、いきなり叫んだ。

「うわ! いい香り!」

「え?」

 グレイスも同様に風防を開くと、シムーンの外は何か香ばしい香りで包まれている。

「これって? もしかしてあたし達のリ・マージョンのかしら?」

「そう。そうだよ!」

 ヴォルケ達のに比べて彼女達のリ・マージョンは音が出ないのがちょっと残念だったのだが、何と代わりにいい香りがするとは!

「すごい! 不思議ね」

「うん。どうしてだろう? 神様がお祈りを聞いてくれたのかな?」

「お祈りを? 聞いてくれた?」

 そう言ったアントレーネがはっと真顔になる。

「もしかして……それって……」

「え?」

 その時グレイスもアントレーネの言わんとしたことに気がついた。

 二人はうなずき合うとやにわに風防を閉じて、そのままシュネルギアに直行した。

 その足で二人は厨房に駆け込んでいく。

 息を切らしてやって来た二人を見て調理員達がびっくりした。

「あの、ちょっとそこ貸してもらえます?」

「え? まあいいけど?」

「ありがとうございます!」

 グレイスとアントレーネはぺこりと頭を下げると、驚き顔の調理員達を尻目に意気揚々とパンケーキを作り始めた。

 だがしかし……

 しばらくして昼食に降りてきたヴォルケとアリエスが見たのは、真っ黒なパンケーキらしき物体の山の前でへたばっているグレイスとアントレーネの姿だった。

「一体何よ? これ……」

 厨房の調理員の一人が答える。

「それが彼女達、急にパンケーキを作らせてくれって言ってきて……」

 それを聞いてグレイスが答えた。

「だって……いい香りがしてたから、お祈りが叶ったのかなって思って」

「いい香り?」

「リ・マージョンの消えた後、あたし達のっていい香りがするの。ヴォルケ達のはほわーんって音がするでしょ?」

「ああ、そうなの?」

「だからアニムス様がお祈り叶えてくれのかと思って」

 ヴォルケの目が丸くなり、続いて吹き出した。そして真顔になるとがみがみ怒り出す。

「何寝ぼけたこと言ってるのよ! そんなのでお願いが叶ったら苦労しないでしょ? アニムス様はお忙しいのよ! そんなおバカなお願いなんて叶えてる暇ないわよ。香りがしただけでも上等じゃないの。後は自分で努力しなさいっていう思し召しよ!」

「ええ~?」

 これは子供達が神様はお祈りを聞いてくれないんじゃないかと不平を言った時、教母様に決まって言われるお小言であった。

 言い返す気力もなくグレイスは脱力してテーブルに突っ伏した。

 その時食堂にウルガヌフが駆け込んできた。

「おい、お前ら、リ・マージョンができたんだって?」

「え? あ、はい」

 グレイスとアントレーネは慌てて頭を上げる。

「だったらとっとと報告しろ!」

「あ、すみません。でも……」

「何だ?」

 グレイスは他の巫女達と顔を見合わせた。

「今日できたの、戦いにはあまり役に立たないかなって……」

「ああ?」

 それからグレイス達はウルガヌフに起こったことの説明をした。

 ウルガヌフはそれを腕組みして真剣な顔で聞いていたが……最後に焦げたパンケーキの山を指して言った。

「で、そこにそれが積まれていると?」

「はい……」

 ウルガヌフは腹を抱えて笑い出した。それからやっとの事で笑いを抑えると言った。

「ま、とにかくすごい前進じゃないか。今まで何もできなかったのに比べりゃな」

 それは確かに言われたとおりだ。

 そう思ったら何だか心がわくわくしてくる。初めてシミレの訓練を始めた時みたいな気分だ。

《よし! 昼食のあと実験だ!》

 そう思った矢先だ。

 ウルガヌフが焦げたパンケーキを指して言った。

「で、それはちゃんと食っとけよ? ここじゃ食い物とか水は貴重なんでな。無駄にする物なんてないんだからな?」

 もっともだった。



 ともかく彼女達はヒントを掴んだ。

 少なくとも二人が一緒に“心の籠もったお祈り”をすればリ・マージョンはできるのだ。だとすれば……

 その日の午後、焦げたパンケーキでちょっともたれたお腹で再びテスト飛行を開始してすぐ、ヴォルケから通信が入る。

『あなたたちが遺跡でリ・マージョンしたとき、どんなお祈りしたの?』

 それは彼女達も考えていたことだった。アントレーネが答える。

「あの時でしょ? 怖い物に追いかけられて……来ないで! あっちいって! みたいな感じだったかしら?」

「そうだよね。あたしも多分そんな気持ちだったと思う」

「じゃ、やってみましょうか」

「うん。聞こえた? ヴォルケ」

『ええ。じゃ、見てるから』

「本当に成功したら危ないから離れていた方がいいかも」

『了解』

 ヴォルケ機が離れていったのを確認して、二人はあの時のことを思い出す。

「確か後ろから敵のシムーンが迫ってきて、追いつかれたらやられるって思って……」

「ええ」

「で、だから、来るな! あっちいけ! お願いします! って」

 途端にアニムスの心臓が反応した。二人は再度声を出して祈る。

「「来るな! あっち行って!」

 心臓に神託が現れる。そして……ふわっとした感触と共に、シムーンはすうっと動き始め、あの時に行ったリ・マージョンが完成した! そしてその軌道がぱっと弾けると、バシューンという大きな音がして衝撃が走った。

「うわああ……」

 グレイスとアントレーネは呆然と光の消えた後を見つめていた。

 やがてヴォルケから通信が入る。

『やったわね』

「ええ……」

『こちらもやってみるわ。追いかけられて怖かったのはこっちも同じだし』

「うん。気をつけてね」

 それからしばらくしてヴォルケ達もそのリ・マージョンを成功させることができた。

 しばらくの間二機のシムーンはその破壊的なリ・マージョンの練習を行った。だが数回ほどやったところでアントレーネがぽつっとこぼした。

「これって……結構辛いわよね」

「え? うん……」

 宮国シムーンに追いかけられて命からがら逃げたあの体験は、正直二度と思い出したくない体験なのだ。だがこのリ・マージョンをするには、毎回その一生で一番怖かったことを真剣に思い出さなければいけないのだ。

 その時ヴォルケ達から通信が入る。

『そろそろこれ終わりにしない? 夜、うなされそうで』

「そうよね」

 あちらでも同じようなことを話していたのだろう。

 そこでアントレーネが言った。

「それじゃみんなで楽しいこと、お祈りしてみない?」

『楽しいこと? 例えばどんな?』

「そう。例えば、早く春が来ないかな、みたいな……これだったらみんなできるでしょ?」

『あ、それいいね』

 アリエスの声がする。

『それではみんなでやってみましょうか』

「賛成!」

 雪国の子は長い冬の間、毎日この祈りを唱えている。冬には冬の良いところもあるが、でも春が来た時の嬉しさはやっぱり格別だ。

 彼女達は心を合わせると祈った。

「「「「早く春が来ますように!」

 すると二機のシムーンは同時に動き出し、まるで互いに示し合わせているかのように新しいリ・マージョンを描き出す。

 それは太い柄の上に丸い玉が乗っているような形で、できあがりと共に上部の玉の部分が輝くとぱっと弾けてきらきらした多数の光がふわふわと飛んでいく―――まるでタンポポの綿毛のように。

「うわああ! すごい!」

 巫女達は一斉に歓声をあげた。

 すごい! これはすごい!

「ねえねえ、もう一度やろうよ!」

『いいわよ!』

 ヴォルケの声も弾んでいる。

 彼女達はそれから何度もそのリ・マージョンを繰り返した。これは楽しい! これだったら何度だってやれる!

 何だか午後の間はずっとそればかりしていたような気がするが……やがて日が傾いてきた頃、アリエスが言った。

『ねえ、みんなでできるお祈り、もう一つあるんだけど……』

「どんなの?」

『お姉ちゃん……ヘリファルテ……それに……』

「あ、そうだよね……」

 それは今までなるべく考えないようにしていたことだった。思い出したら辛くなってしまうから。でもそうしていればいるほど、心の中に澱が溜まっていくようでますます苦しくなってきてしまう。

 でもここで大空に向かって祈ったならどうだろう? 彼女達にもよく声が届くのではないだろうか?

「どういう風に祈る?」

『これならお見送りの祈りでいいんじゃないかしら?』

 お見送りの祈りとは嶺国の礼拝で死者を送るための定型句だ。

「そうだね。やってみよ。ヴォルケ。招詞、いい?」

『ええ』

 それからちょっと間を置いて、通信機からヴォルケの声が流れ出してきた。


 『アニムスよ。我らは今日、此の地より、

 汝の御許、古き兄弟達の集う彼の地へと、

 我が親愛なる同胞を送りださん。

 ああ、アニムスよ。我らの祈りを聞きたまえ。

 かの魂が汝の絶えざる輝きの下、

 永遠の安らぎを得られんことを』


「「「「かの魂が汝の絶えざる輝きの下、永遠の安らぎを得られんことを!」

 途端にシムーンは彼女達の祈りに答え、二機同時に知らないリ・マージョンを描き始めた。

 それはまるで大輪のバラの花のような美しい形をしていた。



 その日の夜、巫女達は上級士官専用の食堂で特別な夕食をごちそうになった。しかも本物の調理師さんが作った立派なケーキ付きだ。

 彼女達は肩の荷も下りて心安らかにそれを味わうことができた。これまでは食事の味もあまりしなかったが、この夜の食事は生涯最高の思い出になることだろう。

「お前達、本当に良くやってくれた!」

「これで名実共に我々はシムーンを手に入れたと言えますね」

 リフェルドルフ総司令とベネトラルフ副司令は満面の笑顔だ。

 しかしドクターはちょっと浮かない顔だった。そんな彼にベネトラルフがワインを勧めて言った。

「どうしました? 念願のリ・マージョンができたのですよ?」

「それはそうなんだが……」

「何かご不安でも?」

「いや、文献のやり方と全然違ったんで、不思議に思ってですな」

 それは確かにそうだった。正直、瓢箪から駒みたいな話なのだ。

「文献は所詮文献だろう?」

 リフェルドルフがちょっと渋い顔をする。

「それはそうですが、でも確かな筋から入手したものですからな」

 その点は彼女達も疑問だった。ドクターが色々と苦労して手に入れたらしい宮国のリ・マージョンのマニュアルなのだが、一体何が違っていたのだろうか? ともかくリ・マージョンができているのは紛れもない事実なのだが……

「それにそのやり方だとリ・マージョンは人を選ぶことになりますな」

 ドクターの言葉にリフェルドルフもうなずく。

「それは……そうだな」

 それも事実だ。実際パンケーキのリ・マージョンはグレイス達にしかできず、朝の祈りのリ・マージョンはヴォルケ達にしかできない。

 あの“来るな! あっち行け!”のリ・マージョンは一応両方ともできるが、もしかしたら敵シムーンに追いかけられた体験のある彼女達だからこそなのかもしれない。

「さらに、二人で心を合わせて祈る必要があるようですが、戦場でそんな余裕がありますかな?」

「それも……そうだ」

 リフェルドルフはうなずく。それを見てベネトラルフが尋ねた。

「要するにどういうことですか? ドクター?」

 それを聞いてドクターはおもむろに答えた。

「もしかしたら我々は、違う何かを見つけたのかもしれないと思いましてな」

「違う何か?」

 ドクターはうなずいた。

「ああ……そもそもの話なんですが、実は私はリ・マージョンとは本来、非常に難易度の高い物であると考えておったのです。宮国にはシムーン・シビュラの養成所があって、全国から集まった才能ある子供をそこで何年も訓練し、その中でほんの一握りの、本当に優れた能力を持った者だけ実際にシムーン・シビュラとして取り立てられる訳で……」

「え? そうだったんですか?」

 驚いた様子でアリエスが尋ねる。他の巫女にとってもそれは初耳だった。

「ああ。それを言うと君たちのやる気が削がれると思って黙っておったのだが……そういうわけで正直、リ・マージョンを成功させるのは非常に困難なのではないかと思っておったところに、君たちが帰ってきたらもうリ・マージョンはできたと言う。私は正直少し混乱しておったのですよ」

 ドクターは巫女達の顔を見ると、にっこりと微笑んだ。

「でも結局君たちはリ・マージョンを成功させた。それが何を意味するか……」

 ドクターは巫女達一人一人の顔を見る。

「それは君たち全員がたまたま、宮国の巫女達を遙かに超える才能を持っていたか……」

 巫女達は一斉に首を振った。それはあり得ないだろう?

「それとも君たちがリ・マージョンの別な発動方法を見つけたか、ということなのだ」

 そういうことならまだ分かるが……

 でもそれなら宮国の巫女達はどうやってリ・マージョンをしているのだろうか?