銀嶺の巫女 第11章 最後の祈り

第11章 最後の祈り


 戦いの日々は始まったときと同様、唐突に終わりを告げた。

 ほんの少し前まで礁国の基地で訓練と戦いに明け暮れていたというのに、何故か今、グレイス、ヴォルケ、アリエスの三人は、かつての死闘の相手である白カタツムリこと宮国の航空母艦アルクス・プリーマの船内で迷子になっていた。

「あれ? ここ違わない」

「フロアを間違えたのかしら」

 とても嬉しいことがあったのでそれをなるべく早くアントレーネ達に伝えようと思って近道しようとしたのだが、それが完全に裏目に出てしまったようだ。

「やっぱり普通に行けば良かった! グレイスが食堂からだとこっちが早いとか言うから」

「ええ? だってアリエスだって賛成してくれたじゃないの!」

「もう。喧嘩は後にしてよ。早く帰らないと私午後から通訳のお仕事があるのよ」

 ヴォルケの言うとおりだ。ともかく道を見つけなければ……

「もう何でこんなに大きいのよ?」

 シュネルギアも大きかったが、あれは綺麗に甲板が四層に分かれていてちょっと歩けばすぐ外にも出られたから意外に迷わなかったのだが、ここはとにかく内部が複雑だ。しかも通路がうねっているのですぐ方向が分からなくなってしまう。

 聞くところによるとこれは元々リ・マージョン観覧用の客船だったそうで、客用の表通路の他に船員用の裏通路があってそれを使うと結構ショートカットができるのだが、構造をよく知らないうちはこうしてすぐに迷ってしまうのだった。

 それにしても数日前までの暮らしがまるで嘘のようだ。

 空軍基地では夜はぎしぎしいうベッドに眠り、昼は戦いがなければ汗と埃にまみれて訓練に励んでいた。だがこちらに来てからという物、まるでVIPのような待遇で与えられた部屋は馬鹿みたいに広く、ベッドなどは子供が十人くらい寝られそうなふかふかのベッドだ。最初見たときここに何人で住むのかと尋ねて個室なのだと聞いたときには、ちょっと目の前がくらくらしてきたものだ。

《終わったのよね……本当に……》

 彼女達は昨日、和平式典に参列した。嶺国と礁国、それに宮国の偉い人達が勢揃いして、この戦争の終結と恒久の平和を誓い合ったのだ。

 そこでグレイスとヴォルケはクルスを贈り合う儀式の担い手という重要なお役目を任ぜられた。そのせいでその時はもう失敗しないようにとそればかりが気になって、本当に戦いが終わったのだと感慨にふけることも、参列していた宮国の巫女達をじっくり眺める余裕もなかった。

《それにしても船内に大聖堂があるなんて……》

 何もかもがグレイスの想像を超えていた。

 そんなことを思い出しながら狭い通路を抜けると、急にぽっかりと広い空間に出た。

「え?」

「何か格納庫に来ちゃったみたいね」

 そう言ってアリエスがあたりを見回すが、今は格納されているシムーンはなく、内部はがらんとしている。するとかたわらから長い黒髪の若い男性が走ってきた。

「えっと、あなた方は?」

 間近で見るとその男性はすごくハンサムだ。

「あの……」

 ここはどこだと尋ねようとするグレイスの顔を見て、男性はびくっとして身を引く。

 それを見ていたアリエスがいきなりグレイスの両目を手で塞いだ。

「あわっ! 何するのよ!」

 グレイスは耳元で囁いた。

「あんたガン付けてどうするのよ?」

「え?」

 二人の様子を見てハンサムな男性はどうしたものかという表情だ。そこにヴォルケが宮国語で尋ねた。

「すみません。道に迷ってしまいました。ここはどこでしょうか」

 それを聞いて男性の緊張が解けた。

「ここは右舷甲板ですが、どちらまで?」

「私たちの区画までですが、分かりますか?」

 男性はうなずいて、格納庫の出入り口の一つを指さした。

「ああ、そこならば、あそこの通路を入ってすぐの階段を上がって、二つ上のフロアです」

「ありがとうございます」

「大丈夫ですか? 案内させましょうか?」

「いえ、大丈夫です」

 グレイス達は慌てて男性と別れると言われた通路に向かった。歩きながらアリエスとヴォルケが口々に言う。

「もう、忘れてたわ。グレイスの目つきのこと!」

「絶対あれ、怯えてたわよね」

「どうしてよ~」

 別にそういうつもりでないのだが……このせいでいつも初対面の人には誤解されるのだ……ぶつぶつ。って、そういえば何かこれに関して心の底に引っかかる物があるのだが……何だったろうか? まあ、思い出せないということは大したことではないのだろうが……

「ああ! こっちよ。こっち」

 グレイス達はやっとのことで自分たちに与えられた一角にたどり着くと、嶺国巫女用の控え室に入っていった。そこは控え室といっても広間くらいの大きさがあって、床には絨毯が敷かれていてシャンデリアが下がり、豪華な彫刻とかそんな物まで置いてある。かつては客船のラウンジだったそうだが、そこの一角でプリマヴェーラが何名かの巫女と話しているのが見えた。

 彼女は今、嶺国巫女による通訳グループのリーダーとして大活躍中だったが、彼女と話していた巫女の中にアントレーネも混じっている。

「アントレ! ここにいたの」

 グレイスは素敵な出来事を彼女達に話そうと思ったのだが、その前にアントレーネがひどく真剣な表情でグレイスに手招きする。

「あ! グレイス! それにヴォルケ達も、大変なのよ」

「大変って?」

 彼女達が近づくとそれに答えたのはプリマヴェーラだった。

「コール・テンペスト、解散されるみたいなの」

「え?」

 それを聞いてヴォルケが尋ねた。

「コール・テンペストって、あの宮国の巫女達のチームのことよね?」

 プリマヴェーラはうなずいた。

「ええ」

 それを見てグレイス達は顔を見合わせた。

「解散って、どうして?」

 グレイスの問いにプリマヴェーラは首を振る。

「理由までは私には分からないわ。でも予備会議ではそれで紛糾しちゃって。礁国の頭領なんか初めは彼女達を戦犯として裁くって言ってて、それを首領様が何とかなだめて結局こうなったってことだけで」

 戦犯って……彼女達にそんな罪があるなら、自分たちだって同じではないか!

 でもとにかくそうはならなくて良かったわけだが……そのときヴォルケが尋ねる。

「で、解散した後はどうなるの? 誰かこちらに来てもらえたりするのかしら?」

 確かに嶺国に来て色々教えてもらえたら素敵なのだが……でも彼女達は仕えている神様が違うし、そう簡単にはいかないだろうか……などとグレイスが考えていると、プリマヴェーラはまた首を振る。

「それが……みんな泉に行ってもらうんだって」

「泉?」

「宮国での水渡りのことよ」

「ええ?」

 それって……

「それじゃ、あの子達もうシムーンに乗れなくなるってこと?」

 グレイスの問いに答えたのはアントレーネだ。

「そういうことになるわよね……」

 グレイスはばんとテーブルを叩くと立ち上がった。

「ちょっと! どうする気?」

「司令に話してくる」

「話してどうするのよ!」

 だがグレイスはその足でウルガヌフの元に走った。

 司令の部屋の扉を乱暴にノックすると中から司令の声がする。

「ああ?」

「グレイスです!」

 彼女は返事を確認もせずにドアを開くと、部屋の中につかつかと入り込んだ。

 何か酒臭い。ウルガヌフが驚いたように振り返る。顔が妙に赤いが、見ると手には酒のグラスが握られている。

「おい! いきなり入ってくるなよ」

 その様子をみてグレイスは向かっ腹が立った。

「何で昼間っから酔っぱらってるんですか?」

「んなこと、俺の勝手だろうが。それを言いに来たのか?」

 いや、もちろん違う。

「あ、いえ、それじゃなくって、宮国のシヴュラ達が水渡りするって本当ですか?」

「水渡り?」

「あ、その、成人するってことですけど」

 ウルガヌフはうなずいた。

「ああ。本当だ」

「どうしてですか?」

 グレイスの詰問にウルガヌフは天井を見上げながら答える。

「上層部の決定だ」

「でもあたしたち、一杯習わなければならないことがあるんですよ? それは司令も知ってるでしょ?」

「ああ」

「じゃあどうして?」

 ウルガヌフはじろっとグレイスを見る。

「だから、上層部の決定だ。そのことについてはこちらからも具申したさ。でもな、上層部のお歴々は、お前達がもう十分にできるって思ってるのさ」

「ええ?」

「お前達は実際にアンシエンシムーンを操って連合軍に勝利をもたらした。これは紛れもない事実だからな」

 確かにそうではある。だがあれは結果的にうまくいったというだけなのだ。あの後もうちょっと宮国が粘っていたらもうどうなっていたか分からないのだ。

 グレイスはウルガヌフににじり寄る。

「でも知ってるでしょ? あたし達なんかまだ全然なんです。だからあの人達に教われたらもっともっと上手になれるって思ってたのに……」

「分かってるって。でもこうなったら俺にも、総司令にだってもうどうしようもないんだ」

「んー……」

 いくら悔しがってみても彼女にも分かっていた。ウルガヌフにいくら文句を言ったところでどうしようもないことが。そんなグレイスを見てウルガヌフは言った。

「みんな残念がっているさ。お前らを実際に知ってる現場の連中はな。でもな上層部の連中がそう考えるのもよく分かる」

「どうしてですか?」

 グレイスはウルガヌフを睨んだ。大人はすぐにそういう分かったようなことを言い出すのだ。

「どうしてって……怖いからだよ」

「怖い?」

「ああ。怖いんだ。彼女達が。そしてお前達がだ」

「え?」

 グレイスはぽかんとして司令を見返す。どうして自分たちが?

「お前達はたった一機のシムーンで何ができるか証明して見せただろ……あの一発で縮み上がったのは敵さんだけじゃなかったって事だ」

「……」

 そう言われて、グレイスには返す言葉がなかった。



 それからまた数日が経過した。

 朝食をとった後の休み時間、グレイスとアントレーネは嶺国巫女達の控えの間でまったりとしていた。

「あー、眠い!」

 大あくびしながらこぼすグレイスの様子を見てアントレーネが尋ねる。

「夕べは遅かったの?」

「夜中の三時までよ。話がなかなかまとまらなくって」

「うわー、大変!」

「何か戦争の時よりも寝られない感じ。平和って疲れるのねえ」

「うんうん」

 戦いが終わってゆっくり羽を伸ばせるかと思いきや、その後は以前よりもっと忙しい生活が待っていた。

 和平が結ばれた後のことに関して、協議しなければならないことが山積みなのだ。話し合う内容はトップレベルから現場レベルまで極めて多岐にわたる。従って通訳の数も尋常ではなく必要になってくるのだ。

 そのため嶺国巫女は、グレイス達シムーン航空隊の巫女まで全員が引っ張りだこ状態なのだ。

「アントレは今日は?」

「ずっと一杯よ」

 アントレーネもげっそりといった表情だ。

「プリマヴェーラってさ、にこにこしてるけど結構容赦ないよね?」

 通訳担当の割り当ては彼女に一任されているが、その時間割を見てみんなげんなりした物だ。

「あはは。でも本人も一番頑張ってるし」

 確かにいつ見たって忙しそうにはしているが……

 そんな話をしていると控え室に数名の巫女の一団が入ってきた。今話に出たプリマヴェーラとフィアルカ―――彼女も通訳巫女だ。それにファールケとアヴェラーナだ。

 ファールケは西カテドラルからの箱橇仲間だが、意味もなく偉そうなせいか、今では控え巫女のリーダー格になっている。アヴェラーナは彼女のパルで東カテドラル出身だ。

 ファールケはやってくるなり近くのソファにへたり込む。

「あー疲れた! お腹空いた!」

「二人とも朝から?」

 アントレーネが尋ねるとアヴェラーナが答えた。

「うん。まだ食べてないのよ」

「うわー! 大変! どこの会議だったの」

 グレイスの問いに彼女が答える。

「私は整備班の移管について。朝の六時からとかもう、どうなってるのかしら。もっとゆっくり決めればいいのに」

 それを聞いてファールケが言った。

「だよね。でもそれならあの整備士長さんと一緒だったんでしょ? あの人ちょっとかっこよくない?」

「え、まあ。確かにあんな整備士の人がいたらいいわよね」

 アヴェラーナがちょっと赤くなっているようだが……礁国の整備兵達はみんなおじさんばかりなのだ。

 だがそれを聞いてプリマヴェーラがにやにや笑いながら言う。

「あらまあ、夢、壊して残念なんだけど、あの方には恋人がいらっしゃるみたいよ?」

「え? そうなの?」

 思わず問い返すアヴェラーナにプリマヴェーラがにっこり笑う。

「しかもそれってシヴュラのお一人みたいなの」

「ええ?」

 彼女はこちらに来てまだ日が浅いというのに、どうしてそんなことに詳しいのだろう?

「シヴュラがそんなことしていいのかしら?」

 アントレーネがつぶやくと、ファールケが言った。

「さあ。でも晴れてもういいんじゃないのかな?」

 それを聞いてグレイスもうなずいた。今日は彼女達が戻ってくる日なのだ。

 結局宮国のシムーンコールはすべて解散されて、巫女達はみんな泉に行った。彼女達はもう大人なのだ。もしその巫女が整備士の人を本当に好きで女を選んで戻って来たのなら、その人と結ばれることも可能と言うことだ……でもシムーンにはもう乗れない。

 グレイスは大きくため息をついた。考えれば考えるほど勿体ない。せめてもうちょっと待ってもらうことはできなかったのか? もはや手遅れなのだが……

 そこにアヴェラーナがぽそっと尋ねる。

「あのお二方、結局どうしてるか知ってる?」

「さっきちょっと見かけたから、まだあのままみたい」

 ファールケが答えると、フィアルカが言った。

「本当に大丈夫かしら? 首領様とかが怒ってらっしゃったけど」

 グレイスはちょっと驚いて彼女達に尋ねた。

「え? 結局あの二人、行ってないの?」

「ええ」

 巫女達はほとんどが泉に行ってしまったが、何故か行かずに残っている巫女が二人いたのだ。それで昨日少々揉めていたのだが……そのうちの一人は、あの時のシヴュラ・アウレア・ネヴィリルだ。そしてもう一人が……

《何だか凄い名前なんだけど……》

 グレイスとしても別にそこまで急ぐ必要はないと思うのだが、上層部の人達の意見は違うようだった。

《とは言っても……あたし達にはもうどうしようもないし……》

 そのときフィアルカがグレイスに手招きした。

「あなた、航空隊のリーダーなのよね?」

「え? うん」

「それじゃ、これ」

 そういって彼女は綺麗に折りたたまれた紙片をグレイスに手渡した。

「なに? これ」

「宮国のデュクスから、嶺国のコールのレギーナにって」

 そう言ってフィアルカはにこ~っと笑った。

「は?」

 レギーナとは宮国のシムーン・シビュラのチームリーダーみたいな役割のことだから、確かにグレイスがそうだと言われたらそういうことになるが……

「えー?」

 思わずアントレーネが声を挙げるが、フィアルカは首を振る。

「知らないわよ。そう言って渡されただけなんだし」

 と言いつつ、彼女は横目でじーっとグレイスの方を見ている。

 グレイスは周囲を見回す。同じような巫女達の視線がざくざく刺さってくるが……

「えっと……」

「ともかく見てご覧なさいよ」

 グレイスは仕方なくうなずくとその紙片をほどいた。

折り入ってお話があります。

九時半に礼拝堂に来ては頂けないでしょうか。

グラギエフ

 巫女達がそれを覗き込む。

「まあ! なにかしら!」

「グラギエフって、あの黒髪の副艦長でしょ?」

「そんなお方がグレイスを?」

「グレイス……」

 彼女達は口々にそんなことを言って……次いでじとっとした目つきでグレイスを見つめた。

「確かに黙って立ってたら、グレイスって可愛いわよね」

 プリマヴェーラまでがそんなことを言い出す。

「ちょっと!」

 グレイスは何だか顔が熱くなってくる。

「待ってよ。まだそうと決まったわけじゃないでしょ」

 グレイスがそう言うとファールケがうなずいた。

「そうよね。ヴォルケあたりと間違えてたりして。行ってがっかりされたら可哀相よね」

「え~!」

 そこにアヴェラーナがにこにこしながら言った。

「それはともかく、もうすぐ時間よ?」

 グレイスはどうしようかとアントレーネの顔を見るが……彼女は何だか怒ったような顔でそっぽを向いている。

「さ、頑張ってらっしゃい!」

「えっと……」

 グレイスはそのまま巫女達に無理矢理送り出されてしまった。

 とにもかくにも人目を忍びながら礼拝堂にやってくる。どうも後ろからみんな付けてきているようだが、実際ちょっと誰かいてくれないと心細い。

《一体あたしなんかに何の用かしら?》

 こんな所にこっそり呼び出すなんて……まさか本当に『私のために女になってもらえませんか?』とか言われてしまったら一体どうすればいいのだ?

《いや、だからあたしは、立派な密輸業者になるんで……》

 って、でも、この戦争が終わったって事は、もう国境を越えて密輸する必要なんてないってことではないだろうか?

「あれ? え?」

 何だか顔が熱いぞ? どうしよう!

 だが彼女はその時はもう礼拝堂内に足を踏み入れてしまっていた。

《うわ……やっぱり帰ろうかしら……》

 そう思った瞬間だった。

「いらして頂いてありがとうございます。シヴュラ・グレイス」

 グレイスは驚いて三センチほど飛び上がった。振り返ると……すぐ近くにアルクス・プリーマの副艦長、グラギエフが立っている。

 彼女が言葉を失って彼の顔を見ていると、グラギエフが微笑んで言った。

「そんな怖い顔なさらないでください」

「いえ、違うんです! これは!」

 グラギエフは首をかしげた。しまった! 思わず嶺国語で口走っていたではないか。

「いいえ、違います。睨んではいません」

 グラギエフは再び首をかしげるが、またにっこり微笑む。それから今度は真面目な表情になると言った。

「このようなところにお呼び立てしてしまって、大変失礼なこととは承知しております」

「はい」

「本来はこのようなことをお願いできる筋合いではないのですが、でもあなたしかいないのです。どうかせめて話を聞いて頂けますか?」

 聞くだけなら別に構わない。グレイスはうなずいた。

「えっと、あの、どのようなお話でしょうか?」

 グラギエフはちょっとほっとしたといった様子を見せて、話し始める。

「はい。話というのは、シヴュラ・ネヴィリルとシヴュラ・アーエルのことなのです」

 シヴュラ・ネヴィリルとその凄い名前の人? 泉に行っていない二人のことだが、それが彼女にどんな関係があるのだろうか?

 ともかくグレイスがうなずくと、グラギエフは続けた。

「シヴュラ・グレイスもご存じだと思いますが、わがシムラークルム宮国はプルンブム嶺国、アルゲントゥム礁国との和平の条件として、シムーンを放棄することを承諾しました」

「はい」

「今、宮国のシムーンシヴュラの歴史が終わろうとしています……いえ、そのこと自体は我々の招いたこと。とやかく言うつもりはありません。でもただ一つだけ、心残りといいますか、させてあげたいことがあるのです」

「させてあげたいこと?」

「はい。そうです。今、二人のシヴュラが残っていますが、彼女達もまた宮国最後のシヴュラとなります。ですから、その彼女達に最後のリ・マージョンをさせてやりたいのです」

「最後のリ・マージョン、ですか?」

 何だかすごく悲しい言葉だ。

「はい。翠玉のリ・マージョン……それは新天地への扉を開くといわれている、古くからある究極のリ・マージョンです。しかしまだ誰も本当に成功したところを見たことはなく、本当にそういうことが起こるかは分かりませんが……」

 グレイスはそのようなことなら喜んでお手伝いします、と言いたくなったが、そこではっと思い当たった。

 彼女はグラギエフに尋ねる。

「でも、そのためにはシムーンが必要ですが、それはどうするのでしょうか?」

 宮国のコールは解散された。彼女達はもうシムーンに乗ってはいけないのだ。

 それを聞いてグラギエフはちょっと目を伏せると答えた。

「そこであなた方にお願いしたいのです」

「どうするのでしょう?」

「私たちが彼女二人を見晴らしの良いところに案内します。そこに……シムーンを持ってきて欲しいのです」

「え?」

 持ってこいって……要するにそれって……

「あの、それは私たちに盗んでこいということですか?」

「いえ、整備員達には言ってあります。ですから彼らからシムーンを受け取って、運んできて頂きたいのです。その場所に……ああ、でもそうですね。私たちがシムーンを盗むためのお手伝いをお願いしているのは間違いありませんね」

 グレイスは絶句した。このグラギエフという人が正直なのはとても好感が持てるが、それはともかく……グレイスは尋ねた。

「どうして、そのリ・マージョンをしたいのですか?」

「それが彼女達の望みだからです」

 彼女達の望み?

 言い換えれば宮国最後の巫女の最後の望みということなのだ……だとすればそのくらいは叶えてやってもいいのかもしれない。

 しかもその二人のうち一人はあのシヴュラ・アウレアだ。グレイス達は彼女には大きな借りがあった。

 だが……

 グレイスは大きくため息をつくと、首を振った。

「大変申し訳ありません。お気持ちは分かりますが……協力することは、できません」

 それを聞いてグラギエフはとても悲しそうな表情になった。

「無理を承知でお頼みしているのです。どうか彼女達の最後の願いを叶えてやってはくれないでしょうか?」

 グレイスの心は揺さぶられる。しかし……やはりだめなんだろう。これは……

 彼女はグラギエフを見上げると言った。

「それは危険な物ではありませんか? ご存じの通り私たちは……もし戦争が終わらなければ、私がこの船を沈めていたかもしれません。そのお二人を行かせてしまったら、自分たちが滅ぼされてしまうのではないかと、みんなが恐れるでしょう」

 グラギエフは首を振る。

「いえ、そんなことはありません。危険なことなどありません! 彼女達はただ運ばれるのです。希望の大地へと導かれるだけなのです」

 グラギエフは真剣な表情でグレイスに懇願している。

《どうしよう……》

 この人が嘘をついているのではないということは信じられた。大体騙すつもりなら盗めなどとは言わないだろう。多分ちょっとシムーンのテストに手を貸してくれとかそんな当たり障りのない理由をでっち上げるはずだ。

《だとすれば……》

 事が彼女だけに関わっていたのならば、この程度の事即座にOKしてもいいところだ。何しろシムーンを取ってくる任務というのは得意中の得意だ。

 だがこれを実行するとなると一人では無理だ。少なくとも一名、協力してくれる仲間が必要だ。でもどう考えたってこれは大きな罪になる。そんなことに彼女のパルを引き込むわけにはいかない。

 いや、アントレーネなら大丈夫かもしれないが、でも……

「どうかお願いできないでしょうか?」

 グラギエフの悲痛な眼差しにグレイスはとても心が痛んだ。だが多分こればかりは無理だろう。多分彼女にできることは、このことについて沈黙しておくことくらいだろう。

 グレイスはそう答えようとしてふっと思い当たった。そもそも彼女は彼の言うことが今一つ理解できていなかった。新天地への扉? 希望の大地? 美しい言葉だが……

 そこで彼女は尋ねた。

「その、翠玉のリ・マージョンというのは、どのようなお祈りなのですか?」

 それを聞いておいて損はないだろう。

 ところがそれを聞いたグラギエフはきょとんとした。

「は?」

「その、あの方が、シビュラ・アウレアが祈りたいと言われるのですから、素敵なお祈りなのですよね?」

 だがグラギエフは首をかしげると聞きかえしてきたのだ。

「すみません。ちょっとおっしゃっていることがよく分からないのですが?」

 うー。どうも彼女の宮国語には問題があるらしい。こんなことならもう少し寝ずに勉強していればよかった、と思っても後の祭りだ。

 そこでグレイスは説明を始めた。

「えーっと、私たちはシムーンに乗ってまだ日が浅いので、リ・マージョンが上手にできません。だから、二人でお祈りをします。だからそのリ・マージョンがどんなお祈りなのか、とても気になるのです」

 こう言えば通じるだろうと思ったが、グラギエフはぽかんとした顔をしたままだ。全然通じていないようだ。

 そこで仕方なくグレイスは一から説明することにした。

「私とアントレーネが……彼女は私のパルなのですが、私たちは両方ともとても料理が下手でした。だからパンケーキを焼くとき、今度こそ上手に焼けますようにと、いつもお祈りをしていました。そのお祈りでできたリ・マージョンが、私たちの初めてのリ・マージョンでした」

 グレイスは宙にに指でパンケーキのリ・マージョンの形を示した。

「こんな形でした。丸くて、その周りをくるくる回って、できあがった後ふわっと消えて、その後にいい香りがします」

「丸くて、くるくる回って、消えて? いい香り?」

 グラギエフはグレイスの言ったことをオウム返しする。

「はい。ヴォルケとアリエスは朝の祈りが得意なのです。朝の祈りというのは、本当はお寝坊さんのことで、もう少し寝かせておいてくださいお願いしますというお祈りです。これはふわふわっとこんな形をしていて、終わったらいい音がします」

 グレイスは今度は朝の祈りのリ・マージョンの形を指で描いて見せた。グラギエフはそれを見て自分でもそれを描いてみるが、まだ首をかしげ続けている。

 グレイスは辛抱強く話した。

「それを宮国式でするのは、まだ難しくてうまくできません」

「宮国式?」

「はい。やりたいリ・マージョンの形を思い浮かべて、アニムスの心臓に……いえ、シムーン球にその形が出たら、それをなぞるやり方ですが、それはとても難しいです」

 それを聞いてグラギエフは目を見開いた。

「ちょっと待ってください。それではどうやってあなた方はリ・マージョンをしているのですか?」

 この人は人の話を聞いていなかったのか?

「だから、二人で同じお祈りをします。それが二人とも本当に心からのお祈りなら、シムーンは答えてくれます。とても気持ちがよいです」

「シムーンが答えてくれる?」

「はい。自然にシムーンが動いて、リ・マージョンしてくれます。だから私たちは操縦は下手ですが、リ・マージョンができます」

「え?」

 ところがそれを聞いたグラギエフは、なぜかそのまま宙を見つめて黙り込んでしまったのだ。

《え?》

 何か間違ったことを言っただろうか?

「二人で祈りを捧げたら……シムーンが自然に動いた? そんなことが……でも、だとすると……」

 それから彼は急にグレイスに尋ねた。

「えっと、あなた方はシムーンに乗って、パンケーキが上手に焼けるように二人でお祈りをした、そうしたら自分では操縦していないのに、自然にリ・マージョンができた、ということですか?」

「はい」

 グレイスはうなずいた。

 それからグラギエフはさらにしばらくぼうっと考え込んでいたが、急に嬉しいとも泣きそうともつかない不思議な表情になると、今度は大きな声で笑い始めた。

《えええ? どうしちゃったのよ?》

 グレイスは何だかちょっと怖くなってきた。

 だがそう思った瞬間だ。グラギエフはいきなりグレイスを力一杯抱きしめたのだ。

「むぎゃ!!」

 大人の男の力は強い! グレイスはほとんど息ができなくなって、それから……

《え? ええええ?》

 この状況って、一体何なんだ?

「あの、くるひいでふ!」

 それを聞いてグラギエフがはっと気づくと、弾かれたように飛び下がる。

「あ、申し訳ありません。いえ、ちょっとあまりにも感動してしまったのでつい」

 グレイスの頭の中は真っ白だ。喋ろうとしても口がぱくぱくするだけで言葉が出てこない。

 それからグラギエフは大きく一度深呼吸すると話し始めた。

「シヴュラ・グレイス。あなたが初めて行ったリ・マージョンは多分、蔦冠のリ・マージョンといって、古い文献に載っています。でもその意味は失われてしまって、誰も知らなかったんです。そうですか。パンケーキですか……」

「はい?」

「空に祈る。そうなんですね。あはははは」

 今の抱擁のせいでまだ頭がほわほわしているグレイスを傍らに、グラギエフは話し続けた。

「どうして誰も思いつかなかったのでしょうか? 大昔からまさにそのように言い習わしてきたのに!」

 ここに至ってグレイスにもおぼろげに事態が飲み込めてきた。

「あの……もしかしてご存じありませんでしたか?」

 グラギエフはにっこり笑ってうなずいた。

「ええ。知りませんでした」

「えええ?」

 これについては以前ドクターとも話したことがある。宮国の文献に嶺国式のやり方がどうして書いていなかったかについてだが、そこでは結局嶺国式では発動が不安定だからという結論に達していた。実際人によってできないリ・マージョンがあったり、始めるために一々長い詩を詠まなければならないのは不便なのは間違いない。

 だが宮国式なら練習次第でどんなリ・マージョンだって自由自在だ。だから宮国ではそちらの方が主流になって、グレイス達の方法は普段は使われていなかったのだろうと。

《でも、本当に知らなかったって……》

 一体これをどう考えたらいいのだろうか?

 呆然とするグレイスのかたわらで、グラギエフは宙を見上げて考えた。

 それから振り返ると彼女に向かって言った。

「彼女達の祈りですが……それは多分、いや、間違いなくこうだと思いますよ」

 グラギエフがグレイスの耳元で囁いたその祈りを聞いて……

《うわーっ!!》

 グレイスは思わず頬が緩んできた。

 見るとグラギエフの顔にも少女のようなはにかんだ笑みが浮かんでいる。

「あの二人が……ですか?」

「ええ。私も遙か遠い昔、そんなことを祈った気がします」

「それって……とても素敵ですね!」

「ええ。そうです。とても素敵です」

 そうなのだ。素敵なのだ。とっても素敵なのだ!

 だとすれば?

《やるっきゃないもんね!》

 グレイスはうなずいた。

「分かりました。協力します」

 グラギエフが驚いた。

「え? いいのですか?」

「これなら……みんな協力してくれると思います。だから大丈夫です」

 グラギエフの顔がぱっと明るくなる。

「ありがとう」

 そう言って彼は……グレイスに手を差し出した。グレイスもその手を取って、互いに微笑み合う。

 続いてグラギエフは今考えている計画の概要を話した。聞けば大して難しい作戦ではない。実行に問題はなさそうだ。決行まであと数日はあるだろうから、細かい点は再度詰めるということでその場は終わった。

 グラギエフと分かれた後も、グレイスのゆるんだ頬はなかなか戻らなかった。

《あは。あのグラギエフさんにもそんなときがあったのかしら……》

 などと考えながら戻ってくると、通路を曲がったところでいきなり巫女達に囲まれた。来るときの五人から更に数が増えていないか?

「どうだった? 逢い引きの感想は?」

「いきなり抱擁? すごいじゃないの!」

「ねえ、最後のあれ、耳にキス?」

 やっぱりこいつら見てたんかい!

「グレイスったら……」

 アントレーネの表情が何だか険しいが……どうしてだろう?

 それはともかくだ。

「それでみんなにちょっと相談があるんだけど、ここじゃあれだから控え室に戻ろ!」

 そう言ってグレイスはすたすた歩き始める。その反応に巫女達が肩すかしを食ったような顔になった。

「え? ちょっと待ってよ」

「相談って何よ?」

 巫女達は慌ててグレイスの後を追った。

 彼女達が戻るとちょうどヴォルケやアリエス達も帰ってきていた。

「あ! ちょうどいいわ! みんなもちょっと!」

「え? なんなの?」

 グレイスはそこにいる巫女達を全員集めた。

「ねえ! ちょっとみんなにお願いしたいことがあるんだけど協力してもらえるかな?」

「お願いってどんな?」

 巫女の一人の問いにグレイスは答えた。

「それがね、ほら、今二人残っている宮国の巫女様がいるでしょ? シヴュラ・ネヴィリルともう一人、凄い名前の人。あの方達って、宮国で最後のシヴュラになっちゃうわけでしょ?」

「ええ。それはそうよね」

「その二人がね、だから最後のお祈りをしたいんだって」

「お祈り? 別にお祈りなんてどこだってできるでしょ?」

 プリマヴェーラのつぶやきに、アリエスが言う。

「ちょっと待って。シヴュラのお祈りよ。それってシムーンで祈りたいって事よね?」

「うん」

「でももう宮国のシヴュラの方は、シムーンに乗せてもらえないんでしょ?」

 グレイスはにたっと笑ってうなずいた。

「うん。だから、ちょっとそれに協力してあげようかなって」

 巫女達は一瞬不思議そうな顔をして、それから青ざめた。

「ちょっと待ってよ。それって……」

 アリエスが絶句した。

「えへ。後で滅茶苦茶怒られるかもね」

 それを聞いてヴォルケが激怒した。

「バカなの? あんた、怒られるなんて物じゃないでしょ? そんなのだめよ!」

 だがグレイスはにっこり笑って答えた。

「でもね、ヴォルケ。グラギエフさんが言うには、そのお祈りでできるリ・マージョンってのがね、翠玉のリ・マージョンって言って、それはすごいリ・マージョンなんだって。うまくいったら新天地の扉が開いたり、希望の大地に送られたりして、もう、究極のリ・マージョンなんだって言ってた。見てみたいでしょ?」

「そりゃ……そうだけど……」

 ヴォルケの目が泳ぐが……一度でもシムーンに乗った者ならそういう甘言には心を動かされないはずがない。

「そしてね、あの二人がしたいっていうお祈りなんだけど……」

 そう言ってグレイスはにやにやしながら巫女達の顔を見回した。

「どんなお祈りなのよ?」

「それがね、『大好きなあなたと、この時をずっと』なんだって!」

「え?」

 それを聞いた巫女達の目が丸くなった。

 さあ! どうだ!

「大好きなあなたと?」

「この時をずっと?」

 巫女達はしばらくの間その祈りを自分たちの口の中でつぶやいていた。

 次いであたりは爆笑の渦に包まれる。

「あはははは! いい! それいい!」

「そんなこと言われちゃったら、手伝うしかないわよね」

「もう……仕方ないわね」

「どんなリ・マージョンができるのかしら」

「近くで見られないかな」

 だがそんなことを言い合う巫女達を見て、プリマヴェーラが少し心配そうな顔で尋ねた。

「でもそれって危なくないの?」

 シムーンに乗ったことのない彼女にとっては当然の疑問だ。

 だが即座にアリエスが首を振った。

「危ないわけないわよ」

 そこにいる“嶺国コール”のメンバーの意見は全て一致していた。彼女達を代表してアントレーネが答える。

「そうよ。素敵なお祈りには素敵なリ・マージョンしかできないもの」

 それを聞いてプリマヴェーラも微笑んだ。

「そうなの。じゃああたし達も協力するわ」

「ありがと!」

 やっぱり思ったとおりだ! 自分たちと同じくらいの歳の少女がそんなお祈りをしようとしているのだ。協力してやらないわけがない。

「で、具体的にどうすればいいの?」

 ヴォルケの問いにグレイスは先ほどのグラギエフの話の概要を伝える。

「詳しい話はまた後でってことになってるの。でもプリマヴェーラとかフィアルカが協力してくれたら楽よね。グラギエフさんと話す機会多いんでしょ?」

 それを聞いてフィアルカが答えた。

「ええ。これからもまた会議だし」

「じゃあお願い」

 二人はにっこり微笑んだ。

 グレイスは何だかわくわくしてきた。



 だが、世の中何もかもが予定どおりにいくわけではない。その日の昼過ぎ、グレイスは会議から戻ってきたフィアルカに急に呼び出された。彼女に付いて行くとそこには先ほどのグラギエフとアヌビトゥーフというアルクス・プリーマの艦長がいた。艦長は深刻な顔で言った。

「シヴュラ・グレイス。ものすごく急な話で申し訳ありませんが……お二人は今日、泉に強制移送されることになってしまいました。つきましては例の作戦なのですが、本日十八時よりでお願いできるでしょうか?」

 この艦長も間近で見ると凄い美形だな……というのはともかく……

「え? でもその時間はちょっと通訳のお仕事が……」

 確か資材関係で現地の業者と打ち合わせをするとか何とか。

「それは任せて!」

 そう答えたのはフィアルカだ。

「今プリマヴェーラがシフト替えてるから。あなたとヴォルケなら何とか午後は格納庫に回せるって」

「ありがとう!」

 というわけで唐突に作戦は開始された。