銀嶺の巫女 エピローグ

エピローグ


 時が過ぎ去るのは速い。

 あれからあっという間に数年の月日が過ぎ去った。

《ああ~、疲れた!》

 グレイスはアンシエンシムーンのサジッタ席で大きく伸びをした。

 眼下には美しい田園地帯の光景が広がっている。ここはかつては宮国の領土だった地域だが、今は嶺国に属している。あの戦争で宮国はとても小さくなってしまった。

「シヴュラ。お疲れでしたら寝ていてもらって構いませんよ」

 アウリーガ席からメリザーナという若いシヴュラが声をかけてくる。

「そういうわけにはいかないでしょ。一応今はあなたのサジッタなんだし」

「いえ、私なんかがシヴュラのパルなんて勿体ないです」

「何言ってるのよ。もうみんなの方がずっと上手いじゃないの」

 戦後処理がある程度片付いたら、真っ先に行わねばならなかったことはシムーン部隊の拡充だった。グレイス達が現役でいられるのはそう長くはない。そこで全国からシヴュラの候補生を募集したのだが、すると今回は何千名という少女が応募してきて、その選抜だけでも大変な騒ぎだったのだ。

 そしてそんな中から勝ち上がってきた子達だ。技術的な面ではグレイスはもう太刀打ちができないのだ。

 宮国式リ・マージョンについてはあれから練習して、まあそこそこできるようになったが、やっぱりそこそこだ。この程度で今応募したら間違いなく練習生にもなれなかったに違いない。

「でも私は好きですよ。パンケーキ。いい匂いがするし」

「え? じゃあ、あなたもお料理苦手なの?」

「えへへ」

 こちらについては技術はあまり関係ない。二人の気持ちだけが問題だ。これを発見できたことが彼女達の最大の幸運だったのだと思う。

 宮国がシムーンを放棄した関係で、宮国で練習生だった子が嶺国に帰化して応募してくることも増えている。彼女達は既に何年も訓練を受けているから大抵は合格して入ってくるのだが、そのためどうしてもエリート意識が強く周りとトラブルになりがちだった。

 でも面白いことにそんな彼女達にパンケーキを初めとする嶺国式リ・マージョンを教えてやると、一様にびっくりした挙げ句に角が取れてしまうのだ。初めてファールケ達にリ・マージョンを教えた時のように。

《だから、これだけは守っていかないといけないのよね……》

 この戦争のおかげで本当に色々なことが変わってしまった。

 一番変わったのはまず自分自身だ。

 あの頃は本当に無我夢中だった。目の前で起こったことに、ただ必死で食らいついていただけだ。

 それが終わってやっとほっとしたと思ったら、今度は救国の英雄で勝利の女神になっていた。

《女神様がこんなに忙しいなんて思わなかったわ!》

 確かに彼女達が成し遂げたことがかなり凄いのは間違いない。それまで宮国に独占されていたシムーンを文字通り命がけで祖国にもたらし、戦場に出て戦争を終結に導き、嶺国最初のコールを立ち上げたのだ。彼女はそれの初代レギーナでもあるわけで……

 おかげで最初の一年は嶺国、礁国、それに宮国の隅々まで回って演説させられたり、リ・マージョンをやってみせる毎日で、もう何だか旅芸人にでもなった気分だ。

 それが落ち着いたと思ったら今度は、教会の新しい儀式について色々と知恵を出さねばならなくなった。

 シムーンがきたことで嶺国教会にも大変動が起こっていた。

 最大の問題は心臓への祈りの意味がなくなってしまったことだ。

 何しろシムーン・シビュラならどんな神託だって自由自在に出せるのだ。そのためこの儀式は発展的解消となって、代わりにシムーンを使った空への祈りの儀式に取って代わることになったのだ。

 だがそうなると今度はそれに関わる全ての相談がグレイス達にもちかけられるわけで……まあ、空に祈ることはみんな大好きだから、これに関してはそれほど苦にはならなかったのだが……

 それだけでなく、水渡りの儀式や冬の夜のお勤めも様変わりした。

 戦争の結果として良かったことは、元宮国の領域との交流が活発になったことだ。そのせいで山岳地帯にも食糧や物資が良く回るようになり、結果として冬の夜のお勤めをする頻度は以前に比べると大幅に減っていた。

 これは大変喜ばしいことだったが、今度は国境地帯の密輸業者の仕事が減ったせいで山賊に職業替えする者達が現れてみたりと、世の中一度に何もかもは上手くいかないらしい。

 一つ明らかなのは、グレイスの当初の人生設計は今ではもう完全に不可能だということだ。

「そういえばシヴュラがお渡りになられるのは来月でしたっけ?」

「ええ」

「やっぱりカテドラルで?」

「もちろんでしょ!」

 水渡りの儀式についても教会が、本人が望むのなら宮国の泉に行くのも自由だという立場を示したので、今では結構そちらに行く者もいるのだ。でもやはりグレイスはアニムスの巫女だ。ちゃんとカテドラルでするつもりだ。

「でもシヴュラはユン様にお会いになられたんですよね?」

「ええ。一度お会いしたけど?」

「どうでした?」

「どうでしたって、何が?」

 グレイスはちょっと意地悪く聞きかえす。

「ですから……」

 彼女達が教会に与えた波紋は儀式関連だけではなかった。

 戦後すぐ提出された“墜ちた雛鳥作戦”の報告書には、彼女達が遺跡で遭遇したオナシア様とのやりとりが含まれていたが、それが神学者達の大論争の口火となってしまったのだ。

 何しろあれだと宮国を追い出された神官が嶺国に来てアニムス教会を作った、といった話に聞こえるわけで、それはどちらの教会にとってもその根底を覆しかねない問題なのは明らかだ。

 だがもう一度詳しく話を聞こうにも、オナシア様はもういなかった。何でもあのあとすぐにお隠れになられて新しい方に代替わりされたという。

 オナシア様は大宮煌としてテンプス・パテューム教会の最高位の巫女であったが、普段は泉の番人として少女達の行く末を見守っておられたという。そこでオナシア様の後を継いで泉の番人になられたユン様にその話を聞きに行ったことがあったのだ。

 だが彼女はその件に関しては何も聞いていないと言った。そのため結局真相は闇の中なのだ。

 ちなみにこのユン様というのが、グレイスから見ても惚れ惚れするほど美しいお方で、メリザーナみたいに宮国の泉に行きたがる子が増えているのは間違いなくそのせいだ。

「で、シヴュラはやっぱり男性を選ばれるんですよね?」

 こいつ、ごまかしたな?

「ええ」

 その点については迷いはない。

 いや、もしあのグラギエフさんみたいな人が出てきて『私のために女になってくれませんか』とか言われたらちょっとは悩むかもしれないが……でもやっぱり断るだろう。何よりも先に渡ったアントレーネが待っていてくれるのだから……とても綺麗になって。

 彼女の同期でまだシヴュラとして残っているのはファールケだけだ。その彼女も来月一緒に儀式を受ける。その他の第一期の仲間はみんなもうそれぞれの性別を決めた後だ。

 アリエスは男になって神官の道を選ぶと言った。彼女には―――いや、彼にはやらねばならないことがあるのだと。詳しく尋ねることはしなかったが、グレイスには分かっていた。あの時彼女がまき散らしてしまった多くの憎しみ、それを残りの人生をかけて一つ一つ回収して行こうとしているのだ。グレイスは嬉しかった。もしあそこで戦争が終わらなければ彼女自身が同じ事をしていたはずなのだから。

 ヴォルケも男になってシムーンの研究者を目指すそうだ。そのため彼はグレイス達と一緒にいることが結構多い。まずは様々なお祈りからどのようなリ・マージョンができるのか、そこに法則性はあるのかといったテーマでデータを集めている最中だが……彼のノートは日に日に増え続ける愚にも付かないリ・マージョンで埋め尽くされて、最近はちょっと頭を抱えている。

 アントレーネは……彼女が水渡りに行く前夜、グレイスのために女になって待ってていい? と問われてつい、はいと答えてしまったのだ。どうしてだろう。彼女が側にいてくれるだけでグレイスには勇気が出て来るのだ。多分あの作戦の時からそうだった。彼女がパルだったからこそグレイスは行って戻って来られた。そして嶺国式リ・マージョンを発見できたのも彼女がパルだったから……そんな気がする。

 だが渡った後もやっぱり彼女の料理は下手だった。

《ま、ゆっくり手料理食べてる暇ってあんまりなさそうだし……》

 なんて思ったのがばれたら間違いなく怒られるが……

 グレイスは渡った後は、嶺国コールの“デュクス”という役職に就くことになっている。これはあのグラギエフさんの役職だったそうで、まあ要するにシムーン部隊の司令のようなものだ。

 実際嶺国にシムーンシヴュラ経験者はほとんど他にいないから、間違いなく彼女以外にはできない仕事だ。

 でも……

《頭痛いのよね……》

 戦争で変わったことは多いが、変わらない物もまた多い。

 一番変わらないのは、首脳とか軍人とかいった人種の頭の中身だ。

 特に“シムーン航空隊”について、嶺国軍と礁国軍と嶺国教会がそれぞれ管理権を主張してもうずっと紛糾状態のままなのだ。おかげで何を決めるにしてもその三者の合意がないと決まらないわけで、効率が悪いことおびただしい。

 最近嶺国と礁国の間が険悪になってきているのだが、その最大の要因の一つでもある。せっかく一緒に勝利を勝ち取ったというのに、どうして仲良くしていられないのだろうか?

 だがいくらそう言ったところで糠に釘だ。

 そんな中では勝利の女神と言えどもただの小娘だった。意見なんか聞いちゃもらえない。なのに会議とかがあれば顔だけは出しておかなければならないわけで……今日もそんな会議の帰りなのだが……

「もうすぐ夕方ですね」

「あ、そうね」

「あの……もしよろしければ……」

「いいわよ。時間になったらね。やっぱりパンケーキ?」

「はいっ!」

 メリザーナが元気に答える。

《じゃあ、久々にやりましょうか》

 なぜ彼女が嬉しそうかというと、朝と夕の二回、十五分間だけ、シムーンシヴュラは誰にも妨げられることなく、好きなお祈りを捧げて良いと決まっているからだ。

 これはグレイスが成し遂げられた、極めてささやかではあるが、でも一番誇れる業績だ。

 大方の予想の通り軍は、今後シムーン航空隊の訓練をする際はやはり宮国式を中心に行うべきだという決定を行ったのだ。必要なリ・マージョンを必要なときに発現できるというのは、実務上不可欠な要因なのだそうだ。中には嶺国式などもう不要だなどと言う者までいる始末で、そんな中グレイス達が全力の抵抗の結果取り付けることに成功したのが、この朝と夕べの祈りの時間だった。

《これだけはね……絶対……》

 後から聞いたことなのだが、宮国ではシヴュラは家系が決まっていて、その家系でない者はいくら能力があってもシヴュラになることはできなかったそうだ。あのシヴュラ・マミーナも実はそうだったらしく、彼女がひどい扱いを受けたのはそれもあったらしい。

 でも二人が心を合わせて祈る行為には家柄など関係ないはずだ。リ・マージョンが素晴らしいのは、その時もう一人も自分と同じ祈りを同じ気持ちで捧げていたと、そのことを確信できることだ。それを体験した二人はもうただのパートナーではなく“パル”としか言えない関係となる。

 その他の部分などもうどうでもよい。例え普段どれほど仲が悪かろうと、それこそ敵同士であったとしても、同じ祈りを共有していると知るだけでなぜかその人が信じられるようになるのだ。

 その素晴らしさはそれを体験しなかった者にはいくら言っても通じない。だが体験した者にとってはもはや自明なことで、再び語るまでもない。

 だから彼女達はこの時間が大好きだ。

 おかげでヴォルケとアリエスお得意だった朝の祈りのリ・マージョンは、使い手がほとんどいなくなってしまった。そんな素晴らしい時間を寝過ごすなんてあり得ないからだ。その代わりに今はお昼寝のリ・マージョンというのが流行っていたりするのだが……

「あの、シヴュラ、ちょっとお尋ねしていいですか?」

「なあに?」

「シヴュラはどうしてシビュラ・アウレアってお名乗りにならないんですか?」

 これもよく、特に宮国出身の人には聞かれる質問だ。

 確かに定義として“その時点での最高のシヴュラ”のことをシビュラ・アウレアと呼ぶらしいから、宮国のシヴュラがいなくなってしまった今、そう名乗れないこともない。実際そうするよう圧力がかかったりもしたのだ。

 でも彼女にそのつもりはなかった。だからそんなとき彼女はいつもこう答えるようにしている。

「冬の厳しいとき、一瞬だけ奇跡のように現れる青く晴れた日を思い出してみて。真っ白い太陽の光を浴びて光り輝く白銀の嶺々。あれこそが私たちの国の色でしょ。だから私は銀の巫女、シヴュラ・アルジェンタでありたいのよ」

 こういう格好よさげなセリフはヴォルケ―――いやヴォルフの入れ知恵だが……冬が好きなのは間違いない。辛く厳しい季節だけれど、だからこその喜びもある。ハヤブサコースを全力で降りてみたり、真っ白なゲレンデに最初のシュプールを描いてみたり……そして冬の後には必ず春がやってくるのだ。

 だが本当の理由は別にあった。それは誰かの肩書きを継承するのであれば、あの方の名を継ぎたかったからに他ならない。いや、彼女にそんな肩書きがなかったことは知っている。彼女は今は無名のシヴュラとして故郷の村で静かに眠りについている。でもグレイス達の中では彼女―――シヴュラ・マミーナこそが永遠の銀の巫女なのだ。

 そしてもう一つ、最後の理由は……

《だってまだ彼女達はそこにいるんだし……》

 もちろんそんなことを表立って言うわけにはいかないのだが……あの時翠玉のリ・マージョンを見た巫女達の思いは何故か皆同じだった。

 シヴュラ・アーエル。

 シビュラ・アウレア・ネヴィリル。

 二人の姿は見えなくとも、いつでもどこでも、シムーン・シビュラの側にいてくれるのだと。

 理由なんてない。ただそんな風に思えるだけで……

 神様はお忙しい。でもそれが本当に大切なお祈りの時は、叶えて下さることもあるのだ。

 ならば彼女達の祈りも叶ったのではないか?

《もしそうだったなら……》

 グレイスはくすっと微笑んだ。

 前方に湖に沈んだ白カタツムリが見えてきた。

 もうすぐだ。


銀嶺の巫女 完