考察 ~無名巫女達の肖像~ 5. 彼女達は何故無名だったのか?

5. 彼女達は何故無名だったのか?


さて、ここまで見てもらえば分かると思いますが、嶺国の巫女達は無名の端役だったはずなのに、その背後には何だか半端ではないドラマが隠されていることが垣間見えてきます。正直これだけの活躍があって名前がないと言うことの方が不思議です。実際普通なら絶対に本編でももっと描写されていてもいいのに、こういった扱いになっている背景には、シムーンという作品の主題がどこにあるのかが鍵になってきます。

もちろん本当の所は制作者以外には分からないので、以下はこちらの想像ですが……


◆本編の特殊な構成

まずシムーンというアニメですが、多くの人の感想として「大変人に勧めにくい」というのがあります。誰がどう見たって明らかなのはこれが百合物というジャンルに入ることで、百合は好かん! という人はまずいきなりギブアップでしょう。


しかし勧めにくい理由はそれだけではありません。

まず第1話を見てみると(シムーン初見ガイド参照)これはどう見ても戦争物です。

いきなり悪の帝国が出てきてものすごい大部隊の敵が攻め込んできます。片や防衛側の美しい国、宮国を守るシムーンとい不思議な戦闘機部隊が登場して、何だか凄い技を使います。それでも多勢に無勢、ピンチになったところでリーダーが最終奥義らしい翠玉のリ・マージョンを使おうとして、結局失敗。でも何とか敵は撃退ましたが味方の被害も甚大で、カリスマ的リーダーを失って弱体化したメイン部隊に新兵が配属されてきます。彼女は「あんた達は祈ってればいい。私はここに戦うために来た」とか嘯きます。誰がどう見たって立派な戦争アニメの第1話です。


しかし本編をそういった視点で見て行くと間違いなく評価は低くなります。正直戦争物としてみたらその後が破綻していると言うしかありません。

この第1話から普通に今後の展開を想像したら、がたがたになった元エリート部隊が再度結束して、敵国との戦いでもう一度大活躍をし国を勝利へと導く鍵となる、といった流れでしょう。当然途中からは敵の秘密兵器なり四天王なりが登場して、それとの最終決戦に向かって盛り上がっていくというのがいわゆる王道展開というものです。


ところが本編を見ていくと、ネヴィリルがやっと引きこもりから脱出したのが第8話の終わり、しかしその時にはアーエルとマミーナの喧嘩騒ぎで、結局左遷。「命令ってさ」「まるで軍隊みたい」とか、うっかり押し倒しちゃったことを悩んで決定的なタイミングを逃すとか……グダグダしまくりで、やっと全員一致で戦おうと決意したのが第22話。

ここで本格的反攻だ! と思った瞬間、宮国は和平条約に調印―――実質的な降伏で戦争が終わってしまいます。

要するに王道的な展開予想ではここから最終決戦だ! という所ですっぱり終わっているのです。しかも、結局コール・テンペストは戦争の結果にはほとんど影響を与えておらず……その意味では一体何のために出て来たのかも不明です。


しかし、シムーンにハマった人から見れば、実はもうそんなことはどうでもいいことでした。

結論から言えばシムーンという作品はコール・テンペストという場所での少女達の日常を描いた―――しかも彼女達は最初は全て少女の姿をしており、17歳になると泉で自分の性別を決められるという、人間ではない異種族の少女達の成長と選択を描いた物語なのです。その主題から言えば実は第二話「青い泉」が真の出発点で、そこで泉から上がって来たエリーが泣いてしまいましたが、果たしてコール・テンペストの他の少女達は泣かずに泉から上がってこられるのか? という物語だったわけです。

そしてその主題の描き方が素晴らしすぎたおかげで、見ていた人はシヴュラ達の行く末の方が心配で、戦争が中途半端に終わったところで全然気にもならなかったわけです。

そういう意味で1話での本格的な戦争描写が一種のフェイクになっていて、この作品を薦めにくい大きな原因になっていると思います。


◆本編中の嶺国巫女の立場

さてここで嶺国の巫女達についてですが、彼女達はこの物語の中の位置づけとしては要するに敵国の秘密兵器の乗組員であり、場合に寄ったらラスボスもあり得る、言わば主人公達の宿命のライバルというポジションです。すなわち彼女達は戦争物において―――もっと一般的にスポ根も含めた戦闘物語を作る際に、話を面白くするために一番重要な要素になります。

ところがこの作品の場合は、実はその点があまり重要ではありません。彼女達は唯一、マミーナとの絡みにおいて重要な役割を果たしていますが、それ以外の主題―――すなわち各シヴュラ達の選択に関しては基本的に関係してきません。だから彼女達が無名キャラでも悪くはないのですが……


しかしシムーンという作品の主題がいくら戦争アニメではないと言っても、その作品が戦争アニメのフォーマットに沿っているのも事実です。そもそも戦争の描写もその辺の本物の戦争アニメより遙かにリアルだったりします。第1話で消し飛ばされた少年兵や第4話の死にかけた礁国兵など、戦う相手が自分たちと同じ生きた人間であり、彼らはその命を奪い合っているということは何度も明確に描写されます。それ故にコール・テンペストの少女達の物語がより感動的になっているのですが、同時に矛盾にもなっています。それで一番しわ寄せを食ったのが多分嶺国の巫女達なのでしょう。


何故かというと、ここでもし嶺国巫女達を主役達と同レベルで描写してしまったら、どういうことになったでしょうか?

まず彼女達は最初は圧倒的弱者として、シムーンによって一方的に消される側として描かれなければなりません。一見したところ礁国はものすごく凶悪に見えますが、結局の所、遙か少数のシムーンに追い返されて国境を突破できていないというのは、少なくとも序盤の力関係は実は宮国の方が遙かに上です。Wikiの考察にシムーンで戦略爆撃したら終わりじゃないかという意見がありますが、私もそう思います。

また嶺国巫女達が礁国兵士などと混じって戦闘や射撃、爆弾の扱いなどの訓練をしている日常も描かれなければならなくなります。もちろん遺跡に古代シムーンを奪取にいった作戦は文字通り命がけだったでしょう。


そんな彼女達の毎日とコール・テンペストのそれを並列してしまったらどういう事になるでしょうか。生きるか死ぬか、戦争・国家・宗教といった問題の前には、本人達がどれほど真摯に悩んでいようと、どうしたって“日常の些細な問題”は霞んでしまいます。そしてもし、コール・テンペストの巫女達が「この非常時に緊張感の足りないふらふらしている小娘共だ」などと思われてしまったら本末転倒も甚だしいことになります。


◆彼女達は意図的に無名にされた?

それ故に制作者の方々は、このようなシムーンの主題を際だたせるために嶺国の巫女達を表に出せなかったのではないかと思います。戦争の決着がああなってしまったのも、そこで決戦を行えば当然相手は古代シムーンに乗った嶺国巫女に他ならず、そうなったら勝つにしろ負けるにしろ、彼女達をもっと描写せざるを得なくなってしまいますが、それは決定的な場面で両者が比較されてしまうことを意味します。

でも敵方にシムーンを出すという決定をした時点で、そこには設定上必ずシヴュラ、すなわち少女巫女達が必要になります。そこで結局、彼女達に名前を付けないことでその存在を曖昧にしたのではないか、筆者はそう思います。


そんなわけで制作者が実はそういう意図で隠していた物だとしたら、それをほじくり返してこういう作品を書くことはどうかとも思ったわけなんですが、できちゃった物は仕方ありません。どこからか「私達はここにいます」という声が聞こえてきてしまったってことで、一つよろしくお願いします。