第1章 彼女、キターッ!
それからしばらくして―――時は五月末、新緑の季節。
風さわやかな快晴の、アウトドアで青春の汗を流すにはもってこいのお天気だ。
だがそんな空の下、町はずれの小さな八幡宮の境内に人目をはばかるようにこそこそ歩く二つの人影があった。
ともに学校帰りらしく学ランにスクールバッグを担いでいる。
そのうちの一人は高祖英二で、もう一人は彼の旧友の井原圭輔といった。
「ここにそんないい場所なんてあったっけ?」
きょろきょろしながら英二がつぶやくと、圭輔が指さした。
「あの先だよ」
この神社の主殿に祀られているのは八幡様だが、その相殿には無銘のわりには結構大きくて小綺麗なお社がある。
圭輔がその先を曲がると、お社の礎石がちょうど腰掛けるのにいい案配になっていた。
「おーっ!」
「な? いいだろ? ここ」
「わかった。んじゃ、はやく出せよ」
「急ぐなって」
圭輔がスクールバックからおもむろに取り出したのは、一冊のエロ雑誌だ。新品らしくまだビニールの帯が巻かれている。
少年たちにとって、それの入手方法と観賞場所の確保は常に大問題だ。
危険を冒してブツを入手したとしても、じっくり見られなければ意味がない。
だが自宅や学校というのは、いつ誰に乱入されてもおかしくない危険をはらんでいる。
そこでこの神社である。
この小さな八幡宮は彼らの通う東磨東高校への途上にあたり、神主はいるものの普段はほぼ無人なのだ。
そして相殿の陰のこの素晴らしいポイント。
そう。ここは人目をはばからずに“ブツ”を眺めるには最適な場所だった。
「それじゃ約束だぞ」
そう言って英二は圭輔の手からエロ本を抜きとった。
「おい。大切に扱えよ?」
「分かってるって」
英二は大きく深呼吸してビニールの帯をはずすと、まずその表紙をじっくり観察した。
広いベッドの上、大きく足を広げた下着姿のお姉さんがこちらを向いて笑っている。
胸は露出していて形のよいおっぱいが英二を挑発する。
《ふふふっ!》
英二がページをめくると、カラーグラビアだ。
そこには表紙のお姉さんが黒いレースの下着姿で、ベッドの上で上体を起こしながらこちらに笑みを向けていた。
思わず体の一部が固くなり、口元が緩んでくる。
英二がその姿をじっくりと目に焼きつけていると、肩口からのぞき込んでいた圭輔がつまらなそうにうながした。
「おい、はやく次のページいけよ」
「いや、だからコロッケパン奢ってやったんだろうが」
「そりゃそーだけどさあ、でもそのモデル、胸ちっせーし」
「このぐらいがいいんじゃないか。だらっと垂れたのなんか気持ち悪いだけだろ」
「ああ? あの柔っこそうなのがいいんだろうが」
―――男が二人で一冊の本を鑑賞しようとすると、かような争いが不可避である。
だから英二は今日の昼、コロッケパン一個でページをめくる権利を買っていたのだ。
だとすれば約束は果たしてもらわねばならない。
英二はぶつくさ言う圭輔を無視して、そのモデルの姿を堪能しつづけた。
「いいから表を見ててくれよ」
「ったく、便利だよなー。おまえは」
しかたなさそうに圭輔は祠の床下越しに表を見張りはじめる。
だがページをめくる音がするたびにやっぱり覗きこんできては、ああだこうだとモデルの体型に文句をつけはじめる。
《ったく、変わってねーな。こいつは……》
井原圭輔は英二の小学校時代からの悪友だ。当時からこいつは体育だけは得意というやつで、頭の中身は相当残念だったのだが、英二や“みっちゃん”と一緒にいろいろ悪さを働いては怒られていた仲間である。
その中でみっちゃん―――瑞希はあのように変わり果ててしまっていたのだが、こいつがアホだということは三年程度ではどうにもならなかったようだ。
―――そんな調子で英二が裸のおねえさんの姿を数ページほど鑑賞したときだ。
「……いらしていてよかったわ。あんな近道、存じませんでしたから」
「ここ、うちの地元ですから」
表から女子が会話する声が聞こえてきたのだ。
二人は顔を見合わせる。
それから圭輔がこっそり表を覗くと、驚いたようすでつぶやいた。
「ありゃ、姫と霊感少女じゃないか?」
英二は目を丸くした。
「姫⁈」
圭輔を押しのけて英二が表を覗くと―――確かにセーラー服姿の女子が二人歩いてくるのが見えた。
‼
前を行く少女はすらりと背が高く、きりりとした美しい顔立ちで、軽くウェーブのかかったセミロングの髪をヘアピンで留めている。
背筋をぴんと伸ばして流れるように歩くその姿を英二は何度となく見ていた。
《みっちゃん……?》
もちろんそれはこの春、英二の心を木端微塵にうち砕いた叶瑞希だった。
彼女も英二と同じ東磨東高校に通っていた。
中学時代は恵華女学園という私立の女子校に通っていたため、今では見事にお嬢様然とした立居振舞を身につけている。それに加えてその生来の圧倒的な存在感。
それゆえに彼女は入学早々、誰からともなく“姫”と呼ばれていた。
そんな彼女がどうして共学の公立高校に来たかというと、恵華女子の高等部には薙刀部がなかったかららしい。実際、小学校の頃から近くの薙刀道場に通っていて、その頃からずいぶん強かったのだ。
そしてその叶瑞希の少し後ろからついてくる美少女。
端整な顔立ちに、背中のあたりで切りそろえられた黒髪がそよ風になびいている。
背は平均よりやや低めだが、でも胸のあたりは平均以上にしっかりと盛り上がっているのがここからでもよく分かる。
《……と、立花さん?》
井原圭輔に“霊感少女”と呼ばれた少女の本名は立花ちよこという。
英二たちと同じく東磨東高校の一年生だ。
彼女の家はこの八幡宮の神主なのだが、霊感少女と呼ばれている理由はそれだけではなかった―――本当に霊能力があるとのもっぱらの噂なのだ。
もちろんそれが真実かどうかは分からない。だが彼女が常にその名にふさわしく、超然と近寄りがたい雰囲気をたたえていているのも事実だ。
―――実は英二は先日この二人をじっくりと目にする機会に恵まれていた。
市の中央にある東磨神社では春と秋の大祭に“東磨神楽”と呼ばれているお神楽を奉納する。
何百年以上も前からこの地で行われている伝統行事なのだが、そのクライマックスの“姫神楽”という美しい舞を、代々叶本家の女性が舞うしきたりになっていた。
そしてその大役を今年から瑞希が担うことになっていたのだ。再会したとき彼女が練習していたのがまさにそれだった。
ちよことは一緒にお神楽の準備を手伝っていた。何しろ東磨唯一の大イベントなので付近の神職や叶家の一族郎党はみんな裏方に駆りだされるのだ。
おかげで慣れない力仕事でヘロヘロになりながらも、舞台袖の特等席から瑞希の舞う姿を眺めることができた。そのとき、ちよこもたまたま近くにいたのだが、彼女までが目を輝かせながらそれに見入っていたのが印象的だった。
そんな姿にますます自分のミジンコっぷりを再確認させられてしまったのだが……
―――なんてことはともかくっ!
「おい。誰も来ないんじゃなかったのかよ?」
「いや、初めてだって。ここでこんな知り合いに会うなんて」
どうやらえらく間の悪いタイミングに来てしまったらしい。
「何しに来たんだ?」
英二たちがこっそり見守っていると、まず二人は柏手を打って八幡様にお参りした。
理由が何だろうと祈願をするだけなら問題はない。
《でもここって女の子の来るようなとこだったっけ?》
八幡様とは主に武運長久をお願いする神さまで、縁結びとかならそれこそ中央の東磨神社の方がいいように思うのだが……
少年たちは彼女たちがそのまま帰ってくれるようにと祈りつづけた。
だがその祈りは空しく、少女たちはお参りが終わるとあたりをきょろきょろ見回して……
「どちらかしら」
「裏手の方でしょうか?」
などと話しながらこちらに向かって歩いてくる。
「おい。来るぞ。どうしよう」
「どうしようって……」
少なくともここで何をしていたのか知られるわけにはいかない。
こういう場合は―――もちろん戦略的撤退である。
二人は軽くうなずきあうと、足音を忍ばせながらその場を離れた。
誰かを探しているようだがさすがにこんな場所にまでは来ないだろうし―――そんなことを考えながら、英二がお社の後ろの角を曲がった瞬間だ。
「あっ!」
英二がいきなり立ち止まったので後続の圭輔が背中にぶつかる。
「うわ、な」
圭輔が文句をつけようとして―――彼も英二の見たものに気づいて言葉を失う。
そこでは―――ブレザーの制服を着てメガネをかけた女子高生が、驚きの眼差しで二人を見つめていたのだ。
《これって恵華の制服?》
と、思ったのも束の間、少女はいきなり……
「その……ドモー」
と、お辞儀をすると境内の奥に駆け去って行った。
《なんだったんだ?》
そう思った瞬間だ。
彼女が姿を消した方向から、ずでっという音とともに……
「きゃん」
という悲鳴が聞こえてきたのだ!
「あっちって、お化け井戸じゃね?」
圭輔がつぶやく。
この神社にはそう呼ばれている古井戸があって、夏の肝試しスポットとしてもよく知られていた。英二も小学校のころ、一度やった記憶があるが―――それはともかく……
「まさか……落ちたとか?」
二人は顔を見合わせると、あわてて彼女の後を追った。
お社の裏から鎮守の森についた小道をたどると、すぐ四本柱に屋根のかかった古井戸が見えた。井戸には木の蓋がしてあって、周囲はしめ縄で囲われている。
「あっ!」
その手前に先ほどの少女が倒れているのだ。
いったい何が? と思ってよく見たら―――どうやら地面が湿って苔むしていたせいで、滑って転んだらしい。
「だいじょうぶ?」
圭輔が彼女に手を差しのべるが……
「いやぁっ!」
少女は少々気が動転しているようだ。それに続いて……
「宮地さん?」
そんな声とともに、その場に叶瑞希と立花ちよこが現れたのだった。
「あ、叶さん!」
二人の姿に、倒れていた少女が安堵の声をあげる。
どうやら瑞希とその少女は知り合いらしかった。
「あなたたち……何してるんですか?」
場に冷たい声が響きわたる。立花ちよこの声だ。
見ると―――彼女が英二と圭輔をぎろりとにらみ上げているのだが……
《いったいなぜ?》
そう思って英二ははたと気がついた。
《ってかこの状況って……》
地面に倒れている少女に覆いかぶさろうとしている学ラン二人組―――まるで彼らが襲いかかっていたと、そんなようにも取れる状況ではないか⁈
「まさか……」
瑞希が手を口に当ててじとっと二人を見つめる。
「いや、ちがうんだって」「違いますっ!」
英二と圭輔が同時に叫ぶが、少女たちは相変わらず汚物でも見るような眼差しだ。
それから瑞希が倒れた少女のそばにしゃがみこんで尋ねた。
「いったいどうしたの?」
「ちょっと転んじゃって」
「この人たちに襲われていたのでは……」
「いやそれは……」
誤解だと主張したかったが、ぎろっと瑞希ににらまれるとそれ以上の言葉が出てこない。
そんな英二たちを見て少女があわてて弁解した。
「違うんです。私が自分で転んだだけで……その方たちには関係ありませんから」
「え? そうなの?」
瑞希が再びふり返って英二たちをにらむ。
英二と圭輔はこくこくうなずいた。
それを見た瑞希とちよこの表情が穏やかになった。どうやら疑惑は晴れたらしい。
英二たちはほっと胸をなでおろした。
「それで宮地さん、動けます?」
瑞希の言葉に少女は立ち上がろうとしてうっと顔をしかめる。
「どこか痛みます?」
「だいじょうぶです。ちょっと打っただけみたいですから」
「あ、汚れが……」
彼女のスカートには転んだ拍子に泥や枯れ葉がくっついていた。それに気づいた瑞希がハンカチを取り出すと汚れを落としはじめる。
とんでもない誤解を受ける危機は去ったが―――そこでやっと英二は状況をゆっくり観察する余裕ができた。
へたり込んでいるメガネの少女―――宮地さんというらしいが、恵華女学園の制服で瑞希と知り合いということは、中学時代の友達だろうか。わりと地味な風貌だが……
《あー、あの靴じゃ滑るよなあ……》
底がつるつるの革靴を見て英二は納得する。
それから少し先に赤いスポーツバッグが転がっているのが目にとまる。
転んだときにすっ飛んだらしく、それにも湿った土がついて黒く汚れている。
英二は何の気なしにそのバッグを持ち上げた。
「あ、それ……」
宮地さんがちょっと焦った表情になる。
そこで英二はバッグを彼女に返そうと差しだしたのだが、まだ彼女は座りこんだままで瑞希が服の汚れを落としている最中だ。
《うわ……結構重いな。これ……》
どうやら宮地さんは真面目だと見えて、バッグの中身はみっちり詰まっていた。その重量がずしりと英二の腕に響く。
そのままずっと差しだし続けているのも辛いので、英二はバッグの一時的な置き場所を探した。このあたりの地面は湿っているから置いたらまた汚れてしまいそうだし……
「それじゃこれ、ここに置いとくね」
そこで英二はすぐそばの乾いた井戸蓋の上にバッグを置いたのだが……
メリッ……ボコン!
「あ、そこは!」
と、立花ちよこが叫んだときにはすでに遅かった。
「え?」
ふり返るとそこに置いたはずのバッグの姿はなく、代わりに井戸蓋が真っ二つに割れて大きな穴が開いていた。
「そこ、腐ってたのに……」
「え? えええ?」
井戸蓋は一見頑丈に見えたが、実は年月を経てぼろぼろになっていた。そこに重いものを乗せたせいで蓋は壊れて、バッグは井戸の中へと落下してしまったのだ。
………………
…………
……
「う、うわあああ。ごめん!」
「いやあああ!」
「な、なんてことするんですか?」
「いや、わざとじゃないんだって」
「ふざけるな。そんな言い訳が通ると思うか? 英二ぃぃ! さあ、死んでわびろ!」
なぜお前がそこまで言うか? 圭輔ぇぇ!
―――というのはともかく、瑞希とちよこの冷たい視線がざくざくと英二を貫いていく。
宮地さんの目からは大粒の涙がこぼれ始めている。
「わかった! 取ってくるから。ほら、いまの音。ザブンってしなかったから、濡れてないと思うし」
そんなことを口走りながら、英二は壊れた井戸蓋を外して中をのぞきこんだ。
確かに涸れ井戸のようで、下の方にかすかに宮地さんのバッグが見える。深さもそれほど大したことはなさそうだし、内側は石が凸凹しているから手がかりもありそうだ。これなら何とか降りられそうだ。
そう思って英二は井戸の縁を乗り越えようとしたのだが……
「だめよ!」
袖をつかんで引き止めたのが立花ちよこだった。
「でも僕が落としたんだし、取ってこなきゃ……」
「だめ。ガスが溜まってるかもしれないから」
「…………」
まことに説得力があった。
「えっと、じゃあどうすれば……」
「社務所にいけば何かあると思うから見てくる」
そう答えて彼女は走り去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、英二がほっと一息ついたときだ。
「それで英二君たちはどうしてこちらに?」
にこにこしながら尋ねてきたのは瑞希だ。
一難去ってまた一難だ。
「えっと、な、ほら。圭輔」
「そうだな。英二。あれだよ。あれ」
「あれって?」
「だからさ。神社ってほら、歴史の勉強になるだろ? そうだよな。英二」
「ああ。だよな。あははは」
瑞希の目が細くなった。これは全然信じてない顔だ。実際、説得力がないのは確かだし。こうなったら―――攻撃は最大の防御ということでっ!
「それじゃみっちゃん……叶さんはどうしてここへ?」
だが彼女はそう尋ね返した英二をじろっと見つめると……
「それは彼女と待ち合わせしていたからなんですけど? ここって東校と恵華のちょうど中間ですから。だからここで待ち合わせて一緒に駅前に行く約束をしてましたのよ」
そうすらすらと説明した。
「あ、そうなんだ。でもそれじゃどうしてあんなところに?」
こんどは英二が宮地さんに尋ねると、彼女はちょっと目をそらしながら答えた。
「それは……その、ちょっと早く着きすぎてしまって、それでお宮の中に入ってみたんですけど、そうしたら知らない人が来たから……それで思わず隠れてしまったんですけど、そうしたらどんどんこちらの方に来られるのでつい……」
彼女があんなところにいたのはそういうわけだったのか―――というのはともかく……
「それで?」
「で、隠れていたら、お二人がお社の横でなにかをお始めになったので、それ以上そこから動けなくなって……」
瑞希の問いに宮地さんが答えているが……
「お始めになったって、何を?」
「それがコロッケパンがとか、モデルの胸がとか……」
こ・れ・は・ま・ず・いーっ!
「うわあ。えっへんっ! あの、だから僕が圭輔に美術の宿題を手伝ってやるって話してて。石膏デッサンのモデルってあるじゃない」
「ああ。そうそう。だからコロッケパン奢ってもらったわけ。モデルの胸の描き方が難しくってさー。あはは」
圭輔もとっさに調子を合わせてくれたのはいいのだが……
「えっと……英二君に絵を教わるので、コロッケパンを奢っていただいた、と……?」
「ああ、そうなんですよ」
ちょっと待てや。圭輔! そりゃ逆だろうが。何で教える方が奢ってるんだよ!
「あの、圭輔君が教えて頂くんですよね?」
「ええ。そりゃもちろん。こいつの絵がすごく上手なのは知ってるでしょ~?」
バカ! 気づけよ!
瑞希はにこ~~~っと笑うと英二に言った。
「英二君ってと・っ・て・も親切なんですね」
「いや、ほら。あはは」
何か余計に墓穴を掘ったようなっ!
このままではまずい。なんだかとってもまずい。何がまずいかよく分からないがとにかくまずい! と冷や汗が垂れはじめたときだ。
ぱたぱたという足音と共に立花ちよこが戻ってきた。
「これでどうかしら」
彼女が手にしているのは長い高枝切りバサミと救急箱だ。ハサミは先がカギ状になっていて、枝にひっかけてロープを引っ張って切るタイプだ。
「あ、だいじょうぶだよ。きっと」
渡りに船と英二は高枝切りバサミをひったくるように受け取ると、お化け井戸に突っ込んでカバンを探りはじめた。
「だいじょうぶか? 手伝おうか?」
手の空いてしまった圭輔が尋ねてくるが、
「いや、一人でだいじょうぶ……あ、引っかかった。上げるぞ」
英二はバックを引き上げると付いていた土をぽんぽんと払って宮地さんに差し出す。
「ごめんね。本当に」
「いえ、もうだいじょうぶですから」
宮地さんは本当に安心したといったようすで、受け取ったバッグを胸に抱きしめた。
「ケガは、だいじょうぶだった?」
「ええ」
英二の作業中にちよこ達は彼女の足の手当てをしていた。
どうやら軽い打撲だけで、足をくじいたりはしていないらしい。
ともかくこれで事件は一件落着―――と思ったときだ。
「あの、瑞希さん。それから宮地さん。いまから少しお時間とかありますか?」
「え?」
「それ、あんなところに落とされちゃって、お祓いした方がいいと思うんです」
ちよこは宮地さんが手にしている赤いスポーツバッグを指さした。
「えっ?」
瑞希と宮地さんは顔を見合わせた。
「お祓いって、どうしてですか?」
「そこの井戸、本当にいろいろ悪い物が封じてあって、そのバッグ、穢れちゃってるかもしれないから」
二人は再び目を丸くして見つめあう。それから瑞希はにっこり笑うと手をふった。
「いえ、ほら。あんまり時間もございませんので。お申し出は嬉しいんですけど」
「でも……」
「それに私、あまりそういうことは気に致しませんので。ですよね~?」
「え? ええ。私も」
瑞希に振られて宮地さんもこくこくとうなずく。
「…………」
立花ちよこはまだ納得いかないようすだったがそれ以上強くも言い出せず、結局は押し切られてしまった。
確かに今どき、お祓いだの穢れるだのと言われてもぴんとこないのは確かだ。
ただ東磨神社の宮司の娘がそれでいいのかとはちょっと感じたのだが……
「それじゃ今日はありがとう」
瑞希と宮地さんはちよこに頭を下げると、そのまま並んですたすたと行ってしまった。
二人が消えたあとをちよこはしばらくじっと見つめていたが、やがてふっと英二たちの方をふり返る。
そして冷ややかな目で二人を見つめると、冷たい口調で告げた。
「ここはご神所ですから、あまりおかしなことは控えていただけますか?」
英二は背筋がぞくりとする。
「え? おかしなことって……」
それに答える代わりにちよこは圭輔が手にしていたスクールバッグを一瞥する。
見ると―――バッグの口が開いていて、その間からは先ほどのエロ雑誌の一部がはっきりと見えているではないか。
《あははははははは! このバカ、ちゃんと口閉じてろよ!》
圭輔もそれに気がついて真っ赤になった。
もちろんこうなってしまった以上……
「いや、わかりましたー。それじゃ今日はいろいろありがとー! 立花さーん!」
「あは。それじゃー!」
逃走するしかない!
ふり返るとちよこがじっと彼らをにらみつけている。
二人は何度もふり返ってはちよこにお辞儀しつつ、彼女が見えなくなるとそのあとは全速力で神社を後にした。
自転車を停めてあった空き地に着いたときには、二人とも完全に息が切れていた。
「ふえー。ぜいぜい。びっくりした」
驚いたのは英二も同様だ。まったく―――ほんのささやかな楽しみに耽ろうとしていただけなのに、これは一体なんの騒ぎなのだ? やっぱり神社であんなものを見ていたせいでバチがあたったということなのか?
だが圭輔はこんな目にあってもまったく堪えていないようだった。
「でもさあ、立花って結構いいよなあ」
目が何だかとろんとしている。
「は? いいって?」
「あいつ、けっこう胸あるじゃない」
そういうところしか見てないのか? こいつは。
大きかったのは確かだが―――瑞希くらいのサイズの方がいいに決まっている。
「それにあのまなざし……あんな冷ややかに見下されたら、こう、ぐっとこないか?」
「はあぁ?」
どっちかというと、マジぞっとしたんですけど。
三年という年月はこいつのバカを直すには短かすぎたが、おかしな属性を身につけさせるには十分だったようだ。
英二たちが立ち去ると、立花ちよこは一人境内に取り残された。
「まったく……バカじゃないの?」
父がこの神社の神主なので、ここは彼女の幼少時からのホームグラウンドだった。
だから境内で大きなお兄さんやお姉さんがこそこそしている姿は何度も目撃していた。それに比べればエロ本ごときであれだけ慌てるとか……
「ま、いいけど……それより……」
バカどもよりも、あのカバンの持ち主の方がよほど心配だった。
「本当になにも憑いてなければいいんだけど……」
やっぱりもう少し無理を言ってでもひき止めた方がよかっただろうか?
「そうしたら……もっと瑞希さんとお話しできたかもしれないし……」
そうつぶやいてからはっと顔を上げると、
「ダメよね。あたしって……」
ちよこは首をふりつつ、大きくため息をついた。
そのときだ。ちりりんと鈴の音が聞こえた。
音の方を見ると藪の間から赤い首輪をした黒猫が姿を現す。
「あら、雷ちゃん」
猫はひょいとちよこの腕の中にとびこんでくる。
「どうしたの? え? 減ってるって、それほんと?」
端から見たら彼女が腕に抱いた猫と会話しているかのようだ。
「まだそんなに時間はたってないから……でももしそうなら……それじゃ……」
夕日を浴びて、なぜかちよこの瞳がきらりと妖しく輝いた。
その夜、英二は自室のベッドに寝転がってぼうっと天井を眺めていた。
《ったく……なんだったんだよ。今日は……》
本当についていない一日だった。
圭輔と別れてからジュースを買おうとしたらボロ自販機に百円取られてしまうし、対向車をよけたら道の端が数日前の雨でまだぬかるんでいて、下ろしたてのスニーカーが泥まみれになるし……
《本気でバチでも当たったのか?》
八幡宮の境内では少しばかり不埒な行いをしていたのは事実だ。
《でもいくらなんでも神様、それってちょっと厳しすぎるんじゃないんですかーっ?》
あの騒ぎで結局、目的の雑誌はわずか数ページしか鑑賞できていないのだ。
英二はそのために圭輔にコロッケパン一個という、今の彼の経済状況にとっては大枚といえる投資を行っていたというのにだ。
「はあ……」
思わずため息がもれてしまう。だが……
《ま、いいさ!》
英二はとりあえず前向きに物事を考えることにした。
投資がまったく無駄になったのではない。最低限の成果はあげているのだから。
鑑賞できたモデルは体のラインといい胸の形といい、まさに英二好みの容姿だった。
あたりを見回す。準備良し。必要な物はそろっている。
耳を澄ますと―――オーケー。両親もそろそろ寝静まっている。
「んじゃま、いきましょか……ふふふっ!」
そうつぶやくと英二は目を閉じて、昼間に見た雑誌の表紙をじっと思い起こした。
すると、まぶたの裏にあのグラビアの写真がありありと浮かび上がってくる。
―――そう。英二には一つ、ちょっとした特技があった。
それは“映像記憶”とか“直観像記憶”と呼ばれるもので、見たものをそのままリアルな画像として記憶して、頭の中で再現する能力だ。
英二の絵が上手だったのはこのためだった。
さらに映像の再現はまぶたの裏だけでなく、目を開いていても可能だ。だからそれを画用紙上に投影してトレースすれば、自動的にすごくリアルな絵が描けるのだ。
他人から見ればまさに驚異の力である。
だが英二にはあまり大したことには思えなかった。
見たものをそのまま描けるというのは写真と何が違うのだろうか? その目的のためならばカメラの方がずっと簡単で確実、そして高速に実現できるわけだし……
中学時代に英二は美術部に在籍していたが、そこで仲間の部員の絵を見て自分との違いに愕然とした。なんと彼らは架空の対象物が描けたりするのだ!
英二の絵を見たらみんな上手だねと褒めてはくれるのだが―――真の賞賛を受けるのはそういったオリジナルの絵を描ける者たちだった。
正直、英二自身でさえそう思うし……
だからこちらに戻ってきてからは、もう美術部には入っていない。
かといって他になにかやりたいことがあるわけでもない。
《僕って……いったい何なんだろう……》
などと考えていたらまた落ち込んでしまう。
今はそんなことより……
英二は記憶の映像に意識を集中した。
表紙のモデルのお姉さんはベッドの上で大きく足を広げて、レースのついたピンクのショーツを履いているだけだ。形よい胸の上につんと乳首が立っていて―――そう。この点だけは英二もこの能力にちょっと感謝していた。
少年たちの間に普及している、とあるソロプレイ用の遊戯があるのだが、そのゲームに使用される一種の“アイテム”が存在する。
だがそれは仲間以外に見られてはならないという厳然たるルールがあった。もしそれが“敵”に発見されてしまったら、そのアイテムは否応なくロストしてしまうのだ。
それを避けるためにはそのアイテムの管理方法を工夫する必要がある。
だがそれはなかなか難しい課題だった。
なにしろ、絶対に発見されない場所に隠してしまったら、自分で利用することもできなくなってしまう。かといって利用しやすい場所では敵に発見される公算も高くなる。
安全性と利便性―――これが決して同時には達成できない概念であるということを、少年たちは体で覚えていくことになるのだ。
しかし―――英二の場合にはそれは当てはまらなかった。
なぜなら彼はそれを“頭の中”という究極の隠し場所にしまっておけたのだから!
そのゲームにおいて英二は絶対勝者だった。
のだが……
「…………」
英二は目を開くと再び天井を見つめた。なんだか今ひとつ調子がでない。
雑誌のモデルに集中しようとしても、なぜか別な映像が眼前をちらついてしまうのだ。
《みっちゃん……》
あの場に登場した叶瑞希……
その印象が強すぎて集中できない。
英二は再度目を閉じて何とかならないか努力してみたのだが、やっぱり埒があかない。
しかたないから諦めてしまおうかと思った瞬間だ。
《もしかして……そういうことってできるよな?》
心に悪魔がささやいた。
《いや、やっぱ失礼だよな……でも……》
胸の底からわきあがる欲望にはあらがえない。
そこで英二はモデルの映像をまぶたの裏に投影し―――その顔のところに瑞希の顔をはめこんでみたのだ。
英二は物心ついた頃からそんな記憶映像の操作には親しんできた。
二つの映像を思いだして、片方の一部だけをもう片方に重ねる。簡単な話だ。
すると……
‼
英二は息を呑んだ。
そこにはピンクの下着一枚で英二を誘う、リアルな叶瑞希の姿が現れたのだから……
「ムハーッ!」
いけない。つい声が出てしまった―――最近は母もよく寝ているから聞かれはしなかったはずだが。以前なら心配してようすを見に来てくれたりして、その親切さに心の底から泣きたくなっていたところだ。
それはともかく―――使える! これは、使えすぎる‼ どうして今まで思いつかなかったのだろう⁈
幼なじみをこのように利用することについては少々心がとがめたのだが―――でも今後二人の人生が交錯することなどないわけで―――ならばちょっと想像してみたところで何が悪いのだ? そもそも心の中というのは、その人だけの自由な領域なのだからして……
かくして―――英二の理性は決壊した。
《えへ。それじゃちょっとポーズ変えてみよっか……》
英二は両手でおっぱいを持ち上げているポーズに変更してみる。長年の経験でこの程度のことならできるようになっている。
《………こ…これはーっ!》
思わず息が荒くなってきた。
《もしかしてこれって……》
ここならば文字通りに“彼女を自由にできる”のではないだろうか?
《だとしたら……》
英二は残念そうに、彼女がまとっている最後の一枚の布切れを見つめた。
彼は心の底からその下を見てみたいと願っていたのだが、実際に見たことがないのでどう補完していいか分からないのだ。
いや、いい。今はこれで十分だ。十分すぎるっ‼
《じゃ、いくよ? 瑞希ぃぃっ!》
心の中でそう叫んで本格的なエネルギー産生を開始―――しようとしたときだ。
⁇
なんだか今―――瑞希の目が動いたような気がしたのだが?
《……んなわけないし。気のせいだよな》
彼女は単なる映像なのだ。勝手に動くはずがない。
そう思って続きを始めようとするが……
⁇
今度ははっきりと見た。確かに彼女の目が動いた‼
《あ? ん?》
英二は驚いてよくよく彼女を観察した。
すると―――こんどは目だけでなくきょろきょろとあたりを見回しはじめたのだ。
「はいぃ?」
いや、いま見ているのは少々改変はされているにしても、英二の記憶のなかにあるただの映像にすぎないはずなのだ。
それが英二の意図に反して動き出している⁈
《んなバカな……》
英二はもう一度よく“彼の想像が生み出した瑞希”を観察するが―――彼女はしばらくあちこちを見回したあげく、ふっと自分の今の姿に気づいたとたんに……
『んぎいぃぃぃぃぃぃぃぃえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇーっ⁉』
英二の頭の中にとんでもない金切り声が響きわたった。
………………
…………
……
あわ?
『ちょっと。なに? ここどこ? どうしてあたしこんな所にいるのよ?』
えっと……
『誰かいるの? 誰なの? ちょっと。返事しなさいよ!』
《え、なんだ?》
『あんた誰よ? どうしてここにいるのよ? まさか……誘拐?』
《ち、ちがうって》
『じゃあなんなのよ。ここは? さっさと出しなさいよ。ってか、なに? この格好?』
《………………》
―――英二は目を開いた。
新しい部屋の天井が見える。ここに引っ越してきてまだ二ヶ月程度だが、その模様はそろそろおなじみになってきたところだ。
それはともかく……
「なんだったんだ? 今の……」
どうして彼の空想の産物が喋りはじめたりしたのだ?
一つ考えられる理由は……
《なんか疲れてるのかな……今日はいろいろあったし……》
だとしたら―――ここはもう寝てしまうにかぎるだろうか。
そう思って英二は再び目を閉じた。
それから……
《まさかね……》
さっきのは気のせいだ。そうに違いない。だからもう一度見てみたら……
『うぅぅぅぎぃぃぃぃいやぁぁぁぁぁぁぁぁーっ‼』
再び頭の中にきんきん声が響きわたって、妄想少女が暴れ回っているのが見えた。
『いきなり何するのよーっ。真っ暗なところに閉じ込めてーっ』
はいぃぃぃ?
英二は再び目を見開く。
なんなんだ? これは?
続いて英二はしばらく天井の板目を数えていたが、再びおずおずとまた彼女の姿を思い浮かべると……
『ぎいぃぃぃいやぁぁぁーっ‼ ぎいぃぃぃいやぁぁぁーっ‼ 人殺しぃぃぃぃぃ‼‼』
「違うって! ちょっと静かにしてよ」
英二は思わず彼女に話しかけていた。
すると彼女はぴたりと動きを止めて、またきょろきょろあたりを見回しだしたのだ。
『誰? どこにいるのよ? 姿を見せなさいよ! この変態!』
「えっと、だから……」
『それに静かにさせてどうする気よ! こんなことしてただで済むと思ってんの? この誘拐犯! そりゃうちはちょっとはお金あるかもだけど、警察署の知り合いだっていっぱいいるんだからねっ! 絶対逃げられないわよっ! そして死刑にしてやるんだからっ!』
《………………》
瑞希の顔をした妄想少女が頭の中でわめき散らしている。
だ・か・ら―――なんなのだ? これは……
最初に冷静になったのは英二だった。
いま見ているものが何かと問われれば―――答えはもちろん幻覚である。
そこから導き出される結論とは? それはとりもなおさず、彼の頭が完全に狂っ……
………………
…………
……
《ちょっと待てよ。どうしてだよ? まさか天罰? 俺、そこまで悪いことした? あれってそんなにいけないことだったのか? でも……》
それに突っ込んだのが妄想少女だった。
『おいこらっ。何ぶつぶつ言ってるのよ。気持ち悪いじゃないの』
は? 分かるのか? 自分の考えていることが……
『黙ってないで何とか言いなさいよ! 変態野郎ーっ!』
必ずしも分かるわけでもなさそうだが……
そこで英二は心の中で明確に彼女に語りかけるように考えた。
《えっと、きみ、誰?》
すると少女は答えた。
『はあぁ? それじゃあたしが誰かも知らずに誘拐してきたわけ?』
《いや、誘拐なんかしてないし。寝ようとしたら君が頭の中でぎゃーぎゃー言ってるんじゃないか》
『はああああ? なに言ってんの? わけ分かんない』
《こっちだって分かんないよ。んで、もいちど聞くけど、君、だれ?》
『叶瑞希よ。決まってるでしょ』
………………
…………
……
叶瑞希? いや、確かに見れば彼女の顔はしているが―――でも……
《みっちゃん?》
『ああ? なれなれしいわねえ。変態にそんな風に呼ばれる筋合いはないってのよ。ってか、あんたこそ誰よ?』
《えっと……高祖英二だけど》
『へ?…………』
その答えを聞いた脳内自称瑞希は、目をまん丸にして黙りこんだ。
それからしばらく硬直したのちに……
『待ってよ。どういうことよ? それって?』
《どういうことって言われても……》
『嘘。だってそんな……どうして……だってあたし……』
なにやら一人でぶつぶつ言いはじめる。
《えっと?》
『んがぁぁぁぁぁーっ! もう、なんなのよぉぉぉぉぉーっ!』
訊きたいのはこっちだ‼
すると脳内瑞希はじろりとあたりをにらみまわすと、腰に手を当てて言う。
『ともかくそれであんたが英二君っていうんならさあ』
《ああ》
『どうしてあたしをこんなとこにさらってきたのよ?』
英二はずっこけた。
《違うって! だから僕は誰もさらってないし。君は僕の頭の中にいるの!》
『はいぃ? あんたおかしいんじゃないの? どうしてあたしがあんたの頭の中にいるってのよ? いいからここから出せって言ってんのよ!』
《だーかーら、なんていうか、君のことをいろいろ想像してたら、想像が勝手に動き出して、それが君なんだから外になんか出せないの!》
それを聞いた彼女は、こんどは恐怖の表情を浮かべて黙りこむ。
本気で頭のおかしい奴に監禁されてしまったとでも思っているようすだ。
いや、確かにこんな幻覚を見ている以上、完全に正常な状態ではないかもしれない。
でもその幻覚に正気を疑われてどうするよ?
少々腹が立ってきたので英二はちょっと意地悪な口調で彼女に尋ねた。
《ってかさあ……》
『なによ?』
《本当に君ってみっちゃん?》
『どうしてよ?』
《だってみっちゃんって、そんな喋り方しないし》
『あ……』
脳内瑞希の顔がぽっと赤くなる。
『そんな! 私にはまだ信じられません! あの英二君が、女の子をさらって密室に監禁するような変質者だったなんて! 子供の頃は素直でとても良いお友達でしたのに、本当にどこで道をお間違えになったのか……』
《おいっ!》
『とでも喋ってれば良かったわけ? あたし家じゃいつもこんなだったしっ! 変態相手にどうして丁寧に喋らなきゃならないのよっ!』
え? そうだったのか?
《だから僕は変態なんかじゃなくって……》
『それじゃなによ! この格好はっ!』
《あっ》
そうだった!
今の彼女の姿は、例のエロ雑誌のモデルの顔をすげ替えた物なのだ。当然いま彼女が身につけているのはピンクのショーツだけで……
《えっと……えっと……何か着る物って……》
英二は近くにあったベッドのシーツを彼女の体にまとわせてみた。
『え?』
脳内瑞希が驚いて目をみはる。
『どうやったのよ。さっきはいくらやっても剥がれなかったのに……』
そりゃそうだろう。
《えっと、だからさ。そこって僕がいま想像してる場所なんだ》
『はああ?』
《だから、みっちゃんなら僕の映像記憶のことって知ってるでしょ? そこって昼間見てた雑誌の表紙の場所だから》
『…………』
それから彼女はゆっくりと周囲を見回して、それからベッドを叩いたり自分を観察したりしはじめた。
『なんか変な手触り……それにこの体のちょっと変だし……形が何か違うし……あ! 脇腹のほくろがない!』
《そりゃだって体は雑誌のモデルだし》
『はああああ?』
彼女は目を丸くしてしばらくあたりを見回していたが……
『それじゃどうやってそんなところにあたしを閉じ込めたのよ?』
話がまた元に戻る。
《だから閉じ込めたりなんかしてないんだって。その、頭の中に思い浮かべていただけなんだから。きみのことを。そしたらその君が動きはじめたんだよ》
『思い浮かべてたって、どうして?』
英二はかっと顔が熱くなった。だが彼女は容赦なく突っ込んでくる。
『どうしてそんなことしてたのよ?』
《僕が頭の中でなに考えてようと僕の勝手じゃないか! ともかく、僕がしてたのはそれだけで、そこにきみが勝手に乱入してきたんだろうが!》
『あたしが?』
《そうだよ。僕は本当にちょっと君の姿を想像してただけで。もしかして君の方がテレパシーかなんかで僕の頭に入ってきてるんじゃないのか?》
『はあ? あんた、正気? テレパシー? バッカじゃないの?』
完全に見下げ果てたという表情だ。
《じゃあ何なんだよ。いったい!》
『逆ギレ? 説明を要求してるのはこっちよ!』
幻覚に説明を要求されたっ!
《だーかーら、本当にいま言ったこと以上はなにも知らないんだって。それじゃ君こそ本当にみっちゃんなら、ここに来る前、いったい何してたんだよ?》
そう問われた脳内瑞希は絶句した。
『……そんなこと聞いてどうするのよ』
《だから教えてくれたら、こんなことになったわけが分かるかもしれないじゃないか》
英二の言葉に彼女が目を見はる。
『あ……まあ……そうね……』
それから彼女は少し考え込むと話しはじめた。
『それがね、あたし……ちょっとその、片思いしてたのよ』
英二は思わず尋ねていた。
《片思い? 誰に?》
途端に彼女が険しい顔になる。
『誰だっていいでしょ? 先輩よ。聞いてどうするのよ。笑おうとでも言うの?』
《いや、違うって。ともかくそれで?》
脳内瑞希はふんと鼻を鳴らすとつづけた。
『……でね、その……えっと、この間告白したら振られちゃって』
《ええっ?》
瑞希の告白を振る度胸のある男がこの世に存在していたのか?
と、そこで瑞希が薙刀部だったことを思いだす。薙刀部と言えば……
《もしかして……女の先輩?》
それなら納得だが……
『違うわよっ! なによ! もう教えてあげないっ!』
彼女はいきなり拗ねてしまった。
《いや、だって先輩って聞いたらほら、やっぱり薙刀部の先輩だって思うじゃないか。もう、謝るからさあ……》
そうやってしばらくご機嫌取りをしたあげく、やっと彼女は続きを話しはじめた。
幻覚に謝るのってどうよ? という思いが頭の片隅をよぎるが、ともかくそうしないと話が進まない。
『それで今日、そのことを思いだして落ち込んでたら、夢の中に出てきたのよ』
《その先輩が?》
『ううん。伽奈おばあちゃん』
《伽奈おばあちゃんが?》
その人については英二もよく知っていた。
いつも伽奈おばあちゃんと呼んでいたのだが、正確には二人の共通の曾祖母にあたる。
残念ながら二人が小学校五年生のときに亡くなってしまったのだが、とても優しいおばあちゃんだったことを思いだす……
『うん。それでね、伽奈おばあちゃんが言うの。それは辛かったんだね。でも人にはそれぞれ行く道があるから。その方とはご縁がなかったってことなんだよって』
ご縁がなかった、という言葉は英二の心にちくっと突き刺さった。
『でもおばあちゃんが、それじゃ寂しかろうから、夢の中ででも思いを遂げさせてやろうかい? って言うの』
はあ……?
『あたしはもうこの世にはいないから、あんたたちの現実は変えてやれないけれど、せめていい夢を見せてやることくらいならできるからって……んで、まあどうせ夢だしって思って、うんって言ったわけよ』
はあ……
『そしたらその夢の場所っていうのが、すごくきれいなところで……どこかの田舎かしら。お花畑に、森と湖があって。そこで本当に先輩が待っててくれたの。そして言うのよ。先輩には親が決めた相手がいて、家の都合上どうしても断るわけにはいかないんだって。でも彼女を愛してるわけじゃなくって、本当に好きなのはあたしだけなんだって……』
《…………》
『そしてここは現世では遂げられない思いを成就できる場所なんだって。だからここにずっといてくれるなら、一生君のことを大切にするからって言うの』
《……えっとそれで、OKしたと?》
『ん? まあ……ほら何か変だな~とは思ったんだけど、どうせ夢だって思ってたし。でもそこにあいつが出てきたのよ』
《あいつ?》
『うん。それがすごい化け物なのよ。真っ黒い獣みたいで、見たとたんにすごく怖くなって……そいつがいきなり飛びかかってくると先輩を真っ二つに引き裂いて……』
《えええええ?》
いきなりどういう展開なんだ?
『それが今度はこっちにやってくるから、そこでおばあちゃんが手を引いてくれて、それで逃げだせたんだけど……』
おいおい。
『それで気がついたら、なんか部屋の壁の中にいて……』
《壁の中に……いる??》
どこかの古典的RPGか?
『うん。最初は何かと思ったんだけど。ともかく壁の中から自分の部屋の中を見おろしてるような、そんな感じで……布団の中であたしが寝てるのが見えるのよ。で、しばらくしてそこに絵を飾ってたこと思いだして』
《絵?》
『……ほら、あんたが前、描いてくれた絵。展覧会で金賞をとったの』
《あ、あれか……》
小学校六年生のとき、薙刀の練習をしている瑞希の絵を描いて賞を取ったことがあった。その絵は引っ越しのときに瑞希が欲しいというのであげてしまっていたのだが―――ずっと飾っててくれたのか?
そう思って英二はちょっと嬉しくなったが―――今はそれどころではない。
《ってか、なに? それって絵の中にいたってこと?》
『そう……だと思う。多分』
《えっと……》
何とコメントしたらいいんだ?
『それで見てたら、布団からあたしが立ち上がったのよ。でも何だかふらふらしてて。それから物珍しそうに部屋の中を見回ってたりしてて……あたし、叫ぼうと思ったんだけどもちろん声なんか出なくって。それからそいつが部屋をぐるっと回ってきて、あたしの前にやってきてぴたりと止まって、それからあたしを見てニターッと笑って……』
こんどはホラーかよ?
『こんなところにいたのね……さあおいで、とか言いながら近づいてくるから、また怖くなって逃げたら、こんどはもう何が何だか分からなくなって……で、気がついたらあんたにこんな格好で監禁されてたってわけよ』
………………
…………
……
こ・の・ガキは! そんな話を人に信じろと言うのか? テレパシーとどっこいのレベルじゃないかよ!
『んでどうなのよ? 話してあげたでしょ? 分かったの? こうなったわけが』
《ってか、分かるわけないだろ》
『あん? せっかく人が恥を忍んで話してたっていうのに……』
《だーかーら、分かるかもしれないっていっただけだろーがっ!》
ぜいぜいぜい。
疲れる。ともかくこいつと話しているととても疲れる。
そこにちょっとした考えがひらめいた。
《ってかさ、それってもしかして幽体離脱してるんじゃないのか?》
『幽体離脱? バカなこと言ってんじゃ……』
そこまで言って、彼女は黙りこんでしまった。
《だって今の話が本当なら、夢の中で怪物に襲われたせいで魂が体から抜けちゃったって感じじゃないか。それから壁の絵に取り憑いて自分の体を外から見てたわけだし》
『……そう言われればそんな感じかも……』
脳内瑞希は腕組みして考えこんでいる。
―――ということはどういうことだ? 要するに英二はいま、瑞希の生き霊に取り憑かれているとそういうことなのか? そう考えればこの状況はけっこう納得いくのだが……
もしそれが真実だったとしたら……
《本当に君ってみっちゃんなの?》
彼女は英二の妄想の産物ではないということか?
『あん? 最初っからそう言ってるでしょ! あんたこそほんとうに英二君?』
《当たり前だろ》
『だったら証明してみなさいよ』
《証明?》
証明って―――自分が自分であることの証明なんてどうすればいいんだよ?
そこで英二は言いかえした。
《それじゃ君こそ証明できるのかよ? ほんとうに自分がみっちゃんなんだって!》
『そんなこと……』
どうやら彼女もまた同じだったらしく、いきなり話題を変えてきた。
『ってか、それよりあたしの体、どうなってるのよ? それじゃ?』
《え? 体がって?》
そう答えてから英二も、もし本当にこの彼女が生き霊だったのなら本体がどこかに存在していないとまずいことに思い当たった。
『あの化け物に乗り移られてるままってこと?』
「うわっ!」
これって―――まずいんじゃないのか? とんでもなく……
『ともかくあたしの家に行って! あいつがなにかする前に!』
「あ、ああ……」
そう答えて起き上がろうとしてから、英二はもう一つの可能性に気がついた。
それは彼女がやっぱり英二の幻覚だったという可能性なのだが……
《あのさ、それって今からご本家に行って家の人を起こせってことだよね?》
『当然でしょうが!』
いや、今って夜中の二時過ぎなんですけど……
《それで、瑞希さんが怪物に乗っ取られて生き霊になって、いま僕の頭の中にいるから、本人に会わせてくれって頼むわけだよね?》
『………………』
《絶対に頭おかしいって思われるだろ⁈》
『でも…………しょうがないじゃないの』
しょうがなくねーっ‼
《だからそれで相手がひるんでくれたらいいけど、とぼけられたらどうなるわけ?》
『え?』
《何の話ですか? とかごまかされたらどう説明するんだよ?》
さすがの脳内瑞希も口ごもった。
『………………でも……』
《多分すぐに家からいなくなることはないと思うし》
『どうしてよ?』
《だってこんな夜中に女の子が出歩いていたらおかしいでしょ。見つかったら絶対補導されちゃうし》
『…………ん、まあ、そうだけど……』
《だったら明日の朝でも大丈夫だと思うんだ。ほら、えーっと……あ、そうだ、たとえば昨日神社で何か拾ったんだけど、とか言ったら会いに行く理由にもなるし》
彼女はしばらく考え込むと、
『んー、まあ、分かったわ。とりあえず……』
と、同意はしてくれたのだが……
『それよりさー、ここってもうちょっとどうにかならないの?』
今度はまた別なところに突っ込んでくる。
《どうにかって?》
『見え方、変じゃないの。なんかどっち見ても同じ背景だし。頭おかしくなりそう』
………………
いま彼女のいる“世界”は雑誌の写真をベースに構築されている。だから英二は一方向から見た背景しか知りようがない。モデルの視点から見た光景なんて分かるわけがない。
《えーっと……それじゃ……》
英二は自分の部屋を思い浮かべてそこに今の彼女の姿を合成してみた。
『うわ、あ……びっくりした。どこ? ここ……』
あたりの光景が一瞬にして変わったのでけっこう驚いたようだ。
《今の僕の部屋なんだけど……どんな風に見える?》
『え? さっきと大して変わらないけど……』
あれ? あ、そうか……
そこで英二は部屋を様々な角度から見た映像を思い起こした。これならいつも見ている光景だから簡単にできる。
『あ! こんどはちゃんとしてきた! まだ何か少し変だけど……ずっとマシよ』
《やっぱりそうなのか……》
『何がよ?』
《いや、ここって僕が映像を思い起こせればその通りになるんだなってこと》
『なに言ってるのよ?』
彼女には今ひとつよく理解できなかったようだ。
代わりに部屋の中を見回すと文句を言う。
『それにしても……汚い部屋ねえ。ゴミだらけ』
《ほっとけよっ!》
『そこらのゴミだけ消したりできないの?』
《え?》
そこで英二は言われたとおりに試してみた。
するとあっという間に散らかった部屋がきれいになる。
『あはっ! やればできるじゃないのよ!』
《ああ。そうだな》
彼女に褒められて英二はちょっと嬉しくなったが―――いや、この子って英二の幻覚なんだろう? いや、それともほんとうに生き霊? どっちにしても喜ぶところなのか?
―――などと英二が悩みはじめていると、また脳内瑞希が文句を言う。
『でさあ、あたしの服ってどうにかならないの? これ』
彼女はいまだにシーツを体に巻いたままだった。
《あ、えーっと……》
英二は昼間に見た瑞希のセーラー服姿を思い起こす。
『あお?』
彼女はいきなり自分が制服を着ているのを見てまた驚いたようだ。
だが相変わらず容赦がなかった。
『何かあんたって便利なのねえ。でも他の服ない?』
《は?》
『あたしセーラー服ってあんま好きじゃないの。制服だけなら恵華のが好きだったな』
わがままな奴だなあ……
《だってあまり女の子の私服なんて分からないし……》
『じゃ、調べれば?』
《調べる?》
『見た物を出せるんだったらそこのパソコンで検索してみれば? グ~グれ~カスッ♪』
《あ、あのなあ……》
だが確かに一理あった。
机の上には父親のお下がりの旧型のノートパソコンが置かれていて、それはネットにもつながっていた。
そこで英二は起きてパソコンを起動すると画像検索をかけてみる。
すると確かに女の子の服の画像が大量に見つかったのだが……
《うわあ……どれがいいんだろう?》
ともかく英二はその中から適当に選んで記憶すると脳内瑞希に着せてみた。
そうすることで簡単に彼女の着せ替えができることは判明したのだが……
『やー。これかわいくない!』
《じゃあどんなのがいいんだよ?》
『もっと明るい色がいいな。スカートはもっと丈が短い方が……それからここのリボンももっと太いのがいい!』
などと次々に注文が出てくるので、なるべくそれに沿った物を選ぼうと努力するのだが、どれもこれもお気に召さないらしい。
《もういい加減にしてくれよ……》
『だってあたしに見えないんだからしょうがないじゃないの!』
英二が泣き言を言っても許してもらえない。
無茶いわないで適当なので我慢してろよ、と言いかけて英二ははたと考えた。
《えっと……ちょっと待てよ? もしかしてそういうことってできるのかな……》
英二は部屋の中にどんとテレビを出した。
『え? なに?』
《あ、ちょっと試してみようと思って……》
それから英二はいま見ている光景をその架空テレビの画面にはめ込んでみる。
そうしたら英二の見ているものが彼女にも見えるようになったりして……
『うわあ! なに? これ、すごい!』
《あへ?》
驚いたのは英二の方だ。本当にできてしまうとは―――ただの思いつきだったのに……
どうもこの脳内世界は見え方だけでなく、動きの仕組みについても英二の想像力が及ぶ範囲でなら自在に設定できるものらしい。
たとえば先ほど英二が目を開けて瑞希の映像を見るのを止めたら暗いと大騒ぎされたわけだが、部屋に明かりを下げてやったら一応はだいじょうぶになったという。英二が見ているときに比べて妙に曖昧な感じなのだそうだが……
また同じくそのときには彼女の声も聞こえなくなっていたのだが、それも困ると言うからインターホンをつけてやったら―――これもまたちゃんと機能しているようだ。
ともかくこうして脳内テレビ越しに本人に服の画像を選ばせたおかげで、徹夜させられずに済んだのだった。
それにしても……
《うわ! 高けっ!》
彼女の選んだ服の値段を見て、英二はこれが脳内彼女でほんとうに良かったと胸をなでおろしていたのだが……
「うわっ! もう四時かよ?」
『え? もうそんな時間?』
《ともかくもう寝るから。学校休むわけにはいかないし》
『そりゃ、まあそうよね……』
《んじゃ、おやすみ》
『おやすみ』
さすがにずいぶん夜更かしだ。
ベッドに戻って脳内瑞希に挨拶すると、英二はことりと眠りに落ちていった。
まるで夢の中にいるみたいだ。
瑞希はじっと目を凝らしてあたりを見ようとするが、曖昧でよく視点が合わない。
ここは高祖英二の部屋だということなのだが―――今の彼の部屋を見たことがあるわけではないから、本当にそうかどうかは分からない。
『いったいどうしちゃったのかしら……あたし……』
一人になると急に恐ろしくなってくる。
いや、今までだってずっと一人だった。高祖英二と名乗る声がどこからか聞こえてきて、あたりが次々に変わっていって……
『要するにこれって……?』
夢の中にいる“みたい”なのではなく、まさに夢を見ている最中なのでは? そうとしか言いようがなだろう?
だが―――先ほど英二と言い争っているときにはこの上なく意識は鮮明だった。
あれが夢だったとはちょっと考えにくいのだが……
それではこれが夢でないのなら……?
………………ミ…ズ…キ…
『え?』
どこからか声が聞こえたような気がするが……
………ア…ノ…コ…ニ………チュ…ウ…イ…シロ…
なんだ? あの子に注意しろ?
瑞希は耳を澄ませるが、それ以上はもうなにも聞こえてこない。
『???』
何だったのだろうか?
ともかく―――今はこのおかしな状況をどうにかしなければならない。
もしあの声の主が本当に高祖英二なのだとしたら……
『………………』
まあ、彼女の心の中を読めるわけではないようだから一応は安心だと思うが……
そうは思っても、体の芯から冷たい震えが伝わってくる。
怖い……
自分はいったいどうなってしまったのだろう?
そしてこれからいったいどうなってしまうのだろう?