第2章 グラテスの収穫祭
フィンはその場で焼き肉を平らげると、宿を探しに行った。
彼はいくら祭り直前でも一人分なら何とかなるだろうと甘い期待を抱いていたのだが、グラテスの収穫祭の人気は予想以上のようで、宿はどこも満杯だった。
最後の宿の主人は人が良さそうな男だったが、彼は残念そうに言った。
「すみませんねえ。まともな部屋は空いていないんですよ」
「宿屋は他にないのかい?」
「何しろこの人出ですからね。もうちょっと早く来られていたら」
フィンは心の中でアウラをののしった。結局こういうオチかい!
いったいどうしてくれようか? 町の外で野宿をするという手もあるが、今晩はやたらに冷え込んできている。
「そういえば今“まともな”部屋はないって言ったよな?」
「ええ? まあ……でも窓が破れているんですよ。先週泊まったお客さんが酔っぱらってたたき破ってくれましてね。この時期大工の手が空いてるわけないですし……」
「なんだったら、そこでもいいよ」
「ええ? よろしいんですか?」
「野宿するよりましだろう? 厚めの布団を用意してくれれば、何とかなるだろ」
「申し訳ありません。それじゃ宿代はお安くさせていだたきます」
主人に案内された部屋は、中くらいのまあまあの部屋だった。
だが確かに窓は派手にぶっ壊されており、申し訳程度に板で補修されているだけだ。風が吹いたら中に吹き込んでくるだろう。
「本当にここでよろしいんですか?」
「ああ。稼ぎ時にこういう部屋を潰されたんじゃ、そっちも困るだろ?」
「ありがとうございます。夕食もサービスさせていただきます」
「そいつは嬉しい」
夕食は約束通り、一ランク上の物だった。また主人は上等な酒もサービスしてくれた。
フィンは満腹になると、もしかしたらこれは意外にラッキーだったんじゃないかとも思った。この値段でこのサービス。すきま風は入りそうだが、厚めの布団に潜ってしまえば関係ないだろう。元々フィンは少し寒いぐらいの部屋の方が好きだった。
《大きな不幸の後には小さい幸福が来るって誰か言ってたような気がするが……まさにこれがそうだな》
人心地がついたフィンは、前夜祭を見るために町に繰り出した。
本当は五日間の歩きづめで足に相当のガタが来ていたのだが、こんな時期に旅立ったのはここの祭りを見るのが目的である。ここで引き下がっては何をしに来たのか分からない。
通りにはあちこち篝火が立てられて、ほろ酔いの人々が浮かれ回っていた。
街角のあちこちには、きれいに飾り立てられた山車が止めてある。
「へえ!」
フィンは感心しながらあちこちの山車を見て回った。
山車は様々な形をしていた。ある物は大きな城のようだった。別な物はどうやら伝説の白の女王の立像のようだった。別な物はなぜだか知らないが大きな魚の形をしている。
明日からは町の人たちがこれを引っ張って巡り歩き、町中は大無礼講になる。最終日には中央広場にすべての山車が集まって、火がつけられるのだ。その炎は天にも届くと言われていた。
こういうわけだから祭りの前は大工とか職人の類は山車作りに手一杯で窓枠の修理などしていられないのだ。
「やっぱり来て良かったな。こんなんは都じゃお目にかかれないぜ」
そうつぶやいてフィンはくしゃみをした。
気づくと結構冷え込んできている。
「そうか、ここは高いからな」
フィンはあたりを見回すと、暖めたアルカ酒を売っている屋台を見つけた。フィンはそこに座り込むと親父と話し始めた。
「おっさん。一杯くれよ」
「あいよ」
「この祭りっていつもこんなににぎやかなのかい?」
「ああ。兄ちゃんは遠くから来たのかい? それじゃ知らないかもしれないがね、この祭りは大聖様の時代まで遡るっていう、由緒正しいもんでね。ほら、大聖様が白と黒の御方様を従えて渡って来られたとき、ここで一年間お留まりになってな……」
屋台の親父は延々と祭りの由来について話し始めた。
フィンはこの祭りの由来のことは知らなかったが、大聖と二人の女王の伝説に関しては良く知っていた。
―――この地の東にかつて“東の帝国”と呼ばれた大きな国があった。その国はもはや誰も記憶にない古より、邪神の手先である魔導師達によって支配されていた。
大魔導師達の圧制は凄まじく、国民は想像もつかないような悲惨な生活を強いられていた。
人々は奴隷のような労働を強いられ、その生活の全ては魔導師達の言いなりであった。
文句を言うことは許されなかった。それに逆らう者は容赦なく処刑された。
そこにある日突然、二人の美しい女性を従えた立派な男が現れた。
その女性の一人は輝くような純白の衣をまとい、もう一人は闇夜のような漆黒の衣をまとっていた―――彼こそが大聖だった。
大聖はあえぐ人々に言った。どうしてこのような世界に安住しているのか。そのような不自由な生活になぜ甘んじているのか。もし私に付いてくるのであれば、この軛から解放してやろう、と。
すると一人の男が答えた。あなたは知らないのだ。この世界の外では我々は糧を得ることができないのだと。人々は日々得ていた糧の全てを魔導師達が生み出す魔法に依存していたのだ。
そこ大聖は私に従ってくれば外の世界で糧を得る方法を教えてやろうと言った。
だがそれを聞いて別の者が言った。あなたは知らないのだ。ここから逃げようとする者は、あの魔導師達に焼き殺されたり、機甲馬に即座に踏みつぶされてしまうのだと。
都には魔導師達が生み出した様々な魔法の生き物がたくさん蠢いていた。機甲馬とは魔導師達に逆らった人々を処刑するための怪物だった。
それを聞いて大聖は、恐れるな、私に付いてくれば、あのようなまやかし物で傷つけられることはないと言った。
だがまた別の者が答えた。あなたはあの邪神の取り巻き達の恐ろしさと無慈悲さを知らないのだ。彼らが本気になったらどんな武器も鎧も全く紙屑同然なのだ。私たちは彼らに逆らった挙げ句にまだ生きていた者を見たことがない。さあ、私たちを放っておいてくれ。私たちの心を惑わさないでくれ、と。
多くの者達はそれに同意して大聖の言うことを信じなかった。中にはあからさまに大聖を屈辱する者さえいた。
このように大聖は都の中で多くの人に語りかけたが、それはほとんど無駄に終わったかに思えた。
だがそんな中でほんの僅かであるが、彼を信じた者達もいた。彼らはアスタル、カマラ、エルノン、クアン・マリ、マテラ、ル・ウーダ、ヴァリノサという七人の貧しい男とその家族だった。
大聖は彼らに言った。私は大いに失望している。私はここに人々を救いにやってきたのに、人々はそれを求めなかったからだ。だがお前達は私を信じてくれた。そしてそれは非常に幸運なことだった。なぜなら私はこれからこの国を滅ぼそうと思っているからだ、と。
それを聞いて七人の男とその家族達は色を失った。なぜならこの地は彼らが生まれ育った地であり、彼らはここしか世界を知らなかったからだ。彼らはこの世界の外のことなど考えたことさえなかった。
だがその不安を見て大聖は言った。私はこれから西に旅立つ。私に付いてくればお前達にここのような暗い窖ではなく、輝く光に包まれてた新たな都を与えよう。さあ、見るが良い。これが私がおまえ達を導こうとしている都の姿だ。
それと共に七人の男とその家族達は、美しい都の幻影を見た。
それは白い雪に覆われた山間にそびえ立つ白い塔と、その周りに広がる純白の町並みであった。
これこそがおまえ達とその末裔に約束された都だ、大聖はそう言ったのだった。
七人の男とその家族達はそれを見て心の底より安堵した。
それを待っていたかのように黒い衣をまとった女が立ち上がり、天を仰いだ。その途端上空より巨大な炎が降り注いできた。その熱は凄まじく、都を作っていた石までが溶けて、最後は都のあった所は真っ赤に燃える湖になってしまった。
黒い衣をまとった女は七人の男とその家族達に向かって言った。大聖の意に添わぬ者は、このような天罰を覚悟せねばならないのだと。
それを聞いて人々は恐れおののいた。だがその時白い衣をまとった女が立ち上がって言った。しかし、もし大聖の意に添うものであれば、同じだけの力を以て守られることになるのだと。
それを聞いて人々は心から安堵した。なぜなら彼らはその力によって守られる立場だったからだ。
それから大聖は七家族を連れて西に向けて旅立った。驚いたことには、東の帝国から離れた地にも僅かながら人々が生活していた。彼らはかつて都から追い出された者の末裔であった。
彼らはみな飢えて痩せ衰えていた。それ以上に彼らは帝国を恐れていた。なので彼らはやってきた大聖の一行を、彼らを滅ぼしに来た帝国の手先だと考えた。疑心暗鬼に囚われた人々は大聖の一行に襲いかかった。
だが白と黒の女王の不思議な力によって、彼らは一行に指一本触れることさえできなかった。七人の男とその家族達はますます恐れおののいた。
だが彼らが不思議に思ったのは黒の女王がああ言ったにも関わらず、大聖は彼に抗った者にもなぜかひどく寛大だったことだ。
ついてきた男達はそのことが不満だった。それ故に男達の代表者アスタルが大聖に問うた。その不満を聞いて大聖は答えた。その存在が私の意に添うかどうかは私が決めることだ。私は私に従う者を愛する。だが私に刃向かう者はそれ以上に愛するのだと。
七人の男とその家族達は大聖の言葉を理解したわけではなかったが、それ以上追究することもしなかった。なぜなら彼らは大聖に愛されているのだから。それ以上の何を求めればよいというのだ?
このように大聖とその一行は各地で様々な奇跡を起こしながら西に向かい、やがてある山の中に美しい湖を見つける。
そこが旅の終わりだった。大聖はその湖畔に一夜の内に都を築いた。それはあのとき人々に見せた幻影そのままの美しい都だった。
これこそが白銀の都、レギア・アルゲントゥムであり、偉大なる大聖と二人の女王と七つの家族の末裔達が住む都である―――
「……でな、その決着をつけるために荷車競争をしようってことになった。そこで各家ごとにその秋に採れた収穫を乗せて、町の広場に勢揃いしたってわけだ」
「なんで一々収穫を乗せるんだ?」
「ああ? だって空っぽの荷車引っ張って勝ったって恥ずかしいだろう? 荷車は満載にしてて勝てればかっこいいし、負けたって言い訳が立つだろうが?」
「ああ、なるほど。そりゃそうだ! でどこが結局勝ったんだ?」
「俺の母ちゃんはエルノン様の一行が勝ったって言ってたけどね。クアン・マリ様って言う奴もいるし、カマラ様って話も聞くね。ともかくご先祖達はその競争がよっぽど気に入ったんだろうね。それから毎年、この時期になったら荷車競争をするようになった。その競争がこの祭りの謂われだって言われてるな」
「へええ。しかし荷車がいつの間にかえらく立派な物になってるな」
「そりゃでかくて立派な物を引っ張って勝った方がかっこいいだろ?」
「ははは、そうだね」
フィンも特に用があったわけではないし、こういう話を聞くのは好きだったので、ついそこに長居してしまった。
そんな調子で何杯目かのアルカ酒を飲み干そうとしたときだった。遠くの方から叫び声が聞こえてきたのだ。
「おーい! 喧嘩だ! 喧嘩だ!」
それを聞いて店の親父が喜んだ。
「はっはっは! やっぱり祭りには喧嘩がなきゃな!」
フィンも全くその通りだと相づちを打とうとした。
だが次の叫び声を聞いて、言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。
「片っぽは女だ! 薙刀持った女だ!」
ぶはーっ!
フィンは飲みかけのアルカ酒を吹き出した。
「どうした? 兄ちゃん?」
「げほっ。い、いや、何でも」
人違いだ! 人違いに決まっている! 薙刀を持った女なんて、この世の中にいくらでも―――いないかもしれないが、あいつ一人のわけがない! たまたまそんな女が偶然現れたに決まっている! その女もたまたま喧嘩好きで……
………………
…………
……
「んなわきゃあるかーっ!」
フィンは立ち上がると銀貨を親父に向かって放り投げた。
「おい多いぜ。釣りは?」
「いらん!」
フィンはそのまま声のした方に向かって走った。
喧嘩の場所はすぐにわかった。
フィンは人混みをかき分けると、無理矢理に最前列に出る。そこで見た光景は……
―――全く予想通りだった。
彼が見たのは数名の屈強そうな男達の前に立っているアウラだった。
だが今回は前と違って、アウラの薙刀の切っ先には血が付いている。
フィンは男達の後ろに、うずくまっているうめいている人影を認めた。
「仕掛けてきたのはそっちでしょ?」
アウラは平然と男達に向かって言い放った。
《あああああ! なんでこいつはこうなんだ!》
はっきり言ってそのときのフィンは相当に酔っぱらっていて、前後の見境がなくなっていた。
気づいたらフィンは大きな声で叫んでいたのだ。
「アウラ! 何してんだ! このボケ!」
人々の目が一斉にフィンの方に集まる。その間にフィンはアウラと男達の間に割って入った。
アウラはびっくりした顔でフィンをみつめる。
そのときリーダー格とおぼしき男がフィンに向かって言った。
「おまえはこの女の知り合いか?」
「まあ、知らんわけじゃないが……いったいどうなったんだ」
「見りゃ分かろう! 仲間がそいつに殺されかかったんだぞ!」
男達はどうも鉱夫のようだ。みないい体格をしている。
「でも死んじゃいないよな。んじゃまあ、そういうことで、ここは俺に免じて、なかったことにしてもらえないかな」
「ふざけるな!」
怒るのも当然である。
「そんなに怒るなよ。な。君たちだって家族があるだろ?」
「それがどうした!」
「だから、人生にとって大切なのは暖かい家庭だということだ」
「てめえ! ぶっ殺されたいか!」
「これだけ言っても分かってもらえないかな」
分かってもらえるはずがない。
男達は真っ赤な顔でじりじりとにじり寄ってきた。アウラがそれを見て薙刀を構えなおした。
「しょうがない。この手だけは使いたくなかったが……」
フィンはそう言いながら手を前にかざした。すると……
どすん!
そんな音とともに男達とその後ろにいた見物人がいきなり吹っ飛ばされたのだ。
といっても全員転んだだけで、怪我をするほどではないが……
だがあまりにも不意の出来事だったので、あたりは大騒ぎになった。
その隙にフィンはアウラの薙刀を掴んだ。普通なら手を引っ張るところだが、彼はこの五日間で十分学習している。
「こっちへこい!」
「ええ?」
その展開に一番驚いていたのはアウラだった。
《こいつ……何なのよ?》
だがフィンはそのままアウラの薙刀をぐいぐい引っ張っていく。思った以上に力が強い。彼女は付いて行くしかなかった。
「ああ! 待ちやがれ!」
男達が立ち上がろうとしている。フィンは振り返るともう一度あの魔法をぶっ放す。再びあたりが騒然としたところで、二人は人混みに紛れ込んだ。
その後どこをどう走ったのか分からないが、とにかく気づいたら二人は息を切らせながら、フィンが泊まっている宿屋の食堂に座っていた。
しばらくは彼女も茫然自失だった。
宿屋の親父が持ってきてくれたお茶を飲んで、ようやく落ち着いてくる。
アウラはフィンをにらみつけながら言った。
「どうして助けたのよ?」
「あん?」
そのときのフィンはかなり飲んでいた上にずいぶん走り回ったので、猛烈に酔いが回ってきていた。
「あんたは関係ないでしょ?」
だがフィンの目は据わっていた。
「おまえはなあ、どうしていちいちいちいちいちいちいちいち面倒ばっかりかけるんだ!」
アウラは何か言い返そうとしたが、フィンの迫力に圧倒されて口ごもった。
「だ、だって……」
「男にさわられたぐらいでいちいち刃物を振り回すな!」
「だってあいつら……」
「そういうときは水をぶっかけろ!」
「そうしたからあいつら怒ったんじゃない」
「うるさい! いちいち口答えするな! それにだな、人前でほいほい服を脱ぐんじゃない」
「いつそんなことしたのよ!」
「前やっただろ! 男ってのはな、そんな物をみるとさわりたくなるんだ! それでぶった斬られてたら、なんだ! そういうのブービートラップっていってな……」
それからフィンはまるで親父のように説教を始めた。しかも酔っぱらっていて支離滅裂だ。普通の者ならつきあっていられる代物ではない。
だがアウラは押し黙ったままそこを動かなかった。もちろん彼女はフィンの言うことをまともに聞いていたわけではない。疲れていてお茶がおいしかったのと、何故この男はこんなことをしているのだろうとずっと考えていたのだ。
そのうちフィンは一人で喋るのに飽きたようで、話題を変えてきた。
「それで、今日はどこに泊まってるんだ?」
「え?」
アウラは口ごもる。なぜなら宿はなかったからだ。
彼女もあの後宿屋を探したのだが、フィンと同様にどこにも断られていたのだ。この宿も来てみたが、部屋はないと言われて引き下がった記憶があるが……
「泊まってる宿屋だよ。送ってってやる」
「……どこにも」
「はあ?」
「どこにも泊まってないわ」
「じゃあどこで寝る気だよ!」
「そのへん」
「あのなあ! いい加減にしろよ!」
アウラの答えを聞いて何故だか分からないがフィンはかんかんに腹をたてた。
「な、何よ。あんたになんの関係があるの?」
「人に散々迷惑かけといて、今度はそのへんで寝るだ? ふざけるのもたいがいにしろ!」
フィンは意味不明のことをわめきながら立ち上がると、またアウラの薙刀をひっつかんだ。
「ちょっと! 何するのよ!」
だがフィンはそのままアウラを引っ張って、自分の部屋に連れ込んだ。
「どうする気?」
「そこに寝ろ!」
そう言ってフィンは薙刀を押してアウラをベッドの方に押しやった。
「い、いやよ!」
アウラは抗おうとしたが、ストレートな力ではやはりフィンの方が上だ。彼女は押されてベッドの上に尻餅をついてしまった。
アウラはそのままフィンが襲ってきたら本気で叩きのめそう薙刀を握りしめる。だがフィンはそれ以上は何もせずにソファの上に寝転がると、いきなり寝息を立て始めた。
アウラはしばらく呆然とそんなフィンを見つめていた。
どれほどそうしていただろう?
急に部屋の中が異様に寒いことに気がついたのだ。暖炉の火は燃えている。しかし見ると窓が大きく破れている。そこから冷たい風が入り込んでくるのだ。
《何でこいつこんな部屋に泊まってるのよ?》
破れた窓から外を眺めた。外は冷たい雨が降り始めていた。さすがにそんな中に出ていくのは嫌だった。実際本当に今日の夜どこで寝ようかと思案していたところだった。
《ここに寝ろって言ったわよね?》
アウラはベッドを見た。本来ここはフィンが寝るべき所ではないのか?
しかし彼はもう完全に眠ってしまっている。アウラは例え眠っていたとしても男の体に触りたくはなかった。
そこでアウラは毛布を取り上げると、ソファで寝ているフィンにかけてやった。もちろん体に触れないように細心の注意を払ってだが……
それから彼女はしばらく考えた後、本当はフィンが寝るはずだったベッドに潜り込んだ。
何だかとても妙な気分だった。彼女は忘れかけていた何かを思い出しそうになっていた。いったいなんだったのだろう? あれは―――あれは……
だがそれが彼女の前に現れる前に、彼女も深い眠りに落ちていった……
それからどのぐらい経ったのだろうか。
ごとん―――というような音が、暖かい布団の中でまどろんでいたアウラの眠りを妨げた。
アウラは布団から少し首を出した。とたんに冷たい空気が顔をさす。
反射的に布団に潜り込んで、再び首をだすとあたりを見回す。窓からは朝日が射し込んできている。
久々に気分の良い目覚めだった。
《こんなによく眠ったのはいつぶりかしら》
アウラは考えるともなしに考えた。
記憶にあるのはずっと毎日、真っ暗な寂しい森の中や、薄暗い大部屋の片隅で、追いつめられた獣のように神経を逆立てて縮こまっていたことだけだ……
アウラは体を起こすと深呼吸した。
冷たい空気が心地よい。だがそれにしても冷たすぎないか?
暖炉の火はすっかり消えている。
そのときアウラははっとした。
《さっきの音はなんだったのかしら?》
今まではそんな音がしていたら即座に目覚めていたのに、どうして今日はこんなにのんびりしていられるのだ?
アウラはもう一度あたりを見回した。床に何か転がっている。
アウラはその物体を見つめた。
「フィン?」
アウラは夕べのことを思い出した。彼がここに無理矢理連れてきてくれなければ、彼女はどこか町外れの地面で寝ていたはずなのだ。
そのフィンがなぜか床の上で何も掛けずに眠っている。
「フィン?」
アウラはもう一度呼びかけてみたが、フィンは動かない。
《そういえばこの人は夕べソファの上で寝ていたわ……》
ということは先ほどの音は、フィンがソファから転がり落ちた音なのだ。
アウラはひどいことをしてしまったと、自責の念に駆られた。これではフィンがあまりにもかわいそうだ。自分だけふかふかのベッドで寝てしまって……
アウラは一瞬ベッドで一緒に寝たら良かったのかとも考えた。
でもここにいるのは男だ!―――そう思った瞬間、胸の古傷がずきっと疼いた。
《やっぱりあたしがそっちで寝れば良かった……》
後悔してももう遅い。アウラはフィンを起こそうとした。
「ちょっと」
だがフィンは答えない。
「ねえ、フィン!」
フィンは動かない。どう見ても様子がおかしい。
まさか……
アウラはフィンの方に手を伸ばしかけて、はっと引っ込める。それからじっと自分の手を見つめ、覚悟を決めたように、フィンの額に触れた―――冷たい!
一瞬アウラはフィンが死んでしまったのかと思った。だが手には彼の体が小刻みにふるえているのが伝わってくる。
あわててアウラは手を引っ込めた。
アウラは暖炉の側から火かき棒を取ってきて、フィンを突っついた。
「フィン!」
フィンはか細く目を開けた。だがその目の焦点は合っていない。
「フィン!」
「ファラ……」
フィンはそういうと、再び目を閉じた。
アウラは火かき棒を放り出すと、部屋の外に飛び出した。
真っ暗な森の中だ。
フィンは一生懸命走っていた。腰の傷からはどくどくと血が流れている。
背後にはたくさんの篝火が見えている。あれに追いつかれるわけにはいかない。
《守ってやらなければ!》
フィンは心の中でひたすらそれだけを考えていた。
彼の手はしっかりともう一本の小さな柔らかな手を握りしめている。
《彼女だけは守ってやらなければ!》
彼の後ろからもう一つの息づかいが聞こえてくる。ひどく苦しそうだ。
『ファラ! がんばるんだ』
フィンは叫ぶ。だがなぜか叫びは誰にも届かないような気がした。
『ティアが戻ってくる! それまでがんばれ』
フィンは叫ぶ。
叫び声は闇に呑まれていく。
フィンはどこを走っているのか分からなくなった。ここはどこだ? とにかく今いる場所を調べなければ―――だがそのとき握っていたはずの小さな手の感触がないことに気づいた。
『ファラ!』
彼はひとりぼっちだった。すさまじい恐怖が体を突き抜ける。
『俺は……だめだったのか?』
気づくとフィンは崖の途中の岩棚にいた。
そうだ。ファラと共にここに逃げ込んだんだ。ここでティアが来るまで持ちこたえようとしていたのだ。
だがファラはどこだ?
『フィン……』
ファラの瞳が見える。ああ、良かった―――ファラは無事だ―――だがどうして君はそんなに悲しそうな目をしている?
『フィン……』
声が遠くなっていく。違うだろ! 君はここにいるんだ!
「ファラ!」
そう叫ぶとフィンはがばっと体を起こした。
彼は一瞬自分がどこにいるのかさっぱり分からなかった。
どうもどこかの宿屋のようだが―――何でこんなところで寝ているんだろう?
それからゆっくりと記憶が戻ってきた。彼はグラテスにやってきたのだ。そこで前夜祭に繰り出して酒を飲んで―――それから、そうだ。アウラが喧嘩をしていたのだ!
フィンはともかくベッドから降りようとした。そのとたんに目の前が真っ暗になってベッドに倒れ込んでしまった。いったいどうしたというのだ? 体に全然力が入らない。
そのとき部屋の扉が開いた。フィンが辛うじてそちらを見ると入ってきたのはアウラだ。
「何やってるのよ!」
フィンはますます混乱した。どうして彼女が出て来るんだ?
「どうして……君が……」
「朝起きたらあんたが死にかかってたんじゃない」
「ああ?」
そこに宿屋の主人も入ってきた。
「気がつかれましたか?」
「ああ?」
「もうびっくりしましたよ。この方が知らせてくれなかったら手遅れでした」
「いい?」
要するにこういうことだ。あの日フィンは酔っぱらってソファで寝てしまった。運が悪いことにその夜はとてつもなく冷え込んだのだ。おまけに窓は壊れて冷たい風が吹き込んでくる。フィンは典型的な酔っぱらいの凍死パターンにはまりこんだというわけだ。
「で、具合はいかがですか?」
「ああ、ちょっと、何だか力が入らないが……」
「そりゃそうでしょう。二日も目覚められないんで、もうだめかと思いましたよ」
「ふ、二日?」
「ええ、最初はもう冷たくなっていて、それから大変な高熱を出されて……本当に良かったです」
「はあ……」
「医者の言うことには、気がついたのなら暖かく安静にしておけとのことです」
「はあ……」
「とにかく何か召し上がらないといけませんね」
そういって主人は出ていった。
しばらくフィンはぼけっとしていた。まだ何が起こったのかよく把握できていなかった。
そんなフィンをアウラはじっと見ていた。
「あの、どうして君が……」
「あんたが連れてきたんじゃない」
「ええ?」
フィンはその晩のことを思い出そうとした。
確かアウラが喧嘩をしていて、薙刀を引っ張って走っていたような記憶はあるが―――その後は思い出せない。
まさかそのあと押し倒したりはしてないだろうな? いやそれだけはあり得ない。そんなことをしていたら、こんな目覚めがあるはずもない。
「うう、悪いがさっぱり覚えてないんだ……あれから二日だって?」
「そう。祭りは終わっちゃったわ」
祭りが終わったって? じゃああれだけ苦労してやってきたのはなんのためだ? フィンはそう思ったがそれ以上に、アウラが今ここにいることが不思議だった。
「二日間……君もいたのか?」
「いたわよ」
「……えー、それで……」
フィンは口ごもった。どうしていたんだとか聞いても間抜けだし、何を言えばいいんだろう?
だが口を開いたのはアウラの方だった。
「ファラって誰?」
フィンはあわてた。
「ああ? どうして知ってる!」
「寝てる間ずっと言ってたわよ」
そうか。うわごとで口走っていたのか……
「なんでもない。昔の知り合いだ」
「ふうん」
悪夢が再び蘇った。フィンは胸が苦しくなった。アウラがこれ以上興味を持ったらいったい何と言えばいいんだろう?
と、フィンは余計な心配をしたが、彼女はそれ以上は何も突っ込まなかった。
フィンが回復するのに、それから一週間かかった。彼は体力が回復すると、すぐに出立することにした。
もう冬が近い。冬になればこの地方は雪と氷に閉ざされて、身動きがとれなくなる。
別にこのグラテスでも冬越しに困るわけではない。前にメリスでやったみたいに家庭教師の口でも探せばそれなりの暇つぶしにはなるだろう。
しかしフィンはここの隣のフォレス王国の首都、ガルサ・ブランカの大図書館のことを聞き込んでいた。その図書館を訪ねてみたい、というのも今回の旅の目的の一つであった。
ガルサ・ブランカに行くのであれば、本気でそろそろ出立しないとまずい。
「ほんとに世話になったな」
出立の朝、フィンが主人に挨拶すると、主人が言った。
「やっぱりガルサ・ブランカまでいらっしゃるんですか?」
「うん。冬越しはあそこでやろうかと思ってね」
「でも最近あの道はすこし物騒なんですよ」
「盗賊の話か?」
「はい。この間も隊商が襲われたという話で」
その話はフィンも聞いていた。だが盗賊が出るという噂のない街道などほとんどない。
旅を始めて最初の頃こそフィンもびくびくしていたのだが、最近は慣れっこになってしまっていた。
「金目の物なんて持ってないから大丈夫さ」
「お気をつけてくださいよ」
「ああ。それはそうと、宿代は結局いくらだ? 医者代もいるよな?」
この騒ぎで予想以上の出費がかさみそうだ。ガルサ・ブランカに着いたら本気で職を探す必要があるかもしれない。
だが宿屋の親父の答えは意外だった。
「いえ、それは頂いています」
フィンはのけぞった。
「ああ? 何だって? 一体誰が?」
「お連れの方ですが……」
「連れって……アウラか?!」
「はい」
フィンは驚いた。
確かアウラは文無しに近かったはずだが―――来る途中も金がないからといって、大部屋に泊まろうとしてたのではないか? いったいどこから金を手に入れたのだ?
あの日以来アウラは一度も姿を現さなかった。だからもうどこかに発ってしまったのだと思っていたのだが……
「あいつ、いたのか?」
「はあ。毎日やってきてはあなたの様子をお聞きになるのですが、そのことをあなたに伝えようかと言いますと、黙っていろとおっしゃるので……」
「なんと……」
「で……あの……ちょっとお聞きしてよろしいですかね? あのお連れさんて、どういう方なんですか?」
そう聞かれてもフィンにも答えようがなかった。
「ええ? まあ、旅の道連れというか……トレンテから来る途中で足の怪我してたんで、一緒に来た、それだけなんだが……」
「奥さまじゃないんですよね?」
「そりゃもう全然違う」
フィンは思いっきり否定したが、親父はそれを聞いて少し驚いたようだった。
「でもあなたが寝込んでいたときは、ずっとつききりだったんですよ」
「ええ? そうなのか?」
「はい。最初の晩なんかはあの方がソファの上で寝てたりして……でも変なんですよ。ずっと側にいるのに、あなたには絶対触れようとしないし……あなたの汗を拭くのに、タオルを棒で挟んでたりして……」
大変よく想像できるシーンだ。フィンは吹き出した。
「よく分からないんだけど、彼女ものすごい男嫌いなんだ」
「はあ?」
「こっちも本当にそれ以上は知らないんだ」
主人は複雑な表情をした。だがフィンも同じぐらい混乱していた。
「で、アウラは今日は来たのか?」
「先ほどから宿の前でお待ちですが」
「な、なんだって?」
フィンがあわてて宿から飛び出すと、栗毛のかなりいい馬の脇でアウラが待っていた。
「ア、アウラ……」
「ガルサ・ブランカに行くんでしょ?」
「ええ? まあそうだが……」
「そこまで護衛するわ」
「護衛?」
フィンは面食らった。
「あそこに行くまでの道、危険だって。聞いたでしょ?」
「いや……そこまでしてもらわなくても……」
「いやなの?」
「そういうわけじゃないが……」
一体何を考えてるんだ? この娘は……
フィンの返事を聞いて、アウラは黙って馬に乗った。フィンは彼女を馬をよく見た。立派な馬だ。
「その馬……どうしたんだ?」
「買ったのよ」
それを聞いてフィンはつい言ってしまった。
「いったいそんな金をどうしたんだ?」
「稼いだのよ」
稼ぐ? 結構高そうな馬だぞ。宿代だって結構しただろうし―――一体何をして稼いだんだ? まさか―――強盗か?
その表情を見透かしたのだろう。アウラは釘を刺した。
「別に悪いことなんてしてないわよ⁈」
「いや、そういうつもりじゃ……でもどうして……」
「だって迷惑かけたでしょ?」
確かに大迷惑を被ったのは事実だ。彼女がいなければ、五日間も歩き続けたり凍死しかかったりは絶対していない。
彼女は彼女なりに恩返しをしたがってるのだろうが、それが迷惑かも―――などとは口が裂けても言えなかった。
「あははは、じゃ、じゃあ、お願いするよ」
フィンが自分の馬にまたがると、アウラは黙って先に歩き始めた。
《いったい何なんだ? これは……》
何だかどんどん深みにはまっていくような気がした。