第3章 渓谷下り
《うーん。ああいうのを道連れというんだろうか……?》
そう思いながら、フィンは前方を行くアウラの後ろ姿を眺めていた。
この三日間二人は一緒に旅をしてきたのだが、前と違っていることといえば、二人とも馬に乗っているということだけだった。
それどころか、あのときならばどちらかが馬を引かなければならなかったので、たまに話をする機会もあったのだが、今度はそんなことさえなかった。
アウラはフィンが馬を並べようとすると、つつっと先に行ってしまうかその場に止まってやりすごすかで、まるで前以上にフィンを避けているようにも見える。
今日もまだ彼女と話したのは出発の時に交わした「行くか?」「うん」という会話だけだ。完全な一人旅の方がまだいろんな人と会話しているような気がする。こんなに落ち着かない旅は初めてなのだが……
《まあ、どうでもいいけどね……》
グラテスからガルサ・ブランカに行くには、パロマ峠というかなり高い峠を越えなければならない。この道は東西を結ぶ街道の中では最もポピュラーな物ではあるが、それでもとても厳しい道だ。
道の傾斜は峠に近づくにつれどんどん増してきて、最後の難所にさしかかっていた。
片側は切り立った岩壁だ。のぞき込むと遙か下に急流が流れているのが見える。
道はしっかりと踏まれているので崩れたりする心配はないが、それでも馬車一台がやっと通れる程度の幅しかない。すれ違おうと思ったらどちらかがかなり後戻りする必要がある。
さらに崖下から急に突風が吹いてきたりもする。その気になればいつでも簡単に落っこちて死ねる場所だ。
《あんな先に行ってたら護衛にもなんにもならないんじゃないか?》
奈落の底のような崖下を見ながら、フィンは心の中でつぶやいた。今ここで彼がよろけたら彼女はどうするのだろう? それとも護衛というのは敵が襲ってきた場合だけの話だろうか?
まあどっちにしてもフィンは、何か起こったからといって彼女に助けを請うつもりはなかった。そうしてもらわずとも逃げ足だけは自信があったからだ。
そんなことを考えていると急に道が平坦になった。どうやら難所は越えたらしい。
それからしばらく広い尾根筋を歩いていくと開けた鞍部に出た。どうやらここがパロマ峠のようだ。
見るとそこでアウラが馬を降りている。フィンも少し離れた所に馬を止めた。
「一休みするか?」
アウラは黙ってうなずいた。
天気は良く晴れていた。だが空気は刺すように冷たい。陽が当たっていない場所には雪がこびりついている。
二人は黙って各自の携帯食を取り出してかじり始めた。
先に食べ終えたアウラは、一人峠の向こうまで歩いていった。
「ああ!」
アウラが叫ぶ声がする。フィンは驚いてその方を見る。
「どうしたんだ?」
「すごい!」
アウラがこんなに感情を露わにしたのは珍しかった。そこでフィンもそこに行ってみた。
彼女の立っていたところは、高い岩壁の上だった。その先にはすばらしい景観が広がっていた。その景色を見てフィンも驚きの声を隠せなかった。
「うわあ、すごいな」
それからごく自然な様子でフィンは宙に突きだした岩棚の上に行き、その縁に腰掛けた。それを見てアウラが驚いたように言った。
「そこって……」
「ああ? 景色いいぞ」
「あんた……怖くないの?」
「なんだ? 高いところが怖いのか?」
「だって下、何もないわよ!」
この場合はアウラの感覚の方が普通だろう。
フィンの座った岩棚は岩壁から突きだしており、うっかり滑ったりしたらもう一度地面につくまで一生分の回想は十分にできそうだ。
「ええ? ああ、こういうのは大丈夫なんだ」
アウラは目を丸くしてフィンを見ると、側に寄ってきて岩棚の下をちょっと覗いた。だがすぐに引っ込んでまた元の場所に戻る。
その後まだ何か言いたそうだったが、結局それ以上は何も言わなかった。
このあたりはリベッルラ高原と呼ばれ、四つの山脈が合流する地点だ。
空はほとんど黒みがかったような青空で、太陽は異様にぎらぎらしている。
それを背景にして、前方には真っ白に雪をかぶった山脈が延々と連なっている。フィンが今まで見たことのない雄大な眺めだ。
崖下からは鬱蒼とした森林が始まり、果てがないかのように広がっている。その森林の中のあちこちからは、大きな不思議な形をした岩が突きだしている。
二人はしばし、その素晴らしい光景に見とれていた。
そのとき、馬のいななきが聞こえた。
振り返ると、そこには何人かの男が現れていた。
男達はフィンとアウラの馬の手綱をさわっている。ここにいる二人に気づいていないのだろうか? ならば教えておく必要がある。そこでフィンは叫んだ。
「おーい! それは俺の馬だぞ」
男達はちょっと振り返って二人の方を見た。だがそれ以上は意に介さない。
フィンはどうやら嫌なことが起こったことに気づいた。次いでアウラを見ると、彼女も同様に何が起こっているか把握しているようだ。
それからいきなりアウラが走り出す。
「お、おい!」
フィンはあわてて後を追った。
「何してるのよ!」
アウラは男達に向かって言った。だが男達はにやにや笑っているだけだ。そして男の一人が言う。
「あんた達、二人かい?」
「それが何か?」
「いい馬だな」
「それはあたしのよ」
「あんたも結構いい女じゃないか?」
アウラは男をにらみつけた。
《やばい!》
フィンは心の中で叫んだ。
「そんなやせっぽちと一緒じゃなくて、俺達と一緒に来ねえか?」
そういって男は下品な笑いを浮かべた。
「いやよ」
フィンはあたりを見回した。この人数が相手なら何とかなるか? だが間にアウラが挟まっている。迂闊にあの技は使えない。
それに男達は見るからに喧嘩慣れしているようだ。失敗したら大変なことになる。
フィンが躊躇している隙に、男はアウラを捕まえようとした。
「へへへ、そう言うなって」
「おい! やめろ!」
フィンがそう叫ぶのと同時に、アウラがふっと後ろに飛び下がるが―――途端に男がすさまじい悲鳴を上げたのだ。
見るとアウラを掴もうとした男の手首の先がすっぱりと切り落とされているではないか!
いつの間に抜いたのだろう? アウラの手には薙刀が握られている。
《な、なんて奴だ?》
フィンは肝を潰した。
それは盗賊達も同様だった。だが彼らはそれでおびえてしまうほどヤワではなかった。
「このアマ!」
男達は剣を抜きはなった。
フィンは腹を決めた。
彼はアウラに向かって「そこをどけ」と叫ぼうとした。彼女がよけてくれれば、あの技であいつらを吹っ飛ばすことができる。そうなればアウラも安全に奴らを片づけることができるだろう……
ところがその瞬間、彼は向こうからさらに後続部隊がやってくるのに気がついた。
「なんだ? どうした?」
「このアマがギイの手を切り落としやがった!」
「なんだって?」
やってきた奴らは、少なく見積もっても十数名はいた。
《おい! 話が違うぞ!》
フィンは焦った。しかも中には弓を持っている者もいる。
フィンはアウラを見た。だが彼女は相変わらず平然としている。
「アウラ!」
フィンの叫びにアウラは振り返えらずに答えた。
「なに?」
「なにじゃない! 逃げるぞ!」
「どうして?」
「誰が逃がすかよ!」
盗賊がじりじり迫ってくる。
だが今のアウラの腕を見ていきなり打ち込むのは躊躇しているようだ。
フィンはその隙に自分とアウラの荷物を拾った。
それを横目で見てアウラが少し慌てた。
「ちょっと!」
盗賊達はフィンの動きを冷笑した。
「兄ちゃん。逃げられるとでも思ってんのかい?」
「さてどうかな? アウラ! これ持て!」
そう言ってフィンはアウラに彼女の荷物を放り投げた。アウラは反射的にそれを受け取る。
その隙にフィンは、いきなりアウラを抱き上げて走り出したのだ。
《ええっ?》
それはアウラにとってはあまりにもショックな出来事だった。
一瞬彼女は起こったことが理解できなかった。だがそれもつかの間、彼女ははっきりと自分の立場を認識した。
そう。彼女はいま“男”の体に密着しているのだ! 彼女は既にフィンが悪い人間ではないことは理解している。
だがこれはそういう問題ではない!
アウラは体をふりほどこうとした。だがフィンの腕力は予想以上に強かった。そのうえ体がふわふわして何だか変な感じだし、大体アウラを抱えてこんな速度で走れることが異常だった。というよりなんだか飛んでいるような感じなのだが……
「離せ! この!」
アウラは本能的に恐怖を感じて暴れた。
「馬鹿野郎! 暴れるな! 本当に死ぬぞ!」
死ぬのはあんたよ! と、アウラが言い返そうとしたときだ。彼女はフィンが何をしようとしているかに気づいたのだ。
「ちょっと……なにするの! きゃあああああああ!」
アウラでなくとも誰でもその時は同じ反応を示したことだろう。
なぜならフィンはアウラを抱いたまま、さっきの断崖からジャンプしたのだから。
アウラは思わずフィンの首にしがみついた。
《死ぬ!》
落下の恐怖が彼女を襲った。
「こら! 苦しい!」
フィンが何か言っているようだが、一体何を言っているのだ?
アウラは目を閉じたまま来るべき終末を待ちかまえた。
だが……
だが……
…………
アウラは恐る恐る目を開けた。何かがおかしい。
少し離れた所に岩壁が見える。その上に……盗賊が立ってなにやらわめいているようだ。
下を見ると……
「きゃあああ!」
アウラは再びフィンにしがみついた。
彼らは空中に浮かんでいたのだ―――正しくはゆっくりと落ちていたというのが正解だが……
「こら! 苦しい! 首を絞めるな」
その言葉はアウラの耳には届かなかった。
そうやってどのくらいの時間が過ぎたのだろう?
多分数分も経っていないだろうが、アウラにはまるで無限の時間が経ったかのように感じられた。
フィンとアウラは森の中の大きな岩の上に着地した。岩の下には渓流が流れている。
アウラは何も考えられなかった。
心臓の音だけがやけに響いている。
時が止まっているようだ。
「で、そろそろ降りてもらえるかな?」
アウラはびくっとして振り返った。ほんのすぐ側にフィンの顔がある。
「きゃあああああ!」
「あ! やめろ!」
アウラはもがいた。その拍子にフィンはバランスを崩して、二人はそのまま下の渓流に転落する。
氷のように冷たい水だった。
二人はあわてて岸に這い上がったが、心底冷え切ってしまった。
「あ、あのなあ、それはないだろ?」
だがアウラはまだ何も考えられなかった。
お、男に抱きかかえられて―――男に抱きかかえられて―――それから落ちて―――落ちて……
フィンはぶつぶつ言いながら濡れた服を乾かすためにたき火の準備を始めた。
アウラはぼうっと突っ立ったまま彼のする事を眺めていた。
炎が燃え上がるとフィンが言った。
「それ脱げよ。凍死するぞ」
「ええ?」
「びしょ濡れじゃないか」
そう言われて初めて彼女は自分ががくがく震えているのに気がついた。
「脱いでこれ着てろ」
フィンがそう言って替えのシャツを差し出した。アウラはそれを受け取ると黙って濡れた服を脱ぎ始めた。
それを見てフィンがそっぽを向く。それに気づいて反射的にアウラもフィンに背中を向けた。
着替え終わると二人はたき火を挟んで向かい合って座った。
「前にもこんなことがあったな」
「そうね」
はじける炎から暖かさが伝わってくる。やっとアウラはまともに物が考えられるようになった。
それと共に怒りがこみあげてきた。
「どうしてこんなことしたのよ」
「だって、多勢に無勢だ。しょうがないだろ?」
「あのぐらいならなんとかなったわ」
「俺にそんなことわかるか」
「あたしが護衛するっていったでしょ? あの馬高かったのよ!」
フィンはアウラをにらみつけた。
「死んだらどうするんだ!」
「死なないわよ!」
「わかるか!」
アウラは言葉に詰まった。一体どうすればこの男を納得させられるというのだ?
だがフィンは黙ってうつむくと、小さな声で言った。
「目の前でそんな物を、見たくないんだ……本当に……」
そう言ったフィンはひどく悲しそうに見えた。アウラはそれ以上何も言えなかった。
しばらくまた二人は黙って炎を見つめていた。しばらくして口を開いたのはアウラの方だった。
「で、これからどうするのよ」
フィンが空を見上げると、日はだいぶ西に傾いている。服はまだ半乾きだ。
「これじゃ今日はここで野宿するしかないな」
「野宿って……でそれから明日は?」
「さあ。ともかく峠に戻るしかないな。あいつらも明日まではいないだろう」
「戻る道知ってるの?」
「いや……でも多分どこかに上がるとこはあるさ。それより今晩食う物は何かあるのか?」
「あまりないわ」
道中宿伝いの旅だ。二人とも昼の携帯食しか持っていなかった。
「仕方ないな。そこの川で調達するしかないか」
「釣り道具があるの?」
「いや、道具はないけどね」
フィンはそう言って立ち上がるとにやっと笑った。それから川の中に入っていった。
「手で捕まえるの?」
「まあ、見てろって。それより下流の方に立っててくれる?」
アウラは何だかよく分からないが言うとおりにした。
フィンは手を前に差し出して、精神集中する。次の瞬間どすんというような音がして、大きな水しぶきが上がった。
と、同時に魚が何匹か気絶して浮き上がってくる。
「それだ!」
アウラはあわてて流れてくる魚を拾っては、岸に放り投げた。
あっと言う間に大きな魚が五匹も手に入った。
獲物を持ってたき火に戻ると、アウラはまじまじとフィンを見つめた。
「あんたって、便利ね」
「まあな」
「そんな魔法が使えるなら、どうしてやっつけなかったのよ?」
とたんにまたフィンが暗い顔になった。
「たぶん無理だった」
「どうして?」
「見ただろ? こういうのを使うときには、絶対“ため”がいるんだ。相手がびびってくれなかったら、撃つ前にこっちがやられちまう」
フィンは自分の手を見つめる。
「それにな、実を言うとこれが手の内すべてだ」
「え?」
「俺ね、魔法使いとしちゃ三流なんだよ。できることといったら、小さい火の玉を出すことと、物をちょっと吹っ飛ばすことと、ゆっくり落っこちること、それだけなんだ」
アウラはなんとフォローしていいか分からなかった。
「でも……まあ、火種には困らないし……逃げるのには便利ね」
「まあな」
フィンが黙ってしまったので、アウラは夕食の支度をすることにした。
彼女は河原から丸石をいくつか拾ってくると、たき火の中に放り込んだ。それからナイフを取り出して魚をさばきにかかった。
それから彼女はバッグから革鍋を取り出すと、水を入れてその中に魚の切り身を入れ、さらに焼けた石を入れた。
適当に魚が煮えた所に、アウラは持っていた塩と香草を入れる。あたりに良い香りが漂いだした。
フィンはアウラの手慣れた手つきに、少しびっくりしていた。
《こいつ……人斬り専門じゃないんだな……》
そんな失礼なことを考えていると、急にアウラが言った。
「カップぐらいあるんでしょ?」
「あ、ああ」
「適当に取って」
フィンは自分のカップを取り出すと、アウラの作ったスープをすすった。極上だ。彼は魚は手に入れた物の、単に焼いてかぶりつくだけだと思っていたので、それがこんな料理に化けたことに心底感動していた。
《こいつ……見かけによらないな》
フィンが妙な顔をしているので、アウラが言った。
「なんか変?」
「いや、めちゃくちゃ美味い」
「ふうん」
別に喜んだ風もなく、アウラは自分の分を口に入れた。
「まあまあね」
「こんなやり方、どこで覚えたんだ?」
「ブレスに教わったのよ」
「ブレス?」
「父さんよ」
「へえ。君の父さんって、料理人なのか?」
「違うわ。剣士よ」
「へえ」
どうやら彼女の父親は料理の得意な剣士だったのだろう。
「それにしても、いつも鍋とか調味料を持ち歩いてるのか?」
「あたしあまり宿には泊まらないから」
なるほどな。
フィンも天気が良いときに時々野宿したこともあったが、本当に気が向いたときだけで、そのためこのような装備は持っていなかった。
二人が予期せぬ豪華な食事を終えたときには、日はとっぷりと暮れていた。それと共に寒さも厳しくなってきた。
フィンはポンチョにくるまって横になった。冬用の結構分厚い奴だが、大丈夫だろうかと少し心配になった。腹一杯なんだしそう簡単に凍死なんてことはないと思うが……
そのときアウラが言った。
「寒いの?」
「いや……」
「寒いんだったら……」
フィンを見つめるアウラのまなざしに、フィンは胸を貫かれたような気がした。
まさか―――寒いんだったら? いや、まさかそんなはずはない。でもこういうときの定番は―――肌と肌を……
「暖まった石を入れとくといいわよ」
そんなわけがなかった。
「あはは、そうだな」
「それじゃおやすみ」
そう言ってアウラも横になると、すぐに彼女の寝息が聞こえだした。
《いったい俺は何を考えてるんだ?》
フィンはなかなか寝付けなかった。
次の日も天気は良かった。こういう状況に陥った二人にとって、それは最大の幸運だった。
二人は朝食を食べ終わると、荷物をまとめて、黙って上流の方に歩き始めた。予定通りに峠まで上がってそれから街道を下るつもりだったのだ。
だが少しも行かないうちに、それはほとんど無理だということがわかった。
「この崖を登らなきゃいけないのか?」
二人の行く手には、昨日飛び降りた崖が三方向を囲むようにそびえ立っている。どこかに道ぐらいあるだろうと高をくくっていたのだが、いくら探しても登路は見つけられなかった。
「あんたの魔法で何とかならないの?」
崖を見上げながらアウラが尋ねた。フィンも同様に上を見上げた。あの魔法をかけながらジャンプすれば、結構高く跳び上がれるのだが、あの高さまでは無理だろう。途中にテラスでもあればいいのだが―――見事に垂直にそそり立っている。
フィンは首を振った。
「昨日言っただろ? 俺ができるのはあれだけで、飛んだりはできないんだよ」
「じゃあどうするのよ」
フィンはちょっと考えてから言った。
「この谷を下って行くしかないだろうな」
「そんなの危ないわよ。馬鹿げてるわ!」
彼女の言うことは全く正論だった。
彼らの状況は、遭難した登山者のようなものだ。谷を下っていくというのは、特にこんな深い谷ではまず自殺行為である。
だがフィンは落ち着いていた。
「確かにな。でも考えてみなよ。この谷は水量はあんまり多くないから溺れる心配はないだろ? 危ないのは滝とか崖だが……」
そう言ってフィンはアウラに微笑んだ。
アウラは言葉に詰まった。確かにそのとおりだ。目の前の崖を安全に降りてきたのは、昨日のことではなかったのか? この男さえいれば崖だの滝だのは全然怖くない。この男さえいればだが―――次の瞬間、アウラはそれが何を意味するか思いだしていた。
《またこいつにしがみつくの?》
とんでもない! 昨日のあれは不意を突かれて仕方なかったのだ。またあれをやるなんて、まっぴらごめんだ!
だが他にどんな選択肢があるというのだ?
アウラはこの崖が登れないかどうかもう一度よく眺めてみた。ちょっとぐらいの崖なら何とかなるのだが―――だがここの崖はどうしようもなさそうだ。
アウラは考え込んだ。
しかしいくら考えたからといってどうなるものでもない。
「どうする?」
フィンの問いかけにアウラは顔を上げた。
こんな場合は仕方ないだろう。それに滝が絶対あると決まった訳でもないのだ。
アウラは黙ってうなずいた。
それを見てフィンは黙って下流の方に歩き始める。アウラも黙ってそれを追った。
このあたりは地元の猟師も来ないらしく、ほとんど道なき道である。歩きにくいことこの上ない。
だがアウラにとってはそんなことはどうでもよかった。彼女は滝があったらどうしようということだけ考えていた。
最初にあったのは高さが五メートルぐらいの小さな滝だった。だがこういうところでも落ちたら足の骨ぐらいは簡単に折れてしまうだろう。
「どうする?」
フィンが下を覗きながら言った。
「先に降りて。下からなら足場もよく見えるでしょ」
「……わかったよ」
そう言ってフィンは崖下に飛び降りた。
「ああ、ここなら大丈夫そうだな。左手の大きな割れ目づたいに降りれば大丈夫だ」
アウラは言うとおりに左手に向かう。
そこにはフィンの言ったとおりに人一人が入れそうな裂け目があった。アウラはそこを安全に降りることができた。アウラは心から安堵した。
それからしばらくはそんな調子で過ぎた。
しかしフィンがどういうところでも軽々と動けるのに対して、アウラは一歩一歩が大変だった。彼女はフィンが羨ましくなってきた。
そのうちに二人は谷が合流している所に来た。二人が下ってきたのは支流だったようで、本流に入るとかなり水量も増している。今では川幅は六~七メートル近くはあるだろうか。
二人はしばらく川岸を下っていったが、段々川岸が狭くなってきた。前を見ると川が大きくカーブして深い淵になっている。
「この辺で渡らないと」
フィンが言った。確かにこのあたりで渡らないと泳がなければならなくなる。このあたりなら飛び越せるほど狭くはないが、歩いて渡れるのは確かだ。
「そうみたいね」
アウラはうなずいて荷物を下ろそうとした。渡渉するなら装備や服が濡れないように準備する必要がある。それを見てフィンが言った。
「なあ。こういう場所がある度にばしゃばしゃ渡る気?」
アウラはフィンをにらみつけた。彼が言いたいことは分かっていた―――ちょっと抱きついていればこんな所は一っ跳びなのだ。だが……
《抱きつく? こいつに?》
そう思った瞬間アウラの胸の傷が痛んだ。
「先に行ってていいわよ」
アウラは自分が足手まといになっていることは重々承知していた。
だがそもそもこんな羽目に陥ったのは、この男が勝手に彼女を連れて飛び降りたせいだ。少しぐらいは我慢してもらうしかない―――そう思ってもやはり自分がふがいなかった。
「あのさ、別に掴まってなくても、俺の近くにいればあの魔法は効くんだけど、やってみる?」
「ええ?」
「その薙刀しっかり持ってて」
アウラは言われるままに薙刀を持った。フィンがそれを掴んで上に放るようにすると、アウラは急に体が軽くなって浮き上がった。
「いやっ!」
アウラは驚いて声をあげた。
「大丈夫だよ」
もう一度やってみると、今度は大丈夫だった。
「じゃあ今度は一緒に跳び上がってみよう」
二人はその場で同時にジャンプした。そんな力を込めていないのに二メートルほど跳び上がって、ゆっくりと着地する。
何だかすごく気持ちが良かった。
アウラはフィンの顔を見た。フィンは彼女に得意そうな笑みを見せる。
アウラは慌てて目を反らした。
「行けそうみたいだな。こんな感じで川を飛び越せばいいんだ」
アウラはうなずいた。これだったら大丈夫だ。そこで二人は同じようにして川岸に並んで立った。
「じゃあ行くよ」
アウラがうなずく。それから合図と共に二人はジャンプした―――のだが、タイミングが合っていなかった。そのため、空中でいきなりフィンとぶつかりそうになってしまったのだ。
あっ!
身に付いている性はそう簡単に直るものではない。気づいたときにはアウラはフィンを思いっきり突き飛ばしてしまったあとだった。
「うわああ!」
「きゃああああ!」
フィンは回転しながらそのまま対岸に突っ込んでいく。
アウラの方はフィンの魔法が切れたため、川の真ん中に転落して大きな水しぶきをあげた。
川は膝ぐらいまでの深さしかなかったから溺れるようなことはなかったが、もちろん何もかもびしょ濡れになった。
おかげで二人はそこで留まってアウラの服や荷物を乾かさなければならなかった。
二人はまたたき火を挟んで座り込んでいた。
しばらくしてアウラは言った。さすがに今回の事故の責任は自分にある。
「あの……ごめん」
「え?」
「押しちゃって……」
「ああ」
フィンもさすがに怒っているようだ。だがアウラは続けた。
「それで……乾く間練習できる?」
「え?」
フィンは驚いたようにアウラを見た。
「跳ぶタイミングが合ってなかったから……」
「そうだね。じゃあやってみるか?」
それから二人はジャンプの練習を始めた。
元々一緒にジャンプするだけの話なので難しいものではない。すぐに二人は息があうようになった。
おかげでそれからの旅程は今までより遙かにはかどった。
障害を飛び越したり、ちょっとした崖や滝ならばそうやって飛び降りることができたからだ。
フィンもアウラもこの調子ならば何とかいけるかもしれないと考え始めていた。
だがついに二人はどうしようもない所に来てしまった。
フィンはその滝を上から見下ろした。
「うひゃあ、こりゃ高いな」
彼らのすぐ脇で川はいきなりとぎれ、轟々という音と共に遙か下まで流れ落ちている。
フィンはアウラを振り返った。
「こりゃ失敗したら真っ逆様だ」
アウラは唇を噛んだ。
最初の失敗の後はおおむねジャンプはうまく行っていた。
だがもう絶対に大丈夫かと言われたらアウラは確証がもてなかった。実際フィンに近づきそうになってバランスを崩しかけたことは何度もあった。
今までのような所ならばたとえ失敗しても、せいぜい濡れる程度で済んだ。だがここではそうは行かないだろう。その上フィンまで巻き添えを食って死んでしまうかもしれない……
彼女がフィンに抱きついて全てを任せていれば、そういう心配はない。しかしもちろん彼女がまた男とくっついていなければならないことを意味するわけで……
アウラはしばらく考えた。だが一体他にどういう手段があるというのだ?
そして彼女はついに決意を固めた。
「どういう風にすればいいの?」
「負ぶさるのがいいな。それがこっちも楽だから」
そう言ってフィンは背を向けた。
アウラはうなずいたが―――すぐにそうすることはできなかった。
彼女は手を伸ばしたまましばらく躊躇していたが、ついに思い切ってフィンの背中に負ぶさった。
途端に体がかっと熱くなったような気がした。心臓は早鐘のように打っている。アウラは目を閉じた。
早く終わって欲しい。とにかく早く……
―――だがそのときフィンは全く別なことを考えていた。
最初に今までほとんど触れたことさえなかったアウラの腕が首にいきなり絡みついてきたとき、彼の体にも電撃のような物が走ったのだ。
次いで彼女の胸がフィンの背中にぴったりと密着してその鼓動が直接に伝わってくる。耳元には吐息がかかってくる―――それが何なのかを意識した途端、フィンの体も熱くなってきたのだ。
《こいつ……こんなに胸があったか?》
考えてみたらアウラとはずいぶん一緒にいるが、こんなに彼女を女性として意識したのは初めてだ。彼は今、若く美しい女性とたった二人きりで旅をしているという事実を初めて実感していた。
そんな調子でフィンがなかなか飛び降りないので、ついにアウラがフィンの頭を小突いた。
「さっさと落ちなさいよ!」
フィンは慌てて我に返った。
「分かったよ。今度は首絞めるなよ」
そう言ってフィンは滝の上からジャンプした。
「!!」
叫び声をあげたくなるのをアウラは必死にこらえた。怖いからではなかった。そうではなくこれが一人では絶対に見ることのできない素晴らしい光景だったからだ。
《すごい!》
まるで鳥になったような気分だ。とても気持ちが良かった。もっとずっとこのままでいたい! そう彼女は感じた。
だがそのときにはもう、彼は既に滝壺の脇の小さな平地に着地していた。あっという間の出来事だった。アウラはひどく残念な気分になった。もっとこうしていたいという気がした。
だが次の瞬間にはアウラは自分が何にしがみついているかを思いだす。アウラは慌ててフィンから飛び離れた。
心臓がどくんどくんと音を立てている。
胸が苦しい。膝ががくがくしている―――アウラは思わずうずくまった。それを見てフィンがあわてて駆け寄ってくる。
「だ、大丈夫か?」
フィンが言ったが、アウラは半分放心状態だった。
「とにかく一休みしよう」
アウラはかろうじてうなずいた。何故かアウラはフィンの顔を直視できなかった……
それから数日間、二人はこんな調子で谷を下り続けた。
谷は想像以上に深かった。小さな滝や崖などは数知れず、フィンに負ぶさって大ジャンプしなければならないような場所にも何度も出くわした。
もしフィンの能力がなければ二人は確実に谷から脱出することはできなかっただろう。というよりフィンの能力があってもぎりぎりのところだった。
両岸が切り立った絶壁になっていて、その下を激流が走っている場所に来たときは、二人はもうだめかと思った。その場所は絶壁の上を捲くことで何とか通過できた。
もっとひどかったのは、途中で雨に振り込められたときだった。
その日は二人で運良く見つけた岩屋でずっと寒さに震えるしかなかった。
どんな断崖絶壁や凶悪な獣などよりも悪天が一番の敵だった。雨がそれ以上続かなかったのは、本当に運が良かったとしか言いようがなかった。
だからそんな風にして飛び降りた最後の大滝の下に小さな猟師小屋を見つけたときは、二人は心の底から安堵の叫びをあげた。
小屋があるということは、人が普通に歩いていける道が下界まで通じているということだ。実際小屋の前からは踏み跡が川下に向かって延びている。
それを見てフィンが言った。
「やったな。ここまで来れば後は何とかなるぞ」
やっとこれでこの苦労から解放されるのだ。アウラもきっと喜んでいるに違いない。
フィンはそう思ってアウラの方を見た。
「そうね」
なんだか気のない返事だ。フィンは彼女が嬉しくないのだろうかと思った。
彼女は最近疲れているようにも見えた。考えてみればああ見えても彼女は女なのだ。
この何日間かの旅はフィンにとっても相当にハードな物だった。それに関してアウラが不平をこぼしたことは一度もなかったが、彼女は弱音を吐くタイプには見えない。間違いなく相当疲れているはずだ。
「ともかく今晩はゆっくり寝よう」
その言葉にアウラはまたも曖昧にうなずいた。
その晩二人はその猟師小屋を借りることにした。
粗末な小屋だったが、ちゃんと屋根はついているし中にはたくさんの寝藁が準備されていた。今までの野宿に比べれば天国のようだ。
おかげでその夜は二人とも久々にゆっくりと眠ることができた。
そうして次の朝フィンが目覚めたときには、もう日はずいぶん高くなっていた。
「いかん! 寝過ごしたか?」
身を起こすとアウラの姿がない。
フィンはあわてて小屋の外に飛び出した。そこにもアウラの姿はない。
《出てったのか?》
考えたら当然かもしれない。ここからならもうフィンがいなくても下界に降りることができる。
この何日かは彼女にとってはとてつもなく辛い日々だったに違いない。彼女にとってはまさに生きるか死ぬかに匹敵するような究極の選択の連続だったはずだ―――その証拠に滝から飛び降りた後は、アウラはいつもうずくまって肩を震わせて動けなくなっていたではないか……
そう思うとなぜかため息が出てきた。
「好きなようにすればいい」
フィンはそうつぶやいたが、胸の中がぽっかりと空洞になってしたまったような気がした。
《あんな変な女でも、こんなに一緒だったら情が移るか……》
フィンはぼけっとそんなことを考えながら、顔を洗うために滝壺の方に向かった。
そのときだ。
「??」
何かが落ちている。なんだ? 白い布のようだが……
フィンは近寄って調べてみた。どうも下履きのようにも見えるが……
「何してるのよ!」
フィンがあわてて顔を上げると……
………………
…………
……
そこには岩陰から出てきたアウラが一糸まとわぬ姿で立っているではないか!
前に見たときは胸だけだったが、今はその全身が露わになっている。
フィンの視線はそんな彼女に釘付けになってしまった。
前のときはその胸にある巨大な傷跡から目が離せなかったが、今回はそれに加えて彼女の引き締まった美しい肢体に見とれてしまったのだ。
フィンはずっとその姿を見ていたかった。
《綺麗だ……》
きめ細かい肌の上に多数の水滴が朝日に輝いて、まるで宝石のように―――胸の二つの膨らみが律動する度にその宝石が肌を転がり落ちて―――それと同時に今度は濡れぼそった真っ黒な髪から新たな宝石が生まれ出して―――その髪の間から輝く二つの瞳はまるで……
獲物を見つけた狼のようにフィンをにらみ返している‼
「うわ、あ、いや、その」
フィンはやっと何に見とれていた気づいて、あわてて弁解しようとした。
だがまともな言葉が出てこない。しかもそう言いながら彼の視線は彼女に吸い寄せられたままだ。
アウラは黙って前に進んできた。
「そこどいてよ」
「え? ああ」
フィンはあわてて横に避けようとして濡れた石を踏んで滑り、派手な水しぶきをあげて川の中に倒れ込んだ。
アウラはその音に少し驚いたようだが、川の中にへたり込んでいるフィンをちらっと見ただけで、そのまま自分の服を取って行ってしまった。
フィンはしばらくそのまま彼女の後ろ姿を目で追いかけたが、彼女が見えなくなったとたんに猛烈な冷たさに気づいて飛び上がった。
《な、なんでだよ?》
フィンが立ち直れるまでにはしばし時間が必要だった。
おろおろしながらやっとのことで小屋に戻ったとき、アウラは薪を集めてたき火の準備をして待っていた。
「あ、あの、そういう気はなくて……」
フィンはまだしどろもどろだった。
「こんな寒いのに、まさか水浴びしてるなんて……」
「汚れてたんだからしょうがないでしょ? で、これ」
そう言いながらアウラは薪を指さして着火を促したが、フィンはその仕草に気がつかなかった。
「え? あは、そうだよね。はは」
思い起こしてみれば確かにアウラはお洒落というわけではなかったが、ぞんざいな格好をしていることもなかった。髪はちゃんと梳いていたようだし、服もきちんと清潔だった。
それを思えば今のフィンの格好の方がどうだろう? あちこち泥で汚れたり破れたりしていて、かなりみっともない。これは街道まで出たらまず服をどうにかしなければ―――などとフィンがあらぬことを考えていたら、アウラがじれったそうに言った。
「早くつけてよ」
「え? 何を?」
「だから早く火をつけてって」
フィンはそれでやっと目の前にたき火の準備ができていることに気づいた。ますますもってみっともない。彼ははあわてて火を出そうとしたが、あまりにも混乱していたので何度も失敗した。
やっと炎が燃え上がると、アウラは何事もなかったかのように朝食の支度を始めた。
フィンは恐る恐る彼女をみつめる。
《怒ってないのか?》
アウラの様子は全く今までと変わらない。
それを見てフィンはいぶかった。一体どういう娘なのだ?
普通ああいうことになったら騒ぐのは娘の方だろう? まるで反対ではないか。
大体男に触れられるだけであんな過剰反応する女なのだ。即座に斬り殺されたっておかしくないだろうに……
朝食のスープができあがると、いつものようにアウラはフィンのカップにそれを注いだ。
「ほら」
「あ、ありがとう」
だが彼はまだ混乱から回復はしていなかった。そのためスープを飲もうとして、その熱さに舌をやけどした挙げ句、派手にむせ込んでしまった。
それを見てアウラが冷ややかに言った。
「女の裸を見たぐらいで。あんた童貞?」
「ぶはっ! うぎゃ!」
フィンは更に派手にスープを吹き出した挙げ句、持っていたカップをひっくり返してその熱さで跳び上がった。
これがはり倒されたのであれば、百二十パーセント納得がいっただろう。
だがフィンはこういう攻撃だけは全く予想していなかった。