魔法使いと薙刀娘 第4章 あり得ない出会い

第4章 あり得ない出会い


 猟師小屋を見つけた後は、それまでの苦難が夢のように順調な道のりになった。

 次の日二人はすぐに街道まで出ることができ、その日の晩は宿屋でゆっくり休むことさえできた。

 その後はガルサ・ブランカまで向かう荷馬車に乗せてもらえたため、歩く必要さえなかった。

 二人が目的地のガルサ・ブランカにたどりついたのは、それからわずか二日後のことだった。

 フォレス王国の都、ガルサ・ブランカは美しい湖の畔にある。

 グラテスのように城壁に囲まれているわけではないが、にぎやかさはよく似ている。

 ただグラテスと違って町の中央には立派な城があった。その城の東西にそびえる高い塔は、遠くからでもひときわ目立っている。

 グラテスは自由都市と呼ばれてどこの国にも属さない自治体だったが、ここはれっきとした王国の都なのだ。

 しかし都と言うにはかなり小振りな街であるのも事実だった。

 なにしろこのフォレス王国はこのあたりでは一番小さい国として知られていた。

 面積が狭い上に高原地帯なので農作物はあまり取れず、食料は北のベラ首長国からの輸入に頼っている。人口も少ない。

 それでもこの小国が成り立つのは、ここが東西を結ぶ街道の要衝にあたるため、交易から多額の収入があるためだ。

 実際二人は街の入り口で通行料を徴収された。だがそれを払ってしまうともう他のことはほとんど訊かれもしなかった。これが他の国だったら出入りする際にはもう少しいろいろ取り調べを受けることもあったので、フィンは少し拍子抜けした。

 ただ一般の旅人や商人にとってはそっちの方がいいに決まっている。何本かある東西の街道でもこの道が一番にぎわっているのは、そういう理由があったからかもしれない。

 こうして二人がガルサ・ブランカに到着したのはまだ昼過ぎだったが、さすがに疲れていたので早々に宿屋を見つけてチェックインした。もちろん部屋は別である。

 フィンはすぐに風呂に入って旅の垢を流すと、個室のベッドに倒れ込んだ。

《ふう。やっとついたか》

 グラテスからここまで、本来ならば馬で四~五日の行程である。

 それが二倍以上の期間をかけた挙げ句、ほとんど道なき道の強行軍である。

 この数日は楽だったとはいえ、溜まった疲れは半端ではない。それに明日からは下宿探しをしなければならない。冬中ずっと宿屋泊まりでは金がかかりすぎるからだ。

 そのためにも今日は疲れを癒やしておかなければならない……

 食事の時間まではまだ少し間がある。その間フィンは一眠りしようとした。

 だが目を閉じても一向に眠くならない。

《そういえばあいつは明日からどうする気なんだろう?》

 すっかり忘れていたが、アウラはここに来るまで警護するという約束だったはずだ。そうすると、これで晴れて二人とも自由の身ということになる。

 だがそう思ってもフィンは何かピンと来なかった。

 この何日か、アウラと一緒にいるのが何だか当たり前な感じになっていた。また別れる? 考えてみたら当然だ。だが、何だか別れた後のことなど想像もつかないような気がした。

 アウラはまた旅に出るのだろうか? それともここで冬越しするのだろうか?

《二人で下宿借りたら安くつくかな……》

 それからちょっと間をおいて、フィンは一人で吹き出した。いくら何でもあり得ない話だ。一体どうしてそんなことを考えてしまったのだ?

 フィンはぶるぶる首を振ると天井の染みをにらみつけた。

 実際アウラはこれからどうする気なのだろうか? もちろん彼には関係のないことだが、今後のことを訊いてみたからといって罰が当たるわけではないだろう。

《変な奴だよな……》

 フィンはそう思ってベッドの上で寝返りを打った。

 何だか目が冴えている。無理矢理目を閉じると、今度は瞼になぜかあの日のアウラの姿が浮かび上がってきた。

 美しい肢体―――宝石のような水滴が朝日に輝いて……

 フィンはぞくっとしてベッドから体を起こした。

《くそ! 刺激が強すぎたか?》

 フィンも正常な若い男である。

 あの日以来フィンはアウラをますます意識せざるを得なかった。

 何しろ周りに誰もいない森の中でたった二人きりの旅なのだ。街道に出たからといって状況が大幅に変わるわけでもない。

 おかげで最後の三日間はますますおかしな調子だった。

 それまではフィンが近づくとアウラが逃げ出していた。だがあれをきっかけに逆になって、今度はアウラが近づいて来るとフィンの方が逃げ出していたのだ。

 フィンはそれまでもしばしば、アウラがいったいどういう生い立ちをしてきたのか想像していた。

 どこで生まれたのだろうか? とか、どういう育ち方をしたら、あんな男嫌いになるのだろうか? とか……

 考えられるのは、小さい頃に男にひどい目にあったためにああなってしまったということだが―――フィンはあの日まではそう考えていた。

 しかし今ではますます彼女が分からなくなっていた。

 もし彼女が昔、暴行などを受けてそれ以来ずっとああなのだとすれば、彼女は男のことなど何も知らないはずだ。あの日にフィンがノックアウトを食らったようなセリフは、相当そんな経験がないと出てくるはずがない。

 男に触れもできない女が一体どうして?

《一体何者なんだ? あいつ……》

 そういえば彼女は男に見られても全然動じなかったが―――ということは裸を見られ慣れてしまうようなことをしていたのだろうか?

 いやそれも違うような気がする。別にフィンは女を知らないわけではなかった。裸を見られても慌てない女というのはよく知っている方だ。

 だがそういう女は自分の姿が相手にどういう影響を与えるか知っていてそうしている。

 同じように裸で立っていたとしてもアウラの態度はそれとは全く違っていた。

 彼女はあのとき隠そうともしなかったが、見せようともしてはいなかった。まるで服を着ていないことに気づいていなかったとしか言いようがない態度だ。

 もちろん彼女は自分が裸だったことを知っていたわけだが―――謎だ……

 フィンはしばらくそんなことを考えながらベッドの上でごろごろしていた。

 だが考えれば考えるほど混乱してくる。

 そしてついにアウラの姿だけが脅迫観念のように瞼の裏に浮かぶようになってきた。

「だめだ! こりゃ!」

 フィンはそうつぶやくと立ち上がって服を着直した。

 フィンはそのまま部屋を出て、宿屋の番台に行くと主人に尋ねた。

「窓のない部屋ってどの辺にあるかな?」

 もちろん主人はフィンが何を言っているのか理解した。

「城の東側でさ。ここを出てずっと左に行って……」

 主人はにやにや笑いながら細かく道を教えてくれた。

「ありがとう。今日は帰らないと思うんで夕食はいらない。荷物はよろしく」

 部屋代がちょっともったいないが仕方ない。

「お気をつけて」

 フィンは宿から出ると教えられた道をたどった。

 やがて人通りの多い道に出ると、行く手に外壁を白く塗られた窓のない建物が見えた。

“窓のない部屋”というのはこのあたりで高級遊郭のことを指す隠語だ。

 遊郭の入り口には品の良い字で“アサンシオン”と書かれた看板が出ている。

《あいつがいなきゃまっすぐ来ても良かったな……》

 そう考えてから、フィンは彼がアウラに遠慮しなければならない理由などないことに気づいた。

《大体あいつがいたって何をやらしてもらえる訳でなし……》

 途端にまたアウラの姿が瞼に浮かぶ。

 フィンは慌ててそれを打ち消すと、遊郭の入り口をくぐった。

「いらっしゃ~い!」

 入ってきたフィンに、中程の番台に座っている姉御が声をかける。

 番台に行くと、姉御は尋ねた。

「初めての方? でしたら……」

「ああ。もちろん」

 フィンは姉御に銀貨を三枚渡すと同時に、財布の中身がちゃんと入っていることも示す。姉御は一応フィンを信用したようだった。

「今日はお泊まり?」

「ああ」

「ご指名はございます?」

「いや、姐さんにお任せするよ」

 もちろん初めてのときにいきなり指名などというみっともない真似をしてはいけない。

「どんな娘がお好み?」

「そうだね……おとなしめの娘がいいな。あ、それとできればマッサージのうまい娘。歩き通しで足が痛くてね」

「遠くからいらしたんですか?」

「ああ。グラテスから来たら途中で道に迷ってえらい目に会ったんだ」

「まあまあ。それじゃごゆっくりしてってくださいな」

 そう言って姉御は後ろ側の小窓をのぞき込んだ。フィンの所からも薄衣をまとった若い娘が何人も見える。

「ユーノ」

 姉御は中に向かって呼びかけた。

 だが娘達はなにか話し込んでいるようで、返事がない。

《おいおい。躾がなってないぞ》

 フィンは思った。普通なら一声で出てくるはずなのだが。

 それは姉御も同様のようだった。姉御はきつい声で叫んだ。

「ユーノ!」

「あ! はい!」

 娘が一人、あわてて出てきた。姉御は現れた娘の頭をぱしんと叩いた。

「あんた何様?」

 娘は真っ青になって謝りだした。

「申し訳ありません。あの……」

「そんなことだから、あんたにはお声掛かりがないんだよ!」

「まあ、そんなに怒らなくても」

 フィンは口を挟んだが姉御の怒りは収まらなかった。

「このお客様はね。遠くからいらしたんだよ。失礼なことするんじゃないよ!」

「まあまあ、姐さん」

 半泣きになっている娘を見てフィンはかわいそうになってきた。

「もう。お見苦しいところを見せちまって。ぶってもかまいませんことよ」

「そこまでせずとも。気にしてませんから。それと食事もお願いできますか? まだ食べてないんで」

「はい。わかりました。じゃ、ユーノ!」

 ユーノと呼ばれた娘はこくんとうなずいて、フィンの手を取った。

「ごめんなさい」

「いいって」

 ユーノはフィンを郭の中に導いた。

 奥に入るとすぐにきれいな噴水のある中庭があった。中庭の上も天井で覆われているが、あたりはたくさんの篝火が立てられ、その光で内部は真昼のように明るかった。

 こういう遊郭は普通、中庭を取り囲むように小部屋がたくさんある造りになっている。各部屋には内向きにしか窓はなく、外側には小さな明かり取りがあるだけだ。だから“窓のない部屋”と呼ばれるわけだ。

 それはここが別世界であるという演出でもあるが、同時に簡単には中から外に出られなくするための仕組みでもある。

 フィンは前を歩くユーノに語りかけた。

「それにしても、さっきは何話してたんだい?」

 彼女たちにとっては客が取れるかどうかは死活問題である。しかも彼女たちの給金は普通は歩合制なので、客を逃したらその日は無報酬なのだ。

 だからどこの郭でも待ち部屋の娘達は自分の名前が呼ばれるのを今か今かと待ちかまえているはずなのだが……

「すみません。あの……」

「ははは。王子様でも来てたのかな?」

 ユーノはなぜか真っ赤になった。

《はあ? 本当か? よくそういう話は聞くけど……》

 遊郭にももちろん様々なランクがある。ここはその中でも最高クラスである。でないとこういった大がかりな建物は建てられない。

 そしてそういうところであればかなり高位の人間が来ることも希ではない。国の王子が遊郭通いで云々という話は掃いて捨てるほどある……

 そんなことを考えていたので、フィンは次の角を曲がった瞬間にやってきた二人連れにぶつかってしまった。

 そして「あ、ごめん」とフィンが言ったのと「どこに目を付けてんのよ!」と相手が叫んだのはほぼ同時だったのだが……

 ………………

 …………

 ……

 とてつもなく聞き慣れた声だった。

 フィンはびっくりして声の主を見た。それは相手も同様だった。

「ア、アウラ?」

「フィン?」

 一体何が起こったのだ? フィンは大混乱に陥った。何でこんな所に彼女が? ここは世界中で最も再会には不向きな所のはずなのだが……

 フィンは最初見間違いだと思った。いくら何でもこんな所でアウラの幻を見てどうする?

 だが目の前にいるのはどう見てもアウラだ。

 彼女は今湯から上がってきた様子で、男物のガウンに身を包んでいる。

「アウラか? 本当に?」

「誰だと思ったのよ!」

「な、なんであんたがこんな所にいるんだ?」

「いちゃ悪い?」

 アウラはフィンをにらみつけた。

 そのときフィンは彼女の後ろにぴったりと若い娘がくっついていることに気づいた。彼女はフィンをびっくりしたような顔で見つめている。ということは……

「なんだ、そういう趣味だったのか。道理で……」

 フィンは納得した瞬間ついそう口走っていた。だがそれを最後まで言い終わる前に、げしっとアウラの蹴りがみぞおちにヒットする。

「あがっ! な、何しやがる!」

 だがアウラはフィンを無視して脇の娘に言った。

「行くわよ。アルト!」

「は、はい」

 フィンはうずくまったままわめいた。

「なんだ? 怒ることないじゃないか! お前がどんな趣味だろうと俺の知ったことじゃない!」

 だがアウラは振り返りもせずにそのまま行ってしまった。

「あ、あの、大丈夫ですか?」

 ユーノがおろおろしながらフィンに尋ねた。

「ああ。全く!」

 フィンはやっと立ち上がると、しばらくアウラの消え去った方を見つめていた。


 案内された部屋は別棟になっていて、小さいが居心地は良さそうだった。

 フィンは長椅子に座り込むと今起こったことを考えた。

《まったくどういう女だ? あいつは!》

 そのときユーノがおずおずと尋ねた。

「あの……先にお湯を浴びられますか?」

「いや、食事してからにしよう。腹がぺこぺこだ」

 ユーノはうなずくと、食事を取りに出ていった。

《何でこんな所に出てくるんだよ!》

 そもそもフィンが長旅で疲れているにも関わらずこんな所に来る気になったのはアウラのせいだった。彼女はフィンが今まで見てきたどんな女とも異なっていた。

 アウラは整った顔立ちをしている。美人と言っていい。

 またその物腰には獣のようにしなやかな美しさがある。フィンは旅の間中ほとんどそんな彼女の後ろ姿しか見ていない。そしてあの強烈な朝の記憶……

 フィンは今出ていったユーノとアウラを心の中で比較していた。

《彼女には悪いがどう見てもアウラが上だよな……》

 考えてみればアウラをはっきりとそういう対象として意識したのはこれが初めてだった。

《どうして今まで気づかなかったんだ?》

 あの朝、あそこで彼女を抱きしめられたらどんなだっただろう?

 と、そこまで考えてフィンはあわてて叫んだ。

「馬鹿野郎! あんな爆弾女!」

 そんなことをしたらその瞬間に首を切り落とされてしまうに決まっている!

 そんな調子でフィンが鬱々としているところに、ユーノが何人かの小娘を従えて戻ってきた。

 小娘達はテーブルに食事を盛りつけながらも、フィンの方をちらちら見てなんだか目配せしているようだ。

 準備が整いフィンとユーノ二人だけになる。

 彼女はグラスにワインをついで差し出した。

「ありがとう」

 フィンは食事を始めた。

 その間ユーノは何だか物言いたげにフィンを見つめている。フィンはなんだか気まずくなった。

「どうしたんだ?」

「いえ、あの……」

「言ってごらんよ」

 ユーノは少し躊躇したあげく、顔を赤らめながら言った。

「じゃあ……あの、お兄さまは、アウラお姉さまとお知り合いなんですか?」

 フィンはワインを吹き出しそうになった。

「お、お姉さま?」

「え、ええ」

「君、あいつの妹だったの?」

「違います!」

 そう言ってユーノはまた赤くなった。

 フィンは少し混乱した。妹でもないのにお姉さま? いや、本物の姉だったら“姉と”とか言うはずで、“アウラお姉さま”なんて言い方をしたってことは……

「あいつって、もしかしてそっちの方で有名なのか?」

「え? ご存じなかったんですか?」

「あいつとは、旅の途中で知り合っただけなんだ。こっちが聞きたいぐらいだ」

「えええ? そうなんですか?」

「うん。なんだったら、教えてくれないか?」

 ユーノは話し出した。

 どうもアウラは遊女達の間ではとてつもない有名人らしい。

 彼女はこの世界では“ヴィニエーラのアウラお姉さま”で通っているらしい。

 彼女は胸に大きな傷を持ち、薙刀を持たせればどのような男でも適うことなく、優しくしかもとても“お上手”なのだそうだ……

 こういう遊郭の間では、他の郭から遊女を買い取ったりトレードしたりすることはよくある。そういう遊女経由で噂が広まるのは結構速いのだ。

「ヴィニエーラって?」

「グリシーナにあるここみたいな郭の名前だそうです」

「グリシーナ!」

 そう言えばいつだったか、彼女がグリシーナにいたことがあると言っていた。

「じゃあなにか? あいつが遊び女だったって?」

 そんな馬鹿なことがあるのか?

「いえ、夜番だったそうです」

 フィンはうなずいた。それならあり得る!

 夜番というのはこういう遊郭の警備担当と言えばよいだろうか、相当腕っ節の強いものでなければ勤まらない仕事だ。その点確かに彼女はぴったりだろう。

《それにしても……》

 フィンはため息をついた。

 彼が来たとき娘達がなにやら話していたのは彼女の噂をしていたのだろう。

 何だか全く世界が違う話だが……

「なるほどね。君たちがびっくりするのも当然だな。まあいいや。それじゃそろそろ、風呂にでも入るか」

「はい」

 彼女の過去がどうであれ、もはや彼には関係のないことだ。

 フィンは何もかも忘れたかった。



 アウラは何だかひどく腹が立っていた。

《何よ! あの男! 人を変態みたいな目で見て!》

 こういう状況ではそう考えない方が不思議である。

 彼女だってもちろんそのことは承知していた。だが彼女はそれでも気に入らなかった。

 アウラは頭から湯気をたててむっつりとしていた。といっても怒りで湯気をたてていたのではなく、反射的にフィンを蹴飛ばしてしまったので、その後足を洗うためにもう一度風呂に入り直したからだ。

 そういう様子を見て、アウラの相手のアルトという遊女は何とか場を取り繕おうとした。

「あの、お姉さま。さっきの方はお知り合い?」

 アウラは彼女をきっと見据えた。アルトはすくみ上がった。

 それを見てアウラは表情をゆるめた。

「違うのよ。ごめんね。アルト。ちょっと何か飲む物を持ってきてもらえる? お酒じゃないもの」

 アルトはうなずくと慌てて外に出ていった。

 アウラはそのままベッドに倒れ込んだ。

《どうしてこんなことになってしまうのかしら?》

 フィンといると何か調子が狂う。最初からそうだった。

 いくら慌てていたからといって、あんな所で落馬するなんてドジもいいところだ。

 それからの旅もそうだった。どうしてあんな奴と一緒に旅をする気になったのだろう?

 確かに足を怪我して動くのも辛かったが、直るまでどこかに隠れていても良かった。どうしてあいつの馬に乗ってしまったのだろうか?

 フィンがとてつもないお人好しなのは確かだ。

 大体最初彼女は彼の馬を盗もうとしたのではないのか? 普通そんな相手の所に戻ってくるか?

 アウラは別にフィンが嫌いではなかった。

 またフィンには恩義もあった―――といっても彼女がそれを求めたわけではない。あの宿でフィンが死にかかったのだって、勝手に彼がそうなっただけのことだ。それについては彼女は宿代も払ったし看病までしたのだ。十分恩義には報いたのではないのか?

 彼女を一番まごつかせていたのは、あの旅が決して嫌な物ではなかったということだった。

 特に崖を飛び降りてからの川下りは、今から思うととてもわくわくする体験だった。楽しかったと言ってもいいかもしれない……

 それからアウラはフィンが自分の裸身を見てあわてふためいたときのことを思い出した。

《バッカじゃないの?》

 あの男はこんな所にちゃんと出入りするくせに、まるでそういうことに免疫がなさそうだ。もしかしたら今もあの遊女の裸を見て慌てているのだろうか?

 そう思った途端に急に笑いが込み上げてきた。アウラは吹き出した。

 それからしばらく一人で笑ってから、こんなに笑ったのは何年ぶりだろうかと考えた。

 前笑ったときなど覚えていない―――それに気づいてアウラはため息をついた。

 どちらにしてももう終わりだ。

 宿屋でフィンと分かれて一人ベッドに横になったとき、彼女は初めてそのことを痛感した。

 彼女はこのガルサ・ブランカまでフィンを護衛するという約束だった。今彼女は終着点にいる。これ以上フィンと一緒にいる理由はない。

《でも……》

 だがこの旅は彼女は護衛の役になど全く立っていなかった。どちらかと言えばずっとフィンに頼りっきりだったと言った方が正しい。

 だとしたら―――彼女は全然約束を果たしていないということではないのか? ならばもう少しまともに護衛の任務を果たせるまで一緒になければ契約違反のような……

 そう思ってアウラは首を振る。馬鹿げている。これ以上フィンと一緒にいる理由など、全くないのだ。

 それを悟ったとたんにアウラは何だかひどく寂しくなった。

 彼女は天涯孤独だった。

 どこにも彼女の故郷はない。彼女を拾って育ててくれた父はもういない。もうヴィニエーラに戻ることもできない……

 そして今までと同じようなさすらいの生活を続けるだけなのだろう。

 それともこのあたりで職を見つけるようなことができるだろうか?

 だが彼女のような性癖でできる仕事など滅多にあるものではない。ヴィニエーラで夜番の仕事に就けたのだって本当に運が良かったとしか言えないのだ。

 そのときアルトがブドウのジュースが入ったグラスを持って戻ってきた。

「お姉さま。これでいい?」

「いいわ」

 アルトは美味しそうにジュースを飲むアウラを、わくわくした目で見つめている。

 アウラはグラスを置いた。

《この娘にも期待されちゃってるわ……》

 アウラは疲れていた。

 もちろんこの何日かの旅の疲れもある。だがその前からずっと彼女は疲れ果てていた。

 アウラはただ眠りたかった。

 彼女はずっと一人だった。森や草原で寝るときはそんなに気にならない。だが宿屋や町に来たときはいつもそのことが身にしみた。

 彼女に声をかけてくるのはろくでもない男達ばかりだった。そんな彼女が安心して寂しさを紛らわせるためにはこういう場所に来るしかなかった。

 彼女はただ一緒に眠ってくれる者が欲しかっただけだった。

 特に今はそうだった……

 アウラはアルトの顔を見つめた。アルトはポッと赤くなる。

 眠りたい……

 だがそうするとこの娘は傷ついてしまうだろう。アウラは遊女達がどのような生活をしているのか隅々まで知っていた。彼女たちが何を考えて生きているのかもよく知っていた。

 その中でなんの拍子か“アウラお姉さま”になってしまってからは、彼女は遊女達の間でささやかな伝説になってしまっている。アウラは彼女たちの夢の担い手なのだ。

 たぶんこのまま寝てしまったら、アルトは自分に何か手落ちがあったからアウラが何もしなかったのだと思いこんでしまうだろう。

 フィンがどう思おうと勝手だ。

 だがこの娘を悲しませるのは嫌だった。

「じゃあ、アルト」

 アウラはアルトに手招きした。

 アルトは一瞬びくっとしたが、すぐにアウラの横に並んで座った。

《どうやって始めようかしら……》

 アウラは考えた。

 こういうところに女が来ることなど滅多にある物ではない。遊女といえども初体験のこともよくある。

 だがアルトは全然臆した風もなく、アウラの胸に顔を埋めて頬ずりを始めた。

「ええ?」

 アウラは驚いて声を上げた。アルトはびくっとして顔を上げる。

「あの、あたし下手でした?」

「そうじゃなくて、すごく慣れてるから」

 アルトはそれを聞いて笑った。

「ああ、そうなんです。うちの娘はみんな覚えてないと大変なんです」

 アウラが何だか分からないという顔をしているので、アルトは続けた。

「実はよくお忍びでやっていらっしゃるんです」

「誰が?」

「王女様です」

 アウラは聞き違いをしたと思った。

「え? 今なんて?」

「王女様です」

 ………………

 …………

 ……

 おうじょさま?

 アウラは開いた口が塞がらなかった。なんなのだ? ここは? そんな話は聞いたこともない。

「あの、王女様って、王女様のこと?」

「はい。だからあたし達、女のお客様にサービスする仕方をみんな覚えてるんです。でも私はまだ一度しか上がらせてもらったことがなくて、そのときもナーザ様のお相手だったんですが、ナーザ様は遊ばれることはないので私は横の方で見てただけで……でもいつでもいいように練習はずっとしてたんです」

 そう言ってアルトは顔を赤らめた。

「ナーザ様って?」

「あ、お付きの方です。だって王女様一人じゃいくら何でも危ないでしょ?」

「……そりゃそうね」

 アウラは呆れ果てていた。

 まあ、王女が変な趣味を持っていたからと言って、いったい何の関係がある? それにかちこちになっている娘をなだめるよりは話が楽だ。

「わかったわ。でも今日はあたしがサービスして上げる。たまにはそういう日もいいでしょ?」

「え……はい」

 アルトは目を潤ませた。

《じゃあどうしようかしら? この娘慣れてるみたいだし、だったら……》

 アウラがそこまで考えたときだった。中庭を挟んで反対側の部屋からどっと歓声があがった。その部屋はさっきからうるさかった。

「なんなの? あそこ」

「お城の兵隊さんみたい」

「ふうん」

 アウラは再びアルトに視線を戻した。だが再びその部屋から歓声が聞こえる。

 アウラはがばっと体を起こした。歓声の中に悲鳴が混じっている!

「ちょっと、あれ」

 アルトは少し青い顔をしていた。

「あの悲鳴、そうでしょ?」

 アルトはうなずいた。アウラはしばらくそのまま体を起こして待ってみた。

 だがその騒ぎは収まらない。

「夜番は何してるの?」

 当然アウラは喘ぎと悲鳴の区別がついた。そうでなければ夜番など勤まらない。

 遊女はよっぽどのことがなければ悲鳴などあげない。あれは客が何か命に関わるようなことをしているのだ。そういうときに始末ををつけるのが夜番の仕事だ。

 絶対に夜番が駆けつけて事を収めるに違いない。アウラはもう少し待った。

 だが騒ぎは収まらない。アルトは真っ青な顔でびくびく震えている。

 再び悲鳴が上がった―――途端にアウラはがばっと跳ね起きて、即座に服を着た。

「あ! お姉さま!」

「ここで待ってて」

 アウラは部屋から飛び出した。

 見回すと棒を持った男が噴水のあたりでおろおろしている。

「ちょっと! 何してるのよ!」

 夜番は口をぱくぱくさせるだけだ。情けない!

「貸して!」

 アウラは夜番から棒を奪い取ると、騒ぎの起こっている部屋の扉を蹴破った。

 あたりがしんと静まり返る。

 アウラは一瞬で状況を把握した。

 部屋の隅に小娘がへたりこんで泣いている。男が娘に覆い被さるように何かしている。しかも男はなんと手に抜き身の剣を握っている!

 その男の腰に遊女が一人すがりついている。

 その他にも部屋の中には数名の屈強な男達がいた。その側には一人ずつ遊女が侍っているが、皆その顔は青ざめている。男達は相当酔っているようだ。

 そして全員の目がアウラに集中した。

 アウラは心底腹が立っていた。こういう場ははっきり言って慣れている。彼女は冷ややかに言った。

「いつから小娘が客の相手をするようになったのよ?」

 郭の言葉で小娘とはまだ遊女の見習いで、客の相手をすることはない。

「な、なんだ? 貴様!」

 剣を抜いている男が答えたが、ろれつが回っていない。

「聞いてるのはこっちよ!」

「な、なんだと?」

「それに何でそんな物持ってるのよ? 本モノはもう使えなくなったの?」

「な、何だとぉ? こ、このアマァ!」

 男は逆上して、そのままアウラに襲いかかってきた。

 遊女の誰かが悲鳴を上げた。人々は顔を覆った……

 だが次の瞬間床で悶絶していたのは、その男の方だった。

「こっちへ!」

 アウラは泣いている小娘に手招きした。

 娘は脱兎のごとくに飛び出すとアウラの後ろに隠れる。

 場が凍り付いた。人々は一瞬何が起こったか分からなかった。

「よくもやってくれたな!」

 だがそのとき一番奥にいたリーダー格の男が立ち上がった。立ち上がると相当な大男だ。しかも怒りで顔がねじ曲がっている。

「当然でしょ」

 だがアウラはそれを見ても平然としていた。

「貴様、俺達を誰だと思っているんだ?」

「クズね」

「なんだと?」

「城の兵隊だか何だか知らないけど、郭には郭の掟があるでしょ?」

「このアマ!」

 そう叫ぶと男は剣を抜きはなった。その構えはさっきの男ほど間抜けではなさそうだ。

 アウラはここで立ち回ると遊女達にも被害が及びそうだと思った。

「じゃあこっちに来なさいよ!」

 アウラは中庭に飛び出した。その後から男も飛び出して来る。

 周囲にはそろそろ野次馬も集まり始めていた。

「このアマ! 切り刻んでやる!」

 男がそう言って斬りかかろうとしたときだった。

「一体何をしているの! ガルガラス中隊長殿!」

 凛とした若い女の声が響きわたった。


 ガルガラスと呼ばれた男は、慌てて振り向いた。

 そこにはこういう場所には何かそぐわない、身なりの良い女性が二人立っていた。

「お、王女様……ナーザ様……」

 アウラはびっくりしてその二人を見つめた。

 王女様だって? じゃあさっきアルトが言っていたことは本当なのか?

 最初に目に入ったのは、地味な黒いドレスをまとった一見三十歳ぐらいの切れ長の目をした美女だった。

 だが見ているとその印象はひどく不確かな感じがした。もっと年老いているようにも見えるし、もっと若いようにも見える。

 その横にかなり豪華な服を着た、こちらはまだ若い娘が立っていた。

 彼女はおもしろそうな目つきでこの騒ぎを眺めている。どうやら彼女が王女で黒いドレスの女性がナーザだろう。

《どこの人かしら?》

 アウラはなぜか王女ではなくナーザの方が気になった。彼女は何となく見たことがあるような気がしたが……

「ガルガラス。何とか言ったら?」

 王女がまた尋ねる。

「いえ、その……王女様……」

 ガルガラスが絶句しているので王女は次の言葉に困ったのだろう。彼女はちらっとナーザの方を見た。それに答えるようにナーザが言った。

「ガルガラス殿。私闘は厳禁のはずですね?」

「は、はい……」

「もちろんフォレスの軍隊にそんな掟破りなことをする者はいないはずです。だとしたらこれは何でしょう? 決闘ですか?」

 ガルガラスと呼ばれた男は面食らった。それを聞いて王女も驚いた表情になる。

 だがすぐにナーザが王女に何か耳打ちすると、王女は黙ってうなずいた。

 ナーザは再びガルガラスの方に向くと言った。

「決闘ならば、エルミーラ様と私が見届けましょう」

「いえ、その……」

「それでは不服ですか?」

「いえ、そのようなことは……」

 アウラには状況が理解できなかった。彼女は二人の顔を交互に見つめていた。

 ナーザはそれに気づくと、アウラに言った。

「あなたはどうです?」

「え? 何が?」

「この男と決闘することです」

「別に。どうでもいいけど」

 アウラは依然として状況がよく飲み込めていなかった。

「ならば、ガルガラス。その格好ではあまり決闘にはふさわしくありませんね」

 ガルガラスは裸で、その上にガウンを羽織っていただけだった。彼は慌てて着替えに戻った。

 それからナーザはまたアウラの方を向いた。

「あなたも武器を用意しないといけませんね」

「これでいいわ」

 アウラは手にした棒を示した。

「だめです。それでは正式な決闘になりません」

 そのときアウラの袖を引っ張る者がいた。振り返るとアルトががくがく震えながら彼女の薙刀を持って立っている。来たときに預けて置いた物だ。

 アウラは薙刀を受け取るとアルトの頭をなでた。それからナーザに向かって言った。

「これでいい?」

「結構です」

 何だかよく分からないが、アウラは黙って相手が出てくるのを待った。



 その頃フィンはユーノに疲れた足をマッサージしてもらっていた。

 姉御のお薦めだけあって、彼女はなかなか上手だった。

「君、うまいね」

「ありがとうございます」

 この郭だけでもたくさんの遊女がいる。その中で見栄えだけで客が呼べるのはほんの一握りだけだ。だから残った彼女たちはそれ以外の技術を身につけなければ生き残れないのだ。

「ああ、気持ちよかった。それじゃ」

 フィンはそう言って体を起こすとユーノの手をなでた。ユーノはそれを察して、ベッドから降りると腰帯に手をかけた。

 だがそのとき急に外が騒がしくなった。

「なんだ? うるさいな」

「ちょっと見てきましょうか?」

「ああ。そうだね」

 ユーノは扉から顔を出して何か尋ねているようだった。それから振り返った彼女の顔は真っ青だった。

「あ、あの……」

「どうしたんだ?」

「あの、お姉さまが……」

 フィンはとんでもなく嫌な予感がした。

「お姉さまって……アウラか?」

「ええ。その、アウラお姉さまが、決闘をなさるとか……」

 ………………

 …………

 ……

 その言葉の意味がフィンの脳味噌に浸透するまでに、少し時間がかかった。

「な、なんて言った?」

「あの、アウラお姉さまが、決闘を……」

 フィンは跳ね起きた。

「なんだって?」

 いったいあの女はどこまで人に迷惑をかければ気が済むんだ? 出会った端から喧嘩喧嘩で、なんだって? 今度は決闘だって?

 決闘⁈

 フィンはそのまま部屋の外に駆け出そうとした。

「あの、その格好では!」

 ユーノが引き留める。言われてみれば下履き一枚だ。

 フィンは慌てて服を着直した。

 そうやって彼が中庭に着いたときには、もうたくさんの人だかりができていた。

「ちょっとどいてくれ!」

 フィンは人垣をかき分けた。

 中庭の中央にはアウラが薙刀を持って立っているのが見える。それに相対しているのはかなり大きな男だ。しかも相手は軍服を着ている!

《ありゃプロじゃないか!》

 今までは乱暴者とか盗賊風情だったから良かったようなもの、今度の相手じゃただで済むわけがない。

「アウラ!」

 フィンは中に飛び込もうとした。

 ところがそのときフィンの目の前にさっと手が差し出される。

 フィンはその手首にはめられた綺麗な腕輪に鼻をぶつけそうになった。それをぎりぎりで何とかこらえて振り返ると、黒いドレスを着た美女と目があった。フィンは蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。

「これは決闘ですよ」

 彼女は小声でフィンに言った。

「で、でも」

「大丈夫。見てらっしゃい」

 そう言って彼女は微笑んだ。

 フィンは何か言い返そうとしたが、何か無言の圧力にねじ伏せられたかのように何も言うことができない。

 美女はフィンがそれ以上干渉しないのを見極めると、正面を向いて言った。

「それでは始めなさい」

 フィンはおろおろしながら見つめるだけだった。

 アウラはいつもと全く変わらぬ様子だ。それに対して相手の男は肩で息をしているのがここからでも分かる。

 男はじりじりと間合いを詰めた。だがアウラは全く動かない。

「構えろ!」

 男が叫ぶ。だがアウラは知らんふりだ。

「うおおおおお!」

 男は大きな気合いと共に切り込んだ。人々は息を呑んだ。フィンは思わず目をつぶった。

 どさっという音がする。それから―――あたりはしんとしている。

 フィンは恐る恐る目を開けた。どうなってしまったんだ?

 彼が最初に見たのは、男が剣を取り落としてひざまずいている姿だった。アウラは相変わらず同じように立っている。

 だが彼女の薙刀の刃が男の首筋にぴたりと当てられていた。

「それまで」

 黒いドレスの美女が言った。しばらくは誰も口を開かなかった。それから……

「お姉さま!」

 そう言って遊女の一人がアウラに抱きついた。確かあの娘はアウラと一緒にいた遊女だが……

「これしまっといて」

 アウラはそう言って薙刀をアルトに渡す。

 続いてあたりは大騒ぎになった。

 出てきた遊女達はみんなアウラを取り囲んで、なにやらわいわい叫んでいる。中には泣いている者もいる。

 その隙に兵隊達はこそこそと消えていった。

 フィンはその場にへたりこんだ。

《まったくどれだけ心配をかけたら気が済むんだ? あいつは!》

 そう考えてまた彼は思い出す―――だ・か・ら、どうして彼がそんな心配をしなければならないのだ? もう彼女との旅は終わったのだろう?

 そのとき近くにいた豪華な衣装の娘が言った。

「すごい! 本当にあなたがヴィニエーラのアウラ?」

 それを聞いて遊女達があわてて礼をする。

 フィンは状況が分からなかったのでぽかんとしていた。

 その娘はフィンを制止した黒いドレスの美女に向かって言った。

「ねえ、ナーザ。あの方をお招きしましょうよ」

「いいですわね」

 ナーザは答えた。それから娘はアウラに尋ねる。

「ねえ、アウラ。いいかしら?」

「え? はい……」

「じゃあ、こっちこっち」

 そう言って娘が手招きすると、アウラがばつが悪そうにやってきて礼をした。フィンはそんな様子のアウラを見たことがなかった。

 そのときアウラがへたり込んでいるフィンに気づいた。

「何してるのよ。みっともない」

「あ、あのなあ」

 そこにナーザが話しかけてきた。

「あなたはアウラさんのお知り合い? 先ほども止めようとなさってたけど」

 いきなりのことでフィンは泡を食う。

「え? ええ。まあ、その……ちょっと」

「このあたりの方じゃないようですね。遠くからいらしたのですか?」

「え、ええ。あの、それであなた方は?」

「ああ、申し遅れました。私はナーザと申します。こちらはエルミーラ王女様」

 フィンは絶句した。彼にはまだそういう予備知識が全くなかったのだ。

《王女? 確かに今王女と言ったような……》

 聞き違いではないと思うが―――でもどうして遊郭に王女がいるのだ? アウラがうろうろしているのはともかく、めちゃくちゃだ‼

 彼はからかわれているのだろうか?

 だが前にいる二人は、どう見ても遊女とは思えない。王女と言われてもおかしくない気品を備えている。

 それによく見るとこの二人のドレスは、遊女ごときが着られそうもない上等な仕立てだ。

 では―――本物なのか?

 フィンは頭の中が真っ白になって、口をぱくぱくさせるだけだ。

 そんなフィンに、ナーザが問いかける。

「それで、あなたのお名前をお教え願います?」

 フィンは慌てて答えたのだが……

「あ? はい。申し訳ありません。私はフィナルフィン。ル・ウーダ・フィナルフィンと申します」

「ル・ウーダ?」

 ナーザはそう言って王女と顔を見合わせる。フィンはしまったと思った。

「何だか珍しい方がたくさんいらっしゃるのですね。今日は」

 今度はアウラがその会話をぽかんとして聞いていたが、フィンに尋ねる。

「ル・ウーダって……」

 くそ! せっかく黙っとこうと思ったのに! だがもう遅い。フィンは仕方なく答えた。

「ああ、俺の名字だ」

 それを聞いたアウラは目が丸くなった。

 そのとき王女が尋ねる。

「よろしければ御一族をお教え願えますか?」

 フィンは一瞬沈黙した。どうする? 嘘をついたっていずればれるに決まっている。こうなったら仕方ない……

「私は白銀の都のル・ウーダ・ヤーマンの末裔です」

 王女とナーザは再び顔を見合わせる。

「では……」

 王女が何か言おうとしたとき、今度はアウラが驚いた声で割り込んだのだ。

「白銀の都? あんた貴族様だったの?」

 フィンはなぜかむかっ腹が立った。

「俺だってあんたが“アウラお姉さま”だったなんて知らなかったよ」

「そんなことどうだっていいでしょ!」

「だったら俺が誰だろうと関係ないだろ!」

 フィンとアウラはにらみ合う。そこに割って入ったのがナーザだ。

「まあ、ともかくここはお話しするにはあんまり適当な場所じゃないと思いません?」

 全くその通りだった。

 一国の王女と都の貴族が相まみえる場所としては、かなり普通ではない。

「ええ、まあ、その……」

「今日はこんな騒ぎになってしまったので、そろそろお城に引き上げようかと思います。あなた方もいらっしゃいますね?」

 どうして拒否できよう?

 二人は黙って従った。