エルミーラ王女の秘密 第1章 アウラの就職

エルミーラ王女の秘密


第1章 アウラの就職


 今まで寝たこともない素晴らしいベッドにも関わらず、アウラは寝苦しくて夜中に何度も目を覚ました。

 次の朝もいつもならばすっきりと目が覚めるはずなのに、まだ夢を見ているようで頭がぼうっとしていた。

 アウラが目覚めたと見るや、すぐに若い女官がやってきて綺麗なドレスを着せてくれた。

 それはアウラが着たことはおろか、見たこともないよう品だった。

 アウラはできあがった自分の姿を鏡で見て、最初自分でもそれが誰か分からなかった。

 エルミーラ王女がやってきたのは、彼女が最後に髪を整えてもらっている最中だった。

「アウラ。よく眠れた?」

「ええ? まあ……」

「その服、あたしのなんだけど合う?」

「ええ? まあ……」

 王女とアウラは背の高さはほぼ同じだったのでドレスの丈は問題なかったが、バストのあたりが少しゆるかった。だが肩が露出しないスタイルなのでその点はあまり目立たない。

 王女はぐるっとアウラの周りを回った。

「すてき! とってもきれいよ」

 アウラは返答に困った。

 こういう場合いったいなんと答えたらいいのだ? アウラはヴィニエーラにいた頃に、遊女達をよくそんな風にほめてあげたことを思い出した……

 そういうときは決まって彼女たちは、頬を赤らめてありがとうと言ったが……

「あ、ありがとう……」

 そうは言ってみたものの彼女は全然嬉しくなかった。

 どうして女の子はきれいだって言われたら喜ぶのだろう? 彼女自身は強いねと言われた方がずっと嬉しいのだが……

 それにこの種の服ははっきり言って動きにくかった。

 こんなドレスを着たのはヴィニエーラでそこの娘達に面白半分に着せられたとき以来だ。

 鏡の中にはまるで違った自分の姿がある。だがアウラにとっては単にいつもと違っているというだけで、何の感慨も湧かなかった。

 ただエルミーラ王女が誉めてくれたことだけが何となく嬉しかった。

 それからアウラが遅い朝食を取ると王女は城の案内を始めた。

「すごく大きなお城なのね」

 アウラは圧倒されていた。

 彼女も貴族の屋敷には何度か足を踏み入れたことはある。だが王宮と呼ばれる場所に来たのはこれが初めてだ。

「ええ? そう? でもハビタルのお館はもっと広いし、銀の塔なんかはこことは比べ物にならないそうよ」

 エルミーラ王女が答える。

 ハビタルの館とは北のベラ首長国の国長の屋敷のことで、銀の塔とは白銀の都の大皇が住む城のことだ。

「ええ? 銀の塔に行ったことあるの?」

 アウラは驚いて尋ねた。

 どんな小娘だって銀の塔の話は知っている。今では白銀の都の威光は昔ほどではない。だがそれでも多くの人のあこがれの的なのだ。

「お父様から聞いたのよ。塔の一番高いところに登ったら、雲が下に流れているそうなの」

「へえ……」

 アウラは素直に感動した。そんな城に住むというのはどんな気分なのだろう?

 それと共にフィンのことが思い出された。あの男は、そんなところからやってきたのだ。彼は自分のことを見て何と思ったのだろう? とてつもない田舎娘だと思って呆れていたのだろうか……

 アウラは頭を振った。いったいどうしてそんなことを思うのだ?

「ここがお城の中庭よ」

 二人は美しい庭園の入り口に立っていた。

 中央に噴水のある池があり、周囲には様々な形の木が植えられている。今はもう寒くなっているので花は咲いていなかったが、季節になったらさぞ美しいことだろう。

「あっちに見えるのがお城の東棟で、三階がみんな図書館になってるのよ」

 アウラは王女の後をついて回りながら、いつの間にかこの王女が好きになっていることに気がついた。

 彼女も最初はとんでもない王女だと思っていた。

 アウラは郭に来るような女性を他にも何人か見たことがある―――しかしそういう女達と目の前の王女は何かが違っていた。

 彼女の笑顔は全く屈託がない。城の女官や使用人の間でも人気があるようだ。彼らは皆王女の姿を見ると喜んで挨拶をしてくるし、王女もにこやかにそれに答える。

 アウラは以前に行った陰気な貴族の屋敷のことを思い出した。彼女がまだヴィニエーラにいた頃の話だ。

 彼女は呼び出しのあった遊女の付き添いでそこに行ったのだが、そこの使用人達はなぜか皆おどおどしているように見えた。主人がやってくると使用人達は皆礼をするのだが、主人が背を向けた途端に、こそこそと逃げるように消えてしまうのだ。

 だがエルミーラ王女を迎える者達にはそんな嫌な雰囲気は全くなかった。

 アウラは王女の側にいるだけで自分まで幸せになったような気がしてきた。

《本物の王女様ってみんなこんななのかしら?》

 アウラはただただ驚嘆する他はなかった。

 その日の午後、アウラはエルミーラ王女のお茶会に参加した。

 お茶会といっても王や王妃が来るわけではない。彼女とお付きの三人の侍女達だけで内輪に行われるお茶会だ。

 エルミーラ王女の侍女達はみんな彼女より少し若い娘達だった。

 三人とも王女専用の女官にふさわしい容姿と言えるが、それ以上に印象的だったのはみんな生き生きとした表情をしているところだった。

「それじゃみんな揃ったみたいだから紹介するわね」

 王女は侍女を一人一人紹介し始めた。

「さっきもちょっと紹介したけど、もう一度ね。彼女がグルナ」

 三人の中で一番年長の娘が軽くお辞儀をした。落ち着いた控えめな感じの娘だ。

「グルナといいます。お見知り置き下さい」

 アウラは慌てて頭を下げた。

「グルナには、最近では秘書みたいな事もしてもらってるの」

 グルナは王女がアウラを案内している間もずっと一緒だった。しかもアウラを案内している間にも伝言を受けてそれを王女に伝えたり、答えを聞いてどこかに伝えに行ったりと、かなり忙しく立ち働いていた。

「そして彼女がリモン」

 次に王女が紹介したのは歳は三人の中では真ん中ぐらいの、やや地味な感じの娘だった。アウラは彼女を朝ちらっと見かけただけで、実質この時が初顔合わせだった。

「リモンは西棟の私のフロアの管理をしてくれてるの。どこに何があるか知りたかったら彼女に訊くといいわ」

「初めまして。リモンです」

 リモンはかなり固くなっている感じだった。

「アウラです」

 アウラが微笑みかけるとリモンもおずおずと微笑み返した。

 それから王女は三人目を紹介する。

「最後に彼女がコルネ。身の回りの細かいことは最近は大体彼女に任せてるんだけど……」

 彼女はこの中で一番若い、というより幼い感じだ。朝アウラの着付けを手伝ってくれた娘だが……

「ああ、朝はありがとう」

 彼女はひどく緊張しているようだった。

「い、いえ、そんなことないです! アウラ様は、と、とってもお綺麗でした!」

 そういうことをいきなり言われても―――アウラは返答に窮する。

 それを見て王女が言う。

「ちょっとちょっとコルネ! 一体何がいいたいの?」

「え? え? あたし何か間違ってました?」

「誰もそんなこと言ってないでしょ!」

 王女はコルネを制するとアウラに言った。

「ともかく、この子はしっかりしてるみたいで大抵どこか抜けてるのよ」

 それを聞いてコルネは泣きそうな顔で弁解を始めた。

「王女様! そんな! ひどいです! 今日は絶対間違ってないです。砂糖壺の中も確かめました。スリッパだってちゃんと人数分……」

「でもあなた、まだアウラに自己紹介してないでしょ?」

 コルネは口に手を当てたまま固まってしまった。それからリモンにつつかれて慌てて言った。

「あ! あの、ですからあたしコルネっていいます。よろしく」

 それを見て王女とグルナ、リモンが声をあげて笑う。コルネは赤くなっているが、嫌がっているようには見えない。

 それは彼女たちの日常の一光景だった。

 それから彼女たちはいろいろ他愛のない話をして過ごした。アウラはそんな彼女たちの話に聞き入った。

 その中でエルミーラ王女は輝いて見えた。

 アウラは談笑するエルミーラ王女の姿を見ながら、無性に王女が羨ましくなった。

 彼女が知っている同じぐらいの歳の娘は遊女ばかりだった。

 王女はともかくグルナ達のようなごく普通の娘達とでさえも、まともに話したのはほとんどこれが初めてだったと言っていい。

 ここは彼女の知っていた世界とはあまりにもかけ離れていた。

 今までこれほどまでに豪華な衣装に身を包んだことはなく、これほどまでに優しい人々に囲まれたこともなかった。まさに何の心配もなかった―――それなのにアウラは何か不安だった。彼女はひとりぽつんと取り残されているような気がした……

 その夜、アウラは生まれて初めて晩餐という物に招かれた。

 昼間見た物だけで目がくらくらしていたのに、そこで出されたごちそうは彼女が夢にも見たことのないような物ばかりだった。郭で働いていた頃には結構高級な料理を目にすることもあったのにだ。

 アウラは晩餐の席でその日初めてフィンの姿を見て、何かひどく懐かしい気がした。

 考えたらこの城のなかで少しでもよく知っている者は彼だけだ。

 フィンはやってきたアウラの姿を見て目を丸くした。朝着せてもらったドレスでも十分華麗だと思っていたのに、晩餐用に着替えた物はそれに輪をかけて豪華な物だったからだ。

「やあ、アウラ。すごく綺麗だね」

 それを聞いてアウラは何だか無性に腹が立った。

「へえ、そう?」

 その返答にフィンも少しむっとしたようだ。

《何よ! どうせ馬子にも衣装だとか考えてるんでしょ!》



 アウラの想像は当たっていた。

 最初にフィンがアウラの姿を見たとき、実際彼はアウラから目が離せなくなっていたのだ。

 旅の途中アウラは行動しやすいように男物の衣装をつけていた。そしてガルサ・ブランカについたらすぐにこの騒ぎである。だからフィンはアウラが本格的に着飾った姿を見たのはこれが初めてだったのだ。

《こいつ……都の貴婦人と並んだって、見劣りしないんじゃないか?》

 フィンは生まれ変わったようなアウラを呆然と見つめていたのだ。

 だからアウラが近づいて来るとフィンは内心慌てだした。そして本当ならもう少し気の利いたことを言いたかったのに結局「すごく綺麗だね」とかいったことしか言えなかったのだ。

 アウラがフィンをにらみ付けながらそれに答えたとき、フィンはやっと正気に戻ることができた。見かけが変わったとは言っても、やはりアウラはアウラなのだ。

《な、なんだ? こいつ! まったく馬子にも衣装とはよく言うぜ!》

 フィンがいつもの調子でにらみ返したので、アウラもまたいつものようにぷいと目を反らして行ってしまった。ここに来るまでの旅の間にも何度となくあった光景だが……

 だがあのときのアウラの後ろ姿はまるで少年だったのだが、今は美しい貴婦人のそれだ。

 フィンはその後ろ姿にまた釘付けになってしまった。そのとき国王夫妻が入室して来なかったら、そのままずっと彼女の姿を見つめ続けていたかもしれない……



 晩餐に出席していたのは国王一家と少数の高官や将軍達で、人数はそれほど多くなかったがこのフォレス王国の重鎮といっていい人々だった。そこでフィンとアウラは正式に紹介されることになった。

 国王は二人が昨夜遅くここに来た理由を適当にごまかして話したが、それに関して特に突っ込む者もいなかった。アウラがガルブレスの養い子だったことを話したときもそうだ。エルミーラ王女やナーザも澄ました顔だ。

 だがアウラは緊張していて王が何を言っているかほとんど聞いていなかった。

 フィンが彼女の方をちらちら見て心配そうにしていたのだが、それにも気づいていなかった。

「……そういうわけで今日からこのお二人を正式なお客人として迎えることにする。皆の者、よろしいかな?」

 人々は黙ってうなずいた。特に文句を付ける者もいなかった。多分予め根回しは済んでいたのだろう。

 それから会食が始まった。

 出てきた料理はこれまでアウラが食べたこともないような素晴らしい物ばかりだった。

 そうやって食事にも一段落がついた頃、エルミーラ王女が言った。

「それでアウラ、ガルブレス伯父様ってどんな方でしたの? 私お会いしたことがないんです」

 いきなりの質問にアウラはちょっとまごついた。確かにこれは彼女が話さなければならないことなのだが―――一体何を話したらいいというのだろう?

 それを見てルクレティア王妃が口を挟んだ。

「ブレスには顎の左に傷があったでしょう? 髭を伸ばして隠そうとしていたけど」

 それを聞いてアウラは安堵した。これならば答えられる!

「ええ? はい……でもそこだけもう髭も生えなくて、禿げたみたいになってたんです」

「あの傷はね、私がまだ小さい頃、アドルトの次男にいじめられそうになったときにブレスが守ってくれたときの物なのよ。あのころはまだブレスも小さくて、それなのにあの卑怯者は尖った石でブレスを殴ったのよ」

「そ、そうだったんですか? 私ずっとあごハゲって言ってましたが……」

 それを聞いて一同はみな笑った。

「す、すみません……」

 アウラは真っ赤になってうつむいてしまったが、それを見てアイザック王が言った。

「いや、いいんだ。アウラ。そんな調子でもっと聞かせて欲しいのだがな」

 アウラは目を白黒させた。本当にこんな事でいいのだろうか? だがそれ以上に、こういうところで話をするのは慣れていない。というより、したことがない。一体どうすればいいのか……?

 そのとき口を挟んでくれたのがフィンだった。

「そういえば旅の途中で彼女には世話になったんですが、彼女とっても野外料理が得意なんです。聞いたらガルブレス様に習ったって言うんですが、ガルブレス様は料理もお上手だったんですか?」

 それを聞いてルクレティア王妃は微笑んだ。

「まあ、そうですの? ブレスはよく猟師と一緒に何日も山にこもったりしてたから、そこで覚えたんですわね。私も一度狩りに連れていってもらって、そこでごちそうされた事がありましたわ。そのときは一緒に行った猟師が作ったんですが、野ウサギの蒸し焼きみたいなもの。とってもおいしかった記憶があるわ」

 それを聞いたアウラが答えた。

「それってウサギのお腹にカロの根とかを入れてたき火に埋めて焼くのですか? それならあたしも大好きです」

 そこにエルミーラ王女が割り込んだ。

「それアウラ、作れるの? なんだかおいしそう」

「え? 材料があれば……」

「お父様、今年はもう狩りはなさらないの?」

「当たり前だ。もう冬だ! 来年まで待て!」

 こんな調子でそれからは野外料理と狩りの話で盛り上がってしまった。

 それは今までアウラが体験したことのない楽しい晩だった。

 これまでアウラは彼女の育ての親を知っている者に出会ったことはなかった。ガルブレスに関してこんな風に話せる相手がいるなんて!

 しかしアウラは話しながらも、もしガルブレスの最期のことを聞かれたらどうしようとずっと心配していた。

 あのときのことは―――思いだそうとするだけで胸の傷が疼くのだ。それなのに話せと言われてしまったら……

 しかし王妃もエルミーラ王女も、誰もそのことについては触れなかった。


 そんなわけで晩餐がお開きになったとき、アウラは残念な気持ち同時に安堵の念も感じていた。

 気づいたときにはフィンはもう退席していていなかった。

 アウラはまた急にひとりぼっちになってしまった。

 アウラは重い足取りで与えられた部屋に戻る。そこはとても豪華な部屋だ。当然ながら今までそんな部屋で寝たことはなかった。

 だが彼女は全然嬉しくなかった。

 アウラはぐったりとベッドに倒れ込んで顔を枕に埋める。そういえばガルブレスと旅をした頃を思い出したのは久しぶりだ……

《あの頃は楽しかったのに……》

 あの頃は世界が輝いていたようにも思えるが、今といったいどこが違うのだろう?

 だがそれを考えても今ひとつぴんと来なかった。

 それともあれは夢だったのだろうか?

 アウラが今いるこの部屋は間違いなく現実だ。美しく、そして何となく肌寒い。

 この肌寒さは彼女がずっと感じ続けてきた感覚だった。もういつからなのだろうか?

 そう思った途端に胸の傷が疼いた。アウラは枕を握りしめてしばらく息を止めた。息苦しくなってきた頃、彼女は仰向けになって大きく肩で息をした。

 そのときだった。扉の方から微かな音が聞こえたのだ。

 アウラははっとしてそちらを見る。するとエルミーラ王女が足を忍ばせながら部屋に入って来るのが見えた。

「え? あの……」

 アウラは驚いて立ち上がろうとした。だが王女は身振りでそれを制止すると側に来て小声で言った。

「ねえ、アウラ。今お暇?」

 もちろんすることがあるはずもない。

「え? ええ」

 それを聞くと王女はさらに小声で言った。

「じゃあ、あたしの部屋見に来ない?」

 アウラは驚いて王女を見つめた。エルミーラ王女は心なしか目が潤んでいる。アウラはその意味を即座に見抜いた。

 どうする?

 答えは決まっていた。

 王女はこんな夢のような体験をさせてくれたのだ。こんなに美味しいごちそうを食べたのは生まれて初めてだ。それに対して彼女は何をお返しすることができる?

「ええ。見せて」

 アウラは一緒に王女の部屋に向かった。

 アウラはその部屋はさぞかし豪華なのだろうと想像していた。

 確かにその部屋は普通の部屋に比べたら広く立派だったが、その内装はどちらかというと質素に見えた。

 代わりに大きな本棚があってかなりたくさんの本が並んでいる。少なくともアウラの泊まっていた客室の方が壁の飾りなどはたくさんあった。

 それを見てアウラは少し拍子抜けした。

 二人はしばらく部屋のことや服装のことなどについて談笑した。それにも少し飽きた頃に王女が少し顔を赤らめながら言った。

「ねえ、一緒に体流さない?」

 アウラは黙ってうなずいた。

 部屋の奥には王女専用のバスルームがあった。湯船にはもう温かなお湯が満ちている。

 二人がバスルームに入って服を脱ぐと―――アウラの胸の傷が露わになった。

 それを見たエルミーラ王女は息を呑んだ。

「それ……」

 アウラはそういうことには慣れていた。

 今まであちこちの遊郭で遊女と一緒に寝たとき、彼女たちも最初にそれを見たときは一様に息を呑んだものだ。中には泣き出す娘もいた。

「ああ、これ?」

 そのときには喧嘩をして斬られたとか言ってごまかせた。

 だが、王女は知っているのだ。これがいつつけられたのかを……

 途端にアウラは胸が締め付けられるような気がしたが―――同時に何かくすぐったい。

《くすぐったい?》

 見ると王女がアウラの傷に指を這わせている。アウラは慌てて身を引いた。

「痛かった?」

「ううん。もう痛くないわ」

「違うの。斬られたとき」

 アウラはまた胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

 アウラの表情を見て王女は少し慌てたようだった。

「ごめんなさい。そういうつもりじゃなかったの」

 そう言って王女は今度はアウラの首筋にキスをした。

 アウラは今度はそっと王女の頭を押しやった。

「あたしはいいの。してあげる」

 そう言ってアウラは王女の耳たぶをそっと舐めようとした。彼女はそこが敏感そうだった。

 だが今度は王女がアウラを押しやった。

「だめよ。最初はあなたよ」

 アウラは少し困った。

「でも王女様……」

「ミーラって呼んで」

「……でも、ミーラ……」

 しかし王女はそれには答えず、アウラの乳房をそっとなで始めた。

《どうすればいいの?》

 もしかしたら相手が王女様だったら何か違うかも?

 ―――アウラは淡い期待をかけてみたが、やはりいつもと同じだった。

 アウラはそっと王女の手を取った。

「ごめんね……だめなの」

 王女は驚いたようにアウラを見つめる。

「だめって……何が?」

「あたし……何も感じないの」

「ええっ?」

 エルミーラ王女は目を丸くした。

 それからしばらくアウラを見つめたと思うと、急にアウラの左の乳首をつねったのだ。

「あ、痛っ!」

 本当にアウラは痛かっただけだった。

「嘘よ!」

「嘘じゃないの……」

「嘘よ! 自分が感じない人が、どうして人に良くしてあげられるっていうの?」

「それは……」

 アウラは言葉に詰まる。そんなこと―――どうやって説明すれば良いのだ?

 アウラは黙って王女に手を差し出した。

 王女はぴくっと身構える。それを見てアウラは黙って王女の手を取るとそっと撫でた。途端に王女がびくっと体を震わせる。

 それからアウラは王女の耳たぶに触れた。再び王女が体をねじるように震わせる。次にアウラは王女の腰の左側にそっと手を這わせる。

「あんっ!」

 王女が身をくねらせて、驚いたように飛び退がった。

「ど、どうして?」

「どうしてって言われても……でも動きで何となく分かるの」

 エルミーラ王女は少し怖くなったようだ。

 王女はこのままアウラが続きをやっていたらどうなっていたか、はっきりとその体で悟っていたのだ。アウラは本当に評判通りなのだ。

 それから王女の顔に怒りの表情が浮かんだ。王女はアウラに言った。

「ずるいわ」

「え? どうして?」

「だって、あなた楽しいの?」

 そう言われてもアウラには返す言葉がない。

 確かに今までこうやって自分が楽しんだことは一度もない。相手が喜ぶのを見るのは少しは楽しいと言えるかもしれないが……

「あたし一人だけ楽しんでも、全然おもしろくないわ」

「でも……」

「だって、そうでしょ!」

「でも……だめなのよ」

 アウラは胸を押さえてしゃがみ込んでしまった。

 彼女は自分が何か壊れてしまっていることに薄々気づいていた。

 王女はアウラが喜ぶことを求めている。だがそれは彼女にはできない。今まで出会った遊女達もそう感じていたのだろうか? だとすれば彼女はいままでずっと彼女たちを悲しませてきたのだろうか?

「ごめんなさい。王女様。もう来ません」

 アウラは立ち上がると服を着ようとした。

 だがその姿を見て王女は言い過ぎたことに気づいて、慌ててアウラの肩を抱く。

「違うのよ。そんなつもりはなかったのよ……」

 アウラは王女の顔を見た。もう怒りの表情はなかった。

「ともかくお風呂に入りましょうよ。せっかく脱いだのに」

 王女は有無を言わさずアウラの手を引っ張って湯船の方に導いた。

 二人は一緒に湯船に浸かった。

 二人十分に体を伸ばせるだけの広さがある。

 アウラは黙って湯船のさざ波を見つめていた。エルミーラ王女は複雑な表情だ。しばらくはそのままどちらも何も言わなかった。それから口を開いたのは王女だった。

「ねえアウラ」

「え?」

「あなた、女に生まれて良かったって思う?」

 アウラは一瞬とまどった。

 女に生まれて? 今まであまり考えたことがなかったが―――少なくとも良かったと本当に思った記憶はない。

 だが男に生まれたかったかというと―――そうでもない。

「わからないわ……」

「あたしは良かったって思うわ。でも大変なことばっかり」

 そう言って王女はアウラに微笑みかける。アウラにはよく分からなかった。

 それから風呂を上がるまで二人は会話を交わさなかった。二人とも何を言ったら良いのか全く分からなかったからだ。

 アウラは半ばあきらめていた。

 せっかく仲良くなれそうだった王女には嫌われてしまったようだ。やはり彼女はこの世界には縁がないのだろう。

 アウラは明日、ここを出ていこうと決心した。

 だが―――そう思った瞬間また寂しさがこみ上げてきた。今度こそ本当に一人なのだ。昔の自分に戻るのだ。フィンと出会う前の自分に……

 途端にまた胸が痛んだ。そしてふと大胆な考えが頭をよぎった。

 どうせ明日は出ていく身だ。少々失礼なことを言ったってかまわないのでは?

 そして気づいたらアウラはこう言っていた。

「あの、ミーラ。今晩一緒に寝ていい? あ、いえ、本当に一緒に寝るだけでいいんだけど」

 言ってしまってアウラは思いっきり後悔した。

 さっきあんなに怒っていたのにどうして同意してくれるというのだ? きっとあんたみたいな女は出ていけ、とか言われるに違いない……

 だが王女はアウラをまじまじと見つめると答えた。

「ええ。いいわよ」

 その答えにアウラは逆に驚いた。

「いいの? 本当に?」

「本当にも何も、あたしたちもっと凄いことしようとしてたんじゃないの?」

 そう言って王女は笑った。

 その晩、二人は抱き合って眠った。



 次の日の朝、ベッドの横の方で王女が起き出す気配を感じてアウラは慌てて飛び起きた。見るとまだ夜が明けて間もない。エルミーラ王女は早起きだった。

「あら? もっと寝てていいのに」

「いえ、あたしも起きます!」

 その様子を感づいてリモンとコルネが洗面の準備をする。

 王女にとってはいつも通りの朝支度なのだが、アウラは勝手が分からずまごついていた。

 アウラがコルネに手伝ってもらって何とか準備を終えたときにはエルミーラ王女はもう朝食を始めていた。

「ごめんなさい。先に食べちゃって」

「あの、みんな一緒じゃないんですか?」

「ああ、お父様やお母様はお忙しいから、朝と昼はみんな別なの」

 王女はアウラに微笑みかける。

 怒ってはいないのだろうか? アウラは不思議だった。夕べはどうしてだか分からないが、ひどく失礼なことをしてしまった気がするのだが―――だが王女は全然そうは見えなかった。

「あの……」

 アウラは王女に、今日出ていこうと思っていることを告げようとした。だがいざ言おうとするとなかなか言葉にならない。

「え? なに?」

「いえ、なんでもないんです」

 王女は不思議そうにアウラの顔をみつめる。アウラはなぜか恥ずかしくなった。

 それから王女は朝食を食べ終わると、アウラに言った。

「あの、ごめんなさいね。今日は日課があるから、一緒にはいられないの」

「ええ?」

 アウラの胸がなぜか痛む。

「本当ならもっと案内してあげたいんだけど」

「いえ、構わないで下さい」

「湖の方に行くととてもきれいなところがあるのよ。今度の休みに一緒に行きましょう」

「ええ……」

「ゆっくりしていらしてね。何かあったらコルネに言うといいわ。コルネも分かってるわね?」

 エルミーラ王女は控えていたコルネに向かって言った。

「はいっ! もちろんです」

 コルネは元気に答える。彼女は食事の間中ずっと側に控えていた。

 それから王女は立ってグルナと共に部屋を出ていった。

 結局アウラは王女に言えなかった……

 部屋にはアウラとコルネだけが残った。彼女は何か緊張したようにこちらを見ている。アウラも彼女に何と言っていいのか分からなかった。

 気まずい沈黙が流れた後、コルネが言った。

「あの、アウラ様。何かご入り用な物はございますか?」

「ええ? ああ、あたしはいいわ。あなたも仕事があるでしょ? それとも何か手伝いましょうか?」

 コルネは慌てて首を振った。アウラにとってはそっちの方が気が楽だったのだが、コルネにとっては呑める話ではない。

「それでは、何かあったらお呼び下さい」

 そう言ってコルネも出ていった。


 その日はひどく長い一日となった。

 昨日は王女と一緒だったから、時間が経つのが全く気にならなかった。だが今日はまるで時間が止まっているように感じる。

 一体この時間をどう過ごしたらいいのだろう? いつもならば大抵旅をしていたから、何も考えずに歩いていれば良かった。そうでなければ薙刀の練習をすることもできた。

 だがもちろん旅をしているわけではなく、薙刀はあの日取り上げられたままである。もちろんこんな王宮の中では不要なものであるが……

 聞く話によればフィンはずっと図書館にこもりっきりだという。図書館には昨日一応王女と行ったが、とにかく本がたくさんあるという感想しか湧かなかった。

 アウラはコルネを捕まえて何か話をしようかとも思った。

 だがコルネもリモンも忙しく働いている。実際エルミーラ王女の居住区はかなり広いのにそこを二人で管理しているようだ。声をかけて邪魔するのは何だか悪いような気がしてきた。

 アウラは結局王宮の庭をぶらぶらして過ごした。

 その間アウラは何度も自分の決心を伝える機会を探した。

 だがエルミーラ王女はどこにいるのか分からず、王も王妃もちらっと見かけたがとても何か言える雰囲気ではなかった。

 たった一人で散歩しても全くおもしろくない。昨日は王宮内の何を見てもわくわくしていたのに、今日は全てがまるで味気ない石の固まりにしか見えない。

 午後のお茶会のときにアウラはやっと王女と再会できたが、彼女はなんだか難しい問題を考えているようで、やはり出ていきたいという話を切り出すことはできなかった。

 結局そんな調子でアウラは晩までずるずると城に居続けた。

 夕食の席で彼女はやっと他のメンバーに会うことができた。王と王妃、エルミーラ王女とナーザ、それにフィンが顔を出していた。

 フィンは王と図書館の本の話をしている。その日二人はちょっと挨拶の言葉を交わしただけだった。

《明日になったらみんなとも別れるのね……》

 そう思うとアウラは何か悲しくなった。

 たった二日いただけなのに―――だがやはりここは彼女の住む場所ではない。

 アウラは首を振って決意を固めた。

 昨日の晩餐とは違って通常の夕食はずっと質素だった。といってもアウラが今までいつも食べていたような物に比べたら天と地の差があるのだが。

 夕食は和やかに始まった。ときどき王女が何か話しかけてくるのだが、アウラはどうやって暇請いを願うかそればかり考えていて上の空の返事を繰り返していた。

 そこでついにアウラの様子が変なことに気づいて王が尋ねてきたのだ。

「アウラ殿。どうなされた?」

 アウラは慌てて答えた。

「え? いえ、なんでもないんです」

「そうかな? そうには見えぬがな」

 アウラはうつむいた。言わなければならない。だが何と言ったらいいのだろう?

 彼女はしばらく考え込むと、それからやっと言葉を絞り出した。

「あの……本当にありがとうございました……」

「??」

「あたし……明日発ちたいと思います」

 それを聞いて一同が驚いてアウラの顔を見る。すぐさま王女が言った。

「ええ? どうして?」

 アウラは王女の顔を見た。純粋に驚いている顔だが―――どうしてだ? 王女は怒っているのではなかったのか?

 そのとき一同の視線はアウラではなく王女に集中した。

「ミーラ。お前……」

 王がぎろっと王女をにらむ。王女は慌てて首を振る。アウラは慌てて答えた。

「王女様とは関係ないんです。ここじゃあたし何もできないから……」

 それを聞いてルクレティア王妃が言った。

「そんなことをどうして気にするのです? あなたはもう家族みたいなものでしょう?」

 アウラは驚いて王妃を見つめる。家族? どうして?

 王妃に続いて王女も言う。

「あたし新しい従姉ができて嬉しかったのよ。どうして出ていくなんて言うの?」

「従姉?」

「だってそうでしょ? ガルブレス伯父様の子供なんだから、あたしの従姉じゃない」

「でもあたし拾われたんです。子供じゃありません」

 それを聞いた王が言った。

「アウラ殿。あなたは何か考え違いをしておるだろう? わしとルクレティアはもともと赤の他人だが、今では家族であろう?」

「えっ?」

「血がつながっていなくとも、ガルブレス殿はアウラ殿を愛しておられたのだろう? それにアウラ殿はガルブレス殿の類い希な技を受け継いでもおられる。ならば子供も同然だと思わぬか?」

 アウラの決心はぐらぐらに揺らいだ。

「でも……あたし王女様みたいにはなれないし……ただ迷惑をかけるだけで……」

「ん? 一体どうして迷惑なのかな?」

「だって、何もしていないのにこんな美味しい物を食べさせてもらって、それから……」

 それを聞いて王しばらくぽかんとしていたが、それから大声で笑い出した。

「はっはっは! なるほど! そういうことか!」

 アウラは驚いて王の顔を見た。王はアウラに微笑みかけた。

「まあ確かに、いきなり見知らぬ者達に家族だと言われても、居心地が悪い。そういうことであろう?」

「え? え?」

「ならばアウラ殿。この城で働いてみるのはどうだ? もちろん報酬も払おう。それならばどうだ?」

「えええ?」

 しかし王はそこまで言ってから、ちょっと考え込んだ。

「しかしだ……とすると一体どういう仕事が適当であろう? アウラ殿はこれまでどのようなことをして生計をたてておられたのかな?」

 それを聞いてアウラは絶句した。

 ヴィニエーラの夜番をやめた後はほとんどその日暮らしの浮浪者と言って良いような生活だ。いくら何でもこんな所で……

 そのとき口を挟んだのがナーザだった。

「それでしたらアイザック様、エルミーラ様の警護などはいかがでしょうか?」

「何と申す? ナーザ殿?」

 アイザック王は驚いた様子でナーザの顔を見た。

「私はこれまでずっとエルミーラ様の外泊時などの警護を承って参りましたが、さすがにこの歳ではそろそろきつくなって参りましました。より良い方がいれば代わって頂きたいと常々思っておりましたが、アウラ様ならまさに打ってつけだとは思われませんか?」

 それを聞いて王女も言った。

「そうだわ! アウラだったらぴったりだわ。お父様、どう思います?」

「お前は黙っておれ!」

 アイザック王はちょっとの間考え込んだ。

 だがアイザック王はすぐにアウラの顔を見ると言ったのだ。

「ふむ。確かにそうだな。アウラ殿。あなたもご存じの通り、この娘はよくとんでもない所に出かけていったりするのだが、そういうところでは男の護衛よりもあなたの方が遙かに適任だと思うのだが、どうであろうか?」

 それを聞いてルクレティア王妃が眉をひそめて何かアイザック王にささやいた。王妃もいきなりの展開が心配なのだろう。

 だがアイザック王が王妃に何かささやき返すと王妃も黙ってうなずいた。

「で、どうであろう? アウラ殿?」

 アウラはいきなりの展開に、大混乱だった。

「……でもあたしなんかでいいんですか?」

 王はまた笑った。

「ガルガラスを子供扱いしたあなたが、また弱気なことだな?」

 アウラはうつむいた。

 出て行かなくていいのか? ここにいていいのか? 本当に……?

 そこでアウラは初めてフィンの顔を見ると―――彼は微笑んで、軽くうなずいたのだ。

 それを見たアウラはなぜか決心がついた。

「あの……それじゃ雇って下さい」

「ふむ。そうと決まったらアウラ殿には少し覚えてもらわねばならないこともある」

 王の言葉にアウラは不安を感じた。覚える? 一体何を?

「どんなことですか?」

「ミーラの護衛ということは、ミーラの侍従として控えるということでもある。だとすると少しは礼儀作法などを学ばねばな。さすがに公式の場で今の調子では、少しまずかろう」

 確かに王女を警護するのであれば当然だ。彼女は王女の行くところにはどこでも付いていくことになる。場合によったら他の国の王族などの前に出ることさえあるかもしれないが、いったい大丈夫だろうか?

 そんな表情を見て取ったのだろう。王は続けた。

「なに。わしはあまり心配しておらんよ。最初に見せてもらった兵士の礼は、なかなか見事であった。確かル・ウーダ殿。あれはアウラ殿に一度見せただけと言われておらなかったか?」

 フィンがそれを聞いて答える。

「ええ。そうなんです。あれには私もびっくりしました。本職の兵士よりも立派でしたよ」

 アウラはフィンをにらむが、フィンは涼しい顔をしている。

「ともかくアウラ殿」

 王に問いかけられてアウラは慌てて振り向いた。

「これからよろしく頼むぞ」

「わ、わかりました」

 アウラはひどくほっとした気分だった。