第5章 第三の道
年末から年始にかけての式典もつつがなく終わり、城にはまたいつも通りの平穏な日々が戻ってきた。
フィンはその日も夜遅くまで図書館にこもっていた。
「うう! 冷えてきたな」
フォレス王国は高原地帯である。今は真冬。城の外は真っ白な雪に閉ざされている。
だがフィンは満足だった。都を出てからこんなに何かに没頭できたのは久々だった。この図書館には無尽蔵の知識が蓄積されている。
フィンはあの日図書館でナーザと話してから新たな目標ができていた。
なぜ魔道軍はガルンバ将軍に破れたのか? それまではフィンも他の魔導師同様に、そのことを深く追究してこなかった。
彼もまた自らの存在価値がなくなってしまうことが怖かったのだ。もはやこの世界では魔法は無用なのでは? その考えは全ての魔導師にとっての悪夢だったからだ。
彼が本腰を入れて魔法が勉強できなかった理由も、突き詰めればそこにあった。
だがあの日ナーザにタネを明かされて、フィンは一つの希望を持った。
もしかしたら都の魔法が破れたのではないのでは?
ああいう結果になったのは、もしかしたら全く別の原因があったからなのでは?
フィンはあれ以来その原因を解明すべく一心に努力していた。
それはフィンの思い出したくない過去の記憶を一時的にでも忘れさせてくれる効果もあった。
「これはル・ウーダ殿。遅くまで精が出るな」
そのためにフィンは後ろに誰かやってきたことに気づかなかった。
慌てて振り向くと、そこにはアイザック王が立っていた。
「これはアイザック様」
あの日以来、王とは何度も顔を合わせる機会があったが、フィンの過去に関しては二度と蒸し返されることはなかった。
だが王は以前よりも気さくにフィンに話しかけてくることが増えた。
「今度は何を読んでおる?」
「はい。レイモン王国の戦記を少し」
「最近そちらの方にやたら興味があるようだな?」
「ええ。まあ。何しろこういった資料は都にはあまりなかった物ですから」
王は微笑んだ。
「これだけの本をお集めになるのは大変だったでしょう? 本当に素晴らしいことだと思います」
「そうかな? ティアからはさんざん無駄遣いだと小言を食らったものだよ」
「まあ、女性だとそう言うかも知れませんね……いえ、これは一般論です。エルミーラ王女様だったらご理解いただけるのでは?」
フィンはここでほとんど毎日のように王女に出会っていた。
あんなに勉強熱心な姫は今まで見たこともなかった。また王女がナーザに出している質問はフィンも驚くほど高度な物が多かった。
今日も王女は難しいことを尋ねていた。
フォレスでは農民から持っている土地の広さに応じて税を徴収しているが、肥沃な土地を持っている農民と、痩せた土地しか持っていない農民がいたら、公平でないのではないかとかいった内容だった。
ナーザの答えは一般的なものであったが王女は明らかに不満そうだった。
それを横で聞きながらフィンは心から感服していたのだ。
フィンも少しはそういう法律の勉強をしたことがあるが、王女の言ったようなことを考えたこともなかったのだ。たいてい寝ていたせいもあるが……
だがエルミーラ王女の名前が出た途端にアイザック王は表情を曇らせた。
《あれ? 何かまずいことを言ったか?》
もしかして王は王女が読書家なのを実は快く思っていないのだろうか?
何となく気まずい沈黙が流れた。それから王が少し重い口調で言った。
「ミーラか……今日もあ奴は出かけておるな」
それを聞いてフィンは言葉に詰まった。いったい何と答えれば良いのだろう?
だが王はそのまま続けた。
「そういえばル・ウーダ殿。最初会った日に、いきなり不躾なことを尋ねてしまったな」
「え?」
「ミーラの郭通いのことだよ」
「あ、ああ、そうでしたね」
フィンはあの日王にいきなり問われて困ったことを思い出した。
だが今同じことを問い直されても同様に困ることには間違いない。
「実はな。ル・ウーダ殿。わしは初対面の客にはたいていああいう風に尋ねることにしておるのだ」
「え?」
「わしの所にやってくる客は当然いろいろな者がおる。そういう客が果たして信頼おける人物なのかどうか確かめるのに、あの質問は大変便利なのだよ」
「…………」
絶句しているフィンを見てまた王は笑った。
「最初はみな一様に絶句するな。しかたあるまい。このような恥ずかしい話をわしがいきなり始めるとは誰も思っておらんだろう。問題は次にわしが、王子では許されて、王女ならなぜだめだと尋ねたときだな」
そう言って王はフィンの顔を見る。
「よくいるのが、慌ててわしの言葉を肯定する奴だ。こういう輩はたいてい信用がおけない。顔を見れば単にわしに媚びていることがすぐ分かる。それに対して、いきなり反論する者もいる。そういう者は正直だとは思うが、やはりよく物を考えているとは言い難い」
フィンは内心動揺しまくっていた。確かあのときは―――彼は反論したような気がするが、それなら王は一体何を思ったのだろう?
「そういう意味でル・ウーダ殿。わしは君の答えにはかなり満足しておる」
フィンはますます混乱した。
「あの……でも、大したことは何も言ってませんが……」
それを聞いて王は笑った。
「わしは答えなど求めてはおらんのだよ。わしは君があそこでじっくり考えてくれたことが嬉しかったのだ」
「お、恐れ入ります」
「で、あれからずいぶん経っておる。お考えは何か変わられたかな?」
フィンは再び絶句した。王は黙って笑いながらフィンを見つめている。
これはどう考えてもテストの続きだ。いったいこの王は何を考えているのだ?
だがいつまでも黙っているわけにはいかない。フィンは腹を決めた。この王をごまかそうと思ってもだめなようだ。だったら本当のことを言うしかない。
「そうですね。あれ以来エルミーラ王女様には何度もお会いしました。正直に言って、城の中にいらっしゃる王女様は大変立派だと思います。はっきり言って、都にもあのような方はおりません」
「ほう」
「ただやはり、私の考えとしましては、王女様があのような所に出入りするのは良くないかと思います。普通の町娘がそういう趣味を持っていても、私はあえてとがめ立てしません。といっても放蕩を推奨するわけではないのですが……それで身を持ち崩すかどうかは、本人の責任ですし、これは男でも同じです。自分の娘がそうなったとして同じことを言えるかどうか自信は持てませんが……」
そういいながらフィンはあのとき出会ったアウラの姿を思い浮かべていた。
「しかしそれが王女様となると話は少し違うかと思います。“王女”とは私人ではありません。王女様がそうなった場合、フォレスという国にとっては、やはり悪影響がでるのではないでしょうか」
「ふむ。なるほど」
王は考え込んだ。フィンは心配になった。こんなことを言って良かったのだろうか? まさかこの真冬に放り出されるようなことはないだろうが……
だが王の次の言葉は意外だった。
「それではル・ウーダ殿には、ミーラがどうしてああなってしまったか、お話しなければならないようだ」
「?!」
「それを話すには少し時間がかかる。ここは少し寒いような気がするな。わしの部屋に行こう。そこならばゆっくり話ができる」
「え?」
フィンは躊躇した。だが王はそのまま行ってしまおうとする。
「どうした? ル・ウーダ殿? 聞きたくはないか?」
「いえ、参ります」
フィンは慌てて王の後を追った。
案内された部屋は、この間尋問された部屋よりもっと奥の、王のプライベートな部屋のようだった。
ここは他の場所とは違ってかなり散らかっていた。あちこちに本が積み上げられており、王の居室というよりは、学者の部屋のようだ。
「かけたまえ」
「あ、はい……」
フィンは言われるままに暖炉の側の長椅子に座った。王も反対側に腰を下ろす。
王は黙って暖炉の火をかき回した。炎がまた燃え上がった。それから王はしばらく燃える炎を見つめていたが、やがて向き直ると言った。
「ル・ウーダ殿は先ほどわしの図書館を誉めてくれたが、煎じ詰めればミーラがああなったのは、あの図書館のせいだと言えないこともない」
「ええ? どういうことです?」
「あれだけの本を集めるのは、本当に大変だった。それ故にいろいろ犠牲にしなければならないことも多かった。そういう意味でわしは良い父親とは言えなかったのだ」
それから王は語り始めた。
その頃アウラは王女と一緒にアサンシオンの最高級の部屋にいた。
部屋の床には柔らかな絨毯が敷き詰められており、部屋の中には甘い香りの香が焚き込められている。
部屋の中央には天蓋のついたひときわ大きなベッドがあって、アウラと王女はその上に寝そべっていた。
ベッドの上には二人の他に、もう三人の遊女が一緒に乗っている。
だが彼女たちはちょっと様子が変だった。あられもない格好で横たわって、まるで気絶しているように見える。
動けなくなった三人を見て王女が苦笑しながら言った。
「まったくもう……アウラ、やりすぎよ!」
「でも……くすぐったくて」
「もう少し手加減してあげないと、この子たち今日はもう使い物にならないんじゃないの?」
―――事の起こりはエルミーラ王女が娘達に、三人掛かりでいいからアウラと勝負して勝ったら、何でも好きな物を買ってやると約束したことに始まる。
遊女達は大喜びで挑戦した。ヴィニエーラのアウラの噂はもちろん彼女たちも聞いている。だが彼女たちもその道のプロだ。三対一なら絶対と誰しもが思っていたのだ。
王女はアウラが感じないことを知っていたのでちょっと意地悪かと感じたのだが、もしかしたらそれでアウラの不感症が治るかも知れないとも思ったのだ。
だがそれは少々どころか大幅に考えが甘かった。
三人の攻撃はアウラにとってはくすぐったいばかりだった。そのためアウラはついむきになって反撃してしまったのだ―――その結果が今の状態なのである。
アウラは心配になって側で喘いでいる遊女に尋ねた。
「アルト、大丈夫?」
彼女はアウラが初めてここに来たとき一緒にいた娘だった。
「はぁーん……らいじょうぶ……れす」
そう答えつつも、アルトは息も絶え絶えだ。
それを聞いて王女が言った。
「やっぱりすごいわねえ。あたしだったらこんなに上手にいかせてはあげられないわ」
アウラは何と答えていいか分からなかったので黙ってうなずいた。
それから王女は他の遊女達を見回すと言った。
「それにしてもリネア、レッタ、あんたたちももう終わりなの?」
それを聞いてリネアと呼ばれた遊女が答えた。
「すみません。その、腰が抜けちゃって……」
王女がレッタの方を向くと彼女も同様のようだ。
「あの、もう少ししたら何とか……」
エルミーラ王女は処置なしという感じで天を仰いだ。
アウラは王女が欲求不満なのを見て取った。
「あの、ミーラ、何だったらあたし……」
「だめ!」
だが王女は即座に断った。彼女はあの日の約束を貫き通すつもりらしい。
アウラは王女がなぜそんなことにこだわるのかよく分からなかった。
そこにレッタが尋ねた。
「王女様、どうしてしてアウラ様にして頂かないんですか。あたし達よりずっとお上手でいらっしゃるのに……悔しいけど」
それを聞いて王女は答える。
「アウラが感じられるようになるまではしないって約束なの。だからあなた達に頼んだのよ!」
リネアが驚いて尋ねる。
「ええっ? アウラ様って感じないんですか?」
「え、ええ……」
「それだったらずるいです! アウラ様の反撃は反則です!」
だが王女はぴしゃりと言った。
「ずるいって、あんた達がいつまでたっても埒が明かないからじゃない」
「だってぇ」
「で、少しぐらい元気のある人は?」
「だめですぅ。動けませーん」
「まったく!」
アウラは何だか彼女たちに悪いような気がしてきた。
「あの、ミーラ。この娘達は全然……」
「バカ。そんなの分かってるわよ!」
そう言うと王女はアウラに抱きついて、頬にキスをした。
アウラはちょっと驚いたが、すぐに王女の肩を抱く。王女はアウラの胸に顔を埋める。アウラは王女の髪の毛をそっと撫でた。王女はそれを感じると気持ちよさそうに目を閉じた。
アウラは王女がそのまま眠ってしまったのかと思った。
ならばこれ以上邪魔してもいけない―――だがそのとき王女が急に目を開くと言ったのだ。
「ねえ、アウラ……あたしってやっぱり変かしら」
「ええ?」
王女がアウラを見つめている。
「ミーラが変だったら、あたしはもっと変でしょ?」
王女は笑った。心なしか力がない。
「法律ってやっぱり難しいのよね。最初はあれさえしっかり覚えればいいかと思ってたんだけど……」
法律の話などされてもちんぷんかんぷんだ。
「あたし最近なんだか自信なくなっちゃって……」
「あの、それだったらナーザ様に相談した方が。あたしは法律なんか……」
王女は笑った。
「ナーザだって分からないの。お父様もそう。だから困ってるの」
そんな話をされてもアウラには何だかよく分からない。
そこで彼女は黙って王女の髪をなでた。
王女は気持ちよさそうにまた目を閉じると、つぶやいた。
「やっぱり間違ってたのかしら……」
「何が?」
王女は薄目を開けて、アウラを見つめる。
それから彼女はアウラの乳房をそっと撫でる。だがそよ風が当たったような感じがしただけだった。
「アウラ。あなた本当に何も感じたことないの?」
「え? ええ。多分……」
「じゃああたしもあなたみたいだったら良かったのかしら」
「そんなことないわ!」
そのきっぱりした口調に、王女は少し驚いてアウラの顔を見る。
アウラは反射的に言ってしまったことに少し後悔したが、王女に自分のようになって欲しくないのは事実だ。
「あたしみたいになっても、いいことなんてないわ」
いいことなんてない―――本当に何もなかった……
「ごめんなさい。アウラ」
アウラは首を振る。
あの薄暗い日々がまた彼女の前に蘇った。
ただ一人何かにおびえながらさまよう日々―――それに比べたら今は天国だ。
二人はしばらく黙り込んだ。
それから王女はふっと毛布を取り上げると、横たわっている遊女達にかけてやる。
「あ、ごめんなさい……」
「いいのよ」
それからまたしばしの沈黙。
「ねえ、アウラ」
再び沈黙を破ったのは王女だった。
「え? 何?」
「あたしね、王女じゃないの」
アウラは驚いて王女を見つめた。王女様じゃない? いったいどういうこと?
「聞いてくれる? アウラ」
そういった王女の目はひどく弱々しげに見えた。
アウラは黙ってうなずいた。
王はまるで自分に語りかけるように話し始めた。
「わしは若い頃から本が好きだった。もしこのような王家に生まれていなければ、絶対に学者の道を志したことだろうな。だが、わしは国を継がなければならなかった。
わしがルクレティアを妻に持てたのは、最大の幸運だと思っておるよ。彼女のおかげで、わしは勉学の道をあきらめずに済んだのだ。国政のかなりを彼女が肩代わりしてくれたおかげで、わしは好きな研究をする暇ができたし、あれだけの図書館を作ることもできた。
だがエルミーラにとってはそれはあまりよい環境であったとは言えまいな。なぜなら当然、母親であるルクレティアは、彼女に十分構ってやれなくなってしまったからだ。もちろんわしはこの部屋にに閉じこもりっぱなしで、そんなときには本気で娘がいたことさえ忘れておった……
その頃はわしらも若かった。それがどのような弊害を生み出すか、想像だにしておらなかった」
王はそう言って目を閉じた。
「最初の兆候は、エルミーラがひどくわがままに育ってしまったということだった。今のあ奴からは想像もつかんが、あのころはひどかった。人の言うことは聞かん。癇癪を起こしては当たり散らかす。周りの者はほとほと困り果てておった」
フィンは驚いた。確かに今の王女からは想像もつかない。
「そんなにひどかったんですか?」
「ああ。そのときにわしかティアが気づいていれば、また違ったことになっておったのだろうな。だがわしらは気づかなかった。二人とも自分のことに忙しくてな。
もちろんあまりにもわがままだとその後に差し支える。だから、礼儀作法の教師をつけたり、習い事をさせたりした。今から考えれば、全く的外れなことをしておったわけだ……だが不運なこともあった」
フィンは王を見つめた。王は続けた。
「というのは、実はエルミーラには婚約者がおったのだ」
「いたということは……亡くなられたのですか?」
「はは。それならばまだ良い。そういうわけではないのだ。実はその婚約者とはベラのロムルース殿だ」
「ええっ?」
フィンは驚いた。
その名前ならば知っている。何しろ今のベラ首長国の国長なのだから。
「本来ならば、ベラの跡継ぎはグレンデル殿の長男であるレクトール殿のはずだった。ロムルース殿は次男だった。それ故にずっと前から許嫁の約束ができていたのだ。わしらは不運にもミーラしか子を成さなかった。とすれば、ミーラの婿としては最適であろう?」
フィンはうなずいた。まさにその通りだが……
「フォレスの跡継ぎ問題はこれで万事解決したと誰もが思っておった。だがそこにグレンデル殿とレクトール殿が事故で急逝されたというニュースが舞い込んで来たのだ。これがどういうことかは分かるであろう?」
「はい……」
そのためにロムルースがベラを継がなければならなくなったのだ。
だとしたらどういうことになる?
もちろんフォレスに婿に入るなどということができるわけがない。またフォレスの側としても王女を嫁に出すわけにもいかない。フォレスには彼女しか血筋がいないのだ。
だとすると……?
「エルミーラ様は、ロムルース様をお好きだったのですか?」
「ああ。まるで兄妹のようであった。あれだけわがままだった娘が、ロムルースが来た途端にいきなりしとやかになってな」
「当然婚約は破棄なのですね?」
「もちろんだ。わしらとて辛かった。だがこればかりはどうしようもない」
それまで彼の“お嫁さん”になることを信じて疑わなかった娘が、いきなり単なる国の都合で引き離されてしまったというわけだ。少々グレても仕方ない―――のか?
「ミーラにとっては大変辛いことだっただろう。たぶんそのときが最後のチャンスだったのかもしれないな。ミーラは何日も泣いておった。もしあのときわしかティアが気づいて、ミーラを相手してやっていれば、ル・ウーダ殿は全く違った娘を見ていたやもしれぬな……だが、過ぎたことを言い募っても仕方がない。
だからあの事件は起こるべくして起こったと言えるだろう。ああいう形ではなくとも、何か別な形で、必ず起こっていたのだ……」
「どのような事件だったのでしょう?」
「ああ」
そう言って王はまたしばらく目を閉じた。
「ミーラのわがままはそれから更にひどくなっていった。だが彼女が一人だけ好いておった女官がおった。ロンディーネという名前だった。
彼女はミーラが幼い頃から身の回りの世話をしていた女官だった。といってもそれほど歳は離れてはおらぬ。ミーラは彼女を姉のように慕っておったようだ。
もちろんロンディーネは怪しい素性の者ではない。それどころか、本当に親身になってミーラの世話をしておった。ミーラは彼女にだけはあまりわがままをぶつけなかったようだ」
そのとき王はフィンが、そんなことを本当に知らなかったのかと疑問に思っていることを察したのだろう。
「ははは。恥ずかしい話だが、わしがその辺の事情を知ったのは、事件が起こった後の話なのだ。だからみんな後から聞いた話なのだよ」
フィンは黙ってうなずいた。
「それはともかく、そのことは他の女官達にとってはあまりおもしろいことではなかったわけだ。他の女官達は、ロンディーネが贔屓にされていると逆恨みしたのだ。そんな女官の中に、本当に性の悪い女がいた。その女は公衆の前でミーラに恥をかかされたことがあった。女官は怒ってミーラに手を上げようとした所を、ロンディーネに押さえられた。
もちろんロンディーネは誉められ、叱られるのはその女官の方だ。それ以来その女官は何とかしてロンディーネに仕返しをしようと思ったのだ。
その女はあろうことか、偽の使い込みの嫌疑をでっちあげて、ロンディーネを城から追放してしまったのだ。その上、それでも足りなかったのか、情夫を使って彼女を騙して、郭に売り飛ばしてしまったのだよ」
フィンは絶句した。いくら何でもそこまでするか?
「まるで……悪女の見本みたいな女ですね……」
「そうだな……だがもっと悪かったのは、わしが全然それを見抜けなかったということだ」
王はそう言ってしばらく黙った。
「なにしろ使い込みの嫌疑でも、よく調べもせずに女の言うことを信じて判決を下してしまったのだ。一見証拠は揃っているようにみえたのでな。その当時わしは、研究の上でちょっとおもしろいアイデアを思いついておって、そういう些事に構いたくなかったのだ……最低だ!」
アイザック王はどすんと自分の膝を叩いた。
「ミーラはそんなわしを見てどう思っただろうかな? さぞかし無能な父親だと思っただろうな」
「アイザック様……」
「いいのだ。ル・ウーダ殿。事実なのだからな。そしてその後が問題だった……
当然ながらミーラはふさぎ込んだ。わしらはそういう彼女を全く気にしておらなかった。だからミーラが一人でとんでもない決意をしていたことに、全然気がつかなかったのだ。
ミーラは新任の女官を脅すかどうかしてロンディーネの行き先を聞き出したのであろう。ミーラは一人城を抜け出して、ロンディーネに会いに行ったのだ」
「ええ? いったいどうやって? 王女様がどうして一人で出ていけるんですか?」
城の城門には必ず衛兵がいる。どうやったって出ていくときに分かってしまうはずだが?
それを聞いて王は微笑んだ。
「ル・ウーダ殿は、西の見張り塔には行かれたかな?」
「ええ? 一度見せて頂きましたが……ええ? あそこからですか?」
確かにあの塔は城の外壁の上に建っているから、窓からは城外に出られることは出られるがが……
「あれって、すごい高さですよ!」
塔の一番低い窓でも、地面から十メートル近くはあるかもしれない。しかも壁は垂直で―――うっかり落ちたりしたら、まず足の一本は確実だ。
「そうだ。その高い窓からあ奴は出ていったのだよ」
フィンはまた絶句した。あの王女がそんなことをするなんて……
フィンが目を丸くしたまま何も言わないので、王が言った。
「呆れたかな?」
「え? あの、すごいですね……としか言いようがありません」
それを聞いて王は笑った。
「確かにそうだな。すごい娘だよ」
「でも大変な勇気だと思います。どんなに思い詰めていたからといって、そこまでできる人はなかなかいないでしょう?」
「まあ、確かに。ここまではな。美談と言ってもよかろう。だがその後がいけなかった」
「といいますと……」
「当然ミーラの行った先はロンディーネの売られた郭であった。ル・ウーダ殿があ奴と最初に出会った場所だ」
「は、はい……」
「もちろんあ奴は最初はロンディーネに会うために、そこに行ったわけだが……」
ということは……
「あ奴はそこで本末転倒しおったのだ」
あ、やっぱり……
アウラは黙って王女の話を聞いていた。
「そのときはね。本当に怖かったわ……あそこで引き返していれば良かったのよね。何度も何度も引き返そうと思ったんだから。その通りにしておけば良かったんだわ。でも……あたしはディーネに会いたかったの。
そしてとうとうあたしはここの入り口をくぐったの。
もちろんあたしは変装してたわ。でも姉御さんだったらあたしが女だなんて見ればすぐ分かるでしょうね。姉御さんはすぐに店を間違えたんじゃないって言ってくれたけど、そのときにはもう引き返せないところまで来てしまったって思ってたから、あたしは言ったの。ロンディーネを買いたいって。
姉御さんはとっても妙な顔をしてたわ。たぶんそのときにはあたしの正体に気づいてはいなかったと思うけど……当たり前よね。王女がこんな所に来るなんて考えている人がいるわけないもの。
たぶんあたしが必死だったことよりは、出した金貨の方が欲しかったんだと思うわ。でもともかくあたしはここでディーネに会えたの」
アウラは黙ってうなずいた。
「あたしはディーネに会えただけで満足だったわ。ディーネは最初あたしに気づかなかったの。当然よね。だからあたしが顔を見せたときには、死にそうに驚いていたわ。もう少しであたしの名前を叫びそうになるのを、あわてて押さえたわ。
ディーネはそれから、とにかくお部屋に行こうって言ったわ。廊下で立ち話するわけにもいかないし、あたしは付いていったの。
お部屋についてから、ずっとあたしはディーネの胸で泣いてたの。
あたしはディーネに一緒に戻ろうって言ったわ。でもディーネは首を振ったの。請け出すためのお金なら何とかなったわ。あたしの持ってた服とか宝石とかを売れば、そのぐらいにはなったから。でもディーネが城には戻りたくないって言ったの。
そうよね。あんなひどい目にあわされたんだし。あたしは何と言っていいのか分からなくなったの。無理にお城に戻しても、また他の女官にいじめられるかもしれないし……
やっと落ち着いたのは、ずいぶん経ってからだったと思うわ。気がついたらもう夜も遅くなってたわ。途端にあたし、すごくお腹が空いてることに気づいたの。その日の夕食は、今晩ディーネに会いに行くんだって思ったら、緊張でろくろく食べられなかったの。そう言ったらディーネが食事を取りに行ってくれたの。
そこで初めてあたしがどんなところに来てしまったか気づいたのよ。たった一人部屋に残されて、周りの部屋から何だかすごい声が漏れてくるのよ」
アウラも初めてヴィニエーラの夜番に立った日を思い出した。
「初めてだとびっくりするわよね」
王女は微笑んだ。
「全くそうね。あたし、最初はなんだか分からなかったわ。あたしそれまで本当に郭って何をする所なのか知らなかったの。きれいな女の人がいっぱいいて、歌ったり踊ったりするところだって思ってたの。
だから食事を持って戻ってきたディーネに、あたし尋ねちゃったのよ。周りの部屋で一体何をしてるのかって。女の人が泣いてるのはどうしてって」
「……ディーネは困ったでしょ?」
「もちろんよ。途端におろおろしちゃって、答えてくれないの。でもあたしはそのときはお腹も一杯になったし、どうしても聞きたかったのよ。それに言ったでしょ? あたしってすごく意地悪だったって」
「…………」
「そのときはそんなに大変なことだって思ってなかったの。だからしつこくディーネに聞いたの。ディーネってすごく気が弱かったから、最後はとうとう教えてくれたの。
さすがにあたしもびっくりしたわ。そんなこと今までだれも教えてくれなかったら……ディーネには本当にひどいことをしてしまったわ……今だったらどんな気持ちで彼女が教えてくれたのか分かるけど、あのときはそんなこと気にもしなかった。それどころかもっとひどいことを言っちゃったのよ。
ディーネは言ったの。あの声は、泣いてるんじゃなくて、喜んでるんだって。ああいうことをされると女は嬉しいんだって。だからあたし、そんな嬉しいことなら自分にもしてって言ったの」
「ディーネはどうしたの?」
「もちろん断ったわ。最初は。でもそう言われるとますます知りたくなるじゃない? 今度は彼女ずいぶん抵抗したんだけど、あたしがディーネと一緒に遊女になるって言い出したんで、とうとうあきらめたの」
アウラは絶句した。王女は続けた。
「あたし達二人で裸になって……ディーネとはよく一緒にお風呂に入ってたから、ディーネの体はよく見てたんだけど、そうやって二人でいるとすごくディーネがきれいに見えたわ。それからディーネが……」
王女はそう言って枕を抱きしめた。
「ディーネって……何事にも手抜きできない子だったわ。あそこで痛くしてくれてたら良かったのに……なんでも一生懸命で……」
王女の頬に涙が伝った。
「とっても……よかった……あたしそのとき、本当にもう死んでもいいって思ったわ……気づいたらディーネが横でずっと泣きながら謝ってるの。あたしはどうして泣いてるのって聞いたの。でもディーネは泣いてるの。
だからあたしもディーネを慰めてあげようって思ったの。あたし一人じゃ不公平じゃない? そう思ってあたしが、ディーネがしてくれたみたいにキスしようとしたら、ディーネがやめて下さいって言うの。
でもあたしはやめなかった。こんなにいいこと、どうしてもっと早くやってくれかったのって言ったりして……ディーネは泣いてたわ。あたしも泣き出しちゃった……でもやめなかったの……それからずっとその晩は、二人で泣きながら、ずっと……」
王女はしばらく言葉を途切った。
「気がついたら明け方近くになってたわ……二人とももうぐしょぐしょ。さすがにあたしも帰らなくちゃならないって思ったんで、もう一度二人でお風呂に入って、それから帰ったの。帰る途中、もしあの縄ばしごがなかったらどうしようって心配になったけど、ちゃんとぶら下がってたんで安心したわ。
そして縄ばしごを登って自分の部屋に戻ったの。その日は昼ぐらいまで寝てて、その後もずっとぼうっとしてたわ……でも、誰も気づいてなかったのよ。こんなことってある?」
アウラは首を振った。もしアウラがそのときいたら、絶対気づいていたはずだ。王女のお付きは一体何をしていたのだろう?
「本当にその頃は、誰もあたしのことを気にしてなかったのよ。目が覚めたらあたし急に怖くなったの。もしかしたらとんでもないことをしちゃったんじゃないかって。でもまるでみんないつも通り。あたしがふらふらしてても、寝過ぎだからそんな風になるとか言うだけで……
あたしは城ではひとりぼっちだった。ルースももういないし。それに比べたら夕べの体験は夢みたいに素敵な体験だったわ。だからあたしまた出かけたの。
次の次の日だったわ。あたしはまた同じように城を抜け出して、ここに来たわ。
ところがその日はもうディーネはお仕事に出てった後だったのよ。もちろん予約を入れとくなんて知らなかったし……こんなこと予想もしてなかったわ。でもあたし帰るのが嫌だったの。お城に戻ったって何もおもしろいことはないし……どうしようか考えたんだけど、とうとうそこで別な娘を買っちゃったのよ」
「…………」
「その娘はドニカって娘だったけど、その娘も少しびっくりしてたわ。でもその娘、そういう経験があったみたいで、ディーネよりずっといろいろなことをしてくれたの。
結局その日はディーネには会えなかったんだけど、何だか満足しちゃって……それからここには五回も来たのよ。ディーネがいるときは彼女と一緒だったけど、いなかったら誰でも良かった。最後のときなんかは、ディーネとドニカともう一人……誰だったっけ、三人も来てもらっちゃって……」
「あ、それってクロワさんじゃなかったですか?」
聞いていたレッタが口を挟んだ。
「ああ、そんな名前だったような……ここのところにほくろがあった娘よ」
「それじゃそうです。この間北の村の村長さんのお妾さんになったんですよ」
「そうだったの。良かったわね」
「で、そのあとどうなったんですか?」
「あなた達ずいぶん元気になったみたいね」
娘達は慌てたように毛布に潜り込む。
「え? でも~、まだ体はちょっと~……」
もちろん王女には仮病だと分かっていたが、彼女はさっきからずっと彼女たちが王女の話を興味深そうに聞いていることに気づいていた。
彼女は微笑んでそれには何も言わず、話を続けた。
「でもね、その三人に来てもらった日が最後だったの。だってこんなことがばれないわけないものね……五回もばれなかった方がおかしいのよ。あたしが六回目に城を抜け出そうとして、縄ばしごを降りたら……下にお父様が立っていたの。お父様は言ったわ。どこに行くんだって。もちろん答えられるわけないわ。
それから城に連れ戻されて……そこにはディーネもいたわ……お父様はものすごく怒ってたわ。お母様は泣いてた。
あたしは頭の中が真っ白だったわ。でもあたしはそんなに悪いことをしたなんて思ってなかったの……だから、お父様がものすごいお顔で剣を抜いたときには、何でそんなことをするのか全然分からなかったわ……だから、お父様がその剣でディーネを斬りすてたときも……」
娘達が小さな悲鳴を上げた。
「あたしは何だか全然分からなかったの……」
アウラも息をのんだ。
「そのときのわしの気持ちが分かるだろうか? まるで晴天の霹靂だった。まさか自分の娘がそんなことになっているなんて、想像もできなかった。だから塔の窓からミーラが降りてくるのを見て……いったい何と言ったらよいのだ?」
王はそう言って頭を抱え込んだ。
そう言われてもいったい何と答えたらよいのだろう?
フィンは黙って王が話を続けるのを待った。
「わしはロンディーネがミーラをたぶらかしたという話を信じておった。冷静になって考えてみれば、おかしな所はたくさんある。だがわしは完全に目が見えなくなっておった。
ロンディーネを斬った後のミーラの目は……一生忘れんだろうな。まるで獣を見るような目つきだったよ。わしにはミーラがなんでそんな目をしたか、その意味が当然分かるはずもなかった。ただそれはわしの怒りをいや増しただけであった。
わしはそのままミーラも斬ろうとしたのだ……」
王はそう言ってフィンの顔を見た。
「本当に幸運だったのだ……もし、そのときナーザ殿がいなければ……わしは本当にミーラを斬っていただろうな」
「ナーザ様が?」
「ああ。そうだ」
「そう言えば、まだお聞きしていませんでしたが、ナーザ様とはどのようなお方なんですか?」
「そうだな。その当時はル・ウーダ殿と同様な、冬越しの客人であった。もともと彼女は楽師としてこの城にやってきたのだ」
「楽師ですか?」
そういえば何度か彼女がリュートを弾くのを聞いたことがあるが、本職だったのか。道理で上手だと思った……
「わしはあまり音楽のことは分からぬ。それだけであったら次の春に、彼女はまた旅立って行ってしまっただろう。ところがいろいろ話を聞いてみると、ひどく広い教養の持ち主だということが分かったのだな。しかも女性らしからぬ、軍事関係の知識も素晴らしかった」
「確か父上が軍人だったと聞きましたが」
「ああ。父上はラムルス王国の士官だったという」
「ラムルス王国ですか?」
ラムルス王国とは、あのシフラ攻防戦で滅んだ王国の名前ではないか?
「そう。ナーザ殿はあの戦いで両親を失われて、それ以来各地を放浪されたと聞く」
「ということは……」
「なんだ?」
「いえ、あの、ナーザ様って結構お年なのかと思って……」
シフラ攻防戦は三十年以上前の話だ。そこで両親を失ったということは、そのときにそこそこの年齢に達していたということで……
それを聞いて王は笑い出した。
「はははは! 確かにナーザ殿はお若く見えるからな! 気になっておったか?」
「いえ、その……」
「ティアもナーザ殿には、若く見える秘訣をしつこく聞いておったよ」
二人は笑った。
「で、何の話であったかな? ああ、そうそう。ナーザ殿がそのとき駆けつけて下さったということだったな」
「はい……」
王は再び目を閉じて、間をおいた。
「わしはそのままミーラを斬ろうとしたのだ。そのときナーザ殿が前に立ちふさがったのだ。わしの剣は血まみれだというのに、ナーザ殿は平然とされておった。それからナーザ殿は、いったいここで何が起こったのかと尋ねたのだ。まるで今日の夕食の献立は何か、というような調子でな。
見れば分かるであろうとわしは言った。ナーザ殿は、もちろん見れば分かる、だがその理由を知りたいと言った。
わしはそこの死体になっている女のせいで、ミーラが遊郭に出入りするようになったのだと言った。そのような娘を成敗するのがなぜいけないとな。
それに対する答えがあれだったのだ」
そう言って王はフィンの顔を見て笑った。
「王子が郭通いするのは許されるのに、どうして王女だといけないのだ? ナーザ殿はそう言ったのだよ」
フィンは呆然とそれを聞いていた。
「ははは! 最初に試されたのはわしだったのだ。わしは何か言い返そうとしたのだが、言葉が全く出てこなかった。ナーザ殿は、ともかく短慮だけでことを決めるのはやめろと言われた。そういうわけでその日はうやむやになった。
そしてわしはやっとまともにロンディーネの経緯を調べる気になったのだ。ちょっと調べるだけで、不審な点は山ほど出てきた。ロンディーネに罪は全くなく、最初に話したような経緯であったと分かるまでに、そう大して時間はかからなかった……
後悔してもしきれぬ話だ。こんな愚かな王がこの世に存在していいのか?」
王は再びフィンを見つめる。
フィンは答えなければならないのかと思って少し焦ったが、王はそのまま先を続けた。
「もちろんあの腐った女には厳罰を下した。だが今更それが何になる? 覆水盆に還らずだ。もはや全てが手遅れだったのだ……そのときにはミーラの所行は国中に知れ渡っていた。国民全ての口をふさぐわけにもいかない。だが、例えどのような理由であったとして、そんな所行が許されるべきことではない……
わしは絶望した。フォレス王家もわしの代で終わりだとほとんど観念したのだ。だがそんなわしらを救ってくれたのが……これまたナーザ殿だったのだ」
「い、いったいどうやってですか?」
「ナーザ殿はこう言った。確かに王としてのわしに残された道は、ミーラを勘当するしかないと。ならば彼女にミーラを預けてほしいとな。もちろん断る理由もなかった。
わしはナーザ殿がミーラを旅に連れていくのだと思った。もしかしたらそれがあの娘にとっては幸せなのかも知れないとな……だが、結果は全然違っておったのだ」
そう言って王は目を閉じた。
「そのときはまだあたしナーザのことをよく知らなかったわ。美人の楽師のお客さんとしかね。だからナーザがあたしをかばってくれた時、すごく驚いたし、後であたしを預かったからって言ってきたときはもっと驚いたわ……
でも本当はどうでもよかったの。そのときには本当にもうどうなってもいいって思ってたし、死ぬことだって怖くなかったわ……」
王女はアウラを見つめる。
「あたしはナーザに、あたしをどうするのって聞いたの。そうしたらナーザはなんて言ったと思う?」
「ええ?」
「そうしたらね、ナーザは、また郭に行きたいかって尋ねてきたのよ」
「??」
「そのときでもまだあたし、これが悪いことだなんて思ってなかったの。それにナーザがお父様の前で言ったことを覚えていたから、その通りに言い返したのよ。ナーザが言ったことなのよ。なのにナーザは、そんなことがいいはずがないって言うの」
「いいはずがない?」
「そうなの。王女が郭通いするなんて、そんないかれた話は聞いたこともないって」
「ええ? それじゃナーザさんは嘘ついたの?」
「ええ。あたしもそう思って怒ったわ。でもそのために結局ディーネは死んだんだって言われて……あたしは何も言い返せなかった。
それからナーザは言ったわ。あたしがどうして王女なのかって。
そんなこと考えたこともなかったわ。生まれたときからずっとそうだったし。みんながそう言ってたし……
ねえ。あなた達王女様になりたいって思ったことある?」
「ええ?」
王女は遊女達に語りかけた。いきなりの問いに彼女たちはどう答えていいか分からないようだった。
「アウラは?」
「それはまあ……あるけど」
それを聞いて王女は微笑んだ。
「王女様ってやっぱりいいわよ。働かなくっていいし、いつもきれいな格好はできるし、おいしい物も食べられるし、何か欲しい物があったらちょっと言うだけで何でも持ってきてくれるし……
でもあたし、これがすごいことだなんて考えたこともなかったわ。王の娘なら当然のことだって思ってたわ。
だからナーザが、もし王の娘に生まれたということだけでそんな幸せになれるのなら、それは不公平じゃないかって言ったとき、あたしは怒り出すしかなかったの。
みんなどう思う?」
「…………」
また遊女達は答えられない。
「だって実際にそうだったんだもの……本当はそうだって思ったから、だからあんなに怒ったのね……でも、ねえ、アルト。あなたいくつ?」
「え? 今年一五歳になります」
「じゃああのときのあたしより、一つ上ね。で、あなたあたし達が寝てしまっても、絶対起きてるでしょ?」
「それは……だってそうしないと……」
するとエルミーラ王女はいきなりアルトがかぶっていた毛布を引き剥がした。
「きゃっ!」
アルトの裸身が露わになる。それから王女は驚いている彼女を自分の横に座らせた。
「あたし……知りたくなかったのね。みんなとあたしのいったいどこが違うのかって……」
それから王女はアルトの手を取ると、自分の胸の上に置いて、その上に自分の手を重ねる。
「初めてそのことを聞いたときは、なんだか大変なんだなって思っただけなんだけど……後からあたしが何の気なしに出した金貨一枚を稼ぐために、みんなが何日そうしなければならないかって聞いたときも……それでもあたしはちょっと驚いただけで、やっぱりみんな大変なんだなって人事みたいに……
でもほらこうやって並んでみて、いったいどこが違うのかしら? この格好だったら五人の中でいったい誰が王女かなんて、絶対分からないわ。そうでしょ?
だから王様の娘として生まれただけで、人より幸せになれるんだったら、やっぱり不公平じゃない?」
遊女達は顔を見合わせた。確かにみんなそのことは内心は思っているのだ。思っていないはずがない。
だが彼女たちの立場として、本物の王女を前にしてそんなことは口が裂けても言えるわけがない。
もちろん王女にもそれは分かっていたので、彼女は答えを強制するようなことはせず彼女たちに微笑みかけた。
次いで王女はアウラの顔を見た。
「え? まあ……」
アウラも同じだった。
まだヴィニエーラにいた頃貴族の家からの呼び出しがかかって行った時、そこで見た美しい女性達にあこがれの気持ちを抱いた記憶があるが……
王女は同様にアウラにも微笑みかけて、続けた。
「でもナーザはね。別に不公平でもなんでもないって言ったのよ」
「ええ?」
アウラ達は混乱した。
「あたしもナーザが何を言いたいのかさっぱり分からなかったわ。それからナーザはたとえ話を始めたのよ」
王女は目を閉じる。
「ある農夫がいたの。庭には立派な桃の木があったの。農夫はその桃を売ることで生計をたてていたのよ。でもその年は不作で、実はたった一つしか生っていなかったの。それでもその実はとても立派だったので、その農夫は傷が付かないように、一生懸命育てたのよ。初夏になって桃は赤く熟したわ。それから農夫はその実を摘んで、市場に売りに行ったのよ。
すぐにお客がやってきたわ。農夫はお客にその自慢の桃を見せようとした所、いきなりその桃は転がり落ちてしまって、泥にまみれたあげくに傷だらけになってしまったの。そんな桃は売り物にならないわよね?」
「え? ええ……」
アウラは曖昧にうなずくが……
「ナーザはね、その傷だらけで泥まみれの桃があたしだって言ったのよ」
アウラは驚いて言った。
「ミーラは売り物なんかじゃないわ!」
だが王女は静かに答えた。
「いいえ。そうなのよ」
「どうして?」
アウラには相変わらず良く分からなかった。
「だってね。王女には絶対にしなければならないことがひとつあるのよ。王女って王子様と結婚しなければいけないの」
「ええ? 王子様だったらいいんじゃないの?」
「好きな王子様ならね。でもあのバルグールみたいな王子様だったら?」
「……嫌!」
「でもお父様がそう決めたら、王女は従わなければならないのよ」
「どうして?」
王女は笑った。
「そうじゃないわ。逆なのよ。王様が決めた王子様と結婚しなければならない娘のことを、王女って言うのよ」
アウラは混乱した。もちろん遊女達も同様だ。
「何だかよく分からないわ」
「王子様と結婚するってことは、その国とこれから仲良くしますっていうことの証なの。あたしはそのための贈り物みたいなものよ。あなた贈り物をするとき、それが特に大切な人だったらどうする? 自分が一番大切にしていた物を贈るでしょ? もちろん傷ついたり泥をかぶったりしたものなんてあげないでしょ?」
「それはそうだけど……」
「落っこちた桃はこう思っていたわ。自分はそんなこと気にしないって。少々傷ついたからって、味までが変わるわけじゃないって。でも農夫とお客にとっては、桃がどう思ってるかなんて関係のないことで、傷ついてしまったことが問題なのよ」
「でも、ミーラが望んだからここに生まれたんじゃないんでしょ?」
「あたしもそう言ったわ。ナーザは答えたわ。だからあたしがあんなにちやほやされたからって、ぜんぜん不公平じゃないんだって」
こういう込み入った話はアウラには荷が重かった。
あまりにもアウラが悩んでいるので、王女はいきなりアウラの背中をなでる。
「うわ!」
アウラは飛び上がった。王女がいたずらっぽくそれを見つめる。
「ごめんね。悩ませるつもりじゃなかったの。あたしだってナーザの言うことを理解するまでには、ずいぶんかかったわ。
でもね、そのときもうあたしが王女じゃないってことだけはわかったのよ。もちろんあたしはアイザック王の娘だけど。でももう王女じゃないの」
アウラはまだよく分からなかったがともかくうなずいた。
「それが分かったとき……あたしは泣くしかなかった。今となっては、本当にあたしとこの娘達は何の違いもなかったのよ。それどころかこの娘達たちはしっかりと働いて、お金を稼いでいるのに、あたしには何もできなかった……」
「そんな、王女様、そんなことありませんわ」
「そうです。エルミーラ様……」
遊女達は口々に王女を励ましだした。
だが王女は悲しそうな笑みを浮かべた。
「ありがとう……みんな。でも、少なくともそのときのあたしが何もできなかったのは事実なの。そこでナーザが言ってくれたの。もし一緒に来る気があるのなら、ついて来いって。歌や踊りを教えてくれるから、そうすれば十分に生きていけるようになるって。
あたしにはもう選択の余地なんてなかったわ。そうしなければ後はディーネの所に行くことだけ。でも本当はやっぱり怖かったの……
だからあたしは一緒に行くって答えたの。そうしたらナーザが、その前に一つだけ聞きたいことがあるって言ったわ。
あなたは、たった一つの桃を失った農夫のことはどう思う? って。その農夫はそのせいで次の冬は越せないかも知れないんだけどって」
「…………」
「あたしはすぐには答えられなかったわ。ナーザは、もしあたしが一緒に来たら、もうお父様ともお母様とも会えないことを覚悟なさいって言ったの。ナーザは、もしお父様やお母様があたしを本当に愛していたとしても、本当に付いてくるのかって聞いたわ。
あたしはもちろんお父様もお母様も好きだったわ。でも本当にお父様やお母様があたしのことを好きなのかどうかって……どうして分かるの?
でも本当にそうだとしたら……あたしはお父様とお母様を置いて出ていくなんて、できなかったわ」
「でもそれじゃどうするの?」
アウラの問いに王女は答えた。
「そのときナーザが言ったのよ。あたしに勇気があるかって。本当に勇気があるのなら、もう一つだけ別な道があるって……」
「それから一週間……まるで地獄のようであった。そのときになって初めて、わしはどれほどミーラを愛していたか気づいたのだ」
フィンは黙ってうなずいた。
「ミーラがいなくなったならば、どこかの王家より養子をもらうしかなかろう? わしにはそういう選択しか残されてはおらぬ。だが、いずれにしても王家はわしの代で終わりなのだ。
だがそう考えても別段胸が痛むこともなかった。始まりがあれば終わりもある。わしはそんなことはもうどうでもよくなっておった。
ただ一つ、わしが思っておったのは、ミーラのいない残りの人生とはいったいどういう物になるのであろうということだけだった。
わしは王としては失格なのであろう。王であればまずは国のことを考えなければならないのだ。それなのにわしはもう全てに絶望しておった……そしてあの日がやってきたのだ」
王は再び燃える炎を見つめた。
「わしはミーラがナーザ殿と一緒に旅立つものとばかり思っておった。その日がミーラの顔の見納めになるはずであった。
わしはあ奴の顔をまともに見ることができなかった。だからあ奴が喋り始めるまで、あ奴に起こった変化に全く気づかなかったのだ……」
フィンは王の表情の変化に気づいた。
それまでの苦渋に満ちた表情とはうって変わって、誇りに満ちているように見える。
「あ奴はこう言ったのだ……お父様。お別れに参りました、とな。
だがその声はミーラの声だったのだが、まるで聞き覚えがないような気がした。わしはミーラを初めて見た。そこにいたのは間違いなくミーラだった。だがその娘は、わしが見たこともないような娘だった。
そしてその後にあ奴が言ったことは、一言一句覚えておる。それはこうだった……」
「そのときあたしね。あれほど晴れ晴れした気分になったことはなかったわ。もしお父様がうんと言わなかったら、もう二度と会えないっていうのに……」
「で、なんて言ったの?」
「こう言ったの。
お父様。お別れに参りました……私をここまで育てて頂きまして、心から感謝しております。
私は恩を仇で返すことしかできないような、愚かな娘でした。私の犯してしまったことは、どのようにも言い訳ができないことは存じております。ですからお父様が私に罰を与えなければならないこともよく分かっております。
そのことに関しては私は何も弁明いたしません。いえ、本当ならばあの場で斬られていてもおかしくなかったのです。それを、こうして再びお会いできる機会を頂いたことだけでも、望外の喜びでございます。
私、フィリア・エルミーラ・ノル・フォレスは今日限り二度とお父様の前に現れることはないでしょう。それと共に私は、これ以上お父様にご迷惑をかけないことをここにお誓い申し上げます……って。
そのときのお父様の顔は、まるで氷みたいだったわ。あたしは少し怖くなったけど、でももう決めてたから……それからこう言ったのよ。
ですが、一つだけお聞きしてよろしいでしょうか? って。
お父様は黙ってうなずいたの。あたしは言ったの。
私は今まで本当に何不自由なく過ごして参りました。世界中の誰よりも幸せでした。それなのに私は満足しておりませんでした。私には我慢ができませんでした。それを与えて下さったのは、お父様とお母様なのに。それなのに私の行ったことは、最もひどい裏切り行為でした。
今ではお父様のお怒りはもっともだと思います。お父様が私にもっともっとひどい罰をお与えになったとしても、私はそれを甘んじて受け入れるしかないでしょう。それなのに、お父様はこのような軽い罰で許して下さいました。それはお父様のお心の広さ故のことだと信じております……」
王女はそこで少し言葉を途切らせると、きっぱりと言った。
「でも、私は嫌でございます!」
聞いていた遊女達とアウラは、その場に居合わせたかのように固唾を呑んだ。
今の王女の表情は―――その日王の前で見せた表情と同じ物に違いない!
「もちろんお父様はびっくりしてあたしの顔を見たわ。そんな顔のお父様、初めてだったわ。それからあたしはこう言ったのよ。前の晩からずっと練習してたんだけど、やっぱり声が震えたわ……
私は自分からは何も生み出すことなく、ただ与えられ、育って参りました。挙げ句にお父様にはあのような大恥をかかせてしまいました。私はお父様には害悪しか与えてはおりません。それなのにお父様は、私の罰はこの程度で良いとお考えなのですか? って。
それを聞いてお父様はもっと重い罰が欲しいというのか? って言ったの。あたしはこう言ったの。それでお父様の気が晴れるのであれば、それでも構いません。でも私は“償い”をしたいのです、って。
お父様は一体何をどうやって償うつもりなのだ? って言ったわ。それで私は答えたの。
私は今フォレスが大変なことを存じております。私がいなくなってしまったら、いったいこの国の跡継ぎは誰になるのでしょう? 元々フォレスの跡継ぎは、私の婿となる方でした。でも今となっては、このような私の所に婿に来てくれるような酔狂な王子様など、この世のどこにもいないでしょう。またどこかの王家より、ご養子を迎えることもできるかと思います。でもそうすると、フォレス王家の血統はここで途絶えてしまいます。
私は私のせいでこんなことになってしまったことを知っております。ですから、私はその償いをしたいのです、って。
そう言ったらお父様はすごい顔であたしを見て、どうやってそれを償うというのだ? って言ったの。そこであたしはこう言ったのよ。
私がフォレスの王家を継ぎますって……」
その一言は、フィンにとっても衝撃だった。
「王女様は……そんなことを言われたのですか?」
それを聞いて王は笑った。
「そうだ。そのときはわしも頭が真っ白になったよ。わしは怒って怒鳴りだそうとした。だがその瞬間、どこかからちょっと待てという声が聞こえたのだ。もう少しこの娘の言うことに耳を傾けても悪くはないだろうと。だからわしはそのままミーラの言うままに任せておった。
ミーラはこう言った。
私は王女としての勤めを果たせなくなってしまいました。私があのようなことをしでかしていなければ、何も問題はございませんでした。私がどこかの国の王子様と結婚しさえすれば良いのです。でももうそれは望めなくなってしまいました。私が純潔でさえあれば、そのようなお方が私を見初めて下さったことでしょう。でも私は自らその花を散らしてしまったのです。
これが何を意味するか、もはや私は知っております。私はフォレスの未来を壊してしまったのです。父上亡き後フォレスはいったい誰が治めることになるでしょうか? それはもちろん私と結婚するはずであったお方です。
でももはやそのようなお方を望むことはできなくなってしまいました。全て私のせいで……
だから、そのような私が償いたいと思ったときに、残された方法は一つしかないのです。他の方に頼ることができないとすれば、あとは私が自分の手でこの国を守っていくしかありません。私の犯した罪を本当に償うためには、こうする以外に方法はないのです、とな」
「…………」
「そのときのわしはまだ呆けておった。あまりにもあまりな考えではないか? ル・ウーダ殿はどう思われるかな?」
フィンは返す言葉がなかった。
「え? あの……何と言っていいか……」
「ははは。そうであろうな。わしもそうであったよ。この娘はとんでもないことをしゃあしゃあと抜かしておるのだ。わしは怒鳴りつけるだけで良かった。だがそうはできなかったのだ。そこでわしは尋ねたのだ。お前は国を継ぐということがどういうことか分かっておるのかと。そうするとミーラはこう答えおったのだ……今はまだよく分かりません。でも、十年、いや五年時間を下さい。それまでに必ず覚えます、とな」
「それが一番頭が痛かったのよ。だって前の日まではそんなこと考えたこともなかったんだから。ナーザは言ったのよ。はっきり言って、ナーザと一緒に旅に出た方が千倍楽だって。でももうあたしは決めてたの。どんなことになろうと、やり抜いてみせるって」
「……で、王様は許してくれたのね?」
「ええ……最初お父様は気が触れられたのかと思ったわ。いきなりものすごい声で笑い出して、それから叫んだの。お前は私を愚弄しているのかって。あたしはもう泣きそうだったけど、違うって答えたわ。そうしたらお父様はこう言ったのよ。
お前は本当にあのエルミーラなのか、って……
あたし何と答えていいか分からなかったの。しかたなくはいとだけ言ったわ。そうしたら、お父様が降りてきて、私を抱きしめてくれたの……お父様は泣いてたわ。小さい声で私の名前をつぶやきながら……お父様に抱きしめられのなんて、何年ぶりだったかしら……
それからお父様はあたしの顔を見て言ったの。
そこまで言うのならばやって見ろ、ってね」
アウラも遊女達も、ただ目を丸くして王女が話す物語を聞いていた。
「それを聞いても、あたしすぐにはお許しが出たって気がしなくて、お父様が言われたことの意味が分かったとき、もう本当に嬉しくって、思いっきりお父様に抱きついちゃったわ。そうしたらお父様があたしの髪を撫でてくれて……おかげですっかり気がゆるんじゃったのね。最後に大ドジを踏んじゃったのよ」
「大ドジ?」
「ええ。そこでね、あたしつい言っちゃったのよ。許していただけるんでしたら、もう一つお願いがありますって」
「どんなこと?」
「四六時中お勉強ばっかりしていたら身が持たないので、たまには息抜きしていいかって……」
「息抜きって……もしかして……」
「そう。だって本当に素敵じゃない……これって」
「でも王様、怒ったんじゃない?」
「もちろん。かんかんになってね。ふざけるな。お前が嘘八百を並べ立てていないとどうして分かる! その証を立てるまでは、城からは一歩も出さん! ってね」
「…………」
「これがその経緯だ」
そう言って王は話を終えた。
フィンはしばらく無言だった。いったい何と言ったらいいのだろう? あの王女がそこまでの決意をしていたなんて、見かけからは想像もつかなかった。
「で……結局アイザック様は二番目のお願いも?」
それを聞いて王は笑った。
「全く恥知らずな娘だ。だがな、ミーラはそれから本当に努力したのだ。こちらが見ていて痛々しいほどにな。だからわしも許さざるを得なかったのだよ。どちらにした所で、これ以上ミーラの評判が変わるわけではない。それに考えてみれば、妙な男の所に走られるよりは遙かにましなのではないかな? 誰とも知れぬ男の種を宿されるよりはな」
「…………」
「だからわしは言ったのだ。行きたければ行くがよい。ただしこそこそはするな。堂々としてこいとな」
「……………………」
「どうした? ル・ウーダ殿。ここでこうして話ができるのも、ミーラがそうだったからではなかったかな?」
「ええ、まあ、そうですが……」
「わしは今では、ミーラがああなったのは良かったことなのだと思っておる。もちろんどう考えても軽挙としか言えぬであろう。だがもし彼女があのときああなっていなければ、わしは今のエルミーラを得ることはかなわなかっただろう」
「はい……では王様はエルミーラ様に本当に王位を?」
「うむ。あ奴がそれだけの実力を備えた暁にはな。今ではあ奴は、わしの誇りなのだよ」
王は語り終えた。
フィンはその言葉に嘘偽りがないことを感じ取っていた。
それにしても―――あの王女もすごいが、この王の器量も半端じゃない。
だがどうしてこんな事をフィンに話すのだろうか?
フィンは少し迷ったが、この際素直に訊いておくことにした。
「まことに素晴らしいお話を聞かせて頂いて感謝します。なんですが……それにしてもまたなぜこのようなお話を私に?」
王はそれを聞いて微笑んだ。
「うむ。それは、ル・ウーダ殿があのとき正直に話をしてくれたからだ」
「正直? あ、あのときの?」
フィンはあの日のことを思いだした。
今まですっかり忘れていたのに、やはりそういうわけにはいかないようだ―――それにあれはまだ完全なバージョンではなかったりするのだが……
「そうだな。あれにはさすがにこちらも少々戸惑っておる。だがいずれにしてもこうなってしまった以上、ル・ウーダ殿には簡単によそに行って頂かれては、ちょっとまずいのはお分かりであろう?」
「は、はい……」
まさしくその通りである。
「言い換えると、ル・ウーダ殿はもうしばらく我が国に滞在されるわけだ。となればこちらの事情も正直にお話ししたかった、まずはそういうわけだ」
「それは、まことにお心遣い感謝いたします」
フィンは少し安堵した。
しかし今王は「まずは」と言ったか? ということは?
「だが、長期の間ただ滞在するとなると、ル・ウーダ殿も少し退屈されないかと心配なのだ。そのあたりいかがであろうか?」
「え? まあ……」
王は何を言いたいのだ?
確かに何もせずにぼっとしているのはフィンの好みではないが……
「というわけで、ル・ウーダ殿、もしよろしければこちらに仕官してみる気はないかな?」
フィンは呆気にとられた。仕官? ここで働けということか?
彼は返答に窮した。
「もちろん今すぐ結論を出す必要はない。嫌なら断って頂いて構わない」
フィンは別に嫌なのではなかった―――というより、やるべき仕事が見つかるのであれば、そちらの方が遙かに良かった。やることがあれば嫌なことも忘れられるだろう。今のように彷徨っていると、嫌な過去を忘れるどころか逆に機会があるごとに思いだしてしまうのだ。
問題は別の所にあった。
「ですが、私は都出身です。ここフォレスですと何かと問題が……」
ちょっと前のフィンだったらこんな事は考えもしなかっただろうが、今の彼には自明なことだった。
だが王は平然と答えた。
「うむ。確かに昔の考え方では、フォレスに都の貴族を迎えるなど問題外であろう。しかし時代は変わっているのだよ。ル・ウーダ殿、ちょっと尋ねるが、今フォレスやベラにとって最も警戒すべき敵はどこかな?」
「え? それは、やはりエクシーレでしょうか」
エクシーレとはフォレスとベラに接する国で、こことの間は長年紛争が絶えない。実際三年ほど前にも小競り合いが起こっているのだ。
「それはそうだな。だが彼らとはある意味長いつきあいだ。お互い手の内もよく分かっている。もちろん警戒を怠るわけにはいかぬが、最も恐ろしい訳ではない」
それを聞いてフィンは王の言わんとするところに気がついた。
「ということは……レイモンですか?」
魔道軍を蹴散らして草原の覇者となったレイモンは、ある意味最も得体の知れない敵であることは間違いない。
フィンの答えを聞いて王はにっこりと笑った。
「そうだ。そこがお分かりなら私の言っていることも分かって頂けるだろう? ル・ウーダ殿がいて下されば、今後都と何らかの交渉をする際に何かと都合がよいと、そういうわけなのだ」
フィンは考え込んだ。
言われてみれば当然だ―――時代は大きく変わろうとしている。確かに前までは都とベラは敵対関係にあった。
だが今そんなことをして何になる? 本当の敵のレイモン王国が喜ぶだけではないのか?
「確かにベラと都は長い確執の歴史があるから、そう簡単には事は運ばぬと見ておる。だが我が国が間に入って仲介すればあるいは、と考えておるのだ」
「都とベラの連合……ですか?」
「そうだ。ル・ウーダ殿は最近シフラ攻防戦の研究をなさっておるのであろう? もしあのときベラと都の関係がもう少し良好だったとしたら、結果はどうなったと思われる?」
「え?」
フィンはこの問題に関しては、ほぼ結論に至っていた。
「確かに、少なくともあのような無様な負けはなかったかと思います……」
あれは魔法でも何でもなかった。ガルンバ将軍のうまい謀略の上にさらに戦略的・戦術的なミスが重なった、必然的結果に過ぎなかったのだ。
「だな。中原の方は今は小康状態とはいえ、今後どうなるかは誰も分からぬ。そういう意味でこの時期にル・ウーダ殿が現れたのは、もしかしたら大変な幸運なのではないかと考えておるのだが」
平たくいうと王はフィンに都とベラの橋渡し役を期待しているのだが―――そんな大役を、そう簡単に引き受けられるはずがない!
「あの、ちょっとこれは考えさせてください」
「構わんよ。ここの冬は長いからな」
フィンは考えた。
まさに大変な話だ。こんな役割を果たすことなど、今まで考えてみたこともなかった。
だがフィンは嫌ではなかった。
悪くない―――というより願ってもないという感じがしていた。
これだったら人が一生を賭けるのにふさわしい任務ではないだろうか?
フィンは都に戻りたいとは思わなかったが、今のように意味もなくさすらっているだけで良いとも思わなかった。
もしここで生き甲斐を見つけられるのであればここに骨を埋めても……
フィンはそんな気分になっていた。
王女は話し終えると、ふうっと大きなため息をついた。
「ミーラって、えらいのね」
アウラは既に心底感服していた。
「ええ? そんなことないわ。自分で墓穴を掘っただけよ」
「そんなことないわ」
「ありがとう」
二人はしばらく黙って見つめ合った。
王女はそれからそっとアウラの腿を撫でる。
アウラはどうしようか迷った。だがその前に王女が言った。
「だからね、アウラ。あたし自分一人だけがいい目を見るのは何だか嫌なの。あの頃を思い出しちゃうのよ。何も考えずにぽけっと暮らしてた頃の馬鹿な自分をね……」
「……ごめん」
「どうしてあなたが謝るのよ。あたしが一人で意地張ってるだけなんだから……でもあなただって絶対そのうち分かるようになるわ」
そう言って王女は意味ありげに笑った。
「そうかしら……」
「そうよ。だってあなた女でしょ?」
確かにそうだ。そうだとは思うが……
「まあ、今日はちょっと失敗だったけど……で、ねえ、ちょっと。あんた達まだだめなの?」
王女がいきなり問いかけると、遊女達は飛び上がった。
もちろん遙か昔に回復していたのは間違いない。
「え? あの、王女様のお話が面白くって」
「そうなんです。こんなに面白いお話、生まれて初めて聞きました」
「また! おだてたってだめよ!」
「違います。そんな!」
「とにかくその分も合わせて、じっくりとサービスしてもらうから。いいわね?」
そういって王女は、側にいたレッタの乳首を軽くつねった。
「やーん」
そして王女は遊女達とじゃれ合い始めた。
《ほんとに……変な王女様……》
そんな王女の姿を見て、アウラは複雑な気持ちだった。
彼女にはともかく難しいことはよく分からない。だから王女の話も彼女にどこまで理解できたかは、はなはだ怪しい。
ただ一つ言えることは―――これで王女がますます好きになった、それだけは間違いなかった。