アウラ、覚醒する 第5章 アウラ、深き淵より…

第5章 アウラ、深き淵より…


 春が過ぎて夏が近づいても、フィンの状況は好転しなかった。

「あ~!」

 フィンは庭の噴水の側で、ため息をついた。

 何が問題なのかは明白だ。どうすればいいのかも分かっている。

 だが彼は未だ決着をつけることができなかった。

 ナーザと話をした日からずっとフィンはアウラに自分の気持ちを伝える機会を待っていた。

 だが二人が顔を合わせると途端にそんな雰囲気ではなくなってしまうのだ。

《くそ! 今日こそあいつを大人しくさせてやる!》

 何度そう誓ったことだろう? 朝起きた時はいつもそうなのだが、結局毎晩痛む体をさすりながら鬱々とベッドに向かっているのだ。

《こんな生活は今日で終わりにしてやる!》

 フィンは心の中で叫んだ。それからきょろきょろとあたりを見回す。

 そろそろアウラが王女の本を取りにやってくる頃だ。最近は王女は離宮で勉強しているため、アウラが本を取りに来るときはここを通るのだ。

 フィンはアウラが来る方向をじっと見つめながら、頭の中でシミュレーションしていた。

 アウラが来たらまずしっかりとあいつの目を見つめて、こう言ってやるのだ。

『アウラ。もうやめるんだ』

 そう言ったらアウラは『何をやめるのよ』とか言うはずだから、そうしたらこう答える。

『君は何を恐れているんだ?』

 するとアウラは何にも怖い物なんかないと言うだろう。そうしたら俺は―――何だかしっくりこないな。

 それともいきなり肩を抱いてキスするか? いや、下手をすると命に関わるし……

 というように彼は一生懸命アウラが来たときのことを想像していたのだが……

「いてーっ!」

 いきなり背中をぶん殴られた。

 振り返るとアウラが立っている。フィンは唇を噛んだ。いつもこの調子だ。こいつはまともな現れ方ができないのか?

「何ひとりでぶつぶつ言ってるのよ?」

「あ、あのなあ」

 アウラを見た途端に、今まで考えていたせりふは全てぶっ飛んでしまった。

 毎回がこの調子なのだ。いくら考えても何の役にもたたない!

「お庭の真ん中に陰気な奴がいると、目障りなのよ!」

「あんだと?」

「あ!」

 アウラはフィンの肩越しに何かを見つめた。フィンは驚いて振り返るが―――誰もいない。だがそのとき肩の当たりにかさかさ動く感触を覚えた。

「ん?」

 フィンがそれを払おうとすると、手の上を五センチはある大きな蜘蛛が這い上がり始めたのだ。

「ぎゃあああああ!」

 フィンは飛び上がって大声を上げて蜘蛛を払いのけた。フィンは普通の虫なら大丈夫なのだが、蜘蛛だけはだめなのだ。ってか、なんでこいつは大丈夫なのだ?

「あ! かわいそうじゃない」

 アウラはにたにた笑っている。

「お前はなあ……」

「何よ?」

 そう言ってアウラは今度はフィンの足の甲にまた薙刀の石突きを突き立てる。

「ぎゃああああ!」

「ぎゃあぎゃあうるさいわねえ!」

 そのときフィンの頭の中で何かが切れる音がした。


「……いったい俺が何をした?」


 そう。彼がいったいアウラに何をしたというのだ?

 足を怪我しているときは馬に乗せてやった。

 宿がないときはベッドを貸してやった。

 盗賊に襲われたときは助けてやった。

 アウラが彼についてきたから、今こうしてエルミーラ王女の側で幸せにしていられる……

 たまたま偶然だというのならそれでもいい―――だが少なくとも毎日こんな仕打ちを受けるほどのことは何もしていないだろう?

 アウラが少し驚いたような顔でフィンを見る。

「だって……」

「やかましい!」

「何よ! あんたこそ……」

 フィンはかっと頭に血が上った。

 そして気づいたらフィンは例の魔法をぶっ放していた。

 どすん! という低い音が響きわたって、近くにあった石像が一つ、鈍い音を立てて倒れた。

《し、しまった!》

 フィンは慌てた。今のは結構本気で撃ってしまった! アウラは? まともに食らっていたら気絶するぞ!

 だが、アウラの姿はない。いったいどこへ?

 その途端にげしっとアウラの薙刀の柄がなぜかまた当たってしまって、目から火花が出る。

「あ~! 倒しちゃった!」

 フィンは慌てて振り向くと、アウラが涼しい顔をして立っている。

 いつの間に後ろに回り込んだんだ?

《こいつ!》

「ほんと! 魔法って役に立たないわね!」

 ………………

 …………

 ……

 フィンは棍棒で殴られたような気がした。

 その言葉は常々フィンが思っていたことだった。

 だがアウラの口からその言葉が出たとき―――フィンは自分の全てが否定されたような気がした。

「失せろ!」

 気づいたときにはフィンはそう叫んでいた。

「え?」

「失せろって言ってるんだ!」

「な、何言ってるの?」


「お前なんか顔も見たくない! 二度と俺の前に現れるな!」


 そう言ってしまってから―――フィンはそれがとんでもないことだということに気がついた。

《しまった!》

 フィンは慌てて手で顔を隠す。

 アウラは逆上するだろうか?

 そんなことになったら本気でここで彼の人生は終わってしまう―――そう思いながら、こっそりとアウラの方を見るが―――だがアウラは無言で地面を見つめているだけだ。そして……

 彼女はくるりと背を向けると、そのまま黙って去っていったのだ。

 ………………

《お、おい……》

 よりにもよってなんてことを言ってしまったのだ?

 こんなことを言うつもりではなかったのだ。

 本当はアウラが好きだと言いたかったのだ。

 それなのに……

《アウラ! 待て!》

 フィンは叫ぼうとしたが、出てきたのは意味不明なかすれ声だけだった。



 ここ数日のアウラの様子がまるでおかしいことは、王女も気づいていた。

 それまでアウラは必要以上に職務に忠実だった。

 護衛が必要なときには必ず近くに控えていたし、あたりの細かい変化にも必ず気づいて反応していた。王女はアウラが過剰に反応しすぎないように注意する必要があったぐらいだ。

 ところが昨日も今日もアウラは注意力がひどく散漫だった。

 王女が他の場所に移動しようとしていることに気づかずに、グルナに促されたことさえあった。

 それまでアウラがそんなことに気づかないなどということは一度たりともなかったのに……

「で、アウラの様子は?」

 王女はコルネに尋ねた。最近アウラと一番一緒にいたのが彼女だったのだ。

「今日も同じでした。ずうっとぼうっとしてて、薙刀の練習もされないんです。いままでずっと欠かしたことがなかったのに」

 コルネの報告を聞きながら、王女とナーザは深刻な表情だった。

 王女はナーザと目配せした。

「やっぱりル・ウーダ様と何かあったのかしら?」

「その可能性が高いと思いますが……コルネ、あなた知ってる?」

「いいえ。でも確か……一昨日からアウラ様はル・ウーダ様をいじめてないです」

 王女は苦笑した。この何日か彼女は忙しくて十分アウラに注意を払っている暇がなかったが、王女はそのことを少し悔やんでいた。

 あの裁判の次の日からのアウラの変貌については、ナーザから大筋のことは聞いている。アウラがこの間から急に感じるようになったのもそれで説明がつく。

 だがナーザはそのためにアウラが不安定になるかもしれないとも言っていた。

 なるべく注意しておくようにと。それが杞憂であればよいのだが、と。

 本当にその心配が当たってしまうとは―――こういう場合王女もどうしていいのかさっぱり分からなかった。

「で、ナーザ、私どうすればいい?」

「ともかく何が起こったか確かめないと。まずは、ル・ウーダ様に確認しましょう。いきなりアウラに訊くのはまずいと思います」

「そうよねえ。彼女って、そういうの全部抱え持っちゃうような感じよね」

「そう思います」

「それじゃ、今晩まずル・ウーダ様とお話ししましょう。その話を聞いた上で、どうするか決めましょうか」

「それがいいですわね」

 そのとき横でそれを聞いていたコルネが口を挟んだ。

「それじゃ今日のお泊まりはキャンセルですか?」

 それを聞いて王女は今晩はアサンシオンに行く定例日だったことを思いだした。もちろんそんな陽気ではない。

「そうね。そうなるわね」

 それを聞いてコルネが困ったように言った。

「じゃ、あの、あたしやっぱり残ってないとまずいですよね?」

 王女の外泊の日は、コルネにとっても数少ない帰宅日だった。

 だが王女が城に残っている以上はコルネにはしなければならない仕事がある。これは王女の侍女であれば避けられないことだ。

「え? どうしたの?」

「いえ、いいんです」

 コルネはアウラ以上にそういう感情を隠すのが下手だ。彼女は既に半べそだ。

「ちょっと、気になるわよ。どうしたの?」

 そこでコルネが言った。

「あの、お母さんと約束しちゃったんです。ケーキ焼いてあげるって……お誕生日なんです。来週の火曜日なんですけど……」

 それを聞いて王女は笑い出した。

「なんだ、そうなの? いいわ。特別にお休みをあげるわ」

「え? 本当ですか?」

「お母様との約束を破らせるわけには行かないわ」

 コルネは満面の笑みを浮かべた。

「あ、ありがとうございます!」

「でも馬車はなしよ。歩いて帰ってね」

「は、はいっ!」

「あ、そうだ、それとあなたメイと帰る?」

「え? はい」

「だったら、この間の話の返事を聞いておいてもらえる? 今日馬車の中で返事を聞く約束だったでしょ?」

「え? 何の話でしたっけ?」

「奨学金の話よ」

「あ、思い出しました。分かりました。聞いておきます!」

 そう言ってコルネは飛び出そうとしたが、それを王女が引き留めた。

「あ、待ってよ。まだ終わってないわ」

「あ、すみません。なんでしょう?」

「それと、ちょっとル・ウーダ様に、今日の夕食の後、(ひいらぎ)の間でお話があるって伝えてきてくれる?」

 柊の間とは王女が個人的な会見に使うための専用応接間だ。

「ル・ウーダ様ですか?」

「そうよ。アウラには内緒にしておいて。何故だかは分かるわよね?」

 さすがのコルネもその理由は理解できた。彼女は黙ってうなずいた。

「じゃあ行ってちょうだい」

「はいっ!」

 コルネは喜び勇んで出ていった。

 その後ろ姿を見守りながら王女が言った。

「それにしても、アウラがあれだけ落ち込んでるなんて、どんなこと言ったのかしら?」

 ナーザが首をかしげながら答える。

「さあ……こればかりは」

「ル・ウーダ様、アウラのこと嫌いなんてことないわよね?」

「それだけはないと思いますが……ル・ウーダ様も何だか不器用みたいで、大した喧嘩じゃないって気もしますが……」

「だといいけど……」

 そうつぶやいて王女はため息をついた。



 コルネは小走りに城門までやってきた。城門の所には幼なじみのメイが待っていた。

 日が暮れて外はもう真っ暗だ。

「メイ! 待った?」

「ちょっとね」

「ごめんね。片づけるのが遅くなっちゃって」

「いいのよ。さ、帰りましょ」

 二人は門番に挨拶すると、家路についた。しばらく歩いた所でメイが言った。

「こうして帰るのって久しぶりね」

「そうね。ずっと王女様の馬車で帰ってたもんね」

「でもどうして今日は中止になっちゃったの?」

「それがね……」

 コルネはアウラが鬱になってしまった経緯を話した。

「ええ? アウラ様が?」

「そうなのよ」

「アウラ様って、ル・ウーダ様がお好きだったの?」

「そうみたい」

「それじゃ王女様とは?」

「え? どうなのかなあ。お部屋でそういうことはされてないけど……」

 そう言ってコルネは慌てて口を閉じてあたりを見回した。メイもそれを聞いて赤くなっている。

「何てこというのよ! やらしい!」

「メイが聞きたかったんでしょ!」

 それから二人とも顔を赤くして黙り込んだ。

 しばらくしてメイが言った。

「でも、今日相乗りの籤に当たってた娘、ものすごく残念がってたわよ」

「そうなんだ。残念」

「まあ次回に回せばいいんだけど」

 王女がアサンシオンまで行くときに女官を一緒に乗せていく習慣は“相乗り”と呼ばれて、城の若い女官達の間で密かな人気イベントになっていた。

 この習慣が発生したのにはちょっとした経緯があった。


 ―――エルミーラ王女が外泊を許されてすぐの頃は、当然ながら馬車に乗っていたのは王女と護衛のナーザの二人だけだった。

 ところがある日王女とナーザが出立しようとしているところに、コルネが通りかかったのだ。

 前述の通りに王女の外泊時にはコルネも休みになった。そのため彼女は実家に帰ろうとしていたのだ。

 そのときコルネはちょっとした大荷物を抱えていた。そこで彼女はほとんど何も考えずに、王女に馬車に乗せてくれないかと頼んだのだ。コルネの実家は市内なので、ちょっと遠回りするだけで良かったのだ。

 王女やナーザもうっかりそのときはそんな騒ぎになるとは気づかず、彼女を馬車に乗せてやったのだ。

 もちろん王女専用の馬車である。普通の乗り合い馬車とは出来が違う。コルネはそのときは大喜びでメイにも大威張りしたくらいだ。

 だがそれはかなりの軽挙だった。

 なぜなら王女の行き先が行き先である。コルネ自身は既に王女の人柄を知っていたから気にしていなかったのだが、ほとんどの者がまだ王女のことを恐れていた頃である。

 すなわち、その馬車に一緒に乗っていたということは、コルネまで疑われて当然だったのだ。

 もちろんその姿はしっかりと見られていた。そしてそれから何日もしないうちに、コルネが王女と一緒に郭に行ったという噂を立てられてしまったのだ。

 当然彼女は否定したが、この類の噂は否定すればするほど尾ひれがついて広まってしまうものだ。コルネはもともとそんなに図太い神経をしているわけではない。おかげで彼女はほとんどノイローゼになってしまった。

 その濡れ衣を晴らすために頑張ったのがメイだった。

 彼女は厨房で働いていたのだが、コルネとは小さい頃から大の仲良しだった。

 メイはコルネに立てられた噂が全くのでたらめであることを良く知っていた。そこで彼女はそのため王女に、コルネだけを送ってやるのはずるい、今度は自分も乗せていってくれ、と直訴したのだ。

 普通だったら無礼としかいいようのない行いだ。

 だがエルミーラ王女は彼女のためにあらぬ疑いをかけられたコルネに深く同情していた。そのためメイがそんなことを言いだした理由を聞くと、即座に了解してくれたのだ。

 そしてコルネとメイは二人でまた王女の馬車に乗って家まで送ってもらえたのだ。

 当然それを見た女官達は大騒ぎだ。

 だが次の日メイは平然とした顔で、王女様の素晴らしい馬車で家まで送ってもらえて、そのうえ直にお話までできてとっても幸せ! という話をあちこちで吹聴しまくったのだ。

 多くの女官達はまだ王女を怖がっていたのだが、中にはメイの言うことを信じる者もいた。

 何しろ普通の使用人に王女専用の馬車に乗る機会などあるわけがないのだ。もしかしたらこれは千載一遇のチャンスかもしれないと……

 そして次回にはそういう女官も一緒に馬車に乗せてもらえた。すると今度はその女官が同様に素晴らしい体験を吹聴して回る。

 こうして真実が知れ渡っていくにつれてコルネの疑いは晴れ、ついでに同様な噂を立てられていたリモンの疑いも消滅し、城の女官達の間にあったエルミーラ王女に対する恐怖感や反感も薄れていったのだ。

 と、同時にいつの間にかこの“相乗り”は、王女と直接にふれあったり立派な馬車に乗ったりできる希有な機会ということで、城の女官達の間の秘められた大人気イベントになっていったのだった。

 だが馬車は六人乗りである。王女とナーザ、コルネとメイが固定とすれば、空きは二人分しかない。その座はいつしか籤引きで決められるようになっていた。

 というわけで、王女外泊の日はその籤に当たった娘もこっそりと心待ちにしていたのである―――


 歩きながらコルネが尋ねた。

「それでメイ。この間のお話、どうすることにしたの?」

「あ、学校に行かないかってお話?」

「メイってあたしなんかよりずっと頭いいじゃない。王女様がいいって言ってるんだし、お金だって出してもらえるんだし」

「でもやっぱりあたし働いてないと……それにハビタルは遠いし……」

 メイはそういって下を向いた。コルネはメイの家庭の事情はよく知っていた。

「お母さん、具合どう?」

「最近はすごくいいの。でもやっぱり寒くなると……そうなるとあたしがついてないと……」

「そうなんだ」

 そのとき二人は人気の少ない町外れにさしかかっていた。

 本当だったら表通りを歩いた方がいいのだが、そちらだと遠回りになってしまう。それにガルサ・ブランカは治安が良い。二人は安心しきっていた。

 だから二人の前に数名の怪しそうな男が現れたとき、すぐ逃げるということに頭が回らなかったのだ。

「あんたがコルネだな?」

 男の一人が言った。

「え?」

 男達はどうみても優しそうには見えない。

 二人はやっと恐怖に駆られて逃げ出そうとした。だが男達の行動の方が速かった。

「騒ぐな!」

 男達はコルネとメイを捕まえると、喉元に短刀を突きつける。

 二人は恐怖のあまり凍り付いた。

 男はコルネの口に猿ぐつわを噛ませると、そのまま担ぎ上げた。次いで別の男がメイに言った。

「お前、アウラは知っているな?」

 メイは震えながらうなずいた。

「ならばアウラに伝えろ。西の森の石碑に来いと言え。誰にも言うな。一人で来ないと、あのガキを殺すとな。分かったか?」

 メイは辛うじてうなずいた。

「じゃあここで目をつぶって百まで数えろ。それから城に行ってアウラにいま言ったことを言うんだ。分かったな?」

 再びメイはうなずいた。

 男はメイの体を離した。メイはへなへなと地面に崩れ落ちる。だがこんな所で倒れてはいられない。

 メイはつっかえつっかえ百まで数えると、城に向かって駆けだした。



「それじゃアウラ。後でね」

「ええ」

 王女の言葉にアウラは力無く答えると、自室のドアを閉じた。

 何だかよく分からないが、王女の外泊は中止になったようだ。

 それはアウラにとって幸運だった。今はとてもそんな気分にはなれなかった。

 だが王女が後で折り入って話がしたいと言っている。多分最近の仕事ぶりについてに違いない。控えめに考えても、この数日間はまともに役目を果たせているとは思えない。

 王女はそんなアウラについに愛想を尽かしてしまったに違いない―――そう思った途端に目から涙がぼろぼろこぼれ落ちた。


『お前なんか顔も見たくない! 二度と俺の前に現れるな!』


 その叫びがアウラの頭の中で何日間もこだまし続けていた。

 そのせいで昨夜もその前の夜もほとんど眠っていない。

 アウラはふらふらとベッドに倒れ込んだ。

 眠ってしまいたい―――だが眠ろうとすると、あの声に夢を破られてしまうのだ。

 胸が苦しい。

 まるで焼かれた鉄の棒でかき回されているようだ。

《いったいどうしたらいいの?》

 あの暴漢に斬られて雪の中をはいずり回っていたときでさえ、今ほどには苦しくなかったかもしれない。

「フィン……」

 アウラはつぶやいた。

 それで苦しみは収まるどころか、ますます激しくなっていく。

 アウラは両手で顔を覆うと、今までフィンに与えた数々の仕打ちが思い出されて来る。

 どうしてあんなにひどいことをしてしまったのだろう?

 どうしてこんなことをして嫌われないなんて思っていたのだろう?

 ―――もし自分がそういうことをされていたら、即座に相手を叩きのめしているはずだ。それなのにフィンは何もしなかった……

 そのときになってアウラは初めて、フィンが自分を好きだったのかもしれないと気がついた。

 だとしたら……

 あのとき以来、あんなに優しかったのはフィンだけだった。

 王女もアイザック王も確かにアウラに優しい。

 だが彼らには何もひどいことをしていない。

 だがフィンは違う。最初に出会ったときからそうだった。

 アウラはフィンに今まで何をしてきたのだ?

 最初は馬を盗もうとして、グラテスではアウラにベッドを譲って死にかけた。盗賊に襲われたときも彼女を助けてくれた。ガルサ・ブランカに着いてからも、彼女はフィンに迷惑しかかけていない。

 それなのにフィンは彼女に優しかったのだ……

 アウラは声を上げて泣いた。

 結局彼女はひとりぼっちなのだ。

 王も王妃も王女も三人娘も大好きだ。だがフィンを好きだという感情はそれらとは全く別だ。

 たった今それが分かった。彼女の心の中からフィンがいなくなった瞬間、まるでぽっかりと空洞が空いてしまったような気がした。


 そのときアウラの部屋をノックする音が聞こえた。

 アウラはあまりに泣きしおれていたので、最初はそれを聞き逃してしまった。

 再びノックする音がする。

《誰なのかしら?》

 アウラはのろのろと起きあがると、シーツで顔を拭いてから扉を開いた。

 そこには若い女官が同じように泣きはらした顔で立っていたのだ。彼女はなぜかアウラ同様に目を真っ赤にして口ごもっている。

 もちろんアウラも彼女を良く知っていた。王女外泊の度に、馬車に一緒に乗っていた娘だ。

 彼女がコルネやリモンの悪い噂を晴らすために一肌脱いだ話も何度も聞いていた。

「どうしたの? メイ」

 途端に、メイはアウラに抱きついて泣き始めたのだ。

「アウラ様! アウラ様!」

「いったいどうしたの?」

 驚いて自身の涙は引っ込んでしまう。

「コルネが!」

「え?」

 コルネがどうしたのだ? アウラは嫌な予感がした。

「コルネがどうしたの?」

「連れて行かれちゃったんです!」

「ええ?」

 アウラが尋ねると、彼女は泣きながら起こったことを話し始めた。

「明日からお休みなので、二人で家に帰ろうとしてたんです。そうしたら……男の人が何人もやってきて……コルネを連れて行っちゃったんです……それからあたしに……コルネの命が惜しかったら、誰にも言わずにアウラ様に……西の森の石碑に来るように言えって……」

「な、何ですって?」

 胸にどす黒い怒りがわき上がってきた。

 即座にアウラは部屋の隅に立てかけてあった薙刀を掴む。

「アウラ様!」

「あなたはそこでじっとしてて!」

「でも……」

 だがもうアウラは聞いてはいなかった。



 柊の間に向かいながらフィンはつぶやいた。

「最低だ!」

 陰鬱な気分に浸っていたのはフィンも同様だった。その上今度は王女からの呼び出しだ。

 フィンは王女とそれほど親しいわけではなかった。夕食時などに時たま話をしたことはあったが、社交辞令以上のものではない。

 だからいきなりの名指しでの呼び出しにはかなり面食らっていた。しかしその理由があるとしたらあのことしかなかった。

 アウラが王女のお気に入りになっていることはフィンも良く知っている。だからアウラに仇なすことは王女に仇なすことも同じなのだ。

 もちろんフィンがそうしたかったわけではない。あの場の勢いでああなってしまったのだが……

《一体全体どうしてこうなっちゃったんだ?》

 言うに事欠いて、あんなことを言ってしまわなくてもいいじゃないか!

 彼の言いたかったことは全く反対なのだ。それなのに……

 フィンの目には、去っていくアウラの後ろ姿が焼き付いて離れなかった。

 彼女のあんな姿は初めて見た。

「くそ!」

 ともかく謝るしかない。もう誇りも何もいらない。謝るんだ!

 王女に直接頼めば、アウラともう一度合わせてはくれるだろう。

 本当ならば呼び出しを食う前に自分から王女に頼み込んでも良かったのだ。

 少なくともナーザとならば今では気安く話すことができる。フィンはそうしなければならなかったのだ……

 だがフィンは恐かった。

 アウラはそれで納得してくれるだろうか?

 もしそこでアウラに拒否されてしまったら―――いや、もうそんなことはどうでもいい。彼に残された道はそれしかないのだから……


 フィンは城の西棟に入った。

 ここは主に王族のプライベートエリアがあるところだ。当然ここまでは来たことはほとんどなかった。

「柊ってこの部屋か?」

 フィンは立派なドアの前で少し躊躇していた。彼は伝言を持ってきたコルネという女官から部屋の場所は聞いていたが、部屋の名前が書いてあるわけではない。部屋を間違えたりしたらちょっと恥ずかしいのだが……

 そのときだった。

 いきなり部屋の扉がばたんと開くと、誰かが飛び出してきたのだ。

 慌てて出てきたのはナーザだ。

「あ! 来てたのね?」

 その後ろからエルミーラ王女までが駆けだしてくる。

 一体何が起こったのだろう?

 二人の表情がひきつっている。途端にフィンはアウラが何かしでかしたのだと直感した。

 それは当たっていた。

「アウラですか?」

 ナーザはうなずいた。

「あいつ、どうしたんです!」

「行っちゃったのよ」

「ええ? 出ていったんですか?」

 まさかアウラは家出したのか? いやこの場合は城出? 何と言おうとともかく、フィンがあんなことを言ったせいで?

 だがナーザは首を振った。

「西の森に行ったみたいなのよ」

「は?」

 フィンは話が見えなかった。

「エルミーラ様がさっきアウラの様子を見に行ったの。そうしたらアウラの部屋には泣いているメイがいただけで」

「は?」

「どうもコルネがさらわれたらしいのよ。それで彼女、助けに行ったらしいの」

 フィンはメイという名には馴染みがなかったが、コルネについてはよく知っていた。

 アウラがフィンをいじめるときには、よく近くにおまけのようにくっついていたからだ。

 その彼女がさらわれた? さらわれたということは―――すなわち誘拐されたということか?

「な、なんだって?」

「西の森の石碑、場所は分かります?」

「は、はい。一度行ったことはありますが」

「それではそこに急いで!」

「はい。でも一人では……相手は何人いるんです?」

「分からないわ。もちろん私たちも兵士を連れて行きます。でもあなたが行くのが一番速いでしょ?」

 フィンは一瞬とまどったが、すぐに意味を理解した。西の森に行くには、普通ならば南か北の城門から出ていく必要がある。だがそうするとずいぶん遠回りになる。

 しかし西の塔から飛び降りられれば距離はずっと近い!

「分かりました!」

 フィンはそう言って駆けだした。

《アウラ!》

 フィンは人目もはばからずに城の中を駆け抜けた。渡り廊下を抜けて西の塔に着いたときは、息が切れていた。

「畜生!」

 本ばっかり読んでいないで、もう少し運動しておくんだった! 旅の間はこの程度動いてもどうということはなかったのに!

「ル・ウーダ様。どうなされました」

 警備兵がフィンを呼び止めた。

「すまない。ちょっと通してくれ!」

「王様のご許可はありますか?」

 こんな所で押し問答している暇はない。

「すまん!」

 そう言ってフィンは警備兵を吹っ飛ばした。

「あ! 待て!」

 フィンは警備兵の横を抜けて、塔の階段を駆け上がった。警備兵は起きあがって追いかけてくる。

 だが塔の窓は目の前だ。都合のいいことに窓は大きく開け放たれている。

 フィンは夜の闇の中に思い切りジャンプした。



 そのときアウラは数名の屈強な男達に取り囲まれていた。男達は手に皆武器を持っている。

 月明かりの中に、もう一人顔を隠した男が立っているのが見える。男はコルネの首に短剣を突きつけている。

「アウラ様!」

 コルネが息も絶え絶えに叫ぶ。

「よく一人で来たな」

 コルネを押さえていた男が言った。その声を聞いて、アウラは背筋がぞっとした。

「あんた! バルグールね!」

「いかにも。お前のせいで城を追い出されたバルグールだよ!」

 あの後バルグールは結局城をクビになっていた。

 ただ本来ならば追放されていたところが、自己都合の退職という形で処理されていた。だがそういった温情は彼には通用しなかったようだ。

 バルグールはもう本性を顕わして、丁寧な言葉遣いはしていない。

「コルネをお離し!」

「そういうことを言える立場ではないだろう?」

 バルグールは嫌らしい笑い声を上げた。

「お前がどれほど腕が立とうが、こいつの首が飛ぶ方が速いぜ!」

 バルグールの持った短剣が、コルネの首筋できらりと光った。

 再びアウラの胸は、真っ黒な怒りで満たされた。

 これと同じようなことがあった―――そのときも相手は似たようなことを言っていた……

 アウラの胸の傷が痛んだ。

「本気?」

 アウラの声は震えていた。

「それはお前が素直かどうかにかかってるさ」

「どうすればいいのよ」

「まずそれを捨てろ」

 バルグールはアウラの薙刀を示した。

「そうすればコルネを離してくれるの?」

「ああ」

「本当に?」

「あまり素直じゃないようだな?」

 バルグールはコルネの首に短剣を押し当てた。コルネがうめき声を上げる。

 アウラは知っていた。

 たとえ彼女が薙刀を捨てたところで、バルグールがコルネを放すわけがないことを。

 コルネさえいなければ、こんな奴ら何人来ようと相手ではない。

 しかしバルグールの言うとおり、この距離ではどうやったって無傷で彼女を助け出すわけにはいかない。

 アウラは迷った。

 薙刀を捨てたらどういうことになる?

 ………………

 アウラは男達が彼女をねめ回す視線に気づいていた。そしてどういうときに男がそういう目をするのかも。

 薙刀を捨てたりしたらどうなるか、アウラは簡単に想像することができた。彼女はここで飢えた男達の餌食になってしまうのだ―――再び胸の傷がぎりぎりと痛んだ。

《とんでもないわ!》

 そんなことになるぐらいなら、死んだ方がましだ!

 アウラは薙刀の柄を握りしめた。

 これだけが―――これだけが彼女に残された全てだった。

 この薙刀はブレスが買ってくれたものだ。

 これを使う技はブレスが教えてくれたものだ。

 彼女が生き延びられたのは、ひとえにこの薙刀とそれを使いこなす技があったせいだ。

 一度それを捨ててどれほど後悔したことか……

 だがそうするとコルネは?

 アウラは恐ろしい目つきでバルグールをにらみつけた。だがバルグールの口元には薄ら笑いが浮かんでいる。

「さあ、どうする?」

 アウラは歯を食いしばった―――やはりコルネを助けるためには、そうするしかないのか?

 彼女一人であれば何とか耐えられるかもしれない。あんな目に逢ってもまだこうして生きているではないか……

 だがコルネは?

 この男達はアウラを辱めるだけで満足するだろうか? そんなはずがあるわけない!

 そんなことになったらコルネはどうなる?

 彼女にアウラのような力はない。そんなことになって彼女は生きて行けるだろうか?

 それ以上にこの男達が欲望を満たしたとして、その後二人をおとなしく解放するだろうか?

 殺されるにしても、どこかに連れ去られるにしても―――いずれにしても終わりだ。

 だとしたら?

 ………………

 アウラはコルネを見つめた。

 彼女はぐったりしている。目はもう焦点が合っていない。

 一気に間合いを詰めてバルグールを倒すか? 奴がちょっとだけ戸惑ってくれれば、成功する可能性はある。コルネが不意に暴れたりしなければ……

 見込みは薄いが―――それしかないか?

 だが失敗したら?

 そうなったらバルグールの短剣が深々とコルネの首に突き立てられるだろう。

 アウラの瞼にはありありとその情景が浮かんだ。

 もしそんなことになったら……

 もしそんなことになったら……

 もしそんなことになったら……

 ………………

 …………

 ……

 だからどうだというのだ⁉

 アウラはまた救えなかった、それだけではないのか?

 ならばいいではないか……

 結局彼女は疫病神なのだ。

 ブレスは死んだ。

 レジェを救うことはできなかった。

 そして今また一人……

 ………………

 こんな女がこれ以上生きていても仕方がない。いや、生きていてはならないのだ。

 たった一人、そんな彼女を見ていてくれた人にも愛想を尽かされてしまった……

 一瞬ブレスの強い腕の感触が思い出された。

《ブレス!》

 あのとき一緒に行けば良かったのだ。どうしてそうしなかったのだろう?

 そうか―――ブレスが逃げろと言ったからだった……

 だがもう逃げるのはやめよう。

《ブレス! ごめんなさい!》

 そしてアウラはわき上がる黒い感情に身を委ねた。そして……


「嫌よ‼」


「なんだと?」

 バルグールは驚きの声をあげた。

 それは彼の想定にはなかった答えだったからだ。

 彼は思っていた。人質さえ取ってしまえばこっちのものだ。こういう状況で武器を捨てられない者などいるはずがないのだ。そんな奴は人間じゃない!

 だがアウラが薙刀を捨てる気配はない。

「こ、こいつがどうなってもいいのか?」

 バルグールの声はうわずっている。

「捨てたってコルネを離す気はないでしょ?」

 バルグールは動揺した。

 彼はこんな出方をされるとは予想していなかった。

「貴様、本気か? こいつが死ぬんだぞ?」

 バルグールは興奮して手に力を込めた。短刀の先がコルネの喉にぴくぴく当たる。それを感じてコルネはちょっとうめくと、ついに気を失った。

 それを見たアウラが氷のような声で言った。

「いいわよ? 殺して……」

 バルグールは絶句した。


「そして……みんな殺すわ」


 そう言ったアウラの目を見て―――バルグールは恐怖に駆られた。

 彼のような小物であっても、その目の意味するところは理解できた。

 脅しではない。彼女は本気なのだ。心の底から彼を殺そうとしているのだ!

 アウラはそのままバルグールににじり寄って行った。

 取り囲んでいた男達も、彼女に圧倒されて身動きすらできない。

「く、来るな!」

 バルグールはかすれ声を上げた。

 形勢は全く逆転していた。

 バルグールはそのとき気づいたのだ。彼が迂闊にも喧嘩を売ってしまった相手は、彼ごときがどうこうできる相手ではないということを。

 バルグールはアウラのことを所詮は普通の女だと考えていた。アウラが彼の知っているような女だったとすれば、人質をとって脅せばいかようにも言うことを聞かせられるはずだった。

 だがバルグールは考え違いをしていた。

 今彼の目の前に立っているのは、そんな小物の想像を遙かに超えた存在だったのだ。

 そしてバルグールは悟っていた。

 今ここでコルネを殺そうと解放しようと―――自分は死ぬのだと‼

 もう選択の余地はない。もはや後戻りできない道へと踏み込んでしまったことを……

「た、た、たすけて……」

 バルグールは後ずさろうとして、そのまま腰を抜かしてへなへなと座り込んだ。

 周囲の男達も誰一人アウラに向かっていく度胸がある者などいなかった。

 アウラが薙刀を振り上げる。磨き抜かれた刃先に満月の光が反射する。

「ひえええ!」

 バルグールは情けない声を上げた。アウラはバルグールに向かって突進した。

 そのときだ。


「アウラ! やめんか! ボケ!」


 アウラはぴくっとして凍り付いた。

 この声は―――そんなはずはない! フィンが来たりするはずが……

 だがそのとき上から降ってきたのは、紛れもなくフィンだったのだ。

 フィンはアウラのすぐ側に着地した。

 ぜいぜい息を荒げている。

《な、何で?》

 フィンは肩で息をしながらアウラの方に降り返った。

「お前なあ、言っただろうが!」

「な、何よ!」

「何かあったからって、いちいち刃物を振り回すな!」

「だ、だって!」

 アウラは言い返そうとしたが、それ以上言葉が出てこない。

「とにかく」

 フィンが荒い息でにじり寄ってくる。アウラは思わず後退する。

 だがフィンは彼女を逃がさなかった。

 そしていきなり彼女の襟首を掴むと―――アウラの唇に唇を重ねたのだ。

「ん! ん!」

 アウラは力が抜けて、へなへなと座り込んでしまう。

 続いてフィンはバルグールの方に向き直った。

 バルグールはこそこそとコルネを置いて逃げ出そうとしているが、まだ腰が抜けているようだ。

「おい!」

「な、なんだ?」

「よくもやってくれたな?」

 フィンの手の上に炎の玉が現れた。たき火を起こすときのような小さな玉ではない。

「ひいいい!」

 玉はふっと動き出すと、一直線にバルグールに向かった。

「うわあああ!」

 バルグールは炎に包まれてのたうち回った。

「それからお前らもだ!」

 フィンはアウラを囲んでいた男達に向き直った。

 男達は慌てて逃げ出した。

 だがその背中を襲うようにどすんという音が響くと、男達は全員吹っ飛ばされてあたりの木や地面に叩きつけられた。

 アウラは呆然として起こった出来事を見つめていた。

 それからフィンが再びアウラを見つめた。

 アウラはかっと体が熱くなった。

 先ほどのどす黒い感情はどこかに吹っ飛んでしまっている。

「アウラ……」

「……な、なによ」

 フィンはそのままアウラを抱きしめた。

「ごめん。あんなこと言って……」

 途端にアウラの目から涙がとめどなく溢れてきた。

 じーんと体の中に甘いものがわき上がってくる。

「……ごめんなさい。フィン……」

 アウラはやっとそれだけ言うと、思い切りフィンに抱きついて、唇を合わせた。

 それは初めての体験だった。

 どうしてこんなに嬉しいんだろう? 彼女は女の子となら何度もそういうキスを交わしたことがある。

 はっきり言って唇に感じる感触だけなら、女の子の方が柔らかくて気持ちいい。

 だが今感じるような悦びはこれが初めてだ。

 それに―――フィンと抱き合っていると、体の触れ合った所から何か熱い物が流れ込んでくるような気がする。

 服越しなのにそれはアウラを焼き尽くしてしまいそうだった。

 だがその炎に焼かれているというのに、全然アウラは嫌ではなかった。それどころか一緒に焼き尽くされてしまいたい、そんな気になってくる。

 もしこれで服を着ていなかったりしたらどういうことになるのだろう?

 途端にアウラ自身も燃えだしたような気がした。

「いや……」

 アウラは急に怖くなった。

「え?」

 アウラはフィンを押し離そうとする。

 だがフィンは手を離さない。このままでは―――このままでは彼女は……

「あの……」

 そのとき二人のすぐ側で声がした。

 振り返ると―――いつの間に気づいたのだろう? コルネが半泣きで二人を見つめている。

「きゃああ!」

「あわわわ!」

 アウラが慌てて突き飛ばすと、フィンは不意を突かれて思いっきり尻餅をつく。

「な、何でもないのよ。コルネ。大丈夫だった?」

「あ、あの……」

「どこも怪我はない?」

「ア、アウラ様ぁ! 怖かったですぅ!」

 コルネはアウラに抱きついて泣き出した。

「もう大丈夫よ」

 そのとき遠くからどやどやと人がやってくる気配がした。

 見るとナーザが兵士を何人か連れてやってくる。

「アウラ!」

 ナーザが叫んだ。

「大丈夫です」

 やってきたナーザはすぐに状況を察したようだ。

「あなたたち、そいつらを捕まえなさい」

「はっ」

 兵士達はぼろぼろになったバルグールと気絶しているならず者達を縛り上げて、連行していった。

 それを見届けると、ナーザはアウラを見て笑った。

「どうやら間に合ったみたいね」

「え?」

「それじゃコルネは私が送って行くわ」

「あ、はい……」

 それからナーザは地面に座り込んでいるフィンを見て言った。

「フィン。アウラをよろしくね」

「え? は、はい……」

 二人が呆然としている間に、ナーザとコルネも行ってしまった。


 気がついたら月明かりの下、二人きりだった。

《え、えーと……》

 地べたに座りすぎて、尻が冷たくなってきている。フィンは立ち上がろうとした。

 するとアウラがさっと手を差し伸べたのだ。

「え?」

 普通なら当然の動作だ。だがフィンにはしばらくその意味が分からなかった。

「何してるのよ!」

「あ、ああ……」

 フィンはアウラの手を取って立ち上がった。

 だがまだ何か納得がいかない。いったい何なんだ?

「何よ。あたしの顔がどうかした?」

「い、いや……」

 フィンは黙ってアウラを見つめた。

 アウラが微笑み返した。



 ナーザがアイザック王の居室に入って来たとき、王は一人で部屋の中を歩き回っているところだった。

「どうであった?」

 王がナーザに問いかける。

「どうやら間に合ったようですわ」

 それを聞いて王は安堵のため息をもらした。

「ふむ。それはよかった……ではアウラやコルネは無事なのだな?」

「はい。ただ、本当に間一髪でしたわ。ル・ウーダ様が間に合わなければ、大変なことになっていました」

「コルネの命が危なかったか?」

「はい。それもありますが、何というか、すさまじい惨状になっていたことでしょう」

「というと?」

「ですからすさまじい惨状ですわ。その光景を想像して説明せよとおっしゃるのですか?」

 そう言ってナーザは微笑んだ。それを見てアイザック王も笑った。

「いや、そういうわけではないがな」

「ともかく……アウラ様だけは生き残られていたとは思いますが、多分こちらに来られたとき以上に心を閉ざされてしまわれたでしょう」

「なんと……」

 王の顔が再び険しくなった。ナーザも少し目を伏せながら続ける。

「ええ。そんなことになったら、いずれにしても王女様のお側には置いておけなかったでしょう……でももう大丈夫ですわ」

「本当にか?」

「間違いなく」

 それを聞いて王は安堵のため息をついた。

「で、ル・ウーダ殿とアウラはどうなったのだ?」

「はい。それはもう……」

 そう言ってナーザは見たことを報告した。それを聞いて王は大きな声で笑った。

「なるほど。それはめでたいことだ!」

 ひとしきりそうして笑った後、王は向き直ってナーザに言った。

「それにしても、最初の心配が馬鹿のような話だな」

 それを聞いてナーザも微笑んだ。

「ええ。まったく」

 それはフォレス王国にとってもある意味大事件だったのだ。

 何しろ前触れもなく白銀の都の貴族がガルブレスの忘れ形見を連れてきたのだ。

 この異様な取り合わせに対してどういった意味を見いだすのか、少し前まではそのことが最大の問題だった。

「それにしても、アイザック様のおっしゃったとおり、城の中に入れておいて正解でしたわね」

「まあ、その方が尻尾を出しやすいからな」

「でも……」

 二人は顔を見合わせて爆笑した。それから二人はしばらく黙り込む。

 次に口を開いたのはナーザだった。

「で、ル・ウーダ様とアウラ様の件に関してはほぼ落ち着いたようですが、今後はどうなされます?」

「うむ。そうだな。アウラは当面今のままでいいだろうな。彼女は護衛の任務は着実にこなしておるのであろう?」

「はい。それは間違いありません。しかし……」

「なんだ?」

「最近エルミーラ様とアウラ様が非常に親密なようで」

「それは前からではないのか?」

「いえ、それが……」

 ナーザはアウラの不感症が最近治ったらしいと言うことを王に報告した。

「ほう。それは良かったというのか、それとも……」

「多分心配はないとは思うのですが、エルミーラ様にどのような影響があるか……何しろ、そのエルミーラ様ですから」

「そのことは私から釘を刺しておこう。一国の主になろうとする者が、女で身を持ち崩してはいかんとな」

「ええ、まあ」

 また二人はちょっと笑った。

「で、ル・ウーダ様からは結局お答えを頂いたのでしょうか?」

「いや、まだ正式には聞いていないな。だが今の感触ではほぼ間違いないと言って良いだろう。いずれにしても長い目で見ていかなければならんだろうな」

「そうですわね。で、今後のことをエルミーラ様にはお伝えになりましたか?」

「いや、まだ言う必要はない。それにこれはミーラの意志ではなく、ル・ウーダ殿の意志の方が問題だろう?」

「そうですわね。それに……都でのことも気になりますし」

「ああ。だが急ぐ必要はない。どちらにしてもル・ウーダ殿は、しばらくはここにいてくれるだろうからな」

「そうですわね」

 二人はまた笑った。



「きゃあああ!」

 アウラはフィンの背にしがみついて、思わず声を上げていた。

「あんまりきゃあきゃあ言うなよ」

「だって、すごいんだもん」

 それは事実だ。

 二人の眼下には、ガルサ・ブランカの夜景が広がっている。

 鳥でもなければこんな光景は決して見ることはできないだろう。

 それはフィンの魔法を使うことによって僅かな時間だけ可能になる、きわめて貴重な光景だ。

「もっと高く跳べないの?」

「無茶言うな!」

 二人はガルサ・ブランカ城の西の塔の上に降り立った。

 ここは屋根の上なので普通ならば絶対来ることはできない場所だ。

「重い! ちょっと降りろ!」

「なによ!」

 アウラはしぶしぶフィンの背から降りた。

 固い屋根瓦の上に立ってアウラは少しほっとしたが、とたんに足下がすこしぐらついた。

 塔の窓から見ても高いのに、屋根の上からだ。平地のように平常な気持ちにはなれない。

「きゃっ!」

「危ない!」

 フィンはよろめいたアウラを思わず抱きとめる。腕にその感触が直に伝わってくる。

 彼はアウラを座らせるとその横に腰を下ろした。

 二人はしばらく黙って町の灯を眺めていた。

 それからアウラが口を開いた。

「でもフィン……」

「なんだ?」

 フィンがアウラを見つめる。

「怒ってない?」

「何を?」

「ひどいこといっぱいしたでしょ?」

「ああ。怒ってるよ」

 フィンはそう言ってにやっと笑う。アウラはどきりとした。

「だからここから突き落としてやろうと思ってな」

「嘘!」

 アウラは青くなる。

「嘘だよ」

「い、意地悪!」

 それに対してフィンは答えなかった。

 ただ彼女の体に腕を回して、唇を合わせてくる。

 アウラは嬉しかった。

 数日前までは考えられなかったことだ―――それなのに彼女は今ではまるで当然のことのように受け入れている。

 それからフィンが言った。

「俺もごめんな」

「え、何が?」

「あんなこと言っちゃったこと」

「もういいの」

「ありがとう」

 それから二人は何か会話を続けていたように思う。

 だが二人とも話したことはまるで記憶になく、ただ互いに触れあっている感触の心地よさしか覚えていなかった。

 そんな様子でそろそろ夜も更けてきた。

 気づくと月は西の空に傾き、夜風で体も冷え切っている。

「じゃあ、そろそろ帰るか」

 言われてアウラはどきっとした。

 いつまでもこうしていたかった。

 だがすぐに彼女はこれで終わるわけではないことに気づいた。今後はいつでもこうした時間が持てるのだ。

「うん」

 アウラは微笑むと、彼の背中に負ぶさった。

「じゃ、行くぞ」

「うん」

 そのままフィンは一気にジャンプする。

「きゃあああ!」

 夜空を二人で飛んでいるようだ。

 これが永遠に続くといいと思ったが、それはすぐに終わり、二人は城の庭に着地した。

「じゃあ……」

 フィンがそう言って別れようとしたときだった。

 アウラは何故か急に寂しくなった。そして思わずフィンの服の袖を掴んでいたのだ。

「…………」

 それを見たフィンがアウラの顔をじっと見つめる。

 アウラはまた顔が熱くなる。

「じゃあ……俺の部屋に来る?」

「え?」

 胸がどきどきした。

《フィンの部屋って……》

 当然アウラはフィンが何を求めているのか分かった。

 そんなこと……

 そんなことを……

 ………………

 体の中がかっと熱くなる。

 そんなことができるわけがない。できるわけが……

 だが―――気づいたらアウラはフィンの後を追って歩き出していたのだ。

《どうしてあたし……どうしてあたし……》

 頭の中ではその言葉だけがぐるぐる回っている。

 二人はフィンの部屋に入った。

 考えてみたらここに入るのは初めてだ。

 部屋の中はかなり散らかっていた。借りてきた本がテーブルの上に何冊も無造作に置いてある。ソファの上には着替えが放り出されている。

 フィンが慌ててそれを片づけている。

「あはは、何か飲む?」

 アウラは黙って首を振る。

 体の中で燃えさかる炎はますます大きくなっていく。彼女はもうそれを押さえたくなかった。

 それを見たフィンはちょっと困ったような様子で、彼女をベッドに誘った。アウラは黙ってベッドに腰掛けるとじっとフィンを見つめた。何を言って良いのか全く分からなかったからだ。

 それを見たフィンはもう迷わなかった。

 彼も黙ってアウラの側に座ると軽くキスをして―――それから服のボタンをはずし始める。

 アウラは緊張した。

 体がかちかちに固まってしまったような気がする。

 やがて服がずり落ちてアウラの胸が露わになる……

 フィンが息を呑んだ。

「きれいだ……」

 アウラは顔から火が吹きだしたような気持ちだった。あの滝壺では何も感じなかったのが嘘のようだ。

 フィンがその乳房をそっと撫でる。

「あっ!」

 アウラは思わずうめき声を上げた。

《これが……そうなの?》

 フィンは再び優しくアウラにキスをする。

 アウラの中の炎はもう業火のごとくに燃え盛っている。

「フィン!」

 そう言って彼女はフィンにしっかりと抱きついた。

「アウラ……」

 耳元でささやく声がする。アウラはフィンの胸に顔を埋める。

 それからは夢を見ているようだった。

 気づいたら彼女は生まれたままの姿でベッドに横たわっていた。

 側に寝そべっているフィンの愛撫が心地よい。

 見るとフィンもいつの間にか生まれたままの姿になっている。

「いいかい?」

 アウラは黙ってうなずいた。

 フィンはアウラに軽くキスをすると―――上になって彼女の間に割って入ろうとした。


 !!!!!!!


 途端に燃えさかっていた炎がいきなり消えて、あたりは真っ暗になった。

 アウラは目を見開いた。これはあのときの……

 胸の傷がずきりと疼いた。



「いやあああああああ!」

 そんな叫びと共にフィンはベッドから放り出されていた。しこたま頭を打ったせいですこし意識が朦朧としている。

《な、なんなんだ?》

 振り返るとアウラがベッドの上で胸を押さえてうずくまっているが……

「ア、アウラ?」

 アウラの口からは低い嗚咽が漏れてくるだけだ。

「だ、大丈夫か?」

 アウラはやっとうなずいた。そしてか細い声でささやくように言った。

「だめ! だめなの!」

「ええ?」

 フィンは何がなにやら分からなかった。

 いったいどういうことだ?

「フィンは……好きなの。でも……だめなの!」

 アウラはぽろぽろ涙をこぼしている。

 それを見てフィンはナーザの言ったことを思い出した。

 アウラは―――ひどい目にあったのだ。養父を殺されて、その脇でひどい目に……


《あれを……思い出すっていうのか?》


 こんな場合いったいどうすればいいのだ?

「アウラ……」

 フィンは恐る恐るベッドに腰掛けて、アウラの方に手を伸ばした。

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 アウラは丸くなって枕に顔を押しつけている。

「…………」

 フィンは思い切ってそっとアウラの背中をなでた。それを感じてアウラがぴくりと体を動かす。

「ごめんなさい……」

 だが帰ってきたのはこの言葉だった。

 フィンは大きくため息をついた。

「わかったよ」

 こんな状況では仕方がない。

「じゃあ、服を着なよ。部屋まで送ろう」

 だがそれを聞いた途端にアウラはフィンの腕を掴んだ。

「いや。一緒にいて!」

「え?」

 アウラは手を離さない。

「で、でも……」

「お願い……一緒にいたいの」

 アウラは泣きはらした目でフィンを見つめる。

《お、おい!》

 いったいどうしたらいいのだ?

 フィンは頭の中が真っ白になった。だが他にどんな方法がある?

 彼は黙ってアウラの横に横たわる。途端にアウラがぴたっと抱きついてくる。もちろん二人はまださっきの姿のままだ!

《ちょ、ちょっとまてよ!》

 フィンはアウラの顔を見ようとした。

 だがアウラはフィンの腕に顔を埋めて、ただこう言うだけだ。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 つぶやくようにそう何度も繰り返すうちに、アウラの言葉は寝息に変わっていった。

《あ、あのなあ……》

 その夜フィンは一睡もできなかった。


魔法使いと薙刀娘 おわり