消えた王女 第12章 英雄の誕生

第12章 英雄の誕生


 あの奇襲の朝から数えて三日が経過していた。

「うーむ。かなり冷えてきたようだな」

 手をさすりながらネブロスが入ってくる。フィンは天幕の中で火に当たっているところだった。

「柵は完成したのですか?」

「ああ。急ごしらえだが、しばらくは持つだろう。それに今年は冬がいつもより早いかもしれない」

「だといいですね」

 冬が来てしまえばここで作戦行動などほとんど不可能なはずだ。あんな装備ではベラの徴募兵達は数日もしないうちにみんな凍え死んでしまうに違いない。

 フィンが育った場所もフォレスに似た高原地帯だったので、冬は長くて厳しかった。そういう場所に住む者の性としては、通常冬を待ち望むことなどあり得ない。

 だが今は全く反対だ―――こんなに雪が待ち遠しかったのは初めてだった。

「エクシーレの戦線はどうなっているのでしょう? 何か聞かれましたか?」

 フィンの問いにネブロスは答える。

「ル・ウーダ殿の予想通り、向こうからは動いてこないそうだ。今、国境付近でにらみ合いを続けているという。彼らもベラがこんなことになるとは予想していなかっただろうしな」

 そう言ってネブロスは笑った。

 彼の年齢はフィンとそれ程は離れていない。

 もちろん根っからの軍人なので体格はフィンより遥かにがっちりとしているが、それでもガルガラスなどに比べれば小柄と言える。実際に今こうしてフィンと一緒に火に当たっている彼をみれば、ごく普通の兵士と変わらない感じだ。

 だが彼がひとたび兵士達を前にしたときはその雰囲気は豹変した。

 出陣の日、彼が千五百名の兵士を前に檄を飛ばす姿は、フィンから見てもぞくぞくするような迫力があった。決して大声で煽るような話し方ではなかったのに、一語一語に何者にも覆されないような意志が秘められているのが感じられた。

 それはまさに今回の作戦の総指揮を取るにふさわしい風格だった。

《確かにこの人だったら安心して指示に従えそうな気になるよな……》

 フィンはネブロスを見て思った。

 そしてこういった兵士達と共に戦えたことがひどく嬉しかった。

「でも、彼らはこのままじゃ収まらないでしょうね」

 フィンはネブロスに言う。実際彼はかなり心配だった。こんなにうまく行くなんてあまりにも出来過ぎじゃないのか? 敵の腸が煮えくりかえっているのは想像に余りある。

「ああ。さすがにこのままおめおめ引き返すことはしないだろうな」

 フィンはうなずいた。

 だがそれでベラ軍はどう出てこられるというのだ? ここでがっちり守っている限り、そう簡単に突破されることはないだろう。恐るべきは魔道軍だが、それはこの間の奇襲で散々叩いているし……

 フィンも魔導師の端くれだったから魔法についてはよく分かっていた。魔法を使うときには心が落ち着いていないとだめなのだ。

 慌てていてはうまくいかないし、怯えていても同様だ。激昂した状況だともっとまずいことになりかねない。ともかくいかに平常心を保つかが、魔法を上手く使う際の最大のキーポイントとなるのだ。

 例えばフィンがあの滝壺で、アウラの裸を見ただけでうまくたき火が点火できなくなったことを覚えているかもしれない。ファリーナのおっぱいでアイスクリーム作りに失敗したフェリエも同様だ。

 だが今回奇襲を受けたベラの魔導師達は、それどころではないもっと凄惨な体験をしているはずだ。彼らがその恐怖に怯えても、怒りに我を忘れても同様にまともな効果は望めなくなるのだ。

 そのうえベラの魔道軍が行った最も最近の戦闘は、実は三十年も前のエクシーレ戦だ。それに参加した魔導師はもう相当高齢だから前線には来ていないだろう―――すなわちここに来ている大部分の魔導師は本当の実戦経験などないのだ。

 戦争とはきれい事ではない。人と人が命のやりとりを行うのだが、そんな者達が目の前で仲間が惨殺されるのを見て平静でいられただろうか?

 壁役兵士達に守られて何も心配せずに魔法をぶっ放していられれば問題はない。

 だが戦争という物が本当に死と隣り合わせの状況なのだと悟った今、平常心を保てる者が果たして何人いるだろうか?

 そして今回フォレス軍には四名の魔導師が参加しているが、彼らはあらゆる魔法に対する防御のスペシャリスト達だった。

 最初の攻撃の際、彼らは四人でベラ魔導師十二人の攻撃を堪え忍んだのだ。

 彼らのおかげでフォレス軍は無傷で撤退し、夜中に体勢を整えることができた。もちろん彼らの攻撃能力はたかが知れている。だが今求められているのは冬が来るまでひたすらここで堪え忍ぶことなのだ。

 すなわち敵が魔道軍の力押しで来たとしても、十分持ちこたえられるはずなのだ。

 ―――だとすれば後は通常軍の戦いだ。

 もちろん相手もこちらの魔導師の攻撃力が低いことは知っている。ならば通常軍で攻める作戦も当然考えられるだろう。

 だがその場合このセロの渡しは守るに易い地形だ。フォレスの陣に攻め込むには敵はまず渡河しなければならないし、さらにはこの三日間で二重の柵を建設し終わっていた。簡単に突破されることはあり得ない。

 もちろん、だからといって油断は禁物だが―――彼らはあと一~二週間我慢すればいいという気楽さがあった。

 その上、最悪ここが突破されたとしても、ベラ軍は更にフォレスの国境まで進軍してそこで待ちかまえる守備隊ともう一戦交えなければならない。ここから国境までの道中にも奇襲を仕掛けやすい場所はたくさんある。その程度の時間ならば十分に稼げるはずだ―――それがあの晩フィンとネブロスが話し合って出した結論だった。

 だがそれでもフィンは漠然とした不安に苛まれていた。

 理論的にはこれで正しいはずなのだ。思いつく限りの状況は網羅したはずだ。

 だが何かまだ抜けているような気がする。そうやって何度も考え直すが、何も思い浮かばない―――そこでフィンはネブロスに尋ねた。

「ナーザさんからは……やっぱり報告とかはありませんよね?」

 ネブロスは首を振る。

「ああ。ナーザ様のことだから間違いはないと思うが……」

 ネブロスは複雑な表情だった。

 彼が四年前の戦いでナーザと組んでエクシーレ軍を引きずり回して以来、彼女に対して深い尊敬を抱いているというのは周知の事実だ。

 大仕事を一つ片づけたフィンにとって今最も気がかりなのは、ナーザとアウラの消息だった。

 あれからずいぶん経つ。いったい彼女たちは今どうしているのだろうか?

 もし彼女たちがこの陰謀を暴いてエルミーラ王女見つけて戻ってきてくれれば、それで戦う理由は何もなくなるはずなのだ。そうすれば万事うまく収まる!

 だが考えてみれば今フォレスへの街道が敵で埋まっている以上、連絡が寄こせるはずがない。

《アウラ……》

 この数日、肩の荷が下りてフィンは急に寂しくなっていた。

 それまでは戦いの準備や戦いそのものでそれどころではなかった。

 だがこうなってしまえばもうフィンの役割は終わったようなものだ。セロの防衛任務はもはやフィンが出る幕ではない。

 フィンは当初はガルサ・ブランカに戻ろうかとも考えた。だが戻った所で一体何をする? 彼はここで兵士達の信頼を得られて本気で嬉しかった。彼らと一緒にいることが楽しかった。

《それにここの方がアウラが戻ってきたとき早く会えるじゃないか!》

 そんなわけで彼はネブロスの天幕で寝泊まりしていたのだった。

 そこでフィンはネブロスの指揮ぶりを見て感嘆していた。彼こそプロだと心の底から思ったものだ。

 彼の指揮ぶりを見ていると、何かと勉強になることが多かった。

 もちろんフィンは軍人になりたいわけではなかったのだが、こういう場面を見ておくことは今後フォレスに仕えるようになったとき役に立つはずだ。

《フォレスに仕えるか……》

 フィンがエルミーラ王女の婿になるという話はあれからうやむやになったままだ。彼にその気はなかったとはいえ、彼女のために何かしてやりたいという気持ちはあった。王女はフィンも驚くほど国政のことに関しては詳しかったが、さすがに軍事的なことはあまり強くなかった。

 だが国を預かる立場になるということは、必要に応じて断固と戦う決意をしなければならないことをも意味している。今回のアイザック王の決断のように……

 図らずもそんな場合に彼が力になれることが今回証明できたのだ。

《軍人……なのか?》

 フィンは心の中でつぶやいた。

 元々アイザック王は彼に外交官のような役割を期待していた。だが今回の事件では何だか全然別な方に足を突っ込んでしまった気がするが―――フィンはため息をついた。ほんの数日前までは彼自身そんな可能性を全く考えていなかったというのにだ……


 そのときだ。天幕の中に若い兵士が息急ききって飛び込んできたのだ。

「ネブロス様! 報告します!」

「なんだ?」

「ベラ軍がやってきました」

「なんだって?」

 ネブロスは驚いた。フィンも同様だ。ベラ軍がこんなに早く態勢を立て直してやってくるとはかなり予想外だった。彼らの予想では早くともあと数日は余裕があると踏んでいたのだが……

 なぜなら今度の戦いでは通常軍が主体になるはずだ。それだとセロは防備が堅い。ベラも相当の被害を予想しなければならないはずだが―――もしロムルースが焦って突っ込んできたのなら、はっきり言ってカモにできるはずだ。

 フィンはネブロスの顔を見た。彼は訝しげな表情で兵士に尋ねた。

「敵の数は?」

「総勢約四千と見られます。しかし……」

「しかし何だ?」

「軍の中央をなにやら奇怪な物が歩いているとの報告です」

「奇怪な物?」

 ネブロスは目を見開いて兵士の顔を見る。冗談を言っているような様子は見えない。兵士はネブロスの疑いを感じてか言いにくそうに言った。

「はい。それが、その、機甲馬のようでして……」

「機甲馬だと?」

 ネブロスが声を荒げた。

「機甲馬というと、あの機甲馬か?」

「はい」

 ネブロスはフィンの顔を見た。

「ル・ウーダ殿は、機甲馬が歩くなどという話を聞いたことがあるか?」

「いえ、初耳です」

 フィンはこの間ベラに行ったとき実際に機甲馬を見てきた。そのときは広場にあるその姿を見ただけで、動いている姿は見たことがない。聞いた話では機甲馬は足を上下に動かすことだけしかできないはずなのだが―――もし歩けるのであればもっと早くからそうしているに決まっている。

「もう一度確認を取れ! それから全軍に警戒態勢を!」

「は!」

 フィンとネブロスもその後に続いて天幕から出た。

 そこは小高いところになっていて、セロの盆地がよく見渡せる。警戒態勢の指示に兵士達が慌てて持ち場に走っていくのが見える。

「奴がいったことは本当なのだろうか?」

 そう問われてもフィンとしても答えようがなかった。

「足が動く以上……歩けるかもしれませんが……でも縛られてでもなければそう簡単に踏まれることはないと思いますが……」

「うーむ……」

 ネブロスは考え込んだ。当然だろう。彼らはここを死守しなければならないのだ。ここから先はまたフォレスまで峡谷沿いの細い道だ。まともに迎撃できる場所は国境まで戻らなければならない。

 だが相手は全く未知の物体だ―――何しろ機甲馬は罪人を踏みつぶすものだとしか聞かされていない。それがここまで歩いてやってきたというのだ。更に何か秘密があっても全然おかしくない。

「そんな物とまともに戦うのは避けた方がいいのでは?」

 フィンはネブロスに言った。だがネブロスは首を振った。

「我々はここを死守しなければならないのだ。何が来ようと。それが機甲馬でもな」

 それからネブロスはつけ加える。

「その間ル・ウーダ殿はここで戦いを観察していてもらいたい」

「え?」

 フィンは一瞬ネブロスの意図がよく分からなかった。

「ル・ウーダ殿は戦いには参加せず、ここで我々が機甲馬と戦う所をよく見ておいてもらいたいのだ」

「しかし、私でも少しはお役に立てますよ。一人見ていろと言うのは……」

「いや、そうではない。今、我々は機甲馬のことをほとんど全く知らないのだ。ベラ軍が投入してきた以上、木偶ではあるまい。ならばここでそれがどう戦うのか、よく見ていてもらいたいのだ。それが本当に危険なものであったのなら、誰かがその情報をガルサ・ブランカに知らせねばならない。今ここで退いてもいつかは戦わなければならなくなる。だとしたらここで見極めておきたいのだ」

 フィンは理解した。ネブロスは危険を冒して機甲馬と戦ってみるつもりなのだ。そしてフィンはそれを見物していればいいと言うのではない。最悪の場合でも対抗策をとれるようにその戦い方を研究してくれと言う意味なのだ……

「しかしそれではあなたがあまりにも危険なのでは?」

 そう言うフィンをネブロスは押しとどめる。

「誰かがしなければならないことだ。全く未知の物をフォレス本国に入れるわけにはいかないだろう?」

「はい……」

「だからル・ウーダ殿はよく見ていてくれ。それから危険になったら即刻本国に戻るように。そしてアイザック様に見た物を伝えて欲しい」

 そのネブロスの顔には、はっきりとした決意が現れていた。フィンはうなずいた。

「……分かりました。そうします」

 フィンの辛そうな表情を見て、ネブロスが笑う。

「ははは! そんな顔をするな! もしかしたら単なる木偶人形かもしれないしな」

 だがそう言うネブロスの目は笑ってはいなかった。


 兵士の報告は間違ってはいなかった。

 それからしばらくして川の対岸にはベラ軍が勢揃いした。

 その中央に黒光りした巨大な昆虫のようなシルエットが見える。

 軍はすべて正規兵のようで、皆ベラ軍の制服に身を包んでいる。徴募兵の姿は見えない。

 兵団の中央にはひときわ目立つ軍旗が見えた。

「ロムルース殿が直々に来られたようだな」

 ネブロスがつぶやく。

 それを見たフォレスの兵士達は少なからず不安におびえているようだ。

「ちょっとまずいな。少なくともあれを使われたら柵など簡単に壊されてしまいそうだ」

 さすがにネブロスもこのような場所で見る機甲馬には驚きを隠せなかった。

 だとしても彼の口調はあくまで冷静だ。

 そんな姿を見ていると、フィンまで落ち着いてくるから不思議だ。

 これで司令官が浮き足立っていたら、戦わずして負けは目に見えている。

《さすがだな……》

 フィンはそんなところに感心していた。

 こうなってしまったらもうフィンはひたすら見ていることしかできない。いや、それが今のフィンの使命なのだ。

 もしあれが単なる木偶でなければ相当大変なことになるはずだ。ここが突破されてしまう可能性は非常に高い。

 そうなったとき最終防衛線はフォレスの国境になるが、そこを抜けるとガルサ・ブランカは目と鼻の先だ。

 フォレスは国全体が山に囲まれた要塞のようなものだ。そのため逆にガルサ・ブランカ周辺には城壁などは作られていない。従って国境線が突破されてしまったら首都は裸同然だ。

 すなわち国境防衛戦がフォレスの命運をを決めることになる。

 その戦いの際にはフィンが見たことは絶対に何か役に立つはずだ。いや、立たせねばならない。でなければ―――フォレスは消滅する……

《………………》

 そう考えると、フィンの任務はネブロスやここの兵士達よりずっと重大な気がしてきた。ある意味彼らは気楽なのだ。開き直って突っ込んでいけばいい。それで命を落とした所でそれは一瞬の話だ。

 だがそうなるとフィンにはその命に対する責任が発生する。彼らの死を犬死ににさせないためにも、フィンが何かを掴んで帰らねばならないのだ……

《こ、これじゃ……一緒に行った方が良かったんじゃないか?》

 フィンは内心蒼くなった。

 どうしてあのとき同意してしまったのだろう? 観察する者は別に彼でなくてもいいはずなのに……

 だが今更もう遅い―――フィンは心ならずも体が震えてきた。

 そのとき敵陣の中から馬に乗った男が一人前に出てきた。

「ネブロス殿!」

 男は叫んだ。それを聞いてネブロスもさっと自分の馬に乗ると、前線に出ていく。

「何用か? モルスコ将軍」

 ネブロスが答える。

「ロムルース様はこうおっしゃられておる! 速やかに兵を退いて道を開ければ、無用な流血は避けられるとな!」

「我々に降伏せよと申すのか?」

「その通りだ!」

「それは致しかねる!」

「聞き入れてはもらえぬと、そういうわけだな?」

「そうだ!」

「ならば致し方ない! 我々を恨むでないぞ!」

 そう答えてモルスコ将軍は下がっていった。

 同時にベラ軍がぱっと割れて、機甲馬が動き出した。

 それを見たネブロスがぱっと手を上げると、フォレス陣の一隅に大きな火球が現れて、一気に機甲馬に襲いかかった。あんな勢いでは普通の相手ならあっという間に焼き尽くされてしまうだろう。たぶんベラの魔導師がそれをシールドするに違いない―――フィンはそう思った。

 だが火球は全くシールドされず、直接機甲馬に命中した。

 ボ・カーンという轟音と共に大きな爆発が起こる。

 フォレスの兵士達から歓声が上がった―――だがそれはすぐに尻窄みになり、今度はベラ側から歓声が上がる。

 なぜなら、機甲馬は全く無傷の状態で前進を続けていたのだ。

「全然効かないのか?」

 フィンは驚いてつぶやいた。

 だが驚きはそれだけではなかった。

 機甲馬は急に移動速度を上げると、川をあっという間に渡って、一気にフォレスの前線に襲いかかってきたのだ。前の二本の足を手のように使って急ごしらえの柵をたたき壊すと、次の瞬間にはそこを乗り越えてフォレス陣内に乱入していたのである。

「は、速い!」

 フィンは息を呑んだ。

 想像以上の素早さだ―――あんなに大きな図体なのだから、もっとのろのろとしか動けないものだとばかり思っていた。たぶんネブロスもそう思っていたのだろう。それならばまだ策はありそうだったのに……

 だが、驚きはそれで最後ではなかった。

 次の瞬間、機甲馬の背中にある円錐形の突起がぴかっと光ったかと思うと、四方八方に閃光を発したのだ。少し遅れてフィンの所にば・ばーんという乾いた轟音が届く。その閃光が狙い違わずフォレス兵に命中すると、当たった兵士は体を弓なりにのけぞらせてばたばたと倒れていく。

「ちょっと待てよ!」

 フィンは思わず叫んでいた。

 いったい何なのだ? これは! 反則だ! これでは近寄ることさえできない!

 それを見たフォレス軍は総崩れになった。同時にベラ軍が突撃を開始する。

「退け! 退け!」

 ネブロスの叫びが聞こえる。

 そのときになって初めてフィンの背中に冷たい物が走った。

 それまでは緊張していたとはいえまだ見物人という気分だった。

 心の底ではネブロス達がそう簡単にやられるはずがないと高をくくっていたのだ。

 だが今の状況を目の当たりにして、フィンの果たすべき“責任”がいきなり重くのしかかってきたのだ。

《い、いったいどうすりゃいいんだ?》

 だが今のフィンにできることなど何一つない。

 フィンの頭の中は真っ白だった。



 アウラ達はベラ軍の本陣に向かって、最後の上り坂にかかっていた。

 彼女が乗っている馬は泡を吹いている。だが可哀想でも今ここで足をゆるめるわけにはいかない。

 それに疲れ果てているのは馬だけではなかった。

 アウラ達を先導しているレーグラと呼ばれる下士官が叫んだ。

「滝が見えました! もうしばらくの辛抱です!」

「分かったわ!」

 エルミーラ王女が喘ぎながら兵士に答える。アウラは気が気ではなかった。

「ミーラ! 大丈夫?」

「大丈夫よ! ここまで来て参ってなんかいられないわ!」

 横を併走するナーザも心配そうな顔だ。

 実際王女の体はもうぼろぼろだ。こんな状況でもなければ押さえつけてでも休ませる所だ。


 ―――何しろ彼女たちはあれからずっと走り詰めだった。

 クレアスから間道を抜けて主街道に出るまでは、道も悪く替えの馬もなかったのでまだゆっくりのペースだったが、主街道に出てしまえば道は良く整備されている上、駅伝の馬を徴発できる。だからそこからは宿駅ごとに馬を替えながらの全力疾走だったのだ。

 こんなハードペースはアウラでさえ初めてだった。

 彼女は小さい頃から馬には馴染んでいたのでへとへとに疲れたぐらいで済んだが、王女は違う。

 エルミーラ王女も王族である以上たしなみとしては乗馬はできたのだが、元々遠乗りなどはあまり好きではなく、遠出するときにはもっぱら馬車を利用していたのだ。だから王女がこんなに馬に乗り続けたのは実はこれが初めてだったと言っていい。

 王女は主街道に出るまでに既に足腰がだめになってしまっていた。

 そしてここに来てのこのペースだ。ナーザも先に伝令を行かせればいいと説得したのだが、王女自身が絶対に納得せず、伝令と同じスピードでベラの本陣に向かっていたのだ。

 アウラは横を走る王女の顔を見た。もう顔面蒼白だ。彼女はすさまじい痛みに耐えているに違いない。だがあとは我慢してもらうしかない。本陣はもう少しなのだ。

 アウラ達が最後の急坂を登り切ると、目前に小さな森が見える。

 森の周辺には多数のベラ兵が陣取っているのが見える。

「本陣はあの先です!」

 先導してくれている下士官が叫んだ。エルミーラ王女が黙ってうなずく。

 ベラ兵達は疾走してくる不思議な集団を見て道をふさいだ。まあ彼らとしては仕方のない行動だろう。

 兵士の一人が叫んだ。

「何事だ!」

 彼に向かって下士官が叫んだ。

「道を空けろ! 緊急の用だ!」

「しかし……」

 兵士は下士官の後に付いてきている三人の女性を見て眉をひそめた。こんな場所に見るからに不相応だ。躊躇している兵士に向かって王女が叫んだ。

「そこを通しなさい! 私はフィリア・エルミーラ・ノル・フォレス! ロムルース様に用があります」

 それを聞いた兵士は仰天した。

 慌てている兵士に下士官が怒号を浴びせる。

「何をもたもたしている! そこを空けろ!」

 兵士達が慌てて道を空けると、一行はその間を走り抜けた。

 ロムルースの陣屋に行き着くまでに何度かそのようなやりとりを交わした挙げ句、彼女たちはついに本陣に到達した。

 先導の下士官はさっと馬から下りると陣屋に向かって走っていった。

 それとほぼ同時にエルミーラ王女が馬からずり落ち始める。

《あっ!》

 アウラとナーザが慌てて彼女を受け止めた。

「ミーラ!」

「大丈夫よ……」

 王女が喘ぎながら答える。

「ともかく行きましょう!」

 アウラはナーザと目配せすると、エルミーラ王女を両方から抱きかかえた。

 二人は彼女の両肩を支えながら陣屋に向かった。あたりの兵士達が道を空けながら驚愕のまなざしで彼女たちを見ている。

 後ろの方からは兵士達が野次馬のように押しかけてきている。

「ロムルース様! ロムルース様!」

 陣屋に入った所で先導していた下士官が叫んでいる。彼も走り詰めだったので息が荒い。

 そこに見覚えのある顔が出てきた。あれは確かロムルースがフォレスに来たときに一緒に来ていた―――そうグリア将軍だ!

 アウラがそう思った瞬間、将軍の声が聞こえた。

「なんだ? レーグラではないか! どうしてここにいるのだ?」

「レーグラ? 誰だ?」

 そう言いながら出てきたのはロムルースだ!

「はい。輸送部隊の指揮を任せておりましたが……おい! どうしてこんな所にいるのだ!」

 グリア将軍はそう答えて、レーグラを詰問した。

 だがレーグラは首を振った。

「それどころではございません!」

 そう言って彼は陣屋の入り口を指さしたのだ。

 ロムルースがその方を見ると―――ちょうどそこからは三人の女性が入ってきた所だった。

 その中央の娘は長旅でぼろぼろになっていたとはいえ、彼が最も良く知っている顔だった。

 ロムルースはそれに気づいた瞬間、あんぐりと口を開けたまま凍り付いてしまった。

 その後から更に別な将軍や高官たちも出てきては、次々に凍り付いていく。

 あたりを沈黙が支配するが―――それを破ったのはエルミーラ王女の悲鳴にも近い叫び声だった。

「ルース! 一体なによ? これ!」

 その声にロムルースは目をこすった。

 それからまるで夢遊病者のように王女の方に近づいて来るとよろよろと王女の前に立って、その存在を確かめるかのように頬を撫でた。

 それから惚けたようにつぶやく。

「エルミーラ……君なのか?」

「寝ぼけてるんじゃないわよ!」

 その言葉に対して帰ってきたのは、王女の怒声とバシーンという平手打ちの音だ。

 ロムルースはそれを受けてもまだ呆然と王女を見ている。

 彼はまだ状況を把握できていないようだ……

「目が覚めた?」

 ロムルースは頬を押さえながら尋ねた。

「どうして君がここに……」

 エルミーラ王女は肩を震わせた。

「やっぱりあんた何も知らなかったのね!」

「何もって、いったいどういうことだ?」

「あたしはね、さらわれてからずっとベラにいたのよ!」

「あ?」

 ロムルースは何が何だか分からないという表情だ。それを見た王女は更に激昂した。

「あたしはね、ベラに、さらわれていた、って言ったのよ! 聞こえた?」

 まだ彼が呆然としているので、モルスコ将軍が慌てて尋ねた。

「ど、どういうことです? エルミーラ様!」

 同席していた将軍達も口々に声をあげる。王女は一同の顔を見回した。

「言った通りよ。いい? あたしはね、白き湖の畔でさらわれた後、ベラに連れてこられたの。ベラのフランに連れて行かれて、そこで領主の館にずっと閉じ込められてたのよ! これがどういうことかわかる?」

 将軍達は驚いて互いに顔を見合わせる。

 それからグリア将軍がつぶやくように言った。

「フラン、だと?」

 聞いた王女が畳みかける。

「そうよ。フ・ラ・ンよ! そこのお館様の屋敷の、とってもとっても立派なお部屋にね!」

 将軍はそれを聞いてしばらく凍り付いたように一点を凝視していたが、振り返ってプリムスを探した。

「プリムス! これは一体どういうことだ?」

 それに合わせて一同も一斉に振り返ってプリムスの顔を凝視する。

 だが彼はこういう状況になっても全然慌てた様子は見えない。

「いったいどういうことでしょう? 私にもさっぱり」

 プリムスはとぼけてみせた。だがそれを聞いてナーザが言った。

「今更言い逃れをなさるおつもり? 屋敷の留守居役のバラガスが全て白状しましたわよ」

 プリムスは眉をひそめる。

「ちっ! あの馬鹿が! せっかく私が……」

 だが彼はその先を続けることができなかった。


「あああああああぁぁぁぁぁぁぁ‼‼」


 悲鳴のような叫びがその言葉を中断したのだ。

 叫びの主はアウラだった。

 彼女はその声に聞き覚えがあった。

 絶対に忘れない声だ。途端に胸の古傷がかっと熱くなる。

 アウラは胸をかきむしりながら人々の間を駆け抜けると―――そこに良く見知った顔を見た。

 あの悪夢の中で良く見知った顔が‼

 アウラは絶叫する。

「おまえ‼ あのときの‼」

 次の瞬間、薙刀を抜いたアウラがプリムスに躍りかかる。

 瞬きするほどの間の出来事だ。誰も彼女を止めることができなかった。

《やった!》

 彼女の刃は間違いなくプリムスを捉えた。

 誰もがそれを見てプリムスが一刀両断されてしまったと思った。

 ―――だがその瞬間、何か鈍い音がして、アウラは薙刀を持つ手に今まで感じたことのない感触を覚えていた。

《!?》

 本当ならばざっくりと割れた人体がそこになければならない。アウラの薙刀はプリムスの体を袈裟がけに両断しているはずだ。

 だが―――彼女が斬ることができたのはプリムスの服だけだった。

 服の切れ目から白っぽい鎧のような物が見える。それが薙刀の刃からプリムスを守っていたのだ!

「この!」

 胴体は何かの鎧に守られているらしい。ならばそれのない所を狙うまでだ。

 アウラは今度はプリムスの首を狙って斬りかかる―――しかし今度はその刃は届かなかった。

《えっ?》

 アウラの二の太刀が届く前にプリムスはふっと浮き上がると、そのまま斜め後ろに飛んでいってしまったのだ。

《こいつ! フィンみたいなことが?》

 それならば降りてきた所を狙えばいい! 彼女はそのまま彼を追いつめようとする。

 だがプリムスは何故か落ちてこない。そしてアウラの薙刀の届かない高さの空中にぴたっと停止したのだ。見ていた者がみな一様に驚きの声を上げる。アウラも呆然とその姿を見つめた。

 そんな人々を見下ろしながらプリムスが言った。

「おお! これは危なかった。まさかこれが役に立つとは……」

 今の攻撃は想定外だったのだろう。彼もまた少し青ざめた様子だったが、それでも慌てた風には見えない。

「こやつ! 魔道の力を?」

 将軍達がつぶやくのが聞こえる。

「降りてこい! 卑怯者!」

 アウラは叫んだ。それに対してプリムスはにたっと笑った。

「あのときの小娘か。いい女になったな!」

 途端にアウラの顔にかっと血が上る。胸の傷がぱっくりと割れてしまったかのように感じる。

「殺してやる!」

 アウラが叫ぶが―――そのとき彼女の薙刀を掴む者がいた。ナーザだ。

「無駄よ。落ち着きなさい」

「でも!」

 ナーザが抗おうとするアウラの肩を抱いた。

「どうしてそんなに熱くなってるの?」

 ナーザを始めその場にいた誰もが、彼女がいきなりプリムスに斬りかかっていった理由を知らなかった。確かに奴は取り押さえなければならないのだが、いきなり殺してしまっては元も子もない。

「だってあいつが、あいつが……」

 アウラの目には涙が浮かんでいる。

 体がびくびく震えている。

 この取り乱しようは尋常ではない―――そんな様子のアウラを見てナーザははっと思い当たった。

 今プリムスは何と言った? あのときの小娘?

「ええ? まさか……それじゃ?」

 ナーザはアウラの胸の傷がある場所を指さした。

 アウラが叫ぶ。

「そうよ! あいつがブレスを殺したのよ!」

 一同は全員驚愕した。

「プリムス! 貴様、本当か?」

 モルスコ将軍が叫ぶ。

 プリムスはそこにいる者達の顔を見回すと、ため息をつきながら言った。

「はは。ばれてしまっては仕方ないですね。いかにも。以前サルトスで旅の剣士をやっつけたことはございます。といっても手をかけたのは私じゃありませんが」

 それを聞いたアウラが叫んだ。

「お前が剣を折ったんだ! じゃなきゃブレスはあんな奴にはやられなかった!」

「まあ、そうかも知れませんね。こんな感じですか?」

 プリムスがさっと手を前に伸ばすと―――途端にアウラの手にしていた薙刀が真っ二つに折れた。

「こ・の・野郎!」

 怒り狂ったアウラが折れた薙刀をプリムスに投げつけるが、それは彼に届く直前でふっと勢いを失ってぽとりと地面に落ちる。それを見たアウラはますます激昂する。

「アウラ!」

 ナーザが後ろから抱きかかえるようにしてアウラをとり押さえた。それを見てプリムスは可笑しそうに笑った。

「まあ、そういうわけです。今回の件も私がいろいろセッティングいたしましたが、みなさま楽しんで頂けたでしょうか?」

 そこにロムルースが真っ赤な顔をしてわめいた。

「おのれ! どうしてこんな真似をした!」

 地団駄を踏むロムルースを見下しながら、プリムスは馬鹿にしたような笑いを浮かべている。

「いまだに分からないのですか? どうも私の想像以上に頭がよろしくないようですな」

「なんだと?」

 ロムルースは今にも蒸気を噴きそうだ。それを見てプリムスは鼻で笑う。

「これだからフェレントム一族などにベラは任せられなかったんですがね」

 それを聞いて一同はやっと思い当たった。

「貴様! アドルトの……」

 ロムルースの言葉にプリムスはにやっと笑って答えた。

「はいそうです。私はあなた方に力ずくで追い出されたフィーバス様にお仕えしております」

 それを聞いたグリア将軍が叫んだ。

「あ奴め! 生きておったのか?」

「それはもうお元気で」

 プリムスはおかしそうに笑った。

 そのときグリア将軍ははっとしたような顔をして言った。

「それではグレンデル様を暗殺したのもお前か?」

 プリムスは自分の胸を叩いて答えた。

「もちろんですよ。他に誰がいます? だからロムルース様には感謝して頂かねば。私のおかげでベラの国長になれたわけですからね?」

 ロムルースは目をかっと見開いて、いきなりプリムスに剣を投げつける。だがその剣は同じようにプリムスの体に触れる前に何かの力に弾かれるようにして落ちた。

 それを見ながらプリムスがにやにや笑う。

「そんなことをしても無駄だと分からないのですか? まあ、その程度だと思っておりましたからいろいろとバックアップして差し上げてたんですよ。レクトール様だとこうは簡単には操れなかったでしょうからね」

「貴様!」

 怒り心頭のロムルースを横目に、プリムスはからかうように続ける。

「ははは。それにしても、そうそう。いや、ロムルース殿、いやはやあなたには随分と驚かされましたよ。元々ね、私はちょっとベラとフォレスが険悪になればいいぐらいに考えていたんですよ。それがどうです。エクシーレに出兵した挙げ句、返す刀でフォレスに進軍して頂けるなんて想像もつきませんでしたよ。あなたを生かしておいて本当に良かった。ガルブレスやグレンデルを殺したことなんかよりずっと大きなダメージがあったようで。はははは。私も勉強になりましたよ」

「おのれ! 誰か奴を打ち落とせ!」

 ロムルースが真っ赤になって吠える。

 その号令と共に何人かの弓兵がプリムスを射たが、矢は同じように弾かれてしまう。

「だから無駄だと言ったでしょう?」

 それを聞いてグリア将軍が残念そうにつぶやいた。

「くそ! なぜこんなときに魔導師が……」

 ベラ軍は前回の戦いで被害が大きかった上、今回の機甲馬作戦では使わない予定だったので、魔道軍を前線に連れて来ていなかったのだ。

「そういうわけでお楽しみもそろそろお開きにしたいと思います」

 プリムスは手にしていた機甲馬の操縦装置にさっと指を走らせた。次いでぱしっと音がすると、その装置が砕け散った。

 一瞬人々は何が起こったのか分からなかった。

「貴様……何をした?」

「もうすぐ分かると思いますよ。では私はこれで」

 プリムスはひゅっと高く飛び上がる。

「打ち落とせ!」

 ロムルースがわめく。弓を持った兵士がまたプリムスを撃つが、相変わらずプリムスは防護魔法で守られたままだ。ついには弓の届かないところに行ってしまった。

「追え! 追うんだ!」

 一同は慌ててプリムスを追おうとした。だが狭い峡谷地帯では空を飛ぶプリムスを追うことなどほぼ不可能だ。彼の姿はそのまますぐに山陰に入って見えなくなってしまった。

 一同は呆然として彼が消えた後を見つめていた。

 しんとした中、低いすすり泣きの声が聞こえてくる。人々が見るとアウラがナーザに抱きかかえられながら泣いている。

 そう。アウラはもう泣くことしかできなかった。

 育ての親ガルブレスと自分自身の仇があんなすぐ目の前にいたというのに、一矢も報いることができずにまんまと逃げられてしまったのだから……

 そこにエルミーラ王女が足を引きずりながら近寄ってきた。

「アウラ」

 その声にアウラが振り返る。王女はこんなに弱々しいアウラを見たのは初めてだった。

 王女は黙ってアウラの肩に手をかけた。

「ごめん……ミーラ」

「どうしてあなたが謝るのよ」

「だって……だって……」

 王女はアウラを慰めようとした。

 だがどう言えばいいのだろう? あのプリムスがガルブレスを殺したって? ということは彼がアウラにあの傷を付けた張本人なのか?

 その傷を付けられたときに彼女が何をされたかは王女も知っていた。その仇を取り逃がしてしまったのだ。いったい何と言って慰めればいいのだろう?

 彼女は黙ってアウラを抱きしめると、ささやいた。

「この仇は私がとってあげるわ」

 アウラが驚いて王女の顔を見つめる。

「あなたの仇はもう私たち全ての仇よ」

 次いで王女は周囲の将軍達の顔を見渡した。

「そうでしょ?」

 将軍達も黙ってうなずいた。それからモルスコ将軍が言った。

「アウラ殿ですね? お初にお目にかかります。こんな形でお会いしようとは……ガルブレス様の仇はもはやベラ首長国全ての仇と言えましょう。ガルブレス様には私も剣を習ったことがございます。それにしても、あの一太刀は見事でございました。もしあ奴があんな帷子を身につけていなければ、確実に仕留められておりましたのに。あのお方の技があなたの中に実際に息づいていることを私は確信します」

 そう言って将軍はアウラの前に跪いた。

 それを聞いた他の将軍達も同様にアウラの前に跪いて礼をする。

 アウラは驚きのあまり涙も引っ込んでしまった。

「え? あの……」

 まごついているアウラを見てエルミーラ王女が笑った。

「アウラ。あなたね、一応だけど、自分の立場をもう少し覚えていた方がいいわよ」

 そこでやっと彼女は自分がガルブレスの養女であり、形式上とは言ってもこのベラの国長の一族に属するということを思い出した。アウラは慌てて将軍達に挨拶する。

「あ、あの、アウラです。よろしく」

 その挨拶を聞いた王女が吹き出した。

 アウラがじろっと王女を睨む。

「な、なによ!」

「いえ、なんでもないわ」

「何でもなくないでしょ!」

 いつもならばそんな感じでその場はめでたく終了となるところだっただろう。

 ―――だが運悪くここは戦場だった。


 そのときだ。前線の方から別の悲鳴が聞こえてきたのだ。

 同時に兵士が報告にやってくる。

「ロムルース様! た、大変です」

「何事だ!」

「機甲馬が……敵味方なく暴れ始めました!」

「なんだと?」

 一同は真っ青になった。

 ロムルースは慌てて陣の外に出る。そこからもその惨状は見ることができた。

 今までは敵だけを正確に狙っていた機甲馬が、今では敵味方関係なくその閃光を浴びせかけているのだ! ロムルースはがたがた震えだした。

「ちょっと! 何? あれ! 何で機甲馬がいるのよ?」

 後から出てきたエルミーラ王女が叫ぶ。王女はまたナーザとアウラに両肩を支えられている。

 ナーザもその光景を見て絶句した。アウラもこれが尋常な事態ではないことは一目で分かった。

「あ、あれ何?」

 アウラが尋ねる。彼女は機甲馬を見るのはこれが初めてだ。

「あれが機甲馬よ!」

 エルミーラ王女が青い顔で叫ぶ。その横でロムルースがぽかんとしている。

 それを見た王女が彼の背中をどすんと叩いた。

「ルース! 何してるのよ!」

「え?」

 ロムルースは我に返ったように王女を見た。

「早く止めなさいよ! みんな死んじゃうわよ!」

「と、止められない!」

 王女の言葉に顎をがくがく言わせながらロムルースが答えた。

「え?」

「機甲馬を操る箱を……奴は壊してしまったのだ」

「な、なんですって?」

 王女はナーザを見た。どんなときでも冷静なナーザまでが蒼白な顔で、手首の腕輪を撫でながら唇を噛んでいる。

 アウラも暴れ回る機甲馬をただ呆然と見つめているだけだ。

「誰か! 止め方を知ってる人はいないの?」

 エルミーラ王女が再び叫んだ。

 だが誰も声を上げない。

 一同は凍り付いたように暴れ狂う機甲馬の姿を見つめることしかできなかった。

「とにかくこのままではここにも被害が及びます。逃げましょう」

 ようやく我に返ったようにモルスコ将軍が言った。

 だがロムルースはまだ凍り付いたままだ。

 その代わりに王女が将軍に言った。

「あれは放っておけばどうなるの。そのうち止まるんじゃない?」

「それは……しかし奴は何百年も前からハビタルで罪人を踏んづけていたのですから、そう簡単には止まらないのでは?」

 王女は唇を噛んだ。言われてみればその通りだ。

「でも逃げたって追いかけて来るんじゃないの?」

「そう言われましても……ここにいても全滅です」

「でもベラとかフォレスに来ちゃったら……」

 そう言われてもモルスコに返せる言葉はなかった。

 確かにあの機甲馬がハビタルやガルサ・ブランカで暴れ回ったら―――そんな想像などしたくない!

 また鬱陶しい沈黙が場を覆う。

 その沈黙を破ったのはナーザだった。

「仕方ありません。ここはやはり撤退した方がいいと思います」

「でも追ってきたら?」

 王女が尋ねた。

「それは軍の殿(しんがり)が食い止めておいて、ともかくパニックにならないように後方から順次撤退するのです」

「それからどうするの?」

「後のことはそれから考えましょう。でも今は一人でも多く逃がすのが先でしょう?」

 今の状況ではそれよりよい考えは出てきそうもなかった。

 そこでエルミーラ王女はまだ凍り付いているロムルースを再び張り飛ばした。

「うわっ!」

「ちょっと! いったいいつまでそうしてる気よ!」

「し、しかし……」

 頬をさすりながらまだロムルースはしどろもどろだ。

「とにかく撤退の命令を出すしかないでしょ! それとも他に何か考えがあるの?」

 そう言って一同を見回すが、誰も答えようとしない。

 彼女が再び睨みつけると、ロムルースはやっと我に返ったかのように将軍達を見た。

「と、とにかく撤退する!」

 だがそのとき前方からなにやら驚きの叫びがわき上がったのだ。王女達もそれにつられて振り返る。

 それを見れば彼女たちも驚きの声を上げざるを得なかった……

「なんだ? あれは!」

「何であんな格好で?」

「あいつ何をする気だ?」

 人々が口々に叫んでいる。

 それを貫くように悲鳴のような叫びが響きわたる。

「フィン‼」

 その姿をアウラが見間違えるはずがなかった。あれはどう見てもフィンだ!

 王女やナーザが止める間もなくアウラは駆けだしていった。

 その先ではフィンが機甲馬にたった一人で近づいていこうとしているのだ。

 だがアウラの頭には、どうしてそんな危険なことを? とか、いったいどうして彼がここに? といった疑問は全然浮かばなかった。

 彼女にとって一番重要だったのは、そこにフィンがいたということだ。

 そして二番目に重要なのは―――どうして彼は素っ裸なのか? ということだった。



 フィンは呆然としてその光景を見つめていた。

《なんて奴だ!》

 暴れ回っている機甲馬に対して、彼らの持っている武器は何一つ効きそうもない。

 剣や弓などは論外だ。頼みの魔法も効かない。

 その上動きは素早く、近寄ろうにも妙な閃光に狙い撃たれてしまう。

「どうすりゃいいんだ?」

 このままでは帰ってもまともな報告などできないではないか? 打つ手はありませんと言うしかないが―――それではお話にならない!

 そのとき前方からネブロスが兵士を一人担いでやってくるのが見えた。

 フィンは慌てて飛び出すと、ネブロスの元に走った。

「来るな! 危険だ」

 だがフィンはそれには耳を貸さずに一緒に兵士を抱えると、彼が隠れて観察していた岩陰に連れ込んだ。ネブロスは軽くうなずくと大きく息を吐いた。

 フィンは尋ねた。

「彼は?」

「気絶しているだけだ」

「あの光を浴びてですか?」

「ああ」

 フィンは倒れている兵士を調べた。

 外傷はどこにもない。息はしている。単に気を失っているだけのようだ。この感じは前に見たことがあるような気がする―――そう。確か都で魔導師になる訓練を受けていたときだ。

「これって、雷撃の魔法を受けたのに似てませんか」

「なに? だがあれだと火傷ができるだろう?」

「でもほら、直撃を受けずに周りで余波を食らったら、こんな感じになりますよね?」

「うむ……確かにな……」

 機甲馬の閃光は雷撃に似ているが、強度はかなり弱いのかもしれない。だからとりあえず人を即死させることはないようだが―――これは良いことのなのか?

 戦場において死んだ兵士と気絶した兵士では、後方に連れ帰らなければならない分、気絶している方が厄介とも言える。

「とにかくここは退くしかないでしょう。これ以上損害を出しても……」

「そうだな……」

 ネブロスは悔しそうにつぶやいた。

 それから彼は立ち上がると全軍撤退の指示を出した。

 だがこの状況では整然とした撤退など不可能だ。兵士達はてんでんばらばらに逃げ出す。それをベラの兵士達が追撃する。

 こうまで混乱していてはいかにネブロスの配下といえどもまともな行動は期待できない。

 フィンは唇を噛んだ。

「ル・ウーダ殿も早く!」

 ネブロスが手招きする。だがフィンは手を振って答えた。

「いえ! もう少し様子を見ます!」

「なに?」

「このままでは戻っても同じことになります。何か、何か一つでも……」

 ネブロスはそれ以上は何も言わなかった。黙ってその場を去ると、あちこちで指示を出し始める。まだ彼にもしなければならないことがたくさんあるのだ。

 そのとき近くにいた別な兵士が声を上げた。

「ああ? なんだ? どうした?」

 フィンが尋ねると兵士はベラの本陣を指さした。彼にもちらっと見えたが―――どうもそこから何かが飛び出したようだ。遠いからよく分からないが……

「いったいなんだろう?」

 フィンはよく目をこらしてみたが、それ以上は分からない。

 ともかくそれよりも問題は機甲馬だ。

 フィンは再び機甲馬を観察し始めた。相変わらず機甲馬は暴れ回っている。次々に兵士達を追いかけてはあの閃光を浴びせかけている。

 フィンは歯を食いしばった。

《どうすればいい? どうすればいい?……って、あれ?》

 フィンはどうもベラ軍の損害まで大きくなっていることに気がついた。あちらこちらにベラの制服を着た兵士が倒れているのが見えるのだが―――フォレス軍が反攻を始めたのか?

 だがどう見ても味方は壊走している。

 ではあの兵士達はどうしてやられたのだ? いや、どうもベラの兵士達の挙動が変だが……

 フィンがそう思った次の瞬間、また機甲馬が閃光を発した。

「あはぁ?」

 フィンは少々間抜けな声を上げた。

 なぜなら今までは正確にフォレス兵だけが餌食になっていたのに、今度は近くにいたベラの兵士がばたばたと巻き添えになっているのだから……

「ネブロス連隊長! ちょっと!」

 フィンは大声で叫んだ。

「どうしたんだ?」

 ネブロスが遠くから答える。

「機甲馬がベラ軍も襲ってます!」

「何だと?」

 驚いたネブロスがフィンの側に走ってきた。

 彼がフィンの横から顔を出すと、また機甲馬が閃光を発した。その瞬間ベラの制服を着た兵士がばたばた倒れる。今やフォレス軍とベラ軍が共に機甲馬から逃げまどっているのだ。

「どういうことだ?」

「わかりません」

 ともかく分かったことは今、機甲馬が敵味方無差別に攻撃を仕掛けているということだった。

 だとしたら一方的に襲われていたときよりはましな状況になったといえるのか?

 フィンは一瞬そう信じかけて、慌てて首を振る。

《いや、違う! これはまずい! 全然まずい!》

 考えてみればベラ軍が自分からそのような真似をするはずがないではないか。そんなことをするメリットなど一切ない。何かの操作ミスであんな事態に陥ったのなら、ともかくベラ軍は機甲馬を停止させるはずだ。だがいっこうにその気配もない。

 ということはすなわち―――どういうわけか知らないが、ベラ軍はあの機甲馬を制御できなくなっているということなのだ‼

「ちょっと待てよ!」

 フィンは思わずつぶやいた。

 前の状況ならばともかくこちらが降伏しさえすればベラは機甲馬を止めるだろう。だが今はそれすらもできないということなのでは⁈

 フィンはネブロスの顔を窺った。ネブロスも同じようなことを考えているに違いない。顔が前よりもひきつっている。

 機甲馬の動きは前よりももっと無秩序になった。とにかく人のいるところに向かっては、あの閃光を浴びせまくっている。人々はちりぢりに逃げまどっているので結局機甲馬もどこに向かうか分からない。

 もしこのまま撤退したら―――機甲馬は後を追って来るに違いない。

 そんなことになったら―――全滅だ!

 もっと悪い可能性は、機甲馬がフォレスに入ってしまうことだ。そんなことになったらフォレスは無人の野になってしまう! 運が良ければ機甲馬はベラ軍を追っていくかもしれないが―――それだって喜ぶべき状況とは言えない。

《いったいどうすれば……》

 フィンはうつろな目で暴れ回る機甲馬を見つめる―――するとふっと気になることがあった。

 彼は目を皿のようにして、機甲馬の動きを見つめ始める。

 ベラの兵士とフォレスの兵士が一緒になって逃げ回っているが―――それを追うように機甲馬が動く。次いでぱっと閃光が走ると、何人かの兵士がもんどり打って倒れる。

 少なくともその閃光は一度に一人しか倒せないようだが―――同時に何本か出せるとはいえ、一回に数名ずつしか倒せない。それはまあいいが……


 それでは機甲馬は狙う相手をどうやって決めているのだろう?


 たくさんの兵士が倒されていく中で、中には逃げおおせている者もいるのだ。彼らはどうして助かったのだろう? 単なる幸運なのか? ならばどうしようもないが……

 だが彼はそのとき、倒された兵士と逃げおおせた兵士には、明らかに違うところがあることに気がついた。

《本当か? 間違いじゃないよな?》

 再び目を皿のようにして機甲馬と逃げ回る兵士達を観察する。

 機甲馬が閃光を発する。何人かがまた倒れる―――だが、同じようなところにいた兵士の一人は閃光を食らうことなく、両腕で頭を抱えながら無事に近くの岩陰に逃げ込んだのだ。

《武器を持ってなければいいのか?》

 フィンが観察している限りでは、手に武器を持っている者は機甲馬に倒され、武器を捨てている者は逃げ延びている。

 ならば武器を持たずに行けば機甲馬にやられずに済むのではないか?

 そうやってともかく近づければ何か弱点が分かるかもしれない……

 ―――これは賭けてみるに値することだった。ともかくやられずに済むのであれば、まだ方策は考えられる!

 だがそのときフィンはまた別な可能性に思い当たる。

《でもまさかあいつ……服の下に何か隠してるなんて勘ぐらないよな?》

 フィンは躊躇した。

 もしフィンが手ぶらだと信じてくれなかったらどうしよう? 間違えて撃たれてしまったら元も子もない。どうすれば……

 その瞬間、彼は絶対確実な方法を思いついた。

 確かにそれなら絶対に武器を持っているとは思われないはずだが―――いくら何でもこれだけ人が見ている前でそんなこと―――などと恥ずかしがっている場合ではない‼

「ネブロス連隊長! 俺は正気ですからね!」

 唐突なその言葉にネブロスが訝しそうな顔でフィンの顔を見る。

 だがその後のフィンの行動を見て彼はまさに仰天した。

「何をなさる?」

 いきなり服を脱ぎだしたフィンを見て、あたりの兵士達も慌てた。

「失敗したら笑って下さい! それから逃げるんです!」

「ル・ウーダ殿?」

 フィンは最後の一枚も脱ごうかどうしようかと少し悩んだが、すぐに決意して素っ裸になった。冷たい風が吹き付ける。

《さ、寒い!》

 だがそんなことを言っている暇はない。

 フィンはそのまま、呆気にとられたネブロスや兵士達を後目に、機甲馬に向かって駆けだした。

《俺の考えが正しければ……》

 フィンの心臓は恐怖ではじけそうだった。こんな状態で魔法が使えるか?

 だがやってみるしかない!

 そのときフィンはアウラの声を聞いたような気がした。

「アウラ?」

 フィンはあたりを見回すが、もちろん彼女の姿があるはずがない。気のせいに決まっている。

《だいたいこんな格好見せられるものか!》

 フィンは吹き出した。おかげで少し落ち着けたようだ。

 彼はそのまま機甲馬に向かって走る。

 逃げてくる兵士達がフィンの姿を見て目を丸くしたが、冷やかしている余裕などない。その後から機甲馬が迫ってくるのだ!

 そこでフィンは立ち止まった。

 兵士達がフィンの脇を駆け抜けていくと―――同時に機甲馬の背中の円錐形の部分が光った。

 思わずフィンは目を閉じた。

《!》

 それでも閃光は感じた。

 同時に耳をつんざくような音がする。

 フィンは軽いショックを受けた。だが―――フィンは恐る恐る目を開く。するとフィンの側に、逃げていこうとしていた兵士達が倒れているのが見える。

 だがそれが見えるということは―――大丈夫だ。自分は生きている!

 目の前にはもう機甲馬が迫っている。フィンは手を前にかざした。

「行けえ!」

 ずどん! という鈍い音が響いた。機甲馬が少しはじかれたように後ろに下がる。

《やったか?》

 一瞬フィンはそう思ったが、すぐに全然そうでないことが分かった。機甲馬は何事もなかったかのようにまた動き出す。

「くそ! 俺のじゃだめだ!」

 今のはフィンにできる最強のパワーで撃ったはずだ。相手が人間だったら内蔵が破裂しているに違いない。だがこの化け物には全く効果がないようだった。

 フィンは自分の才能のなさを呪った。

 一級魔導師だったらこの魔法で小山を吹き飛ばせる者がいるそうだ。少なくとも城門を吹き飛ばせるぐらいの者なら白銀の都でも見たことがある。もしそういう魔導師がいればこれは相当有効な方法のはずなのだが―――少なくともセロに投入されている魔導師にはそのタイプの者はいなかった。

《これで終わりなのか?》

 フィンは天を仰いだ。

 とりあえず機甲馬に狙われない方法は分かったが―――だからどうする? あの機甲馬を何とかできなければ意味はない。もはや為すすべはないのか?

 そのときだ。

「フィン!」

 空耳か? だがあまりにもはっきりと聞こえた気がするが……

 慌てて声がした方を振り向くといた―――彼は目を見開いて硬直した。なぜなら遠くからアウラが駆けてくる姿が見えるのだから……

「ええっ?」

 いったいどうして彼女が?―――などと考えている暇はない。

 フィンは慌てて叫んだ。

「馬鹿! 近寄るな!」

 しかし彼女にはそんな言葉は聞こえていないようだ。

 機甲馬の背中の円錐がまた輝く。

「危ない!」

 フィンは絶叫した。アウラはそれを聞いてか反射的に地面に伏せた。

 途端に閃光が発されたがそれは少し離れた所にいた別の兵士に当たった。兵士がもんどり打って地面に倒れる。アウラはそれを見て驚いたように地面に座り込んだ。

「アウラ!」

 フィンは慌ててアウラの方に駆け寄った。

 アウラは駆け寄ってくるフィンを見てぱっと立ち上がる。

「フィン!」

「な、何でこんな所に出て来るんだ!」

「フィンがいたからでしょ!」

 フィンは言い返す言葉に詰まった。

 アウラはそういうフィンを上から下まで眺め回すと言った。

「で、どうして裸なのよ?」

 かっと顔が熱くなる。

「バ、バカ! こ、こうしてないと狙われるからだよ!」

「え?」

「とにかくお前は逃げろ!」

「いやよ!」

 あ、あのなあ!

「ここにいたらあいつにやられるって!」

「いや!」

「だったら脱げ!」

 フィンは思わずそう口走った。聞いたアウラが真っ赤になる。

 だが次の瞬間、彼女が服を脱ぎ始めたのだ!

《お、おい!》

 フィンはしどろもどろに言った。

「ば、馬鹿! 逃げろって言っただろ!」

「脱げって言ったのあんたでしょ!」

 そのときにはアウラももう素っ裸だ。フィンは開いた口がふさがらなかった。

 だがこんな所で言い争いをしている場合ではなかった。

 ゴトゴトゴトッという鈍い音とともに、機甲馬が二人の側を通り抜けていったのだ。

 フィンはあわてて尻餅をついた。しかし機甲馬は二人などいないかのように別な兵士を襲い出したのだ。

 呆然と二人はその姿を見送るが―――アウラが驚いたようにつぶやいた。

「ああ! 本当に裸だと狙われないのね!」

 フィンは絶句した。なんて呑気な奴なんだ⁉

 思わずフィンはそんなアウラをまじまじと見つめてしまったが―――そこにはアウラの裸身が―――まるであのときのようだ。あの滝壺でアウラのそんな姿を見てしまったときのことを……

 あのときもこうして尻餅をついてアウラの裸身を見上げていたが―――あれから何度もそんな姿は見ているので少しは慣れているが―――やっぱり綺麗だ―――じゃなくって‼

 その瞬間だ。

「滝?」

 あの旅では二人で何度も滝を飛び降りた。

 そういえばセロの渡しのすぐ下にはかなり高い滝があったが……

《これは使えるか?》

 なんだかすごく行けそうな気がするが―――そしてフィンはがばっと立ち上がった。

「どこいくの?」

 アウラが不思議そうに問いかけるが、フィンはそれを無視して駆けだした。

「どこ行くのよ‼」

「来るな! 危ない」

 だがアウラは帰ろうとしない。フィンも諦めた。それにこれからしようとすることは一人ではきついかもしれないし……

「じゃあ、俺の側を離れるなよ?」

「うん!」

 アウラは笑みを浮かべると、後ろにぴたりとついて走り出した。

 そのままフィンは機甲馬に向かった。機甲馬はまた立ち止まって兵士に閃光を浴びせているところだ。

 その隙に彼は機甲馬の真下に潜り込んだのだ。アウラもその後に続く。

 機甲馬を間近で見ると、鉄でできているのではないことがすぐ分かった。フィンが今まで見たこともない材質だ。真っ黒ですべすべしていて、触ってみるとそんなに冷たくないが、ひどく堅い。

《何でできてるんだ? これ?》

 銀の塔の中に確かこんな物があったような気もするが―――今はそんなことを考えている場合ではない。

 フィンは精神を集中して、それから思い切り機甲馬を持ち上げようとした。

 だが機甲馬はびくともしない。

《え?》

 フィンは焦った。あの魔法をかけたらフィンは体が軽くなって家の屋根ぐらいまでならジャンプできるようになる。だから同じく機甲馬も軽くなって簡単に動かせるようになると思っていたのに―――だが次の瞬間、機甲馬が歩こうとするとなぜか勝手によろめいてバランスを崩したのだ。

 それを見てフィンはともかく魔法が効いていないわけではないと悟った。

「これ持ち上げるの?」

 フィンの仕草を見ていたアウラが言った。

「そうだが……手伝ってくれ」

 フィンとアウラは今度は二人で機甲馬を持ち上げようとした。少し機甲馬が動いたような気がするが、それだけだ。

 だが機甲馬の方も動こうとするとやはり同じように変によろめいて地上をはね回る。

 おかげで機甲馬も何だか調子を崩したようだ。

 フィンが持ち上げようとしてからは機甲馬は敵への攻撃をしなくなったのだ。だがいつまでそれが続くかは全く不明だが……

 そのときだった。

 遠くからばらばらと裸の男達が走ってきたのである。


「手伝うぞ!」

 その声は―――ネブロスだった! その横にはガルガラスの姿も見える。

 機甲馬が彼らをどう考えたのかは定かでないが、少なくとも男達は全く相手にされなかった。そのため彼らは大した危険もなく機甲馬の下に潜り込めた。

 機甲馬の下は裸の男達で一杯になる。その中ではアウラが紅一点だ。

「きゃ!」

 男達に囲まれてアウラが悲鳴を上げてフィンの背中にぴたりと身を寄せてくる。

《うへぇ》

 こんなときでなければとても嬉しい状況なのだが……

 男達もそんなアウラが全然気にならないわけではないようだが、今はそれどころではない。

「持ち上げるんだな?」

 ネブロスが言った。

「はい。そして滝まで持っていきます」

「わかった!」

 フィンは再び精神を集中する。

「もう一度! それ!」

 フィンとアウラに加えてやってきた男達が全員で力を込めると―――機甲馬がふわっと浮かび上がった! それから一メートルほど上まで上がると、今度はゆっくりと落ちてくる。

 一同は何とかそれを受け止めた。

「このまま滝まで!」

「おう!」

 彼らはゆっくりと歩き出した。

 機甲馬は一体何が起こったのか理解できないようだった。足をばたばたさせるがそれはむなしく空を切るだけだ。

 しかしそれは一筋縄ではいかない作業だった。普通の重い物を運ぶのとは違って何だかひどく勝手が違うのだ。重いと思って力を込めすぎると機甲馬はその方向に飛んで行ってしまう。

 だがやっているうちに段々とこつがつかめてきた。そして一度動き出してしまえば、後はちょっと力を加えるだけでその方向にすっと動いていく。それが分かればあとは楽だった。取りあえず方向さえ定まってしまえばもうほとんど力も不要である。

 人々が息を呑んでその光景を見つめる中、ついに機甲馬を持ち上げた裸の一行は滝の手前までやって来た。

「行くぞ! それ!」

 ネブロスのかけ声と共に全員が思いっきり機甲馬を斜め上に押し出す。

 機甲馬はゆっくりと浮かび上がってふわふわと滝の方に飛んでいく。機甲馬の三分の二以上が滝の上に出た時点で、フィンが叫んだ。

「下から出て下さい!」

 男達がさっと機甲馬の下から抜け出す。

 最後にフィンとアウラも転がるようにして脱出する。

 その途端にフィンの魔法が切れて、機甲馬はそのまま大きな音を立てて滝の下に落下していった。

 機甲馬が岩にぶつかるがしゃんがしゃんという音が途絶えてからしばらくして、やっとフィン達は下をのぞき込む勇気が出てきた。

 フィンはまだ心配だった―――あんな化け物みたいな奴だ。この程度で大丈夫なのだろうか?

 しかしそれは杞憂だった。

 彼らが恐る恐る滝の下を見下ろすと―――そこには逆さまになってぴくりともしない機甲馬があった。足の二本はちぎれている。胴体には大きなひび割れが入っているようだ。

 しばらくは誰も無言だった。

 誰もが今見たことを信じられないのだ。

 その沈黙を破ったのはアウラだった。

「フィン!」

 アウラがそう叫んでフィンに抱きつく。

 それをきっかけに、男達はみんなわけの分からない叫びをあげながら、互いの体をたたき始めた。

 フィンとアウラもそんな調子で背中を叩かれまくったので、最後には背中が真っ赤になってしまった。

 その痛みにやっとフィンはこれが夢でないことを悟った。

「アウラ!」

 フィンは思いっきりアウラを抱きしめてキスをした。アウラも目を閉じてフィンを抱きしめる。

 そのまま彼らだけの世界に突入しそうになるが―――ふと目を開けると、回りの男達がじろじろ見ている。

「あっ!」

 二人は真っ赤になって、慌てて離れる。

 一瞬の間をおいて男達が大爆笑する。

「いいよな! あんたは!」

 ガルガラスがそういってフィンをつつく。

「い、いや、その……」

 フィンは慌ててごまかそうとしたが、今度はベラの陣の方からぞろぞろと人がやってくるのに気がついた。ベラの兵士のようだが、その先頭にはロムルースが誰かを背負って歩いている。背負われているのは―――エルミーラ王女だ‼ その脇にはナーザの姿も見える!

 そのときになって初めてフィンは、アウラもまた立派に使命を果たして帰ってきていたことに気づいたのだ。

「アウラ!」

 王女が叫んだ。

「ミーラ!」

 アウラが手を振る―――だが兵士達は顔を見合わせた。

「エルミーラ様?」

 ネブロスが慌てたように手を振る。

 もちろん本来ならばこれはとてつもなく喜ばしいことのはずだった。なにしろこの戦いはエルミーラ王女が消えたことが発端なのだ。その彼女がこうして戻ってきているのだから、喜ぶのが当然だ。

 だがちょっと今の状況は、その何というか―――男達は互いに顔を見合わせた。

 そのときには一行はもうすぐ側までやってきていた。

 いったい彼らはどうすればいいのだ?

 本当ならば立って礼をしなければならないのだが―――この格好ではちょっとその……

 そうこうしているうちにエルミーラ王女はロムルースの背から降りると男達の方に歩き出した。

 何だかひどく足下がふらついている。

「ミーラ!」

 それを見てアウラが慌てて立ち上がろうとしたが、彼女も自分の格好に気づいて再びしゃがみ込む。フィンは慌ててアウラに着せる物を探したがもちろんそんな物はあるはずがない。とりあえず覆い被さるようにして彼女を抱くことしかできない。

「あ、エルミーラ様、あの……」

 ネブロスが前を押さえながら来ないでくれという仕草をする。

 だが王女はそんなことは全く意に介さなかった。

 彼女はそのままずんずんと男達の中に入ってくると……

「みんな……」

 そう言った王女の目には涙が浮かんでいた。

「ありがとう!」

 そして彼女はまず、おろおろしているネブロスの頭を抱きしめ、それから頬にキスをした。

 いつもは冷静沈着でならしているネブロスが体中真っ赤になる。

 だが他の兵士もそれを冷やかしている余裕はなかった。王女は他の兵士達に対しても同じように礼をしていった。

 そのたびに兵士達がみな真っ赤になって凍り付いていく。

 彼らにとっては機甲馬の閃光などより遥かに強烈な攻撃だったようだ……

 王女は最後にフィンとアウラの前にやってきた。王女は涙を浮かべながら二人の頭を同時に抱く。二人はさっきからのどさくさでまだ抱き合ったままだ。それから王女は涙を拭くと微笑みかけた。

「あなた方には……キスはいいわよね?」

「え? は、はい……」

 二人は赤くなってうつむくことしかできなかった。