消えた王女 第13章 戦いの後

第13章 戦いの後


 その夜、セロの河原に建てられた大きな天幕では今回の戦いの後始末に関する会合が開かれていた。

 集まっていたのはフォレス側はエルミーラ王女とナーザ、ネブロス、フィンにアウラ、さらには下士官が何人か。ベラ側からはロムルースとグリア、モルスコ両将軍が参加していた。

 会合はつい先ほどまでは敵同士として戦っていたとは思えないほど和やかな雰囲気だった。

 確かにこの戦いで両国に少なからぬ遺恨が生まれたのは間違いない。特にベラ魔道軍の被った被害は甚大だったと言っていい。

 だがベラ側が矛先をフォレスに向けるわけにはいかなかった―――なにしろ王女やナーザ達の尽力のおかげで、プリムスやその背後のアドルト一派によってベラが蹂躙されることを未然に防ぐことができたのだから……

 もし彼女たちが間に合わなかったら?―――ここがもっと凄惨な状況になっていたのは間違いない。

「……そういうわけで今回、互いに不幸な経緯によってこのような悲劇が生まれましたが、それで起こった様々な不都合は双方不問にするということでよろしいでしょうか?」

 エルミーラ王女の言葉にロムルースとベラの将軍達は一も二もなくうなずいた。

 その姿を見て、フィンはやっと重荷を下ろした気分になった。

 何しろ今回の戦いではベラの一級魔導師を自身の手で何人も葬ってしまったのだ。そのことだけでもベラが立腹する十分な理由になる。

 だが元をただせば今回の騒ぎは、ベラの自業自得と言う以外にない。

 ベラの首長ロムルースがエルミーラ王女拉致の嫌疑をフィンにかけて、その身柄を要求してきたところから争いは始まったのだ。そのこと自身が内政干渉としか言いようがないのだが、更にその王女が実は部下の屋敷に幽閉されていたというのだから―――フォレスからベラにどれだけ高額の賠償を要求したとしても、そちらの方が筋が通る話だ。

 だが王女は今回のことは互いに無かったということでこの場を納めるつもりのようだった。

 ベラとは旧知の間柄だし、ここは一つ貸しにしておいた方がいいと判断したのだろう。

《ちょっと前まではまだ王女様って感じだったのに……何だか変わったか?》

 フィンはこっそりと王女の横顔を見つめた。

 拉致から戻ってきたばかりでまだ疲れの色は濃いが、何だか前以上に風格が備わってきているようにも見える。

 そんなことを考えているとモルスコ将軍がネブロスを見て言った。

「それにしても今回は見事にしてやられましたな」

 ネブロスはちょっと緊張気味に答える。

「いえ、まあそれ程でも……」

「いや全く今回の貴公の作戦はお見事という他はない」

 それを聞いてエルミーラ王女も尋ねた。

「そういえばネブロス連隊長。本当にたった千五百でベラの大軍を食い止めたのですか? 来る途中その話は聞きましたが、未だに信じられなくて……」

 ネブロスはうなずいた。

「それは事実です。今回フォレスは北からのベラ、東からはエクシーレによる同時侵攻を受けました。これに対してフォレス軍を単に二分しているのでは、双方共に支えきれないと判断しました。そこでエクシーレ軍に九割を、残り一割でベラを食い止めるという作戦を採ったのです」

「まあ、でも良くそれであんな大軍が食い止められるって思いましたわね?」

 それを聞いたモルスコが苦笑しながら言った。

「それは我々も同様でした。でも結果としてはあのようになってしまった以上、弁解の余地はございませぬ。ネブロス殿の機略にただ脱帽するのみでございます」

 しかしネブロスは首を振る。

「確かに今回の作戦を実行したのは我が連隊です。ですが計画を立案したのは私ではありません」

 そしてフィンを見る。

「そこにいらっしゃるル・ウーダ殿です」

 一同が驚いたようにフィンの方に向きなおった。いきなり話を振られるとは思っていなかったのでフィンは半分飛び上がりそうになる。

「え? それじゃル・ウーダ様は、アウラを迎えに来ていたんじゃなかったの?」

 王女が驚いたように言う。フィンは慌てて答えた。

「まさか、さすがにそのためだけにこんな前線に来ることはないですよ」

「そうですか。ル・ウーダ殿がどうしてここにいるのか私も不思議に思っていたのですが……まさかそういうことだったとは……」

「にしても、どうやってやったの?」

 王女が尋ねる。

 そこでフィンは今回の作戦のあらましを再度話して聞かせる羽目になった。

 話し終わるとモルスコ将軍が大きくため息をつく。

「全く面目ない……言われてみればもう負けるべくして負けていたわけですな……」

 将軍がうなだれてしまったのでフィンは言葉に詰まる。いったいどう取り繕えば?―――そう思ったときだ。助け船を出してくれたのはナーザだった。

「でもモルスコ様、確かに今回は高い代償を払うことにはなりましたが、それで現在の軍の問題点も明らかになりました。これは次の戦いの時には必ずや有利に働くと思います。そのときになって初めて問題が露呈するよりはよっぽどましなのではありませんか?」

 モルスコははっと顔を上げる。

「次の戦い……確かに。奴がこのまま引き下がるとは思えませんな」

 それを聞いてグリア将軍も言う。

「プリムスは一体どこに行ったのでしょう?」

 そう問われても答えられる者は誰もいない。一同はただ互いの顔を見合わせるだけだ。

 そこにネブロスが尋ねた。

「ちょっとお訊きしますが、プリムスとはそもそもどういう奴だったのです? どうしてそんなに短期間にベラの高官にまで成り上がったのです?」

 それに対してモルスコ将軍が答えた。

「うむ。元々は外国人の商人としてベラにやってきたのだが、すぐにグレンデル様に目をかけられるようになったのだ。なぜかグレンデル様の趣味や好みをよく知っていて、しかもあの如才なさだ。それに人当たりも良かったのでな。今から考えればフィーバスに色々と教えられていたのだな」

「それで奴の目的は何だったのです?」

「奴の口から出たのは、当初はフォレスとベラの関係を悪化させることだったらしい。ここまでこじれたのは意外だったと……」

 そこまで言いかけて将軍は咳払いして言葉を切った。ロムルースが睨んでいる。

 それを聞いたフィンは納得がいった。

 なぜならこの地域でそれは非常に大きな意味を持っているからだ。

 エクシーレが長年動けなかったのは、ベラとフォレスの関係がずっと親密だったせいだ。だがこれを壊してしまえば、この地域は間違いなく戦乱の坩堝へと変貌するだろう。

 どうやらプリムス的にはそんなきっかけさえできれば十分だったようだ。だからロムルースがかように先走って本当に戦争になってしまったのは、奴としても誤算だったらしい。

《あのフレーノ卿の件も、まさにそうだったのかもな……》

 長が根も葉もない嫌疑で臣下に疑いをかけたというだけでも、人々の忠誠心にはひびが入るだろう。それがあのときは処刑命令まで出してしまったのだから……

《というかあいつ……絶妙にロムルースを煽ってたってことだよな?》

 今から考えてみれば誠実なふりをして、ロムルースが好みそうな“間違った道”を示していたのだ。とは言ってもそれにうかうか乗ってしまったというのは、ロムルースの責任以外の何物でもないが……

《でも、最後のは本当に誤算だっただろうな……》

 彼の計画はほとんど成功しかかっていた。

 ところがアウラ達が王女を連れ帰ってきてくれたおかげで、フォレスとベラが結局また元の鞘に収まってしまったのだから―――まさにこの危機を救ったのは彼女たちなのだ!

 そう思ってフィンは横に座っているアウラの顔を見る。

 だが彼女は浮かない表情だった。

 無理もない……

 聞けばあのプリムスが、彼女の育ての親ガルブレスを殺した張本人だったというのに、それを仕留め損なってしまったのだから……

 フィンはアウラを肘でつついた。アウラが振り向くとフィンは小声で言った。

「今回のプリムスのことは気にするなよ。お前、王女様を見つけてきただけで勲章物だから」

 アウラはちょっと笑ってうなずいた。

「うん」

「それにあいつがベラでやってたことは結局大失敗で、あんな風にこそこそ逃げ出してるんだ。地団駄踏んでるのはあいつの方さ」

 アウラがまた小さくうなずいた。

 二人がそんなことを話している間に、ネブロスがモルスコ将軍に尋ねていた。

「それにしてもプリムスは機甲馬の動かし方などをどこで知ったのでしょうか? ベラにはそういったやり方は伝わっていなかったのですよね?」

「ああ。全く。あの操縦装置では足の上下しかできないはずだったのだ」

「アドルトのフィーバスという男はそういったことを知らないのですか?」

「そもそもベラの国長の家系に伝わっていなかったのだ。だから奴が知っていたとは思えない。知ったとすれば追放後の話であろう」

「だとするとフィーバスの背後にさらにそういう知識をもった黒幕がいるということでしょうか?」

 ネブロスの言葉に一同は顔を見合わせた。

 それからグリア将軍が言った。

「黒幕というのはどうでしょうか? 単なる協力者かも」

「まあそうかもしれませんが……」

 そこにナーザが口を挟む。

「機甲馬の操作に関してはアイザック様にお尋ねしてみたらいかがでしょう? 確かお若い頃各地の遺跡のことをお調べになっていたとか」

「おお、そういえばそうだった」

 それを聞いたエルミーラ王女が尋ねる。

「お父様がそんなことを?」

「ええ。前に一度ちらっとお訊きしたことがあります」

 ナーザが答えるとグリア将軍が言った。

「もしそのあたりの資料がありましたら、ぜひお教え下さい。しかしそれにしても今回はル・ウーダ殿が機転を利かしてくれなければ、大変なことになっていた所でしたな」

 またいきなり話を振られてフィンは慌てて振り向いた。

「いえ、まあ……」

「それにしてもどうして裸だったら襲われないって分かったの?」

 王女の問いにフィンは誇らしげに答えた。

「え? いえ、実は僕はあそこでずっと機甲馬のことを観察してたんです」

 そして彼はそこで見たことを逐次話した。

 機甲馬は一度に多くて数名ずつしか敵を倒せないこと、それを見て倒す敵をどのように選んでいるかを観察してみたこと、その結果武器を持っている者を優先して攻撃しているらしいこと……

「……というわけなんで、武器を持ってなければ襲われないんじゃないかと思ったんです」

「でもどうして服まで脱ぐ必要が?」

「いえ、それなんですが、ほら機甲馬ってそういう判断ができるだけ頭がいいみたいだから、もし服の下に何か隠し持ってるって思われたら嫌だったんです」

 王女はうなずいた。

「ああ、そうよね。確かに裸なら絶対丸腰よね」

 一同が笑った―――だがそのときネブロスが言った。

「水を差すようでなんだがル・ウーダ殿。もしあなたの考えが正しければ、結局みんな無差別に攻撃されていたような気がするのだが」

「え?」

 驚いてフィンはネブロスの顔を見る。ネブロスは続けた。

「もし機甲馬が服の下に武器を隠し持っていると勘ぐって攻撃を行っていたならば、それはすなわち武器を手にしていなかった者も同様に攻撃されていたということになる。すなわち武器を持っているかどうかに関わらず、みんな無差別に攻撃されていたはずなのだ。だからル・ウーダ殿はそもそも武器が無ければ安全だということに気づけなかったと思うのだ」

「え? え?」

「でも機甲馬は武器を持っている者を優先していた。これは機甲馬が服の下に武器があるかどうかは気にしていなかったということを意味していると思うのだが……」

 フィンは頭を抱えて考え込んだ。

 ネブロスの言ったことは―――確かに、言われてみれば全くその通りのような気が―――それじゃ……

 そしてネブロスが恐ろしい結論を述べた。

「そういうわけなので、あそこで服は脱がなくても良かったように思うのだ」

 フィンはあんぐりと口を開けて四方を見回した。

 それから再度ネブロスを見ると―――彼はほっぺたをひくひくさせながら付け加える。

「だが……それだけの価値があったのは間違いないが……」

 ネブロスはアウラの顔をちらりと見る。

 途端にアウラが真っ赤になってフィンの胸ぐらを掴んだ。

「い、今の本当?」

「え? いや」

「あんた、あたしに恥かかせるためにあんなことしたの?」

「バカ、そんなわけないだろう!」

「変態!」

 思いっきり突き飛ばされて、フィンはもんどり打って椅子から転げ落ちた。アウラがそれに更に追い打ちをかけようとしたところを、後ろからナーザに取り押さえられる。

「落ち着きなさいって! アウラ」

「だってこいつ‼」

 あたりが爆笑の渦に包まれた。

 アウラが驚いてあたりを見回すと―――みんなが二人を見て笑っている。

 更に顔が赤くなったアウラの肩に、ナーザがそっと手をかける。

「怒らないのよ。彼は悪くないわ」

 そのことはアウラも重々承知はしていたが―――アウラは渋々ナーザに連れられて席に戻る。

 だがまだ恥ずかしさで顔から火が出そうだ。

 その間に倒れたフィンにはネブロスが手を差し伸べていた。

 フィンはそれに掴まってやっと起きあがった。

「すまん。こんなことになるとは。だが事実は明らかにしておきたくてな」

 と言いながらも、ネブロスは笑いを堪えるのに必死な様子だ。

 フィンはがっくりして席に戻ると服に付いた汚れを落とした。それを見てナーザが言った。

「ル・ウーダ様。これは誇るべきことであって、恥じることはありませんわ。多分それがガルンバ将軍だったとしても同じことをしたと思いますわ」

 フィンは驚いてナーザの顔を見る。ガルンバ将軍だって?

「あの大混乱のさなか、ああいったことを発見できるだけでも大変なことだと思います。そしてあの時点で一番確実な方法を選択したからといって、決して誹られることはありませんわ。それが、まあちょっと必要以上だったとしても……」

 そう言いながら、ナーザもまた口を押さえてひくつきながら下を向いてしまった。

 それを聞いていたエルミーラ王女も……

「私もそう思いますわ。でも……」

 それ以上は言えずに盛大に吹き出すと、腹を抱えて笑い始める。

 ………………

 フィンは諦めの境地だった。

 多分この日のことは一生言われ続けることになるのだろう。

 本当ならこれは相当な英雄的行為のはずなのだが、多分誰もそうは思ってはくれないのだ。

 だからといってそれが不満なわけではなかった。彼がフォレスを救ったのだ。それは間違いない事実だ。そのことは誇っていいはずなのだが……

 そのときフィンの手がきゅっと握られる。アウラだ。

「ごめん……痛かった?」

「いや、まあな」

「ごめんね」

「いいって」

 フィンはアウラの手を握り返した……


 そうこうしてやっと一同の笑いの発作が収まったあとも、会合は続けられた。何しろこんな大事件だ。話し合わなければならないことは幾らでもある。そのため取りあえず決めておかなければならないことに片が付いたときには、もう夜も更けていた。

 会合は最後の議題として明日以降の予定の確認に入っていた。

 するとロムルースがエルミーラ王女に尋ねた。

「それでエルミーラ、君は明日発つんだね?」

 王女はロムルースに微笑んだ。

「ええ。朝食を取ったらすぐ。さすがにこの何週間かいろいろあったし」

「それじゃ送っていこう」

「送るって、どこまで?」

 王女は訝しそうにロムルースを見た。

「もちろんガルサ・ブランカまで。今回君をひどい目に合わせてしまった。そのお詫びも兼ねて」

 王女は首を振る。

「ご厚意は有り難いけれど、あなたにそんなことをさせるわけにはいかないわ」

「いや、だが今回は君にひどく迷惑をかけてしまった。だから……」

「あたしは大丈夫だから。大体今はそれどころじゃないでしょ?」

 だがロムルースは食い下がった。

「いや、君のことが心配なんだ。ガルサ・ブランカまで送ることのどこがいけないんだ?」

 それを聞いた王女はロムルースの顔を睨んだ。

「いけないわよ! あなたはベラの国長なんだから」

「でも……」

 まだ諦めないロムルースを見て王女がついにキレた。

「あたしのことなんてどうでもいいのよ。あなたはあなたのすることをしなきゃならないんでしょ? あっちにはベラの兵士がいっぱいいるわけでしょ? まず自分の国の兵隊の心配をしないでどうする気よ!」

 それに対してロムルースも語気を荒げて答える。

「どうして君がどうでもいいなんて言えるんだ?」

 王女はますます激昂した。

「あなたには長としての役割があるって言ってるのよ! 来るときが出鱈目なんだから、せめて帰るときぐらいしっかりしてなさいよ! あたしは子供じゃないんだから自分で帰れます!」

「エルミーラ、そういう問題じゃなくて……」

「じゃあどういう問題よ! 大体この騒ぎだってそっちが戦争なんか仕掛けてきたからでしょ? そうでもなきゃこんなとこまで馬を走らせることも無かったわ!」

 その剣幕にロムルースは黙り込んだ。

「ちょっと! 何とか言いなさいよ!」

 フィンはあたりを見回した。

《これって少しやばいんじゃないのか?》

 見るとナーザがしきりに王女に何か身振りをしているのだが、王女の目には全然入っていないようだ。

 そもそもどうして彼女はこんなにいきり立っているのだろう? ロムルースが送ってくれるというのがそんなに気に入らないのだろうか? そこまで怒ることもなさそうに思うのだが……

 しかしここに来て王女は完全にぶちキレていた。

 王女はロムルースににじり寄るとまくしたてた。

「いい? ルース! 大体いくら何でも今回のこれってないんじゃない? 確かにル・ウーダ様は都から来てるわよ? だからそういった勘ぐりをしようと思えばできるわよ? でもだからっていきなり攻め込む? ちょっとどうかしてない? どうしてまず証拠を探さなかったの? 動かぬ証拠もなしにどうしていきなり攻めて行っちゃうわけ?」

 ロムルースはうなだれたまま何も言い返せない。

「今回は本っ当に運が良かったわよ。あたしがぎりぎり間に合えて。それにル・ウーダ様がああやって機甲馬を止めてくれて。そうじゃなかったら一体どうなってたと思う? 今頃はベラ国内では機甲馬が大暴れしていて、ガルサ・ブランカはエクシーレに蹂躙されてるわよ。そんなことになったら全てがあのプリムスの思う壺じゃない!」

 そこまでまくしたてて王女はやっと一息ついた。

 それを見てロムルースが消え入りそうな声で言う。

「すまない、エルミーラ。だが本当に君のことを考えると居ても立っても……」

「だ・か・ら、それが違うのっ‼」

 王女はばんとテーブルを叩いた。

「ルース! だから言ったでしょ! あなたはベラの国長なのよ! 自分の立場分かってるの?」

「でもエルミーラ、僕は……」

「やめてよ!」

 王女は両手で顔を覆う。

「いくらあたしのこと思っててくれても……あなたがそれを口にしちゃだめなのよ! あたしがもう言えないのと同じように……」

 それを聞いてロムルースははっと顔を上げる。

 王女の目には涙が溢れている。ロムルースは言葉を失った。

 そうして王女はしばらくうつむいて小刻みに体を震わせていたが、それから顔を上げると涙を拭うと、ロムルースの目を真っ正面から見据えた。

「ねえルース。もし本当にあたしのことを思っててくれるのなら約束して」

「え?」

 ロムルースは曖昧にうなずいた。

「以後二度と私のことで国としての判断を曲げないって」

「あ? ああ」

 ロムルースはほとんど反射的にそう答えたが―――王女は彼を睨みつけた。

「なに? その返事。本気なの?」

「もちろんだ」

 また同じだ……

 王女ははあっと息を吐くと首を振る。

 フィンにもロムルースが単に勢いに呑まれてそう答えているということは分かっていた。

「全然だめよ! ルース。あなた国長なのよ。あなたが口にした言葉は、長の命として現実になっちゃうのよ。もっと考えて喋ってよ!」

 それに対してロムルースはまた何も答えられなかった。

 そのときにその場にいた者は、もう王女がどれほど真剣に言っているのか気づいていた。天下のベラ首長国の長に対してそんなことが言えるのはこの世で彼女だけなのだ。

 人々は息を呑んで王女とロムルースを見つめていた。

 だが当のロムルースはそういった緊張を今ひとつ理解していないようだ。不安げな顔であちらこちら目を泳がせている……

 それを見て―――いきなり王女の目に何か不思議な光が宿った。

「ねえ、ルース……結局あたし達もあのプリムスにやられ放題だったわけね?」

「え?」

 ロムルースはわけが分からず王女の顔を見つめる。

「あいつがいなければベラにはグレンデル様が健在で、あなたはフォレスに来てて、あたし達何も心配ない生活ができてたのよね。それがいつの間にかこんなことに……あなたはもうベラの国長だし、あたしもフォレスを継ぐことにしちゃったし……もう元に戻れそうもないのよね……」

 そう言った王女の顔は何かひどく寂しそうだった。

 しばらくそうして彼女はロムルースの顔を見ていたが、ふっと視線を落とすと尋ねた。

「あなた、あのときに戻りたいって思う?」

「え? そりゃ……」

 それを聞いた王女が不思議な笑みを浮かべる。

「そう……ならば方法が無いこともないわ」

「ええ?」

 ロムルースはまたぽかんと王女を見る。

 それは周囲の一同も同様だった。

《いったいどんな⁉》

 そんなうまい方法があるのか? とフィンが思った瞬間だ。王女が言ったのだ。

「あたしをさらって逃げればいいのよ」

 ………………

 …………

 ……

「え?」

 人々は慌てて王女の顔を見る。冗談だ。冗談のはず―――だが、王女の瞳にはとてもそうとは思えない怪しい輝きがあった。

 そして彼女は更に言い放った。

「もし本気でそうする気なら付きあうけど……どうする?」

 ロムルースは絶句した。

 だがもちろん慌てたのは彼だけではない。そこにいる者達は全員、特にフォレスの面々はこの王女がそういうことを言い出したら本気でやりかねないことをよく知っていた。

「ちょっと、エルミーラ様!」

 ナーザが慌てて口を挟む。

 だが王女はナーザの方に手を差し伸べて制止する。

「あたしは彼に聞いてるの‼」

 その言葉には有無を言わさぬ迫力があった。

 ナーザもそれ以上何も言えなかった。

 人々はロムルースを凝視する。

 ロムルースは口をぱくぱくさせるが言葉が出てこない―――そしてしばらくして……

「冗談を……言わないでくれ」

 それを聞いた王女はちいさくうつむくと、ほっとしたように息をついた。

 それからまた顔を上げるとロムルースに微笑みかける。いつもの悪戯っぽい笑みだ。

「まあ、それは残念。それじゃともかくルース、せめて今後あたしに何かある度に戦争を起こさないでもらえるかしら?」

「あ、ああ……」

 一同は胸をなで下ろした。

 だがあそこでロムルースがもしYESと答えていたら一体どういうことになっていたのだろう?

 誰も王女の胸の内は分からなかったが―――ただでは済みそうもなかったことだけは確かだった。



 そんな予期せぬトラブルがあったものの、取りあえず会合は破綻せずに終了した。

 ロムルースは後ろめたそうに去っていった。ネブロス達も王女を気遣って長居はせずに出て行ってしまった。

 人々が去った後の天幕の中はがらんと寂しくなった。

 何しろここは元々連隊長用の二十名近くは入れる大型の天幕だ。王女とナーザ、アウラの三人で使うには広すぎる―――だが他に適当な場所が無かった以上仕方がない。

 アウラは天幕の中を片づけながら、今日起こったことを思い起こしていた。

 一人になるとまたプリムスを取り逃がしてしまったことが悔やまれる。どうしてあそこであんな風に斬ってしまったのだろう? 最初から首を狙っていれば良かったのに―――でもあそこは他者がたくさんいて動きが制限されていた。首を狙って振り回していたら誰か別人を傷つけていたかもしれない……

 アウラは唇を噛んだ。考えれば考えるほど腹が立ってくる。

 あいつはブレスの仇なのだ。そしてそれ以上に自分をこんな体にした―――そう思った途端にまた胸の古傷がずきんと痛んだ。

 アウラは手を胸に当てて考えた。

《行こうかしら……》

 あの男を追っていくべきなのだろうか?

 そうやってあいつを倒してしまえば、この体も元に戻るような気がする……

 そうすればフィンにだって―――そう思った瞬間、顔がぽっと熱くなった。なにしろやっと会えたのだ。何だか物凄く長く別れていたような気がする。

 だが今フィンはすぐ近くにいるのだ! 彼女はすぐにでもそこに駆けつけたかった。

 そう思った瞬間、王女の呻き声が聞こえた。

「あうっ! ナーザ、もっと優しくして!」

「我慢して下さい。化膿したら大変です」

 奥の方ではナーザが、王女の内股と尻にできた大きな鞍ずれの治療を行っていた。

「あん! 痛い! もっと優しく」

「ミーラ、大丈夫?」

 心配になってアウラは尋ねた。

「だ、大丈夫だけど、あうっ!」

 アウラは治療している場面をのぞき込んでは顔を背けた。

 昨日の晩見たときよりもずっと悪化しているが―――王女はこの状態で今日一日馬に乗っていたのだろうか? だとすれば走っている間中、物凄い痛みに苛まれていたはずだが……

 ナーザの治療中ずっと王女は呻き続けて、手当が終わると精根尽き果てたという様子で簡易ベッドにぐったりと横たわった。

「ああ、ひどい目にあったわ!」

 王女が吐き捨てるようにつぶやいた。

 それを聞いたナーザが言う。

「そうですわね。ならこれを機会にもっと遠乗りなどもなされた方がよろしいのでは?」

「ええええ⁉」

 王女がさも嫌そうにナーザの顔を見る。だがナーザは笑いながら答えた。

「即位されたらそういった機会はますます増えますわ。閲兵式のときなどに馬に乗っておりませんと様になりませんし」

 あ、またこれは王女とナーザの口げんかが始まる―――アウラはそう思った。二人とも口が達者だからそれが始まったらアウラの入り込む余地はない。

 だが王女はナーザの言葉には答えず、黙ってため息をついたのでアウラは少し拍子抜けした。

 それはナーザも意外だったのだろう。

「どうかなされましたか? まだ傷が痛みます?」

「え、ちょっとね……」

 そう言って王女は顔を背ける。

「乗馬がそんなにお嫌いですか?」

「いえ、そういうわけじゃないけど……」

 王女は何か様子が変だ。それはアウラにも分かった。もう何もかも心配なくなったはずなのに、一体どうしたというのだろう?

 だがアウラにはこんな場合どう言っていいのか見当もつかなかった。

 ナーザもそんな様子でしばらく王女を見ていたが、やがておもむろに尋ねる。

「もしかして……さっきのことですか?」

「え? まあ……」

 王女が横目でナーザを見る。さっきのことといえば―――ロムルースと口論したことか?

「ちょっとお尋ねしてよろしいですか?」

「嫌だって言っても訊くんでしょ?」

 そう言って王女は体を起こした。

 その途端に傷に擦れたのだろう。うっと顔をしかめる。

「すみません。これはお訊きしておいた方が良いかと」

 王女はため息をついた。

「そうね。さっきはついカッとしちゃって。ルースがいつもあんな調子だから。こんなときじゃなけりゃ我慢もできたんだけど。お尻も痛かったし……」

 ナーザも苦笑いする。

「確かにロムルース様にはもっとしっかりして頂かないと困りますわね……私も確かにいらいらすることがありますから。でもその後のあれはどうだったでしょうか?」

「あれって、駆け落ちの話?」

「ええ。ちょっとさすがにあの場では……大体あそこでロムルース様が肯定なさったら、一体どうなさるおつもりだったのです?」

 ナーザの問いに王女は妙に真剣な表情になった。王女はしばらく下を向いて悩んでいる風であったが、やがて答えた。

「もちろん、一緒に行ってたわ」

 それを聞いてナーザが大きくため息をついた。

「エルミーラ様。冗談でもそのようなことはおっしゃらないで下さい」

 だが王女は冗談を言っている風ではなかった。

「どうして? 本当はその方がいいんじゃないの?」

 ナーザが真顔になる。

「どうしてそんなことを言われるのです?」

 途端に王女は堰を切ったように話し始めた。

「だって、その方がいいんだから! あなた達も聞いたでしょ? プリムスは嫌な奴だったけど、言ってたことは正しかったわ。だめな長は国にとって害悪だって。ルースは……いい人なのよ。でも長には向いてない。だから彼があそこで国を放り出して私を取るというのであれば……それはベラにとってもいいことだから……でもそんな人の行く先なんてないじゃない。それにあたしだって、もし本当にルースが来いって言ったら……やっぱりだめなの。逆らえないわ。だって、だってあたしルースが好きだから……でもそんな女がフォレスを背負っていくなんて、それってみんなを裏切ることじゃない? 大体今度のことだってあたしがあいつらに、のこのことついていったことが原因なんだし、もしあんなこと言われなかったら死んでも行かなかったわ。でもあいつらルースがあたしを呼んでるって言うから……こんなんじゃあたしだってルースと同じじゃない! 人のことなんて全然言えないじゃない! それだったら二人でいなくなった方が全然ましじゃない!」

 王女の目からは涙がぽろぽろこぼれ落ち始める。

「もうお止めなさい!」

 そこにナーザの厳しい声が響き渡った。

 王女は驚いてナーザの顔を見る。アウラも同じだ。彼女がこんなに感情を露わにしているのは―――王女を見つけ損なってフランの宿屋に戻ったとき以来だ。

「でも……」

 まだそれでも続けようとする王女を遮ってナーザは言った。

「あなたが出て行くというのであれば構いません。でもその前に私の首をはねるよう、アウラにお命じ下さい」

 聞いた王女は慌てた。アウラも目を丸くしてナーザを見る。

 だが彼女も冗談を言っているようには見えない。

「どうしてそうなるのよ!」

「どうしてですって? 今のあなたがあるのは、私があそこであんなことを言ってしまったからでしょう? 私があそこであんな風に煽らなければ、あなたはこんな目に合うこともありませんでした。あなたをこんな目に合わせたのは私なのですよ? だったら当然でしょう?」

 それを聞いて王女もナーザを睨んだ。

「そりゃそうだけど、でも決めたのはあたしなの。それから先はこっちの問題なのよ!」

 ナーザはしばらく天を仰ぐようにして押し黙った。

 それからやにわに王女の前に両手をついて頭を下げたのだ。

「エルミーラ様……フォレスにはあなたに夢を託している者が大勢いるのです。そのことにお気づきではないのですか? 昼間あなたが帰還したとき、あの兵士達の上げた歓声をお聞きにならなかったのですか? 彼らはここで生死をかけた戦いをしていたのですよ。なんのために? もちろんあなたのためです!」

 ナーザに見据えられて王女は返す言葉がなかった。

「今から五年前であれば確かに違いました。そのときなら人々はみんな、おかしな王女がいるなとしか思っていませんでした。でも今は違うのです。私はこの五年間あなたのお側に仕えて参りました。あなたがどれほどフォレスの人々のことを真剣に考えているか、つぶさに見て参りました。そのお気持ちはもうフォレスの国民に伝わっているのです。エルミーラ様。だからいなくなるなんてとんでもない。もし本当に国民のためを思って頂けるのならば、その反対です。人々の前に出て行って、次期国王としての自信と誇りをお見せ下さい。その内心がどんなに不安だったとしても。そしてそのあなたの不安をぬぐい去るためには、私の命など何度でもお捧げ致します」

 そう言って彼女は額を床に擦りつける。

 王女はしばらく無言でそんな彼女を眺めていたが、やがてその肩に手をかけると少し震える声で言った。

「ごめんなさい……そうよね。そうなのよね……」

 ナーザが顔を上げて微笑む。

「それでしたら先ほどの言葉はお忘れ願えますか?」

 王女はうなずいた。だが顔は曇ったままだ。

「ええ。でも……ベラは今のままでいいの? ベラの問題はフォレスの問題でもあるのよ」

 それにはナーザもうなずいた。

「確かにそれは問題だと思います。でもエルミーラ様、あなたはロムルース様のことをちょっと過小評価しすぎじゃありませんか?」

「え?」

「実は私はまだまだ十分に希望はあると思っております。というのは一つ、明らかなことがあるからですわ。それは人は変われるということです。何しろ私の目の前にこれ以上ないというほどの実例がございますから」

 ナーザが誇らしげに王女の髪を撫でる。王女がちょっと赤くなった。

「じゃあ、ルースも何とかなるかしら?」

「まあ、そう簡単にいくとは思いませんが……それでも諦めるのはまだ早いと思います。それにそのためにエルミーラ様には、して差し上げられることもいろいろあると思いますわ」

 それを聞いた王女ははあっと息を吐いてアウラの方を見る。

「いつもナーザにはしてやられるわ。ねえ、アウラ。いっつもこうなのよ」

「え?」

 驚いたアウラに王女は微笑みかける。それからナーザに尋ねる。

「でもどうしてナーザはそんなに賢いの?」

「そんなことはありません。単に歳を取ってるだけですわ」

「それだけじゃないでしょ? お母様はここまでじゃないわ」

「またそんなことを。でもまあこういったことを色々考える機会はありました……私の生まれた国は滅びてしまいましたから」

 そう言ったナーザは少し寂しそうだった。

「ラムルス王国、よね?」

「はい」

「そのときのことって聞いたことなかったわね?」

「話すほどのことではございません。何もかもが大失敗だっただけで……」

 そう言ってナーザは目を伏せてしまった。

 王女は更に何か訊きたそうだったのだが、アウラが横で大きなあくびをしてしまったのだ。

 それを見て王女が尋ねた。

「アウラ、疲れた?」

「え? いえ、そんなことないわ」

 そうは言いつつも、確かに体はくたくただ。王女も実際そうだったのだろう。

「そろそろ寝ましょうか?」

 アウラは赤くなってうなずいた。それを見て王女が言った。

「ねえ、今日は二人とも、一緒に寝てくれる?」

 アウラは少し驚いたが異存はなかった。だがナーザはどうするのだろう?

 しかしナーザも微笑んでうなずいた。

「もちろん構いませんわ」

 そして広いテントの奥で簡易寝台を三つぴったりと並べると、三人は王女を中心に川の字で横になった。

 久々に何の心配もない夜だ。

 王女が拉致されてからというもの、安らかに眠れた夜は一晩たりともなかった。

 城にいるときも、ナーザと探索の旅をしているときも、そして王女と共にセロに向かって走っていたときも……

 だがその全てが終わったのだ。まるで最初から何もなかったかのように……

 アウラはともかく眠ろうとした。

 だがなぜか知らないが逆に目が冴えてくる。どうしてなのだろう?

 自分の寝台の上でもぞもぞしているとナーザがささやいた。

「もしかしてそっちは狭い?」

「いえ、大丈夫です」

「眠れないの?」

「ええ? まあちょっと……」

「そうなの。私もちょっとね。なんだか気が抜けてしまって」

 ナーザもそうなのか? そう思うとアウラはちょっと安心した。

 と、ナーザが言った。

「そういえば……あの話まだだったわね」

 あの話? 言われた瞬間アウラの胸が疼く。

「え? ええ……」

 アウラは思い出してしまった。

 そうなのだ。彼女はちょっとした問題を抱えていたのだ。

 それがこの騒ぎでずっと先送りにされていたのだが―――それもこうやって終わってしまった。とすれば、そろそろどうにかしなければならないのだが……

 しかしそれは難しかった。

 誰かと戦うとかいうのであれば問題はない。しかしこればかりは本当にどうすればいいのだろう?

「あの話ってなあに?」

 そのとき二人の間に割って入ったのが王女だった。彼女もまた寝付けていなかったようだ。

「起きていらしたんですか?」

「あたしもね、何だか目が冴えちゃって……それであの話って?」

 ナーザが少し困ったようにアウラに尋ねる。

「アウラ、どうする? 話していい?」

 アウラは少し悩んだ。

 だが王女にならもういいだろう。恥ずかしいというより、そういった心配をかけたくなかったのだが―――今は聞いてもらいたい気分だ。

「ええ、まあ……」

 アウラが答えると、ナーザが手短にアウラとフィンの間の問題について話した。

 それを聞いた王女は目を丸くした。彼女は今までそのことは全く知らなかったのだ。彼女は二人の間はうまくいっているとばかり思っていたのだ。

 さしもの王女もしばらく絶句した。

「それじゃもしかしてずっと?」

「うん……」

「このことはル・ウーダ様にも相談を受けていたのですが、なにぶんその……」

 王女はまた絶句して、ナーザとアウラの顔を交互に何度も見る。

「でもアウラ、感じなかったのはもう直ったわよね?」

「ええ、まあ」

「あそこも痛かったりしないのよね? あのときも気持ちよかったのよね?」

「ええ、まあ」

「でもル・ウーダ様としようとすると?」

「ええ……フィンが来ようとすると……胸が凄く苦しくなって……」

 そう言うだけでアウラは気分が沈んできた。

 帰ったらまたそういった日々が始まるのだろうか? アウラは大きくため息をついた。

 こんなことになるのなら、今度のトラブルがもっと長引いていた方が良かったのでは?

 いや、そんなことを考えてはいけない!

 アウラは枕に頭を押しつけた。どうすればいいのだろう? 本当に……

 そのとき王女がささやいた。

「ねえアウラ、こんなことはしてみた?」

「え?」

 そして王女はアウラの耳に小声で何かをささやいた。

「ええ? そんなこと?」

「何をおっしゃられたのです?」

 ナーザが尋ねると王女は今度は彼女にささやいた。聞いたナーザもうなずいた。

「まあ、どうしてそれを思いつかなかったんでしょう?」

「ナーザもああいってるわよ。やってないんならやってみたら?」

 アウラは半信半疑だった。

 そんなことで? そんな簡単なことで? 本当に?

 でも、言われてみればそんな気もするが……

 暗闇の中を歩いていて遠くに光明が見えた―――まさにそんな瞬間だった。