第3章 アウラ、お姉様になる
空が薄明るくなってきた。
アウラは薙刀の稽古を止めて一息つくと大きな伸びをする。
季節はもう初夏だが早朝の空気はまだ冷たい。練習で火照った体をいい具合に冷ましてくれている。
アウラが今いるのはヴィニエーラ敷地隅のちょっとした空き地だった。
ヴィニエーラは遠くからも目立つ窓のない大きな建物だが、その周囲は全体が高い塀で囲まれている。塀は建物ぎりぎりの所に建てられていてその隙間は狭い通路になっているだけだが、所々こうしてアウラが薙刀を振り回せるほどの空き地があった。
空き地の周囲は雑草が生い茂り、隅の方には使われなくなったガラクタが雨ざらしになっていた。
ここは外からも内からも覗かれず、わざわざ誰もやってこない。アウラが邪魔されずに暇を潰すには絶好の場所だった。だからここを見つけてからは非番の時にはずっとここで薙刀の稽古をしていたのだ。
夜番の仕事はたまには荒っぽいこともあるが、大抵の場合は紳士的に済んでしまう。スタッフを使う必要があることも時々しかない。薙刀を振るわねばならないようなことなどほとんどなかった。
この間のタンディの件は例外中の例外だった。そのためここを見つけるまでは腕が鈍ってしまわないか心配だったくらいだ。
《そろそろ寝ようかしら……明日からはまた仕事だし》
そんなことを考えながら空き地の隅の古い椅子に腰を下ろすと、郭を取り囲む塀をぼうっと見上げた。
塀と建物の隙間から僅かに見える空はそろそろ白んできている。もう少ししたら朝日が郭の壁に当たるだろう。
以前ならばこの時間に目覚めて今日どうするかを思案したものだが―――今は全く反対だ。
最初の頃はそんな生活ができるかどうか不安だった。
だが郭には窓がなく、明かりを灯さなければいつも真っ暗だったこともあって、こうして昼夜が完全に逆転した生活を続けていてもあまり気にならない。
それだけにこうしてたまに外にいるとやっぱり何だか妙な気分になった。
《そういえば明日はウィーギルが非番だったっけ……》
ヴィニエーラの夜番は彼女とウィーギル、バルツァ老人の他にもう一人サモンというこれもかなり年配の同僚の計四人でローテーションしていた。
だがバルツァとサモンはあまり無理がきかないので、結局アウラとウィーギルの二人がメインで仕事をこなしていかなければならない。
そしてウィーギルが非番の日となると、夜番の責任の大半が彼女にかかってくるので気が抜けないのだ。
あれから半年。仕事にも慣れてしまったので、それが辛いことはなかった。
問題は別な所にあった。
「あ、お姉様、やっぱりここだったんだ」
後ろの方から聞き慣れた声がする。アウラが振り返ると現れたのはハスミンだ。
「うん? どうしたの?」
「それが、ちょっと大変なんです。困っちゃってるんです。それでお姉様を捜してきたんです」
「困ったって?」
ハスミンは物凄い勢いで喋り始めた。
「それがカナリさんなんです。何でか八角御殿で泣き出しちゃって大変なんです。多分カナリさんがレジェ姉に付いてたからなんじゃないかと思うんですけど。でもほら、レジェ姉様ってあんなだし、もうかんかんに怒っちゃってて。こんなところで泣くなってどやしつけてたりして。でもひどいんですよ。あたし聞いてたんです。あれじゃカナリさんじゃなくったって泣いちゃいますよ。あの玉無し、ひどいことするんですから。あいつったらいつもそうなんだから。玉と竿なくしたのは自分のせいなのに、あたし達いじめるんですよ。この間だって……」
もちろん今ではアウラも彼女が無口だとは思っていない。
アウラが遊女達と馴染んだ後、彼女は事あるごとにアウラの所に来ては話をしていた―――正確にはほぼ一方的に彼女が喋って帰っていったと言う方が正しいが……
アウラが実は怖くないと分かった後は、ハスミンにとってアウラは唯一の同期だったからだ。
またハスミンのおしゃべりに辟易する者も結構いた中で、暇なときならアウラは彼女の話をいくらでも聞いてやっていた。彼女は自分から話すのは苦手だったが、人の話を聞くのは嫌いではなかった。
それはともかく、この調子で彼女に喋らせていたらいつまでたっても本題が始まらないのは間違いない。そこでアウラは強引に割り込んだ。
「で、カナリが何されたの?」
それを聞いてハスミンが大きくうなずく。
「ああ、そうなんです。それがひどいんですよ。確かにカナリさん、この何日かお客さんが付かなかったし、ちょっと昨日も小言を言われてたけど、それでも配膳させるなんてひどいと思いません? 小娘に混じってですよ? しかも配膳で持ってった先がこの間水揚げしたばっかりのロジカの所なんですから。ひどいでしょ? カナリさんて三年も先輩なのに。ロジカだってどうしていいか分からないから泣きそうになってるし、なのにあの玉無しったら……」
それからまたハスミンは延々とウィーギルの悪口を言い始める。
アウラは薙刀を鞘に収めると立ち上がって歩き始めた。
ハスミンが悪口を言いながら後をついてくるので、アウラは薙刀を彼女に差し出した。
「これ、武器庫に戻しといて」
「はい。わかりました」
彼女はにこっと笑うと、大切そうに彼女の薙刀を持って番台の方に駆けていった。
アウラは最近やっとハスミンの扱い方が分かってきていた。
要するに彼女の話が終わるまで待っていてはいけないということだ。それでは時間がいくらあっても足りない。
だからさっさとこっちから言いたいことを言ってしまえばいいのだ。別にそれで彼女が気を悪くすることもないし―――ただ、そうはいっても話に割り込むタイミングを掴むのは結構難しかったが……
なにしろ彼女はよっぽど“特殊な状況”にでも陥いらないかぎり黙らないのである。あのときばかりはさすがに迂闊に喋ったら殺されると思っていたので無口だったらしいが……
でも今ではあの体験談は彼女の持ちネタの十八番になっていた。おかげで巷では今後はもう首でピラミッドでも作ってやらない限りだめだろうとか噂されているが……
まあそういった些細な欠点は誰にだってあることだ。
アウラは駆けていく彼女の後ろ姿にちょっと微笑んだ。
それを見届けるとアウラは八角御殿に向かった。
ハスミンの説明で状況はおおむね分かっていた。
確かに最近カナリは今ひとつ成績がよくなかったが―――ハスミンの言うとおり、一人前の遊女に配膳をさせるなんて屈辱以外の何物でもない。
だがハスミンはああ言うが、ウィーギルが意味もなく人をいじめるような奴ではないのも確かだった。彼にそこまでされたというのは、よっぽどひどいへまをしたのだろうか?
そんなことを考えながら彼女が八角御殿に近づくと、遠くから低いすすり泣きとそれを叱っているようなささやき声が聞こえてきた。
アウラが来ると床に一人の遊女がうずくまっていた―――彼女がカナリだ。間違いない。
その彼女の肩を抱くようにして、とりわけ艶やかな衣装を纏った背の高い女性が耳元で何か囁いている。
近づいて来る足音を聞きつけてその女性が振り返った。
アウラが見ても惚れ惚れとしそうな美人だが、今、その表情は怒りを含んだ険しさに満ちている。
彼女がヴィニエーラ三本の指に入るトッププリマのレジェだった。
「ほら、お姉様が来たわよ!」
レジェが冷たい声で言った。かなり怒っている様子だ。
だがカナリはうずくまったまま低くすすり泣くばかりだ。
レジェはアウラに向かって言った。
「早く連れてってよ」
アウラは黙ってうなずくとカナリの腕を取った。
アウラはレジェが苦手だった。
彼女はプリマの中でも特に気位が高く、ちょっとしたことですぐに機嫌を損ねてしまうからだ。
だがハスミンから聞く話によれば、彼女は決して冷酷な人ではないということだった。
小娘達に対しては厳しいけれど決して意地悪ではなく、実際彼女はこうして出てきてカナリの相手をしてやっている。そのことは分かっていても、レジェにこうして睨まれるとアウラまでどぎまぎしてしまう。
「カナリ。さあ立って」
アウラはカナリを促した。彼女はふらふらと立ち上がる。
「さあ、これ以上レジェ姐さんに迷惑かけないで」
それからレジェに向かって軽く礼をする。
レジェも軽くうなずくとそれ以上は何も言わずに踵を返して自室に戻ってしまった。
アウラはその後ろ姿を見送ると、振り返ってカナリの顔を覗き込んだ。
彼女はまだすすり泣いている。このままここで泣かれても困るので、アウラは彼女の肩を抱くようにして抱えると、歩き出した。
アウラは彼女をそのまま自室まで連れて行った。
大部屋に連れ戻すと好奇の目にさらされる。しばらくここで様子を見よう……
それからアウラは言った。
「お茶、飲む?」
カナリはうなずいた。
やっと泣き止んではいたが、まだよく喋れない。
アウラは厨房から薬缶を取ってくるとカナリの前でお茶を入れてやった。
「お菓子、いる? タンディの新作があるのよ?」
そう言ってアウラはハート形をしたクッキーを取り出した。
あれ以来アウラはお菓子で困ったことはない。薙刀の稽古をする場所を探し出したのは、ごろごろしながらお菓子を食べていたら太ってしまったせいもある。
アウラの入れたお茶をすすってカナリはやっと落ち着いたようだ。
そんな彼女を眺めながら、アウラは内心溜息をついていた。
「ともかく涙を拭いて」
アウラはハンカチを取り出すとカナリに渡した。泣きすぎて目の回りに隈ができている。それさえなければ相当の美女だ。
もしここがヴィニエーラでさえなければ、それだけで人々の注目の的になることができただろう―――だがそんな彼女もここでは普通の存在でしかなかった。
何しろここにいるのはシルヴェスト全土から集まってきた美女や美少女達なのだ。
それ故に、ここでやっていくためには美しいだけでは足りなかった。
例えばタンディが一生懸命お菓子作りに励んでいたのは、決して単なる趣味だからだけではない。そういった特技を持つことで客にアピールできるからなのだ。
タンディに限らず他の遊女達も、それなりの技を身につけるべく努力していた。
それは料理に限らず、裁縫や刺繍、歌や踊り、朗読やゲームなど様々なジャンルに渡っている。変わったことができればそれだけで他の遊女より優位に立てるし、玉の輿に乗れる確率も上がるのだ。
アウラがここに来たばかりのときは、みんな綺麗な服を着てちやほやされているのを見て少々うらやましくも思ったものだが、すぐにそれは表向きの姿で裏では熾烈な競争が繰り広げられていることを知った。
例えば彼女たちの着ている服はヴィニエーラから支給されるのだが、その費用は結局彼女たちの報酬から差し引かれていた。
その他身の回りの様々な小物、道具、化粧品などもすべて彼女たちの自腹だった。
だが各遊女の報酬は歩合制である。そのため上がりが少ない遊女は赤字になる場合もある。しかもここで彼女たちが着ている服は、その辺の女が着ている服などとは訳が違う。
ここでは客の払う花代も高価だったが、それで彼女達が遊んで暮らせるようなこともなかった。それどころか一歩間違うと膨大な借金を抱えてしまうことさえある。彼女たちにとって客が取れるかどうかは文字通りの死活問題だった。
カナリはアウラの渡したハンカチで涙を拭いたが、おかげで化粧が中途半端に剥がれてしまっている。
「あ、顔洗わないと。お風呂に行こ」
アウラはカナリの手を引っ張って立たせる。
彼女自身もさっきまで薙刀を振り回していたせいでずいぶん汗をかいている。カナリの件抜きでも風呂には入らねばと思っていたところだ。
そうして二人は大浴場にやってきた。
この時間は大抵誰もいない。
カナリは化粧台に座ると黙って化粧を落とし始める。
その間にアウラは服を脱いで裸になると、浴場の湯船に飛びこんだ。ここはいつ入っても気持ちがいい。ちょっと泳げるぐらいの広さがある。実際誰もいないときはよく一人で泳いでいた。
彼女がしばらくそうして湯船にぷかぷか浮かんでいると、化粧を落としたカナリも入ってきた。
「こっちいらっしゃいよ」
アウラが手招きする。カナリはおずおずとアウラの横に体を沈めてきた。
しばらく二人はそうして黙って体を温めた。
そうしながらアウラは彼女をちらちら見ていたが、彼女は何も話し出さない。
そこでアウラの方から尋ねてみた。
「ウィーギルに何言われたのよ?」
カナリはぴくっとしてアウラを見ると、またうつむいて小声で答える。
「このままじゃここから落とすしかないって……」
アウラはそんな彼女の仕草を見つめた。
彼女は顔だけでなくスタイルだって抜群と言ってよい。
だが彼女は最近よい成績を上げられないでいた―――その理由は、実はアウラにも分かっていたのだ。
前述の通り彼女の姿形は一級品だったが、このヴィニエーラに限って言えば平均クラスだ。それにも関わらず彼女は床の上でのサービスがあまり上手でなく―――というより、下手だったのだ。
遊女のサービスとは結局そこに行き着く。
それ以外の特技などなくとも、床上手でありさえすれば何の問題もない。
ただ、それだけにみんなその技術は磨き上げるから、そう簡単に他人と差はつけられない。だからこそそれ以外の特技が有効になってくるのだが……
それはともかくカナリの場合、その基本的な部分で他の遊女達に水をあけれられていた。
おまけにそれを埋め合わせられる他の特技もなかった。
せめて歌や踊りなどが上手ければ、それはそれで何とかやっていけたのだが……
そして、郭側としては稼ぐことのできない遊女をいつまでも置いておくわけには行かない。そういう遊女は格下の娼館に“落とされる”ことになるのだ……
「あいつそんなこと言ったの……」
「はい……」
そんな格下の場所については、アウラは彼女たち以上によく知っていた。
賞金首を追う過程でそういう場所に出入りせざるを得なかったからだ。
ここに来るきっかけになった女衒殺しの際にも、その情報を得るためにアウラはそういった娼館や娼婦達と接触する必要があった。
そこで彼女はそういった女達がどんな生活をしているか、見ないわけにはいかなかった。
その娼婦や淫売に比べれば、ヴィニエーラの娘達の待遇は天国のようなものだ。
ここの客は金持ちや王侯貴族で、皆それなりに礼儀はわきまえている。そんな礼儀をわきまえない客がいたら、わきまえて頂くよう“お頼みする”のがアウラ達の役割でもある。
だが下級の娼婦達にそういった守護者はいない。
彼女たちはただの荒くれやならず者も相手にしなければならない。
一晩おもちゃにされた挙げ句お金をもらえないどころか、露骨な暴力にさらされても文句も言えないのだ。
また何とか金をもらえたにしても、搾取の度合いはヴィニエーラの比ではない。
ヴィニエーラの遊女達であればプリマにはなれなくとも、ある程度勤め上げれば引退後にちょっとした店を開くぐらいの資金は貯まる。
だがそんな娼婦達にそんな希望はまずなかった。
アウラはここに来て随分になるが、今だに個室の中で行われていることを自分にされたら、と思うだけで胸が痛む。
彼女がそれでも何とかやって来られたのは、ここの遊女達が厳しいなりにも決して一方的に虐げられているわけではなく、人間として扱われていたからだ。
もしあの中で彼女達があの日のアウラのように単に陵辱されていたのだとしたら、こんな場所など一日たりともいることはできなかっただろう。
《どうすればいいのよ?》
もちろん落とされるといっても、いきなりそんなレベルまで落ちるわけではないだろう。
ヴィニエーラ以外の郭がみんなそんなにひどい所ではない。
ここでトップになれなくたって、そういった所で成功できればいいのでは? でもそんなことを言って慰めになるのだろうか?
ヴィニエーラとは不思議な場所だ。
ここは良家の子女ならば口に出すのも憚られる場所のはずなのだが、実は多くの娘が一度はここのプリマになれたらと憧れを抱く場所でもある。
何しろ平民の娘はそのままならば結局平民の妻になるしか道はない。
だがヴィニエーラで成功できれば、王侯貴族の妾姫になれるかもしれないのだ。たとえそれができなくとも単なる平民より遥かに華やかな生活ができるのも間違いない。
カナリも同様だった。
彼女もまたそういった夢を求めてここにやってきていたのだ。
それを―――簡単に諦めろと言えるのだろうか?
アウラは何と言っていいのか分からなかったので、黙ってカナリの正面に回ると湯の中で広がっている彼女の髪を撫でた。
そんなアウラを見てまたカナリは目に涙を浮かべると、アウラの肩に顔を埋める。
「お姉様……」
アウラは黙って彼女の背中を撫でてやる。
彼女にはそんなことしかしてやれなかった。
本当なら何か慰めの言葉でもかけてやった方がいいのかもしれないが―――こんな場合にふさわしい言葉などアウラは知らない。言いたいことがあるとすれば『お姉様と呼ぶな』ということなのだが……
実際カナリの方がアウラより年上のような気がするし。でもアウラ自身が本当は何歳なのかよく分からなかったりするので強くは言えないのだが……
そうやってアウラがカナリの背中を撫でてやっていると、カナリがぽつっと言った。
「お姉様はもう賞金稼ぎには戻らないの?」
いきなりこの娘は何を言い出すのだろう? アウラは首を振って答えた。
「ううん。ここの方がいいわ」
それは全くの本心だ。
ここの生活に慣れてしまったら、もうあの賞金稼ぎの生活に戻りたいとは思わない。
だがそれを聞いてカナリは顔を曇らせた。
「そう……」
「どうして?」
アウラが尋ねると、カナリはアウラを真っ正面から見据えた。
「もし戻るならあたしも連れてって欲しかったから……」
アウラは驚いてカナリの顔を見る。冗談を言っている顔ではない。
「付いてきてどうするのよ? あなたが賞金稼ぎするの?」
カナリは答えた。
「あたしお姉様みたいに強くないけど、賞金首をおびき出す役ぐらいできるかもしれないし……」
確かに賞金稼ぎがそんな役割を担う女と組んでいることはよくあった。女が賞金首をたらし込んで、隙ができた所に踏み込むという算段だ。
だがそれを聞いた途端にアウラはきつい声で言っていた。
「冗談言わないでよ⁉」
アウラの剣幕にカナリが真っ青になる。
「ご、ごめんなさい」
カナリの声が怯えている。
アウラが遊女達と馴染んでずいぶんになるとはいえ、タンディを救ったときやハスミンを連れてきたときの話を彼女たちが忘れたわけではなかった。
目の前の胸に大きな傷のあるこの女性は、その気になれば大の男の数名ぐらいは瞬殺できる恐ろしい女でもあるのだ。
「でもあの……それは私にできるかどうか分からないけど、お姉様の手助けになれば……」
もちろんアウラが怒ったのは、彼女が役に立ちそうもないからではなかった。
「違うのよ」
アウラはカナリを抱きしめた。
「あなただったらそれこそ凄くいい囮になれるわ。でもあんなことさせたくないから」
「え?」
カナリが驚いて体を硬くする。
アウラは体を離し、カナリの両肩に手を当てて彼女の顔を見た。
「知ってるの? あいつらがあなたを優しく扱ってくれるとでも思うの?」
「………………」
「運がよくたってひどい目にあわされるし、もしあたしが間に合わなかったりしたらどうなると思うの?」
アウラは胸の傷が、彼女の目の前に来るようにカナリの前で跪いて立った。
「あたしがこれを付けられたとき……」
だがその先を言おうとしても声にならなかった。
途端にあの瞬間の光景がフラッシュバックして傷が疼きはじめる―――今回はそれだけに留まらず、息まで苦しくなってきた。
アウラはううっと呻くと、カナリの前で胸を押さえてうずくまってしまった。
それを見て慌てたのはカナリだ。彼女は蒼くなってアウラの肩を抱いた。
「お姉様、お姉様!」
アウラは顔を上げると必死に言った。
「あなたに……こんな傷は付けさせないから」
カナリの目からまた涙がこぼれ落ちる。
「お姉様、ごめんなさい。もう言いません。だから、だから……」
「大丈夫。大したことないから。もう出ましょう」
そう言ってアウラは風呂から上がる。
涼しい風に当たると、胸の痛みは少し収まってきた。
そして二人は夜着に着替えるとアウラの部屋に戻った。
部屋に帰った時もまだアウラは胸が苦しかった。こんなひどいことは久しぶりだ。ずっと忘れていたかったのに……
うつむいて息を荒げているアウラを見てカナリがおろおろしている。
「大丈夫よ。そこに座って」
カナリはアウラの横に腰掛けて心配そうにアウラを見つめている。
そのうちにやっと息が楽になってきたので、アウラは深呼吸すると言った。
「ああ、やっと治ったみたい」
「大丈夫ですか?」
「うん。全然平気」
「でも……」
カナリはまだ心配そうだ。
だがこれは治るときにはあっという間だ。アウラはこれ以上彼女を心配させたくなかった。
そこでアウラはカナリをじっと見つめながら言った。
「ねえ、もう一度体見せてよ」
「え?」
驚くカナリを尻目に、アウラは彼女の夜着の前をはだけると、彼女の体を露わにした。
すらっとした肢体に豊かな胸。細やかな肌―――間違いなく、とても綺麗な体だ。
アウラはしばらくその体を見つめると、その胸をふっと撫でた。カナリがうっと言って体をすくませる。
「こんなに綺麗なのに……」
それを聞いてカナリがぽっと顔を赤らめる。
アウラはその目前で自分の夜着も脱ぎ捨てた。
再びカナリの目には大きな傷を受けたアウラの胸が飛びこんでくる。
「あなたにはこんな傷、ないでしょ?」
アウラは再びカナリの胸を撫でた。それに反応して彼女の乳首が固くなってくると―――アウラはそれを軽くひねった。カナリが再びうっと言って体をすくませる。
「そんなもの無い方がいいのよ」
アウラはカナリの両足の間に割ってはいるように跪き、軽く彼女の乳房にキスをする。それと同時にさっと彼女の秘所の谷間に指を滑らせた。
その瞬間カナリは電撃に撃たれたかのように体をのけぞらせる。
そこは既にしとどに濡れていた。
カナリの愛液で濡れた指を見て―――アウラは少し嫉妬を感じた。
「これのせいであたしの体は壊れちゃったの」
アウラは濡れた指先が乾かないうちに、また自分の胸と傷をそっとたどってみた。
以前自分が感じないのは、もしかして彼女たちのように濡れないからでは? と思ったことがあった。それならば他人からそれを借りてみたらどうだろう?
そこで他の遊女に何度か協力を依頼したことがあったのだが―――結局同じだった。
今度も単に皮膚に指が触れている感覚があるだけだ。
この娘達はどうしてこの程度のことでこんな風になってしまうんだろう?
「お姉様……」
カナリも例外ではなく既に恍惚とした表情になっている。
「賞金稼ぎなんていいことないから……」
アウラはカナリをそっと抱きしめると胸に頬ずりする。
カナリの体の震えが伝わってくる―――彼女は既に相当の興奮状態にあるのは間違いない。
「でもあたしにはそれしかできなかったから……」
アウラは訥々と思い出を語りながらカナリの背中を撫でてやり、合間合間にその乳首に唇を這わせる。
それと共に彼女の体が発する“声”にも耳を傾ける。
それは戦いをするときに聞いていた相手の体の発する“声”とは全く異なった音色だったが―――アウラは同じようにそれを“聞く”ことができたし、今ではそれの意図する所もよく分かっていた。
「森で盗賊をずっと待ってるなんてつまらないし……」
アウラはその“声”にあるいは従い、あるいは逆らい焦らしながら、体の各所を指と唇で愛撫していった。
カナリの体もそのリズムに合わせて言葉にならない声を返してくる。
「血の滴る首なんて、もう持って歩きたくないし……」
やがてカナリは断続的に体を震わせ始めた。
もう自分の体が自分の物ではなくなっているようだ。
そんな彼女の耳元にアウラはささやいた。
「そんなことより……今の方がずっといいわ」
カナリがその言葉を聞いていたとは思えない。
彼女はうっと低い呻き声をあげると、体をのけぞらした。アウラは彼女を受け止めてそっとベッドに寝かせてやる。
カナリは恍惚の表情を浮かべながら気を失っていた。
そんな彼女を見ながらアウラは心の片隅で困惑していた。
《お姉様って……》
アウラは彼女がその才能を見いだした日のことを、何となく思い出していた。
―――それはタンディと仲良くなってから一月ぐらいしてからのことだ。
そろそろ冬のさなかだ。郭の外は雪が降っている。だがアウラは部屋無し遊女達の大部屋でぬくぬくとしていた。
遊女達は冬だからといって厚着するわけにはいかない。そのため郭の内部ではあちこちで火が焚かれ、暑いぐらいだ。
時間は夕方。すなわち彼女たちにとっては起きてすぐの時間帯だ。仕事にはまだ早い。遊女達はめいめいに準備をしながらも、適当に話したり戯れあったりしている。
アウラはタンディのお菓子を食べながらぼうっとそんな光景を眺めていた。
すると当のタンディがやってきてアウラに声をかけたのだ。
「アウラ! ねえ、今暇?」
「なに?」
タンディはにやにやしている。アウラはぴんと来た。
「え? もしかしてまた?」
「うん。ちょっと実験台になってよ」
遊女達の間で行われる実験となれば一つしかない。
「ええ? あれつけるの? 何だかやだな」
そう言ってアウラは隅のテーブル上に転がっている張り型を指した。この間それをつけさせられて新米遊女の実践練習の実験台になったばかりなのだ。
だがそれを聞いてタンディは首を振る。
「ううん。違うの。今度は女性用のテクなのよ」
「女性用?」
タンディはうなずいた。
「なんで? 女の客が来るの? それってディレクトスに行くんじゃないの?」
タンディは吹き出した。ディレクトスというのはヴィニエーラの近くにある男娼専門の娼家だ。
「まさか! そんなことないわよ。あそこだって男の客の方が多いのよ?」
「えっ?」
アウラはそれまで男娼とは女性客専門だとばかり思っていたのだ。
「男がどうやって男の相手するの?」
「聞きたい?」
そう言ってタンディはアウラにいらぬ知識を色々と教えてくれた。
話を聞き終わるとアウラは頭がくらくらした。
「そんなことするんだ……」
「そうよ。知らなかった?」
「うん……」
「だからね、女が女に色々サービスする事だってあるのよ」
「へえ……」
何だかよく分からないが、これだったらそれ程嫌なことでもなさそうだ。そこでアウラは実験台になることを承知した。
タンディはベッドにアウラを寝かすと服を脱がす。アウラの胸の傷が露わになって、見守っていた遊女達が低く歓声をあげる。
「ちょっと! 恥ずかしいから」
「すぐどうでもよくなるわよ。で、いい? みんな見ててよ?」
そう言ってタンディはアウラの胸に頬ずりした。それから体中に唇を這わせてくる。それに合わせて乳首や秘所を指でまさぐり始めた。
だがアウラは何も感じなかった。なんだかくすぐったいだけだ。
「やっぱりその……」
アウラがぜんぜん反応してこないのでタンディは焦ってきた。彼女はますます愛撫に熱を入れる―――だが、相変わらずアウラは困惑したままだ。
「どうしてよ?」
ついに彼女は諦めてアウラの乳首をつねる。
「痛っ! 何するのよ!」
アウラはむっとした顔で体を起こした。見物していた遊女達も互いに顔を見合わせて囁きあっている。
「ごめん……でもどうして?」
タンディが不思議そうな顔でアウラを見る。
「どうしてって……何が?」
「だって……」
そこでタンディは側にいた別な遊女を実験台にしてみた。
今度はその遊女はタンディの愛撫に応えてほどなく悶え始める。やがて彼女は「もう止めて」と言ってタンディを押しのけた。
「そうよねえ。これが普通よねえ」
周囲の遊女の一人が言う。アウラには何が普通なのかよく分からなかった。
ぽかんとしているアウラに、別な遊女が言った。
「アウラ、あなた大丈夫なの」
「ええ? 大丈夫って?」
「全然どうもなかったの?」
「うん……」
それから他の遊女達が寄ってきてアウラを逝かせようと努力を始めた。
だが無駄だった。
遊女達の全力を挙げた試みにもかかわらず、アウラは何も感じないかくすぐったいか、あるいは痛かっただけなのだ。
いい加減遊女達が疲れ果ててしまったので、アウラは仕方なく体を起こす。
遊女達は複雑な表情でアウラを見ていた。
彼女たちは自分たちのテクニックに自信を持っていたのだが―――それが今揺らいでいるのだから。
アウラ自身もまた複雑な気持ちだった。
そこでアウラは隣に座っていたタンディの胸を撫でてみた。
「いやん」
驚いてタンディが身をすくめる。
「これが気持ちいいの?」
その問いにタンディが呆れた顔でうなずいた。
「当然じゃない」
そこでアウラは同じように自分の胸を撫でてみる。だが何も感じない。そこでまたタンディを撫でみる。
「あん」
タンディがまた喘ぎ声をあげる。
そこにいた娘達はみな、アウラも含めて裸同然の格好だ。おかげで彼女の体の動きがよく見えた。
アウラは戦いのとき、相手の動きの極めて微妙な変化を感じ取ることができた。
そのことを人に説明する際には、相手の体の発する“声が聞こえる”といった言い方をしていたが、同様に目の前にいるタンディの体が“語っている”のが見えたのだ。
その言葉は戦いのときとは全く別なのだが、何かを語りかけているというところは共通していた。
そこでアウラは何とはなしにその言葉に合わせてタンディを触り始めた。
「ちょっと何するの? やめてよ」
タンディはそうは言いながら特に抵抗もしない。最初のうちはよく分からなかったが―――やがてすぐに彼女の体の発する言葉の意味が分かりだした。
意味が分かってくればアウラの望んだ通りに答えを引き出すこともできる。これは何だか面白そうだと思った瞬間だ―――タンディが大きな声を上げて悶絶してしまったのだ。
「きゃあ! タンディ!」
アウラは慌ててタンディを助け起こすが、彼女は白目を剥いている。
「ちょっと、みんな、タンディが!」
アウラは慌てたが遊女達は全然気にしていなかった。
「あーらら、逝っちゃった……」
それよりも彼女たちは目を丸くしてアウラを見つめている。それから口々に言い始めた。
「すごい! どうして」
「体撫でてただけなのに?」
「あそこ全然触ってもないわよ?」
そこで横にいたカテリーナという遊女がアウラに言った。
「ねえねえ、あたしにやってみて」
そこでアウラは彼女にも同じようにしてやった。結果は同じどころか、彼女はタンディよりも速く昇天してしまった。
「うそ!」
そして更に別な遊女がアウラにせがむ。そんな調子でアウラが更に数名の遊女を悶絶させたときだ。
「ちょっと、あんた達何を……まあまあ! 一体どうしたって言うの?」
ちょうどその時ヴィニエーラの姉御が部屋に入ってきて、何人もの遊女が失神しているのを見て仰天してしまったのだ。
姉御は食中毒か何かと思ったのだろう。その後は郭をあげての大騒ぎとなり―――やがて原因が分かるとアウラは大目玉を食らった。
もちろん仕事前の遊女にそんなことをしていい訳がない。アウラは平謝りに謝るしかなかった。
その場はそうやって終わったのだが、その日の引けた後、アウラがそろそろ寝ようかと思ったときだ。アウラの部屋をノックする音がする。
ドアを開けるとそこにはタンディが立っていた。
「ん? どうしたの?」
アウラの問いにタンディはぽっと顔を赤らめると小声で言った。
「ねえねえもう一度いい?」
「もう一度って?」
タンディは拗ねたような顔をする。
「あれよ。朝のあれ」
そう言われてタンディが何をして欲しいのかアウラも理解したのだが―――そのおかげでこっぴどく叱られた直後だ。
「え?……でも姉御がだめだって……」
「こっそりだったらわからないわ。ねえ……」
タンディがアウラの腕を取って体をこすりつけてくる。そういうことをされても困るだけなのだが―――と、アウラが悩んでいた所に、今度はカテリーナが忍んできた。
「あ! タンディ! 抜け駆けはひどいわ」
「そんなのあたしの勝手でしょ!」
「なによ。自分だけいい思いしたいわけ?」
二人が喧嘩を始めそうになったので、アウラは慌てて二人を部屋の中に引き入れた。
「止めてよ。あたしが怒られるんだから」
「ごめんなさーい」
二人はアウラに謝ったが、あまり反省している風には見えない。アウラは諦めた。この調子じゃやってやらないとずっと居座られるかもしれない。
「じゃあとにかく順番にね。あなたはちょっと待っててくれる?」
アウラはカテリーナに言った。すると彼女は答えた。
「分かりましたわ。お姉様」
「どうしてあたしがあなたの姉さんなのよ?」
「だって、こういうことしてくれる人ってお姉様なのよ」
それを聞いてタンディも言った。
「そうだわ。お姉様ぁ!」
「………………」
こうして彼女はヴィニエーラの部屋無し遊女達の間で『アウラお姉様』と呼ばれることになったのだ―――
アウラにこんな妙な才能があったとは、ここに来なければ一生分からなかったことだろう。
それがどういう物であれ抜きんでた才能があれば嬉しい物なのだが、これに関してはアウラは素直には喜べなかった。
それは一番辛い記憶に結びついていたことだったし、何よりもアウラ自身は与えるだけで、自らが受け取ることができなかったためだ。
といっても快感が得られなかったから喜べないわけではない。そうではなく―――アウラが遊女たちとそのすごくいい気持ちを共有できないことが心苦しかったのだ。
アウラは自分の胸の傷を眺める。
《このせいで……》
そう思うとまたずきっと傷が疼く。
あれから彼女たちは何度もアウラに“お返し”をしてくれようと努力していたが、それは全てが徒労に終わっていた。そして結局だめだった後に彼女達が見せる落胆した表情―――それを見るのがアウラにとっては何よりも辛かった。
その度に彼女はこれで最後にしよう、もうこんな事は止めにしようと思う。
だがそう思うだけで結局こうして止めることはできていない。
それは、誰かと一緒にこうしていられることが、アウラにとっても幸せな事だったからだ。
あの事件以来アウラは常に一人だった。
昼間ならば動き回っていればそれなりに寂しさを紛らわすことができる。
だが夜眠るときは別だ。
誰もいない森の中で一人夜空を見上げていると、ただひたすら誰かの温もりが欲しくなる。そのときはそれはもう二度と手に入らない物のような気がしていた。
だが今は違う。その気になれば毎晩でもこうして誰かと一緒にいられる……
アウラはカナリをそっと抱きしめるとその髪を撫でた。
側に彼女がいてくれるだけで、なぜかひどく平穏な気分になる。
それは多くの遊女達にとっても同様だった。
彼女たちはみな人並み以上の容姿を持ってはいたが―――逆に言えば彼女達には、それ以外の資本は何もなかったのだ。だが今彼女の側で寝ているカナリの例でも分かる通り、ここでは見目が良いだけではやっていけない。
彼女たちは華やかな生活を送っているように見える。
実際に貴族や金持ちに見初められて彼らの妾になったり、場合によったら正妻の座に着けることだってある。だが―――やはりそれは限られた一部の者しか得られない幸運なのだ。
そしてそれ以外のはるかに多くの娘達が、何も掴めずにそのまま忘れ去られていく。
彼女たちは高い所に立ってはいるが、そこは崖っぷちで、いつ足を踏み外して転げ落ちてもおかしくないのだ……
それは彼女達自身が何よりも一番身に染みて感じていたことだった。
だがそのことで同僚に頼ることはできない。この点に於いては仲間は全て競争相手であり、敵なのだ。
もちろん客に対してそんな愚痴をこぼすなんて論外だ。
ここの娘達はみな大勢の仲間に囲まれて幸せに暮らしているように見えながら、実はかつてのアウラと大差ないぐらい孤独でもあったのだ。
―――そんな彼女たちの前にアウラは現れた。
彼女は女だったが遊女達の競合者ではない。
遊女と郭の従業員との色恋沙汰は当然厳禁なのだが、アウラが相手ならそういった問題にも発展しようがない。
すなわちアウラは彼女たちが寂しくなったとき、何も心配せずに心を許せる唯一の相手だったのだ。
だからいくらアウラが止めたいと思ってももう止められなかった。
自分が寂しいだけなら我慢もできる。
だがそんな風に慕ってくる彼女達をどうして拒否できるだろうか?
「うーん……」
アウラの横でカナリが息を吹き返した。
「どうだった?」
「素敵でした……」
「まだいく?」
「え? でも……」
そうは言いつつ彼女の目は潤んでいる。
アウラはカナリの体をまた愛撫し始める。カナリが再び声を上げ始める。
それを聞いてアウラは言った。
「カナリ、あなた声可愛いわね」
「え?」
「あなたが逝く時の声って可愛いわよ?」
カナリは真っ赤になった。
《これがお勤め中でも出せればいいのに……》
見回りのときアウラはもう、声と物音だけで誰が何をしているのかほぼ見当がつくようになっていた。カナリが客相手に“振り”をしているときの声はアウラが聞いても妙にわざとらしかった。
でもそんな指摘をしたからと言ってすぐ実践に移せるものでもないし、アウラに声の出し方の指南ができるわけでもない。
アウラにできることはこうやって彼女につまらないことを忘れさせてやることだけだ。
彼女はカナリを再び恍惚の境に誘っていった。
アウラが目覚めると既に夕方近くなっていた。
彼女は慌てて横で寝ていたカナリを起こす。このまま彼女を休ませるわけにはいかない。
カナリは目覚めるとすっかり元気になっていた。
「きゃあ、ごめんなさい! お姉様」
彼女は慌てて服を着るとばたばたと大慌てで大部屋に戻っていく。
その後ろ姿を見送ると、アウラは部屋に一人でぽつんととり残された。
そうなると余計にまた寂しさが募ってくる。
同時に胸の中では小さな罪悪感が沸き上がる。
アウラははあっと大きく溜息をついた。
そのときドアをノックする音がした。
「誰?」
「いいか?」
ウィーギルの声だ。
「うん」
アウラが答えると、ウィーギルが部屋の中に入ってきた。彼は部屋の中の様子を見てにやっと笑った。
「どうだったよ?」
そんなことはどうだっていい。
それよりもアウラはウィーギルに訊きたいことがあった。
「あんたカナリに何言ったのよ?」
アウラはウィーギルを睨む。
「ああ? このままじゃ郭を移ることになるって伝えただけさ」
ウィーギルは涼しい顔だ。
「そんなこと言うから泣いちゃってたじゃない。それに配膳までさせたの?」
ウィーギルは首を振った。
「でもなあ、あんただって知ってるだろ? あいつこのところ全然身が入ってなかったし」
アウラは口ごもる。
それは紛れもない事実だった。何日か前、客からクレームも入っていた。
「だから今のままじゃちょっとな。それに郭を落とすってのも悪い事じゃないかもよ」
「でも……」
「ここじゃ鳴かず飛ばずだったのが、そっちじゃ大人気ってのもけっこうあるしな」
「うん……」
そういう話がよくあることもアウラは知っていた。
大抵の郭ではヴィニエーラにいたというだけで箔が付く物なのだ。
でもやはりここで花を咲かせたかっただろうに……
「俺だってあいつはなかなか別嬪だって思うし、もうちょっと努力してくれりゃいいとこまで行きそうに思うんだがな。でも、こりゃ俺達の口出せることじゃないし」
「うん……」
もちろんウィーギルやアウラに遊女達の人事権があるはずがない。
実際に落とすかどうかはヴィニエーラの経営者である旦那が決めることだ。
ウィーギルは彼の意向を遊女達に伝えているだけなのだが―――どうしたって矢面に立つ者が嫌われてしまうことになるのだ。ハスミンなどは事あるごとに彼のことをボロクソに言っているが、その意味ではウィーギルは可哀想な立場でもあるのだ。
だが彼自身はそんな立場にもう慣れてしまっているようだった。
「それでそうそう。女将さんなんかも喜んでてね、今度給金を増やしてやるってさ」
「え? 何で?」
「何でって、夕べもあいつを慰めてやったんだろ?」
「う、うん……」
「あんたがそうやってくれてるせいで、結構あいつらやる気出てるし」
「……うん」
アウラが後ろめたかったのはこのせいもあった。
遊女達にアウラがストレス発散のはけ口を与えてやったせいで、彼女たちの成績は前より上がっていたのだ。
何しろここでは客との密着サービスが売り物だ。するとどうしても彼女たちの気持ちがストレートに伝わってしまいがちなのだ―――もちろん客側としても大枚をはたいているのだから、やる気のない接待をされたら立腹もする。
だが遊女もまた人間だ。ストレスの貯まった状態でにこやかにサービスするのは難しい。
だから郭側としても遊女達にしっかり稼いでもらうため、そんなストレスのはけ口をどうするかは大きな問題だった。
といっても今までそれほどいい方法があったわけではない。
せいぜい定期的に休みを取らせてみたり、成績のよかった者には報償を与えてみたり、あるいは脅したり賺したりとそういった方法しかなかった。
そんなところに“アウラお姉様”が出現したのだ。
最初は郭側としても面食らったが、すぐに無闇に禁止するよりも彼女にうまいことガス抜きをさせた方が効果的だと気づいた。
そして最近ではウィーギルが遊女達にハッパをかけて、それで落ち込んだ者がいたらアウラが慰めるという連携プレーができあがっていたのだった。
このような役割にアウラはずっと後ろめたさを感じていた。
彼女を頼ってきた遊女達を裏切っているような気がしたからだ……
だが、彼女とてこのヴィニエーラに拾われた人間である。その立場を忘れるわけにはいかない。だから遊女達の様々な悩みを聞く立場になっても、完全に遊女の側に立ってやることはできなかった。
アウラはこうして彼女たちに一晩の慰めを与えてやりつつも―――本当に良いことなのかどうか確信が持てずにいた。