ヴィニエーラのアウラお姉様 第5章 アビエスの丘

第5章 アビエスの丘


 アウラはまたいつものようにメインホールの回廊をゆっくりと見回っていた。

 時間はそろそろ深夜。お客を本格的におもてなしする時間帯だ。

 なので回廊に面して並ぶ小部屋からは、遊女や客の漏らす怪しげな声や物音がひっきりなしに聞こえてくる。

 慣れない者ならば間違いなく当てられてしまいそうな状況だが、アウラはここに来てからもう二年半だ。何とも思わないどころか、それを子守歌にうたた寝することだってできた。

 もちろん今は仕事中だから寝るわけにはいかない。

 代わりにアウラは何か異常があったらいつでも踏み込めるよう、その声にじっと耳を傾けていた。

 だが今日も特に変わったことはなさそうだ。

「あ、あ、お客様、お客様、いいです、いいです、ああ、もう、そこです、あ、そこです……」

 目の前の部屋から聞こえてくる声はエステアの声だ。

 レジェのお呼ばれに行ったときはただの小娘だった彼女も、今ではもう一人前の遊女だ。

 といっても彼女はまだデビュー半年ぐらいの新参なので、いろいろぎこちないところもある。

 聞こえてくる声もちょっと作りすぎかなと思えてしまうのだが―――彼女は世話好きで一生懸命なところが地味に受けているらしく、既にいい馴染み客が付いている。今日来ているのは初めての客のようだが、この様子なら満足してもらっているようだ……

 ―――などと彼女の声を聞きながら冷静に分析している自分が、何度考えても不思議だった。

 初めて見回ったときはそれどころではなかった。

 こぼれてくる声を聞くだけで傷が疼いてきて、こんなところで仕事なんかできるわけないと思ったものだ。

 あのときはウィーギルがああ言ってくれたせいでその場は何とかなったのだが、絶対に次の春にはここを辞して賞金稼ぎに戻っているだろうと思っていたのだ―――だからこんなに長く続いているのは、自分でも全く予想外だった。

 あげくに今ではそんな声を聞いて何ともないどころか、あのときのウィーギル以上に彼女たちの様子や調子が分かるようになっていた。

 何しろアウラは今ではヴィニエーラの全ての遊女と“深い知り合い”になっていた。

 そのためアウラは全ての娘が本当に感じているときの声や振る舞いを熟知していた。

 それと比較してみれば彼女たちが今どういった“振り”をしているかは一目瞭然だ。

 だが―――ウィーギルがその話を聞いたとき、彼は天を仰いで言ったものだ。

『その話、他の奴らにはするなよ? シルヴェストの野郎全部を敵に回したきゃ別だがな?』

 それはアウラにも理解できた。

 夜番の仕事柄、郭にやってくる客を観察する機会も多いのだが、多くの男達がここに来るためにそれこそなけなしの金をはたいているのだ。

 一部の貴族や金持ちを除けば、彼らがアウラ以上に楽に金が稼げるわけではない。ここにいる遊女一人を買うために、彼らは汗水垂らして働いているのである。

 そんな彼らから見たら―――それこそ羨ましすぎるのは間違いない!

 だが、そのような羨望の声を聞いても、アウラ自身は何でそこまで言われるのかが今ひとつぴんと来ていなかった―――彼女はただまじめに職務をこなそうとしていただけなのだ。そのために遊女達を慰めてやる必要があったので、できる限りのことをしてやっていただけなのだが……

 その結果、彼女が全ての遊女と親密になってしまったとしても、それは望んだことではない。あくまでそれは彼女達を慰めるための手段に過ぎなかった。

 もちろんそれはアウラ自身の寂しさを紛らわせる行為でもあったのだが……

 ともかく、だからこそ遊女達も彼女を信頼したのだ。

 今では多くの娘が、一度や二度は乱暴な客からアウラに助け出されたことがあったし、落ち込んだときに慰めてもらっていた。

 たとえ一夜を共にしなくとも、アウラは遊女の愚痴を親身になって聞いてやった。

 だから今ではヴィニエーラの全ての遊女が何かあったときに頼れる人として、多かれ少なかれアウラを慕っていたのだった。

 その中でも特に仲の良い娘が何人かいた。

 先ほどの部屋にいたエステアは、あのお呼ばれの日以来ずっと仲良しだった。

 あれ以来アウラはレジェとも親しくなっていたのだが、何か用がある場合には必ずエステアを介してメッセージを伝えてきたからだ。

 それにタンディとカテリーナ。

 この二人とは例の才能が分かったあの晩、アウラの部屋で三人で過ごして以来の仲だ。

 それからハスミン。

 アウラと共にヴィニエーラにやって来たという縁もあって、彼女とはある意味一番親しい間柄と言える。彼女も今では一人前の遊女だ。そのハスミンが今、ちょうど前の部屋にいるが……

「……その二人はこんな感じでHな事ばっかりやってたそうなんですよ。もう朝から晩までずっーとやりまくりで、それなのに旦那の方と来たらびんびんの立ちっぱなしで、奥方もずっと逝きっぱなしの濡れ濡れで、それなのになぜかそんな所にセイルズまで行ってるはずの旦那がひょっこりと帰ってきたそうなんですよ。セイルズって言えば、ベルジュから船に乗ってヘリオス川をずっーと下って行った所ですよね。あそこだと海で取れた大きなお魚がいるって言うじゃないですか。そういえば本当なんでしょうか。海ってところには男の人のあれみたいに細長いお魚がいて、それを捕ってきて女の子のお風呂に一緒に入れてやると、熱いのが嫌いだからアソコに潜り込んでくるって……え? あ。そうそう。帰ってきた旦那さんですよね。そうなんです。そこでくっついて離れない二人を見つけたそうなんですが……」

 ………………

《あああ! また何か喋りまくっている……》

 アウラは心配になった。相手の男は彼女に触らせてもらっているのだろうか? 適当な所で止めさせないと、いつまでたっても終わらないのだが……

 先日もこんな調子で彼女の話を聞いていたら朝になってしまった、どうしてくれるとか言ってねじ込んできた客がいたが……

「あは! そんなに突かないで下さい。感じちゃいます。そうなんです。こんな感じでくっついちゃってて……ああ、もっと優しくお願い。あ! でもいいかも。もっと、あ! そうです。そうです。そこです。お客様のちょうどいいです。当たってます。ああ! そこ好きなんです。ちょうどいい大きさです。ああ! 気持ちいいです。できたらおっぱいももっと触って下さい。ああ、それ強すぎます。あん……」

 どうやら今日の客はその辺のところはちゃんと心得ていたようだ。

 彼女は本気で逝ってる場合でもずっとこんな調子で喋っていたりするが―――そのときはもうこんなおとなしい喋りでは済まない。聞いているアウラが赤面してしまうようなことまで延々口走り始めるのだ。

 彼女はそんな所が隠れた人気になっているらしく、最近では彼女を指名してくる客も結構増えている。

 そのとき後ろからぱたぱたという足音が聞こえてきた。

「お姉様、あの……」

 振り返ると今度レジェ付きになったパサデラという小娘が顔を赤らめながら立っている。

「なあに?」

「レジェ姐がまた」

「え? 今度は何の用?」

 彼女は黙って首を振る。まあ理由なんていつも大したことではない。

 レジェはあれ以来、落ち込んだり腹が立ったときには、かなり強引にアウラを引っぱりだしてはストレス発散していた。

 こんな調子でいきなり呼び出してみてはどうでもいい用事を言いつけてみたり、延々と愚痴を垂れてみたり、いきなり一緒に寝ようと言い出してみたり―――これが仕事の後ならまだいいのだが、レジェのことだ。時間なんてお構いなしだ。

 だがプリマの言うことにはそうそう逆らえない。なのでこんな仕事中に呼ばれてしまうとアウラも少々困ってしまうのだが……

 それでもレジェと一緒にいるのはなぜか楽しかった。

 アウラはあのときまではつんと澄ましたレジェの外面(そとづら)しか見たことがなかった。

 それしか見ていなければ、彼女は聡明だが冷たい孤高な女としか思えないだろう。

 他の遊女や客でも、そういった外向きの彼女しか知らない者が多かった。

 だが彼女の内面は全然違っていた。

 彼女が一旦うち解けた後に見せる笑顔は、まるでただの娘に戻ったかのような、屈託のない笑顔だ―――そんなレジェを見られるだけで、アウラはちょっと得をした気分になった。

「分かったわ。見回ったら行くから」

「わかりました」

 ぺこりとお辞儀をしてパサデラは去っていった。

 後ろ姿が見るからに緊張しているが―――新参の者は“アウラお姉様”と話をするだけで緊張してしまうらしい。別にそこまで畏まらなくてもいいとは思うのだが、まあ仕方ないと言えば仕方なかった。

 新参の娘はどうしたってへまをする。それを見つければアウラは叱らざるを得ない。

 その上、先輩達からアウラがここへやって来たときや、タンディを救い出したときの勇姿を尾ひれ付きで吹き込まれるのだ。

 おかげで彼女のことがよく分かるまでは、新参小娘がアウラの元に来るときには、大抵が泣き出しそうな顔をしているのだ。

 そうやって小娘をからかうのは遊女達のレクリエーションの一つだったので、アウラもあまり文句は言わなかったが―――こんな風に畏れられるのはなんだか居心地が悪い。

「あ! あぁ! あ……」

 横の部屋から聞こえてくる喘ぎはカテリーナだ。

 彼女はある意味一番遊女らしかった。色っぽさでは部屋無し遊女の中では抜群だ。

《本当にこの仕事、好きなのよね?》

 カテリーナは誰が相手でも半分逝っているように見える。いま聞こえてくる声もかなり本気の喘ぎだ。

《大丈夫かしら……あれで……》

 彼女の部屋の側を通る度に、あれで体が持つのだろうかと心配になってしまうのだが……

 でもおかげで彼女は客受けがいい。

 当然ながら客だって遊女が見せる痴態は大抵が“振り”だと心得てはいる。

 もちろん振りだろうと何だろうと、ちゃんとサービスしてもらえればそれはそれでいいわけだが―――しかしそんな中、自分に本気になってくれる女がいるとなれば、やはり印象が強いのは間違いない。

 そんなわけでカテリーナは部屋無し遊女の間ではトップクラスの成績で、近々プリマの一人が引退するという噂があるが、その後釜として彼女が最有力候補と言われていた。

《あのときもすごかったもの……》

 初めて彼女の体に触れたときの、その感度の良さにはびっくりした記憶があるが……

《そういえばさっきの子も……》

 先ほどのパサデラもそうだった―――その日のことを思い出しながら、アウラは少し複雑な気持ちだった。

 パサデラにそうしてやったのは、別に彼女が落ち込んでいたからではない。なぜか最近ではアウラが小娘に、女の悦びを最初に教えてやる役目を果たすようになっていたからだ。

 小娘とは遊女の予備軍だが、来たばかりでは普通は未経験だ。

 だが遊女というのは客を悦ばせてやるのが仕事だ。それなのに自分がその悦びを知らずして他人にそれを与えてやることなどできない。だから新参の小娘には、水揚げする前に先輩がじっくりと女の悦びを教えてやるのが郭の伝統となっていた。

 そして誰よりもそれが上手なのはアウラだった。だからその役割が彼女に回ってきてしまったのだ。

 だがその説でいけば、正直アウラにそんな資格など無いはずなのだが……

 何故ならアウラ自身は未だに何も感じられなかったのだ。

 あれ以来多くの遊女がお姉様と悦びを共有しようと様々な努力をしてくれたのだが、それらは全て無駄に終わっていた。

 古参の者達はもう諦めていたのだが、新参の娘はそうではない。自分なら何とかできるかもとチャレンジしてくる娘も多かったのだ。

 そういった彼女たちの好意を無にしたくはなかったが―――こればかりはもうどうしようもなかった。

 それはそうと……

《すごかったわよねえ……》

 そのときのパサデラには、アウラも本気で驚いた。最初こそひどく緊張してかちこちになっていたのだが、いざ火がついてしまうとまるで別人になってしまったのだから……

《あれで今まで全く経験が無かったなんて……》

 しかも逝くときの表情や仕草が何とも可愛いかった。間違いなく彼女は素晴らしい遊女になれるだろうが……

《でも、少し我慢することを覚えないと……お客の前でのびちゃったりしてたら大目玉だし……》

 ―――そんなことを考えながら回廊を歩いていると、次の部屋からはタンディの喘ぎが聞こえてきた。

《あら? タンディったら……》

 この喘ぎはマジだ。

 タンディの場合カテリーナと違って“振り”がとても上手だった。彼女が客を相手にしているときはいつも明らかに演技だったが―――その姿や声はむしろ本気のときよりもよっぽど色っぽかった。

 タンディの仕事ぶりを見て、アウラはプロの遊女の何たるかを理解したといっていい。

 だが、今聞こえてくるのはアウラだけが知っているはずの、タンディが絶頂に達しているときの声だった。

《そういえば今日来てたの、あの跡取りだったっけ?》

 聞いた話ではどこかの商家の跡取りが凄い甘党で、タンディのお菓子に感服して身請けしてくれそうだとか何とか……

 その手の話はいつでもどこでも涌いてくるのでアウラは話半分に聞いていたのだが、これは少なくともタンディの方は本気なのだろうか?

《そんなにあの人がいいのかしら……》

 アウラの男嫌いは結局治っていなかった―――というか、ここにいる限り治りようもなかった。なぜならある意味一番男と接触せずに済む場所だったからだ。

 皮肉にも周囲にはアウラが男嫌いになった原因が満ち溢れているのにも関わらずだ。

 あの日ウィーギルが言っていたが、人とは結構なことと折り合いがつけていけるらしい。深い意味さえ考えなければ、もう傷が痛むこともなかった。

 そんなアウラから見れば、娘達が男にこだわる姿はかなり奇異に見えた。

 彼女たちいろんな意味で“いい男”を見つけようと必死だった。

 もちろんアウラにそれを止める権利はないし、そうしようとも思わない―――ただ彼女にはそれが理解できないだけだ。

 このヴィニエーラという場所は、愛とか恋といった言葉と近いようで最も遠い場所だ。

 あの日レジェが言った通り、それは全てが一夜の夢なのだ。

 アウラはその夢の裏側を見る機会も多かった。

 奥方や恋人が乗り込んできて愁嘆場が展開されるなんてのはざらだったし、心中騒ぎもあれから何度もあった。無銭で豪遊した挙げ句叩き出された男が、次の日、川で水死体で見つかったという話もある。

 そのせいかどうかは知らないが、アウラはあの日レジェに問われた問いに対して、結局どう答えたらいいのか今だによく分からなかった。

 アウラにとってはどう考えたってお金が大事だった。

 お金なら間違いなく価値がある。

 それさえあればお腹を満たすこともできるし、寒い冬に暖かい部屋を借りることもできる。

 だが男が愛してくれたからといって何になるのだ?

 アウラは愛する男と一緒のはずなのに、食うや食わずの女は今まで何人も見てきた。

 それなのに周囲の娘達に聞けば、大抵は愛してくれる人がいる方がいいと答えるのだ。

 ではここに来る客達はどうなんだろうか?

 客のかなりの割合が妻帯者だったが、だったらどうしてこんな所に来るのだろうか?

 妻を愛していたから結婚したのではないのだろうか? それとも愛してくれる男は価値があるが、女にはそれほど価値はないというのだろうか?

 アウラは様々な遊女達と一夜を過ごすときの寝物語で“愛する”ということがどういうことかと聞いてみたことがある。

 だが誰の答えを聞いても今ひとつぴんと来なかった。

 愛するということは、人を好きになるということなのだろうか?

 そうなのであればアウラはここにいる遊女達がみんな好きだし―――まあその中でもタンディ達が特に好きなのは確かだが―――ではどのくらい好きになったら、愛していると言っていいのだろうか?

 タンディとハスミン、カテリーナとエステアと、それにレジェぐらいに好きだったら愛していると言っていいのだろうか?

 彼女たちとはそれこそHなこともするし、全力で守ってやりたいと思っている―――そんな気持ちと一体どこが違うのだろうか?

 それとも対象は誰か一人でなければならないのだろうか?

 だとしたらどうしてそんな決まりがあるのだろうか?

 誰か一人に限るより、みんなを好きになれた方がいいように思うのだが……

 それとも相手が男の場合に限るのだろうか?―――だったらアウラにとって愛なんて、一生無縁なことに違いない。

《でも……別にそれでいいじゃない……》

 少なくともこの一年、アウラは幸せだった。

 たくさんの娘達に信頼され、彼女もそれに答えてやることができた。

 それによってアウラも彼女たちも幸せになれたのなら、それ以上何を求めればいいのだ?

 夜番として遊女達を守ってやる―――それが彼女に与えられた役目だ。

 ―――そう思ったら何かアウラは気が楽になった。

 とにかく今はやるべきことがある。彼女を待っている人がいる……

「そう言えばレジェが来いって言ってたわね」

 あまり放置しておくとレジェが拗ねてしまう。そうなったらいろいろと面倒だ。

 アウラは見回りを切り上げて夜番の詰め所に向かった。



 詰め所に戻るとまたいつものようにウィーギルとバルツァがカードをしていた。

「あ? 終わったのか」

 ウィーギルがアウラの気配を感じて言った。

「うん」

 アウラはそう答えて手にしたスタッフを部屋の隅に置くと、また出て行こうとする。それに気づいてウィーギルが振り返った。

「おい。どこ行くんだ?」

「ちょっと、レジェのとこ」

「なんだ。またかよ?」

「だって向こうが呼んでるんだし」

「まあいいけどな。騒ぎさえ起こしてくれなきゃな」

 ウィーギルはまた向き直してカードの続きをしようとしたが、アウラはかちんと来た。

「あれはあたしのせいじゃないでしょ?」

 怒ったアウラの声を聞いて、ウィーギルがぽかんとして振り返る。

「ああ? 何怒ってるんだ?」

「あいつが抱きつこうとしてきたからじゃない⁉」

 ヴィニエーラではアウラは男とはほとんど関わらなくとも良かったのだが、それはあくまで“ほとんど”の場合だ。この世に男と女という二種類がいる以上、絶対に関わらずに済ますわけにもいかないのだ。

 というのは、最近ではヴィニエーラで凄腕の美女が夜番をしているという噂が広まってしまっていて、時々それを確かめようとする輩がいたからだ。

 つい先日もそんな男がアウラに迫ってきて、大騒ぎになってしまった。普通ならば来るなと言って睨めばまあそれで終わりになるのだが―――そいつは酒が入っていたせいか、しつこくつきまとってきて、挙げ句に抱きつこうとしてきたのだ。

 もちろん次の瞬間、男はアウラのスタッフで綺麗にぶちのめされていたのだが―――おかげでウィーギルや姉御はその後始末で大変だったのだ。

 それを聞いてウィーギルはぷっと吹き出すと首を振った。

「あの騒ぎの話じゃねえよ。ミスナの方だよ」

「あ……」

 ウィーギルが言いたかったのは、アウラがミスナという遊女と約束していたのに、ついうっかりレジェの所に行ってしまった件だった。そのため彼女が取り乱してしまって、こちらもけっこうな騒ぎになってしまったのだ。

 何しろこれだけ遊女がいれば、不満があったり落ち込んでしまった娘が必ず何人かはいる。アウラはほとんど毎日そんな娘達の相手をしてやっていたのだが、それだけ多いとどうしたってうっかりしてしまうこともある。

 彼女はそのあとで思いっきり慰めてやったのだが―――彼女のような一般の遊女は、タンディやレジェといったアウラと仲良しの遊女達を羨望のまなざしで見ているのも事実だった。

 そうするとそんな場合、自分なんかどうでもいいのだといった想いに発展しがちだ。

 アウラは決してえこひいきなどしているつもりは無かったのだが……

「まあ、客を叩きのめすのも、なるべくならやらないておいて欲しいがな」

「………………」

 アウラは返す言葉がなかったので、そのまま黙って詰め所を後にした。

 ウィーギルとの会話はいつもこんな感じだ。

 彼とならばこんな風に普通に会話ができるのだが―――他の男とはどうして今だにあんな調子なのだろう?……

 でも彼は男の一番大事な物を無くしている。それがあったら同じように話ができただろうか?

 逆に他の男でも、それを切り取ってしまえば普通に話せるようになるのだろうか?

 後の方の考えはちょっと試して見るわけにはいかなそうだが―――そんなことはどうでもいい。ともかく今はレジェだ。

 アウラは八角御殿に急いだ。

 パサデラが呼びに来てから結構時間が経っている。そろそろ怒っているかもしれない。

 八角御殿に続く廊下はちょっと寒かった。

 季節はそろそろ春だが、今日は天気が悪く外は冷たい雨が降っている。

 郭の中ではどうしたって薄着になるためあちこちに火が焚かれてはいるが、ここでは灯火の数も少ない。

 アウラは寒いのは嫌いだった。

 寒いとどうしてもあの日のことを思い出してしまう。

 雪の中を裸で這いずり回っていたあの日―――放浪している頃は、どうしてあのままブレスの所に行ってしまわなかったのだろうかと何度も思った。

 生きている意味など何一つ思いつかない。

 ただ腹が減るので食べて、足の向くまま彷徨うだけの存在……

 ―――でも今は違う。

 彼女を待ってくれている人がいる。

 普通の相手とはちょっと違うかもしれない。

 しかもその数も半端じゃない。

 だが―――間違いなく彼女たちにアウラは必要とされているのだ。

 今ではブレスの後を追わなくて本当に良かったと感じていた。

 生きていて良かったと―――何となくそんなことを考えながらレジェの部屋の前に来たときだ。

 中から何か口論しているような声が聞こえる。

 片方は男の声だ。

 この声には聞き覚えがあった。

 確かレジェが嫌いだという“貧乏人”ユーリスの声ではないか?

《え? どうして?》

 今日はレジェは休みのはずだ。

 遊女の仕事はかなりハードなので、定期的に休みは取らないとやっていけない。そんな日はおおむね彼女たちはごろごろして、様々な趣味に昂じたり技能を磨いたりして過ごす。

 だがそんな日にこっそりと恋人を連れ込む娘も結構いた。

 レジェもまたそうやって休みの日に彼と会っているというのは公然の秘密だった。

 ただし、そのようなことはこっそりやってもらわなければ困る。何しろそんな場面を見つけたら追い出すのがアウラの役目の一つなのだから……

 だったらどうしてレジェはパサデラにアウラを呼ばせたりしたのだろう?

 伝言させるなら、今日は忙しいから来るなと言うべきなのでは?

 そう言われればアウラだって状況を察して無理に彼女の所に行くことはしないし、レジェだって彼とゆっくりできるはずなのに?

 アウラは扉の前でちょっと悩んだ。

 本当に入っていっていいのだろうか?―――そうやって立ちすくんでいると、中の会話が聞こえてくる。

「……冗談でしょ。嫌よ!」

「分かってる。すまない。でもそうしないとだめなんだ」

「分かってないじゃない! どうして一緒に行けないのよ?」

「それはだめだ」

「どうしてよ。そんなことしなくたって」

「そういうわけにはいかないんだ。とにかく絶対行くから」

 ??

 いったい何の話をしているのだ?

 逢い引き中なら邪魔しても悪い気がしたが、これは何だか違うようだ。

「あの……」

 そこでアウラはドアをノックした。

 途端に部屋の中の声がぴたりと止まると―――ドアがばたんと開いてアウラはレジェに部屋の中に引きずり込まれた。

「なんなの?」

 アウラは驚いてあたりを見回す。

 奥にユーリスが真っ青な顔で立ちつくしている。

 レジェの顔も同じく真っ青だが――― 一体何事なのだ?

 ユーリスはレジェと同い年ぐらいで、なかなか誠実そうな青年だった。

 とは言ってもレジェが彼のどこを好きなのかはよく分からない。彼よりも良さそうな男はいくらでもいると思うし―――何しろ彼は貧乏だ。

 聞けばユーリスはレジェを請け出すための金を一生懸命貯めているらしいが、貯まり終わるまでにあと何年もかかるとか……

 そのせいで客としてやってくるのもままならない。

 まあレジェは凄く綺麗だからユーリスがそんな気になるのは分からないこともないが……

 それはともかく、ぽかんとしているアウラにレジェがにじり寄ってきて尋ねた。

「聞いた?」

「え? 何を?」

「あたし達の話よ」

 レジェの目はひどく真剣だ。

「あ、少しね。どこに行くの?」

「そうじゃなくて、その前の話」

「え? その前って?」

「あなた、あたし達の話をどこから聞いたの?」

「うん? だからあなたが一緒に行くとか言ってる所だけど? いま来たところだし……」

 それを聞いて二人は胸をなで下ろしたが―――それはともかく、アウラは夜番としてユーリスに言わなければならなかった。

「えっと、その、無断でレジェを連れ出してもらっちゃ困るんだけど」

 ユーリスは深々と頭を下げた。

「すみません。でも今回だけは見逃して下さい」

「あの、そういうことってあたしの一存じゃ決められないんです。姉御さんに相談しないと」

 そこにレジェが割り込んだ。

「それはだめよ」

「え? でもレジェ」

 アウラはレジェとユーリスの顔を見比べた。

 冗談ではない。

 二人がこれ以上なく真剣なのはよく分かる。

 だとすれば―――二人は駆け落ちの相談をしていたのだろうか?

 いや、でもそうだったのならどうしてその前にアウラを呼びに行かせたりしたのだ?

 そのときだった。

 正面玄関の方から何か悲鳴のような声が聞こえてきたのだ!

「え?」

 それに気づいたレジェとユーリスは顔を見合わせる。

「来た!」

 ユーリスがそうつぶやくと……

「ユーリス!」

 レジェが彼の手を掴む。

 ユーリスはレジェの体を引き寄せると、ひしっと抱きしめて唇を合わせた。

 瞬間の、しかし互いにその存在を永遠のものにするかのような深い口づけ……

 そして……

「後から行く。待っててくれ」

 そう言って彼は部屋から飛び出していった。

 止める間もなかった、

 アウラは呆然とその後ろ姿を見送った。

《なんなの? これ……》

 だがそれよりも玄関の方で起こっている騒ぎが気になる。

「ちょっと見てくるからレジェはここにいてね」

 そう言ってアウラも部屋を出て行こうとしたときだ。何故かそれをレジェが引き留めた。

「だめ!」

「だめって……?」

 驚くアウラにレジェは更に驚くべきことを頼んだ。

「アウラ、お願い! あたしを今すぐアビエスの丘まで連れてって!」

「ええええ⁉」

「一生のお願い! ねえ、これ一度だけだから!」

 アウラはこれまでに、それほど真剣な眼差しを見たことがなかった。

「これ聞いてくれたら、本当に何でもしてあげる!」

 あのレジェがここまで言うとは……⁉

《……どうしよう?》

 間違いなくこれは規則違反だ。

 だが―――今の状況にはそれ以上の何かがあるようにも感じた。

「姉御さんに断ってる暇もないの?」

 レジェは首をふる。

「そんなことできないのよ! 早くしないと奴らが来るわ‼」

 そう言いながらレジェは表の方を見る。

「奴ら? 奴らって?」

「ユーリスを追っかけてるのよ!」

 !!

 何となく状況は分かった。

 ユーリスは何か悪い奴らに追われているらしい。そしてその追っ手をどうにかした後、アビエスの丘でレジェと待ち合わせようとしているらしい。

 やっぱり駆け落ちなのか? そうとしか考えられないが……

 どうしよう?

 どうしよう?

 どうしよう……

 規則では絶対に許されないことだ。

 だがそれを楯にアウラが断ったら、レジェはどうするだろうか? 彼女のことだ。アウラを振りきってでも出て行こうとするだろう。

 それを力尽くで止めるのか?

 ………………

 …………

 彼女にそんなことはできない。

 だがそうすると……?

 表から聞こえてくる物音には、剣のぶつかり合うような音も含まれていた。そんな中にレジェ一人で行かせるなんて―――これ以上考えていても始まらない。アウラは心を決めた。

「じゃ、行こ」

「ありがとう!」

 そう言うなりレジェはアウラの頬にキスをした。思わずアウラの顔が赤くなる。

 だがレジェはその間に一枚上着を羽織ると入り口から外を窺った。

「見つからないように。裏回っていくわよ」

「う、うん」

 二人はそのまま部屋を駆け出した。

 あたりは大騒ぎになっている。

 明らかに誰かが戦っているような物音が聞こえてくる。それに混じって「火事だ」という声まで聞こえてくる。

 レジェはそれを無視して従業員用の通路に入りこんだ。

 アウラも慌ててその後を追う。

 そこでは小娘や部屋無し遊女達が慌てふためいている。その間を縫って二人はヴィニエーラの正面玄関までたどり着いた。

 玄関は派手にぶち壊されていた。

 壁の二~三ヶ所に血が付いているが―――あれは誰のだろうか?

 奥からはパニックに陥った客や遊女達が駆け出してくる。

 外からは野次馬も集まって来ている―――そんな騒ぎなので二人を気にする者は誰もいない。

 その様子を見てレジェが言った。

「薙刀、いるわ」

 確かにこの混乱ではその通りだ。

 そこでアウラが番台の奥の武器庫から愛用の薙刀を取ってきたときだ。奥から誰の声かは分からなかったが、男の断末魔が聞こえてきたのだ。

 聞いた瞬間レジェが凍り付いた。

「ユーリス……」

 彼女はそうつぶやいて一瞬ふらっとするが、すぐに気を取り直すと雨の降る暗い通りに駆け出していった。

 アウラもその後に続いた。



 レジェとアウラは冷たい雨の降る真っ暗な街道を歩き続けていた。

 グリシーナの郊外の、あの日馬車で走った道だ。

 周囲を照らすランタンの光がふっと揺らめく。

 アウラは手にしたランタンを掲げて中を見た。

「なんだか消えそう……」

 二人が何とかここまで来られたのは、途中の家の軒先にぶら下がっていたランタンを失敬してきたためなのだが、その中に入っていた油が切れかかっている。

「もうすぐよ」

 レジェの言う通り、道が少し上りにかかっている。アウラもこのあたりは何となく見覚えがある。あれからもう一度レジェとここに来たことがあったからだ。

 ここに来るときはいつも夜だ。

 二度目は去年の夏の夜だった。レジェが喧嘩をして落ち込んでしまったとき、いきなりアビエスの丘に行くとごねだしたのだ。おかげでちょうど非番だったアウラが彼女を連れて行く羽目になった―――あげくに来てみても朝までずっと二人で星を見ていただけだったのだが……

「足、大丈夫?」

 レジェの歩みが遅くなってきたのでアウラは尋ねた。

「ええ」

 そう言いつつもレジェは左足を引きずっている。来る途中滑って転んでしまったのだ。一応歩けてはいるから捻挫まではしていないにしても、怪我はかなりひどいかもしれない。

 普通ならこんなときには言いたい放題に言いまくるはずなのに、今回は何一つ文句も言わずただ黙々と歩き続けている。この様子だとかなりひどく痛んでいるはずなのに……

 そんなレジェを見ながらアウラはまだ悩んでいた。

 本当ならば彼女を連れて帰るべきなのだ。こんなことをしていていいはずがない。大体レジェだってこんなに辛そうなのに。訳を言って謝れば姉御だって許してくれると思うのだが……

 しかし彼女の表情を見ているとそんなことは言い出せなかった。

 ともかく丘の上までは彼女と付き合おう。そうしたらそのうちユーリスも来るはずだ。あれだけ約束していたのだから……

 それから二人をできるだけ説得してみるのだ。アウラは口で説得するのは苦手なのだが……

《でも……どうしてなのかしら?》

 どうしてユーリスは追われていたのだろうか?

 レジェをかっさらおうとしているのをパルティールに知られてしまったからだろうか?

 だが、レジェの結婚話はあれから何となくうやむやになってしまっていた。そのあたりの経緯は詳しくは知らないが、ともかくすぐにパルティールの許に嫁ぐことはないはずだ。

 それならばこんなに急に二人で逃げる必要はなかったはずなのだが……

 ―――などと考えた所で何が分かるわけではない。

 そもそもこういったことは筋を通しておかないと、結局二人に追っ手をかけなければならなくなる。

 特にレジェはヴィニエーラの稼ぎ頭の一人だ。郭側としても無視するわけにはいかない。そんなことはレジェだってよく知っているはずなのに―――だがレジェは何も説明してくれなかった。

 そんな調子で二人が街道から丘への分岐点までさしかかったときだ。後方に明かりが現れたのだ。数は三つ―――それを見た途端にレジェが叫んだ。

「逃げるのよ!」

「え?」

 レジェは丘に向かって走り出そうとした。

 だが、彼女はアウラと違ってもうほとんど体力を使い果たしていた。

 彼女はすぐに息を切らせて動けなくなってしまう。アウラは彼女に肩を貸して立たせると、よろよろと歩き始めた。

「いたぞ! あれだ!」

 後ろから明かりを持った男達が追いついてきた。

「レジェだな?」

 男達は全員武装している。その動きを見ると―――少なくとも前の二人は兵士のようだ。戦い慣れた動きをしている。

 後ろの奴は前の奴よりは華奢だが、剣の扱いに慣れているのは同様だ。間違いなくその辺のチンピラではない。

 だがそれ以上に変なのは、三人とも仮面をつけて顔を隠している所だった。仮装パーティーでもあるまいし? ということは、顔を見られたらまずいのだ。要するにどう考えてもまともな奴らではない。

「何よ、あんた達?」

 アウラは薙刀を抜くと、レジェと男達の間に割り込んだ。

 それを見た男の一人が言った。

「お前は関係ない。用があるのはレジェだ」

 そう言われたからといって引き下がるわけにはいかない。

「レジェをどうする気?」

「おとなしく渡せばいい」

 もちろんそんな要求を呑めるはずはなかった。

「嫌よ」

 男は鼻で笑った。そして……

「邪魔だ。どけ!」

 そう言ってアウラに斬りかかってきたのだが―――その刃は何故か空を切って、次の瞬間、手首を押さえて剣を取り落としていたのはその男の方だった。

「なに?」

 男は剣を拾うと慌てて飛び下がる。

 他の男達はそれを見て顔を見合わせる。

 どうやら男達はここに立ちはだかっている女の腕が、見せかけではないことに気づいたのだろう。

「分かったでしょ? さっさと帰んなさいよ」

 逆に今の交錯でアウラはこの男達の腕を見切っていた。

 彼らは一応手練れだが、彼女ならばいかようにもあしらえる。

 だが、油断はできない。

 何しろ周囲は暗いし足場も見えにくい。しかも相手は三人だ。ちょっとしたミスが命取りになる。

 アウラは前方の三人の動きに意識を集中した。

 しばらくの間、彼らはそうやって互いに動けずに見合っていた。

 そのときだ。背後でレジェの悲鳴がした。

「え?」

 振り返ると―――何とレジェが別な男に捕まっているではないか! 後ろから抱きすくめられて、首にはぴたりとナイフが当てられている。

《え? 四人目?》

 うっかりレジェから離れすぎたのだ。その間にこっそりと回り込まれてしまって……

 最悪の展開になった。

「レジェを離してよ!」

 アウラは叫んだ。

 だが当然ながら男はそれを鼻で笑う。

「馬鹿言え。お前こそそれを捨てろよ」

 レジェを捕らえた男はアウラの薙刀を顎で指して言う。

 アウラは歯を食いしばった。

 見れば分かる。こいつはタンディのときのようなど素人ではない。ちゃんとナイフの刃を上にしているから腕はレジェの体に密着している。

 これではあのときやったような芸当もできないし、それ以前にここからだと間がありすぎる。行き着くまでに確実にレジェの喉は切り裂かれてしまうことだろう。

 動かないアウラに対して男が再び言った。

「おい、女! それを捨てろって言っただろうが!」

「アウラ! こんな奴らやっつけなさいよ!」

 捕まえられているレジェが叫ぶが―――それは無茶だ。

「元気がいい女だな。それより……」

 男はレジェの耳に何か囁いた―――それを聞いた途端にレジェがびくんと体を震わせると、ちょっと間を空けてから叫んだ。

「知らないわよ!」

 だが聞いた男の口元が笑いで歪んだ。

「ほう? そうか? じゃあちょっと体にでも訊いてみようか? さあここか?」

 そう言って男はレジェの胸を揉みしだいた。

 アウラの胸の古傷がずきっと痛む。

「止めなさいよ!」

 アウラは叫んだ。

 だが男はにやにや笑いながら言う。

「おっと、動くなよ。こいつが震えちまうかもしれないぜ」

 男はナイフでレジェの頬をぴたぴた叩いた。

 アウラは軋みをあげるほどに歯を食いしばる。

 だが―――動けない。

 動けばレジェの身が危険になる―――一体どうすればいいのだ? 一体?

 そんなアウラに男がまた言った。

「いい加減それを捨てろって言ってるだろ? 聞こえないのか? でないと……」

 ナイフの刃がレジェの喉に食い込む。そこから血が一筋流れ落ちた。

「ああ!」

 レジェが呻く。

「やめて!」

 アウラが叫ぶ。

「そんなもんを持ったままじゃ止められないな」

 噛みしめすぎて奥歯が痛い。

 何か方法は?

 他に手段はないのか?

 だが何も考えつかなかった。

 そして―――とうとうアウラは言った。

「捨てたら……彼女を離してくれるの?」

「ああ。約束するぜ」

 男はにやにやと嫌な笑いを浮かべながら言った。

 どう見たって信用できない―――だがレジェの命はそれ以上に大切だ。

 ついにアウラは薙刀を地面に捨てた。それから男に言った。

「さあ。離してよ」

「分かったよ」

 ところが男は次の瞬間、手にしていたナイフでレジェの喉を一気にかき切ったのだ。それからその体を前に突き飛ばす。

「ほら。離してやったぜ」

 あまりのことにアウラは声が出なかった。

 馬鹿な!

 そんな馬鹿な‼

 何かが真っ二つに裂けて、いきなりあたりが暗闇になったようだった。

「こいつも片づけちまえ……」

 どこかからそんな声が聞こえてくる。

 馬鹿な―――そんな馬鹿な……

 後ろから男達が迫ってくる気配がする。

「嘘つき……」

 アウラはそうつぶやくとふっと地面に転がって剣を避けた。

 同時に捨てた薙刀を拾い上げると、立ち上がって迫ってきた三人に逆に襲いかかった。

 次の瞬間、男たちは声を立てる間もなく絶命していた。

「えっ?」

 レジェを殺した男は目の前で起こったことが信じられなかった。

 この女は今何をしたのだ?

 まるで彼女が薙刀を持って舞うと―――その刃に男達が吸い込まれていったかのようにも見えたのだが……

 だがそれは幻覚でも何でもなかった。

 アウラの周囲に転がっているのは、間違いなく仲間三人の屍だった。

 そして彼らの運命を決めた女が、血塗られた薙刀を手に近づいてくる!

 男は慌てて腰の長剣を抜こうとした―――が、そのときにはもう怒り狂ったアウラの薙刀が襲いかかってきていた。

「うわあああ!」

 男は恐怖の叫びをあげて飛び下がる。だが―――薙刀の間合いは剣のそれより遥かに長い。

 次の瞬間、開いた男の口の中を深々とアウラの薙刀が貫いていた。

「卑怯者!」

 そう叫ぶとアウラはそのまま男を地面に串刺しにした。

 男の体が痙攣する。

《この下衆が!》

 激しい怒りと同時にどす黒い悦びが湧いてくる。

 今まで彼女は賞金稼ぎのために何人も人を殺してきた。

 だがそれで喜びを感じたことはなかった。

 それは彼女にはそれしかできることがなかったからであり、単に食べていくための手段でしかなかったからだ。

 ブレスと剣を交えるのは楽しいことだったが、賞金首を斬った時には何の感慨も覚えなかった。たかってくる虫を叩きつぶすのと大差ない。いやそれより死体の始末が面倒な分、もっと鬱陶しい―――ただそれだけだ。

 だが今は違った。

 アウラはこの男の命を奪い取りつつあることが、心底嬉しかった。

 体の痙攣が徐々に弱まり、やがてぴくりとも動かなくなる。

 その瞬間、体の芯にぞくりとするような快感を覚える。

 殺しで喜びを感じたのはこれが初めてだ……

「あっはははは!」

 笑いながらアウラは男の顔を踏みつけると薙刀を引き抜いた。

 刃からぽたぽたと血が滴り落ちる。それを見ると―――なぜかますます可笑しくなってきた。

 アウラは大きな声を上げて笑いつづけた。

 だがその笑い声は段々トーンダウンしていくと―――今度は急に涙がこぼれてくる。

 慌ててアウラは振り向くとレジェを捜した。

「レジェ!」

 こんなところで馬鹿笑いしている暇はない。

 アウラは倒れたレジェの側に駆け寄ると、彼女を助け起こそうとしたのだが―――途端に彼女の首が変な方向に曲がってしまった。

「レジェ……」

 もう為す術はなかった。

 アウラはがっくりとレジェの骸の側に崩れ落ちた。

 助けられなかった……

 彼女を助けられなかった……

 もうぴくりともしないレジェの傍らに、アウラは長い間座り込んでいた。

 灯っていた最後のランタンが消えて周囲が暗闇になったとき、アウラは初めて我に返った。

「行かなきゃ……」

 アウラはつぶやいた。

 彼女はここに来ていた目的を思い出した。

 そうなのだ。

 レジェをアビエスの丘に連れて行ってやるために彼女はここにいる。

 なのにこんな所にへたり込んでいてどうする?

 そこでアウラはレジェの体を担ぎ上げた。だが―――途端に足がよろけてしまう。

 重い!

 どうしてこんなに重たいのだ?

 だが彼女は運んでやらねばならない。

 彼女をあそこに連れて行ってやらねばならない!

 アウラはレジェの死骸を担ぐと、そのままよろよろと丘を登り始めた。

 すぐに体中の筋肉が悲鳴を上げ始める。

 濡れて滑りやすくなっているレジェを掴んでおくには力が要った。

 すぐに腕はぱんぱんになり、膝もがくがくし始める。道は暗くて分かりにくいし、挙げ句に降っていた雨までが急に勢いを増してきた。

 何もかもが彼女の邪魔してくれているようだ。

 だがアウラは歯を食いしばって丘を上り続けた。

 ほとんど無限と思われるような時間の後、アウラはぼろぼろになりながらやっと丘の頂にたどりついた。

 そのときには東の空がうっすらと白み始めていた。

 雨も小やみになり雲には切れ間が見え始めている。

 アウラは頂上から少し下の見晴らしの良い場所にレジェを寝かせた。

《ユーリスはまだなのかしら……》

 あれほど約束したというのに……

 だがアウラも既に気づいていた。

 ヴィニエーラを出るときに奥から聞こえてきた悲鳴。あれを聞いたときのレジェの反応……

 あれはユーリスの声だったのだ。

 彼はあそこで殺されてしまったのだ―――だとすれば彼が迎えにやってくることはないのだ。

 それを悟った瞬間、アウラの目からまた涙がこぼれ落ちた。

 待っていてももう誰も来ない。

 アウラはレジェを守ることができなかった。

 ヴィニエーラの娘達を守ることこそが彼女の使命だったはずなのに……

 涙はとめどなく流れ続ける。

 アウラもこのままここでレジェと一緒に眠ってしまいたかった。

 彼女の存在などもう無意味なのだから―――それにレジェを送るためにここまでやって来たのだ。もうちょっと先まで一緒に行ってやったっていいのでは?

「レジェ……」

 アウラは横たわっているレジェを見た。

 血まみれで泥だらけだ。

 ヴィニエーラで一二を争う美女だった彼女が―――なんて格好だ!

《せめて……葬ってあげないと……》

 彼女をここで野ざらしにしておくわけにはいかない。

 アウラはふらふらと立ち上がると丘を下っていった。

 惨劇の場所にはまだ仮面を付けた男達の死体が転がっている。アウラはそこで自分の薙刀を拾い上げると、近くの農家を目指した。

 まだ薄暗い時間だが母屋の方にはもう明かりがついている。中の人に手伝ってもらえれば―――そう思ったが、アウラはそこに行く勇気が出なかった。

 彼女は納屋に行ってスコップを見つけ出すとそれを持ってそこを離れた。

 それから再びアウラは丘に登る。

 そこにはレジェがまだ眠るように横たわっていた。

 アウラは一人泣きじゃくりながらレジェを葬るための穴を掘った。

 地面が濡れて土が軟らかくなっていたのだけがささやかな幸運だった。

 墓穴を掘り終えてその中にレジェを入れてやろうとしたとき、アウラは愕然とした。

 彼女に握らせてやる物が何もないのだ!

 死者を弔うときには、生前その人が大切にしていた何かをその手に持たせてやらなければならない。彼岸に渡る際にはそれが必要なのだ。それがないと渡し守が向こう岸まで連れて行ってくれなくて、どこかで迷ってしまうのだ。

 アウラはレジェの体を調べてみた。

 だが彼女は何も持っていなかった。

 考えたら当たり前だ。彼女たちはヴィニエーラをほとんど着の身着のままで飛び出してきたのだ。着ている服は部屋着だし、靴も屋内用だ。

 それを思うとまたアウラは泣けてきた。

 ここに眠っているのはヴィニエーラで一世を風靡したレジェなのだ。

 なのにそんな彼女がどうしてこんなに寂しく葬られなければならないのだ?

 死出の旅路に何も持たせてやることさえできないなんて……

 アウラは仕方なく、近くに咲いていたスミレの花をたくさん摘んできてレジェの手に握らせてやった。

 彼女の大切なものとは言えないが―――彼女が好きだった花だ。何もないよりはまだましだろう……

 そのようにしてレジェを葬り終えたときにはもう昼過ぎだった。

 途中で下の方から人の声がしていたような気もするが、そんなことはもうどうでも良かった。

 それから先のことは今ひとつよく覚えていない。

 ともかくもうヴィニエーラには帰れない。こんなことになってしまってどの面を下げて帰れるというのだ?

 もう戻る場所はない。

 彼女の帰るべき家はもうないのだ。


 それから先の記憶は途切れ途切れだった。

 道中宿の大部屋の隅でじっとうずくまっていたり、森の中をふらふらとうろついていたり、どこかの村で喧嘩をしていたり……

 ―――そして次に気づいたときには変な魔導師と一緒に旅をしていたのである。



 話し終えて泣き疲れて眠ってしまったアウラを撫でながらフィンは思った。

《ちょっとこれって……》

 確かに彼女は何かとんでもない事件に巻き込まれていたのは事実らしい。どうやらそのユーリスと言う男が追われるようなことをしでかして、そのとばっちりを食ったらしいが―――この話だけではそれ以上のことは皆目見当がつかない。

《それにしても、この頃の話、初めて聞いたけど……》

 そう。彼女は立ち直りかけていたのだ。

 “ヴィニエーラのアウラお姉様”となることで彼女は遊女達だけでなく、自分自身をも救おうとしていたのだ。

 それが―――こんな形で破綻してしまうなんて……

 出会った頃のアウラは何だかヤバい奴だとは思っていたが、実は本当に心底ヤバいことになりかかっていたのだ。あのまま彼女がぶち切れてあちら側に行ってしまっていたら―――それこそエレバスも真っ青の危険な殺人鬼になっていたかもしれない……

 その意味で、あの川の畔で二人が出会えたというのはフィンだけでなく、アウラにとっても本当に幸運だった。

 アウラの責任感の強さは人一倍だ。

 王女誘拐のときもそうだったが―――あれは救出に成功できたからまだ良かった。

 だがレジェの場合は……

 ………………

 …………

 ―――彼女がそのことをずっと一心に悔やみ続けてきたのは間違いない。

 レジェを殺した奴らはアウラに、あの胸の傷以上にひどい傷を負わせたのだ。

 フィンとしても彼女にそんな思いをさせた奴らは許せなかった。

 だが、そう思ったからといって今の彼に一体何ができる?

《こんなことなら無理に話させない方がよかったか?》

 妙に引っかかることがあったためこうして話してもらったのだが―――これではただ彼女を苦しめただけのような気がした。


→賞金稼ぎは楽じゃない(下)に続く

(あとがきは次ページです)