第4章 ワイン街道
夜会から数日の後、フィンとアウラはアビエスの丘の上にいた。
頂からはほとんど三六〇度、遮る物もなく周囲を見渡すことができる。
いま彼らが座っている方向には、遠くグリシーナの丘と、その上に建つグリシーナ城を望むことができた。
「こんなに景色がいいなんて、せめてもの慰めだな」
そう言いながらフィンはふうっと息を吐くと汗を拭く。
ユーリスの選んだデートポイントは間違っていなかった。いい季節なら、ピクニックに来るには最高の地点だろう。
だが今は真夏の午後だった。おかげでフィンもアウラも、ここに登ってくるまでの間に全身汗だくになっていた。
「……うん」
アウラが力無く答えた。
彼女は今日も元気がなかった―――それも当然だ。この場所は彼女の思い出の中でも最悪の場所だったからだ。
それだけでなくあの夜会の翌日、二人はあの事件に関して再度アラン王とその側近に対して詳しく報告をしていたのだが、そこで初めて聞いた事件の真相はアウラにはかなりのショックだった。
ユーリスはヴィニエーラに来る前に、間違いなく男娼を一人殺してきていた。
その男娼はアラン王シンパのある高官の寵愛を受けていた。
ユーリスはアラン王の敵対勢力にそそのかされていたらしかった。そしてその敵対勢力は追っ手の中に間者を紛れ込ませ、ユーリスを早々に暗殺し、更に彼と親しかったというだけの理由でレジェまでを殺していたのだ。
それを聞いたアウラは王に、その敵対勢力とは誰かと詰め寄った―――だがアラン王は黙って首を振り、これ以上深入りしない方がよいと答えたのだ。
当然のことながらアウラには納得がいかなかっただろう。
フィンにも彼女の気持ちは痛いほど伝わってきた―――だが、この場合は王に同意するしかなかった。
もしこれが最初フォレスに来たときのような気ままな二人旅の途中だったなら、彼もまた自分たちにできることはないかと申し出ていただろう。
だが現在彼らはフォレス王国の正式な臣下なのだ。迂闊な行動をしてアイザック王やエルミーラ王女に迷惑をかけるわけにはいかない。
フィンが王女の名前を出すことでアウラはようやく引き下がったが、もちろん決して納得がいったからではないのは明らかだった。
だがこれ以上どうしようもなかった。
結局、彼らはアラン王の勧めに従って早々にシルヴェストを発ってサルトスに行くことに決めた。その敵対勢力がフィン達を狙ってくる可能性はまだあったし、旅をしている方がアウラの気も紛れると思ったからだ。
サルトスに行くにはア・タンの峰と呼ばれる山岳地帯を越えていく峠道と、ベルジュ砦経由の街道がある。
だが今までの旅で山越えはいい加減飽きていたので、今回は街道沿いを行くことにしたのだが、その際にレジェの墓参りのためにこの丘に立ち寄っていたのである。
二人は墓参りを終えて、丘の上に立っている大木の下で涼んでいた。
頂はちょっとした草原になっていて、端の方に大きな木が三本生えている。
二人はその中央の木の下に座っていたのだが、その木陰から出ると炎天下だ。
ときどき風が吹き抜けていくとはいえ、それもかなりの熱風だ。
風が止まると途端にどっと汗が噴き出してくる。
「喉渇かないか?」
「あ、ちょっと」
フィンは水筒を取り出してアウラに渡そうとした。だが頻繁にがぶ飲みしていたせいで、ほとんど中身が残っていない。
フィンは大木の裏側に向かって声をかけた。
「あの、ブルガードさん、水ありませんか?」
「ありますよ」
その声と共に木の反対側からがっしりした体格をした髭面の男が出てきて、二人に彼の水筒を差し出した。
「ありがとう」
フィンは男に礼を言う。
この男はシルヴェスト領内を出るまでの間、護衛のためにアラン王が付けてくれた兵士の一人だ。
几帳面な性格らしくこの暑いのにきっちりと軍服を着ている。
彼の他にもう一人ストーディという兵士も一緒だが、今は丘の下で馬車番をしている。
聞けば彼はアラン王の親衛隊の伍長だという。
親衛隊といえば軍の中でもエリートだ。しかも最初紹介されたときは強面の髭面だったのでフィンはちょっと緊張した。
だが話してみると結構気さくないい男だった。
そして先ほど、こういった兵士としては少々意外な側面も明らかにしていた。
「いえ」
そう答えながらブルガードは鼻をすすり上げた。
その顔には涙で濡れた跡がある。彼が木の反対側に一人でいたのはそんな泣き顔を見られたくなかったからなのだが……
―――というのは実はこの伍長、レジェに対してかなりの思い入れがあったらしい。アウラがその場所に案内したとき、最初にひくひくと声を上げ始めたのは彼だったのだ。
レジェの墓は今ではもう何もないただの草原でしかなかった。
アウラが印として置いた石はほとんど雑草の陰に隠れて見えず、遠くからだと微かに草原が盛り上がっているように見えるだけだ。
言われなければその下に人が眠っているなんて誰も夢にも思わないだろう……
そんな寂しい場所を見せられれば、誰だって人生の儚さに思いを馳せてしまうに違いない。そこに眠るのがヴィニエーラにその人有りと謳われたレジェであればなおさらだ。
そこでフィンは思い切ってブルガード伍長に尋ねてみた。
「あの、ブルガードさんはレジェさんのことをご存じだったんですか?」
「はい……後からは私の給料ではなかなか行けませんでしたが」
ブルガードが鼻声で答える。
「ああ、そうでしたか……」
これがこんな場所でなければ色々盛り上がれそうな話題なのだが―――特に今のアウラの側ではちょっと……
そのときブルガードがぽつりと言った。
「あの人は一見高慢に見えましたが、実は凄く情の深い方でした……」
アウラがぴくりとブルガードを振り返る。
彼女の目も涙で濡れているが、彼の言葉が嬉しかったのだろう。口元にちらっと笑みが見える。
それを見てブルガードは慌てて目を逸らした。
そういう仕草を見ていると、結構いい奴に見えるが―――奥さんとかはいるんだろうか? そんな疑問が色々湧いてきたが、そろそろフィンは本格的に暑さに参りかかっていた。
「アウラ。いいか?」
彼女は黙ってうなずいた。
「それじゃそろそろ行きましょうか」
「はい」
ブルガードもうなずく。三人は立ち上がると丘を下った。
丘の下には黒塗りの立派な二頭立ての馬車が停まっていた。
シルヴェストの国賓用の馬車だ。
「おい! ストーディ! 起きろ! 行くぞ!」
ブルガードが近くの木陰で寝ていた男を叩き起こす。その男もブルガード同様に親衛隊の制服を着ているが、階級はヒラのようだ。
フィンとアウラ、それにブルガードが乗り込むとストーディは御者台に上がって馬車を発進させた。
その日の晩、彼らが泊まった宿の一室で、フィンとアウラとブルガードはワインを飲みながら雑談をしていた。
宿の部屋は最高の一室で、出てきた酒も一級品だ。
王の親衛隊と一緒にいられるとこういった余禄も付いてくる。もちろん部屋代も食事代も王宮持ちだ。
「それにしてもヴィニエーラは残念でしたね。僕も来るまでは結構期待してたんですが……」
フィンがブルガードにそう言うと、彼の目が輝いた。
「そうなんですよ……あれだけ粒ぞろいの店なんてありませんでしたよ。あの後できたアムルーズとか、形だけ真似しても全然だめですね」
少々酒が入っているせいか、ブルガードの舌は滑らかだ。
「そうなんですか?」
「はい。確かに結構見栄えはいい娘が揃ってはいるんですがね……」
それからブルガードはヴィニエーラがいかに素晴らしい店だったかを力説し始めた。
実はここまで来る途中の馬車の中で、彼がヴィニエーラに非常に詳しいことが判明していたのである。
―――別に急ぎの旅ではないので馬車はのんびりと街道を進んでいる。外の景色はさっきからずっと収穫後の小麦畑ばっかりだ。
そこで少々退屈になってきたのでフィンはブルガードに尋ねてみた。
「ブルガードさんはヴィニエーラには良く行かれてたんですか?」
それを聞いたブルガードが答えた。
「え? あっはっはっは。その、随分とお世話になりましたから……実は私を男にしてくれたのが、何を隠そうレジェ姐さんだったんですよ」
「え? そうだったんですか?」
それだったらあの反応も納得がいく!
ブルガードは思い出深そうに話し始めた。
「その頃は姐さん、まだ部屋無しだったんですが、そのよしみでしょうか、部屋持ちになってからも時々相手をしてくれましたよ。あまり花代をはずめなくて、本当だったら門前払いでもおかしくなかったのにですね……」
そこまで聞いたときだ。急にアウラが口を挟んだ。
「あ、もしかして伍長さんって、下で喧嘩しててレジェ姐にひっぱたかれてなかった?」
「え?」
「結構寒くて、そう、雪が降ってた日」
ブルガードの目が丸くなる。
「え? あれ……見られてたんですか?」
アウラはうなずいた。
「うん。止めようかと思ったら、あれで大人しくなってたから」
ブルガードは驚いた顔でアウラを見つめた。
「ええ? じゃあレジェ姐さんが来なかったら……アウラ様が来られてたんですか?」
「うん。行ってたと思うけど? どうして?」
「何て事だ!」
ブルガードは頭に手を当てると笑い始めた。
アウラとフィンは不思議そうに彼を覗き込む。やがて彼は頭を上げると言った。
「いや、あのときなんですがね、噂になってたんですよ。アウラお姉様って呼ばれている若い娘の夜番がいて、それが大の男を簡単に手玉に取ってるって。でもそこにいる娘達に聞いてもにやにやするだけで教えてくれないし。で、そんなの都市伝説だって言い出す奴が出てきて、絶対いるって奴と言い争いになってですね。それに本当にいるなら騒ぎを起こせば来るに違いないとか言って煽る奴も出てきてですね……」
「それで喧嘩してたの? バッカじゃないの?」
「ははは。まあ、そういうわけでして……そこにレジェ姐さんが通りがかって、あんたらあたし達より夜番の方がいいとか、ふざけんじゃないわよ! とか言ってばしーんと……いや実は結構嬉しかったってのは内緒ですが」
理解不能といった感じで呆れ顔のアウラだが、フィンにとっては大変親しみのわく話であった。そのときの男共の表情まで想像がつく。
「で、結局そんな夜番なんていないってことになったわけか?」
「そのときはそうでしたけどね、その後ついにウィリスって奴が本当にアウラ様を見つけてちょっかいかけて、ぶちのめされてたんですが……あれってアウラ様ですよね?」
「ええ? もしかしてあいつ? えっと、そう。額に傷があって……」
「そうですそいつです」
といった感じで話が盛り上がってしまったのだった―――
そんなことがあったせいで彼らはすっかりうち解けることができた。
そしてその日の夕食後、フィンの部屋でこうやって小宴会を開いていたのである。
話が一段落した所でフィンはブルガードに尋ねた。
「そういえば街でちょっと聞いたんだけど、セイルズにヴィニエーラ出身の娘がいるんだって? 知ってるかい?」
ブルガードは大きくうなずいた。
「はい? ああ、確かカテリーナちゃんとロジカちゃんがいるって聞きましたね」
それを聞いてアウラが目を輝かせる。
「ええ? カテリーナが?」
「はい。確かですよ。知り合いが頼まれて護衛して行ったって言ってましたよ」
「そうなんだ。じゃあ他の子は?」
ブルガードは頭に手を当ててちょっと考えると答えた。
「そうですね、アイリスさんとかプリマだった人が何人かシーガルにいるとか」
「シーガル? シーガルってアロザールの?」
「はい」
ブルガードがうなずく。アウラがまた尋ねる。
「じゃあタンディは?」
それも彼はすぐに答えた。
「タンディちゃんは確かガルデニアだったでしょうか」
「ガルデニア? これから行く所じゃない! そこで何してるの? お菓子屋さん開けたの?」
「いえ、あちらの郭だったと思いますが、名前は何でしたっけ……とにかくサルトス一の郭だったと。そこで部屋が持ててるって聞きますよ」
「へええ! じゃあねえ、エステアは?」
「エステアちゃんはアキーラだったと思います」
「ええ? そんな遠くに行っちゃったんだ……元気してるかな?」
そのやりとりを聞きながらフィンは少々驚いていた。
「にしても、よく知ってますね」
フィンが尋ねるとブルガードは胸を張って答えた。
「伊達に羊の会の会長をやってませんから」
「羊の会?」
ブルガードは笑いながら答える。
「羊の会とは“夕闇の中咲き乱れる美しき花々を愛する人々の集まり”ですよ」
あ、要するにヴィニエーラファンクラブってところか。
「はははは! なるほど」
「まあそういうことでして……それにしても驚きました。あのアウラお姉様がフェレントムの姫だったなんて。だからもうあらゆるコネを総動員してこの任務に志願したんですよ」
「そうだったんですか」
―――などという会話はアウラにとってはどうでも良かった。
「ねえねえ、じゃあハスミンは? 知ってる?」
「ハスミンちゃん? 無口なハスミンちゃんですよね?」
「うん」
ブルガードはちょっと考え込むと答えた。
「彼女なら確か、どこかの農園主と結婚してたと思いますが……確か場所は……そう。ロタの……ロタのバラノス農園です」
「ロタ? えっと、聞いたことある……えっと……北西の方だっけ?」
「はい。ツィガロからピーノに向かう街道の途中にある村ですが」
「ああ! あったあった。あの辺」
そう言ってからアウラははっとしたように続けた。
「もしかしてそこって結構近くない?」
「そうですね……行けないこともありませんね」
今ひとつ土地勘がなかったのでフィンは彼らに尋ねた。
「えーと、ピーノ村ってベルジュ砦の先だったよね? 確か……そこからツィガロに向かう街道を戻るのかい?」
ブルガードは首を振った。
「いえ、この先で直接ロタに向かう街道が分岐するんです。旅人はあまり使わないんで意外に知られてないんですが、ワイン街道っていいまして、あの地方で取れたワインを運ぶルートなんですよ」
「ああ、そうなんだ」
それを聞いたアウラが言った。
「ねえ、行かない? ねえ?」
別に断る理由はないが―――だがブルガードの都合もあるわけで……
「こっちは構わないけど、そちらは?」
「大丈夫ですよ。報告しておけば問題ありません。それに私もハスミンちゃんがどうなってるか見てみたいし」
彼の方も無問題のようだ。
それからブルガードは扉の方に向かって叫んだ。
「ストーディ!」
その声に、番をしていたストーディが入ってくる。
「レターセットをもらってきてくれ。ロタを経由することにしたから」
「了解しました」
彼はまた出て行った。
最初は彼も一緒に入るように言ったのだが、護衛の任務があるからと言ってずっと扉の外で番をしていたのだ。
自分たちだけ飲んでしまってちょっと可哀想な気もしたが、無理強いするわけにもいかない。何しろ任務に失敗した護衛がどれほど悲惨なことになるかは、生き証人がすぐ側にいたりするわけで……
フィンがそんなことを考えている間に、アウラがブルガードに尋ねていた。
「伍長さんってハスミンとも親しかったの?」
「え? まあ……なにしろとても印象に残ってますからねえ」
そう言ってブルガードは苦笑いをした。
「印象?」
「そりゃまあ、嫌でも覚えてますよ。ああしてる最中でもずーっと喋りまくってるんですから……最初はびっくりですよ。だれが彼女を“無口なハスミン”なんて呼び出したんでしょうね」
フィンとアウラが同時に吹き出した。
不思議そうな顔のブルガードにフィンは、アウラとハスミンの出会った経緯を話して聞かせてやった。
その話を聞いたブルガードは信じられないという表情だ。
「本当ですか? 担いでるんじゃないですよね?」
「本当だって。ジェイルに行くまでずっと二日間も何も喋らなかったんだって。そうだよな?」
アウラが即座にうなずく。
「うん。やっぱり首は気持ち悪かったみたい。で、あたしは最初ずっとあの娘のこと無口だって思ってたの」
それを聞いたブルガードは大爆笑を始めた。
《おいおい。何だか受けすぎじゃないか?》
ハスミンに関してはアウラから聞いただけだったので、彼自身はそこまでとは思っていなかったのだが―――このブルガードの反応は尋常じゃない。
《一体どんな子なんだろう?》
うーむ。会ってみたいような、ちょっと怖いような……
そのときアウラが言った。
「でもありがとう。伍長さんがいなかったらハスミンの所、素通りしてたのよね……そうだ。何かお礼できないかな?」
フィンは少々びっくりした。アウラがこんなことを言い出すなんて滅多にあるもんじゃない。ハスミンに会えるのがよっぽど嬉しいに違いない……
それを聞いたブルガードも驚いた。
「えっと、あの、いいんですか?」
「できることなら」
ブルガードはしばらく考え込んだ。それからしばらくもじもじしていたが―――やがて意を決するように答える。
「それじゃその……ちょっとお待ち下さい」
そう言ってブルガードは部屋から出ていってしまったのだ。
《なんなんだ?》
フィンとアウラは何事かと顔を見合わせたが―――彼はすぐに四角い紙を手にして戻ってきた。
「これなんですが……」
心なしか顔が赤くなっている。だがそれを見るなりアウラが言った。
「やーよ!」
「え? やっぱりですか?」
えらく残念そうな声だが……
「どうしてあたしが?」
アウラの声には少々棘がある。
「すみません」
ブルガードも小さくなっている。いったい何なんだ?
フィンは彼の手にしている紙を指して尋ねた。
「それって?」
「色紙なんですが……」
「色紙?」
フィンがぽかんとしているのでブルガードが説明した。
「これにキスマークとサインをもらうんですが、知りませんか?」
「え? 初めて聞いたけど」
「ヴィニエーラじゃ普通だったんですが……だからこれをみんな集めてたんですよ。なのでできればと……」
それを聞いてアウラが口を挟む。
「だからあたしは夜番だったんだって。夜番が色紙渡すなんて聞いたことないし」
「……ですよね」
ブルガードはうなだれている。今ひとつフィンは状況がよく分かっていなかった。
「何でだ? キスマークぐらいいいんじゃないのか?」
それを聞いたアウラが目をつり上げた。
「何言ってるのよ! これって馴染みのお客さんにあげる物なのよ?」
「え?」
それを聞いてフィンはやっとその重大な意味に気が付いた。
―――ってことは、これを持ってる奴はアウラの“客”だったってことになるわけか?
「おい! ちょっと待てよ。そりゃまずいだろ?」
「申し訳ありません……」
ブルガードは平身低頭だ。
「あたしお風呂に入ってくる」
アウラは拗ねてしまったようで、ふっと出て行ってしまった。
しばらくばつの悪い間が空く。ブルガードは恐縮して黙り込んでしまった。そこでフィンは彼にワインを一杯勧めると尋ねてみた。
「それにしても何でまたあいつの色紙なんかが欲しかったんだ? 普通怒るだろ?」
ブルガードは小声で訳を話した。
「すみません。その、ちょっと賭をしてまして」
「賭け?」
「はい……その仲間と飲んだときこの任務を受けられたことを話したんですが、そのうちアウラ様の色紙をもらえるかという話になってしまいまして、酔っぱらった勢いでつい……」
うーむ。まあよく分かる話だ。
フォレスにいた頃も結構ガルガラスとかの下士官と飲む機会があったが、その宴会ではよくそういった話になる。
確かにそんな彼らにとって“ヴィニエーラのアウラお姉様”として知られるフェレントムの姫の色紙があったとしたら―――あは! もう途方もない値打ちがあるのは間違いないだろうが……
「うん。悪いが一応あいつもちょっと立場があってな、そういうのはちょっとまずいと思うんだ。お忍びだったらこっそり渡せたかも知れなかったけどね」
「申し訳ございません」
ブルガードは恐縮して縮こまってしまっている。
「いや、まあそう気にするなって」
ともかくこれ以上この話を引っ張っても仕方がない。
そこでフィンは話題を変えることにした。
「それはそうとブルガードさんは、パサデラって知ってる?」
「はい? パサデラちゃんですか? もちろん知ってますよ」
ブルガードの目が再び輝く。
「彼女とハビタルで会ったんだけど……」
ブルガードは驚いた。
「ええ? パサデラちゃんがハビタルに? それは知らなかったです……ラーヴルに行ったと聞いてたんですが」
「そうなんだ? じゃああそこから更にハビタルまで流れてきたのかな? いや多分引き抜かれたんだろうな。すごくいい子だったし」
「今どんな感じになってますか?」
「ハビタルでも売れっ子になってるよ。館で宴が開かれるときには大抵いるし」
それを聞いたブルガードは得意そうに言った。
「ですよね。私もあの子は大成するって思ってましたから……じゃあまさかベラのお館様に見初められたとか?」
「あー、それはどうかな。お館様はエルミーラ様にぞっこんだし。後宮にはグレイシーってすごい美女もいたし……」
そう言いながらフィンはあの宴のことを思い起こしていた。
最初行ったときはびっくりしたものだが―――その後も冬の間エルミーラ王女に付いて回っていたときも、事あるごとに結構な宴が開かれていた。
《和平のときのは凄かったって聞くけど……》
エクシーレとの和平会談のときにはフィンとアウラは旅の空だったが、後から聞いた話ではなにやら空前絶後の規模だったという。
そしてそこでの王女の所業がこれまたもう……
《あはは。もう滅茶苦茶なんだから……》
フィンが思わずあのときの騒ぎを思い出していると、ブルガードが尋ねた。
「えーっと、その一つお尋ねして構いませんか? エルミーラ王女様って、その、噂を聞くんですが……」
!!
思わず吹きだしそうになるのを堪えて、フィンは平静を装った。
「え? 噂って?」
「なんでも……郭通いされてるとか?」
フィンは内心ため息をついた。
《いやもう。国際的になってるなあ……》
今でも堂々と正面から専用の馬車で乗り付けたりしてるから、フォレスでは誰一人知らない者はいないのだが……
「あははは。なんて言うのかな。その、まあ、女同士だと気が休まるとか、そんな感じじゃないかなあ」
それを聞いたブルガードの目が丸くなる。
「じゃあ、本当なんですか?」
「まあ、本当だな……一応は国家機密なんだけど。みんな知ってるけど」
フィンは笑って答えつつも、内心少々うんざりしていた。
あんなことがあったというのに王女様はあの“趣味”を改めるつもりはないようなのだが―――というより、何かもう完全に開き直っているようなのだが……
《あの後、なんか二軒連続で行ってたりするし……》
でもやはりこういう所に来ると誤解されかねない―――というか、間違いなく誤解される。
そんな際のフォローを今後ずっとし続けないといけないというのは……
《うー、もう……困ったもんなんだよなあ……》
細かく聞かれたらどうしようかと思ったが、ブルガードそれ以上は追及してこなかった。その代わりに……
「で、もう一つ質問、よろしいですか?」
「何だ?」
「アウラ様ってその、凄く“上手”だって聞いたんですが」
これも来たか!
ヴィニエーラのアウラという噂を知っていれば、この話も当然知っているのは間違いないわけで……
確かにフィンはアウラが女性を相手にそういったことをしている現場を見たことがある。
ハビタルを出立する前にパサデラと三人で楽しんだあの晩のことだが……
「やっぱり、そのすごいんですか?」
あはははは!
ブルガードは興味津々という目だ。その気持ちは痛いほど分かる! 分かりすぎる‼
「あー、まあ、凄いらしいなあ」
いや、マジ凄かったのは確かだが、でもあのときはパサデラだけでなくアウラまでが大変なことになっていた。
何しろアウラが以前と違って感じられるようになったのを知って、パサデラがこれまでのお返しと全力でサービスを始めたのだ。
おかげでフィンが果ててしまった後も、彼の上で二人で絡み合って延々とよがりまくっていたりして―――そんなのを見ていたらまたすぐ元気になってしまうので、時々またちょっと仲間に入れてもらえたりして……
―――要するに、彼女が上手かどうかとかいうのとはまた少し違った光景だったわけで……
《上手……ねえ……》
フィンの頭の中にアウラの様々な姿が駆けめぐりはじめる。
彼女がある特定の男を相手している現場ならば実によく知っている―――というか、この旅に出てからというもの、気分が乗ってくれば所構わず、だったりして……
《そういえば二人で楽しんでるときって、あいつそんなテクなんて使ってたっけ?》
最近ならヴィニエーラの娘達の物真似をしてくれたりしていたが、それとはちょっと違うだろうし……
《でも本当に凄いのは確かなんだけど……》
最近では彼女と会う以前のことが思いだせないくらいなのだが、ともかくそれまでとは一線を画しているのも事実だ。
《でも何が違うんだ? 腰の動きとかか?》
同じようなことを別な遊女にしてもらったこともあるが―――確かにアウラの場合、言葉にならないくらい絶妙な動きで……
《ってか、そもそもこれじゃ女に対して上手って説明にはなりゃしないし……》
―――などということが頭をかけめぐっていたときだ。
「ああ、気持ちよかった! ん? 何話してるの?」
扉の所に風呂から上がってきたアウラが立っていた。
あわわわわ!
「え? いやほら、ハビタルにパサデラがいたって話をさあ……」
フィンは慌ててごまかした。
アウラはじろっと二人を見たが、それ以上何も言わない。おかげでまた気まずい沈黙が場を支配する。
それを破ってくれたのはレターセットを持ってきたストーディだった。
「伍長。お持ちしましたよ」
「遅かったな?」
ブルガードはストーディをじろっと睨む。
「すみません。ストックが切れてたとかで」
ブルガードはストーディからレターセットを受け取ると、報告書を書き始めた。
その間アウラはベッドに座ると、風呂場に大きな蜘蛛がいたとかいった話を始める。当然フィンが蜘蛛嫌いなのを知っていてのことだが―――お陰でさっきまで頭の中に渦巻いていたピンク色の妄想は綺麗さっぱり消し飛ばされてしまった。
《まったくもう……》
そうこうするうちにブルガードは報告書を書き終わると、手紙に封をした。
そのために彼は懐から美しい短刀を取り出すと、垂らした封蝋にその柄頭を押しつけて封印をしたのだが―――柄頭に印章が彫り込んであったと見えて、封蝋には綺麗な紋章が転写されている。
それを見たアウラの目が輝いた。
「え? それなに?」
「はい?」
アウラの目が妙にきらきらしているのを見て、ブルガードは驚いて彼女を見返した。
彼はまだアウラが大変な刀剣マニアだということを知らなかった。
「その剣。すごく綺麗。ちょっと見せて!」
「え?」
まごついているブルガードにフィンが言った。
「ああ、アウラって、結構そういった綺麗な剣が好きなんだ」
ブルガードはうなずいたが、次いできっぱりと答えた。
「あの、申し訳ありませんが、ちょっとそれは致しかねます」
「え? どうして?」
「これは親衛隊に任命されたときに、アラン様より拝領致しました物ですので」
そう言われてフィンは納得した。だったら仕方がない。
「ああ、名誉の剣みたいなものか? エクシーレの」
フィンの問いにブルガードは首を振る。
「それがどういうものかは存じませんが、ともかく軽々しくお見せするわけには参りません」
「えーっ!」
アウラは不満げな顔だ。フィンは彼女を諭した。
「諦めろよ。あれって親衛隊の名誉の証みたいだ」
それを聞いてアウラも一応納得したようだが―――まだ未練がましく尋ねる。
「うーん……どうしても?」
「申し訳ありませんが……」
ブルガードはそう言って頭を下げる。
それを見てさすがのアウラも黙り込んだ。
だがブルガードが手にした短剣にずっと目は釘付けになったままだ。
それから急に手を叩くと言った。
「あ! じゃあ、色紙あげるって言ったら?」
「え?」
ブルガードは驚きの声を上げる。
「アウラ、やめとけって。命の次に大切な物みたいだから……そうだよね?」
そう言ってフィンはブルガードの方を見たのだが……
《おい!》
今度はブルガードがテーブルに置かれた色紙を見つめて頭を抱えて考え込んでいる。
《いや、まさか……心が動いているのか?》
それから彼は頭を上げる。
「本当ですか?」
その表情は何か恐ろしい葛藤に苛まれている男のそれだ。
「嘘は付かないわよ?」
そう言ってアウラは化粧セットを取り出すと、唇に紅をひき始めた。
それを見たブルガードはますます心を動かされたようだ。
「あの、伍長?」
その様子を見ていたストーディがさすがに声をかけるが……
「うるさい!」
ブルガードはにべもなく黙らせる。
その間にアウラは色紙にキスマークをつけて、サインまで済ませていた。
それをブルガードの前でひらひらさせる。
「ねえ、こんなのでいい?」
ブルガードの理性は崩壊した。
「分かりました。大切に扱って下さいよ」
ブルガードはアウラに短剣を渡した。
「わあ!」
アウラはそれを受け取ると、重さを確かめるようにじっと目の前に差し出して眺める。
「じゃあこれ」
それからブルガードに色紙を差し出す。
「ありがとうございます!」
色紙を受け取ったブルガードは、それに頬ずりをせんばかりだ。
《こいつら……》
短剣を持って小躍りしている女と、色紙を手にしてうっとりしている男……
これにそこまでの交換価値があるのだろうか?―――よく理解のできない世界だ……
アウラはじっとその短剣を色々な方向から見つめていたが、次いですらっと抜きはなった。
刃は顔が映る程に磨き上げられていて、蝋燭の明かりを反射してきらっと輝いた。
遠目に見ても素晴らしい短剣だ。
「ああ! いいな。これ」
アウラがうっとりとしながら言う。
「あげませんよ?」
さすがにブルガードが言う。
「分かってるけど……それとここに判子があるのっていいわね」
アウラは柄頭の印章を撫でた。
「それは文書を送る際に親衛隊員の証となるんです。一人一人のイニシャルも入っているので、それで誰が送ったかも証明できるんですよ。だからこそ特に大切にしなければならないんです」
ほう? そんな意味があったのか? とフィンが思っていると、アウラが言った。
「へえ……あ、そうだ。フィン。都に行ったら剣作ってくれるって言ってたでしょ?」
「ああ? うん」
フィンはうなずいた。もちろん忘れるはずがない。
「その剣にこんな判子付けられる?」
「判子っていうか、印章だな? そりゃ頼めば何とかなると思うけど?」
それを聞くとアウラは柄頭の模様を撫でながら言った。
「このマーク、かっこいいな」
「そりゃシルヴェストの王家の紋章だよ。そんなもんをつけられるわけないだろ」
さすがにそれがまずいことはアウラも分かったようだ。
「そうなんだ……でも、フィンの家の紋って、ちょっと変だしね」
「変で悪かったな!」
一応伝説にも出てくる由緒ある紋章ではあるんだぞ? 荷車だけど……
「そうだ。あたし達の鹿のマークにしようか?」
「え?」
「あたし達だけのマークってのもいいんじゃない?」
「ああ……そうだな」
そんなこと考えたこともなかったが―――結構面白いのかもしれない。
鹿か―――ゆっくり考えてみよう。
それから数日後、一行はロタへ向かうワイン街道を進んでいた。
道は山間の難所に差し掛かっている。街道は傾斜を増し、細く曲がりくねりながら高度を上げていく。
とはいっても、彼らが今まで通ってきたフィブラ峠とかアンゴル峠といった大山脈越えルートには比べるべくもない低山だ。
あちらの方は森林限界を超えていて万年雪があったりするが、こちらはずっと森の中だ。とはいっても山は山。そう油断するわけにもいかない。
「さすがにこの辺だと涼しいわね」
馬車の御者台で手綱を握っているアウラが言う。
「そうだな。やっといい感じだな……でもロタはまた暑いんだろ?」
横に座ったフィンが答える。
「盆地だから暑いみたいよ? 昼間は」
「ふあ~」
フィンは溜息をついた。
この季節、低地は暑くていけない。この山越えの間だけはひと息つけるが―――そのとき御者台の足下にある小窓からブルガードの声がした。
「あの、アウラ様、お疲れにはなりませんか?」
中から彼が心配そうに覗いている。
アウラは前を見たまま答えた。
「大丈夫よ。この道すごく走りやすいし。山道だからもっと大変かと思ってたけど」
「ああ、ここは道の整備はいいんですよ。ワインの運搬路ですから……でもお疲れになったらすぐ言って下さいね」
「うん」
だが見る限り彼女は馬車を走らせるのを相当に楽しんでいる。しばらくそこから退く気配はなさそうだ。
「ル・ウーダ様も暑くありませんか?」
「あ、大丈夫だよ。ありがとう」
そう答えながらフィンは可笑しくなってきた。
考えたら今、馬車の中にはブルガードとストーディが乗っていて、馬車を御しているのがアウラなのだが―――彼らの任務を思えばこれは思いっきり本末転倒だ。
なぜそんなことになっているかというと、実は今日の朝ストーディが体調を崩してしまったためだった。
ここに来るまで馬車を操っていたのはおおむねストーディだった。彼は親衛隊の中でも特に馬車の操作が上手だったので、今回その役を任されていたのだ。
その彼が動けなくなってしまった以上、誰か別な者が御者をしなければならないが、そこでちょっとした問題が起きた。
常識的にはブルガードが当たるのが当然なのだが、彼は馬車を動かすのはあまり得意ではなかった。これが平地であれば誰が御者をやろうと大差がないが、これから行程は山越えの難所に差し掛かる。
そんな所で“要人”を乗せた馬車を動かさなければならないわけで―――そのため今日の朝、宿屋では以下のような会話が交わされていた。
―――ブルガードは青い顔で言った。
「どうしましょうか……お二人を危険にさらすわけにも行きません。代わりの者を呼び寄せますのでしばらくお待ち頂けませんか?」
それを聞いてアウラが言った。
「待つってどのくらい?」
「一日か二日……そうすればストーディも治るかもしれませんし」
「えー? そんなに? 川の所でも待たなきゃならなかったし」
一行はヘリオス川の渡しで、雨で増水していたため二日ほど待たされていたのだ。
アウラは早くハスミンに会いたくてうずうずしているようだった。
「でもアウラ様……」
ブルガード達の立場も理解できた。
彼らはフィンとアウラを安全に国境まで送り届けるのが任務だ。うっかり事故でも起こしたら責任問題だ。
アウラの気持ちも分かるが仕方がない。
《ここで待ってるしかないのか?》
フィンがそう思ったときだ。唐突にアウラが言ったのだ。
「じゃあ、あたしが動かしていい?」
フィンとブルガードは驚いてアウラの顔を見る。冗談を言っているようには見えない。
「ええ?」
「おい、お前馬車なんて……」
二人の疑問にアウラは答えた。
「あたしヴィニエーラにいたときよく、あそこの馬車を動かしてたのよ? グリシーナってほら、すごく走りにくいじゃない。それにちょっと揺らしたらぶうぶう文句言う人ばかりだったし」
フィンとブルガードは顔を見合わせて納得した。
言われてみれば当然だった。郭の夜番の仕事には遊女の送迎も含まれている。
この間話を聞いたときも、彼女はどこかの屋敷に馬車でレジェを連れて行ったと言っていたが―――しかもグリシーナの市街は確かに道が細くて曲がりくねっている所が多い。
そんな所で鍛えていればこんな山道でも問題ないかも? だが……
「あの、ですがアウラ様にそのようなことをして頂くわけには……」
ブルガードが首を振りながら言った。
「どうして?」
「あの、私どもがお守りしているのがアウラ様でして……」
ブルガードはしどろもどろだ。
確かに全くその通りだった。外国の要人警護をしているのに、その要人に御者をさせるなんて、普通は論外だ。
だがこの何の変哲もない道中宿に何日も逗留しているのが退屈なのも間違いない。
そこでフィンが言った。
「じゃあ難しそうな所だけアウラと代わるってのは? それにストーディさんだってちゃんとした医者のいる所まで運んだ方がいいかも知れないし」
「そんな大層な病気じゃありませんよ……でも……」
「ねえ、いいじゃない。黙ってたらどうせ分からないし」
「………………」
こんな感じでブルガードは押し切られてしまったのだった―――
アウラは久々に馬車を動かせて大喜びだ。
フィンは彼女があまりにもはしゃいでいるのを見て少々心配になったので、一緒にその横に座ることにした。
《まさか暴走するってことはないと思うけど……》
手綱を握ったら性格が変わる奴はけっこういるし―――あのメイがそんなだという話もちらほら聞いていたし……
だがそれは杞憂だった。
彼女の手綱さばきは堂に入ったもので、しかも非常に慎重だった。
考えてみたら彼女が乗せてきた乗客は、絶対に傷つけてはいけない客ばかりだった。そのあたりの御者よりも操作が慎重になるのは当然かもしれない。
「すごい景色ね」
「ああ。こりゃ確かに緊張するわな」
道はちょっとした峡谷に差し掛かっており、急な斜面上の切り通しになっている。
左手は深い谷になっていて遮る物もない空間だ。
対岸はほぼ絶壁になっているが、完全に岩肌がむき出しになっているわけではなく、岩場のあちこちにこんもりと木が生えている。
谷川はここからは見えないがかなりの水量があるようで、流れているのは随分下のはずなのに、激流の放つ轟音がここまで十分に聞こえてくる。
「大丈夫ですか?」
中からブルガードがまた声をかけてくる。
「大丈夫よ」
アウラが楽しそうに答える。
街道は馬車が通るには十分な広さがあるといっても、ちょっと外れたら真っ逆さまだ。もちろん手すりなどない。
しかも御者台はほとんど屋根の高さに近い所にあるので、そこに座ると更に高度感が増す。高所恐怖症の者なら一発で失神しそうなそんな眺めだ。
だがその点に関してだけは二人には無関係だった。
アウラは元々そこまで高い所が苦手というわけではなかったし、フィンと一緒になってからは自分からそんな場所に行きたがったくらいだ。
だから二人はほとんど観光気分だった。
―――そんな調子で馬車を走らせていると、前方に巨大な岩が現れた。
街道はその下部を通っているが、そこだけかなり幅が狭くなっている。
「アウラ、大丈夫か? あそこ」
フィンは一応尋ねてみた。
「あれだけ幅があれば十分よ」
「そっか」
この時点ではもう誰もアウラの腕に疑問を抱いていなかった。それを聞いてフィンは安心して鼻歌を歌いながら左手に広がる絶景を眺める。
「これって秋に来たら紅葉が綺麗なんじゃないかな?」
「うん。そうかもね」
「シルヴェストに今度来るときはやっぱり秋だな……」
と、フィンがそこまで言ったときだ。
ド・ドーン!
上の方からそんな低い轟きが聞こえてきたのだ。
「ん?」
フィンは何気なく上を見て……
「わわわわ! 上! アウラ!」
何と、巨岩の上が崩れてこちらに向かって落ちて来ているではないか‼
「え? きゃああああ!」
アウラも思わず叫び声を上げる。
それからの数瞬は、まるでスローモーションのように流れていった。
場所が場所だけに急加速もできない。
上からなだれ落ちてくる岩塊はもはや避けようがない。
フィンは慌ててアウラの手を掴むと、思いっきり馬車から飛び出した。
空中でアウラの体をたぐり寄せ、しっかり腰に手を回す。
その瞬間馬車に大きな岩が命中し―――その反動で街道から転落していく。それに続いて二頭の馬も引きずり落とされて悲しそうないななきを上げる。
「いやあああ!」
アウラが思わず声を上げるが、フィンもそれどころではない。
ともかく例の魔法で落下速度を落とすが―――彼らの下を馬車と馬が何度も回転しながら落ちていくのが見える。
!!
《えっと……あの中……》
フィンの背中に冷たい物が走ったが―――そのときはそれ以上は考えられなかった。
ともかく自分たちの命の心配をしなければ……
慌てて飛び降りたので落下速度がかなり速い。あの魔法では一旦速くなった速度を遅くすることはできない。
下を見るとちょうど谷川の中央に向かっているようだ。
結構深そうだが、あそこなら何とかなりそうだ……
ど・ばーん!
それからどのぐらいの時間が経っただろうか? 二人は派手な水しぶきを上げて、冷たい谷川の中に胸まで浸かっていた。
しばらく二人はそのままだった。
それからアウラが振り向くとフィンの顔を見る。
何か言いたそうだが言葉がうまく出てこないようだ―――それはフィンも同様だった。
「伍長さん……」
アウラがやっとそれだけ口にする。
それを聞いてフィンはガンと殴られたような気がした。
《そうだ! あの中には二人が乗っていたはずだが‼》
フィンは慌てて浅瀬まで歩くとあたりを見回しながら叫んだ。
「馬車! どこ落ちた?」
「もっと下流よ」
そう言ってアウラがざぶざぶと歩き出す。フィンもすぐにその後を追う。
だがアウラは目の前の岩角を曲がった所で、両手で口を覆って立ち止まった。
「ひどい……」
馬車は粉々に砕けていた。
一緒に落ちてきた馬も共に下敷きになって死んでいた。
アウラは目を背ける。フィンも、ちょっと直視できなかった。
だがそこで立ちつくしているわけにもいかない。
フィンは力を振り絞って馬車の残骸に近づいていく。すると―――馬車から少し離れた浅瀬にストーディが倒れているのが見えた。
「ストーディさん」
フィンは慌ててその側に寄ったが―――数歩手前で立ち止まらざるを得なかった。
彼の体からは赤い濁りが数条ほど流れ出している。
首はあらぬ方向に曲がっている。
フィンは頑張ってその側まで行って彼の体を覗き込んだが―――どう見ても即死だ。
「ああ!」
声を聞いて振り返ると、アウラが壊れた馬車を覗き込んでいた。
手で顔を覆っている。近寄ると―――残骸の中から男の腕が突きだしているのが見えた。
フィンは近づいて怖々とその手を取ってみたが―――反応はない。脈もない……
「ああああ!」
フィンはその場にへたり込んだ。
何なんだ? 一体? 何が起こったんだ?
「地震……?」
アウラがぽつりと言うが……
フィンははっと顔を上げた。
このあたりは結構大きな地震が起こることもある。最近はなかったが小さい頃一度大きな奴を体験したことがある。馬車に乗っていれば少々揺れていても分からない場合もあるが―――いや、あんな落石が起こるような地震ならさすがに分かるだろう?
「いや、何も感じなかったが?」
「そうよね……じゃああの音、何だったのかしら」
そうだ。あのとき聞こえてきた轟音はいったい何だ?
少なくとも地鳴りなどではなかったが……
ということは?
ということは?
ということは……
《俺たち……襲われたってことか?》
フィンは上を見上げる。
突きだした岩に隠れて上がどうなっているかは分からないが―――だとすれば……
「ともかく……アウラ、ここを離れよう」
アウラはしばらく無言だったが、やがて黙ってうなずいた。
「最低限の荷物だけ持っていこう」
「うん」
二人は残骸から自分たちの荷物を引きずり出した。
元々馬に載せるのに都合がいいように小分けしていたので、その作業はすぐ終わった。
自分の荷物と薙刀を手にしてアウラが尋ねる。
「で、どこ行くの?」
「え? どこって……」
そう言われてフィンは考えた。
そう。誰かが彼らを襲ったとしたのなら―――絶対確認しに来るはずだ! だからここから離れなければならないのだが……
そのときフィンの頭にちょっとしたアイデアが浮かんだ。
《とりあえずやっておくべきか?》
あまり考えている暇はない。
そこでフィンは浅瀬に横たわっているストーディの死骸の側に行くと、彼に話しかけた。
「ごめん。ストーディさん。でもちょっと働いて欲しいんだ」
「何するの?」
アウラが不思議そうに尋ねる。フィンは答えた。
「彼を流す」
「どうして?」
「説明は後だ」
そう言いながらフィンはストーディの死骸を川の中腹まで押しやった。
死骸は川に浮かぶとゆっくりと流れ始める。それを確かめて彼に礼をすると、フィンはアウラに言った。
「じゃあ川上に逃げよう」
「……うん」
アウラはうなずいた。
―――それから二人は川の中をざぶざぶ歩きながら川上に向かった。
だが水流はあるし川底は石がごろごろしていて歩きにくい。
「歩きにくいな……しょうがない。アウラ。あれでいこう」
「え? うん」
アウラは背負っていた薙刀を下ろして、柄の方をフィンに差し出す。このあたりはもう何をしたいかそれで通じるようになっている。
フィンはアウラも薙刀の柄をしっかり持ったのを確認すると、軽身の魔法で二人の体を軽くする。二人はそのまま岩づたいに飛び飛びに川を遡り始めた。
これは最初の川下りのときには散々失敗したものだが、今では二人の息はぴったりで、何連続ジャンプでも軽々できるようになっていた。
川を数キロほど遡った所でフィンはアウラに合図すると、濡れた大岩の上に座り込んだ。これは精神を集中し続けなければいけないので結構疲れるのだ。
「大丈夫?」
「ああ、ちょっと一休みしよう」
フィンは川の水をすくって飲んだ。冷たい水が喉に心地よい。
二人はしばらく呆然と流れる水を見つめていた。
そこでアウラが尋ねた。
「でもどうしてストーディさんを?」
「ああ、そうだな……」
フィンはアウラに先ほどの行動の説明をした。
彼らを襲った奴らが確認しに来たならば、まずは死体を捜すだろう。普通はあの高さを落ちて生きているなんて考えられないが、そのときに彼らの死体がなかった場合どう思うか?
普通なら馬車から放り出されて下流に流れていったと考えるはずだ―――そこで実際に放り出されて流された死体を見つければ、フィンとアウラもそうなったと確信するだろう。
そうやって彼らが下流に目を向けてくれれば逃げる時間が稼げる。
運がいいことにこの川は水量が多い。かなり下流まで流されてもおかしくない。
だとすれば彼らはしばらく下流で存在しない死体を捜して時間を浪費してくれるわけだ。
話を聞いてアウラも納得した。
「ふうん。じゃあ今晩はどうするの?」
「山の中で野宿かな……街道だと見張られてるかもしれないし……」
それを聞いてアウラは笑った。
「こんなのばっかしね」
「はは。まったくだ……」
―――アラン王の敵対勢力は、どうやら彼らを生かして国から出すつもりはないようだった。