第5章 藪の中
フィンとアウラが潜んでいる藪の中はほとんど無風だった。
むっとした草いきれが体にまとわりつき、汗が頬を伝って流れ落ちて来る。
フィンは段々頭がぼうっとしてきた。
二人は今、ロタ村にあるバラノス農園の母屋に近い藪の中にいた。
あの襲撃から数日が経っている。その気になればもっと遠くまで逃げられたのだが、二人がまだこんな場所でこうしていた理由は、アウラがハスミンを一目見てから行きたいと望んだからだ。
あそこで彼らが“敵”に襲われたということがほぼ確実な以上、さすがにハスミンを訪ねていくわけにはいかなかった―――何しろ二人の敵は彼らだけでなく、彼らに関わった者まで全てこの世から消し去るつもりなのだ。
既にブルガードとストーディが犠牲になっている。二人が訪ねていったことがばれたりしたら、それこそハスミンとその一家の命までが危険にさらされるに違いない。
そのことはアウラもすぐ理解してくれた。
だが彼らが経路をこっちに変更した理由は、ひとえにハスミンに会うためだ。彼女に会いたいというアウラの気持ちも良く理解できる。今回を逃すと次はいつ会えるか全く分からないのだ。
それに引き返すのが危険だとすれば、ロタはすぐ先だ。
そこで遠くから彼女の元気な姿だけでも見てから行くことにしたのだ。
幸いなことにバラノス農園の場所は難なく分かった。
しかしハスミンがいつ出歩くかまでは分からなかった。今の状況だと聞き込みをするわけにも行かないし―――そこで仕方なく二人は母屋の近くにまでこうして忍んで来て、彼女が出てくるのをじっと待っていたのだ。
《まだかよ?》
だが彼女はいっこうに現れない。
《いつまでここでこうしていればいいんだ?》
そう思ってアウラの方を見るが―――彼女は相変わらずじっと母屋の方を見つめ続けている。
ここは彼女に付き合うと決めた以上文句は言えないが……
《これじゃそのうち干からびちゃうんじゃないか?》
この暑さではあながち間違いでもない気がするが―――そんなことを考えていたらますますげっそりしてくるが……
ともかくこの隙にもう一度、今後のことを考え直しておくのもいいだろう。
あの日以来、フィンはそのことは毎晩考え続けてきた。
だが考えれば考えるほど洒落になっていない事態だった。
あれは事故などではなく、襲撃されたというのはほぼ間違いなかった。その上二人が生き残れたのは、本当に幸運だった。
もしあの日ストーディが体調を崩していなければ、あの状態で脱出できただろうか?
二人で御者台にいたからこそ即座に状況を把握して飛び出すことができたのだ。もし二人が馬車の中だったら―――間違いなくブルガード達と同じ運命を辿ったことだろう。
彼らのことは、あの状況ではどうしようもなかった。
自分達の命のことだけで精一杯だった―――ともかく今はブルガードとストーディのことは忘れて、生き残れたことに感謝するしかないが……
《忘れて?》
何だか冷たい言い方だ。
特にアウラはあれから結構ブルガードとは馬が合っていた。
ヴィニエーラの思い出を語るアウラの眼差しは生き生きと輝いていた。
あの日からアウラはあまり笑っていない。
心の中が怒りで満ち溢れているのは間違いない。
それはフィンとて同様だった。
もしこれが追っ手を見つけ出して叩き斬って済む話ならば、二人は間違いなくそうしていただろう。だが、少なくともそれでは何の解決にもならないことだけは明らかだった。
だとすれば今後どうすればいい?
―――これは難問だった。
当座は山を越える必要があった。
だがそれに関してはほとんど問題ではなかった。彼らが越えていた山脈は大した高さではなかったし、既に半ば近くまでやって来ていたところだ。後は尾根を越えればロタ村までは大した距離ではない。
もちろん街道を通るわけにはいかないから少々の難路にはなるが―――アウラとならばほとんどピクニックのような行程だ。
問題はその後だ。
通常ならこのままさっさと国外に逃げてしまうのが一番だ。
どういう敵かは知らないが、さすがに国外までは追ってこないだろうし、そういう選択をしたからといって誰に責められる謂われもない。
《でもそうした場合……》
シルヴェスト王国は大きな爆弾を内部に抱え込んでいるわけだ。
そいつらは間違いなくかなりの組織力を持っている。
まず一つ言えることは、そいつらの手先がグリシーナ城中にいるということだ―――でなければそもそもフィン達の行動が分かるはずがない。
その上彼らは途中で思いついて行き先を変えたのに、奴らはそれを知って罠を仕掛けてきたのだ。
一体どうやってその情報を入手したのだ?
《まさかブルガードかストーディが?》
彼らが敵の手先だったなんてあり得るだろうか?―――だがあの襲い方だと、奴らは最初から彼らもろともに谷底に突き落とすつもりだったはずだ……
《いくら何でも味方をそんな風に犠牲にするか?》
そんなこと普通はあり得ない。もしあったとしたならば―――とんでもなく悪辣な奴らだということだ!
ここは彼らは普通に味方だったとするべきだ―――とすれば、彼らの動向が監視されていたということになる。
考えてみれば彼らの馬車は目立つし、普通に見張っていれば行き先が変わったことも分かるだろう。
最大の問題は、そんな勢力がシルヴェストの国内に存在しているということなのだ。
そしてそいつらが何故かは知らないが、フィンとアウラをこの世から消し去りたいらしい。
《だから、何でなんだ?》
正直、ここまでするというのは少しばかり異常だ。
フィン達なんて放っておけばそのままシルヴェストから出て行ったのだ。そうなればもう邪魔になりようがない。ならば普通は黙って出て行ってもらうのが得策だと考えるだろう?
だがそいつらはどうしてもフィン達には死んでもらいたかったらしい。
何故なのだ?
彼らが一体何をしたというのだ?
それとも何を知っているというのだ?
《奴らがそこまでする理由とは、いったい何なんだ?》
フィンはふうっと溜息をついた。
ここなのだ―――あれからずうっと考え続けているのだが、そこが分からない。
要するにフィンとアウラはそいつらにとって“極めてまずい何か”を握っているということなのだろう。奴らが必死になって、何が何でも消し去らねばならないような何かを。
だがいくら考えてみても、そんなヤバそうな物や情報に心当たりはなかった。
「何なんだよ?」
アウラがフィンの独白を聞きとがめる。
「ん? 何?」
「いや、ちょっとな……」
フィンは再び溜息をつく。
あるとすれば、例の盗賊退治の件かヴィニエーラの件だろうが……
確かにあれが奴らの陰謀の一環だったとすれば、それに結構深く関わっているのは確かだが……
だからといって、あれを誰かに詳しく話したとして、その中にこんな風に命を狙われなければならないようなヤバい秘密が隠されているのだろうか?
どちらの件でも彼らはほとんど単なる傍観者でしかなかったのだ。
盗賊達をやっつけたり、アウラが追っ手に手を下したのは確かだが、それによって彼らが何かを得たわけではない。
それにこのことはあの夜会の次の日、王とその側近数名に対して知っている限りのことを詳しく話している。
もし奴らの手先がそれを聞いたなら、フィン達が重要なことは何も知らないと分かるはずで、ならばこんな必死な反応もしなくていいと分かりそうなものなのに……
ということは城の中の手先は雑魚レベルなのだろうか?
フィンが王に話したようなことは知らずに、例えばヴィニエーラのアウラが戻ったということだけに反応して慌てて消しにかかったというのか?
《やっぱり戻った方がいいのか?》
戻ってアラン王に伝えた方がいいのだろうか?
そもそもこの事件は王に伝わっているのだろうか?―――いや、多分王はまだ知らないはずだ。ブルガードは行く先を変更する際には報告を送っていたが、それ以外では特に定期連絡などはしていなかった。
便りがないのは良い便りということで、王は彼らがこんな目に遭っていることはまだ知らないはずだ……
そこで二人が城に舞い戻ったとしたらどうなる? 奴らはますます本気になるのは間違いない。もはや城の中でさえ安全とは言えないだろうし―――それ以上に奴らが本気で企んでいる何か、例えばクーデターとか王の暗殺とかを慌てて実行に移す可能性だってある……
《いや、まさか……》
だがフィン達の存在が奴らにとって、ともかく都合が悪いらしいのだ。
その存在を消せないとなれば、フィンかアウラのいずれかが“大切な何か”を思い出す前に計画を実行してしまう方がいいかもしれないとか……
そう考えればここはやはり死んだことにして、国外に脱出してしまう方が良さそうだが……
《でもなあ……》
彼らがいなくなれば、シルヴェストでは陰謀の障害はなくなるわけだ。
そうしてシルヴェストが揺らぐと、これはもうこの一国だけの問題ではない。
そもそもフィン達がなぜこんな旅行をしているかというと、それは中原の動静をその目で見てくることにあったわけだが―――この“中原の動静”とはレイモン王国とそれを取り巻く小国連合の力の均衡具合を実際に見てくることとほぼ同義だ。
シルヴェストはその小国連合の要だ。
その要が揺らぐようなことがあれば、中原のパワーバランスは間違いなく変化する。
そうして小国連合が崩壊するようなことがあれば―――今度はフォレスが矢面に立つことになるのだから……
何だかフィンは気が遠くなってきた。
《一体どうすりゃいいんだよ?》
せめて彼らがどんな秘密だか何だかを握っているのかさえ分かれば、少しは話が違ってくるのだが……
《それさえ分かりゃ、まだ色々手は打てるんだが……》
だが今のままではどんな手も打てなかった。
耳元でぷーんという音がする。蚊が寄ってきたようだ。虫除けは体中に塗ってきたが、この汗で流れ始めたらしい。
「まだか?」
「うーん」
アウラがそう呻いたときだ。母屋の方に何か動きが見えた。
見ると扉が開いて中から誰かが出てくる。
二人は緊張した。
「来たか?」
「どうかしら?」
出てきたのは若い女性に見えたが、彼女は横に曲がって裏手の方に行ってしまった。
「今の……」
「よく見えなかった」
アウラが唇を噛んだ。再び彼女は現れるだろうか? それとも裏手の方まで移動した方がいいだろうか?
だがその心配は杞憂に終わった。
ちょっとしてから裏手から再び彼女が現れた。見ると大きな犬を連れている。
「あいつの散歩か?」
フィンのつぶやきにアウラが黙ってうなずくと、その女性をじっと見つめた。
今度は少し距離はあるがこちらの方を向いているので顔がよく見えた。それを見たアウラの顔が輝いた。
「あの子だわ!」
「彼女が?」
フィンも目をこらしてその女性を見た。
彼女は遠くから見てもなかなか綺麗な顔立ちなのが分かる。だが……
「随分太ったみたい」
「そうだね。見るからに農家の女将さんて感じだな」
聞いた話ではかなりほっそりとしているはずだったのだが―――デブとまではいかないにしてもかなりふっくらとしている。
「いいもの食べてるのね」
アウラは微笑んだ。
「そうだな」
太るということは少なくともお腹一杯食べられているということだ。
それに彼女の表情はここから見ても何やら楽しげだ。ここで彼女が辛い目に遭っているわけではなさそうだ。
それまでは緊張気味だったアウラの顔に安堵の表情が浮かんでいた。
ハスミンはそのまま犬を連れて二人の前方を歩いていく。フィンとアウラは黙って彼女を見送った。
それを見つめながらアウラは残念そうな溜息をつく。
《そりゃそうだよな……》
せっかくここまで来たというのに話すこともできないのだから……
それはフィンも同様だった。
ハスミンはアウラの回顧の中でそこかしこに登場してくるため、今ではフィンも彼女のことには随分詳しくなっていた―――そんな彼と出会う前のアウラをよく知っている娘だ。フィンとしても随分と興味があったのだ。
だが場合が場合だ。
彼女のことを思うのならこうして遠くから見ているしかない―――そう思ったときだった。
ハスミンが突然しゃがみ込んだ。
「どうしたのかしら?」
アウラがつぶやくが―――ところが次の瞬間ハスミンは大きな声で犬に向かってこんなことを言い始めたのだ。
「え? なに? メル君、ええ? そうなの? またノゾキが? ふーん」
彼女が二人が潜んでいる藪の方を見る。二人は慌てて身をすくめて顔を見合わせたが……
《見つかったのか?》
もしかしてあの犬なら見知らぬ二人の匂いを簡単にかぎ分けるか? だとすれば……
「よし! 行け! 襲え~!」
その命令と共にメル君は全速力でフィンとアウラの方に突進してきたのである。
全くの予想外の展開に逃げるいとまもなく、次の瞬間フィンはその犬に飛びかかられて地面に押し倒されていた。
「だわあああ!」
「ああ! フィン!」
アウラが慌てて薙刀に手をかける。だが犬はフィンを組み敷いて唸っているだけで、それ以上は何もしてこない―――そこにハスミンの声がした。
「ほほほほ! このハスミン姉さんの姿を覗くなんて、命知らずのノゾキさんねえ! さあ! 出てらっしゃい。出てこないとメル君に食べられちゃうわよ! ほーら、ほーら!」
フィンは頭が真っ白だ。
そこでアウラが立ち上がって叫んだ。
「ハスミン! 何やってるのよ! この犬、除けてよ!」
「え?」
ハスミンは目を丸くして藪の中から現れたアウラの姿を見つめた。
「え? え?」
「ハスミン!」
「お、お姉様? 本当にお姉様?」
ハスミンはじりじりとアウラににじり寄ると、いきなり走り出してアウラに飛びついた。
その勢いにアウラも地面に押し倒されるとハスミンに馬乗りになられてしまった。そんなアウラの顔を手で撫でながらハスミンは言った。
「アウラお姉様なの? 本当なの? どうして? 今までどこ行ってたの? 急にいなくなっちゃうんだから! みんな心配してたんだから!」
ハスミンはアウラに頬ずりし始める。
「本当に寂しかったんだから! ヴィニエーラはあんなことになっちゃうし、怖い人たちが郭の中で斬り合いしているし、お姉様を探しに行ったのにどこにもいないし、ウィーギルさんまでが怪我して倒れてるし、でもお客様を置いてけないから元に戻ったのよ。そうしたら郭の中は火事になってるし、もうみんなきゃあきゃあ言って逃げまどってるし……」
「ねえ、ハスミン」
「シーナが足に大やけどして倒れてるのに誰も助けてあげてなかったのよ。だからあたしシーナを助け起こして水で冷やしてあげてたの。そしたら姉御さんがきてみんな集まれって言うから、八角御殿まで行ったのよ。そこに行ってもお姉様もレジェ姐もいないし。もう本当にどこ行っちゃってたの? レジェ姐と一緒に駆け落ちしたんじゃないわよね?」
「だから、ハスミン……」
「でも本当にお姉様よね。嘘じゃない。あ、この傷! 本物よね。やっぱり幽霊じゃなかったんだ。ああ、そうよね。幽霊だったらメル君が見つけるわけないものね。やっぱり帰ってきてくれたんだ。嬉しい! でもどうしてここが分かったの? 誰に聞いたの? それより……」
「だからハスミンって!」
アウラはハスミンのほっぺたをつねって引っ張った。
「きゃあ!」
「えっとその犬、除けてあげて」
そのときになって初めてハスミンは犬の下敷きになっているフィンに気がついたようだ。
「え? 誰? この人? 知ってる人?」
アウラは苦笑いしながらうなずいた。
「うん。フィンって言うの」
「え? お姉様の知り合い?」
「うん」
それを聞いてハスミンはしばらく絶句した。
「………………え、え、ええええええええええええ???!!!」
それからハスミンはアウラとフィンを五回くらい交互に見てから言った。
「でもお姉様、男って大っっっ嫌いだったじゃない。触られただけでも虫酸が走るって。だからあの人ボコボコにぶったりして、ほらえーっと、そうそう。ウィリスさん。お姉様を口説こうとしてた。いい気味だったけど。あの人ってちょっと変だったでしょ? ちょっと目つきが逝っちゃってる感じで……」
「だからねえ、その犬を……」
「ああ、うん。でも……じゃあもしかしてこの人、女? 人目を忍ぶために男の格好をしてるとか?」
《あのなあ!》
フィンは突っ込みたかったが、大きな犬が首元で牙を剥きだして唸っているためぴくりとも動けなかった。
アウラの話が話半分とかそういうことは全くなかったようだ。
「ああ、でも胸とか全然ないわよね。やっぱり本当に男なの? ああ! わかった。もしかしてウィーギルみたいについてないんでしょ?」
《だーかーら!》
「そんなことないわよ!」
「ええ? でもそしたら本当に男ですよ。お姉様、いつから男の人に触れるようになったの? ってか何? もしかして見たことあるの? あれを? まさか本当にこの人と?」
段々ハスミンは支離滅裂になりつつある。
《アウラ、早くしてくれ~!》
そんなフィンの仕草を見てアウラは言った。
「うん。話すから、ねえ、その犬を除けてあげてよ」
「う、うん。ほら、メル君。それってご飯じゃないからね。降りなさい」
ハスミンがそう言うと、フィンの上で唸っていた犬は大人しく降りてフィンの横に座った。
今度はハアハア言いながら尻尾を振っている。
フィンは大きく溜息をつきながら起きあがって服の泥を落とした。
全く聞きしにまさる娘だ―――それからフィンは挨拶した。
「ああ、その初めまして。フィンって言います」
「あ、ども。ハスミンです」
ハスミンはそう言ってちょこっと頭を下げるが―――すぐにフィンの全身をくまなく観察し始める。それからやにわに上目遣いに尋ねた。
「えっとフィンさん、あの、お姉様とはどのようなご関係ですか?」
いきなりかよ?
「えっとまあ、話せば長くなるんだけど、今ちょっと一緒に旅している最中なんだ。旅が終わったら結婚する予定で……」
「え? え? ええええええええええええええええええええええええええええええええええ‼」
ハスミンは絶叫した。
それからハスミンはアウラの両肩を掴む。
「お姉様! 本当なんですか? け、け、結婚? この人と?」
「え? うん」
「ひええええええ!」
「そこまで驚かなくてもいいじゃない」
アウラもたじたじという感じだ。
「とんでもないです。大ニュースです! アウラお姉様が結婚なんて! それも男相手と! 世界がひっくり返ってもそんなことないってみんな思ってたのに! 泣く子が一杯いますよ。その子達が可哀想だって思わないんですか?」
えっと―――そこまで言う?
「そんなこと言われても……」
「ああ、ごめんなさい。つい……でもショックです。大ショックです。お姉様に彼氏ができるなんて、ああ……」
ハスミンはアウラの胸に顔を埋めてほとんど泣き出さんばかりだ―――だが彼女は急におかしな顔になるとアウラを見つめた。
「あ!」
「何よ?」
「お姉様……すこし臭いますね」
アウラが赤くなる。
「しょうがないじゃない! 山からずっと歩いてきたんだし」
ハスミンの目が丸くなる。
「えーっ! そんな! 山からって、すごくありますよ。ずっと歩いて? ここまで?」
「ええ、まあ」
「わかりました! それじゃともかく家に行きましょう。すぐお風呂を沸かします。着替えも持ってきます。それから家族みんなに紹介します。みんな知ってますよ。お姉様のこと。さあ、行きましょう。あなたも」
そう言ってハスミンは二人を引っ張って行こうとしたが、そこでフィンが割り込まざるを得なかった。
「済まないんだがちょっとそれはできないんだ」
「ええ? どうしてですか?」
それを聞いたハスミンが怒ったような顔でフィンを睨む。
「実はちょっと俺達追われててね、本当は会うつもりじゃなかったんだよ。そいつに見つけられなければね」
フィンは今では横で尻尾を振っているメル君を指さした。
「追われてるって……何したんですか? もしかしてあなた、お姉様を悪の道に引きずり込んでるんじゃ……」
フィンは慌てて言った。
「まさか! そうじゃなくて、ちょっと俺達今、賞金稼ぎしててね、こないだとっつかまえた奴らの仲間から狙われてるんだ」
ハスミンは一瞬ぽかんとして、それから大きくうなずいた。
「え? あ! あ? ああ! はいはい! ごめんなさい。そうだったんですか。悪い奴らを捕まえたら仲間がいたんですね? そいつらが逆恨みしてお姉様とあんたを狙ってると。分かります。賞金稼ぎって大変な仕事なんですよね。でも賞金稼ぎの人がいるから悪い奴らも減るんですよね。そんなのをお姉様が一人でやってたなんてすごいですよね。じゃあ二人になって少し楽になったんですか? この人やっぱり強いんですか? 何かそんな風にも見えないけど……」
言われた通りだ。黙って聞いていたら際限なく喋り続けそうだ。
そこでフィンは強引に割り込んだ。
「そんなわけなんで、俺達に関わったことが知れたら君たちも危険なんだよ。だから……」
ハスミンはまた大きくうなずく。
「分かりました。でもこれからどうするんですか?」
そう訊かれてフィンも少々困った。
はっきりしたことは決めていない。ともかくハスミンが元気なのを確認してから考えようと思っていたのだが―――細かいことはよく分からないから先送りしていたという方が正しいが……
「え? まあ、早々に国を出ようかと。そこまでは追ってこないと思うから。だからとりあえずピーノに向かおうかとか思ってたけど……」
「今からですか?」
そう問われてフィンも絶句した。確かにそろそろ夕方も近い。
「え? まあ、そうかも」
しどろもどろのフィンを見てハスミンは首を振る。
「だめですよ。せめて今晩泊まってって下さい」
「でも迷惑じゃ?」
「いえ、見つからなければいいんでしょ? 今は使ってない離れがあるんです。納屋に使ってますが、二階はちゃんと人が泊まれるんです。そこだったら分かりませんよ。お風呂ないですけど裏手に小川があるし、夏だからそっちの方が気持ちいいかも。それにベッドもあります。シーツとか持ってきますから。それに食べ物とかも。そこだったらゆっくり寝られますよね? いいですよね?」
「うん。まあ確かに……ありがとう」
「ごめんね、ハスミン」
「全然です! お姉様!」
こうなってしまった以上、もはやそのくらいのことをしても大差なさそうだ―――そんなわけで二人はハスミンの好意に甘えることにした。
フィンとアウラが連れて行かれた離れは、森の端にある意外にしっかりした建物だった。
木造の二階建てで、一階はハスミンの言った通り物置になっていたが、はしご段を上がって二階に行くと、小綺麗に片づけられていて風通しもよい快適な部屋になっていた。
部屋の片隅には干し草で作られた大きなベッドがあった。どうやらここはハスミンと旦那が二人きりで夜を過ごすための部屋のようだ。
彼女が戻っていった後、フィンはつぶやいた。
「わざわざこんな部屋作ったのか? 旦那は」
「だってあの子、逝きそうになるとすごいこと口走り始めるのよ」
「ああ、そうだったな……」
何となく想像はつく。ここだったらいくら声を出そうが聞こえないだろうし……
フィンはベッドに座ると言った。
「あ、いいな、これ」
「ずっと野宿だったから久々のベッドね」
「ああ」
フィンはこの数日のことを思いだした。
当然ながら宿屋には敵の手が回っている可能性があったので野宿しかできなかった。
フィンもアウラも野宿の経験は豊富にあったのだが、今回はあの現場から大急ぎで持ち出した物しかなかった。そのため様々な物が欠乏していて色々と大変だったのだ。
ともかく今晩はゆっくりできそうだ―――そう思って待っていたのだが、ハスミンが戻ってきたのは夜も更けてからのことだった。
その頃には二人はお腹がぺこぺこだった。
ハスミンは行ったきりなかなか戻ってこない。裏に小川があるから水には困らなかったが、離れの中に食べるものは何もなかった。だからといって文句を言いに行くわけにもいかない。
そんな調子で二人がぐうぐう鳴るお腹を抱えながら部屋でごろごろしていると、階下で誰かが入ってくる物音がした。
「来たわ!」
アウラは跳ね起きると階下に向かう。
「ハスミン、遅かったのね」
だがはしご段を半分くらいまで降りたところでアウラが凍り付いた。入ってきたのはハスミンではなく、大きな男だったのだ。
「誰?」
アウラは身構えた―――だがすぐにその後ろから声がした。
「お姉様お姉様、違うの! パパなの」
男の後ろからハスミンが現れた。手には大きなバスケットを持っている。
彼女は慌てたように喋り始める。
「ほら、やっぱりパパには黙っておけなくて。でないとこっそり持ってくることも難しいし。それにパパもお姉様に一度会いたいってずっと言ってたし。良かったでしょ?」
だがアウラは驚いて声も出ない。それを見てハスミンは更に続けた。
「大丈夫って。パパって口が固いから。悪い奴らにお姉様達のこと言ったりなんか絶対しないから」
そのときにはフィンも上からその様子を見ていた。
これはどうしたものだろうか?
二人のことを知る人は最小限にしておかなければまずいのだが―――とは言っても、もはや手遅れだ。こうなれば仲良くなっておくしかない。
《ハスミンの旦那さんってどんな人なんだろうか?》
フィンの所からも旦那の姿は見えた。
かなり大きな体躯をした男だ。この角度からだと顔はよく見えなかったが、少なくとも怒っているようには見えない。むしろ反対で、何だか随分神妙にしているようにも見えるが……
そう思っていると、男は妙に丁寧な調子で切り出した。
「あの、貴女がアウラ様でしょうか?」
「え? はい」
そんな風に問われてアウラも少々戸惑っているようだ。
「私、この農園の主をやってます、バラノスと申します」
旦那は深々と頭を下げる。
「あ、はい。アウラといいます」
つられてアウラも頭を下げる。
男はハスミンと違って木訥としているようで、しばらくもじもじしてからまたアウラに言う。
「それで、その、ありがとうございます」
「え?」
いったい何で感謝されているのだ? だがその理由はすぐ分かった。
「こいつがヤバい奴らにさらわれそうになったとき、貴女が助けて下さったそうで……」
バラノスはハスミンを指さした。
「え? ああ、あのとき?」
「はい、そうです。そのとき貴女が助けてくれなかったら、私はこいつと出会えませんで」
それからバラノスはアウラに向かってくどくどとお礼の言葉を言い始めた。
思い起こせばアウラがハスミンを助けたことからヴィニエーラとの縁が始まったわけだが、それはこの男の人生にとっても極めて重大な出来事だった。彼がそう言いたい気持ちは大変よく分かったのだが―――フィンとアウラには少々せっぱ詰まった別な問題があった。
「とにかく上がってもらえよ」
フィンが上から声をかける。
「あ、うん。二人とも上にどうぞ」
「あ、はい」
アウラに続いてハスミンとバラノスが二階に上がってきた。