第10章 金貨五百枚?!
二人が放り込まれたのは倉庫のような小部屋だった。
周囲は石壁で囲まれ、明かり取りの小窓が一つだけ高い所に付いている。
出入り口には分厚い樫の木でできた頑丈な扉が付いており、外部からかんぬきがかけられていた。その下に隙間があって、そこから食事などの出し入れはできるようになっているが、当然人がくぐれるほどの広さではない。
部屋の中には粗末なベッドが二つとおんぼろなテーブルが一つ置いてあり、部屋の奥にはこれもまた汚いトイレが付いていた。
要するに牢屋だ。
「何でだよ? あり得ないだろ?」
二人っきりになるとフィンは吐き捨てるようにつぶやいた。
アウラはそれには答えず、黙って部屋の中を落ちつかない様子で見回している。
さすがに二人ともこればかりはショックだった。
「アラン様って……悪者だったの?」
しばらくしてアウラがぼそっと尋ねるが―――フィンは即座に荒々しい口調で言った。
「そんなわけがない!」
そうなのだ。そんなわけがない!
今までになく荒れているフィンをアウラが驚いたように見つめるが―――それに気づいてフィンはちょっと恥ずかしくなった。
そこでアウラの肩に手をかけると怒りを抑えながら言った。
「分からない……そんなわけないはずなんだが……でも王がレイモンへの内通に関与してたのも間違いない。どうしてなんだ?」
フィンは混乱しまくっていた。
もちろんアウラがそう問われて答えられるはずもない。
「あたし達……どうなるの?」
「さあ……」
これほど泣きわめきたくなったことはなかった。
だがアウラは黙ってフィンを見つめている。そんな彼女の手前、フィンは無理矢理我慢した。
それにそんなことをしてしまうともう歯止めがきかなくなりそうだ。
フィンは黙ってアウラを抱きしめて囁いた。
「すまん……こんな事になって……」
アウラは答えずに黙ってフィンを抱き返す。
それを感じてフィンは少しほっとした。
少なくともまだ彼女を失ったわけではないのだ。終わりを迎えたわけではない。
二人はしばらくそうやって抱き合っていた。
そうこうしているうちに、少しずつだがフィンも落ち着きを取り戻してきた。
ともかくいつまでもパニックになっているわけにはいかない。
フィンはすっと立ち上がって深呼吸すると、まず明かり取りの小窓の下に立った。次いでふっと飛び上がって窓から外を眺める。
外は夜だが月明かりに山並みが見える。
窓はグリシーナ城の外壁に直接開いていた。結構高い位置だ。だが小さすぎてそこを抜けるのは無理のようだ。
「何か見える?」
外を覗いているフィンにアウラが尋ねる。
「遠くの景色が見える。何となく見覚えがあるけど、これはどっちだろう?」
「見せて」
そこでフィンはアウラの身を軽くしてやると肩の上に立たせた。外を見るなりアウラは言った。
「あれってグリシーナの北東にある小山だわ。名前覚えてないけど……」
「なるほど。じゃあここって城の東の塔ってことか?」
「そうみたい」
肩からアウラを下ろすと、二人はちょっと微笑み合った。
とりあえず居場所は分かった。だからといって状況が改善されたわけでは全くないが、少しは気が楽になる。
それから二人は溜息をつくとベッドに座り込んだ。
見てくれの通りあまり座り心地は良くない。
「くっそー!」
兎にも角にも、アラン王が敵の一味だったなんて想定外もいい所だ。
「大体そんなことあり得ないだろ!」
フィンは再びつぶやいて頭を抱えた。
そもそも、国のトップが内通するなんてあり得ない。ほとんど自己矛盾みたいなものなのだから……
そう。王というのはその国の最高権力者だ。王が本気で決定した事に逆らえる者などいない。だからこそ王なのだ。
《だったら同盟でも何でも結べばいいだろ?》
もしアラン王がレイモンに与すると決心したならば、別に普通にそういった政策を実行すればいいだけのことだ。こんな風にこそこそと内通する意味などないではないか?
「ってことは……?」
ならばもうその理由は決まったも同然だ。
要するに道というのは必ずしも一方通行ではないということだ。
この“経路”を通ってレイモンにはある程度シルヴェストの内部情報が漏れることにはなるが、同様にレイモン側の貴重な情報もそこから得られるとそういうわけなのだ。
だから王はフェデレの行為を知っていて放置していたのだ―――かつてアイザック王がバルグールの悪事を知っていて泳がせていたように。
《いや、そういえばフェデレも王が知っていることは知っていたよな?》
フィンは首を振る。
あの場合とはちょっと違った。そう。フェデレは墓場で対決した際に、最初は結構慎重だったのに、フィンが本物の手紙を王に届けるぞとほのめかした途端に殺しにかかってきた。
これはフェデレが王は味方だと知っていたからに他ならない。
それに王がやって来てフェデレと交わした会話も裏切り者に対する叱責ではなく、フェデレの手際の悪さを責めているような言い方だった……
―――すなわち王とフェデレはグルになってレイモンを謀ろうとしていたわけだ。
《まあ、それだったら秘密厳守ってのは仕方ないな……》
そう思ってフィンはふっと笑った。
「何が可笑しいのよ?」
アウラが不思議そうな顔でフィンを見ている。
当然だ。普通はあまり笑える状況ではない。
フィンはアウラの肩に手をかけるといった。
「あはは。いや、こうなったらもう仕方ないから、一眠りでもした方がよさそうだなって」
それを聞いてアウラは目を丸くした。
「大丈夫なの?」
フィンはうなずいた。
「大丈夫さ。ほら、殺すつもりならずっと前にやってたって言ってたじゃないか。向こうも俺達をどうしようか考えてるところさ。だからいきなり殺されるようなことはないさ」
そう言ってフィンはベッドにごろんと横になった。
「ならいいけど……」
アウラもフィンに寄り添って横になる。
「ま、とりあえず今日は休もう。寝心地悪いけど……」
「うん……」
だがそうして横にはなってみたものの、目が冴えてしまって眠るどころではない。
それにフィンはまだ何だかぴんと来ていなかった。
何かを忘れているような―――妙に落ち着かない感じだが……
《ともかくすぐに命の危険がないのなら、もうちょっと落ち着いて考えてみるか……》
そしてフィンは状況を整理し始めた。
《それにしてもアラン様達、ヤバい橋を渡ってるよな……》
それが最初に出てきた感想だった。
確かにこの内通行為によってレイモンの情報等が手に入り、こちらからは都合のいいことだけ知らせることはできる―――だがこれは相当にリスクの大きな行為ではなかろうか?
まず間違いなく、相手に露見したときのダメージは大きいだろう。
少なくとも単に敵対しているより、遥かに悪質な行為と思われるのは間違いない。
それだけでなく、迂闊に同盟国にも知られてはならない。
シルヴェストがレイモンと内通しているというような事を知られるだけで、小国連合は一気に崩壊するかもしれないのだから……
その上、こちらから教える情報も出鱈目ばかりというわけには行かないだろう。
嘘は慎重につかないとすぐ収拾がつかなくなるものだ。だからレイモンを納得させるだけの“実績”が必要になるのは間違いない。
例えばフィン達が退治したボルトス一派の背後には、間違いなくシルヴェストがいた。そして彼らは多分少々やりすぎたために討伐されてしまったのだ。
それに関与したロゲロ達を消したのがエレバスだったことが、今ではほとんどその証明になっている。
それはともかく、あの街道を荒らすことは確実にシルヴェストやあの地域の治安や経済に悪影響を与えていたはずだ。こんな活動があそこだけとは限らない。それを合わせれば結構なダメージがあるはずだが……
《こんな風に自分の血を流しながら、それでもなお続ける価値があるのか?》
またヴィニエーラ事件では、遊女達が強制的に各地に散り散りにさせられている―――多分これも口封じだ。
遊女達個々は大した事を目撃してはいないだろうが、複数の遊女の証言を総合するといろいろ都合の悪いことが出てくるかもしれない。
だからといって彼女たちを皆殺しにするわけにも行かず、ああいった手の込んだことをしたのに違いない。
そしてフィン達が最初に賞金首にされたのも、彼らに消えてもらうつもりだったからだろうし、その後のもっとストレートな襲撃の際には、親衛隊まで巻き添えになっている。
もうなりふり構っていないという印象だが―――アラン王達は既にそれだけの手間暇と犠牲を払っているわけだ。
《でもアラン様達はそれに見合う報酬は得られたのか?》
レイモンからの情報はそれほどまでに重要なのだろうか?
そもそもレイモン側だってシルヴェストには必要最低限の情報しか流さないだろうし―――大体そこまで信用されているのだろうか?
だとしたら―――向こうだって結構出鱈目な情報を流していたりするのでは?
「うーん……」
労の割には益が少ない―――そんな気がするのだが……
《それとも何か考え違いをしてるのか?》
フィンは起きあがって天井を眺めた。
ここは少し慎重に考える必要があるのでは?
《まさかアラン様が “本当に” レイモンの手先なんて……わけないよな?》
フィンは何度も考え直した。
アラン王はシルヴェストの最高権力者だ。内通というのは、ばれてまずい相手がいるから内通なのであって、アラン王にとってそんな相手がいるわけがない。
それに強国と同盟するのはその国にとって通常は良いことだ―――と、そこまで考えたときだ。ある可能性に気づいてフィンは背筋が寒くなった。
《ばれてまずい相手⁈……いや、いるよな?》
確かにシルヴェスト国内にアラン王が気兼ねする必要はないだろう―――だが他の国は?
シルヴェスト王国は小国連合の盟主だ。
小国連合とはすなわちシルヴェスト王国、サルトス王国、アイフィロス王国、アロザール王国の四国で作られたレイモンを包囲する軍事同盟だ。
レイモン王国は中原では最大勢力を誇っているとはいえ、この四国の軍事力を合わせればほぼ拮抗している。アイザック王の分析ではこの均衡のために互いに動けず、中原は平穏を保っているということになっていた。
シルヴェストはこの連合の要なのだが、何らかの理由でシルヴェストがレイモン側に付いたとする。
それでいきなり同盟から脱退したらどうなるだろうか?
《当然残りの三国はめいめいに動き出すよな?》
小国連合はシルヴェストのリーダーシップの元に構成されている。そこがなくなってしまったらあとはばらばらだ。
《だがそういった事態が必ずしもレイモンにとっていいかどうかは分からないだろ?》
確かにシルヴェストが味方に付けばレイモン絶対有利なのは間違いないが、残り三国だって単に傍観しているわけでもないだろう。
彼らが諦めてレイモンの傘下に下る可能性も高いが―――玉砕覚悟で戦いを挑んでくる可能性もある。
旅に出る前に聞いた話では、サルトスのハグワール王はそんな意味で血の気の多い王だと聞いているし……
そこでもし残りの国が三方向から攻め込んできたらどうなるだろうか?
中原はわけの分からない大混戦になってしまうのは必定だ。
最終的にはレイモンは勝利できるかもしれない―――だがそれなりの代償も払わなければならないだろう。
だとすれば―――いきなりシルヴェストが同盟脱退することは、レイモンにとって必ずしもベストではないことになる。
ならば表向きは現状維持しつつ、陰では連絡を取り合いながら内部工作していった方がよりよいのではないだろうか?
《……というか、こっちの方がありそうな気がしないか?》
………………
…………
……
「嘘だろ?」
フィンは頭を抱えた。まさかそんなことが……
だがそう考えれば王が内通に関与していてもおかしくはないし、これが絶対秘密にされなければならない理由も明白だ。
すなわち小国連合の他の国を謀るためにこのようなことをしていたと考えれば……
「でも……何故だ?」
アラン王はどうしてこんな国を売り渡すようなことをしたのだ?
フィンはううっと呻いて頭をかきむしった。
「フィン?」
アウラが起きあがってきて心配そうな顔でフィンを見た。
彼女もすぐには眠れなかったらしい。
「いや、ちょっと……考え違いしてたかも……ははは、王様、もしかしたら悪人だったのかな、とか……」
それを聞いてアウラは目を見開いた。
「え? でもさっき……」
フィンは首を振る。
「ああ。でも考えてたら何だかそっちの可能性もあるかもとか……」
アウラはしばらく口を閉ざす。
それからぽつっと言った。
「王様って悪い人には見えなかったのにね。ちょっと怖そうだったけど」
「ああ……そうだな」
アウラの感想にはフィンもうなずかざるを得なかった。
フィンがアラン王と接したのはほんの数日の間だったとはいえ、アイザック王同様に立派な人物と感じていたのだ。
だがそうすると、それはみんな芝居だったということなのだろうか?
少なくとも王はずっとヴィニエーラ事件の内幕とかを知っていたわけで、その上でフィン達には敵対勢力がいるとか言って煙に巻いていたのだ。
それを思えば結局フィン達は王の手のひらの上で踊らされていたと、そういうわけではないのか?
途端にフィンは腹の底から激しい怒りが沸いてきた。
「何て事だ! 畜生!」
そうつぶやいてフィンは拳を握りしめる。
だがその怒りのやり場はなかった。フィンはベッドの上の毛布を掴むと、ぎゅっと引っ張った。
古い毛布はみしっと音がして裂け目ができてしまった。
《そういえば何か国を守るのに疲れた、みたいな事言ってなかったっけ?》
確かあの夜会のとき『こんな小国を統べるのにも汲々としておる』とか何とか言っていたが―――確かにレイモンと敵対し続けるのは疲れるだろう。
でも同盟になればそういった意味では楽になる。寄らば大樹の陰だ。
だがそれでは小国連合は?
彼らはレイモン以上にシルヴェストを信頼してくれた国だろう? いくら疲れたからと言ってそんな簡単に彼らを売るなんて事があるんだろうか?
フィンは黙って首を振る。
はっきり言って分からない。
少なくとも国王の責務がどれほど重いものかはよく分かる―――だとすれば疲れてしまう事だってあるかもしれない。それにまず自分の国のことが最優先だろうし……
自分の国を守るためとあれば盟友を裏切ることだって―――ないとは言い切れない……
フィンは唇を噛みしめた。
《ならばこれから俺達をどうする気だ?》
………………
…………
……
その瞬間、フィンは再び背筋が凍り付いた。
王はあのとき言った―――フィン達を殺そうと思えばいつでも殺せたと……
ならば彼がそうしなかった理由は何故だろうか?
それはフィン達に“利用価値”を感じたからではないだろうか?
《………………》
フィンはアウラを見た。
そうだ。間違いなく彼女には利用価値がある。
あの強さ、あの舞の美しさ―――それこそ史上最強の暗殺者になれる素質があるのでは?
《させるかよ!》
こいつにそんなこと、絶対にさせるものか!
だが次の瞬間フィンは悟っていた。
可能なのだ。
それは驚くほど簡単なのだ。
―――単に二人を別々にして、そうしなければフィンを殺すとか言えばいいのでは? 彼の命がかかっているのなら、アウラは言いなりになるのでは?
それはフィンの方も同じだった。
彼だってその気になれば人が殺せる。もしアウラを人質に取られてアイザック王を暗殺して来いとか言われたらどうするだろうか? さすがにそれは無理でももっと小物相手なら……
「あ、あ、あ……」
良くできた暗殺者が二人も手に入る? これだけでも結構な利用価値ではないか?
「どうしたの?」
アウラが不思議そうに尋ねる。フィンは慌ててごまかした。
「い、いや、何でも……」
これはまずい。とことんまずい!
《それじゃもしかして……王も?》
そういえば王は確かシフラの舞姫を愛したと聞いたが―――その姫は一体どうなったんだろう?
今の妃でないことは確かだが―――例えばそんな姫がレイモンに人質に取られているといったことがあれば?
アラン王でも転んでしまうだろうか?
そういうことがあるかもしれないし、ないかもしれない。
アラン王と接した期間は短すぎて、今のフィンには何とも判断ができなかった。
これがアイザック王であれば、いざとなれば身内でも切り捨てるだろう。
あのベラ・エクシーレの二重侵攻の際に見せた王の表情は一生忘れられない。
王は誇りをかけてフィンの命を救ってくれた―――だが状況が変われば国を守るために、フィンの命を犠牲にすることも止むなしと判断しただろう。
少なくともアイザック王はそういう判断のできる人だ。
これがアラン王ならどうだろうか?
―――そこが少々腑に落ちなかった。
短い間ではあったが、その間にフィンの受けたイメージではアラン王からもアイザック王から受けたような厳しさを感じていた。
《最初会ったときとか……そんな女々しい人じゃないって思ったけどな……》
身内を人質に取られたくらいで国を売るような人なのだろうか?
そう思ってフィンは可笑しくなった。
《身内を人質に取られたくらいでって……》
そんな羽目になったら自分なら間違いなく売ってしまいそうなのに―――少なくとも人として王を責めることはできないだろう。
王の責務としてなら間違いだとは言えるかもしれないが……
そのときフィンは思い出した。
考えてみれば王は既にブルガード達を犠牲にしていた。親衛隊とは身内に近い存在なのでは? ブルガードは間違いなく王に心酔していた。王の方も最も信頼置ける者達を親衛隊として任命するはずでは?
その彼らを王はフィン達を消すために平気で犠牲にしたわけだ―――だとすれば王は目的のためには手段を選ばないタイプなのだ。
《だったら人質を取られたからって、言いなりになったりはしないんじゃないのか?》
でも―――だとすればフィン達を暗殺するために彼らを巻き添えにする必要などなかったのでは?
王が味方なのであれば巻き添えにしなくてもいいようなやり方はいくらでもあったはずなのだが? この程度で信頼できる身内をぽんぽん殺していたらやってられないだろう? 逆に命惜しさに逃げ出すような奴だって出るかもしれないし……
でもこの何日か親衛隊の人達の世話になっていたわけだが、少なくともその雰囲気は親しみやすかった。そんなに命が粗末に扱われる所には見えなかったと思うのだが……
だとすれば何なんだ?
要はフィン達を暗殺しようとした奴らは、相手が親衛隊だったことを知らなかった―――わけではないから……
だとすれば―――親衛隊が味方だと知らなかった?
《ああ? なんだ? こりゃ? ああ、そうか……》
―――要するにこの秘密はあまりにも重大だったので、雑魚には知らされてなかったのだ。
組織の中でもトップクラスの一握りしか知らなくて、現場レベルじゃ誰が味方で誰が敵かは分からないことだってあるかもしれない。だとすれば実行犯が親衛隊を味方と思っていなければ、まとめて谷底にたたき落としても気にしないだろう……
と、そこまで考えてフィンは首を振った。
こんなことをぐだぐだ考えていても仕方がない。
ともかく今考えるべきことは、これからどうするべきかと言うことだ。
《このままだと別々に引き裂かれて暗殺者にされたりするってか?》
はっきり言って願い下げだ。
冗談じゃない。ここまでやりたい放題されて、その上言いなりにさせられるなんて、そんなことになるくらいなら……
《そんなことになるくらいなら……?》
そう思ってフィンは凍り付いた―――それから天井を見上げてしばらく考え込む。
「やり返すっきゃないか?」
そうフィンがつぶやくと―――アウラが顔を上げた。
「何?」
フィンはそれにしばらく答えなかった。
それから今度は振り返ると、じっとアウラの顔を見つめた。
「な、なによ?」
「いや……」
不可能じゃないかもしれない……
だが実行する前にはもう一度慎重に考えなければ……
というか、まだ可能性があるというだけで、王が敵と決まったわけではない―――決まったわけではないのだが―――もし本当に王が敵だったとしたら恐ろしい結末が待っている……
《ここはやはり最悪を想定して行動するしかないのか?》
今の状況では王が敵か味方か決定するだけの情報はないし、調べる手段もない。
もし味方であれば取り越し苦労で済むが、そうでなければ……
そうでなければ……
そうでなければ……
そしてフィンは心を決めた。
「あのさ、もしかしたらちょっとヤバいことになってるかもしれなくてな……」
「そんなの見れば分かるじゃない」
急にまじめな顔で話し始めたフィンに対して、アウラは不思議そうに答える。
「まあ、そうだけどね。でもここでゆっくりしてるわけにはいかないかもしれないんだ」
「どうして急に?」
そこでフィンはアウラに手短に“最悪の可能性”を話して聞かせた。
それを聞いてアウラも青ざめた。
「それって……」
「ああ。ともかく一緒にいられるうちはいいけど、もし引き離されたりしたらもう互いに相手を守りようがないんだ。わかるよな?」
「……うん」
「だからそうされる前にここを出てかなきゃならないんだ」
「あたしもそっちがいいけど、でもどうやってここから出るの?」
その疑問は当然だろう。
だがその点に関してはフィンには勝算があった。
「それは大丈夫だ。任せてくれ。それよりその後のことなんだが」
「うん」
不思議そうな顔のアウラにフィンは尋ねた。
「えっと、まずお前、薙刀以外は使えるんだっけ?」
「え? まあ軽いのなら。どうして?」
「ほら、お前の薙刀、どこにあるか分からないし。だからここ出た後はまず衛兵をボコって剣をかっぱらうしかないんだが……ここの衛兵のは?」
それを聞いてアウラはちょっと考え込んだ。
「うーん。ちょっと重いかも……でもほら、謁見室の廊下とかにいいのがいっぱいあったじゃない。あれだったら問題ないわ」
「ああ、なるほどな」
フィンは城の構造を思い起こした。謁見室は王の居室に行く途中だ。ちょうどいい。
「それで、出たら逃げるの?」
フィンは首を振った。
「いや、まずアラン様と直談判する必要がある」
「え?」
「これって誤解の可能性もあるんで、アラン様と一度話はしないとまずいんだよ」
「そうなんだ……」
確かにさっさと逃げる方が単純でいいのだが……
「で、なんだけど、話がつかなかった場合なんだ。そうした場合、その……」
フィンはそこで少し口ごもる。
「その?」
「アラン様に死んで頂く必要があってだな」
………………
…………
……
「え?」
その言葉にはさしものアウラも驚愕した。
「逃げるのはその後になるんだが……」
彼女はしばらく声が出なかった。
如何なアウラでもその意味はよく分かった。
そんなことになればまず逃げることさえ至難の業だ。
それに何とか城から逃げおおせることはできても―――今度は国家総動員の追っ手がかかるわけで……
「アラン様を……斬らなきゃならないの?」
それは当然の質問だった。フィンは一瞬言葉に詰まる。
そうなのだ。
本当にそうしなければならないのだろうか?
そうなったらいずれにしても彼らの人生は終了だ―――たとえ生き残れたとしても果てしなき逃亡生活ということになるだろう。
もはやアイザック王に頼るわけにもいかないし―――何もかも失うということなのだ。
《果たして全てを擲ってでもするべき事なんだろうか?》
フィンは何度も自問したが―――答えは既に出ていた。
「ああ。どっちかがそうするしかない」
その価値はあるのだ。
もしレイモンの思い通りになれば小国連合にとっては最悪のことになる。それはフォレスにとっても最悪のことである。
だがここでアラン王を斬れば、少なくとも奴らのそんな計画を台無しにしてやることはできるだろう。
大勢には影響ないかもしれない。ささやかな嫌がらせレベルかもしれない。
だが少なくとも向こうの思い通りにはならないのだ!
それにそんな騒ぎになればハスミン達がフォレスに向かってくれるはずだ。
彼女とバラノス氏がアイザック王にここで起こった真実を伝えてくれれば―――王ならば何らかのアクションを起こしてくれるだろう。
だがこんなこと、アウラはどう思うのだろうか?
今までフィンは彼女に誰かを殺してくれなんて頼んだことはない―――そんなこと、死ぬまで頼むつもりはなかったのに……
だがフィンの返答を聞いてアウラは微笑んだ。
「王様を斬っちゃうなんて、すごい悪人よね。賞金も……すごいかも?」
………………
…………
……
なんて奴だ……
こんなときにこんなことを言ってくれる奴が側にいるなんて……
何て幸運なんだ‼
「ははは。そうだな。賞金ってどのくらいになるかな?」
「さあ……でも、そうねえ。五百枚ぐらいにはなるかしら?」
「二人合わせて千枚? そりゃすごい!」
二人は笑い出した。
金貨五百枚ずつなんて―――もう想像も付かないほどの悪党だ。まあ一国の国王をぶった斬ったとなればそのくらいは出してもらわなければ割に合わないが……
しばらくそうやって笑い合った後、二人はふっと見つめ合う―――それから磁力で引き合うように互いの唇を合わせた。
今までも何度となくこうしてきたのに、なぜかその感触はまるで初めてのときのように熱かった。
しばらくそうして互いの存在を確かめ合った後、二人は唇を離すと再び見つめあった。
「ごめん……」
フィンは思わず言っていた。
「どうして?」
「何か変なことばっかりに巻き込んでるからさ……」
「別に。構わないし……」
フィンは再びアウラを抱きしめた。
「あ……」
アウラが小さく呻く。
そんな彼女が愛おしかった。このままずっとそうしていたかった―――だが……
「ここで?」
アウラの言葉にフィンは正気に引き戻される。一体何を考えてるんだ? そう思った瞬間顔が熱くなる。ここほどそれにふさわしくない場所もない。フィンは慌てて首を振った。
するとフィンの耳元でアウラが囁いた。
「そうよね。それに斬るのって話がつかなかったときなんでしょ?」
フィンは吹き出した。
「あ、まあそうだな……」
自分で言っておきながらその条件を忘れかかっていたのだ。
これがまるで今生の別れかのように―――だがまだ希望は残っているのだ。
今の状況では少々分が悪いとは言え……
「あ……」
アウラは思わず呻いた。
フィンの抱擁がなぜか激しかった。
こうやって抱き合うことなど今では全然珍しくないというのに―――今回は何故か初めてのときのように胸がどきどきして、体の芯から甘く切ない疼きが湧きあがってくる。
それを感じた瞬間、今度は顔がかっと熱くなってきた。
このままでは変になってしまいそうだったので、アウラは少し間を取ると言った。
「ここで?」
フィンがそうだと言ったなら拒否する理由もない。
それに下手をするとフィンとそういうことができるのはこれが最後かもしれない―――ただここのベッドでは少々きつそうなのだが……
しかしフィンはびっくりしたような顔で赤くなって首を振る。
そこでアウラは耳元で囁いた。
「そうよね。それに斬るのって話がつかなかったときなんでしょ?」
フィンが吹き出した。
「あ、まあそうだな……」
そう言って彼は体を離すと苦笑いした。
何だか知らないがフィンはさっき自分で言ったことを忘れていたらしい。
確かに話がつかなければ大変なことになるのは分かる。だが、話がつけば何事もないのだから……
また、話がつかなかったからと言って、そこですぐ二人が死なねばならないわけでもない。
フィンといれば逃げるのはそう難しくはなさそうだし、確かにその後は多数の追っ手に追われることにはなるだろうが―――まあそのときはそのときだ。
《レジェ……》
そんなことよりもアウラはレジェの仇が討てることの方が嬉しかった。
アラン王にどんな理由があったかは知らないが、少なくともレジェはそのために死んだのだ。
もちろん既にアウラも、世の中には善悪では割り切れない事があることを知っている。
そのために彼女は明らかな罪を犯したというのに、アイザック王に許してもらっていた。
その理由の説明も受けていたが―――やはり何だかよく分からなかった。
だから彼女にとっては分かりやすい方が良かった。
アラン王は実は良い人だったがやむを得ぬ事情であんなことをしていたというよりは、王が本物の悪人であってくれたほうがアウラには望ましかった。
悪人が悪いことをしているのならば心おきなく剣をふるえる。
だがそうでない人を斬るというのは……
ともかくその辺はもうフィンに任せるしかない。
今回の旅で一番気が楽だったことは、様々な交渉ごとのほとんどをフィンがやってくれたということだ。
おかげでアウラ一人だったら確実にトラブルになっていたような状況でもおおむね上手く収まっていた。
そんなわけで今回も王との交渉は彼に任せるしかないし、その結果彼が王を斬れと言うのであればそうするまでだ。
上手く行くかどうかとか、彼の判断が正しかったかどうかとかいう心配は、彼女には無用なのだ。
それはともかく当面の問題は王に会いに行く過程だった。
「それでどうやって出るの?」
アウラはフィンに尋ねた。
牢の扉は頑丈な樫の木で造られていて、ちょっと壊せそうもないのだが……
「ああ、そうだな」
しかしフィンはにやっと自信ありげ笑う。この表情は何かまた怪しいことをしようとしている表情だ。多分魔法でも使うのだろう―――だが彼女の知っている限り、この状況で何とかなりそうな魔法なんてあっただろうか?
アウラは思い返してみた。
炎の魔法で扉を焼くことは可能だろうが―――あの程度の火の玉では焼け落ちるまでには相当の時間がかかるだろう。それまでにあたりは煙だらけで、当然守衛が大挙してやってくるに違いない。
衝撃の魔法の場合、大魔導師クラスなら―――例えばあのパワーだけなら一級クラスの彼女とかならこんな扉くらい吹き飛ばせるだろう。
だがフィンは自他共に認める三流魔導師だった。
彼女はフィンの衝撃魔法を至近距離で何度も受けたことがあるが、どすんと突き飛ばされる程度の物で―――あの程度ではこの頑丈な樫の木の扉はびくともしないだろう。
軽身の魔法はこの場合には使いようがないはずだし……
そんなことを考えていると、フィンはテーブルを動かし始めた。
「結構重いな……手伝ってくれ」
「どうするの」
「そこに立てる」
フィンはテーブルを扉のある壁面の隅まで持っていくと、それを倒してバリケードのようにした。それからその後ろに隠れるようにしゃがんで、アウラに手招きする。
「俺の後ろにしゃがんでて」
「何するのよ?」
「扉をぶっ壊すんだよ。危ないから扉が見えないように体を小さくしとけよ」
「う、うん……」
アウラは言われた通りにした。
テーブルは結構大きくて頑丈そうだが、かなり古いようで端の方に大きなひび割れがあった。 フィンはその隙間から扉の方を覗きながら精神の集中を始める。
《何する気なのかしら?》
そう思った瞬間だった……
バーン‼
そんな大きな破裂音と共に、部屋に煙が充満したのだ。
「きゃ!」
アウラは思わず声を上げるが……
「うひゃあ……」
それをやった本人までが間抜けな声を上げた。
煙が喉にむせる。
「けほっけほっ! 何よ、これ?」
アウラが煙を払いながら見ると、扉の錠前があったあたりに大穴が開いていた。
それを見たフィンも驚いたように言った。
「いや、危ないからやるなって言われてたんだが……こりゃ本気で危ないなあ……」
そう言いながらフィンは、壊れた扉の破片がバリケードにしたテーブルにざっくり刺さっていたのを引き抜いた。
木片が刺さった後には結構な穴が開いている。結構堅い材質の木なのだが―――フィンは一体何をやらかしたのだろうか?
「これ何の魔法よ?」
アウラは尋ねた。
「いや、炎の魔法なんだけど?」
「え?」
どこが炎の魔法なのだ? そんな表情を見てフィンがにやっと笑いながら答えた。
「ほらいつかあいつの頭を吹っ飛ばしたときやったみたいに、中の方から一気に熱くすると物によっちゃこうなるんだ。堅い木とか」
「………………」
説明を受けても何だかよく分からない。
要するに魔法のことは魔法使いに任せておくのがいいということだ。
「ともかく行くぞ」
「うん」
アウラはうなずいた。
それから二人は廊下に飛び出した。
廊下にも今の爆発の煙が充満して見通しが悪くなっている。
だがその先から今の爆音を聞いてか、衛兵が一人やって来る影が見えた。ちょうど通路がかぎ型に曲がっている所だ。
フィンはその男に向かって衝撃の魔法をぶっ放した。
「うわ!」
男は不意をつかれて吹っ飛ばされ、壁に頭をぶつけて昏倒した。
その隙にアウラは一気に駆け寄ると男の剣を奪い取った。
「それで何とかなるか?」
「うん」
アウラはうなずいた。
彼女に不安は全然なかった。
何しろ育ての親ガルブレスから最初に教わった武器が剣だったからだ。
彼は様々な武器の使い方に長けていたが、当然その中では剣が一番得意だったので、最初のうちはアウラもずっと剣の使い方を教わっていたのだ。
だが同じ剣で戦う限り彼女はどうしても力負けしてしまう。体格や腕力ではどうしたって男にはかなわないのだ。
そこでガルブレスはアウラに薙刀を使うことを勧めたのだ。
薙刀ならば剣より少しリーチが長い。その間合いを保てればパワーの差を相殺して互角に戦える。
また薙刀はベラの後宮警備隊の正式な装備だったので、ガルブレスが使い方を良く知っていたこともあった。
奪った剣をアウラは振ってみた。
やはりこれは少々重い。片手だと少し扱いにくい。確かにこれだと薙刀に比べて少々不利なのは否めない……
だがそれは彼女と同じくらいのスキルを持った相手の話だった。
ガルブレスやエレバス相手だとさすがに勝てる気がしないが―――その辺の衛兵程度なら話は別である。
「じゃあいくぞ」
「うん」
二人は廊下を突っぱしると突き当たりの扉を抜ける。
出た所は何と衛兵の詰め所だった。
中には数名の衛兵がおり、今の騒ぎを調べに行くために武装して出ようとしていた瞬間のようだ。
「お、お前達、どうして?」
いきなり飛びこんできた二人を見て、衛兵の一人が叫ぶ。
もちろん返事などしていられない。
アウラは体を低くすると一気にその衛兵に襲いかかった。
最初の衛兵の脇腹を一撃し、返す刀で隣の男の足を斬る。
一瞬のうちに二人が倒されたのを見て残りの衛兵は怯んだ。その瞬間にフィンが叫ぶ。
「アウラ!」
フィンが何かやろうとしている。アウラは反射的に飛び退いた。
同時にフィンがまた例の衝撃魔法で残りの衛兵を吹っ飛ばす。不意を受けて衛兵達はもんどり打って床に倒れた。
「何しやがった?」
倒れた衛兵が首を振りながら立ち上がろうとする―――もちろんその程度では彼らをちょっと驚かせるだけだ。
だが次の瞬間、机の上に置かれていた蝋燭がどろっと溶けると、一気にぼうっと燃え上がり始めたのだ。
テーブルの上は瞬時に火の海になった。
溶けた蝋の一部が燃えながら倒れた男達の上に流れ落ちる。それを受けてしまって一人の男の服が派手に燃え始めた。
「うわああああ!」
さすがに衛兵達は肝を潰して、慌てて火を消そうとし始める。
その隙に二人は部屋から飛び出した。
「あ! 貴様ら!」
後ろから声がするが当然無視だ。
二人が出た所は表通廊だった。明らかに見覚えのある場所だ。
「あ、ここ知ってる。あっちが謁見の間じゃない?」
アウラがそう言うとフィンもうなずく。
「そうだな」
二人は謁見の間に向かって走り始めた。
時間はもう深夜なので人影はほとんどない。
だが今の騒ぎを聞いたと見えて、あちこちから人の声が聞こえ始めている。あまりゆっくりはしていられない。
やがて二人は最初にグリシーナ城に来たときに通された控えの間にやってきた。
「あ、あれあれ!」
アウラはそう言って奥の鎧を指さした。
控えの間には様々な美術品と共に、立派な刀剣や鎧も置かれていた。
アウラはあのときゆっくり見て回ったせいで、どこにどういった物が置かれていたか大体覚えていた。
彼女はその中の槍を持った鎧に駆け寄ると、鎧の手から槍を抜き取った。
「これならいいわ」
いつも使う薙刀と違って刃は反っていないし長さも少し長い―――だがそれでも今の兵士の剣よりはまだ扱いやすい。
それにこんな場所に飾られているだけあって相当な業物だ。
アウラはぶんぶんと槍を振り回してみた。結構いい感じだ。
満足そうな彼女を見てフィンが言った。
「よし! じゃ行くぞ」
「うん」
二人は控えの間を駆け抜けると、奥の扉をくぐった。
後ろから追っ手の怒声が聞こえてくる。
抜けた所はまたちょっとしたホールになっていて、中央に階段が見える。あの階段を上がると王の居室があるエリアだ!
あの夜会の次の日、細かい話をしたのはあの上の執務室だった。
「何だ何だ?」
そのとき階段の上から衛兵が二名降りてきた。
「何だお前ら?」
怪しい二人を見て衛兵が構える。
「ちっ」
フィンが舌打ちする。
「どうする?」
アウラはフィンに手にした槍を示す。二人くらいなら何とかなるとは思うが、今度の奴らはさっきのより少し強そうだ。
それに後ろの追っ手はかなり迫っている感じだ。うっかりしていると挟み撃ちにされてしまうかもしれないが……
「飛び越すぞ」
フィンが手を差し伸べた。アウラはうなずいた。
これなら行けそうだ!
そして二人は前方にダッシュすると同時にフィンが軽身の魔法をかけて、一気にジャンプして衛兵の上を飛び越した。
「ああ?」
衛兵達が驚いて上を見上げている間に、フィンとアウラは衛兵の反対側に達していた。
「ごめんな」
続いてフィンは衝撃の魔法で二人を吹っ飛ばす―――こういう状況ではこの魔法は絶大な効果を発揮する。二人の衛兵はそのまま階段の下まで転げ落ちて伸びてしまった。
二人はそのまま廊下を突っ走ると王の執務室の前まで来た。
そこはまた衛兵が一人扉の前を守っている。
衛兵は状況が今ひとつ呑み込めていないようで、やって来たフィンとアウラをぽかんと見つめた。
その彼に向かってフィンが言った。
「ちょっと通してくれないか?」
「何だと?」
「王に用があるんだが」
「ふざけるな!」
衛兵は剣を抜いて襲いかかってきたが―――次の瞬間アウラはその剣をたたき落とすと遠くに蹴り飛ばし、次いで衛兵の足をさくっと貫いた。
「ぐあっ!」
兵士はもんどり打って倒れるが、それでも必死でアウラの足を掴もうと手を伸ばしてくる。
アウラはそれを躱すと槍の柄で男の頭を殴りつけた。
その間にフィンは部屋の扉をばたんと開いていた。
「何事だ?」
中から声がする。アラン王の声だ。
アウラはフィンの後から部屋に飛びこんだ。
中には男が三人いた。
一人はアラン王。もう一人はフェデレ公。最後の一人は誰か分からなかったが、がっしりした中年の男だ。
「お前達……」
入ってきた二人を見て王がそう口に出したときには、アウラは一気に王の横に回り込みその喉元に血の滴る槍の切っ先を突きつけていた。
それからアウラはフィンの顔を見る。フィンは軽くうなずいた。
「えっと、アラン様、大変失礼なのはお許し下さい。でもこちらも少々せっぱ詰まっておりますので」
そこにいた三人は誰も口を開かなかった―――突然のことにどう反応していいか分からないのだろう。
王とフェデレ公は凍り付いているようだが、もう一人の男はそうっと剣に手を伸ばそうとしている。気づかれないようにしているつもりなのだろうが―――アウラには一目瞭然だった。
「そこの人、動かないで」
アウラに言われて男がぎくっと体を震わせて凍り付いた。
それを聞いてフィンも男が怪しい動きをしていたと気づいたらしく、彼に言った。
「ああ、妙な動きはなさらないで下さい。王の命の保証ができませんから」
男は王の顔を見る。
「控えておれ。ファルクス」
アラン王の顔も青ざめている。
ファルクスと呼ばれた男はそれを聞いて黙って手を元の位置に戻した。
そのとき入り口から衛兵が数名入ってきた。
「アラン様、こちらに……」
兵士達は起こっていることを見て凍り付いた。
「お、お前ら……」
フィンは衛兵達を見て、それからアラン王の方に振り返った。
「アラン様。彼らに扉の外で待っててもらえるように言って頂けませんか?」
王はじろっとフィンの顔を睨む。
「お話ししたいことがあるのですが、かなり重要な機密に属することだと思いますので」
王はしばらくフィンの顔を睨み続けていたが、やがて衛兵の方に向くと言った。
「ル・ウーダ殿の言う通りにせよ」
「しかし……」
衛兵達は戸惑った。
「言う通りにせよ。出て扉を閉め、誰も中には入れるな」
再び王が命令する。
衛兵達は顔を見合わせながらも王の命に従った。
部屋の中は再びフィンとアウラ、それに王達の五人だけになった。
しばらくの間、彼らは静かに睨み合っていた。
王達は誰も口を開かない。
沈黙を破ったのはフィンだった。
「それでは……手っ取り早く申し上げます。私達は……アイザック様の命を受けて中原の動向を調べるためにやって参りました。その理由は……レイモン王国の拡大が再び始まれば、もはやフォレスの地も安泰ではないからです」
フィンの声は明らかに震えている。
彼はアウラが今までに見たことがないくらい緊張していた。
そんなフィンを見るのは久しぶりだった。
前回そんな姿を見たのはいつだっただろうか?―――彼はどういうわけだか知らないが、こういった場面では妙に腹が据わっていた。
彼が慌てふためいた姿というと―――そうだ。最初に峡谷を下ったとき、あの滝の所で彼女の裸身を見てしまったときだ!
ということは―――今はあのときと同じくらい緊張しているということだが……
そう思うとアウラは笑い出しそうになったが、さすがにここで笑うのはまずいと思った。
どう見てもここは正念場だ。
これからの会話の結果如何で王の首を刎ねるのかどうかが決まるというのに……
アウラはフィンと同時に王の様子にも注意を集中した。
王もフィンと同様に相当の緊張状態にあるように見える。
彼は鋭い目つきでフィンを見つめている。
そのため喉元に突きつけられている血に濡れた槍の穂先はまるで目に入っていないかのようだ。
フィンはぐっと歯を噛みしめると、そんな王の目を真正面から見返した。
それから大きく息をすると言った。
「ですので、私達は小国連合の崩壊は望みませんし、レイモンに与することも致しません」
相変わらず少し震えた声だが、フィンの緊張は最大限に達しているのが分かる。
アウラはフィンと王の様子に意識を集中した。
多分ここで決まるのだ。
王がその言葉にどう答えるかで、フィンはアウラに王を斬るかどうかの指示を出そうとしているのだ……
だがそれを聞いた途端に王は驚いたように目を見開いたのだ。
それからフェデレ公とファルクスの顔を見る。
残りの二人も同様にぽかんとした顔で王を見返す。
それから再び王はフィンの顔を見つめると、よく分からないといった様子で問い返した。
「ならばどうしてこのようなことを?」
その途端に今度はフィンが目を見開くと、王を見つめた。
アウラも同様に王の顔を見るが―――特におかしな様子ではない。
フィンの言ったことがよく分からないので、そう質問したとしか見えないが……
フィンはしばらく黙って王とフェデレ公、それにファルクスの顔を見比べて、それからおもむろに言った。
「最悪の事態を想定したら……こうせざるを得なかったのです。その場合にあなた方が何故私達を生かしておいたか、とかを考えた場合ですが……」
フィンの答えを聞いて王は一瞬考え込んだ。それからふっと頬が緩む。
「最悪の事態を想定、とな?」
フィンは黙ってうなずいた。今では明らかに体が震えているのが分かる。
それを見て王は言った。
「ということは……もしやわしらがレイモンの手先だと?」
フィンはうなずいた。
王は再び目を見開いて天井を睨む―――次いでいきなり大きな声で笑い始めた。
「はっはははは! なるほど。そうじゃな。ル・ウーダ殿の立場ならそうせざるを得なかったか? 何故あなた方を生かしておいたかだと? 言われてみれば確かにそうだ! はっはははは!」
その途端だった。
フィンはいきなり緊張の糸が切れたかのように、へなへなと床に座り込んでしまったのだ。
「フィン?」
アウラは驚いてフィンに声をかけた。
だがフィンは黙ってアウラに槍を下ろせと指示した。
「いいの?」
アウラは問い返した。本当にいいのだろうか?
「ああ」
フィンははっきりとそう答えた。
それを聞いてアウラは槍を下ろす。
だがまだいつでも振るえる状態には留めておいたが……
喉元の槍がなくなって王もやっと安堵の息を吐くと、椅子にどっかりと座り直した。
「ともかく座って頂けるかな? アウラ殿も」
王は床にへたり込んでいるフィンと横に立っているアウラに、目の前のソファを勧めた。
アウラはフィンの顔を見る。ここを離れてしまっていいのだろうか?
だがフィンはうなずくとよろよろと立ち上がり、ソファにどっかりと腰を下ろす。
それからまだまごついているアウラに手招きをした。
「来いよ。大丈夫だから」
「うん……」
アウラはフィンの横に行きソファに腰を下ろした。
何でそうなったのかはさっぱり分からなかったが―――どうやら話はついたということらしい。
理屈はともかく、彼女には場の緊張が一気に解けたことだけはよく分かった。
王はもう一度大きな溜息をつくと、ファルクスに向かって言った。
「ファルクス。外の連中を帰してこい。それから飲み物を持って来させろ」
「あ、はい」
ファルクスは慌てて立ち上がると部屋を出て行った。外から彼が何かを喋っている声が聞こえてくる。しばらくして彼は帰ってくると言った。
「仰せの通りに。それから関係した者は一まとめにしております」
「うむ」
王はうなずくと、フィンとアウラに向かって言った。
「どうやら今回はどうもひどい誤解があったようだが……」
フィンが慌てて答える。
「あの、大変申し訳ございません。ですが説明させて頂ければ……」
しかし王はフィンを押しとどめると首を振った。
「いや、分かっておる。今回の非礼に関してはもうすべて終わりにしよう。というか、こちらの方からもル・ウーダ殿とアウラ殿には相当に礼を失する事をしてしまったようだしな」
「はい……」
「わしらがあちこちでやりすぎてしまわなければ、ル・ウーダ殿にこのような迷惑が及ぶこともなかったとは思うが……だがわしらがそうしてしまった理由は多分もうお分かりであろう?」
そう言って王が見つめると、フィンは軽くうなずいて答えた。
「はい。推測はついております……状況をかいつまんで申しますと、アラン様はフェデレ公の内通をご存じでしたが、レイモン側はアラン様がこのように関与していることを知らない、とそういうわけなのですよね?」
王はにっと笑うとうなずいた。
「うむ。その通りだ。この情報がばれたらどれほどまずいことになるかお分かりであろう? だから情報漏れに関しては少々過剰なまでに対処せねばならなかったのだ」
フィンは軽くうなずく。
それから少し躊躇した様子だったが―――やがて顔を上げると言った。
「だとすると……ちょっと腑に落ちない点があるのですが……」
王は少し眉をひそめる。
「どのようなことだ?」
「何と言いますか、ちょっと危険過ぎるのでは、と……実はこの可能性も考慮はしたのですが、あまりにもリスクが大きすぎる気がして……」
王とフェデレ公はちょっと顔を見合わせるとくくっと笑った。
「確かに。おっしゃる通りだ……そのことはわしらも身に染みて感じておる」
そう言って王は再びふっと笑う。
それからぽかんとしているフィンに対して言った。
「ではル・ウーダ殿にはこうなった事をお話ししておくしかなさそうだな。もはや何を隠し立てする必要もないであろうし……」
王がそこまで言ったとき、侍女が冷たい飲み物を持って入ってきた。
そしてこの妙な取り合わせの五人に飲み物を配るが―――アウラの側にある血の付いた槍を見て凍り付いた。
「え? あ、これ……」
考えてみればこういった場所に置いておくのは結構まずいような気がする。だが彼女に持っていかせるのもどうだろう?―――アウラがそんなことを思っているとフィンが代わりに言ってくれた。
「あ……これどうしましょうか」
王とフェデレ、ファルクスが顔を見合わせ、それからファルクスが立ち上がる。
アウラは彼に槍を差し出した。
「すみません。汚しちゃって」
それを聞いてファルクスは妙な顔をしたが、それ以上は何も言わずに槍を持って部屋の扉の所まで行き、衛兵に槍を手渡して戻ってくる。
見ていた侍女は蒼白だったが、何とか気を取り直すとそそくさと出て行ってしまった。
その後ろ姿を見てアウラは少し後悔した。彼女を怖がらせるつもりはなかったのだが……
そんな光景を見ながらアラン王が可笑しそうに言った。
「それにしてもル・ウーダ殿らには驚かされることばかりだな。こちらに来たときからそうであったが、いつでもこちらの予想を裏切る行動で驚かせてくれる」
「え? いえ、その」
返事に困って口ごもるフィンに対して王は言った。
「よいのだ。それを見抜けなかったわしらが悪いのだからな……さて、それよりまず、何故わしらがこのような危ない橋を渡り続けているか、ということをお話ししておこう」
「はい」
フィンはうなずいた。
それと共に王の表情も真剣になる。
「さて、ル・ウーダ殿は当然、かつてレイモン王国がウィルガ王国、ラムルス王国を次々に滅ぼして草原の覇者となった経緯はご存じだな?」
「はい。存じております」
うなずくフィンを横目に、王は天井を見上げて昔を思い起こすように言った。
「その勢いはもう凄まじいものじゃった。あのシフラ攻防戦で都とベラの連合軍を打ち破ったのを見た後は特にな……当然奴らの次の目標はわしらに向けられると思った」
「はい」
「そこでわしはハグワール、エルゲリオン、ザルテュスなどに働きかけてレイモンの包囲網を作った。知っての通り、各国単体ではレイモンの敵ではないが、四国をあわせれば何とか対抗できる勢力になるのでな」
その名前はアウラにも聞き覚えがあった。
ハグワール王はサルトスの王様で、エルゲリオン王はアイフィロス王国、ザルテュス王はアロザール王国の王様だったはずだ……
「当時のレイモンはそれこそ脅威だったから、連合はそれほど困難もなく成立した。さて問題はその次だ。ル・ウーダ殿。それではわしらは次に何を心配せねばならなかっただろうか?」
それを聞いてフィンはちょっと考えると答えた。
「……やはり、小国連合をいかに維持するかということでしょうか」
「その通りだ。ならばわしらは一体何に注意せねばならなかっただろうか?」
王は再びフィンに問いかける。フィンはまたちょっと考えると答えた。
「その、分断工作ですか? いきなり攻めれば背後から別な国が来ますが……同盟は決して堅固ではないですし……」
それを聞いて王は満足したようにうなずいた。
「うむ。そうだ。確かに四国合わせれば同じくらいの勢力だが、はっきり言ってそれだけだ。四国間が分断されてしまったらお終いだ。簡単に各個撃破されてしまうだろう」
「はい……」
「ではその際にどこを狙えばいいと思うか?」
王の問いかけにフィンは答えた。
「え? はい……例えばアイフィロスとシルヴェストの仲を裂くのはどうでしょうか? あそこは元々シルヴェストとは良好な関係とは言えませんし、他にもアロザールの方もそうかもしれませんが……」
「そうだな。確かにレイモンがアイフィロスに工作を仕掛けたら相当に厄介だ。何しろかの国と我が国が同盟したのは、長い歴史上これが初めてのようなものだ。レイモンのあの凄まじい圧力を身に感じていなければ、エルゲリオンは決して首を縦には振らなかっただろうな」
そして王はじっとフィンの顔を見る。
「そのような状況でレイモンにアイフィロスに手を出させないようにするにはどうすればよいと思う?」
それを聞いてフィンはちょっと口ごもった。
「えっと、え? レイモンに手を出させない、ですか?」
「そうだ」
その質問はちょっと意外だったようで、今度はフィンはしばらくの間考え込んだ。
それからはっと顔を上げると、驚いたように答えた。
「ということは……その、要するにもっと美味しい餌を与えてやると?」
その答えは王をかなり満足させたようだった。
「そうだ。まさにその通り。この小国連合は我が国が要になっておる。わしはレイモンに対して不退転の決意で臨んでいる。その状況ならレイモンとしては外堀から埋めていくしかない。例えばアイフィロスに工作して離反させるとかだ……だが、その要そのものが押さえられるとすれば彼らはどちらを選択すると思うか?」
フィンはしばらくぽかんと王を見つめていた。
「そのために……あんな事をされたのですか?」
王はうなずいた。
「そうだ。そのために全てをかぶったのがフェデレだ。彼はレイモンと秘密裏に接触し、わしを裏切る約束をした。それからあのような秘密連絡経路を作り上げた。更にレイモンの指示に従って国内でも様々な工作を行った。本当に致命的な事は避けねばならないが、そうでなければレイモンの信用を得るためにもある程度の犠牲を払う必要もあった」
それを聞いてフィンが首を振る。
「でもしかし、その、いつからなんですか? それだとずいぶん前からやっていたみたいですが……」
「そうだな。ルナールが没した後からだから……十五年以上になるか?」
フィンはしばらく黙り込む。
「そんな長い間?」
「そうだ。そんな長い間だ」
そう言って―――王は疲れたような笑みを浮かべた。
「シフラ戦の後、多分ルナールが病気がちだったせいだろうが、レイモンは一時侵攻を停止していた。だが彼が没してマオリが後を継いだとき、わしらはこれからが正念場だと思った。奴らが仕掛けてくるならばこれからだとな。実際アイフィロスにはそういった工作が仕掛けられつつあったらしい」
「はい……」
「そこで先手を打ってフェデレがマオリに接触したのだ。わしと仲違いしたのでレイモンに与すると言ってな。奴はそれに乗ってきた。そしてアイフィロスの方の工作を中止してくれたのだ」
フィンは驚いた顔でうなずいた。
また人名が出てきたが―――これもアウラは聞き知っていた。
レイモン王国の先代の王がルナール王で、現王がマオリ王だ。
「そこまでは予定通りだった。そして次に奴らがこの内応を利用して攻めかかってくるのを待ち構えた。そのときこそが奴らの最期だとな」
王はちらっと歯を見せた。
「そのために既に周到な罠も用意してあった。もちろんそれが全て上手く行ったとしても緒戦に勝利できるということではあるが、まずは奴らに一撃食らわすことができる……ところが、事態は全く予想外の方向に進んでしまった」
そう言って王は首を振った。
「どうなったんです?」
フィンの問いに王は一度溜息をつくと答えた。
「わしはマオリの性格を読めていなかったのだ。あのルナールの息子であるから、同様に国土を拡大に走るだろうと、そう思っていた。所が奴は違ったのだ。何と奴はシルヴェストの喉首を掴んだことに満足して、小国連合はもはや敵でないと思ったのだ」
フィンは眉をひそめた。
「……ということは?」
「奴はそれ以上何もしなかったのだ」
………………
…………
フィンはぽかんとして王を見つめた。
次いでフェデレ公とファルクスの顔を見るが―――二人も黙ってうなずいた。
それからフィンが王に視線を戻すと、王はふっと鼻を鳴らす。
「ある意味奴は一番嫌な選択をしてくれたわけだ。当然このことがどれほどのリスクを孕んでいるかはお分かりのはず。奴らの側にしてもそれは同じだ。これがもし“わしに知れた”としたら元の木阿弥だ。そうなる前にこのカードを利用してわしらに攻めかかってくるだろうと読んでいたのだ。それならばリスクがあるといっても短期間だ。危険を冒す価値は十分にあった」
そう言って王はまた天井を仰いだ。
「ところが、奴は切り札を切ろうとはしなかったのだ……だとしたらどうなる? こちらから手を出すわけにはいかない。結局わしらは振り上げた拳を振り下ろせぬまま、ただひたすら奴らが動くのを待ち続けていたわけだ……」
王は言葉を終えた―――それに対してフィンがつぶやくように尋ねる。
「十五年間……ですか?」
「ああ」
フィンは首を振ると大きく息をついた。
「何とコメントすべきかもうよく分かりませんが……何だかすごく大変だったとしか……」
それを聞いた王が微笑んだ。
「大変、か。確かに大変であったな……」
王がくっくっと笑いだすと―――それにつられて残りの男達も笑い出す。
だがアウラはあまり可笑しくはなかった。
彼女にはこれまでの話は少々難しかったとはいえ、王が仕方なくこういう事をしていたことだけは分かった。
少なくともフィンは今までの話で納得しているようだ。
彼が納得できるのならそうなのだろう……
だがアウラの気持ちはまだそれで整理はできなかった。
《レジェ……》
彼女が殺された夜のことは忘れようとしても忘れられない。
アウラはレジェを守ることができなかった……
そして死出の旅立ちに何も持たせてやることができなかった……
一人暗い顔をしているアウラに気づいて王が言った。
「アウラ殿にも非常に申し訳のないことをした。私からも謝罪する」
「あ? はい」
いきなり王に話しかけられて、アウラは弾かれたように答えた。
王もこうして謝ってくれているし、王の言葉には誠意も感じられる。
大体王様が謝罪してくれるなんて普通あり得ないことだ。
そのことは彼女も分かっていた。
昔ならともかく―――フォレスでエルミーラ王女の警護をずっと務めていれば、それがどれほどのことかはよく分かる。
だが、それでレジェが戻ってくるわけではないのだ……
それにこだわっても仕方がないし―――などと必死に心の中で葛藤と戦っていたときだ。
「アウラ殿」
フェデレ公がアウラに話しかけてきた。アウラは公の顔を見た。
「貴方が怒るのも無理はないが、ここは一つ水に流してはくれまいか」
その途端、腹の底から怒りが湧き上がってきた。
《水に流せ? 忘れろ?》
黙ってくれていれば何とか抑えることもできたかもしれない。
だがこいつはレジェを死に追いやった張本人だろう? そいつがいけしゃあしゃあと―――忘れてくれだと?
アウラはフェデレ公をぶん殴りたくなる衝動をやっとの事で抑えた。
「レジェは……帰ってきません」
そう言ってアウラはフェデレ公をじろっと睨みつける。
その眼差しを見て―――しかしフェデレ公はふっと笑ったのだ。
アウラはますます腹が立ってきたので、今度は露骨な怒りの眼差しを公に向ける。
だがフェデレ公は、今度はなぜか寂しそうな表情でアウラを見返してきたのだ。
「ああ、やはりな。お怒りになるのは当然だ……だがアウラ殿はご存じか? 貴方がアビエスの丘で斬った相手なのだが……」
「え?」
アビエスで斬った奴ら? あの追っ手が何だっていうのだ?
だが公の次の言葉は完全に予想外だった。
「あの中の一人はわしの息子だったのだ」
………………
…………
……
アウラはいきなり冷水をぶっかけられたような気分になった。
口をぱくぱくさせるだけのアウラにフェデレ公は言った。
「息子だからこそ、レジェ殿の行き先がアビエスの丘だと知っていたのだ。だから彼が追っ手を率いて行っていたのだ」
「………………」
返す言葉がないというのはこのことだ。
今までの怒りは一瞬で吹っ飛んでしまっていた。
ということは何なのだ?
あの追っ手の中にパルティールがいたというのか?
だとすれば―――彼女はレジェの仇はもう既に十分といえるほど取っていたということなのか?
そしてフェデレ公にとっては―――目の前の彼女こそが息子の仇なのでは?
頭の中はもう真っ白だった。
目から涙がこぼれ落ちる。
もはやどうすることもできない。
喉から嗚咽が漏れてくる。自分ではもう止めようがない―――そのときフィンの手が肩にかかる感触を感じた。見ると彼が心配そうに見つめている。
アウラはフィンに寄り添った。
フィンはそんな彼女を抱き寄せると小声で尋ねた。
「大丈夫か? 下がらせてもらうか?」
「ううん。大丈夫」
アウラは首を振って涙を拭いた。
何だかもうどうでもいいような気がしてきた。
そう思った瞬間―――今度はどっと眠気が出てきた。
考えてみれば、夕方にはエレバスと一戦交えて、さっきは城の中で暴れ回っていたのだ。
緊張が抜けた途端に疲労がどっとこみ上げてきたらしい。
それはフィンも、それに王達も同様だったようだ。
「こんな事を言うのもなんだが、お二人ともお疲れであろう? そろそろお休みになられた方がよろしいかと」
それを聞いてフィンがうなずいた。
「はい。ありがとうございます。ただ少し気になるんですが……」
「何だ?」
「あの、私たちのせいでこんな騒ぎになってしまったわけですが、ディレクトスは今のまま続けられるんでしょうか?」
王は首を振った。
「いや、こんな騒ぎになってしまった以上は、ディレクトスルートは畳むしかなかろうな」
「と、いいますと……」
「ディレクトスにレイモンのスパイが見つかったとして関係者を処分する。ただしフェデレが黒幕だったとは露見しなかった事にして、フェデレからはレイモンに蜥蜴の尻尾を切ったと報告させておく」
「でも……上手く騙しおおせられるでしょうか?」
「そうするしかないであろう?」
フィンが少し青くなった。
「すみません。私達のせいで……」
だが王は謝ろうとするフィンを押しとどめると言った。
「ル・ウーダ殿に責任はない。逆にわしは見事な手腕だったと思っておる。もしこれが単純な内通であればあの墓場でフェデレは破滅しておったわけだからな?」
王がちらりとフェデレ公を見ると、公は下を向いてしまった。
「たったあれだけの情報から正しく事態を把握し、証拠を掴み、かような罠を仕掛けたのだからな。こんな外国から来たばかりの若いお二人に、完膚無きまでにやられたのだ。わしが関与していることまで読めなかったと言ってなんら恥じることはない。こちらの完敗だ」
「……恐れ入ります」
フィンが礼をすると王が言った。
「それに忍耐の時もそう長くはないだろうし。事が成就すれば全てはご破算にできる」
それを聞いたフィンが顔を上げる。驚いた表情が浮かんでいる。
「もしや……あの手紙の内容ですか?」
あの手紙とは、男娼が運んでいた密書のことだろうか?
アウラもあの手紙に書かれていたことを思い出した。そういえば―――何だかサルトス王国の方を牽制しろとか書いてあった気がするが……
フィンの言葉に王はうなずいた。
「ああ。そろそろ本気でレイモンは動こうとしている」
フィンは目を見張った。
「そうでしたか……参考までに、レイモンはどう動こうとしているのでしょうか?」
「うむ。こちらの入手した情報では……奴らは都攻めをしようとしているらしい」
それを聞いた瞬間だった。
フィンはちょうど手にした飲み物を飲もうとしていた所だったのだが―――いきなり派手にむせて吹き出してしまったのだ。
その方向には誰もいなかったので被害を受けた者はいなかったが―――その瞬間、口から見事に霧を吹いていたのだが……
「注意して飲みなさいよ」
アウラはフィンに向かって言った。
だが彼はそんな言葉は全然耳に入らなかったようで、いきなり王に尋ねた。
「あ、あの、今、何ておっしゃられました?」
慌てているフィンを見て少々不思議そうに王は答えた。
「ル・ウーダ殿が驚くのも無理はないかもな。ご出身の所であるし。だが確かに奴らは白銀の都を攻めようとしているのだ」
フィンはその言葉を聞くと、今度は目を丸くして凍り付いてしまった。
その反応に王の方が少々戸惑った。
「どうなされた?」
フィンが慌てて首を振った。
「え? いえ。あの、でも、いったいどうしてですか? だってその、意味が良く分からないんですが……都なんか攻めて一体何の得が……大体そんなことをしたら敵に背を向けるようなものですし……」
フィンの言葉に王も首を振る。
「それはわしらも疑問なのだが……一説にはマオリがあの美しいお方にのぼせたとかいう説もあるが……」
「はいぃ?」
その言葉にフィンはさらにしどろもどろになった。
「ともかく、レイモンは都に向かって兵を出すらしい。その間背後ががら空きになるところをわしらに牽制して欲しい、というのがあの書状の真意だ」
「は、はい……」
フィンは目を見開くと、心ここにあらずと言った様子でうなずいた。
「これがどういったチャンスかは理解頂けるな?」
王の質問にフィンはしばらく反応せず、それからいきなり弾かれたように答える。
「え? はい。あの、いえ、わかりました……」
それはアウラが見ていても不思議だった。
何でこんな急に支離滅裂になってしまったのだろう? こんなフィンを見るのは初めてかもしれない……
「それにしてもそろそろ夜も明けそうな勢いだな?」
見ると東の空が白々としてきている。
「とりあえず今日はここまでにして、後の詳しいことは追って話し合うこととしよう。それでよいかな?」
「あ? はい……」
相変わらずフィンは上の空だ。
「ならば、そう。もっと良い部屋を用意せねばな。今日は待遇が悪くて大変失礼したな」
「いえ、その……」
アウラもさすがにへとへとだった。
騒ぎに片が付いてゆっくり寝られるのは歓迎だ。
ということはフィンも疲れているのだろう―――それなら休めば気分もすっきりするに違いない。
