賞金首はもっと楽じゃない! 第11章 波乱の予感

第11章 波乱の予感


 命がけの大勝負から数日の後、アウラはグリシーナ城の中庭にある訓練場で再びエレバスと対峙していた。

 だが今回は互いが手にしていたのは真剣ではなく、エレバスは木刀、アウラも練習用の木製の薙刀だ。

「この辺にしとくか?」

 エレバスが言った。

 彼の髭から汗が滴り落ちている。アウラの服にも汗で大きな染みができている。

 二人はたった今まで全力で戦っていた所だ。

 気づいたら体中の筋肉が悲鳴を上げている。

「そうね」

 アウラはうなずいた。

 途端にさっき脇腹に一発食らった所がずきずきと痛んでくる。

 軽く触れてみると、うっと声を出しそうになるくらい痛い―――あのときはかすっただけかと思ったが、思いのほか重傷のようだ。

 だがエレバスにも結構きつい一発をお返ししてやったので、とりあえずはお相子だが……

 しかし先に一発食らったということは、実戦ならばそこで終わりだったということなので、あまり喜んでいるわけにもいかないが……

「だ、大丈夫ですか?」

 二人の試合が終わったのを見て、観戦していた親衛隊の兵士が声をかけてきた。

 声が少々上ずっている。

「大丈夫よ? このくらい」

 そう答えてアウラはにこっと笑う。

 骨には異常なさそうだし、それを除けば思いっきり体が動かせて気分がいいぐらいだ。

 その場には親衛隊の兵士が数名いたのだが、誰もが驚いて声も出せなかった。

 もちろんその理由は、普段ならまず見られないような達人クラスの戦いを、今まさに見せつけられたからに他ならない。

 王の親衛隊とは伊達ではない。

 その職務を果たすために、彼らはシルヴェストでもトップクラスの剣の腕前を持っているはずだ―――だからこそ目の前で行われた戦いの凄さを、心底感じ取ることができたのだ。

 だがアウラにとってはその辺の所はどうでも良かった。

 久々に全力で戦えて楽しかっただけだ―――なにしろここまで手加減なしにできる相手は、ガルブレス以来初めてだ。

 エレバスとはここに至るまでに二回戦っているが、一回目は互いに手探り状態だったし、二回目はあまり楽しんでいる余裕はなかった。

「あ痛ててて」

 エレバスが呻いて木刀を取り落とした。

 見るとさっき小手を入れた所が青黒くなっている。

「大丈夫?」

 あまりに痛そうだったのでアウラは心配になったが―――エレバスは妙な顔になる。

「お前こそ平気なのかよ?」

 もちろん平気ではない。

「痛いわよ?」

 それを聞いてエレバスは吹き出した。

「まったく……何て奴だよ」

 それからエレバスは側で見ていた兵士に言った。

「おい。水くれ」

「あ、はい……」

 兵士が慌てて水を取りに行く。

 その後ろ姿を追いながらエレバスは言った。

「久々にいい汗をかいたぜ」

「そうね」

 全く同感だ。

 だがそうは答えながらもアウラはちょっと浮かない気分だった。

 フィンは今日も王と何か会議をしている。

 あの日からずっとそうだ。

 もちろん彼が会議などで忙しいことはフォレスにいたときにもよくあった。

 だが今回は会議から戻ってきた後も、何故だかずっと上の空のままなのだ。

 フォレスとのときならば、大変だったとか何とかこぼして、それから二人で何か気晴らしをしようといったことになるのが普通だったのに……

 そんな場合はよくガルサ・ブランカ城の塔の上まで飛び上がってそこでデートしていたのだが―――グリシーナ城の塔はあそこより遥かに景色が良さそうだ。アウラはちょっと期待していたのだが……

《一体どうしたのかしら?》

 どう考えても理由が分からない。

 まあ夜はそれでも二人一緒だからまだ何とかなる。

 問題は昼だった。

 ガルサ・ブランカ城でならそれこそいくらでもできる事はあった。暇ができたらとりあえず親衛隊の詰め所に行けば、練習相手には事欠かない。リモンやガリーナがいれば彼女たちを鍛えてやってもよい―――だが、ここにはそれが何もなかった。

 フィンから聞いた話によれば、今回の件は政治的に非常に微妙な問題を孕んでいるため、後始末をするにしてもいろいろと慎重に事を進める必要があるらしかった。

 いかに呑気な彼女であっても、レイモンとの内通発覚というのが途轍もなく大変な事だということくらいは分かる。

 そんなことに関わってしまったのだ。当然のことながら、二人はすぐ自由に出歩くことも許されなかった。

 それは現在も続いており―――平たく言えば軟禁されている状態だ。

 もちろん今いるのはあのときに放り込まれた牢に比べれば立派な部屋だし、待遇も全然違うのだが……

 そんな状態でフィンは一人アウラを残して王と会談しに行ってしまうのだが、残された彼女は客間でずっとぼうっとしているしかなかったのだ。

 そんな生活は二日で飽きてしまった。

 そこでアウラは見張りの兵士に文句を言って城の中を案内させようとした。

 だがその兵士も一存でそんなことができるわけがない。ほとんど喧嘩になりそうになった所に出てきたのがエレバスだったのだ。

 エレバスもまた同じような理由で城内に閉じこめられており、アウラ同様に退屈しきっていた―――そしてそんな二人が出会えば後はもう、この間の決着をつけようじゃないか? という話になるのは必然だ。

 そんなわけでアウラとエレバスは見張りの兵士を半ば脅迫して、この親衛隊の訓練場に来ていたのである。

「お持ちしました」

 先ほどの兵士が冷たい水の入った水差しとカップを持って戻ってくる。

 兵士はアウラにもカップを差し出した。

「あ、ありがとう」

 激しい運動の後で汗だくだ。もらった水はとても美味しかった。

 そうやって二人が一息ついたところで、エレバスがアウラに尋ねた。

「お前さ、あの変な構え誰に教わった?」

「変なって何よ?」

「あの刃を上にしたのさ」

「ああ。あれ? 自分で考えたのよ? あれで一度ブレスから一本取ったんだから。すごいでしょ?」

「ほう?」

 エレバスは一瞬驚いて、それから顔面をくしゃくしゃにした。

 バカにしているのだろうか?

「何が可笑しいのよ?」

 少しむっとした顔のアウラに、エレバスは笑いながら答える。

「え? 可笑しいんじゃないぜ? このままにしとくには勿体ないって思ってさ」

「え?」

 ちょっと意外な答えに戸惑っているアウラを見て、エレバスは少し真剣な顔になる。

「お前さ、剣で身を立てる気ってあるのか?」

「え?」

 アウラはまた戸惑った。剣で身を立てるって―――何なんだ?

「それってどうやるの?」

 今度はエレバスは本気で笑い出した。

「ぶはははは! まあその方がいいかもな。お前みたいな奴は嫉妬されるしな」

 こいつは一体何が可笑しいのだ?

 アウラにはエレバスが言わんとする事がよく分からなかった。

 剣で身を立てるとは―――要するにガルブレスのように生きていくことなのだろうか?

 確かに記憶にある彼はいつでも剣の練習はしていたし、アウラが求めればいつでも相手をしてくれた。

 またあちこちの村で用心棒のような事をしていたこともあるが……

 ぽかんとするアウラにエレバスが言った。

「一つ言っとこうか。剣士ってのは普通な、強くなりたいからなるもんだ。そのために血反吐吐くような練習を重ねてな。本当に命がけでな。でもそうやっても全然だめな奴はだめだ。それをお前みたいな奴が軽々と越えてくのを見たらどう思うかわかるか? しかも遊び半分でだぜ?」

 アウラはちょっとむっとした。

「遊び半分って何よ?」

 今回の練習でもそうだが、ブレスとやっていたときだって青あざは絶えなかった。今の脇腹の痣くらいなら軽いものだ。ブレスはまだ子供だった彼女相手でも決して手抜きはしなかった。

 だが不服そうなアウラに対してエレバスはふっと笑ってから尋ねた。

「お前さ、人殺したこと、あるのか?」

「あるけど?」

 アウラは即座に答える。殺したことも殺されそうになったことも何度もある。

 だがそれを聞いてエレバスは首を振る。

「雑魚じゃなくて人だ。お前が人として認めた奴を斬ったことはあるか? ってことだ。例えばあのフィンって奴、お前斬れる?」

 アウラは言葉に詰まった。そんなこと今まで考えてみたこともなかったが……

「……そんなことあるはずないし……」

 自信なさげなアウラにエレバスはにたっと笑いかけた。

「じゃあもしこの次俺とまた戦うようなことになったらどうする? 俺は金がもらえるならお前だろうと誰だろうと斬るぜ?」

「あんただったら斬れるわよ?」

 アウラは反射的にそう答えはしたが―――なぜか妙に引っかかった。

 こうして話をしてみると、エレバスという奴は悪い奴ではない。いい奴かどうかは微妙だが―――少なくともいま彼を憎むことはできないし、さっきの試合は間違いなく楽しかった……

 でも彼は間違いなく殺し屋なのだ。

 あの墓場で出てきたのも、ロゲロ達を斬ったのも、彼がそういう仕事をしているからに他ならない―――だとすれば次に出会ったときはまた命の奪い合いになるかもしれない。

 だが今度そういうことになったとしたら?

 確かに彼女は今までたくさんの人を斬ったのは間違いないが、思えばそれは全て盗賊とか知らない人間ばかりだ。身近な人を斬ったことなんて……

 そんな内心を見透かしたようにエレバスはまたにっと笑った。

「まあそれが剣士っていう奴の宿命みたいなもんだ。お前がさ、その薙刀担いで生きてく限り、いつかはそういう時が来るぜ?」

「………………」

 エレバスの言うことは今ひとつよく分からなかったが、しかし彼が何か非常に真剣な忠告をしてくれたことだけは分かったような気がした。

 曖昧にうなずくアウラに対してエレバスは言った。

「ま、そんなのはともかく、今日はなかなか楽しかったぜ。今度はいつ会えるかな」

 城にいるなら別に明日だって会えそうなものだが?

「ん? どこか行くの?」

 それを聞いてエレバスはうなずいた。

「ああ。ディレクトスがなくなったらここにいる理由もないんでな。ファルクスの旦那もいなくなるし」

 アウラが伝え聞いた所によれば、どうやら今回の事件はあのファルクスという男が主犯だったということで収められるようだ。

 ファルクスは現在のシルヴェスト警吏長官で、実際にアウラ達が関与した様々な事件の実行責任者だった。

 ヴィニエーラ事件も、盗賊団の一件も、彼女たちが来たときの賞金首騒ぎも―――そしてもちろんワイン街道の襲撃事件も、それを直接に指揮していたのは彼だった。

 警吏長官であればこの事件の黒幕としても十分な地位といえる。

 そこで今回の責任はすべて彼にかぶってもらって、それで事を収拾するらしかった。

「ディレクトスもなくなるの?」

「そりゃそうだろ。スパイの巣窟だったってことなんだから」

「そりゃ残念ね」

「ああ。全く残念だぜ」

 エレバスは本気で名残惜しそうだった。

「まあそういうわけで明日ここを発つ」

「どこに行くの?」

「さあ。まあとりあえずはセイルズあたりか?」

「ふうん。そうなんだ」

 エレバスが行ってしまったら昼間の暇をどう潰せばいいのだ? 彼に行くなとも言えないし……

 アウラがそんなことを考えていると、訓練場の入り口あたりでちょっと騒ぎが起こった。

 誰かが入ってこようとしてもめ事になっているらしい。

 二人の横にいた親衛隊の兵士がそちらに向かって叫んだ。

「今はちょっと貸し切りだ。後にしろ」

 だが入り口を警備していた兵士が答えた。

「それが、フォレスより急使が来られたそうです。何でもお世継ぎがお生まれになったとか」

「ええ?」

 途端にアウラは立ち上がると、入り口に向かって駆け出していた。

「お世継ぎって、ミーラに?」

 アウラがやって来た伝令に尋ねる。

「え? はい。エルミーラ様に、皇子ご誕生の報せが来たと」

「本当?」

 アウラがそう言ってにじり寄る。

「はい」

 兵士は後ずさりしながら答えた。

「うわああああ!」

 それを聞くなりアウラは夢中になって訓練場から駆け出していった。

 エレバスと親衛隊の兵士達は呆然とその後ろ姿を見送った。



 彼女が行ってしまった後、エレバスはにっと笑みを浮かべるとつぶやいた。

「あーあ。女が気になったなんて、初めてかもな……」

 それからエレバスは横にいた兵士をちらっと見る。

 兵士はエレバスの性癖を知っていたと見えて、驚いた顔で彼を見返す。

「あん? なんかおかしいか?」

「い、いえ。何も? アウラ様は魅力的なお方ですし……」

「あっははは。そうだな? あはははは。でもお前も結構いい男じゃねえか?」

 途端に引きつった兵士の肩をエレバスはぽんと叩くと、笑いながら訓練場から出て行った。



 シャワールームから出てきた瞬間、開け放たれた窓から夜風がさーっと吹き込んできた。

「ああ! 気持ちいい!」

 濡れた体に風が当たって、火照りを適度に奪い去っていく。

 アウラはそのまま何も纏わずに窓際まで行って外を眺めた。

 二人がいるのはグリシーナ城の一室だが、客間ではなく王のプライベートエリアの一部屋だった。そのため部屋の調度は最初に公賓として来たときよりはずっと地味だ。

 だがこの一件が完全に片づくまでは、彼らはなるべく他と接触せずに大人しくしていなければならないのでそれも仕方がなかった。

 とは言っても、設備は並の宿屋などよりは遥かに整っている。ベッドのマットレスはふかふかなだけでなく適度な弾力を備えており、部屋には専用のシャワールームまで付いている。

 グリシーナ城の立地を考えれば、これはかなり破格の待遇と言って良かった。

 何しろ城は高い丘の上に建っている。だから水は深い井戸から汲み上げてこないといけないので、結構貴重なのだ。

「ああ、いい景色」

 部屋の窓からはグリシーナの夜景がよく見えた。

 この時間だとさすがに燈火の数も減ってきて、絨毯というよりは地上に映る星といった風情だ。

「おい、そんな所、外から見られないか?」

 続けてフィンがシャワールームから出てくると、アウラが窓際に裸で立っているのを見て言った。

 アウラはそれを聞いて首を振る。

「大丈夫よ。遠いし、それに暗いし」

 元々アウラは裸を見られることにあまり頓着しなかった。

 ヴィニエーラにいた頃は、遊女達が肌をさらす際にさも恥ずかしそうに振る舞うのを見て、どうせ最後には喜んでそうするくせに何故そんなに恥ずかしがっているのだろう? など本気で不思議に思っていたくらいだ。

 だがあの頃と今は違う。

 こんな格好でフィンと二人でいると、すぐに体がかっと熱くなってくる。そうなったら最後、もう何もかも忘れて彼を求めたくなってしまうのだ。

 そんな自分に気づくとますます顔が火照ってきて、もうどうしようもない気持ちになってしまう―――そう。今では彼女たちの気持ちがとてもよく分かった……

「そんなに見えないもんか?」

 フィンは近づいて来るとアウラの横に並び、窓の外を見た。

 その瞬間フィンの体が触れる。

 途端にぞくっとして、その場所からまた熱い物が流れ込んで来るような気がする……

「ああ、そうだな……」

 フィンは夜景を眺めながら言った。これなら遠くから望遠鏡か何かで覗いていない限りはまず見られることもないと悟ったのだろう。

 それからフィンはアウラを自分の方に引き寄せた。

「あ、痛!」

 途端にアウラは呻いた。昼間にエレバスに打たれた所に触れてくれたのだ。

「あ、ごめん」

「痛いじゃない!」

 アウラはちょっとむっとした。ところがそれを見てフィンはとぼけたことを言い出す。

「どうしたんだ? それ?」

 アウラは少し呆れた―――たった今していた最中にも同じような会話をした記憶があるのだが?

「どうしたって、さっき言ったじゃない! エレバスにやられたって!」

「え? あ! ああ、そうだったな……」

 フィンは思い出したようで慌ててうなずいた。

 一体どうしたというのだ?

 フィンは最近本当に変だ。

 今日はあの事件が終わってから初めてやっと二人でゆっくりできたというのに―――何故だがずっとこんな調子なのだ。本当ならもっと前にこうしたかったのに……

 あれからフィンはずっと会議に出ていて夜遅くまで帰ってこなかった。

《一体そんなに何を話すことあるのよ?》

 もちろんこういったことには色々難しい理由があるということは分かる―――だが一番の問題は、その理由を訊いても何だか曖昧な答えしか返ってこないことだった。

 フォレスにいた頃もこうやって忙しいことは多かったが、そんな場合でも訊けば可能な限り説明してくれた。

 だが今回はそのときとは異なり、何か意図的に曖昧にしているような気がする……

 アウラはフィンを見つめた。

 彼はぼうっとグリシーナの夜景を眺めている。

 彼女は軽く溜息をつくと、そのままの姿で部屋の長椅子に腰を下ろした。

「王女様のこと、びっくりしたわね」

「ああ。でも言われてみればそろそろだったよな」

 フィンは振り返らずに答える。

「ハルディーン王子様だって? フィンは王女様の方が良かったんだっけ?」

「ん? ああ……」

 エルミーラ王女出産なんて大ニュース中の大ニュースだというのに、相変わらずフィンは生返事だ。こんな場合、いつもならフィンの方からぺらぺらと何か話し出すものなのに……

 二人の間に再び沈黙が訪れた。

 何だかひどく間が悪い。

「そういえばハスミン達、結局来るの?」

「え? ああ、明後日くらいにはやってくるらしいよ」

「そうなんだ!」

 今回の件ではどうもフィンとアウラの役割は“ファルクスの内通”を暴いた立役者ということになるらしかった。城での騒ぎはファルクスが露見を恐れてフィン達を拉致しようとした際に、フィン達が脱出して逆襲したということになっていた。

 確かに実際起こったこともおおむねその通りだ。

 だがそうするとハスミンとバラノス氏も同じくらい重要な役割を担っていることになる。それに彼らは事件の詳細をかなり知っているので放置しておくわけにもいかなかった。

 そのため彼らもフィン達に協力した功績で、王から褒賞が与えられるということになったのだ。

 またその際に彼らには、フェデレ公が黒幕かもしれないという話をしていたのを訂正しておかなければならない。

「えーっと、ハスミン達にはフェデレ公はファルクスに騙されてたって言うのよね?」

「うん。そうだ。あとそれに王が関わってたとかは絶対言うなよ?」

「うん」

 アウラはうなずいたが―――何だかややこしいことこの上ない。

 彼女は人を騙したり隠し事をしたりするのが嫌だった。というより苦手だった。

 フィンと出会う前はこういった点では非常に単純だった。

 好きな物は好きだし、嫌いな物は嫌いと言えばよかった。

 ところが彼と出会ってガルサ・ブランカ城で暮らすようになると、それでは全然やっていけなかった。

 あのバルグールの事件のことを思い出すと今でも冷や汗が出る。

 あいつは間違いなく屑だったが―――それでも斬ってはいけない場合があるのだ。

 そんな判断というのは一体どうやってすればいいのだろう? 何度聞いてもよく分からない。

 だがそれでも今はもう昔に戻りたいと思うことはなかった。

 エルミーラ王女やお付きの侍女達、親衛隊の仲間、そしてフィンといった人々と離れて暮らす事なんてもはや考えられない。

「あ、それからレジェの墓、立て直してくれるそうだよ」

「え? 本当?」

「ああ。ある意味彼女が教えてくれたようなものだしな」

「やった!」

 アウラは長椅子から跳ね上がると、そのままくるっと一回転した。

 これは彼女が頼んでいたことなのだが、本当に王が聞いてくれるとは……

 ともかくこれで心残りはほとんどなくなった。アウラは長くつっかえていた胸のしこりが取れたような気がした。

 考えてみればヴィニエーラの思い出は、本当なら楽しいことばかりのはずだった。

 細かいことはさておき、たくさんの遊女達と友達になれて彼女は本当に幸せだった。

 だがそれをレジェの一件が全て台無しにしてくれていた。

 あんな事があったせいで、昔に関わるようなことは可能な限り避けてきたのだ。

 だがそれがこうして解決した今ならもう何も避ける必要はない。

 今まではレジェの事を訊かれるのが怖くて、他の遊女達を捜そうなどと思ったこともなかったのだが……

 ハビタルでパサデラに会ったときも、最初は彼女からレジェのことを訊かれたらどうしようかとそればかり考えていた。

 だが彼女はアウラと再会できたことに舞い上がってしまって、しかも彼女が感じられるようになったということを知った後は―――もうそれどころではなく大変なことになってしまって……

《そういえばみんな、あっちこっちの町にばらばらになってるんだっけ……》

 だとすればこれを機会に他の遊女達を尋ね回ってみてもいいのでは?

 アウラはブルガードから聞いたリストを持っていた。

 それを見るとこれから向かう予定のサルトスの都ガルデニアやセイルズの町には、ヴィニエーラから流れていった娘達がかなりいるらしい。

 実際のところ、今までのアウラにとってはこの旅行自体は結構どうでもよくて、フィンとずっと一緒にいられるということの方が重要だった。

 だがこれからは彼女にも旅をする立派な理由ができたのではないか?

 ―――そう思うとアウラは妙に嬉しくなった。

「ねえ、それで終わったら次はどこに行くの? 予定通りガルデニア?」

 ガルデニアにはタンディがいると聞いた。今では部屋持ちだという。これは見てみなければ……

《いったいどんな部屋なのかな?》

 お菓子の家みたいになっていると嬉しかったりするかも―――などと想像すればするほどわくわくしてくる。

 ところがその質問を聞いた途端に、フィンがぎくっと体をこわばらせた。

「ん?」

 何か変なことを言っただろうか? いや? どう考えても驚かせるような事は言っていないような気がするのだが……?

「どうかしたの?」

 それを聞いてフィンが振り返った。

 何だかひどく思い悩んでいるような素振りだ。

 それからフィンは大きく深呼吸をすると言った。

「いや、ガルデニアには行かない」

「え? じゃあどこに?」

 アウラの問いに、フィンは再びしばらく思い悩むように黙り込み、それから意を決するように顔を上げる。

「お前……レイモンが都攻めをしようとしてるって事、聞いたよな?」

「え? うん……」

 いきなり何だろう? 確か王を殺しに行った晩にそんなことを聞いた気がするが……

「それを阻止しなければならないんだ」

「うん?」

 一体彼は何を言っているんだ?

「そのため俺は、レイモンに行ってそこで都攻めを妨げるための工作してこようと思う」

「ええ?」

 突然の話にアウラは返す言葉がなかった。

「そのことをずっとアラン様と話し合ってたんだが、アラン様にも分かって頂けて、全面的に協力してもらえることになったんだ」

 アウラはフィンを見つめた。

 ガルデニアには行かないのか? 残念なんて話ではないが―――だがフィンがそうしなければならないのなら、そうすればいい。

 アウラは不承不承うなずいた。

「分かったわ。で、いつから行くの?」

「後始末が終わったらすぐ。一週間くらいだと思うけど」

「で、レイモンのどこに行くの?」

「それは秘密なんだ」

 アウラは一瞬ぽかんとした。

「ええ? 秘密って、どうせ一緒に行くんだし、教えてくれたっていいじゃない」

 だがフィンはゆっくりとかぶりを振った。

「いや、一緒には行けないんだ」

 ………………

 …………

 ……

 その言葉の意味がアウラの脳に染み渡るまで、少し時間を要した。

 いまフィンは何て言った?

 一緒に行けない⁇

「ええ? どうしてよ?」

 アウラはフィンに詰め寄る。

 だがフィンは彼女の肩に手をかけると、まっすぐ目をのぞき込んだ。

「このことはアイザック様から受けた命に反するから。だからそのことを説明した書状を持ってフォレスに戻って欲しいんだ。俺の代わりに」

「ええ?」

「それにちょっと今度のは、何て言うか、隠密行動なんで目立つとまずいし……」

 そう言ってフィンは目を落とす。

「………………」

 アウラはじっとフィンの顔を見つめた。

 部屋は窓から入り込む星明かりだけなのでその表情はよく見えない。

 だがアウラにはよく分かった―――フィンは真剣だ。

 口先で何か誤魔化そうとしている風ではない。

 ただその態度には少々引っかかる物があった。

 本当に必要な行動なら最初から話してくれても良かっただろうに―――何で今まで隠していたのだ? というか、今でも何か隠しているように見えるのだが? 何となくだが……

 しかし少なくとも悪意は感じられない。

 彼女を騙そうとかそんな様子ではない。

 真剣に頼んでいる―――そう見えるが……

「どうしても、なの?」

「ああ……」

 その言葉には苦渋の決断の色が感じられた。

 だとすれば……

 だとすれば……

 だとすれば……

「うん……分かったわ」

 アウラはうなずいた。

 これはフィンが決めたことなのだ。彼を信じるしかないではないか?

 そう答えた瞬間だ。

 フィンががばっとアウラを抱きしめた。

「え?」

 アウラは驚いて声を上げる。

 こんな風に荒々しく抱きしめられたことは、ほとんど初めてだ。

「あ! 痛い!」

 エレバスにやられた傷が痛む。だがフィンはそれを全く意に介さず、そのままアウラに情熱的なキスをする。

「ん……」

 アウラの腹に何かが当たった。

 見るとさっき終えたばかりなのに、フィンのそれがもう堅くそそり立っている。

「今夜は離さない!」

 フィンはアウラをそのままベッドに押し倒すと、いきなり荒々しく割って入ってきた。

「ああっ!」

 アウラは思わず呻いた。

 だがさっき一度やったばかりだ。まだ中は十分に濡れている。

 フィンの物はほとんど抵抗もなくアウラの中に入って来た。

 この体勢はどうしてもあの乱暴された日のことを思い出してしまうので、今までずっと避けてきた。それにこれだと彼女自身も動きづらいのでフィンに任せなければならなくなる。

 だがその場合、どうしても痒い所に手が届かないというか、リズムが今ひとつ合わないというか―――それよりも彼女が上になってフィンに合わせて動いてやった方が、互いにずっと満足いけるのだが……

 しかし一度その旨をフィンに言ってみたら、何故か彼は数日ほど落ち込んでしまったので、それ以来時々はこの体勢でもやってはいるのだが……

 だが、今日は何かが違っていた。

「アウラ、愛してる」

 フィンは耳元で何度もそう囁きながらアウラを貫く。

 それを感じる度にアウラの体の芯にぞくぞくっととろけるような感覚が湧き上がってくる。

「あ、あ……」

 喉から言葉にならない声が漏れ出す。もうどうなってもいい。

 今この瞬間こうしていられることが無上の幸せだった。



 それから約一ヶ月の後。

 アウラは自由都市グラテスの酒場ラファーダにいた。

 相変わらずこの酒場ではいかつい男達が酔っぱらって騒ぎ回っている。

 アウラの前にはバルコとデプレスがいる。

「……じゃあ、ボルトスのバックには、ファルクス様がついてたってことかい?」

 バルコは赤い顔で、アウラの横に座っているこれも大きな体をした中年の男に向かって言った。

「そうだと聞いた。私も行って聞いたときにはびっくりしたのだがな」

 答えた男はタンブルという兵士だ。

 彼はフォレスから王女出産の報せを持って来た使者で、アウラは彼と一緒にフォレスに戻る途中なのだ。

 だがタンブルは一応顔なじみではあったが、今までほとんど話をしたこともなかった。しかも年齢もかなり離れている。

 そんな彼との二人旅だ。向こうの方はアウラに気を遣っているし、こちらからもどう話しかけていいか分からないしで、旅の間互いにずっと他人行儀のままだった。

 これではほとんど一人旅と大差がない……

 というより、なまじ一人でいるよりも居心地が悪い。こんな場合、フィンがいてくれればすぐに馴染めただろうに……

 アウラはそれを思うとまた溜息をついた。

 なのでここに来れば少しは気が紛れるかと思ってやって来たのだが、ますます気分が落ち込んでしまっていた。

 前に来たときはすごく楽しかったのに―――雰囲気だけならそのときと似たような物なのに、フィン一人がいないだけでどうしてこんなに寂しいのだろうか?

「姐さん? 飲んでますか?」

 前に座ったデプレスがアウラに酒を勧める。

 彼はアジト突入の際に大怪我を負っていたはずだが、もうぴんぴんしている。

「うん。まあね」

「そうですかい」

 暗い顔でほとんど話もしないアウラを皆少々持て余し気味だった。

 こんなときでもフィンがいれば何も心配はいらなかったのに……

「にしても、ロゲロがそんな理由で殺されちまったってのは、ちっと可哀想だったか?」

 ボルトスは相変わらずタンブルと話し込んでいる。

「いや、レイモンと内通していたなど、露見したら即刻死刑になってもおかしくない所行だ。念を入れて口を封じようとする方が当然だな」

 タンブルは話し方からも分かるが、ひどくまじめな兵士一筋という男だ。

「ああ、まあ、そうだわな。で、何だって? ファルクス様は縛り首になったんだって?」

「ああ。見てきた。すごい野次馬だったな。警吏の親玉が縛り首だっていうんだから仕方がないとは思うがな」

「わはは。全くだぜ」

 そう言ってバルコは笑った。

 そのときアウラもそれにつられてちょっと笑ったので、デプレスがほっとした表情を見せた。

 だが彼女が笑ったのはちょっと意味が違っていた。

 彼女は縛り首にされた“ファルクス”が替え玉だったことを知っていたのだ。

 彼は一連の事件の黒幕として処刑されることになったが、その手腕そのものはアラン王も高く評価していた。国内での工作を彼が一手に握っていたと言ってもいい。そんな男を簡単に殺していいはずがない。

 アラン王はそういったことも想定して前々から替え玉を用意していたのだという。

 なので本物のファルクスは今、どこかの田舎でほとぼりが冷めるまで“静養中”なのだ。

 自分がそんなことを知っているほんの一握りの人の中に入っていると思うと―――妙に頬が緩んできてしまったのだ。

 もちろん約束だからそんなことは口が裂けても言えないが……

 そんな彼女を見てタンブルも少し驚いた。それに気づいてアウラはちょっとむっとした。

「何よ?」

「いえ、なんでもありません」

 タンブルは謝った。アウラはまた内心溜息をついた。

 アウラも彼を困らせたいと思ったわけではない。

 だがこんなとき、フィンだったら適当に軽口を叩いてくれるはずなのだ。そうなればそれをきっかけに何か言うことだってできるかもしれないのに……

 ―――などとさっきからずっと思うのはフィンのことばかりだ……

「それにしても姐さんがその秘密を暴いてきたなんて、さすがですよね」

 アウラの機嫌が良くなったと思ったのだろう。デプレスが言った。

「うん?」

 だがアウラはそう言っただけでじろっとデプレスを睨む。

 デプレスはまた慌てて手を振った

「あ? まだ怒ってます? 姫様とか言ったの」

「え? もういいわよ。放っといてよ」

「あ、すみません」

 場を和まそうという気持ちは分かる。分かるのだが―――ああ! いらいらする!

 これもそうだった。

 というのは最初アウラがタンブルを彼らに紹介したとき、タンブルはバルコ達が馴れ馴れしいのに勝手に腹を立てて、アウラがフェレントムの一族だということをばらしてしまったのだ。

 もちろん賞金稼ぎ達は仰天した。シルヴェストのスパイ騒動は既にここまで伝わってきていて、その噂にはアウラとかフィンの名前も含まれていた。

 その渦中にあった人物が戻ってきて目の前にいるというだけでも大変な話なのに、その彼らがフェレントムの姫とル・ウーダの一族だったというのだから―――彼らが驚くのも無理はない。

 それはアウラがタンブルに釘を刺しておかなかったせいでもあった。バルコ達にはそういった正体を伏せていたことをすっかり忘れていたのだ。

 彼女がこんな酒場に来たのは、単に昔馴染みと会って気晴らしをしたかっただけなのだが、タンブルは彼女の護衛も兼ねていたので当然一緒についてきた。

 彼がもう少し空気を読めれば状況を察してくれたかもしれない―――しかし運悪く彼は真面目一途なタイプだった。

 そんな彼からすればアウラは遙かに上の要人だった。義理とは言えエルミーラ王女の従姉妹にあたり、しかも王女に最も信頼されている側近の一人だ。

 その彼女に対してバルコ達は馴れ馴れしいどころではない口のきき方をするわけで……

 こんなときにもフィンさえいてくれればそんなトラブルには無縁だっただろうに。そんな根回しはいつでも彼がやってくれていたため、そもそもそんなことを考える必要さえなかった。

 だから単に今回もいつも通りにしていただけなのだが……

「ともかくそのことは黙っててよ」

「ああ。絶対口外しないって。信じてくれよ」

 デプレスはそう言って何度も誓った。

 だがバルコならともかくこっちはどう見ても口が軽そうなのだが……

 そのとき、はす向かいに座っていたバルコがアウラに言った。

「それにしても姐さん。やっぱフィンの旦那がいないと調子でないか?」

「え?」

 図星を指されてアウラはちょっと赤くなった。

 それを見てにやっと笑うとバルコはアウラの杯に酒を注いだ。

「ま、ほら、男にはいろいろあるじゃないか。これってアラン様直々の仕事なんだろ? 普通王様に見込まれるって、すげえことじゃないか? そんな大仕事を任されたってんだから、まあ誇りに思ってやらなきゃ」

「うん……」

 確かにそうだ。

 これはフォレスにとっても重要な任務なのだ。

 できれば連れて行って欲しかったとは思うが―――だがやはり隠密行動などというものが苦手なのは確かだ。王女探索の旅のときもナーザと一緒だったが、そのあたりは彼女に全て頼りっきりで―――そんなことではフィンに迷惑がかかるのも確かだろう。

 それに今までだって別々になったことは何度もある。

 彼女はエルミーラ王女の警護であちこち出て行かなければならなかったし、フィンはフィンでいろいろな会議で忙しくてすれ違っていたことだって多い。

《今度だってそういうことでしょ?》

 アウラは自分にそういい聞かせたのだが―――次の瞬間にはもう心が萎えていた。

 今までだって良くあったことのはずなのに、今回は何故こうなのだ?

 アウラがまた黙り込んでしまったので、デプレスが言った。

「そうなんですよねえ。フィンの旦那も。姐さんをどうして連れてかなかったんですかね。一人で盗賊団くらいぶっ潰せるお方なのに。危ないことになっても逆に安心だと思うんですがねえ」

 それを聞いてバルコも笑う。

「だな。でもまあ旦那にも色々事情があるんだろうよ」

 それを聞いたデプレスがにやっと笑うと言った。

「へえ。事情って、まさかあっちに女がいたりとか? へっへへへ。裏工作なんてのは実はまやかしだったりして……」

 ………………

 …………

 ……

《女⁈》

 それはこういった男達の間であればごくありきたりの煽りでしかなかった。

 だがその言葉はアウラの心にぐっさりと突き刺さった。

 途端に胸の古傷がずきっと痛む。

 次の瞬間バルコの肘打ちがデプレスの顔面にめり込んだ。デプレスはすごい勢いで吹っ飛ばされる。

「な、なにしやがんで?」

 鼻を押さえてデプレスが呻くが―――それに対してバルコが鬼のような形相で言った。

「バカか? なんつうデリカシーのない奴だよ? お前は?」

「え? あ?」

 その瞬間デプレスも気づいた。アウラが胸を押さえて蒼白な顔でうつむいているのを……

 バルコは慌ててアウラに言った。

「姐さん。バカの言うことなんか気にすんじゃないですよ?」

「え? うん……」

 だがアウラの頭の中は真っ白だ。

 あっちに女がいたりして?

 女がいたりして?

 女が……?

 フィンは嘘をついていたわけではなかった。

 だが―――何かを隠していたのも事実だ。

 それがそれだったとしたら?

《ファラ?》

 何故か急にその名前が思い出される。

 その瞬間またずきっと胸が痛む。

 考えてみれば―――フィンはアラン王に、レイモンが都に侵攻する予定と言われたときから変になってはいなかったか?


 その“ファラ”とは―――都にいるのではないのか?


 そう思った瞬間、アウラは居ても立ってもいられなくなった。

「あ? アウラ様? どちらに?」

 いきなり立ち上がったアウラに、タンブルが驚いて声をかける。

「帰る」

「あ、私も……」

 驚く賞金稼ぎ達を尻目にアウラは席を立って出て行ってしまった。

 タンブルはバルコ達にちょっと挨拶をすると、慌ててその後を追って行く。

 バルコとデプレスは呆然とその二人の後ろ姿を見送った。


 ―――その次の日の朝、宿屋にアウラの姿はなかった。