プロローグ 思いがけない午後
真っ暗な森の中をひたすら走り続けている。
《ああ……そうだったわ……》
メルファラは一人納得した。
背後にたくさんの松明のきらめきが見える―――そう。あれに追われているのだった。あれに追いつかれるわけにはいかないのだった。
『ファラ! がんばるんだ』
懐かしい声がする。
声の主は彼女の手を握りしめたまま早足でずんずん進んでいく。
それはひょろっとしたやせ気味の男だったが、彼女の手を握りしめる力は思いのほか強い。
《ええ……》
息が上がってしまって声が出ない。彼女はただ黙ってうなずく。
返事がないのを気遣ってか、男が止まって振り向いた。暗くて顔はよく見えない。
『ティアが戻ってくる! それまでがんばれ』
メルファラは再び黙ってうなずいた。
だが心の中は不安で一杯だ。
本当に彼女は戻って来られるのだろうか? まるで確信が持てないのだが……
とりあえず最初の囲みは破って行ったとはいえ、果たしてあの追っ手から逃げ切れたのだろうか?
もし彼女が捕まってしまったら―――だがそう考えながらも不思議なことに、全てがまるで他人事のように思えた。
こんな状況なのにどうしてこんなに平静でいられるのだろう?
『行くよ』
男がまた進み出す。彼女は慌ててその後を追いかける。
それからどれくらい走り続けたのだろうか。
気づけば二人は暗い森を抜け出して高い崖の下にたたずんでいた。
岩壁のごつごつしたシルエットが月明かりに浮かび上がっている。
『行き止まり?』
再び背筋がぞくっとする。
これで終わりなのか?―――いや、まだ終わるはずがない。
そのとき男が彼女の正面に立った。
『大丈夫だ』
男は彼女の両手を握る。
『でもどうやって?』
男はそれには答えず、やおらに彼女を抱きかかえる。
『ごめん!』
『え?』
胸の奥がずきんとする。
驚いて見つめると、男のシルエットが断崖の上を示す。
『上に岩棚がある。そこに飛び乗るんだ』
『え? どうやって……』
だが何故だか彼女は理解できた。その男がこれから何をしようとしているかを―――途端にふわっとした感触と共に体が宙に浮いた。
《あ!》
飛んでいるのか? 落ちているのか?
真っ暗な空間の中を無限に浮遊しているような気がする……
だが―――どれほど時間が経ったのだ?
どうしてどこにも行き着かないのだ?
岩棚はどこにある?
先は暗くて見えない。
振り返れば遠くに松明の明かりが幾つも見えるだけだ。
それ以外は真っ暗闇で……
メルファラは手をばたつかせたが―――触れられる物は何もない。
《え? まさか⁈》
―――その瞬間、肘ががくっと長いすの手すりから滑り落ちて目が覚めた。
………………
…………
メルファラは周囲を見回した。
絢爛たる部屋の中だ。
床には毛足の長い豪華な絨毯が敷き詰められ、壁には金糸を織り込んだこれまた華麗なタペストリが何枚も掛かっている。
その間に幾つもの立派な鹿の角が飾られているが、それはみんな彼女が狩りで仕留めたものだった。
振り返ればシルクのレースのカーテンを通して、柔らかな光が差し込んできている。
見慣れた―――というよりは見飽きた部屋だ。
そんな部屋の窓際に置かれた長椅子の上で彼女はまどろんでいたのだった。
《どうして……いつもここで醒めてしまうのでしょう……》
夢というのは何故こうなのだろう?
どうして見たい物をもう少し見せてくれないのだろうか? どうせ夢なのだから……
彼女は溜息をついた。
それから彼女はつっと立ち上がると窓外を眺めた。
庭の木々は紅葉を始めている。
だが空はどんより曇っていた。この季節は天気の移り変わりが激しい。空気もひんやりとしてきている。この調子だとまた雨が降り出すのだろうか?
彼女はしばらくそうして景色を眺めていたが、ふっと振り返ると部屋の反対側に向かい、壁に掛かっていた弓を手に取った。
彼女はしばらくそれを見つめていたが、おもむろに弓を立てると弦を張る。
そうすることで弓は再び美しい半月形を取り戻す。
彼女はこの形が好きだった。
メルファラはそれを手にして様々な角度から眺めると、ふっと弦を弾いた。
びぃぃぃんと低い聞き慣れた音がする。
それを聞くと少しだけ心が躍った。
《今年はもう狩りは無理でしょうか?》
別にそんなことはない。ここが雪に閉ざされるまでにはもう少し時間がある。デュールに頼めばすぐに計画してくれるだろう。
だが今年は随分無理を言ってしまったように思う。彼だって忙しいのだ。白銀の都の大皇というのは想像以上に多忙だ。
そして大皇后というのも、その横に座していればいいだけの存在ではない。
「パミーナ」
その声を聞いて、部屋の端にまるで背景に溶け込んだかのように控えていた侍女が立ち上がった。
「はい。奥方様」
「今日は? お客様は?」
「いえ、今日はいらっしゃいません。ゼグーロ様とは明日の昼にご会食の予定でございます」
メルファラは浅くうなずいたが、その名前には記憶がなかった。
大切な客なのだろうか? だとすればどういった準備をしておかなければならないのだろうか?
「それはどちらの方でしたか?」
「メリスの評議員をなされているお方でございます」
「ああ、そうでしたわね」
メルファラは思い出して少しほっとした。彼らならそうは気を遣わなくとも良い。
来賓をもてなすのは大皇后の役割だ。
しかしいつまでたっても慣れない仕事だった。
もちろん細かい段取りは侍従達が整えてくれるが、その中心でじっと座って微笑みを絶やさぬようにしておくのは、ひどく忍耐が要った。
だがそれでも外の商売人達の相手をしている方がまだましだった。都の貴族連中を相手にするときときたら―――それはともかく、少なくとも今日はゆっくりできそうだ。
それから彼女は弓を手にしたまま、先ほどまでうたた寝していた長椅子に再び腰を下ろす。
また長い冬が来ると思うと憂鬱だった。
ティアがいてくれた頃は良かった。
彼女と一緒にいられればどんなに長い夜でも全然退屈ではなかったのに……
「ティア……」
彼女が失踪してからもう三年にもなる。
都を挙げて探させたというのに、手がかりさえ見つからなかった。
一体彼女はどこに行ってしまったのだろう? それとも……
メルファラは首を振った。
まさか。そんなことがあるはずない。彼女のことだからどうせそのうちひょっこりとどこかから現れるに違いない。あのときのように……
だがそれまでは彼女は一人なのだ。
都にはもう彼女のように心を割って話せる友人はいなかった。
メルファラは溜息をついた。そんなことはなるべく考えないようにしていたのに……
だがこんな陰鬱な日にはどうしてもそんな思いが心の中で頭をもたげてくるのだ。
《やはりもう一度だけ……》
狩りに行けばそんな気持ちも晴れるだろう―――と、そのときだった。
??
階下の方から何か騒がしい物音が聞こえてきたのだ。誰かが大声で叫んでいる。
メルファラは侍女のパミーナと顔を見合わせた。
「見て参ります」
パミーナは部屋を出て行った。
物音はまだ聞こえ続けている。この音は? 誰かが戦いでもしているのか?
途端に背筋がぞくりとした。
彼女は居ても立ってもいられなくなって、弓を手に立ち上がると矢筒を肩に掛け、部屋から外に出た。
吹き抜けになっているホールの二階の通廊までやってくると、パミーナが慌てて戻ってくる。
「あ、奥方様!」
「どうしたのです?」
彼女は顔面蒼白だ。
「危険です! お下がり下さい」
「一体どうしたというのです?」
そう言いながら通廊の手すりから下を覗くと―――警備兵が一人剣を抜いて何か叫んでいるのが見えた。
《あれは……ヴィーロですか?》
どうやら何者かと戦っている様子なのだが―――相手の姿は壁の陰に隠れて見えない。
「貴様! 何者だ!」
警備兵の問いに答えたのは、若い女の声だった。
「ファラってどこ?」
メルファラの目が見開かれた。
《私を?》
一体どういうことだ?
それよりも何よりも―――なぜ女が?
どうしてヴィーロは女相手に剣を向けたりしているのだ? 少し大げさすぎないか?
「ふざけるな!」
だがヴィーロはそう叫んで見えない相手に斬りかかっていった。
《ちょっと……》
そう思った瞬間だ。何かがきらっときらめいたかと思うとヴィーロはは剣を取り落とし、続いてごつっと鈍い音がすると―――彼はそのまま床に突っ伏した。
《!!》
何が起こったのだ?
彼がやられたというのか?
それもたった一瞬で⁈―――確か彼は警備兵の中でも最も手練れの一人ではなかったか?
それから人影がホールに現れた。
確かにそれは、若い女だった。
こんな場所にはあまり似つかわしくない灰色のポンチョを身に纏い、手には長い―――このあたりではあまり見ないが、あれは薙刀という武器か? 東方で使われるという……
メルファラは呆然とした。
一体何なのだ? これは?
状況が皆目分からない。
ただ一つ言えることは―――彼女はこの屋敷の警備兵をことごとく倒してここまでやって来たに違いないということだった。
そう思ったときにはメルファラは矢筒から矢を取りだしていた。
「奥方様!」
真っ青な顔でパミーナが彼女を引き戻そうとする。
だがメルファラはパミーナに言った。
「下がってなさい」
「………………」
恐怖と義務感との葛藤でパミーナはしばらくその場に立ちつくしていたが、それから慌てて下がって壁の影に隠れる。
その会話を下の女が聞きつけたらしく、女はきっとメルファラを見据える。
メルファラも黙ってその女性を見返した。
それはどう見ても自分と同じくらいの年齢の若い女性だった。
心の中に疑問の渦がわき起こる。
そんな彼女が並み居る警備兵や魔導師達を倒してここまで侵入してきたというのか? 一人で? 一体そんなことが可能なのか? 大体何が目的なのだ? 彼女は自分を捜しているようだが……
不思議なことは山ほどあったが、今はそんなことを考察している時ではない。
「貴方は何者です?」
メルファラはその女に尋ねた。
だが彼女は答えず問い返してきた。
「ファラってあんた?」
どこの田舎者だ? 無礼な女だ―――そう思うと怒りがこみ上げてくる。
メルファラは女を睨み付けると答える。
「ならばどうします?」
女はそれを無視するかのようにずんずんと進んでくる。
メルファラは手にしていた矢を弓につがえて引き起こすと、女にぴたりと狙いを定めた。
女は少し驚いた表情を見せて動きを止めた。
そのまま女はじっとメルファラを睨み返す。その表情は―――純粋に怒っているようにも見える。
彼女は何者なのだ? 暗殺者なのか?―――ならば迷いは無用だ。
問題は一矢で彼女を仕留められるかだが―――でももし相打ち覚悟で来られたら?
だが女の次の言葉は全くの予想外だった。
「フィンはどこ?」
「はい?」
フィンって? フィン? 何のことだ?―――いや、まさかあの“フィン”のことか? その名前をどうして彼女が? それに何? “どこ”だって?
メルファラが答えないので女が再び尋ねる。
「フィンよ! ル・ウーダ・フィナルフィン!」
間違いない!―――それを悟った瞬間、メルファラの手は震えた。
その刹那だった。
驚いたことにその僅かな隙を捉えて女は一気に間合いを詰めてきたのだ。
気づいたときには彼女の弓はその女の薙刀で抑え込まれていた。
《!!》
罠だったのか?
背筋に冷たい物が走る。
だがその女はそれ以上は彼女に手を出そうとはせず、じっとメルファラの目を見て尋ねただけだ。
「ここにいるんでしょ? 出してよ!」
間近にその女の顔がある。なかなか美しい―――だが今、その顔は怒りと、そして悲しみで歪んでいた。
メルファラは女の言葉にただ驚いていた。
彼女は思わず尋ねた。
「ル・ウーダ殿がお戻りになられたのですか?」
女は相変わらず怒ったように答える。
「そうなんでしょ? だから来たの!」
「どちらに?」
「だからここに!」
「え?」
彼女にはその女が言っている意味がよく分からなかった。
同様にその女の方も戸惑っているようだ。
それから何となく理由が分かってきた。
メルファラは弓を下ろして、番えていた矢を矢筒に戻すと言った。
「少なくともこの屋敷にはル・ウーダ殿はいらっしゃいませんが?」
その言葉を聞いた女の目が丸くなる。
「え? 嘘!」
「嘘ではございません」
女は口ごもった。
それから何か言おうとしたが―――メルファラの表情を見て、彼女が真実を答えていることを悟ったのだろう。怒りの表情が消えて顔が赤くなる。
メルファラはさらに尋ねた。
「ヤーマンの屋敷にはいらっしゃったのですか?」
「え?」
女はぽかんとしている。
「ヤーマンの屋敷です。ル・ウーダ殿のお屋敷ですが?」
「それ、どこですか?」
………………
…………
今度ぽかんとしたのはメルファラの方だ。
何なんだろう? これは……
そのとき下の方でがやがやと誰かがやってくる気配がした。警備兵達のようだ。
女を見ると先ほどの剣幕は消え果てて、今は何だかおろおろしている。
その横顔を見ると何だか可愛い。
そこでメルファラは尋ねた。
「貴方はどうしてル・ウーダ殿をお探しなのです?」
女は驚いたように振り返って答えた。
「あの……いなくなったから……こっちかと思って……」
「失礼ですがル・ウーダ殿とはどのようなご関係でしょうか?」
「え? あの……婚約してて……」
メルファラは唖然とした。
《婚約⁈》
まさか―――聞き間違えではないのか? そこでメルファラは再度尋ね返したのだが……
「婚約していると……おっしゃいましたか?」
「うん」
女はあっさりとうなずいた。
メルファラは大きくため息をついた―――全くあの男ときたら!
と、そのときだ。
「奥方! ご無事ですか」
警備兵が下から二人に呼びかけたのだ。
それを聞いてメルファラは現在の状況を思い出した。
このままこの女を彼らに引き渡すことはできる―――だが彼女はこの女性にひどく興味を引かれていた。
そこで彼女は警備兵を冷たい目で見下ろしながら答えた。
「見れば分かりませんか?」
その口調に警備兵はしどろもどろになる。
「あ、はい。で、そのしかし……」
メルファラはまだ彼女が抜き身の薙刀を持って側にいることに気が付いた。これでは警備兵が慌てるのも無理はない。そこで彼女は小声で女に言った。
「それ、しまって頂けますか?」
「え? あ、うん」
女は慌てて薙刀を鞘に収める。
それを見てメルファラは警備兵達に言った。
「彼女が“本物”でしたら今頃私の命はありませんよ? この屋敷の警備はいつからこのような様になってしまったのでしょうか?」
警備兵達は真っ青になった。
「しかし、あの……」
「いいからお下がりなさい。この不始末の処分は後で致します」
警備兵達は返す言葉もなく黙って礼をすると下がっていった。
それを見守った後、メルファラは壁の影から様子を窺っていた侍女に声をかける。
「パミーナ」
パミーナがそっと顔を出す。
「は、はい……」
「このお方のお世話をして差し上げなさい。遠くからいらっしゃったようですし」
「え?」
驚いてパミーナはメルファラと女の顔を見る。
「早く!」
「は、はい……」
促されてパミーナが恐る恐る進み出ると、女は手にした薙刀を彼女に差し出しながら言った。
「ごめんね。怖かった?」
「あ、はい……」
パミーナが何故か赤くなる。
それから彼女はこくっと礼をして女を奥に導こうとした。
「それではこちらにおいで下さい。えっと……」
そのときまだ彼女の名前を訊いていなかったことに気が付いた。
「そういえばまだお名前を教えて頂いておりませんでしたね」
女は慌てて答える。
「え、あ、アウラです。アウラといいます」
「アウラ? いい名前ですわね。古い言葉で、確かそよ風という意味でしたか?」
女はなぜか頬を赤らめる。
その表情だけを見れば彼女は確かにその名に恥じぬ女性だった―――先ほどまでの大嵐を見ていなければの話だが。
思いがけない午後になった。
あれから邸内は大混乱だ。
メルファラは自室に戻って新しい部屋着に着替えると大きく息をついた。
それと同時に何故か笑いがこみ上げてくる。
一体何が可笑しいのか自分でもよく分からないのだが―――抑えようと思っても抑えられない。
メルファラは誰もいない部屋で一人笑った。
こんな気分になったのは久しぶりだ。
近頃は代わり映えのしない日ばかりで心底飽き飽きしていた。
本当に最後はいつだったのだろうか? こんなに心の底から楽しいと思ったことは……
《え?》
楽しかった?
メルファラはそんな風に思っている自分に気付いて少し愕然とした。
確かに今感じているこの高揚感は、多分あの大鹿を仕留めたときなどに感じた気分に近いものだ。
だが冷静に考えてみたらこれはかなり危うい話ではなかったか?
あの女はこの大皇后の屋敷に抜き身の刃を持って押し入ってきたのだし、あの瞬間彼女が本気だったら間違いなく自分の命はなかった―――いや、本当にそうだったか?
《彼女があんなことを言うから……》
あんな不意を突かれることがなければ、狙いを逸らすこともなかったのに―――そうすれば彼女にあんなに肉薄されることもなかっただろうし……
そう考えてまた彼女はくすりと笑った。
一体全体自分は何を考えているのだ?
彼女と本気でやり合ってみたかったと、そう考えているのか?
メルファラはまたひとしきり笑った。
それから少しまじめな顔に戻ると考えた。ともかくこれからのことだが……
細かい話はまだ聞いていないが、どうやら彼女はあのル・ウーダ・フィナルフィンと一緒にいたらしい。
そして何らかの理由で離ればなれになってしまって、ここまで彼を探しに来たらしい。どうしてここにいると思ったのかはよく分からないが……
見たところ彼女は彼が姿を消したことをかなり怒っているようだった―――ということは、彼女の前からも唐突に姿を消してしまったのだろうか? あの男は……
《まったく……》
そのとき物音がしたので振り返るとパミーナが戻ってきた所だった。
「あの方は?」
「はい。ただいま湯浴みを終えましてお召し替えされておられます」
答えるパミーナの顔が少し興奮しているように見える。
「何か変わったことでも?」
「え? と言いますか、その……」
パミーナがまた少し上気する。
「どうしたの?」
「それが……あの方、何だかすごく堂々としていらして……まるでどちらかの姫君のようなご振る舞いなのですが……」
「ええ?」
メルファラは驚いた。
先ほどは単なる無礼な田舎者としか思えなかったのだが―――しかしパミーナの印象を疑う理由もない。
「それと……」
「それと?」
「その、胸にすごく大きな刀傷がございまして……」
「刀傷?」
「はい。そうおっしゃられてました……」
胸に大きな刀傷のある姫?
暗殺されかかって奇跡的に一命を取り留めたとかそういうことなのだろうか?
いや、でも彼女はここの警備兵達を軽々といなして自分の元にやって来た。彼らは都でも選りすぐりの者達ばかりのはずなのだが?
メルファラは少し混乱してきた。
そのとき慌てた様子で部屋に入ってきた者達がいた。
来たのは二人だ。
一人はがっちりとした体格の中年の男で、軽鎧をまとい腰には大きな剣をぶら下げている。
もう一人は薄紫のローブを身にまとった、男と同じくらいの年齢の女性だ。
よほど慌てていたと見えて二人とも息を荒げている。
メルファラは軽く会釈をすると二人に声をかけた。
「まあハルムート、それにニフレディル様も、お二人ともお早いお着きで」
二人はメルファラの姿を認めるとほっと安堵の表情になる。
次いでハルムートと呼ばれた男がにじり寄ってくると言った。
「ファラ様! 襲われたと聞きましたが、ご無事ですか?」
メルファラはにこっと微笑む。
「無事ですとも。このとおりですわ」
ハルムートは大きく息をつくと、メルファラをじろっと睨んだ。
「この目で確かめるまでは気が気ではございませんでしたぞ! 本当に良かった……それはそうと、使いの者がファラ様自ら対決なさったとか申しておりましたが、何かの間違いでしょうな?」
「いいえ。その者は嘘などついてはおりませんわ。そのときたまたま弓を手入れしておりましたので……」
しれっと答えるメルファラにハルムートの顔が赤くなる。
「何でそんなに危険なことをなさったのです!」
「でも気づいたときにはもうそこまで来ておりましたし」
「そういう場合はお逃げ下さい!」
「でも……彼女は私に用があったようですし、こちらから出向いた方が話が早いのではありませんか?」
ハルムートは今にも湯気を噴き出しそうだ。
「冗談じゃありません! ともかく……」
「それにあの様子では警備兵は役にたちそうもありませんでしたし」
ハルムートは絶句した。
それを見て今まで黙って聞いていたニフレディルが口を挟んだ。
「メルファラ様。あまりお戯れはおよしになって下さいな。貴方に何かあったら屋敷の者全員どうなるかはあなたもご存じだと思いますが?」
都の魔導師の中でもトップクラスの実力を持つ彼女はこの中で最年長だったが、その姿はまだ若い娘のようにも見えた。
本人は気合いだと言うが、皆は絶対そういう魔法があるのだと噂している。
だがその瞳には姿に似合わぬ老練さがにじみ出ていた。
「そんなことは……まあ、そうですわね」
大皇后が傷つけられたとあれば、それを防げなかった者の責任が問われるのは間違いない。
関係者全員縛り首にされかねないし、このハルムートなど真っ先に自刃してしまうだろう。
目の前のこの男は長年彼女に付き従ってきた最も信頼できる従者だった。
常日頃鍛錬を欠かさないせいで体つきは若々しいが、それでも最近は髪に白い物が増えてきている。
彼は彼女が物心付いた頃から側にいていつも守ってきてくれた、本当の父親よりも父親のような存在だ―――それだけについつい困らせたくなってしまう。
「ムート。ごめんなさい。別にからかうつもりはなかったのですよ?」
ハルムートは黙って首を振ると溜息をついた。
そこでニフレディルが再び尋ねた。
「それでは詳しいことをお話し頂けませんか? それにどうしてこんな大事を内密にせよとおっしゃられたのです?」
メルファラは彼らに使者を送る際に、事を荒立てないようにと伝えさせていた。
彼女は涼しい顔で答えた。
「それはとりたてて騒ぎ立てるほどのことではないからですわ」
それを聞いてまたハルムートが聞き捨てならないといった顔で言う。
「お待ち下さい! とりたてて騒ぎ立てるほどでないですと? 警備兵や魔導師が軒並み倒されているのですぞ?」
その剣幕に少し気圧されつつメルファラは答える。
「まあ、確かにそれは少々問題だとは思いますが……」
それと共にまた笑いがこみ上げてきた。
「ファラ様! 笑い事ではございませんぞ!」
ハルムートが顔を真っ赤にして怒っている。その理由もよく分かるが―――それでも彼女はわき起こる笑みを抑えきれなかった。
しかし本当は笑い事のはずがなかった。
大皇后の屋敷に賊が侵入して、しかも大皇后その人に肉薄したというのだから―――だが本来ならば途轍もなく深刻な事態のはずなのに、何故か彼女は可笑しくて仕方がなかった。
「ファラ様!」
相変わらずくすくす笑い続けるメルファラを見て、再びハルムートがたしなめる。
「まあ、ごめんなさい……でもあの顔を思い出すと……」
誤解に気づいたときのアウラの表情は何度思い出しても可笑しくなる。
だがハルムートには彼女のそんな内心が分かるはずもなく、ただ黙って首を振る。
その様子を見かねてニフレディルが口を挟んだ。
「ではそういったどうでも良いことのために私まで呼びだされたわけでしょうか?」
メルファラは少し慌てた。
「いえ、そういうわけではありませんわ。ただ一応彼女が嘘を言っていないか確かめておいた方がいいと思いましたので。念のためですわ」
ニフレディルはじっとメルファラの目を見つめた。
それだけで心を読まれたりはしないと分かっていても、やはり居心地が悪い。
彼女しばらくそうしてメルファラを見つめてから尋ねた。
「それではメルファラ様がそうおっしゃる訳をお知らせ下さいませんか? 私にはハルムート殿のおっしゃることの方が当然のように思えますが?」
仕方がない。そろそろ真面目に話をしなければならないだろう。
そこでメルファラは答えた。
「彼女は別に危害を加えるために来たのではないのです」
それを聞いてハルムートが言った。
「お待ち下さい! それではあの惨状は?」
下ではアウラに伸された兵達が何人も手当を受けていた。
「確かに彼女に何人も倒されてはいますが、誰も大した怪我はしていなかったのでしょう?」
だがハルムートは首を振った。
「だから問題なのです! 普通あんな風に押し入れば乱戦になるものです。それで怪我人が出ないはずがありません。なのにそれがいないとすれば、屋敷内に手引きをした者がいるかもしれないじゃないですか?」
メルファラは少し息を呑んだ。そんな風に考えたことはなかったが……
「でも手引きされて入ってきたなら戦いにはならなかったのでは? それともみんな彼女と戦っていたふりをしていたと?」
メルファラの反問にハルムートは少し口をつぐんだが、やはり首を振って答える。
「そうでもなければ信じられません! 女がたった一人であれだけの警備兵を倒したなどと!」
それは確かにそうかもしれない―――だが彼女は実際に見たのだ。
「でも私はヴィーロが倒されるところにいたのですよ。彼の腕はあなたもご存じでしょう? それに彼の忠義も」
ハルムートはまた絶句した。
ヴィーロは彼の腹心の部下で彼が最も信頼していた男だった。
「しかし……」
「私の言うことが信じられませんか?」
「そういうわけではありませんが、しかし……」
ハルムートが黙り込んでしまったのでニフレディルが言った。
「まあ、そのことは追々分かることですわ。それはそうと、大皇后様はその女性が危害を加えるために来たのではないとおっしゃられましたが、それではその女性は一体何をしに来たとおっしゃるのですか?」
「それをこれからお話ししようと思っておりました……」
そのときだ。扉のあたりで控えていたパミーナが言った。
「奥方様。アウラ様がいらっしゃいましたがいかが致しますか?」
メルファラが二人の顔をちらっと見ると、ハルムートもニフレディルも軽くうなずいた。
そこでメルファラは答えた。
「入って頂いて」
「かしこまりました」
それと共にパミーナが部屋の扉を大きく開く。
三人はそこからどのような者が入ってくるのか見定めようと目をやったのだが―――そこに現れた姿を見て彼らは唖然とした。
「え?」
メルファラまでもが思わず小さな声をあげた。
先だってパミーナも言っていたが―――どこの貴婦人が入ってきたのだ? いや、顔を見れば先ほどの女性であることは明白だが……
アウラは入り口で三人に軽く会釈をする。
三人が慌ててそれに応えると、彼女は流れるような足取りで彼らに歩み寄り、すっと腰をかがめると優雅に一礼した。
その振る舞いには一点の非の打ち所もない。
ハルムートとニフレディルは驚きのあまり声が出せないようだ。
メルファラにとってもまさに意外だった。こういう待遇をしたのは半分悪戯心だったのだが―――これではどちらがからかわれているか分からない。
三人が何も言わないのでアウラが困ったようにメルファラを見つめた。
それに気づいてニフレディルが尋ねた。
「あら、ごめんなさい。あんまり綺麗なものだからびっくりしちゃって。あなたが……アウラさん? そのお作法はどちらで? 東方風ですわね?」
アウラが少し慌てたように答える。
「あ、えっと、フォレスです」
その今度はとても高貴とは言えない話し方を聞いて、ニフレディルも少し混乱したようだった。
彼女はちらっとメルファラの顔を見るが、そうされたところで彼女にだって分からない。
そこでメルファラは言った。
「アウラさん。まだ詳しいことをお訊きしておりませんでしたが、よろしいでしょうか?」
「あ、はい」
アウラはうなずいた。
だが当然残りの二人が気になるようだ。メルファラは二人を彼女に紹介した。
「こちらは当邸の警備隊長のハルムートです」
ハルムートが黙って礼をし、アウラもうなずき返す。
「そしてこちらは宮廷魔導師のニフレディル様です」
「初めまして」
「あ、こちらこそ」
相変わらずその平民のような口ぶりと優雅な素振りが今ひとつマッチしていない。
だがそれよりも宮廷魔導師と聞いても全く臆さぬ彼女にメルファラは感嘆した。普通ならばその名を聞いただけで縮み上がってしまうものなのに……
それは他の二人も同様のようで彼女を驚きの目で見つめている。
そこでニフレディルが彼女に尋ねた。
「それであなたはどういったご出自で?」
そう問われてアウラは慌てて答えた。
「あ、すみません。えっと、あたし、ベラ、フェレントムの一族、ガルブレスの養い子、アウラと申します……」
それは全く想像もつかなかった答えだった。
「ベラ?」
「フェレントム?」
「ガルブレス?」
三人がいきなり口々に叫びながらにじり寄って来たので、アウラは慌てて飛び下がる。
それからしばらく驚いたような顔で三人を見つめていたが、やがてあっと納得したようで慌ててフォローする。
「あ、でもフェレントムといっても、養女なんです。血はつながってなくて」
そういう問題ではないと思うが?―――要するにこういうことなのか? ベラ王族の姫が白銀の都の大皇后の命を狙ってやって来たと、そういう話なのか?
知っての通り都とベラは何世紀にも渡って反目し合ってきた、不倶戴天の敵と言って良い。
そんな両国ではあるが、実は長い歴史の間で互いに相手に直接仕掛けたことはなかった。
そんなことをしたら全面戦争になってしまい、世界は滅茶苦茶になってしまう。だから戦うときは必ず代理戦争の形を取ってきたのだ。
そう考えればこれがどれほどの事態か分かるだろう。
ただでさえレイモンの台頭で話がややこしくなっている所だ。ベラは世界を三つどもえの戦乱に落とし込みたいのだろうか?
そこまで考えてメルファラは笑い出した。
《そんなことがあるわけないですよね?》
いきなり笑い出したメルファラを残りの二人が不思議そうに見つめる。
これはさっさと彼女の話を聞いた方がよさそうだ。
「ともかくこの方の話をお聞きしましょう。でないと大変な考え違いをしてしまいそうですから」
「しかしこれというのは……」
ニフレディルが何か言いたげだったが、メルファラはそれを遮って言った。
「ともかくお座り下さいな。皆さんも」
ニフレディルとハルムートは不承不承それに従った。
四人がソファに腰を下ろすとメルファラがアウラに尋ねた。
「でどこからお聞きましょうか? やはりどうやって彼と出会ったかとか、そのあたりから?」
アウラはうなずいた。
「あ……はい。その、最初はトレンテの村だったんですが……そのとき、その、ちょっとトラブルになっちゃって逃げてたんです。そしたら川があって……雨で増水してて、底がよく見えなかったんです……ちょっと慌ててたんでまっすぐ行ったらいいかなって思ったんですが……そうしたら川底に大穴があって馬がコケちゃって……」
ハルムートとニフレディルはそれをぽかんと聞いていたが、ついにハルムートが口を挟む。
「ちょっと、これは何の話です?」
するとメルファラが悪戯っぽく笑いながら答える。
「もちろん彼女がどうしてここに押し入ってきたのかをお尋ねしているのですが?」
当然ながら彼は混乱した。
「今の話がですか?」
「そうですわ。だって彼女はル・ウーダ殿の婚約者でいらっしゃいますし、まずどうやって彼とお知り合いになったかというところからお訊きした方が良いかと思いまして」
それを聞いたハルムートはしばらく口がきけなかった。
「ル・ウーダ殿というのは……まさかあのフィナルフィン殿でしょうか?」
「はい」
メルファラは微笑みながらうなずいた。
ハルムートがぶるぶると震えながら言う。
「な、何でそれを先に言われないのですか!」
「だって貴方が私に喋る間をくれなかったじゃありませんか?」
ハルムートは真っ赤になって絶句する。
そんな彼の顔を楽しそうに眺めながら、メルファラは続けた。
「彼女が言うにはル・ウーダ殿とはぐれてしまって、こちらにいるんじゃないかと訪ねて来られたそうなのです。そこでちょっとした行き違いがあったご様子で」
「行き違いですと? あれが?」
そこでアウラがぺこっと頭を下げて謝った。
「あの、すみません。ちょっとカッとしちゃって……」
ハルムートはまた絶句した。ちょっとカッとしたとかいうレベルじゃないだろ? と、内心思っているのは間違いない。
そのとき今度はニフレディルがアウラに尋ねた。
「先ほどガルブレスという名をおっしゃいましたか?」
アウラがぱっと顔を上げる。
「父を、知ってるんですか?」
「はい。都にもそのご高名は伝わっておりますわ。貴方はそのガルブレス殿のご息女なのですか?」
アウラは首を振る。
「いえ、養女なんです。でも育ててもらって、剣も教わりました」
ニフレディルは納得したようにうなずいて、それから尋ねる。
「それではこの館の警備兵達はいかがでしたか?」
「え? 強かったと思いますが? たくさん来られたらだめだったと思うけど。でもあんな風にばらばらに来るから、一人ずつやってけば良かったし……それに魔法使いの人も二階にいれば良かったのに。あんな風に立ってたからすぐ間合いが詰められたし……」
ニフレディルがちらりとハルムートの方を見ると、彼は目を丸くしてそれを聞いていた。
そんな二人にメルファラが言う。
「まあムート。屋敷の警備について後で彼女に助言を頂いた方がよろしくなくて?」
ハルムートがぎろっとメルファラを睨んだ。さすがにそろそろ本気で怒っているようだ。
それを悟ってかニフレディルが口を挟んだ。
「ともかくアウラさん。お話の続きをを聞かせて下さいな」
「え? はい……」
そして一同はアウラの長い長い話を聞き始めた。
―――それはメルファラにとっては“途方もない”という形容がぴったりだった。
トレンテの村から始まって、グラテス、フォレス、ベラ……。
その話にはメルファラが地図上でしか知らない地名が山ほど登場した。
間違いなくアウラは世界の東半分をほぼ踏破しているのだ―――それに対して自分はこの都から足を踏み出したことさえない……
それに何だ? 最近ベラの方で戦乱があったと聞いたが―――ただの内輪もめと思って気にも留めていなかったのだが、実はそんな大事になっていたのか?
そしてその中核に彼女とあのフィナルフィンがいたのだと?
話を聞きながらメルファラは言いようのない渇望感を感じていた。
どうしてなのだろう?
彼女は大皇后―――望んで手に入れられない物などない存在のはずなのに……
その翌日の朝。
よく晴れて穏やかな秋の陽の下、都から郊外に向けて馬を歩ませる一行があった。
アウラはその中央で落ち着かなげに馬に揺られていた。
何しろ横にいるのは白銀の都の大皇后なのだ。
こんな事になるなんて昨日までは全く想像だにしていなかった。
《あいつ、どうして言ってくれなかったのよ!》
アウラは内心毒づいた。
“ファラ”が大皇后だと予め知っていればもう少し穏やかにしていたものを―――おかげで大恥をかいてしまったではないか!
そんなことを思いながらアウラは辺りを見回した。
お忍びの外出だと言っていたのに一行はかなりの大人数だ。
警護の兵士が十名近く周囲を固め、お付きの侍女達もかなりの数になる。
エルミーラ王女の場合なら、以前ならアウラ一人でも良かったし、あの事件以来、警護が厳しくなった今でも彼女の他に数名が、しかも少し離れて目立たずに付いてきていただけだ。
ベラで襲撃された後しばらくはかなりの数に囲まれてしまったが、それでもフォレスに戻れば相変わらずそんな調子だった。
お付きの侍女もグルナ、リモン、コルネにメイといった少数で事足りていたし―――ともかくこんな大人数では目立ってしまって全然お忍びになっていないような気がするのだが……
でも本来ならこれが正しい姿なのかもしれない。貴人というのはプライベートがあってないようなものなのだ。
アウラは並んで馬を歩ませているメルファラの横顔を眺めるともなく眺めた。
《綺麗ね……》
女のアウラから見ても惚れ惚れするほどの美人―――というよりはもはや麗人と表現すべきだろうか。
ショートカットになった淡いブルネットの髪が陽の光を反射して黄金色に輝いている。
昨日はゆったりしたドレスを纏っていたのでよく分からなかったが、今日はぴったりとした乗馬服を纏っているので、引き締まった見事なスタイルをしていることが見て取れる。
それは彼女が今まで見てきたどんな舞姫に比べてもひけをとらなかった。
彼女がヴィニエーラにいた頃は美女に取り囲まれて暮らしていた。
そこはシルヴェスト中から選りすぐられた美女が集められていた場所だったが、その中でも頭抜けていたアイリスやレジェなどと比較しても彼女は負けないだろう。
しかもそれに加えて彼女には独特の雰囲気があった。
きりっと前を見つめるその表情は、ただそれだけなのに何か侵しがたい威厳を備えている。
ヴィニエーラの娘達はいくら美人だったといっても、どうしても振る舞いの端々にその生まれが垣間見えてしまう。
だが今、彼女の横にいる女性は生まれながらの皇族だった。
真に高貴な存在というものがあることを、アウラは実感していた。
そんな調子できょろきょろしていると、ふっとメルファラが話しかけてきた。
「どうかなさいました?」
「え? いえ……景色見てたんです」
大皇后を遊女と比較していたとか言ったら怒られそうだ。
「もうそんなに遠くはありませんわ」
「あ、はい……」
何とも居心地が悪い。
昨日は夜遅くまで彼女たちに昔話を聞かせていた。
あんな騒ぎを起こしてしまった以上、その説明をするのは当然だ。
だが何故かそれで彼女は随分気に入られてしまったらしいのだ。
今日の朝、これ以上迷惑もかけられないので早々に引き上げようと思っていた矢先、いきなり遠乗りに行くので付き合えと言われてこうして半ば無理矢理に連れてこられていたのだが……
一行は目的を持って進んでいるようだが、一体どこに行く気なのだろうか?
振り返って見ると、ずいぶん距離は離れているというのに銀の塔は相変わらずの高さでそびえ立っている。
銀の塔―――白銀の都を象徴する建物だが、こればかりは何度見ても驚嘆する。
聞いた話では、塔の頂が雲を突き抜けて聳えているいうのだが、もちろんそんな高い塔などあるはずがないと思っていた―――ところが実際に来てみると何とそれが嘘ではなかったのだ! 昨日は本当に塔の上の方は霞んで見えなかったのだから……
また都の街並みも驚きだった。
下町の方はグラテスやラーヴルのような大きな街とそう変わらなかったのだが、その背後の“高台”に広がる公家の館群には驚いた。
何しろ一つ一つの館が今まで見てきた国の城に匹敵するような大きさなのだ。
ベラの領主の館や水上庭園も大概だと思っていたのだが、ここは何もかもが桁はずれだった。
そんなことを思っているうちに一行は低い丘を越えた。
すると右手前方に広く輝く湖面が現れた―――銀の湖だ。
《へえ……》
フォレスの白き湖も美しかったが、この湖もその名に恥じない美しさだ。
彼女たちの向かう方向にはかなりの広さの湿原が広がっていたが、一行はその湿原に突きだした半島のようになっている丘に向かって馬を進めた。
どうやらそこが目的地のらしい。
街道をそれて丘へ向かう小径に入ると道が悪くなってきたので、アウラは反射的に横を進むメルファラに目をやった。
ここまでは良く踏まれた路面だったから良かったが、これからはかなり足場が悪くなりそうだ。エルミーラ王女に付き従って遠乗りしたとき、一度王女がこんな所で落馬しかかったことがあったので気が抜けなかったのだ。
だがこの大皇后にはそんな心配は無用のようだった。
彼女は悪い足場を物ともせずに今までと全く同じ様子で馬を進めていく。エルミーラ王女のような危なっかしさは微塵もない。
《狩りが好きなのね》
そう考えれば納得はいく。
何しろ彼女の私室には大きな鹿の角がいくつも飾ってあったし、また昨日彼女があの階段の上から弓を構えたときアウラは一歩も動けなかった。
大抵の相手の場合、生きた的を射ようとしたなら手が震えて狙いが定まらないものだが、彼女にはまったくそんな迷いがなかった。
フィンからは都では鹿狩りが貴族の嗜みとして恒常的に行われていると聞いている。だから彼女は弓や乗馬が得意なのだろう。
そんなことを考えているうちに一行は丘の上に到着した。
「わあ!」
アウラは思わず声を挙げた。
素晴らしい光景だ。白き湖の畔にあったあの見晴らし台を彷彿とさせる。
だが前方に広がる銀の湖はあれよりも遥かに広大だった。
「いいところでしょう?」
メルファラが馬から降りたので、アウラもそれに従った。
残りの従者達も四散して野宴の準備を始める。
メルファラがアウラに手招きする。近づくと彼女は言った。
「ここはトネリコの丘といいます。下に広がっているのが霧の湿原。そしてあそこに赤い屋根が見えるでしょう?」
「え? うん」
アウラが曖昧にうなずくと、メルファラはにこっと微笑んだ。
「あれがル・ウーダ山荘です」
「え?」
アウラは一瞬戸惑ったが、やがて段々と彼女の意図が分かってきた。
メルファラの顔を見ると、彼女は悪戯っぽそうに笑っている。次いで彼女はアウラを頂に立っている大木の元に誘った。
メルファラはその幹を撫でながらしばらく何かを探している風だったが、やがて幹の一点を指さして言った。
「まあ……こんなに薄くなって……でもまだ読めますわね」
彼女が指した場所を見てみると―――そこにはたどたどしい筆跡でこんな言葉が刻まれていた。
フロウだいすき!
ティアだいすき!
一体何なのだ? これは―――そう思ってアウラがメルファラの顔を見ると、そこにはひどく懐かしそうな表情が浮かんでいた。
彼女は言った。
「ここが私達の、と言いますか、私の兄と彼らが出会った場所なのです」
「え?」
「アウラ。あなたはル・ウーダ殿から兄のことをお聞きになっていますか?」
「え? えっと、あの……殺されたって話?」
「ええ。そうですが……どのようにお聞きになっていますか?」
と言われても―――あのときアイザック王から聞かされただけだ。
確かフィンの妹の、何といったか、そうだ“エルセティア姫”がお世継ぎに見初められたが、そのお世継ぎが暗殺されてしまって、何だかその絡みでフィンが都から出奔してきたとか何とか。その話をフィンに詳しく聞いたことはなかったが……
アウラがそのように答えると、メルファラは不思議な笑みを浮かべた。
「そうですか……ではやはりあなたにはお話ししておかなければならないでしょうね。あなたには当然その権利があると思いますので」
「え?」
ぽかんとしているアウラにメルファラが言った。
「あの事件の真相についてなのですが? 興味ございませんか?」
アウラは唖然とした。
興味津々なのは間違いない―――だが本当にいいのだろうか? 聞いてしまって……
大体フィンが話してくれなかったのは何かわけがあったからなのでは?
だがもう彼女は好奇心を抑えられなかった。
「いえ、あの聞かせて下さい」
アウラは出会う前のフィンについてほとんど何も知らなかった。
彼が都の出身だということ、世継ぎ暗殺事件に関わって都を出てきたということ、それに“ファラ”という名前と、あの短剣を大切にしていたこと―――ほぼそれだけだ。
「それではあちらに参りましょうか」
アウラが同意するとメルファラは歩き始める。
向かった先では草原の上に大きな絨毯が広げられ、立派なクッションも置かれている。
側に控えているのはパミーナだけで、残りの従者はかなり遠巻きに警備している。
これなら落ち着いて話ができそうだ。
二人がその上に腰を下ろす。
メルファラはパミーナの出してくれたお茶を軽く啜ると話し始めた。
「私には“メルフロウ”という双子の兄がいました。彼がエルセティア姫と……エルセティア姫というのはル・ウーダ殿の妹君ですが、彼女と再び出会ってしまったのがそもそもの始まりでした……」
そこでメルファラは一度深く息をつくと語り始めた。