玉の輿には気をつけて! 第1章 お披露目の再会

玉の輿には気をつけて!


第1章 お披露目の再会


 銀の塔の大広間ではまさに宴はたけなわだった。

 階下からは楽しげな音楽と人々のざわめきが聞こえてくる。

 今日は春のお披露目の会。各公家の妙齢に達した姫達が社交界デビューする日だ。

 彼女たちにとっては少女から大人として認められる日であり、いわば一生に一度の晴れ舞台だ。

 大広間には着飾ってはいるがまだあどけなさの残る姫君と、それを迎えようという大人達でごったがえしている―――とはいっても、そのほとんどはこれにかこつけて宴が楽しめればそれでいいという連中なのだが……

 メルフロウは控えの間で一人ぽつんと座って、そのざわめきを聞くともなしに聞いていた。

 憂鬱だった。

 彼はあの雑踏が嫌いだった。

 都の貴族達はどうしてこんな騒ぎが好きなのだろうか? どうしてあの人の海の中で溺れてしまわないのだろうか?

 あの中を歩いているとメルフロウはいつもそんな気分になった。

 しかもそれだけではない。

 彼が姿を現すとなぜか衆目を集めることになる。

 道行く人々全てが大仰に挨拶し、隙あらば声をかけてこようとする。

 単に握手を求めてくる程度ならまだいいが、何とか彼に取り入ろうと、どうでもいいことを言い出す者も多い。それを失礼にならないように断るのはなかなか神経に応えるのだ。

 それが男ならまだよかった。機嫌が悪ければ睨み付ければそれでよい。

 だがその相手が姫だったりすると大変だ。世継ぎに睨まれたなどという風評が立ったりしたら彼女にとっては致命的だ。下手をすると社交界にいられなくなるかもしれないのだ。

 特に今日はそうだった。

 彼は大皇の代理として、お披露目する姫君達を祝福しなければならない。

 だが気丈な娘でも緊張で顔が強ばっているし、そうでなければもう触れた途端に気絶しそうな娘も多かった。

 そんな彼女たちを見ていると、自分は何かの病原体なのか? そんな気がしてくるのだが……

 実際それは半分当たっていた。

 恋が病だとすれば、間違いなく彼はその病原体だった。

 なにしろ彼は世継ぎの君という座に加え、衆目の一致する所の美少年だったからだ。

 都中の女性にとって彼は完全無欠の“王子様”だった。

 あらゆる姫君達にとっての憧れの的であり、あらゆる男達にとっては羨望の的だった。

 ―――だが彼自身、そのことを今ひとつ良く理解していなかった。

 メルフロウは大きく伸びをすると思った。

《まだなのか? ムートは……》

 とりあえず義務は果たした。

 現大皇が高齢で病気ぎみの折り、その代役を務めるのは世継ぎである彼の責務だ。最近はこうして出てこなければならない機会が増えていた。

 だが今日はそのお役目もつつがなく終わった。とっとと引き上げたいのだが、馬車の用意をさせに行かせたハルムートがまだ戻らない。

 それに今日はカロンデュールがやってきているという。メルフロウ自身はそれほどでもなかったのだが、家臣達はダアルの家の者達とあまり顔を合わせていたくないだろう。

 それにあまりぐずぐずしているとまたアンシャーラ姫が押しかけてくるかもしれない。

 彼女は巷では彼の妃候補のナンバーワンと言われている。

 まだ正式に婚約が交わされたわけではないが、彼女の家とは昔から親しくつきあっているし、家の格式も申し分ない。だから世間では世継ぎの妃は彼女以外あり得ないと思われている。

 メルフロウもそれを否定するわけではなかった。

 だが彼はアンシャーラ姫と一緒にいると何故かいつも落ち着かない気分になった。

 別に彼女が嫌いなわけではない。

 自分より一つ年上ではあるが、美しくしっかりしている。

 今日のお披露目の立ち会いも立派にこなしてくれた。非の打ち所のない大皇后になれるだろうが―――そこなのかも知れない。

《どうして私なんだろう?》

 彼女が大皇后ということは、自分は大皇になるということなのだ。

 大皇―――伝説の大聖の直系であり、白銀の都の第一人者だ。

 ひいてはこの世界で最も尊敬されている者と言ってもいい。あのベラでさえ大皇には一定の敬意を払ってくるくらいなのだ―――何しろ彼らの権威の根拠は大聖によって与えられたようなものなのだから……

 だがそういった知識はあっても、それは歴史の本に書かれた無機的な文字列以上の意味を持たなかった。

 そんな本をいくら読んでみても、彼が次期大皇であるということがぴんと来ない。

 たまたま自分が皇統の第一継承者だったということだけなのだが……

 だがその“たまたま”が重要なのだろう。

 いくらぴんと来なくとも結局は大皇の座を継ぐことになるのだが―――そのとき自分はどんな顔をしてあの玉座に座っているのだろうか?

 メルフロウは黙って首を振る。

 そのとき部屋の扉が開く音がした。

 ハルムートが戻ってきたらしい。ならばそろそろ―――そう思って振り向いたのだが……

《?》

 部屋に入ってきたのは彼ではなく、淡いグリーンのドレスを纏った若い娘だった。

 良い仕立てだから多分お披露目に来ていた姫の誰かなのだろうが―――彼女はよほど慌てていると見えて、部屋の奥に立っているメルフロウに全く気づいていない様子だった。

「出口、出口、ああ、ない。どうしよう」

 娘はそうつぶやきながら窓際に駆け寄って下を覗くと……

「いやあ! 高い!」

 そう言って床にへたり込んだ。

 当たり前だ。ここは銀の塔の中腹部にある大広間だ。広間には窓がないから分からないだろうが地面は遥か下だ。

 だがすぐに娘は床を拳でどんと叩くとぴょんと立ち上がってきょろきょろし始める。

 相変わらずメルフロウには気づいていない。

「あーん! どうしよう!」

 一体どうしたのだろうか?

 おろおろしている娘にメルフロウは仕方なく声をかけた。

「どうなさいました? 誰か無作法な者がおりましたか?」


「ひゃん!」


 途端に娘はそう言って十センチくらい飛び上がった。

《えっ⁈》

 その反応にメルフロウは驚いた―――なぜならその叫び声と仕草が心の奥底の何かに引っかかったからだ。

 娘は弾かれるように振り返ると大きく頭を下げる。

「ご、ごめんなさい! ちょっと……⁈」

 娘はそう言いながら顔を上げるが―――それと共にはたとその唇の動きが止まる。

 それからまじまじとメルフロウの顔を見つめる。

 その表情……

 確かに見覚えがあるが……

《もしかして……?》

 次の瞬間、娘はやおらにぎゅっと目を閉じた。

 それから下を向くと目を開いて、ゆっくりと最初は彼の足を、それから腰、胸、最後にもう一度その顔を見つめた。

《!!》

 その仕草一つ一つがメルフロウの心の奥底にしまいこんだ何かを揺さぶってくる。

 これは?


「あの……小さいフロウ?」


 娘がそう言った途端、メルフロウの心の中に一気に記憶が蘇えった。

 銀の湖、虹の森、トネリコの丘、約束、誰もいない渚、砂にしみこむ涙……


「ティア……なのですか?」


 それを聞いた娘は、目と口を大きく開いたまま凍り付く。

 それはメルフロウも同じだった。

 何か言おうと思うのだが言葉が出てこない。

 間違いない! 彼女はティアだ! ル・ウーダ・エルセティア!

 だが彼女がどうしてここに?―――いや彼女だって公家の姫君の一人なのだからここにいておかしいことはないが……

 エルセティア……

 随分大きく綺麗になっている。

 一目見たときには分からなかったのも無理はない。

 だがこの大きな目、このちょっと上を向いた鼻、それにくるくるの巻き毛―――確かにティアだ。

「ティア?」

 メルフロウはそう言って彼女の髪を撫でた。この感触は―――懐かしい……

 その感触を感じて彼女は我に返った。

「フ、フロウなの?」

「はい……」

 途端に彼女の目が潤み、涙が溢れてきた。

 同時に右手を大きく振りかぶると……

「ど、どうして来なかったのよ!」


 バシーン‼


 ―――ものすごい音と共に、メルフロウは目から火花が出た。

 一瞬何が起こったのか全く分からなかった。

 気づくと頬を押さえて跪いていた。

 左の頬がかっと熱い。

 顔を上げると―――エルセティアが涙でくしゃくしゃな顔で見下ろしている。

 メルフロウは頬を押さえながら立ち上がる―――そこでやっと自分が彼女に張り倒されたことに気が付いた。

 そのときエルセティアも初めて自分のしたことに気づいたようで、自分の手とメルフロウの顔を何度か見比べ、みるみる顔が真っ赤になった。

「あ……」

 だがそんなことはどうでもよかった。

「ごめんなさい……ティア」

 次々に思い出が蘇ってくる。

 あの最後の約束は果たされなかった。

 いや、決して忘れていたわけではない。

 彼は行きたかったし、行くつもりだったのだ。

 でも父親の言葉には逆らえなかった。どうして彼にそんなことができただろう?

 もちろん彼女はそんなことは知る由もない。

 怒るのも当然だ。

 もう何発か殴られるのだろうか?

 だが次の瞬間、エルセティアにぎゅっと抱きつかれていた。

「フロウ、フロウ……心配したんだから……死んじゃったかと思ったんだから……体弱いって言ってたし……だからあたし、あたし、フロウが死んだら本当に死のうと思ったんだから……でもまだ死んだって決まってないから……だから、だから……」

 その状況はメルフロウを仰天させた。

 一体どうすればいいのだ?

 混乱する彼をよそに彼女は喋り続ける。

「フロウ、フロウ、どうしていなくなっちゃったのよ?」

 メルフロウは思いきって彼女を抱きしめた。

 それから耳元で囁くように答えた。

「ティア……ごめんなさい。でも、どうしようもなかったんです……」

 彼女はもうそれ以上怒らなかった。

 ただ小声で彼の名をつぶやきながらすすり泣いている。

《えっと……それで一体どうしたら?》

 全く分からなかったが―――何故かこの状況は心地よかった。

 そのときだ。奥の部屋の扉がばたんと開くと男が駆けこんできた。

「メルフロウ様いかがなされました?」

 顔を上げるとハルムートだ。

「何でもない」

 それに気づいてエルセティアが慌ててメルフロウから飛び離れる。

「物音がしましたが……それにそのお方は?」

「何でもないんだ。下がれ」

「でも……」

 だがもちろんハルムートはその前に、二人がしっかりと抱き合っているのを見てしまっていた。

 どう考えても何でもないわけがない。

 これは何か言い訳をしなければならないだろうか?

 だがムートなら彼女が誰かを言えば納得してくれるだろう―――そう思った瞬間だ。

 今度は正面の扉が開いてどやどやと何人かの男が入ってきたのだ。

「エルセティア姫はこちらへ来られたと?」

 そう言ったのは中央にいた立派な服を着た若者だ―――これは聞き覚えのある声だった。

「そのように……あああ?」

 従者がそれに答えようとしたときだ。

 彼らは部屋の奥にメルフロウがいることに気づいて、一同あっと口を開いた。

「メルフロウの君?」

 若者が驚いたように言う。

「いったいどうしたのです? カロンデュール」

 彼は皇位の第二継承者でメルフロウの従弟に当たる。

 だが家同士の確執のせいであまり話したことはない。

 ただ色々な意味で何かと比較される相手なので、そういう意味では彼のことはよく知っていた。

 それはともかく、なぜこの状況で彼らがやって来たりするのだろうか?

『フロウ! 助けて!』

 気づいたらなぜかエルセティアが彼の後ろに隠れていて、小声で懇願していた。

「ティア?」

 振り返ると彼女は両手で顔を覆ってしゃがみ込んでしまった。

《一体どういうことなのです?》

 だが混乱していたのは彼らだけではなかった。

 それを見ていたカロンデュールの目もまた丸くなると、メルフロウに尋ねたのだ。

「メルフロウの君は……エルセティア姫とは……お知り合いなのですか?」

 彼の声が少し引きつっている。

「知り合いと言われれば……その通りです」

 カロンデュールはさらに大きく目を見開いた。

 それから小さな声でつぶやくように言う。

「あのとき彼女が言ったのは……」

 それから少しうつむいて言葉を途切ると―――今度は大声で笑い出した。

 一体どうしたというのだ? 彼は?

 だがカロンデュールがいつまでたっても笑いを止めないので、メルフロウはついに声をかけた。

「カロンデュール?」

 それに気づいてカロンデュールは笑うのをやめると、ぺこりと一礼をする。そして一言……

「失礼しました」

 そう言ってきびすを返すと、そのまま部屋を出て行ってしまった。

 付き人達も右往左往しながら彼の後を追っていく。

 メルフロウは呆然とその後ろ姿を見送った。

 やがて我に返ったハルムートがエルセティアを指して言った。

「メルフロウ様、その方は……もしかして……」

「そうです……ヤーマンの家のエルセティア姫です」

 メルフロウがそう言ってハルムートに彼女を紹介すると、エルセティアもまた彼のことを思い出したようだ。

「ム、ムート?!」

「エルセティア姫でしたか……」

 彼女は金魚のように口をぱくぱくさせた。

「先ほどは失礼しました。姫。世継ぎの君に何かあっては……」

 それを聞いたエルセティアが恐る恐るといった様子でメルフロウの顔を見る。

「フ、フロウ……あ、あなた……お世継ぎだったの?」

 メルフロウはうなずいた。

「私が悪かったのです……あのとき話しておいた方がよかったのかもしれませんが……でもそうすると……」

 だが彼がそこまで言ったときだ。エルセティアの体がくったりと崩れおちた。

 メルフロウは慌てて彼女を支えようとしたが、力を失った人の体というのは想像以上に重く、そのまま二人で床に倒れ込んでしまった。

「ティア? ティア!」

 自分の腕の中で誰かが本当に気絶したのを見たのは初めてだった。



 メルフロウとハルムートは二人がかりでエルセティアを奥の部屋に運び込んで、ソファに寝かせた。それからしばらく扇いでいると彼女は息を吹き返した。

「ティア! ティア、大丈夫ですか?」

 エルセティアは何が起こったのか分からない様子だったが、メルフロウがのぞき込んでいるのに気づいてまた真っ赤になる。

「う、あの、ごめんなさい……」

「謝るのはこちらです。約束を守らなかったのは私なんだから……でも父上には逆らえなくて……」

 エルセティアは黙ってうなずいた。

「もう大丈夫ですか?」

「あ、はい」

 彼女は起きあがるとソファに座り直した。

 それからハルムートが持ってきたお茶をすすると、少し落ち着きを取り戻した。

 そこでメルフロウは尋ねた。

「それにしてもカロンデュールはあなたを捜していたようですが、何かわけがあったのですか? もし私が何か邪魔をしてしまったのなら……」

「ああっ! 言わないで!」

 途端にまたエルセティアは両手で顔を覆ってソファにうずくまってしまった。

 メルフロウはハルムートと顔を見合わせた。

 一体何があったのだ?―――とはいえ、言いたくないのなら無理強いはできない。

 そこでメルフロウは言った。

「屋敷までお送りしましょうか?」

 ところがそれを聞いた彼女はびくっと頭を上げると、いきなりメルフロウの手を取った。

「ごめんなさい。やっぱり聞いて!」

 よく分からないが―――ともかくメルフロウはうなずいた。

「それがね……あのときあたし半月亭に行ってたの」

「半月亭? 聞いたことがありますが……下町の酒場でしたか?」

「うん。そうなの。それでね……」

 エルセティアは経緯を話し始めた。


 ―――エルセティアが下町の通りを突っ切って横町に入ると“半月亭”という看板が見えた。

 店の扉の前に立つとそれだけで中からがやがやとざわめきが聞こえてくる。今日も繁盛しているようだ。

 扉をくぐると肉の焼ける香ばしい香りと共に、楽しげな音楽が聞こえてくる。

 中央にしつらえられたステージの上で誰かがバイオリンを弾いていた。見たことのない子だがとても上手だ。またどこかからマスターが見つけてきたのだろうか?

 ここのマスターは大の音楽好きで、趣味が昂じてこんな店を開いてしまったのだという。

 店の名前はルナ・プレーナ(=満月)劇場の名前にに由来しているのだそうだ。

 ルナ・プレーナ劇場とは都はおろか世界中にその名が知られた劇場で、あのミュージアーナ姫の伝説の舞台が行われた場所でもある。

 そしてこの店は劇場の新人楽師や歌手がよくアルバイトに来ることでも知られていた。

 エルセティアはカウンターに座るとマスターに声をかける。

 マスターは彼女の顔を見るとにこっと微笑みかけた。

「やあ、ティアちゃん」

「マスター元気?」

「ああ、おかげさまでね。今日は兄貴は?」

「いないわよ⁈」

「ええ? ティアちゃんだけで?」

「そうよっ!」

 マスターは驚いた―――


 驚いたのはマスターだけではなかった。その話を聞いたメルフロウも思わず突っ込んでいた。

「本当に一人で行ったんですか?」

 エルセティアが口をとがらせる。

「だって、パパが悪いのよ⁈ 毎日毎日顔見たら結婚の話ばっかりで。最初はあたしだって一人で来るつもりじゃなかったんだから。なのにお兄ちゃんはどっか行っちゃうし、でディアリオに頼もうと思ったらパパに見つかっちゃうし……あの日はデルビスとパライナが出るから絶対来たいって言ってたのに……」

「何なんですか? それは?」

「デルビスとパライナ? 歌手よ。とっても歌が上手なの。それにデルビスってすごくかっこいいのよ。絶対そのうちルナ・プレーナで真打を張れるようになるんだから!」

 そしてエルセティアはデルビスとパライナの素晴らしさについて得々と説明を始めた。

 メルフロウはそういったことには全く疎かったので今ひとつよく分からなかった上、いつまでたっても話が終わりそうもないので、ついに口を挟んだ。

「あの、それで彼らとカロンデュールが何か関係あったのですか?」

「あ、そうそう。それでね……」

 思い出したようにエルセティアは続きを始めた。


 ―――マスターはエルセティアの話を聞くと、可笑しそうに笑った。

「まったくティアちゃんは……みんな心配するよ?」

「なに? マスターまであたしを子供扱いするの?」

 彼女がむっとした顔で答えると、マスターは笑いながら手を振った。

「わかったわかった、じゃあちょっとだけだよ」

 そう言ってマスターは赤い色のカクテルを作ってくれた。

「前みたいに飲み過ぎちゃ駄目だよ」

 エルセティアはちょっとびくっとしてから、慌てて答える。

「分かってるわよ!」

 マスターはどうしてこうつまらないことを覚えているのだ? この間ちょっと失敗しただけなのに―――確かに次の日は頭が痛くて大変だった。もちろん今日はそんなドジを踏むつもりはないわけでっ!

 そのとき音楽が変わった。

 振り返ると店の中央の舞台の上に、若い男女のペアの歌手が現れて手を振っている。

 客席からは「パライナ! パライナ!」と声が飛んでいる。

 エルセティアはちょっとむっとした。男共はどうしてパライナばっかり見るのだ?

「デルビス~!」

 エルセティアが叫ぶと、デルビスがそれを聞きつけてにこっと微笑みかけてくれる。

 彼女は幸せな気分になった。

 ルナ・プレーナ劇場ではこうはいかない。小さい店ならではの利点である。

 それからパライナが美しい声で甘いラブソングを歌い始めた。

 最初は彼女のソロだったのが、やがてデルビスが加わって綺麗なデュエットになっていく。

 それはこんな内容だった―――明け方の光は闇を消し去り、朝の香しい風が霧を払っていく。でも私の心を覆い尽くす霧と闇が晴れることはない。それはあなたが答えてくれないから―――大好きな曲だ。

 にも拘わらず、この曲を聴くのはちょっと辛かった。

 なぜならこれを聴くとどうしても思いだしてしまうからだ。

 湖畔でフロウと遊んだこと……

 トネリコの丘で交わした約束……

 ………………

 いったいどこに行ってしまったのだろう。あれっきり姿を消してしまって……

 彼女がそんな調子で沈んだ気分になっていたときだ。マスターが新しく入ってきた客に挨拶した。

 見ると男の二人連れだ。二人はマスターの方にやってくる。

 エルセティアは横目でちらりと二人を観察した。

 一人はがっちりした体格の壮年の男性で、もう一人はエルセティアより少し年上の青年だ。

 だがこういう場には雰囲気が合わないというか―――正直浮いている。

「今日はパライナが出ると聞いたが?」

「今歌ってますよ」

「そうか」

 喋り方が横柄だし、多分どこかの貴族がお忍びで来たのだろうが……

 まあこの店では結構普通のことだ。そもそも自分だってそうだから人のことは言えないわけで……

 二人はエルセティアの近くの席に座った。

「ねえ。マスター。あの人達よく来るの?」

 彼女は小声で尋ねた。

「いいや……初めてだね」

 エルセティアはもう一度若い方の男を観察する。

 歳は彼女と同じくらいだろうか?

 うつむき加減に話しているので顔はよく見えないが、横顔の造作を見るだけで分かる。あれは絶対超ハンサムだ―――


 そこでいきなりエルセティアは真顔で弁解を始めた。

「あ、でもフロウがあのまま大きくなってたら、もっとずっとハンサムになってたって思ってたのよ? 実際そうだし!」

「え? あ、はい……」

「だからね、でもちょっといい男だなって思っちゃっただけなの。だってあのときはちょっと落ち込んじゃってたし、もっと早く出会えてたら良かったのに……」

「え? あ、はい……」

「だってやっぱり心の底じゃあまり自信なかったのよ。あのときの約束、本当にずっと信じてられるかって……でも最近段々自信が持てなくなってきちゃって……そんなとこに来たんだもの。ちょっとくらっときても……」

 そんな調子でずっと喋り続けそうになったので、メルフロウは続きを促した。

「でその彼がカロンデュールだったというわけですね?」

「え? あ、そうなのよそれでね……」

 エルセティアは再び話し始める。


 ―――二人は舞台の方を見ながら何か喋っている。

 彼らはどこかの貴族で、パライナの噂を聞いて鼻の下を伸ばしてやってきたということか?―――だとしたらちょっと可哀想かも……

 そう思ってエルセティアはつい笑みをこぼしてしまった。

「どうしたんだい?」

 マスターが怪訝そうな顔をする。

「ねえマスター。あの人達パライナがもう結婚してて子供もいるって知ってるのかしら」

「さあなあ。でもそんなことお構い無しの奴もいるしな」

「ええ?」

「旦那がいようと子供がいようとかっさらってく奴もいるよ」

「ええっ? そんなのひどいーっ!」

 一瞬、周囲の視線が集まる。

 慌ててエルセティアは口を押さえてちらっと二人の方を見るが―――青年の方とバッチリ目が合ってしまった。

 エルセティアは慌ててそっぽを向いた。

《やば!》

 何故か心臓がどきどきする。

 エルセティアは残っていたカクテルをぐっと飲み干した。

 そんな飲み方を見てマスターが少し慌てる。

「ちょっと! ティアちゃん。もっとゆっくり飲まないと」

「あ! ごめんなさい……」

 この間来たときにもこれで失敗しているのだ。同じ轍は踏まないようにとさっきあれほど誓ったというのに……

「そういえばマスター、アルテちゃんに最近会った? もう大きくなったの?」

 アルテちゃんとは今歌っているパライナの娘の名前だ。

「ああ。可愛くなってるよ。パライナが忙しいときにはまだ預かることもあるよ。もう伝い歩きできるんで、店の中だと危なくてね」

「そうなんだ」

 そんな調子でエルセティアとマスターが話し込んでいるときだった。

「お嬢さん、お嬢さん?」

 後ろから男の声がする。

 振り返るとそこにはあの二人連れの、年輩の方の男が立っていた。

「え? はい?」

 エルセティアはぽかんとして男を見る。

「お嬢さん。お手を拝借してよろしいですか?」

 エルセティアは吹き出しそうになった。“お手を拝借”って、一体どこの舞踏会場だ?

 彼女は笑いを堪えながら言った。

「ええ。よろしいですわよ。でも、貴方まだ独り身なんですの?」

 男はちょっと困ったような顔をする。

「いえ、私でなくデュ……彼があなたとお話ししたいと……」

 そう言って彼は若者の方をちらっと見るが―――その様子にエルセティアは何でか分からないが無性に彼らをからかいたくなってきた。

 彼女はいきなり笑い出した。

「ど、どうかなさいましたか?」

 いきなりの反応に男はまごついた。こういう事には慣れていないようだ。

「ごめんなさい。ちょっと可笑しかったから。それであなた方、高台のどちらからいらっしゃいました?」

「え、ええ?」

 その反応を見てエルセティアはまた吹き出した。気付かれないとでも思っていたのだろうか?

「こちらでは女の子誘うときには自分でするものだから、つい勘違いしちゃいましたの。ごめんなさいね」

 そう言って思いっきり作り笑いをする。

 それを見た男はうっと言葉に詰まると、少し怒ったように一礼すると行ってしまった。

 エルセティアは爆笑しそうになるのを必死で堪えた。

 だが―――考えてみたらもしかしてこれはチャンスだったのでは? 少し勿体ないことをしただろうか?

「ティアちゃん、お待ちどうさま」

 そんなことを考えているとマスターが二杯目のカクテルを持ってきてくれた。

 今度はゆっくり味わわなければ―――と、そのときマスターが目配せする。

「ん?」

 振り返ると―――今度はあの青年が立っている!

 うわ! まさか本当に来るとは!

「お嬢さん。そのお隣の席、ご予約は入っていますか?」

「え? いえ、空いてますわよ」

 エルセティアは慌ててうなずく。

「座って構いませんか?」

「ええ、どうぞ」

 まさかこんな事になるとは―――自然に答えようと頑張るが、セリフが棒読みになってないだろうか?

 青年はエルセティアの側に座るとじっと顔を見て尋ねた。

「パライナさんのこと、お詳しいのですか?」

「え? どうして?」

 何だか顔が少し熱くなってくる。

「マスターと話していたのが聞こえてしまいましたので」

「あ、そうなんだ。ずっと前からファンなのよ。でも彼らは“デルビスとパライナ”なのよ。二人で歌うからいいんだから」

「ああ、それはそうですよね。どうしても綺麗な女性の方に目が行ってしまって」

 青年はそう言って笑った。その笑みには屈託がない。

「でも彼女たち、本当に素晴らしいですね。あれなら銀の塔に呼んでも全く遜色ないでしょうね」

 いきなり正体バレバレではないか。それとも突っ込んで欲しいのだろうか?

「銀の塔って……あなた、貴族?」

「え?」

 青年はしまったという顔をした。

 それを見てエルセティアは吹き出しそうになる。いくら何でも不慣れすぎでは?

「どちらの一族? マテラ? アスタル? それともクアン・マリかしら?」

「それはちょっと……」

「うふふ。分かってるって。もっとばれないように話さないと」

「はい……」

 平民娘ごっこというのも何だか楽しい!

 そのときマスターが蜂蜜入りの揚げパンを持ってきてくれた。

「あ! ありがとう! 大好きなの。これ!」

 エルセティアがそれにかぶりつく姿を青年はじっと見ていたが、やがてにこっと微笑んで尋ねた。

「あなたは……いつもお一人なんですか?」

「そんなことないわよ。今日はたまたまよ?」

「そうですか。こちらの方はこういう所によくお一人で来られるのですか?」

「ええ? よくってことは……まあ、時々ね」

 ここは兄貴とか内弟子の人たちと一緒に何度も来ているし、マスターも父親の旧友で半ば身内みたいな所だ。だから一人で来る気になったのだ。さすがに他の場所じゃこうは行かないだろうが―――だがそれを聞いて青年はあからさまに驚いた。

「へえ。そうなんですか。ずいぶん解放的なんですねえ」

「上じゃそんなに閉鎖的なの?」

 聞かずとも分かってるけど、ここはこういう流れだから―――それを聞いて青年はうなずいた。

「ええ……こんな風に女性の方と話をするなんて、考えられませんね」

 エルセティアは少し驚いた。

《考えられないって……》

 夜会なんかに行ったら普通に男女が喋ってるように思うのだが?―――でもまあ、家によってはそういったお堅い所もあるらしいし……

「それより何か飲みますか?」

 カクテルのグラスが空になっているのを見て青年が話題を変えた。

「ええと……」

 エルセティアが詰まったので、青年がマスターに言った。

「では、ブランデーサワーを彼女に」

 聞いたマスターが少し驚いた顔をする。

 だがそんな彼に向かって青年はきっぱりと言った。

「ないのか?」

「いえ、かしこまりました」

 そのやりとりにエルセティアは少し驚いた。ハンサムなだけじゃなくって結構毅然としているのだが……

《こういうのって……どこかの本家の跡取りだったりして?》

 エルセティアは少し興味が出てきた。

「ええっと、あなた、そういえば名前は?」

 それを聞いて青年は慌てて自己紹介した。

「こ、これは失礼しました。僕は……デュールと呼んで下さい」

「あたしティア。よろしく」

「よろしく。ティアさん」

 デュール? どこかで聞いたような名前だが―――


「本当に分からなかったのですか?」

 メルフロウは驚いて尋ねた。

 都の姫で“デュール”の名前を知らない者がいようとは―――ベルガ一族ダアルの家の嫡男カロンデュールはメルフロウの従弟であり、世継ぎと第二継承者という立場も相まって都の姫の人気を二分していた。

 それを聞いてエルセティアは口をとがらせる。

「だって“ダアルの若君”のことを“デュール”なんて普通呼ばないし。畏れ多くて。それにあたしには関係ない話だったし。うちのこと知ってるでしょ」

「ええ? まあ……」

 家の格式の事を考えれば彼女がそう言うのも無理はない。

 大聖直系の大公家ベルガ一族と小公家六位のル・ウーダ一族のさらに分家というのでは、同じ公家といっても月とスッポンの違いがある。

「だから全然そんなことだとは思わなくて、それで何だか話が盛り上がっちゃったのよ……」

 エルセティアは話を続けた。


 ―――エルセティアは久しぶりにいい気分だった。

「でね、でね。アルテちゃんが生まれてすぐの頃にね、ルナ・プレーナ劇場でオーディションがあったのよ。パライナさん、諦めようかと思ったんだって。でもマスターがその間アルテちゃんを預かってあげるから出てこいって勧めたんだって。それで見事オーディションに通ってデビューできたんだって」

「そうなんですか」

 デュールは興味深げに聞いている。

「でもその後が大変なのよ。ルナ・プレーナで歌い始めたら夜とか忙しいじゃない。でもマスターもこのお店があるでしょ? 奥さんも一緒に働いてるし。だからアルテちゃんね、このお店の奥にぶら下がってたんだって」

「ぶら下がる?」

 デュールがぽかんとした顔をする。

 エルセティアも一瞬彼がどうしてそんな顔をしたのか分からなかったが、やがて彼がどう思い違いをしたのか気がついた。

「ゆりかごを天井から吊してたのよ。え? まさかアルテちゃんをそのままぶらーんって思ったの? そんなことないわよ!」

 それを聞いてデュールも笑い出した。

「あははは。そりゃそうですね。でもそれにしてもお詳しいですね」

 笑い顔もなかなかいいのでは? ちょっと好きになっちゃうかも―――そう思ってエルセティアは慌てて首を振った。

「どうなさいました?」

「違うの。ちょっと別なことをね。で、そうなの。あたしこういうの大好きだし。だからねえ、大人になったらあたしスカウトになろうと思うのよ」

「スカウト? ですか?」

「そうなの。だってほら、マスターがラーヴルの酒場で歌ってた彼らを見つけだして来なかったら、デルビスとパライナっていなかったわけじゃない。そう考えたらあっちこっちに埋もれた才能がいっぱいいると思うのよ。そういった人たちを見つけ出して紹介してあげるお仕事なの。すごいでしょ?」

 デュールは驚いた顔でエルセティアを見た。

「でもそれって大変じゃないですか?」

「そりゃそうだけど、だって色々な町に行けるし、美味しいものだっていっぱいあるっていうし」

 デュールの目が丸くなる。それから少しうつむいて笑い始めた。

「な、なによ!」

 エルセティアが食ってかかると、デュールは空になった皿を指して言った。

「いや、その蜂蜜パンを食べているときの顔、素敵だったなと思って」

 エルセティアは赤面した。

「な、なによ! せっかく行くんだから美味しい物くらいいいじゃない!」

「そうですよね。もちろんです」

 そう言いながらもデュールは笑いが止まらない様子だ。

 ここは怒りたいところだが、実際ちょっと本音を突かれたところもあって強く言えないし……

 そのときだ。デュールが顔を上げるといきなり真顔で尋ねてきた。

「ティアさん。その旅にはお一人で行かれるのですか?」

「え?」

 いきなりの問いにエルセティアは口ごもる。

「それとも誰か一緒に行く人が決まっているのですか?」

「そういうわけじゃないけど……」

 それを聞いてデュールは微笑んだ。

「ああ、そうですか……それはよかった」

 それからエルセティアの顔をもう一度見つめる。

「何が良かったのよ」

 良かったとは一体どういう意味だろうか? まさか……?

「あなたがまだお一人だということが……」

「あ、あたしが一人だったらどうだっていうのよ」

 エルセティアは少し慌てた。この展開は?―――だがデュールは真剣な顔だ。

「僕はあなたのような方に初めて会いました。あなたは私の知っている女性達とは全然違います……」

「あ、そ、そうですか。それは良かったですわね」

 エルセティアはペースが狂ってしまった。

 男友達は何人もいたが、こんな風に真正面から口説かれたのは初めてだ。

「だから、もう少しあなたのことを知りたいのですが……よろしいですか?」

 だが真面目な顔だ。からかっている風ではない。

 エルセティアは顔が熱くなってきた。

「知りたいって、えっと、一体何を?」

 そう逆に問い返されて彼は少し口ごもるが……

「それでは……今つきあっている方はいらっしゃいますか?」

 ………………

 …………

 ちょとーっ!

 こんなどストレートでやってくるとは―――半ば予想はしていたとはいえ、どう答えればいいのだ?

 急に頭がかっとしてくる。

「それは……いないけど……でも……」

「でも?」

 エルセティアは思わず手にしていたグラスを一気に空けた。

「いるの! でもいないの!」

 目の前にあの日の風景が浮かんでくる。

 銀の湖、虹の森、トネリコの丘、約束の木……

「はい?」

 もちろん彼にそんなことは分からない。エルセティアは続けた。

「いたのよ。結婚の約束だってしたのよ。でも……いなくなっちゃったの」

 途端に涙がこぼれてきた。

「ティ、ティアさん、どうなさいました」

 デュールは慌てるが、エルセティアは黙って首を振る。

「違うの。ちょっと思いだしちゃって……銀の湖の畔で最初に会ったのよ。あたしはまだ小さかったけど、フロウがそこにいたの。それから森の中でかくれんぼして遊んだのよ」

「フロウ?」

 デュールはその名を聞いて少し驚いた様子だったが、それ以上何も言わなかった。

「そう。フロウなの。どこのフロウか知らないけど、フロウなの。フロウとあたしは何回も遊んだのよ。岬で何度も待ち合わせして……」

 エルセティアはほとばしる言葉を遮れなくなった。

「それからみんなでトネリコの丘に行ったの。霧の湿原を抜けるのは恐かったけど。だってお兄ちゃんがね、道を間違えたら二度と出られなくなるなんて言うから。お兄ちゃんは霧の湿原のことよく知ってるから迷わないの。ポニーに乗って行ったのよ。大きな木があるでしょ、トネリコの丘に。あれって本当はトネリコじゃないらしいんだけど、みんなトネリコって言ってるんだけど、あそこでずっと遊んでたの。フロウはとってもきれいな子で、まるで王子様みたいだったわ。そこであたしたち大きくなったら結婚しようって約束したのよ。らからあの木にやくそくを書いたのよ。あのときはトネリコの木らって思ってたし、トネリコのやくそくってのは守らないとらめれしょ? らからかいたのに。それなのにいなくなっちゃったのよ。やくそくらっていったのに……こなかったのよ。ろうしてなのよ。あたしなにもわるいことしなかったのに……」

 エルセティアはついに突っ伏して泣き始めた。

 周囲の客がちらちらと二人の方を見始める。

 デュールは慌てた。

「ティアさん、元気を出して下さい」

 そう言って彼女の肩を抱くが―――エルセティアはその手をはね除けた。

「ろうやってげんきがでるのよ! フロウはいなくなっちゃったんらから!」

「フロウ君がいなくなったのはそれなりの理由があったのかもしれませんよ」

「りゆう? なによそれ。ろういうりゆうがあったってひとことぐらいいってくれたっていいらない!」

「僕には分かりませんが……」

「あからない? あからないじゃすまないわよ! あんたおろこれしょ? ろうしてあからないのよ!」

「そう言われても……」

 エルセティアは完全に酔っぱらっていた。見かねて年輩の男がやってくる。

「デュール様いったいどうなされました」

「彼女、どうしよう? 酔ってしまったようだが……」

「あらしよってなんかないわよ!」

「これは……家まで送らなければなりませんね」

「られがかえるって? まだかえらないわよ?」

「でもティアさん」

 エルセティアがデュールの顔を正面から見つめる。

 よく見ても見なくてもいい男だ。

 それに何だが目が四つついているが……

「きゃははははははは」

「ティアさん?」

「すきよ、りゅーる、あんた、あらしのことすき?」

「ええ? それは、その、あの……」

「あっはは! じゃあおろりましょう!」

 エルセティアはいきなりデュールを引っ張ってステージに引き上げる。

「あらしとりゅーるがおろりまーす!」

 突然の騒ぎに店中大喝采だ。酔客共はこういう余興で大喜びだ。バンドも空気を読んでダンスミュージックを奏で始める。

 それから以降のことはほとんどエルセティアの記憶になかった―――


「………………」

「でね。気がついたら家にいたんだけど、聞いたらマスターが送ってくれたらしくって、で、もうパパもママもかんかんで、それ以降家から一歩も出してもらえなくて……ひどいでしょ?」

 それは仕方ないのではなかろうか? と、思いつつもメルフロウは黙ってうなずいた。

「それで今日のお披露目の宴に出てこいって言われて来てたのよ。そうしたらアスタルのマルホールって奴がダンスを申し込んでくるのよ。別に悪そうな奴じゃなかったけど、絶対あれってパパが裏で糸を引いてるから」

「………………」

「そいつを適当に捲いて、せいせいしたと思ってたら、何と今度はダアルの若君に出くわしちゃったのよ。会った瞬間に、あ、あのときの、とか言われちゃって、それで頭が真っ白になって……で、逃げてたんだけど出口が分からなくなって、飛びこんだ部屋があそこで……」

 そこまで聞いたところでメルフロウはもう我慢ができなくなった。


「あーっはははははは!」


「な、何よ!」

「ごめんなさい。ティア。でも……もうだめです。我慢できません!」

 前回はいつだっただろうか? こんな風に腹の底から笑ったことは。多分―――そうだ。あの湖の畔でティアが焼いた魚が生焼けだったとき以来かも……

 そうなのだ。

 彼が心の底から笑えたとき、そのときいつも彼女が側にいたのだ。