玉の輿には気をつけて! 第2章 ファーストキッス

第2章 ファーストキッス


 メルフロウは檻に入れられた獣のように、部屋の中をぐるぐる歩き回っていた。

 もうすぐ園遊会の始まる時刻だ。

 彼がこの催しをこれほどまでに待ち望んでいたのは初めてだった。

 彼は窓際まで行って外を眺める。

 庭にはテーブルが幾つも並べられ、その上にはたくさんの料理が並んでいる。準備万端だ。

《これだけあればティアも満足だろうね》

 メルフロウはくすりと笑った。

 今日はジークの家の月例園遊会だ。

 貴族の交際というのはいろいろと格式張っていて面倒なものだが、これもその一つ。月に一度日を決めて親しい客を呼んで開く宴だ。

 そしてその際には誰をどういった立場で呼ぶかとか、どういう風にもてなすかとか、そんな細かい所に家の面子が関わってきて、当主としては気が抜けない行事なのだ。

 メルフロウはまだジークの家を継いではいなかったのでまだあまりそんな苦労はしていなかったが、当然ながら会に誰を呼ぶかということの重要性は理解していた。

 だから父親に、今日の園遊会にル・ウーダ=ヤーマンの家を招待したいと告げたときには大変な緊張を強いられた。

 最初にハルムートに相談した際には、こういうことはまだ早いと首を縦に振らなかった。それでメルフロウ自身で父に直談判したのだが―――そのためには持ち合わせていた全ての勇気を振り絞らなければならなかった。

 だから父があっさりと承諾してくれたときには、逆に拍子抜けしたほどだ。

 ただし、それならば今回の園遊会のホストを務めてみろと条件はつけられたのだが―――確かにそれは大役だったが、いずれ当主になればすることだ。メルフロウは喜んで承諾した。

 後にハルムートに反対した理由を問いただすと彼はこう答えた。

『以前ティア様方と隠れてお会いなさっていたことが露見した際、ジーク様は大変お怒りになられましたので……』

 そう言われればメルフロウもうなずかざるを得なかった。

 あの日の夜、父親が怖い顔でやって来て、知らない子供と遊んでいるのかと詰問し、もう二度と会うのではないと告げられたときのことはよく覚えている。

 そのときの彼は、小鼠のように怯えてベッドに潜り込むことしかできなかった。

 あのときだけでない。

 彼の父親は家の者以外にはほとんど会わせてくれなかった―――ハヤセのアンシャーラ姫だけは例外だったが、それもフォーマルな場で一緒にいただけで、二人きりになったようなことはほとんどない。

 そんなときも何か気まずくて、まともな話もせずに終わってしまうのだが……

 そのような父の気が変わった理由はよく分からないが、ともかくそのため晴れて今日正式にティアと会うことができるのだ。

 誰かを待つということがこれほど心躍ることとは……

《でも、あのときの彼女もこうやって待っていたのですよね……》

 そう思うと心が痛んだ。

 今なら彼女の気持ちが痛いほど良く分かる……

 だがそれならもう謝るしかない。そうすれば彼女も分かってくれるだろう。それにこれからならその気になればいつだって会えるのだから!

 そんなことを考えながら再び窓外に目を向ける。

 客も半数方は揃っているようだが、彼女はまだなのだろうか?

 でもティアのことだから、出がけに転んで服を汚してしまって―――なんてことになっているのかもしれない……

 その姿を想像すると笑いがこみ上げてきた。

 そのとき、侍女がやってきて告げた。

「ル・ウーダ様がいらっしゃいました」

「分かった!」

 メルフロウは侍女の横を駆け抜けていった。その勢いに驚いて彼女が転びそうになったことにも気づかなかった。

 彼がそのままホールまで走って行くと―――そこにはぱりっとしたタキシードを着込んだ青年が立っていた。

「え?」

 メルフロウは一瞬誰か分からなかった。

「今日はお招き頂いてありがとうございます。ル・ウーダ、ヤーマンの家のフィナルフィンと申します」

「あ! フィンですか!」

「はい」

 フィナルフィンはそう答えると再度深々と礼をした。



「フィンが?」

 知らない名前ばかりの中で初めてよく知った名前が出てきたので、アウラは思わず口を挟んでいた。

 メルファラはにっこりと笑って答える。

「はい。そのときに来たのが彼でした」

「それって今からどのくらい前になるの? フィンは何歳くらいだった?」

「六年くらい前ですから……まだ二十歳そこそこですわね。でもその前に会ったのがまだ子供の頃でしたから、見違えるようになっていましたが……」

 それからメルファラは何度か咳払いすると話を続けた。



 メルフロウの心の中にあの日の思い出が蘇ってきた。

 フィナルフィンはティアの意地悪なお兄ちゃんとして、思い出の中にいつも一緒に登場してきた。

 ティアと二人きりになると彼女は決まって兄の悪口を言い出すのだ。

 彼はメルフロウには優しかったから、どうして彼女がそんなことを言うのかよく分からなかった。

 その上、そんなに嫌なら一緒にいなければいいのにと言っても、何故かいつも彼女は兄と一緒なのだ。

「あの頃は“小さいフロウ”だったのに、すごくご立派になられましたね」

 フィナルフィンは微笑んだ。

「すみません。あの頃本当のことをお伝えできれば」

「構いませんよ。大きな家ですといろいろ大変でしょうから」

 彼とも積もる話は多々あった。だが今日はそれが目的ではない。

 メルフロウはちらちらとあたりを見回すが―――目当ての人の姿は見えない。

 フィナルフィンは目ざとくそれに気づいたようだった。

「もしかして……ティアですか?」

「え? はい」

 うなずいたメルフロウを見て、フィナルフィンの顔が暗くなる。

「やはり今日はあいつの……いや、ティアのためにご招待下さったのですね?」

「ええ、まあ。いきなり名指しというのも何ですし」

 それを聞いてフィナルフィンは目を伏せた。

「申し訳ありません。エルセティアは今日は来られません」

「ええ? どうしてですか?」

「それが、ダアルの若君からお名指しで招待状が来ておりまして……あちらを優先せざるを得なくて……」

 それはまさに青天の霹靂だった。


「カロンデュールが名指しで? 彼女を?」


 宴に他家を招待する際“名指し”で呼ぶか“家宛”で呼ぶかは大きな意味の違いがあった。

 名指しというのはその名の通り特定の個人宛に出す招待状だ。それに対し家宛とは来て欲しい“家”に対する招待状だ。

 家宛ならばその家の誰かが代表として来ればよい。呼ぶ方も出る方も気楽な立場だ。

 だが名指しとなると意味が重い。

 少なくともその宴の主賓であることを意味するし―――これが未婚の男女間だとしたら更に重大な意味を持ち得る。

「申し訳ありません」

 メルフロウにはもうフィナルフィンは目に入っていなかった。

「ええ……はい……」

 彼はそのままふらふらと自室に戻る。

 そんな風に客を放置することが大変な失礼だと気づく余裕もなかった。

 メルフロウは自室のソファに突っ伏して頭を抱えた。

 何ということだ!

 こうなると分かっていれば、いくらでも避けようがあったものを!

 メルフロウのジークの家とカロンデュールのダアルの家は、長年同じ日に園遊会を開いてきた。

 そもそも本家クラスの大きな家同士はこういう宴の日時をずらすのが習慣だった。

 勢力のある家同士が同じ日程で宴を開けば、参加する方は当然どちらかを選ばなければならない。いわばどちらの勢力に荷担するのかを試されているのと同じだ。だからそんな露骨な真似は行わないというのが礼儀であり、長年のしきたりでもあった。

 だがそんなレベルを超えて憎しみ合う家が現れる場合もある。

 このジークの家とダアルの家の関係がまさにその例だった。

「フロウ様? いかがなされました?」

 やって来たのは侍女のルウだ。

 彼女はハルムートの姉で、彼同様に子供の頃からずっと育てて来てくれた。

 メルフロウはいきなり彼女に叫んだ。

「どうして調べなかったんです! ダアルが誰を名指ししたかなんてすぐ分かるでしょう!」

「え? あの……でも、いつもそういうことは致しませんし……」

「そんなこと分かっています!」

 ルウは目を白黒させた。

 自分の言っていることが意味不明だということも分かっていた。

 彼女を責めるのがお門違いだということも分かっていた。

 ―――だが今はそう叫ばざるをえなかった。

「フロウ様? ジーク様がお呼びなのですが……ご挨拶をと」

 ルウが心配そうな顔で言う。

 だがメルフロウはソファに突っ伏したまま答えた。

「気分が悪いので行きません!」

「でも……今日のホストはフロウ様ですし……」

 メルフロウは歯を食いしばった。確かにそうだ―――そうするという条件でティアを呼べたのではなかったのか?

 だがもうそんな大切なことさえどうでも良かった。

 メルフロウは首を振った。

「お帰り願って下さい!」

「でも、フロウ様……」

「放っておいて!」

 ルウはそれ以上は何も言わずに戻っていった。

 メルフロウはソファのクッションに再び頭を突っ込んで嗚咽した。

 どうしてなのだろう? どうしてこんな……

 意図したわけではなかったとはいえ、彼女に自分を取るかカロンデュールを取るか試すような真似をするなんて―――彼女は一体どう思っただろうか?

 そう思ったところでメルフロウは吹き出した。

《これが彼女の選択じゃないですか!》

 彼女はあちらに行って、こちらには来ていないのだ。

 どちらを取るかと言われてあちらを取った―――そういうことなのでは?

 それが彼女の意志なのでは?

《でも……私は名指しをしなかった……》

 先ほどフィナルフィンも言ってなかったか? ダアルの若君からの招待状が名指しだったからそちらを優先したと……

 彼女が来なかったのはそれだけの理由だったのでは?

 そのとき初めてメルフロウはフィナルフィンを放置してきてしまった事に気がついた。

 メルフロウは慌てて顔を上げて、涙を拭くと階下に降りた。

 だがそこはもう既に人気はなくがらんとしていた。

 メルフロウは近くの侍女に尋ねる。

「お客様方は?」

「え? お帰り頂きました。お具合はよろしいのですか?」

「え? ああ……」

 メルフロウは魂を抜かれたように再び自室に戻る。

 何もかも失ってしまった―――そんな気分だった。

 メルフロウは放心状態でソファに座る。

《ティア……》

 心の中にあの日の光景が湧き上がって来る……


―――そのとき彼はひどく焦っていた。

 メルフロウはハルムートと二人で遠乗りに出かけていたのだが、休息時にちょっとした軽い気持ちで隠れてやろうと思ったら、何故かそのまま本当に戻る道が分からなくなってしまったのだ。

 メルフロウは心細い気持ちで森の中を歩き続けた。

 だがハルムートと休息した場所には行き着かない。

 そのときだった。

 目の前がぽっかりと開けると湖畔の砂浜が現れたのだ。

 少し離れた所から人の声がする。

 子供の声のようだ。

 メルフロウは恐る恐るその方向に進んだ。

《誰だろう?》

 今までこんな風に他人に出会ったことなどなかったが……

「きゃあ、お兄ちゃん、カニ、カニ!」

「ほっとけよ。指噛まれるぞ」

 それは彼と同じ十歳くらいの長い巻き毛の少女と、もう一人は十三~四歳くらいのひょろっとした感じの少年だった。

 彼らがいたのは湖に突きだした岬の岩場で、少年はその突端の岩に座って釣り糸を垂れている。少女の方は手前の砂浜で何かをいじっている。

 メルフロウがびっくりした顔で二人を眺めていると、少女が彼に気がついた。

「あら? ねえねえ!」

 そう言って彼女が手を振った。そこで思わずメルフロウも手を振り返すと―――彼女がとことこと走ってきたのだ。

 メルフロウの前までやってくると彼女は言った。

「あたしティア。あなたは?」

「え? フロウ……」

「どうしてこんな所にいるの? 一人なの? おうちはどこ?」

「うん。よくわからない」

「迷子なの? こんなところで?」

「そうみたい……」

「じゃ、大丈夫よ。あたし達がいるから」

 なぜ大丈夫なのかは今ひとつ分からなかったが、メルフロウはなんだかほっとした。

「おーい! ティア、薪は集めたのかよ? って? 誰だ? その小さいのは」

 びっくりして振り返ると、今度は彼女の兄がこちらにやってくる所だった。

「この子フロウなんだって。迷子なんだって」

 ティアが答えると兄はメルフロウの顔をじっと見る。

「迷子? 家は?」

 メルフロウは首を振った。

 ハルムートと一緒に遠乗りしてきたのだが、彼の後をただ付いてきただけなので屋敷がどこかなんて聞かれても分からない。

「まあいいか。ここなら何とかなるだろ……それよか、おい、薪は?」

 兄はティアをつついた。

「ええ? あ!」

 ティアの兄ははあっと溜息をつくと湖の彼方を指さした。

「ちょっとあれ見てみろよ」

「え? 何があるの?」

 彼女はその方向を向くが、もちろん何もない。

 その間に兄が魚籠(びく)から大きな魚を取り出すと彼女の顔の横にぶら下げる。

「だから何よ……ひゃん!」

 振り返った彼女の頬に濡れた魚が触れて、ティアはおかしな叫び声と共に十センチくらい飛び上がった。

「何するのよぅ!」

 頬を押さえて文句を言うティアの目の前に彼は魚をぶら下げた。

「これどうする気だよ? 生で食うのか?」

「ううう」

「ほら、さっさと薪集めてこい! ついでにお前も一緒に行ってこい」

「ええ?」

 そんな風に命令されたのは初めてだったので、メルフロウはぽかんとしていた。

 その手をエルセティアが握ると引っ張った。

「行こ行こ!」

 メルフロウはよく分からないが彼女に従った。

 ティアは森に入ると枯れ枝を集め始めた。

 ぼうっとしているメルフロウを見て彼女は言った。

「どうしたの? 薪よ」

「薪って……それでいいの?」

 彼にとっての薪とは暖炉にくべられている、斧でかち割った太い木の棒のことだった。

「いいに決まってるじゃない!」

 彼女がいいというのならいいのだろう。そこで彼は言われるままに枯れ枝を集めた。

 二人が両手いっぱいの枯れ枝を持って浜に戻ると、ティアの兄が石を組み上げた竈をちょうど作り終えていた。

「こんなんでいい?」

「ああ、十分だろ」

 彼は二人から枯れ枝を受け取ると竈の中に組みあげた。

「ちょっと離れててな」

「うん」

 それを聞いてティアがメルフロウの手を引く。

「近いと危ないのよ」

「どうして?」

「お兄ちゃん下手くそだから」

「うるさいな」

 言われるままに下がると、彼は竈から少し離れた所に立って手を差し伸べじっと意識を集中し始めた。

「お兄さん、魔法が使えるの?」

「うん。下手くそだけど」

「うるさい! 集中しないとだめなんだよ!」

「あはははは」

 メルフロウの知っている魔法使いは火なんて一瞬でつけていたが、彼は確かにティアの言う通りで、火がついたのはしばらく経ってからだった。

 二人が焚き火の側に行くと、革ボウルの中にワタの抜かれた魚が何匹か入っていた。

 兄はティアにそれを示して言った。

「で、お前本当に焼くんだな?」

「もちろんよ。もうできるもん」

「わかった。じゃあ仕掛け見てくるから」

 そう言って彼は岩場の方に行ってしまった。

 メルフロウはボウルの中の魚を見つめた。

「これ、どうするの?」

「焼くのよ?」

 そう言ってティアは魚に塩をふりかけると長い棒を差し込んだ。メルフロウはまん丸な目でそれを見つめていた。

 魚と言えば皿に乗って出てきたり、パンに挟まっていたりする物体でしかなかった。一応知識としては元は水の中を泳いでいることは知っていたが……

「それで食べられるの?」

「もちろんよ?」

 ティアは自信満々の表情で、魚が炎に入るように砂浜に突き刺した。

 すぐに魚の焦げる臭いがぷうんと漂ってくる。

 その途端にメルフロウは随分お腹が減っていたことに気がついた。

「黒くなってるね」

「もういいかしら」

 ティアは魚を焚き火から取りだした。丁度そのとき彼女の兄も戻ってきた。

「もう一匹かかってたぜ。余ったら持って帰ろう……え? もう焼けたのか?」

「見たら分かるでしょ?」

「ちょっと早すぎるだろ?」

「そんなことないわよ」

 兄は不審そうな目つきでティアを見つめる。

 ティアはむっとした顔になる。

「なによ! 焼けてるって! ほら!」

 それから彼女はやにわに黒く焦げている魚にかぶりつく―――だが次の瞬間、眉をひそめると泣き出しそうな顔になった。

「辛っ! それに中が生……」

 途端に兄が爆笑した。

「だははははは! 塩は落とせよ。それにお前、どうせまた火の中に突っ込んでたんだろ? だから言ったじゃないか」

「だって……」

 ティアは泣いているとも笑っているともつかないおかしな顔だ。

 その表情を見てメルフロウも我慢できなくなった。

「あははははは」

「ほら見ろ。ちびフロウにも笑われてるし」

「いじわる! 大嫌い!」

 それを聞いてメルフロウはどきっとした。笑ってはいけなかったのだろうか?

 だがティアの兄はそんなことは全く介さず、代わりにティアの頭をぐりぐり撫でる。

 それからすすけた薬缶をティアに差し出す。

「はいはい。分かったからほら。水汲んでこいよ」

「いーっだ!」

 そう言いながらティアは近くの小川の方まで行ってしまった。

 その間にティアの兄は正しい位置に魚を立てながら言った。

「おまえ、こういうの初めて?」

 メルフロウは黙ってうなずく。

「こいつはこんな感じで、火に近づけすぎないように立てとくんだよ。そうするとじっくり中まで焼けるんだ」

 メルフロウは再びうなずいて、ぱちぱちとはぜる焚き火を眺めた。

 不思議な気分だった。

 単に火が燃えているだけなのに、何でこんなに心が躍るのだろうか?

 それから戻ってきたティアを含めて焚き火を囲んでいろいろな話をしながら、今度はちゃんと芯まで焼けた魚と、同じく焚き火で炙ったパンとチーズを食べた。

 それは今まで見た中では最も粗末な食事だったが―――なのに今まで食べた中で最も美味しい食事だったのも間違いない。

 その午餐が丁度終わった頃、ハルムートが彼らを発見した。

 メルフロウの姿を認めたときの彼は泣きそうな顔をしていた。

 彼のそんな顔を見たのは初めてだった。

 それからハルムートがティアの兄に色々尋ねていたが―――それで初めて彼の名前がフィンということを知ったのだ。

 その日の別れ際にティアが言った。

「ねえ、フロウ。また来れる?」

「え?」

「あたし達もうしばらく山荘にいるし。明日また来ない?」

 メルフロウはじっとハルムートの顔を見る。

 彼は来たかった。でも彼はどう言うだろうか?

 ハルムートはじっとメルフロウの顔を見て、それから尋ねた。

「今日は楽しかったですか?」

 フロウはうなずいた。

「ならばお父上には黙っておきましょう。でも今度は私と一緒ですよ?」

「うん! ありがとう! 大丈夫だよ。来られるよ」

 メルフロウがそう言って振り返ると、エルセティアの顔にも満面の笑みが浮かぶ。そして……

「きゃあ! じゃあまた明日ね!」

 そう言うといきなりほっぺにキスをしてくれたのだ。

 !!

 顔が熱くなった。

 その日の帰り道は、今までになく心が晴れやかだった。

 こんなに楽しかった日は、生まれて初めてだった。

 その夏、それから何度もメルフロウはティア達と遊んだ。

 二回目以降はハルムートも一緒だったが、そのせいで余計に面白いことになった。

 なぜなら彼は魚の釣り方や罠の仕掛け方、捕まえた獲物を野外で料理する方法などについて、フィンよりもずっと詳しかったからだ。

 そのためフィンとハルムートは意気投合してしまい、メルフロウは気兼ねなくティアと遊ぶことができた。

 最後の日もそんな感じだった……

 その日彼らはトネリコの丘に来ていた。

 来る途中にメルフロウは、ハルムートに教えてもらった弓でウサギを仕留めてきていた。

 そのためフィンとハルムートがごちそうの準備にかかりっきりになっている間、メルフロウとティアは丘の上に登っていたのだ。

 あたりは花が咲き乱れている。

 丘からは銀の湖が一望の下に見下ろせる。

 さわやかな風が肌を撫でていく。

 だがそんなに気持ちのいい日なのに、ティアは少し浮かない顔だった。

 その頃にはメルフロウにもティアの表情とか癖がよく分かるようになっていた。

 そこで何か心配があるのかと尋ねてみると、ティアは答えた。

「あたし達、来週帰らなきゃならないの」

 それは彼にとってもショックだった。

「えっ? そうなんだ……」

 言われてみれば当然だった。

 彼らは街から来ているのだから夏が終われば帰っていく。

 暗い顔になったメルフロウにティアが言った。

「フロウはいつまでこっちにいるの?」

「ずっと」

 そう言って首を振るメルフロウを見て、ティアはびっくり顔になる。

「街に、帰らないの?」

「うん。ここに住んでるから」

「そうなんだ……じゃあまた来るわ。来年も、再来年も」

「うん……ありがとう」

 冬の間またひとりぼっちになることを考えると心が重かった。

 笑わない彼を見てティアが尋ねた。

「どうしたの? どこか痛いの?」

「ううん……ティアとずっと一緒にいられたらいいのになって思ったから」

 もちろん彼はその言葉の意味以上のことは考えてもいなかった。

 だがそれを聞いた瞬間、ティアがぼっと赤くなった。

「え? それって、それって、あたしをお嫁さんにしてくれるの?」

「ええ?」

 驚いてメルフロウはティアを見る。そんなつもりで言ったのではなかったが―――でもそう取られてもおかしくはない……

 しかもそれが全然嫌ではなかった。

「そんなこと……できるのかな?」

 彼は半信半疑だったが、ティアは自信ありげに答える。

「できるわよ。そりゃ今は小さいからだめだけど、もっと大きくなったら」

「そっか……そうだよね」

 彼女が自信ありげだったからといってそれが全然あてにならないことは、もう何度も身にしみて分かっている。

 でも今はそれが本当になるような気がした。

「じゃ、約束よ!」

 ティアは丘の頂の大きな木の下にメルフロウを誘った。

「このトネリコの木に約束を刻んだら、守らないといけないのよ?」

「これ、トネリコなの?」

「トネリコの丘の上に立ってるんだからトネリコなのよ?」

 彼女のこういうところは間違いなく怪しいが―――少なくともそれは立派な木だった。

 二人は木の幹に彼らの名前を刻みつけた。

 刻みつけられた名前を見て二人は笑う。

 それからティアはメルフロウの頬にキスをした。

「今は子供のキッスね。ほら、お返し、お返し!」

「うん」

 メルフロウはエルセティアの頬にキスを返す。

 ちょっと汗の味がした。

 これが大人のキッスならどんな味がするんだろう?―――そんなことを思ったときだ。丘の下から声が聞こえた。

「おーい! ウサギが焼けたぞ!」

 フィンの声だ。途端に二人はお腹がぺこぺこなことに気が付く。

「今行くから! フロウ! 競争よ」

「ようし!」

 二人は駆け出した。

 その日のランチも最高だった

 ―――だがそれが彼らの最後の午餐になってしまったのだ。

 その晩のことだ。

 ハルムートが暗い顔でやってきて、もう彼らとは会えないと言った。

 理由を訊くと彼は父親の命令だと答えた。

 メルフロウはそれ以上言い返すことができなかった。

 彼らとはそれっきりになってしまった。

 そのとき初めて彼はティアとフィンがどこの誰かということも知らないことに気がついた。

 彼らとつながる糸は断たれてしまった。

 少なくとも彼はそう信じた。

 一晩まんじりともせず泣き明かしたというのも生まれて初めてだった―――


 気づくと頬が涙に濡れていた。

《また……ですか?》

 彼女に関わるとどうしてこうなってしまうのだろう?

 あの夏の日々のことは今でもよく夢に見る。

 だがいつもその光景はなぜか儚く、手に届きそうで届かない。

 行き着けたと思った瞬間、彼はいつもの豪華なベッドの中で目覚めるのだ。

 だが今回は違った。

 違ったはずだった……

 今度こそ取り戻すことができると思ったのに……

 メルフロウは立ち上がり、泣きはらした目で窓際に行った。

 特に理由があったわけではない。

 庭はもうおおむね片づいており、いつも通りの光景を取り戻しつつあった。

 そのとき、正門前に一台の馬車が停まるのが見えた。

 誰が来たのだろうか?

 目をこらして見ていると馬車から人影が降り立った。女性のようだが―――何故か敷地内に入ってこようとはせず正門のあたりをうろうろしている……

《どうしてあんなところで?》

 客だったら屋敷の玄関まで馬車を乗りつけてくると思うのだが―――そのとき彼は思い出した。


《いや、あのドレスは⁈》


 あの淡いグリーンのドレスには見覚えがある!

 それに気づいた瞬間、彼は駆け出していた。

 メルフロウは驚く侍従達を後目に、全力で邸内を駆け抜けた。

 履いていたのは部屋用のスリッパだったので、走っているうちに脱げて裸足になってしまった。

 だがそんなことは全く気にならなかった。

 今ここで彼女を逃してしまったら、もう二度と会うことができない―――そんな気がしたのだ。

 メルフロウは息を荒げて正門にたどり着くと、あたりを見回した。彼女は⁈

《いた‼》

 エルセティアは門から少し離れた所でうずくまって顔を覆っていた。

「ティア!」

 メルフロウは叫びながら彼女に向かって走った。

 エルセティアが顔を上げる。

 彼女の顔も涙に濡れている。

「フ、フロウ!」

 たどり着いたメルフロウは何か言おうと思ったが、息が上がって声が出ない。

 しばらくはあはあと深呼吸した後、やっとの事で言葉を絞り出した。

「よくぞ……よくきて下さいました!」

 メルフロウはエルセティアの手を取ろうとする。

 だが彼女は手を出そうとして慌てて引っ込めると、またうつむいてしまう。

「いえ、あの、あたし、その……ちょっと通りがかっただけで」

 ちょっと通りがかるって? 彼女は何を言っているのだ?

「ティア?」

「あの、あたし来てよかった?」

「いいも何も、招待したのは私ですよ?」

「う……でもその……」

 彼女はどうしたというのだろうか?

「顔を上げて下さい。ティア。悪かったのはこっちなのですから」

 だがそう言ってもエルセティアはうつむいたまま鼻をすすっている。

 どうしてなんだろうか?

 それともあのときのことをまだ気にしているのだろうか?

 そこでメルフロウは言った。

「叩かれたことはもう気にしていませんよ?」

 ところがそれを聞いた途端、彼女はびくんと頭を起こすとメルフロウの顔をじっと見て、今度はぺこぺこと謝り始める。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 もう訳が分からない。

 メルフロウはほとんど衝動的に彼女の肩を抱いた。

 それから耳元ではっきりと囁いた。

「もう怒ってませんから。ティア」

 エルセティアはぴくっと彼の顔を見る。

 顔と顔がほとんどくっつきそうな距離にある。

「さあ、中へどうぞ」

 メルフロウがエルセティアの手を取ると、彼女はほとんど操り人形のように立ち上がって彼に従った。

 屋敷に戻った二人を侍女のルウがまん丸な目で迎えた。

 何しろエルセティアの顔は涙でぐしょぐしょだし、メルフロウは裸足で土まみれだ。まず顔と足を洗う所から始めなければならなかった。

 その騒ぎが終わってやっと一息ついたときにも、エルセティアは相変わらずぐすぐす泣いている。あれではせっかく洗って直した化粧もまた剥がれてしまいそうだ。

 メルフロウはふと思いついて、苺を盛った小鉢を取り上げると彼女に差し出してみた。

「ティア」

 えっといった表情で彼女が振り返り、メルフロウが手にしている物を見た途端に、笑みが浮かびそうになる。

「これ、好きだったでしょう」

 メルフロウはそう言って微笑んだ。

「え、ええ……」

「いかがです?」

 エルセティアはメルフロウの顔と苺の小鉢を何度かみてからそれを受け取った。

「ありがとう……」

 彼女は黙って苺を口に入れる。

「前も泣きそうなときにはこれが一番でしたね」

 途端にエルセティアはその苺のように真っ赤になった。

「い、意地悪!」

 メルフロウは吹き出した。

 ま・る・で昔のままだ‼

 小鉢の苺を全て食べ終える頃には、彼女はすっかり落ち着きを取り戻していた。

 それからやっと自分がどこにいるか気づいた様子であたりを見回す。

「えっと、その、他の人は?」

 二人がいたのは大きなバルコニーのあるホールだった。

 きれいに飾り付けられていて立派なごちそうが用意されていたが、他に客は誰もいなかった。

「みんな帰してしまったのです」

「ええ? どうして」

「これは、あなたに来てもらうために開いたものですから……」

「ええ? でも、だって……」

「招待状がかぶるなんて思ってなかったのです。すみませんでした……お兄様に聞いて初めて気づいたのです。まさかカロンデュールがあなたを招待するなんて思っていなくて……ただ気づいておくべきでした。あのときの様子を見れば……定例の園遊会の日時が重なっているというのは誰でも知っていることだったのに」

 エルセティアは黙ってうなずいた。

「でも信じて下さい。私は本当にもう一度あなたと会いたかったから、それからあの約束を破ったことを謝りたかったから、あなたをお呼びしたのです」

 エルセティアは再び黙ってうなずいた。

 両者の間に気まずい沈黙が流れる。

 こういう場合どうすればいいのだろうか?

 そういえばまだ陽は高い。園遊会というのは大抵日暮れまで続くものだが?―――メルフロウはあまり深く考えずに尋ねた。

「それであちらの園遊会はもう終わったのですか?」

 途端にエルセティアの目からまた涙がこぼれ落ち始めた。

《ええっ?》

 メルフロウは慌てて彼女にハンカチを差し出す。

 一体どうしたというのだ?

「あの、何かあったのですか?」

 だがエルセティアは黙って唇を噛む。

 何なんだろう?―――理由が知りたかったが、無理矢理聞き出していいのだろうか? こんなに辛そうなのに……

「辛ければ無理にとは言いませんが……」

 だが途端にエルセティアが首を振った。

「だって、だって、普通絶対そう思うでしょ? 絶対からかわれてるって思ってたんだから。だから、だから……」

 堰を切ったようにエルセティアは話し始めた。


 ―――その日屋敷を出るときはエルセティアの魂は赤々と燃えていた。前の晩まで悩んでいたのが嘘のようだ。

 考えてみたら当たり前だ。ダアルの家のベルガ・カロンデュールといえば名門中の名門の一族の跡取りで、なおかつ大皇の第二継承者だ。そんな彼がどうして彼女なんかを相手にすると思ったのだ?

 しかも彼には既に許婚もいる。マグニ一族のキャルスラン姫だ。

 マグニといえば三大公家の一つだし、彼女を何度か見たことがあるがいかにも深窓の令嬢という感じで彼にふさわしそうだ。

 だとしたら何だ? 決まっているではないか? あの半月亭で大恥をかかされた“お礼”をしてやろうと思っているのに決まってるのではないか?

《要するにこれって、サプライズパーティーなのよね?》

 そう思ったら心は軽かった。

 あのときは悪気があったわけではないが、彼にひどいことをしてしまったのも事実だ。怒って当然だ。ささやかな仕返しをしてやろうと思ったからといって文句は言えない。

 でもそっちがその気なら受けて立つしかない。悪いのはこっちなんだから、まあ煮るなる焼くなり好きにしろ! って感じで……

 そんなことを考えているうちに、馬車はダアルの屋敷の玄関前に着いた。

 さあ、ここからが本番だ。

 エルセティアは深呼吸をすると、下を向いてさも恥ずかしそうに、おずおずといった感じで馬車を降りる。

「エルセティア姫でしょうか」

 出迎えてくれたのはあのときの従者だ。名前は何と言ったっけ……

「お出迎え、まことに恐縮至極でございます」

「いえ、こちらこそ、姫を最初に迎える栄誉を仰せつかりまして」

 形式張った礼を交わすと彼は先だって歩き始める。

 エルセティアはその後に従った。

 彼らがホールに入ると、まだ少し時間が早かったせいかあまり人は来ていなかった。

 ホール内では十人ぐらいが歓談していたが、エルセティアが姿を現すと人々の目がさっと彼女に注がれる。

《ああ、やっぱりね……》

 みんな知っているのだ。心の中で今日の獲物が登場したぞとか考えているに違いない。

 だがこんなところで取り乱してはいけない。

 エルセティアは平静を装いつつあたりを見回した。

《それにしても……》

 今日はダアルの家の定例の午餐だったと思うのだが―――気のせいか物凄く豪華なような……

 テーブルには様々な料理が並んでいる。どれを見ても超一流の料理人の手になるということが分かる物ばかりだ。その中でも特に目を引くのは真ん中にある大きな赤い魚だが……

《あれって海じゃないと獲れない魚じゃないの?》

 アロザールからはるばる専属の魔導師をつけて凍らせて持ってくるという―――それって一体?

 そのとき奥の方からどやどやと人が現れた。その中央にいるのがカロンデュールだ。

「姫、エルセティア姫!」

 彼はつかつかとやってくると彼女の手を取った。

「よくぞ、よくぞお越し下さいました」

「いえ、こちらこそお招きに預かり光栄です」

「そんなことありません。さあ、どうぞ」

 カロンデュールは微笑みかけた。

《ぜ~ったい作り笑いよねっ!》

 心の底ではどう料理してやろうかと舌なめずりしているに違いない―――だがそう思ってもちょっと心がときめいてしまうのは女の子だから仕方がないが……。

《だめだめ! こんなことじゃ!》

 エルセティアは心に活を入れる。こんなところで敵の術策にはまってどうする?

 ―――などと考えていたら、いきなり取り囲まれているのに気がついた。

「エルセティア姫、こちらはみんな初対面でしょう?」

「え、ええ」

 どうやら一族の面々のようだが……

「それでは紹介します。彼が僕の叔父のファルレニンです……」

 それからカロンデュールは家族の紹介を始めた。

 普段ならば名前を聞くだけで蒼くなりそうな人ばかりだ。

 だが彼女は何とかそれを乗り切った。どうせこんなことはこれが最初で最後なのだ。だったら楽しまなければ損だ。少々恥をかいた所でそれでおあいこなのだから……

 そう思ってはいてもやはり彼女は楽しめなかった。

 もちろん料理は最高だし飾り付けも音楽も文句なしなのだが、何か場違いなのだ。

 みんなの言葉遣いは優しいのだが、何か敵意があるというか、ちょっと嫌な雰囲気だ。

 サプライズパーティーだとしても何か少し段取りが違ってるのでは?

「姫! さあ、どうぞ。召し上がって下さい!」

 その中でカロンデュールだけは違った。彼の言葉だけが素直に好意を感じさせた。

 半月亭でもそうだったのだが、彼は見るからに素直で腹に一物あるようには見えないのだ。

 彼の笑みを見ると彼女をからかったり虐めようとしているようには見えない―――もしそうなら物凄い役者だが……

 エルセティアは段々調子が狂ってきた。

 そんな彼女にカロンデュールが言った。

「エルセティア姫」

「え? はい……」

「今日は半月亭の時みたいに多弁ではありませんね」

 ぶっ!

 エルセティアは口にしていたソーダでむせてしまった。

「大丈夫ですか?」

 咳き込む彼女に彼はハンカチを差し出す。

《いきなり、もう……》

 といいつつあまり文句も言えない。

「ど、どうもありがとう。あはははは」

 彼女がちらっと周りを見回すと―――みんなが見ている。あの視線は……

 それに気づいてカロンデュールが言う。

「ドレスが汚れたら大変です。それより庭に出て見ませんか?」

「え、ええ」

 一も二もなく彼女はそれに従った。

 屋敷の庭も立派だった。

 綺麗に刈り込まれた木立の間に小川が流れていて、その間をぬって小径が続いている。

 二人はしばらく無言でそこをたどった。

《何? この雰囲気?》

 あたりには誰もいない。彼と二人きりだ―――これってまるで恋人同士みたいではないか? 彼は一体どういう意図でこんなことを?

 エルセティアは歩きながらちらちらとカロンデュールの方を見る。

 だが彼は黙って前を見ながら歩き続ける。これでは間が持たない。

 エルセティアはついにしびれが切れた。

「カロンデュール様……」

 彼女が問いかけると彼は振り返って答える。

「デュールと呼んで下さい。姫」

 まるで真剣なその表情にエルセティアは一瞬気後れしたが、もうどうにでもなれといった感じで問いかけた。

「あの……今日はキャルスラン姫はいかがなされました?」

 それは彼のツボをついたようで、カロンデュールはびくっと立ち止まって固まってしまった。

 まあいい。そちらが仕掛けてこないなら、こちらから行くまでだ。

「えっと、このようなところをキャルスラン姫がご覧になったら少々まずくはございませんか?」

 さあどう来る? だがエルセティアの問いにカロンデュールは振り返ると答えた。

「あなたがお気になさることはありません」

 は? 一体彼は何を言っているのだ?

「そうおっしゃいましても、キャルスラン姫はカロンデュール様の許婚ですし……」

 だがそこでカロンデュールはじっとエルセティアの目を見て言った。

「姫との婚約は解消するつもりです」

「えええ?」

 エルセティアは思わず声をあげていた。

「あ、あ、あの……」

 嘘だろう? 嘘に決まっている! ああ! そうか。これが今日のサプライズなのだな? だとしたらここで取り乱してはだめだ!

 だがカロンデュールは真顔で話し続ける。

「皆の様子か少々変だったのにはお気づきになられたしれませんが……昨夜そのことを伝えたからなのです」

 あ、あはははははは! って、いや、ちょっと待て待て! まだ彼は婚約を解消すると言っただけのことだ。そうか! 分かった! ここでまさか自分が⁈ とか取り乱した所に、本物の婚約者が現れるという算段に違いない!

《あは! その手には乗らないからねっ!》

 そこで彼女は精一杯取り澄ました顔を作り、カロンデュールに言った。

「あら、そうなんですの。キャルスラン姫は素晴らしいお方でしたのに……でもそれではどなたと結婚なさるのですか?」

 ところがカロンデュールは明らかに困惑した。

「ええ? ではやっぱり覚えていらっしゃらない?」

「はい?」

 覚えてって一体何を?

 エルセティアはぽかんとした顔でカロンデュールを見返す。

 それを見たカロンデュールは全てを悟ったようだ―――そしていきなり笑い出した。

「あははははは。さすがだなあ」

 何で笑う? 何か言ったとしたらあのときだが―――はっきり言って途中から記憶が曖昧だ。一体何を言ったというのだろう?

 それを見透かしたように彼は言った。

「あのときあなたは僕に好きかと尋ねられました」

 ええええ? そんなことを言ったっけ? いや、言ったような気も―――えええええ?

「その返事をまだお伝えしていなかったと思いますが」

「あ、あの、ちょっと……」

「では、改めて申し上げます。エルセティア姫、私はあなたが好きになりました。あなたと結婚したいと思っています」

 頭が沸騰するというのはまさにこういった気分のことを言うのだろう。

 エルセティアは目の前が真っ白になって、しばらく何も分からなかった。

「姫……」

 気づいたらカロンデュールが心配そうに覗き込んでいる。

「何の、何のご冗談です? あの、お酒を召し上がりすぎでは……」

「今日はまだ一滴も飲んでおりません」

 彼の表情は相変わらず真剣だ。

「ちょっと、ちょっと待って……」

「決して冗談ではありませんよ。白の女王の名にかけて」

 これは―――まさか彼は本気なのか?

 こういう事態は想定外だった。

「で、でも……キャルスラン姫のお立場は……」

「いいのです。これは本人とは関わりなく親が決めたことですから……僕は、ずっとこの家で暮らしてきました。僕の回りはベルガの一族ばかりで……それがどういうことかお分かりですか?」

 エルセティアは首を振る。

「あの日、家でまた少しごたごたがあって嫌気がさしていて、それで噂の半月亭に行ってみたのですが、そこであなたに出会いました。あなたを見て初めて生きた人間に出会ったような気がしたんです……」

 いや、ちょっとそれって大げさなのでは?

 だがカロンデュールはあくまで真面目だった。

「私の回りは、何をするにしても体面と下心なしにはできないような者ばかりです。でもあなたは違った。あなたのように裏表のない人に出会ったのは初めてだった。私に近付く女性はみんなベルガの家名にひかれてやってきます。でもあなたは……そんなこととまったく関わりなく私を見てくれた……」

 それは単に知らなかったからなのだが―――知ってたら多分、どうだっただろう?

「運命とかいった言葉を軽々しく使うのは嫌なのですが……でもあなたに出会えたことを私は心から感謝しているのです。これが僕の気持ちです。嘘偽りはありません。ですからあなたのお気持ちをお聞かせ下さい」

 ああああああ! 一体どうすれば⁈

 ―――だがちょっと考えれば明らかなことだった。

 これは素晴らしい申し出だろう?

 家柄とかそういったことを抜きにしても彼は好青年だし、彼女も彼のことを嫌いなわけではない―――というより好きかもしれない。

 こんなことって―――もしかしたら一生に一度あるかないかの幸運なのでは?

 だがそう思った瞬間、目の前がにじんで見えなくなったのだ。

「フロウ……」

 気づいたら彼女は思わずそうつぶやいていた。

 それから慌てて口を押さえる。何でこんなことを言ったのだ?

 だがカロンデュールはそれを聞き逃さなかった。

 彼はエルセティアをじっと見ると尋ねた。

「フロウとは……お世継ぎのことだったのですね?」

「え?」

「あなたは……メルフロウ殿のことが……?」

 何と言ったらいいのだろうか? 全く言葉が見つからない。

 そう。何の確信もない。

 確かにあの丘で彼らは約束を交わした。

 だがそれは遥か昔の子供同士の約束でしかない。

 世継ぎの君にはアンシャーラ姫という人がいることはよく知られている。

《それに彼は……》

 つい先日彼と再会した―――見違えるように美しくなっていた。

 もう彼はあの少年ではないのだ。

 そう。あの銀の湖の岸辺で一緒に遊んだ小さな少年ではなく―――トネリコの丘で約束を交わしたあの小さいフロウではなく……

 ―――ならば目の前にいるこの人の想いに応えてあげてもいいのでは?

 それなにのなぜか彼女の体は正反対に動いていた。

「ごめんなさい! ありがとう! ごめんなさい!」

 エルセティアは駆け出した。

 ドレスで走るのは難しかったが、何とか転ばずに済んだ。

 ちらっと振り返るとカロンデュールが呆然と立ちつくしているのが見えた―――


 その話を聞いてメルフロウも愕然としていた。

「そうだったのですか……」

「どうしてだったか分からないの。気がついたら来ちゃってて……でもあたし、でも……」

「ありがとう。話してくれて」

 メルフロウはエルセティアの手を取った。

「辛い思いをさせてしまいました」

 エルセティアの目からまた涙がこぼれ落ちる。

 それを拭いてやりながら、メルフロウ自身の胸の奥にも固いしこりのような物ができていた。

《カロンデュールがプロポーズしたというのですか? 彼女に?》

 気まずい沈黙が訪れる。

 こういう場合いったい何と言ったらいいのだろうか?

「それより何か頂きませんか? もうたくさんですか?」

 メルフロウはとりあえず話題を変えてみる。

「え、ええ……少し……」

 それを聞いてエルセティアもうなずいたので、二人は料理のテーブルの方に向かった。

 だがもう料理は冷めてしまっていた。

 メルフロウは侍女を呼び出して、温め直すよう指示をした。

 それから彼はエルセティアにパテを乗せたカナッペを差し出した。

「温まるまでちょっとこれで我慢して下さい。それまで少し外に出ませんか」

「ええ……」

 エルセティアはうなずいた。二人はバルコニーに出た。

 もう日はとっぷりと暮れていた。

 空はよく晴れていて星が綺麗だ。

「そういえばあの夏にも一度こうして星空を見たことがありましたね」

 あれから彼女たちとは何度も遊んだが、一度時間を忘れて遊びすぎて帰るのが遅くなってしまったことがあった。そのときこんな風に二人で星空を眺めたことがあったのだが……

 メルフロウは脇で星空を眺めるエルセティアを見た。

 彼女もあのときのことを思い出しているのだろうか?

 メルフロウはしばらくその横顔を見つめていた。

《私は……どうすればいいのだろう?》

 このままにしておく方がいいのかもしれない。そうするのは簡単だ―――だが……

 今までのように一人きりだったのなら、それにも耐えられたかもしれない。

 だが今は、今こうして彼女が側にいるのだ。

 彼女の息づかいを感じることができるし、彼女の存在を確かめることもできる―――そう思って彼女の巻き毛を撫でると……

「え?」

 エルセティアが驚いたように振り返った。

 メルフロウは慌てて手を離す。

 それからじっと下を向いて考え込んだが、やがて意を決して言った。

「ティア。カロンデュールのこと……どう思います?」

 エルセティアは一瞬どきっとした顔になり、それから下を向いた。

「すごく……いい人だと思うけど」

 その通りだと思う。彼から見てもカロンデュールは好青年だ。

「ならば彼の方が私よりいいかも知れませんよ? もしそうならば今からでも……」

 だがエルセティアはそれを遮った。

「そんなことないわ! あたしフロウが……」

 そこまで言って思わず手で口を覆う。

 だがそれで十分だった。

《そうなんですか? ティア……》

 メルフロウは絶句した。

 いいのだろうか? 本当にいいのだろうか?

「フロウ……あたし……」

 メルフロウが黙りこんでしまったので彼女が心配そうに声をかける。

 彼は顔を上げると小さな声で問いかけた。

「今でも……そうなのですか?」

 エルセティアは目を見張った。


「本当にまだあの約束を信じて……いるのですか?」


 その言葉を聞いた瞬間、エルセティアが凍りつく。

 それからメルフロウの目をじっと見つめる。

 しばらくそうやって見つめあった後―――彼女はふっと目を逸らすと妙に明るい声で言った。

「ごめんなさい! フロウ! ほら、あれって子供のときのことだし」

「ええ?」


「あなたとはお友達でいられたらそれで十分かなって。ね、そうでしょ?」


 そう言ったエルセティアを見て―――メルフロウはがんと殴られたような気分になった。

《そんな……どうして……》

 目の前が真っ暗になる。

 あまりの悲しみに―――メルフロウは逆に腹が立ってきた。

「あなたは……そこまで怒っていたのですか?」

 彼の声は震えていた。

「え?」

 今度はエルセティアがぽかんとメルフロウを見つめる。

 だが彼は感情をもう押し殺せなかった。

「確かに私は約束を破りました。でも、だから私と話をするのも嫌だとそう言うのですか? ならば私はどうすればいいのですか?」

 いきなり激昂したメルフロウを見て、エルセティアが慌てる。

「え? フロウ、どうしたのよ? あたしそんなこと言ってないわ」

「でも『友達でいるのも嫌』なんでしょう?」

 エルセティアはあんぐりと口を開ける。

「どうしてそうなるのよ!」

「それならば目を見て話して下さい! ティア、嘘をつくときの癖は昔のままですね?」

 エルセティアはうっと言葉に詰まった。

「違うの! 違うのよ! そんなんじゃなくって!」

 その表情には嘘はない……

 それと同時にメルフロウの方もエルセティアの嘘のもう一つの側面に気がついたのだ。

 確かに彼女が『友達でいたい』と言ったのは嘘だったのだが……

「ということは?」

 エルセティアの目が再び涙でにじむ。

 そうか? そうなのか⁈ 彼女はやはり待っていてくれたというのか? こんな自分を……⁇

 メルフロウはもう衝動を抑えることができなかった。

「ティア!」

 いきなり彼女の肩に顔を埋めるとそのまま囁いた。

「ティア……私は、私は最初からずっとあなたと一緒にいたかったんです。でもそうするとあなたが不幸になってしまうと思った……」

「フロウ?」

 もうその想いを心の底に閉じこめておくことはできなかった。

「あなたには幸せになって欲しかった……ずっとそう思っていました……だから……だから……でもあなたと一緒にいたかった……でもそうすると……」

「フロウ、フロウ!」

 エルセティアはメルフロウを押し離そうとするが、彼は彼女の服の袖をしっかり握って離さない。

「だから今日きっぱりと片をつけようと思ったのです。あなたがあの約束を忘れていたなら、私もきっぱりと忘れてしまおうと……でもあなたはティアだった……私の思っていた通りの……私にはもう勇気がない……」

「フロウ! ねえ、どうしたのよ」

 途端にメルフロウが顔を起こし、エルセティアを正面から見据えた。

「あなたが忘れていてくれればよかった!」

「どうしてそんなことを……」

 エルセティアはその言葉に愕然とするが、そのときメルフロウはエルセティアをしっかりと抱きしめていた。

 そして彼女に言った。

「ティア。私と、私と一緒にいてください!」

「ちょ、ちょっと……」

 メルフロウは再び体を離すと、もう一度彼女の顔を正面から見ながら言う。

「ティア、私とずっと一緒にいて下さい!」

「フロウ……」

 エルセティアの目が潤む。

 それから彼女は黙ってうなずくと、目を閉じた。

 気づいたときにはその唇に自身の唇を重ねていた。

 時が止まった。

 どれほどそうしていただろうか……

「フロウ……」

 気づくとエルセティアが泣いているような笑っているような不思議な表情で彼を見つめている。

 それを見たメルフロウはつい正直な感想を言ってしまった。

「大人のキッスって……パテの味がするんですね」

 ………………

 …………

 ……

 二人は同時に爆笑した。



 そこまで話したところでメルファラはふっと一息つくとあたりを見回した。

 そろそろ日も傾きかかっている。

「続きは帰ってからに致しましょうか?」

 アウラがうなずくと、彼女は遠くに控えていたパミーナに合図を送った。

 それと共に一行は帰り支度を始めた。