第4章 ハネムーン
船は真っ白な帆を掲げて銀の湖の水面を滑るように走っていく。
空はどんよりと曇っていて風が冷たかった。
「あそこです」
メルファラの指した方をアウラが見ると、小さな島が見えた。
「別邸ってあの島にあるの?」
「いえ、島に見えますが陸続きなんですよ」
「そうなんだ」
昨日に引き続き今日もアウラはメルファラに引き回されていた。
今は彼女たちがハネムーンをした思い出の別邸に案内すると言って、こうして船に乗っている。
アウラはあまり船が得意ではなかったので本当は辞退したかったのだが、話の続きには興味があった。
だが少し波があるせいか、少々気分が悪くなってきていた。
その様子に気づいてメルファラが言った。
「もしかしてお気分が?」
「……うん。ちょっと」
「もうすぐ着きますわ。それまでできるだけ遠くを眺めていらっしゃいな」
「うん……」
それから彼女は島の対岸に広がる森を指さした。
「あのあたりはベルガ一族の狩り場なんですよ。だから通常は立ち入り禁止になっていて。狩りが行われるときだけは賑やかになるんですが……でもそう頻繁に行われるものではありませんから、このあたりはいつも本当に静かなんです」
「ふうん」
「だから二人で夏をゆっくりと過ごすにはとてもいい場所でした」
そうこうしているうちに船は半島の桟橋に着いた。
固い地面に足を付けられてアウラは少しほっとした。
メルファラは先だって砂浜沿いの道を歩き始める。
彼女に付いていくと程なくベルガの別邸が現れた。昔のアウラなら豪邸と感じたかもしれないが、これまでの建造物を見てきた後はとてもかわいらしく見えた。
《このくらいの家がいいわよね……》
フィンとの旅の途中、戻ったらどこかに屋敷を構えて住むことになるだろうという話が何度も出ていた。そうなったらどんな家がいいかと彼に訊かれていたのだが、アウラとしてはそんな生活を考えたこともなかったので、さっぱりイメージが湧かなかったのだ。
だがこの別邸みたいな感じなら何となく楽しく住めそうな気がする―――そんなことを思いながら屋敷を眺めていると、メルファラが手を振っているのが見えた。
アウラは慌てて彼女の後を追う。
屋敷に入ると中はもう暖かく、滞在の準備は万端のようだった。
「へえ……」
屋敷の中も地味で落ち着いた感じだ。メルファラはアウラを二階の一室に案内した。
「ここが私とティアがあの夏を過ごした部屋です」
「うわあ……」
部屋はそれほど広くはなかったが、大きな窓からは素晴らしい光景が見渡せる。
銀の湖の湖面とその先の大森林。それに天気が良ければ雪を頂いた峰々も見えそうだ。
「気分は如何ですか? 昼食はどうしましょう?」
「え? もう大体大丈夫です」
「でしたらこちらに持ってこさせましょう」
メルファラはにっこり笑うと後ろに控えていたパミーナに合図をする。彼女は小さくうなずくと部屋の外に消えていった。
「いい景色でしょう?」
「うん」
「でも、ハネムーンといっても、私達は何をするというわけではなし、二人っきりでただ引き籠もっていたらやっぱり見飽きてしまうんです」
彼女は笑った。
「え? うん」
アウラは曖昧に同意した。
「だから私達はティアの家族や友達を呼んで、浜辺でバーベキューパーティーを行ったりしたのです。それは本当に楽しい一時でしたが、その分終わったらますます寂しくなってしまって―――そんな日のことでした」
メルファラは語り始めた。
さわやかな夏の風が湖面から吹き渡ってくる。
メルフロウとエルセティアは別邸のバルコニーでぼうっと景色を眺めていた。
「あーあ」
エルセティアが大きなあくびをする。
二人の盛大な結婚式から十日ほどが経っている。
結婚を決めてから式までの間は目が回りそうな忙しさだった。
普通ならもう少しゆっくりと準備するものなのだが、現大皇の体調が思わしくないこともあり、まだ元気であられるうちに挙式してしまおうということになったのだ。
まあそのせいでこんな夏の一番いい季節にハネムーンができたわけなのだが……
喧噪を離れてやっとゆっくりできたときには二人は心底ほっとした―――だがそうなったらなったで今度はすぐに退屈してしまうのだ。
聞けばハネムーンとはまともな夫婦にとっては最高の思い出になるそうなのだが―――二人ともそれについての細かいことをよく知らなかった。少なくとも女同士ではどうしようもないということしか……
だから結局、遊んだり話したりするしかないのだが、どうしても二人だけだとそのうちネタが尽きてしまうのである。
そこで一昨日から昨日にかけてエルセティアの家族や友達を呼んでパーティーをしたのだ。
最初に浜辺でバーベキューパーティーをしようと言い出したのはメルフロウだった。あの夏の日、砂浜で焼いた魚の味が忘れられなかったからだ。
実際、今回もそれに匹敵する体験だった。
メルフロウの家ではそんなホームパーティーが行われることはなかった。
そこでのパーティーといえば正式に招待状を出して正装して行う晩餐という意味なのである。だがエルセティアの実家では結構こういったパーティーをするという。
『まあ、うちの場合、母上も平民上がりだったりするし、内弟子の人なんかも大抵がそうなんで、これが普通なんですよ』
一緒に来ていたフィナルフィンにそのことを尋ねたら、笑いながらそう答えた。
「ええ? そうだったの?」
アウラは驚いて訊き返していた。
「え? お聞きになっていませんでしたか?」
「うん」
アウラはうなずいた。
このあたりの話は全然聞いていなかった。
フィンは昔のことを自分からはあまり話そうとしなかった。前に一度そんな話が出たときは、今回の旅の最後に都に寄るから、そのときまでには話すと言っていたのだが……
でも彼女は元々他人に過去など気にならない質だったし、それならばそのときでいいだろうと思っていたのだ。
その旅があんな形で中断された今、あのときにもっと訊いていればと後悔していたのも事実だ。そんな彼の忘れ得ぬ人“ファラ”とはどういう人だったのだろう?
その疑念が昂じてこうして都まで来てしまったのだが……
そして何の因果かその“ファラ”が目の前にいて、彼らの過去の話をしてくれているのだ。
「ティアやフィンの父君にあたるパルティシオン殿が囲碁の名手だということはご存じですよね?」
「え? うん。だからフィンはアイザック様とよくやってたけど」
「パルティシオン殿は幼少の頃から碁がお強くて、今のあなたくらいの歳では都では向かう所敵なしだったそうです。そこでもっと強い相手を捜して、しばらく諸国を放浪されたとか」
「ええ? そうなんだ」
アウラはまた驚いた。
「そしてその旅から戻られたとき一緒に付いて来られたのが、ティアの母君であるウルスラ様でした。彼女はある地方領主のお館の侍女だったそうですが、パルティシオン殿が一目惚れされたそうで。でも彼女もお館様のお気に入りだったので簡単には許しが出ず、そこで彼女を賭けて勝負を行って見事勝ち取られたとか」
「勝負って……碁で?」
「もちろんです」
メルファラは笑った。当然といえば当然だ。フィンを見てもその父親の腕っ節が強いというイメージは湧かないわけで……
「その旅の間にパルティシオン殿はあちこちで名を挙げたらしく、各地から彼に弟子入りを志願する者がたくさん現れました。そういった方々を内弟子として屋敷にお住まわせになっておられるのです」
「へえ……」
アウラは随分フィンと一緒に暮らしてきたと思っていたが、色々知らないことだらけだ。
「ともかくそんなわけで、本当にアットホームな楽しい一時でした……」
メルファラは話を続けた。
前日までが楽しかっただけに、今日はますます寂しく感じられた。
「何か食べますか? ティア」
「さすがにさっき食べたばっかりだし……」
「そうですね」
ここに来てからずっとこんな調子だ。
適当にお喋りしては何か食べて、飽きたら散歩して、それに疲れたら昼寝をして、起きたらまたお喋りして……
メルフロウは湖を眺めた。
いい天気だ。だったらまた遠乗りに行くのはどうだろう? 彼女もエルセティアも乗馬は得意だし大好きだ。
「じゃあまたどこかに行きますか?」
だがエルセティアあ遠くの方を指さした。
「でもあれって?」
彼女が指した方を見ると、対岸の森の中から煙が一条立ち上っている。
「狩り……ですか?」
「そうみたい……」
そういえばこの間、近々大がかりな狩りがあるとハルムートが言っていたような気がするが、それが今日だったのか……
「これでは出かけられませんね……」
メルフロウとエルセティアは顔を見合わせて溜息をついた。
二人はまたしばらく無言で遠くの景色を眺めていた。
メルフロウはふと思いついてつぶやいた。
「お茶会とか……もう遅いでしょうか?」
「遅いって?」
「リアンさんとかエイマさんを呼んでというのはどうでしょう?」
エルセティアがちょっと驚いた顔になる。
「今から?」
「よくこんな風に思いついてお茶会をしてたって言ってませんでしたか?」
「うん。まあそうだけど……」
「すぐ使いをやれば午後には間に合うかもしれませんし、遅くなれば泊まっていって頂いても……」
エルセティアは首をかしげた。
「ちょっとどうかしら……それにあたし達だけで? あの子達、火を噴いちゃうんじゃないかしら」
「火を噴くって?」
ぽかんと訊き返すメルフロウの顔を見てエルセティアは吹き出した。
「だってお世継ぎの君と面と向かってのお茶会なのよ?」
「でも昨日も一緒でしたし、あんなに楽しそうでしたが?」
バーベキューのときには二人とも大盛り上がりだった。最後はうっかり灰をかぶって真っ白になったりして、みんなで爆笑したものだが……
「でもほら、周りは大体がうちの人だったし。うちのパーティーみたいだったから……ほら、最初に握手したときなんて、こんな風にかちこちだったじゃない。エイマはともかく、リアンまで」
エルセティアはそのときのリアンの物まねをして笑った。
そのときのことはよく覚えていた。
メルフロウは溜息をついた。
「私はバシリスクか何かですか?」
「そんなことないわよ! フロウが綺麗すぎるからよ」
彼女が真顔でそんなことを言うので、メルフロウは少しばつが悪くなった。
そこで彼女は話題を変えた。
「それにしてもリアンさんはとても話題がお広いですね」
エルセティアは大きくうなずいた。
「広いっていうのか、もう、全ての噂はリアンに通じる、みたいな? あの子が知らないゴシップなんてないんじゃないかしら」
「彼女たちとお話しできると楽しそうなんですが……」
「そりゃみんなだって絶対喜ぶと思うけど……ただもうちょっと間をおいた方がいいかもって」
そう言って彼女はうつむいた。
「どういうことです?」
彼女が尋ねるとエルセティアは顔を上げる。
「いえ、ちょっとね。その、あの子たち、あたし達に何かあったんじゃないかって心配してたみたいで……」
メルフロウには彼女の言葉の意味が良く分からなかった。
「何かとは?」
「……例えば、喧嘩して二人でいるのが辛くなったから呼んだんじゃないかとか勘ぐってるみたいなのよ」
「ええ? 私達が喧嘩なんてしてないことは分かったと思いますが?」
「そうだけど……やっぱりハネムーン中っての、ちょっとまずかったのかなって。普通はその、ずっと二人きりじゃない? ハネムーンって……」
メルフロウは考えた。確かにそういう話は聞くが―――だが彼女を退屈させたくなかったからあのパーティーを企画したのだ。それがいけなかったのだろうか?
二人はしばらく首をひねっていたが、考えても分からない物は分からない。
さあっと音がして湖からの風が吹き抜けていった。
「ああ、いい風」
エルセティアはそう言って大きく伸びをした。
「そうですね」
メルフロウもそれにつられて伸びをする。
「フロウ! ちょっとちょっと」
「何ですか?」
「見えちゃうわよ」
エルセティアがメルフロウの胸元を指さした。
普段はかっちりとした胸当て付きのコルセットを着用しているので問題ないのだが、今は二人きりなのでゆったりとしたローブを羽織っているだけだ。そこに大きな伸びをしたせいで胸元がはだけかかっている。
「誰も見ていませんよ?」
「そういう問題じゃないのよ」
エルセティアはメルフロウのローブの襟を直した。
そんな彼女を見ながらメルフロウは言った。
「ティア、あなたいい奥方になれますよ」
エルセティアは少し赤い顔でメルフロウを睨んだ。
「どうしました?」
「どうしましたじゃないでしょ? もう……まったく」
それからエルセティアは溜息をつく。
「えっと、ティア?」
メルフロウは彼女がなぜそんなことを言うのか良く分からなかった。
そんな表情を見てエルセティアは苦笑いしながら答える。
「だからね。女の子ってのはもっとこう……」
だがそう言いながら、エルセティアも言葉に詰まってしまう。
「でもフロウってあたしの旦那様だし……ああ! もう良く分からない!」
メルフロウはおぼろげながら彼女が何に悩んでいるのか分かってきた。
「ティア……ごめんなさい」
「どうして謝るのよ?」
「私が本当に男だったら良かったのですが……」
エルセティアは大きく首を振る。
「それはもう言いっこなしでしょ? そりゃね、ほら、旦那様の方が胸が大きいっていうのはちょっとあれだけど」
「すみません。でも……」
エルセティアは更に弁解しようとするメルフロウの胸に顔を埋めた。
「あなたが謝らなくたっていいんだって」
彼女はメルフロウの頬に軽いキスをした。
それから再びローブの隙間から垣間見えるメルフロウの胸の谷間をじっと見つめてつぶやいた。
「でも……もったいないわよねえ」
「何がですか?」
「何がって……」
エルセティアはメルフロウをまじまじと見つめた。
「どうしたんですか? ティア。何かついていますか?」
「いえ、そうじゃなくてね。ちょっと……」
「ちょっと?」
エルセティアは再びメルフロウの全身を眺める。
「その……ねえ、フロウ。あなたドレスとか着てみたことある?」
「え? ありませんが?」
「ないの? 一度も?」
「ええ……」
メルフロウはうなずいた。
ドレス?―――言われてみれば自分は女なのだからそういう服を着て悪いわけではないのだろうが……
エルセティアはメルフロウの前に立った。
身長はメルフロウの方が少し高いが、体格はそれほど違わない。それを確かめると彼女がニコッと笑って言ったのだ。
「ねえ、じゃああたしの服、ちょっと着てみない?」
「ええ?」
「着たことないんでしょ? 着てみたいって思ったことない?」
「あまり考えたこともありませんでしたが……」
だがドレスを着たエルセティアはとても可愛いと思った。
それではその衣装を自分で着てみたらどんな気分になるのだろうか?
「でも……どうやって着ていいのか……難しそうですから……」
「大丈夫よ。あたしが手伝ってあげるから」
エルセティアはメルフロウの手を引いてドレッシングルームに誘った。
そこには小さな天窓しかついていなので薄暗い。
エルセティアは燭台の蝋燭に火を付けると、その奥のクローゼットを開く。
中には様々なドレスが吊り下がっている。
「どれがいいかなあ。ねえ、フロウ、どれがいい?」
「ええ? 私は……でも……」
「あなたが着るんだからあなたが選ばなきゃ」
選べと言われても……
そこでその中で何となく気に入った淡いブルーのドレスを指した。
「それでは、その青い服を……」
「まあ! これってあたしも好きなの。モーリヤーンなのよ。やっぱり目が高いわ」
そう言われてもメルフロウにはさっぱり分からなかった。
「じゃあ、そんな恰好じゃ着替えられないから、脱いで脱いで!」
「ええ……」
「ほら、早く!」
「え、ええ」
メルフロウはエルセティアの言いなりにローブを脱ぐ。
「はいはい。それも脱いじゃって」
「ええ?」
「男物の下着着てドレスなんてありえないわよ。さあさあ!」
そんな調子で彼女は着替えを始めた。
だが全く勝手が分からないのでエルセティアに一々やり方を訊かなければならない。
やっと何とかドレスの着付けが終わると、今度はエルセティアは彼女を座らせて髪をすき始める。
「フロウの髪の毛って柔らかいのね。これロングにしたらすごく綺麗なんじゃないかしら」
「そうですか?」
「うーん……でもやっぱりこの髪型だと男みたい……あ、そうだ」
彼女は自分のつけ毛を持ってきた。
「色合うかなあ……ちょっと濃いかしら……」
そんなことを言いながら手慣れた手つきで髪型を整えていく。
それで終わりかと思ったら今度は化粧が始まった。
その作業の間、メルフロウは女というのはなんと手間のかかることかと考え続けていた。
―――それからどのくらい経っただろうか。
「うわあ……」
最後のアクセサリを着け終わったところでエルセティアが目を丸くして見つめている。
「だめですか?」
エルセティアは首を振る。それから彼女の手を取って姿見の方に誘った。
姿見に映った自分の姿を見て―――メルフロウ本人も驚愕した。
そこには見たこともない女性の姿があった。
しばらくは二人とも声も出せなかった。
やがてエルセティアがメルフロウの顔を見て尋ねる。
「フロウ、どう?」
「え、ええ。変な感じですね」
彼女は自分の姿と鏡に映った姿を見比べながら言った。
「長さはいいかしら」
「ええ、でも胸がちょっと……」
「それを言わないでっていうのに」
「ごめんなさい」
「いや、だから怒ってるわけじゃなくて」
「でもいつもの胸あてよりはずっといいです」
「そうよね。あはは」
そう言いつつもエルセティアはドレスからはち切れそうになっているメルフロウの胸を見て複雑な表情をしている。
「これって……都でもこんなきれいな人、そうはいないわよ⁈」
「そうですか?」
エルセティアのその言葉を聞いて彼女は妙に嬉しかった。
メルフロウは再びじっと鏡に映った姿を見つめた。
「ティア……何だか信じられない……」
「嘘じゃないわよ! それがあなたなんだから」
これが自分なのか? 本当に?
メルフロウがそんなことを思いながら呆然としていると、またエルセティアが手を引いた。
「それじゃちょっとあっちにいかない? ここは狭いわ。それに暗いし」
二人はバルコニーのある部屋に戻った。
メルフロウは再びその部屋に置いてある鏡の前に立ってみた。
明るい光の下で見るとまたさっきとは違って見える。
「すてきよ。フロウ!」
「ええ。何だか自分ではないような気がします」
エルセティアはメルフロウの肩越しに鏡を覗くと、急に笑い出した。
「どうしました?」
「ん? だって、こんな美人をあたしが独り占めにしてるって思うと、ね」
そう言って彼女は笑った。
だがメルフロウは何故か急に涙が溢れてきた。
慌てたのはエルセティアだ。
「えっ? どうしたの? 何か障った?」
メルフロウは黙って首を振る。
「ティア……」
「なに?」
「今まで私は自分が男なのか女なのか分かりませんでした」
「え? うん」
「でもやはりこうやって見ると……私は女なのですね……」
「え? そりゃそうよね……」
そのとき彼女ははっきりと悟っていた。
この姿が本来の自分の姿なのだと。
自分のこの姿が好きなのだと。
女に生まれて嬉しかったのだと……
これまでは知らなかったからそれでよかった。
偽りであってもそう思っていなければ、自分にとっては偽りではなかった。
だが、こうして知ってしまった以上、もう目を背けることはできない。
メルフロウはがっくりと床に跪いてしまう。
目からぽろぽろ涙がこぼれ落ちる。
慌ててエルセティアが彼女の肩を抱く。
「フロウ! ごめんなさい……やっぱりこんなことしない方が良かった?」
「違います。ティア……」
メルフロウは首を振った。
「こんなに嬉しかったのは初めてです」
エルセティアがハンカチをとりだして彼女の涙を拭く。
しばらくしてメルフロウが落ち着くと、エルセティアが言った。
「外、出てみる?」
メルフロウもうなずいた。
二人は再びバルコニーに出て外の風に当たった。
先ほどと同じ世界のはずなのに、何故か何もかもが違って見える。
頬や胸元を通り過ぎる風。
そよ風になびくドレスの感触……
それがどうしてこんなに心地よいのだろうか。
「フロウ、そろそろ戻る?」
「いえ、もう少しここにいさせてください。こんな風に景色を見るなんて、もう二度とできないかもしれないし」
「大袈裟よ。確かに都じゃちょっと無理だけど、あそこに籠もってばっかりいるわけじゃないでしょ?」
「でも、もし大皇になったら、こうはのんびりできないでしょう」
「そういえば……そうよね……じゃあここでお昼寝してよっか?」
「そうですね」
メルフロウは微笑んだ。
いつものように二人はバルコニーの長椅子に寄り添って寝そべった。
鳥の声……
渚に打ち寄せる波音……
時折吹き抜けていくさわやかな風……
目を閉じるとすぐにうとうととし始める。
―――そこは披露宴の会場だった。
彼女はエルセティアとダンスを踊っていた。
『私に動きを合わせて下されば大丈夫ですよ』
妙に心配顔のエルセティアに彼女はそう言った。
だがいつもなら自信を持ってリードできるのに今日はどうも足下が覚束ない。
『フロウ、大丈夫?』
エルセティアの方が心配そうに言う。どうしたのだろう?
そのとき人波をかき分けてハルムートがやって来た。ひどく慌てた顔だ。
『フロウ様! お召し物が違っております!』
途端にメルフロウは自分がティアと同じようなドレスを着ていることを思い出した。これでは足下がふらついても当然だ。
メルフロウは納得して答える。
『でも私は女性のステップは知りませんし……』
『じゃあ私が教えてあげるから』
そう言ってエルセティアが逆にメルフロウをリードし始めた。
だが二人ともドレスのままだ。エルセティアは裾を踏んで派手に転んでしまい、メルフロウもそれに引きずられて転んでしまって―――
そこで目が覚めた。
もちろん同じバルコニーの長椅子の上だ。
メルフロウは小声で笑った。
「ん?」
エルセティアが寝ぼけ眼で見ている。
「なんでもありません。夢です」
そう言って彼女は再び目を閉じる。
すると遠くの方から馬の蹄の音が聞こえてきた。
《何でしょう?》
メルフロウは起きあがってバルコニーから身を乗り出した。
丁度そのときだ。角から馬に乗った男が一人現れたのだ。
「どなたかいらっしゃいますか?」
男はそう叫んであたりを見回した―――そしてバルコニーから上半身を乗り出して見下ろしていたメルフロウとばっちり目が合ってしまった。
《カロンデュール⁈》
見間違えようもない! 彼はカロンデュールだ! だがどうして?
メルフロウは彼に声をかけようとして―――はたと自分がどんな姿をしていたか思い出した。
途端に顔がかっとなる。
彼女は慌てて部屋の中に逃げ込むと、床にへたり込んだ。
「ん? どうしたの?」
その様子を見ていたエルセティアが寝ぼけ声で尋ねる。
「デュールです!」
メルフロウが小声で言うと、一瞬エルセティアはぽかんとした顔をして―――それから長椅子から跳ね起きた。
「ええっ? どうして?」
「分かりません。ともかく……」
エルセティアは慌ててうなずくと、代わりにバルコニーから顔を出す。
「あ、あ、あははははは。ご、ごきげんよう。デュール」
「あの……今の方は?」
カロンデュールの声が明らかに上ずっている。
「え? まあ、その……で、何のご用でしょう? ここは……」
「ああ! そうなんです。エルセティア殿。船をお貸し願いたいのです。一刻を争うのです」
「え? 船?」
「はい。実は狩の最中に従者の一人が怪我をしてしまって。流れ矢に当たったのですが、都に戻るにはここで船を貸していただくのが一番かと思いましたので。揺らすと危ないのです」
「あ、そうですの? もちろんお貸ししますわ。少々お待ちを」
エルセティアは慌てて出て行った。
階下からどたばたと騒ぎの音が聞こえてくる。
やがて表にエルセティアとハルムートが現れた。そこでの会話はメルフロウの耳にも届いてきた。
「桟橋までムートが案内しますわ」
「ありがとうございます……それでメルフロウ殿は今日は?」
「え? ちょっと今、その出かけておりますの」
「そうですか……それと、その……」
「え? 何でしょう?」
「先ほどの姫君は、どなたなのですか?」
「え? あはははは」
「何だかメルフロウ殿に似ておられたように思いますが……」
「え? まあ、そうですわね。確かに……」
「一体どなたなのです? ご親族の方ですか? でもメルフロウ殿には姉妹はいなかったと思いましたが……」
「え、ええ。そ、そう、いうわけ、じゃ、なんだけど……あのお急ぎなのでは?」
「ああ、そうだ。それでは」
「ムート。お願いね」
「はい」
それから馬の蹄の音がゆっくりと遠のいていった。
メルフロウが床に座り込んで呆然としていると、エルセティアが戻って来た。
「何で? どうしてこんなときに来るの?」
エルセティアもメルフロウの横に座り込む。
「ええ、もう心臓が止まるかと思いました……」
「ほんとに……よりにもよって……」
それから二人は顔を見合わせた。
「カロンデュールは……私を見ましたね」
エルセティアはうなずいた。
「どう思ったでしょう? 男が女装していたようには……見えなかったでしょうね」
「そりゃ……」
エルセティアはメルフロウの胸元を見つめる。結構胸のカットが深いドレスだったので必要以上にはみ出し気味だ……
「でもあのカロンデュールの顔……」
彼女を見たときの彼の顔を思い出すと、思わず笑いがこみ上げてきた。
「フロウ! そんな場合じゃないでしょ?」
確かにそれはその通りだが……
「そうですね。さて……どう言い訳しましょうか?」
二人は顔を見合わせた後、脱力したように部屋の壁にもたれかかった。
そこに桟橋からハルムートが戻ってきた。
そして部屋の奥でドレスを着て座り込んでいる二人を見てしばらく絶句した。
「メルフロウ様……」
「ああ、ムート……ちょっとね」
メルフロウが笑いかけると、ハルムートは黙って首を振りながら答えた。
「また後でカロンデュール様がいらっしゃるそうです。フロウ様にお礼を言いたいとおっしゃられて」
「ああ、そうですか……じゃあこれは着替えておかないといけませんね」
ハルムートはそれには答えずに部屋を出て行った。
それから二人は顔を見合わせると立ち上がった。
ともかく男物の服に着替えなければならない。
こちらの方は着るときに比べて短時間で終わったが―――それでも化粧を落としたりしているうちに小一時間は経ってしまった。
カロンデュールが戻ってきたのは夕刻になってからだった。
メルフロウ達が応接間に行くと、彼が緊張した面持ちで座っている。
「ああ、メルフロウ殿、さきほどは本当にありがとうございました」
「いえ、それはエルセティアに言って下さい。私は何もしておりません」
「ええ、とにかく心から感謝しております。幸いあの者は命には別状はないようで」
「それは幸運でした」
「それもこれもあなた方の快いご協力があったからです。本当にありがとうございました……」
カロンデュールが頭を下げる。
「頭をお上げ下さい。私達は当然のことをしたまでですから。それよりもカロンデュール殿……」
メルフロウは真剣な面持ちでカロンデュールに言った。これからが正念場だ。
「はい?」
カロンデュールが頭を上げる。メルフロウはじっと彼の顔を見る。
「聞くところによると、あなたは彼女と会ってしまったとか?」
途端にカロンデュールは真っ赤になった。
「す、すみません……そういうつもりではなかったのですが……」
「このこと、ご口外されては?」
「いいえ。誰にも言っておりません」
「ああ、それは良かった……」
メルフロウはいかにもほっとしたといった感じで答える。
それから彼女はカロンデュールに言った。
「今日見たことは全て忘れて頂けないでしょうか?」
「ええ?」
「彼女は存在していないのです。公式には」
カロンデュールの目が丸くなる。
「いったいどういうことなのです?」
メルフロウは顔を伏せながら答える。
「彼女は……私の妹なのです。双子の。名前はファラ。メルファラといいます」
当然ながらカロンデュールは驚愕した。
「メルファラ……皇女? そんな話は……」
「もちろん。秘密でしたから」
「どうしてですか?」
「その訳は……お教えできないのです。ただ彼女の存在を秘密にしなければならない理由があるとしか……私自身ほとんど今まで彼女に会ったこともありませんでした。しかし今日特別に彼女が私たちに会いに来てくれていたのです」
カロンデュールはしばらくメルフロウの顔を見て、それからうなずいた。
「分かりました……でもあのようにきれいなお方が……」
そう言われてメルフロウはちょっと顔が熱くなる。
「そうですね……本来ならば彼女も姫君としてお披露目を受けられたのかもしれませんが……ともかくこのことは内密にお願いできるでしょうか? 彼女のためにも。これ以上家の関係を悪くさせないためにも……」
それを聞いてカロンデュールはじっと下を向いて何か考え込んだ。
気まずい沈黙が訪れる。
メルフロウはカロンデュールを見つめる。
彼はこの説明で納得しただろうか? あれからハルムートも交えていろいろ考えたのだが“メルフロウそっくりの女性”の説明としてはこんな物しか思いつかなかった。
「そうですか……わかりました」
やがて彼は顔を上げてうなずいた。
メルフロウはほっとした。一緒にいるハルムートやエルセティアの顔にも安堵の表情が現れる。
それから彼の顔を見る。
こうやってみるとなかなか精悍な顔つきだ。
彼とメルフロウは従弟同士に当たるのだが、家の関係の絡みで今までほとんど話したことさえなかった―――考えてみたら面と向かってこんな風に話をしたのは初めてではないだろうか?
そんなことを思っているとカロンデュールが意を決したように言った。
「メルフロウ殿……」
「はい」
カロンデュールはじっと彼女を見つめて言った。
「家のことは……言わないで下さい」
「ええ?」
メルフロウは驚いてカロンデュールを見た。
側にいたハルムートも同様に驚いた顔で彼を見つめている。
カロンデュールはそんな二人の顔を見比べると言った。
「私はあなた方を憎んではおりません。いつか言おうと思っておりましたが……」
「カロンデュール殿?」
「私達の家同士がどういった間柄かはご存じだと思いますが……だからあなたが私を憎んでいても当然だとは思いますが……でも……たとえあなたが私を憎んでいても、私は憎んでおりません」
メルフロウは何と答えていいか分からなかった。
ハルムートもエルセティアも呆然とした顔で彼の言葉を聞いている。
カロンデュールは言葉を続けた。
「私の父や家の者があなた方にひどく敵愾心を燃やしているのは事実です。でも全てがそうだとは思わないで下さい……唐突なことを言っているとお思いですか? そうでしょうね。急にそんなことを言われても……でもダアルの家にもあなた方を憎んでいない、というより愛している人もいるのです……私の母です」
メルフロウは目を見開いて尋ねた。
「母君とは……エイニーア様のことですか?」
カロンデュールはうなずいた。
「はい。母が私に言ったのです。ジークの家とダアルの家は憎みあっているけれど、あなたは決して憎んではいけない、と。それは父の言うことと正反対でした……ですが、後に経緯を知ってから考えが変わりました。今ではどちらが正しいか分かっているつもりです……」
「カロンデュール……」
「このことだけはお伝えしておきたかったのです。でも今まであなたと話し合う機会を持つことはできませんでした……」
そう言って彼は頭を下げる。
メルフロウは考えた。
憎む? 彼らを? 確かに父親がひどく彼らを憎んでいるのは知っているが……
では自分はどうなのだろう?
「カロンデュール……頭を上げて下さい」
それを聞いた彼はメルフロウの顔を見た。
「私も同様です。私があなた方を憎んだことはありません」
カロンデュールの顔に喜びの表情が浮かんだ。
メルフロウは少し複雑な気持ちだった。
なぜなら彼女にとってそれはある意味全てがどうでもいいことだったからだ。
それ以前に自分のことだけで精一杯で、そんなことを気に留める余裕もなかったと言っても良い―――そういった意味では間違いなく彼女は彼らを憎んではいなかったのだが……
「ありがとうございます。メルフロウ殿」
カロンデュールはいかにもほっとしたという表情で彼女に微笑みかけた。
「いえ、こちらこそ……」
二人はしばらく見つめ合った。
それからカロンデュールが立ち上がる。
「それでは……お邪魔しました」
「もうお帰りですか?」
「ええ、ここに長居は失礼です。では……」
カロンデュールは踵を返した。
「では桟橋までお送りしましょう」
外に出ると日はもう山の端に沈んでいる。
メルフロウ達はカロンデュールを送って桟橋まで同行した。
そこには彼の乗ってきた船がもう一艘泊まっていた。
それに乗り込もうとする彼にメルフロウが言う。
「カロンデュール、こういう機会はあまりないと思いますが……またこうして話せるといいですね」
「ありがとう、メルフロウ。いつかまたこうして会えるときまで……そのときまでごきげんよう」
「ごきげんよう」
船は静かに桟橋を離れていった。
再び屋敷の部屋に戻ったときには日はとっぷりと暮れていた。
バルコニーで夜風に当たりながら星空を眺めていると、エルセティアがふと尋ねた。
「フロウ……あなたエイニーア様とお会いしたことはあるの?」
「多分……何度か……」
小さい頃の思い出だ。
ハルムートに連れられて森の奥に行くと、そこに女の人がいて遊んでもらったことがある。 名前は教えてくれなかったのだが、彼女がエイニーア皇女だったのは間違いない―――今考えればよくそんなことができたと思うが……
「その人に抱きしめられた感触は……今でも何となく覚えています」
「フロウ……」
エルセティアはそれ以上何も言わなかった。
メルフロウはそんな彼女を見つめる。
彼女と抱き合ったとき―――もしかしてあの感触を思い出したのだろうか?
「ん? なに?」
じっと見つめる彼女の眼差しに気づいて、エルセティアがちょっと首をかしげる。
「いえ、そろそろ食事ですが行きますか?」
「え? うんうん!」
二人は階下に向かった。