第5章 夜話茶会
そこまで話してメルファラは一息ついた。
「あら? 降ってきました?」
垂れ込めた雲から雨がぱらつき始めている。
「天気が良ければお散歩しながらお話ししようかと思っていたのですが……これではもうだめですね」
アウラはだまってうなずく。
「それではお茶に致しますか?」
「うん」
メルファラが合図すると控えていたパミーナが室外に消えて、やがてお茶のセットを乗せた盆を持って戻ってきた。
彼女が注いでくれたお茶を一口啜るとメルファラは再び話を始めた。
「あのときは本当に幸せでした……私もティアも。でもそんな幸せが長続きするはずはありませんでした。いえ、本当は二人とも心の底では感じていたのです。こんなことでいいのだろうかと? これは何かおかしいのではないかと……」
アウラは小さくうなずいた。
「でも二人ともあまりそういったことを突き詰めて考える質ではなかったので……だから下手をすればそのまま、破滅まで一直線だったかもしれません。そうならなかったのはあの方が……ル・ウーダ殿がいてくれたせいでした」
そう言ってメルファラはアウラの顔をじっと見た。
「フィンが?」
「はい」
メルファラは微笑む。
「そしてあの楽しかった日々に永久に別れを告げることになったのです……きっかけとなったのは夜話茶会の夜でした。夏も終わりの頃だったと思います」
「夜話茶会って?」
「ああ、夜にするお茶会なんですが、そこでみんなで一つずつ怖い話をしていくんです。夏の夜にはこちらではよくやるんですよ。あのときは私達とフィンの他に、ティアのお友達のフィーリアン姫とラルエイマ姫も参加されて……」
「へえ……」
メルファラは少し天を仰ぐように沈黙した後、続きを始めた。
場は大盛況だった。
フィーリアンもラルエイマも最初こそ緊張しておとなしくしていたが、ワインが入ってうち解けてくると普段のパワー全開になってきた―――それを見ていると彼女たちがエルセティアの親友なのが大変納得いく。
「……もうファリーナ姫は我慢できなくなったの。彼と一緒に滅びても構わないって思ったから。そしてとうとう言ってしまったのよ。『ラルド、あなたを愛しています』って。その瞬間……」
話しているのはフィーリアンだ。
彼女はこういった話が非常に上手で、今も身振り手振り付きで大熱演中だ。
「きゃああ」
ラルエイマが顔を覆う。
フィーリアンの真に迫った表情に、メルフロウも思わず息を呑んだ。
「あの声が聞こえてきたのよ。声は言ったの。『よろしい。私は約束を果たそう』って……その途端にファリーナ姫の体がぼろぼろと崩れ始めたの。ファリーナ姫の美しい姿は死んだたくさんの姫の体から造られていたから。魔法が解けた瞬間にあるべき姿に戻っていったのよ」
フィーリアンはに~っと笑いながら一同の顔を見渡す。
「もちろん一番驚いたのがその場にいたラルドでね。目の前にいた美女がいきなり腐って、骸骨みたいになっちゃったんだから。百年の恋も当然醒めてしまうわ。それでラルドはこの怪物め! って叫んでファリーナ姫に剣で斬りつけたのよ。でも姫は再び不死になってたからその程度ではどうにもならなかったのよ。そこでラルドは彼女を殺すのは諦めてどこかに封じることにしたの」
「封じるって?」
ラルエイマが尋ねるとフィーリアンは答えた。
「殺すことができないから、彼女をそのまま埋葬することにしたのよ」
「ひどい!」
「でも仕方ないでしょ? でね。もちろん彼女は抵抗したかったけど、崩れてほとんど肉を失った体は全く思うように動かせなかったから、もうラルドのなすがまま。そのまま棺桶に入れられてしまって、蓋がされて、かーん、かーんって釘を打たれて、そのままエクサの森の奥に埋められてしまったのよ。でも……それでもファリーナ姫は生きていたの」
フィーリアンは再び恐ろしい笑いを浮かべる。
「いやあぁぁっ!」
ラルエイマがまた悲鳴を上げる。
メルフロウまで声を出しそうになったが、何とか思いとどまった。
「姫は祈ったわ『どうか、どうか私を死なせて下さい』って。するとまたあの声が聞こえたのよ。『私は言ったはずだ。お前は愛してはならないし、愛されてはならない。もしお前が人を愛したときその体は朽ち果てるだろうし、お前が人から愛されたとしたらその永遠も失われるだろうと。私は約束は守る。だからお前を愛する者が現れればお前は死ぬことができるのだ』って」
フィーリアンは再び間をとる。
「だからそれからずっと姫は待ち続けてるんだって。寂しい森の土の中で、ずっと自分を愛してくれる人が現れるまで。だからね、新月の夜にエクサの森に行って眠ると夢に姫が現れて場所を教えてくれるんだって。でもそれを試した人はまだ誰もいないそうなの……」
フィーリアンは話を終えた。
一同はしばらく声が出なかった―――彼女の迫真の語り口に圧倒されていたのだ。
「リアン! ちょっと本当に怖いじゃない!」
「そうよ、もう、リアンったら!」
エルセティアとラルエイマが口々に言う。
「何よーっ。思いっきり怖くしてって言ってたじゃないのーっ」
そこにフィナルフィンも口を挟んだ。
「リアン、君、本気出しすぎだよ。ほら、フロウだって」
フィナルフィンがちらりとメルフロウを見る。
言われてメルフロウ自身も気づいたのだが、いつの間にか横にいたエルセティアの手をしっかり握りしめていたのだ。
それに気づいてメルフロウはちょっと顔が熱くなった。
彼女は手を離すと慌ててごまかした。
「いえ、とっても面白かったですよ。はは」
その様子を見たラルエイマが尋ねる。
「お世継ぎって……もしかして結構恐がり屋さんなんですか?」
「え? ははは」
メルフロウは苦笑いする。
今まで自分が恐がりだとは思わなかった。
だがフィーリアンの話もその前のラルエイマの話でも、聞いていたら背筋がぞくぞくしてきたから、もしかしたらその通りなのかもしれない―――夜話茶会なんて初めてだったから確かめようもなかったのだが……
アンシャーラ姫を呼んだ茶会なら何度もやったことがある。あれも決してつまらないとは言わないが、どちらかというと肩のこる代物だったし……
そんなことを考えているとエルセティアが言った。
「それじゃ今度はお兄ちゃんの番よ」
「あ、そうか。でもリアンの後だと何だかなあ」
それを聞いたフィーリアンが手を振って答える。
「またまたあ! フィンってこういうお話だけは上手でしょ?」
「“だけは”って何だよ。まあ、それじゃ頑張ってやらせてもらいます」
そう言って笑いながらフィナルフィンは話を始めた。
「さて、まだ黒の女王が姿を変えて各地を渡り歩いていた頃の話です。草原の片隅に小さな国がありました。その国の王妃が懐妊したとき、ふらっと黒いローブに身を包んだ老婆が城を訪れたのです。国王は不吉な予感を感じましたが、その老婆を城に招き入れました。するとその老婆は国王に言いました。『まずはお前の妻を祝福しよう。何故なら彼女はやがて印を持った娘を産むことになるからだ。その娘はやがてこの国に災厄が訪れたとき、その危機から国を救う者になるだろう』と。その言葉を聞いて国王はその老婆が姿を変えた黒の女王だと察して、彼女を丁重にもてなしました」
皆は彼の話に聞き入った。
「さてやがて月が満ちて王妃は出産しました。そこで生まれたのは女の双子でした。片方の腕には十文字の痣がありました。王は彼女こそが約束された王女だと思いました」
フィナルフィンはそこでちょっと言葉を切って一同の顔を見回した。それから大きく一息つくと続きを話し始めた。
「ところが何と言うことでしょう。生まれてから三日目の夜に、その印の付いた赤ん坊は高い熱を出してそのまま亡くなってしまったのです」
フィナルフィンは再び少し間をとり、ちらっとメルフロウを見るとおもむろに話を続けた。
「王は嘆きました。おお! 何ということだ! この国の希望を担って生まれてきた娘は失われ、望まれなかった者のみが生き残るとは!」
その最後の言葉がざくっとメルフロウの胸を貫いた。
彼女以外には何のこともないセリフだったが、彼女にとっては全く他人ごとではなかったからだ。
フィナルフィンは再びちらっとメルフロウを見ると話を続けた。
「それから王は側近に刺青師を呼ぶように言いました。王は呼んだ刺青師に生き残った娘の腕に、死んだ娘と同じような痣を彫れと命じました。側近は王の考えを察して忠告します。『あなたは黒の女王をたばかろうとするのですか?』と。でも王は言うことを聞きません。そして刺青師がその仕事を終えたら、彼と忠告した側近の首を斬って落としてしまいました」
フィナルフィンは首を落としてその首を持ち上げるような身振りをする。
またラルエイマが悲鳴を上げる。
「こうしてそのことを知っているのは王のみとなりました」
一同は話に聞き入っている。
フィナルフィンは乗ってきたようで、グラスを持って立ち上がると部屋の中を歩き回りながら話し始めた。
「そんなこととは露知らずに王女は育ちます。彼女は自分の腕にある痣がただの入れ墨であることを知らず、自分がその運命の王女と信じて育ちました。そして彼女が十五歳になったときのことです。その年の夏は雨がさっぱり降りませんでした。おかげで農作物はほとんど枯れてしまい、食べるものが何もなくなってしまいました。そのとき再びあの老婆が王宮を訪れたのです」
フィンは歩き回りながらメルフロウの後ろに来る。
それから横に座っていたエルセティアの耳元に囁くように言った。
「老婆は言いました。『さあ、そろそろその時が来たようだ』と。そして王女を呼び寄せて言いました。『これからお前は三つの試練を受けねばならぬ。なに、お前が本物であれば別にどうと言うことはないことだ』と」
「ちょっと!」
エルセティアが笑いながらフィナルフィンを突っつく。彼は笑いながら体を起こして再び歩き始める。
「王女は答えました。『もちろんでございます。どうか私の為さねばならないことをお言いつけ下さい』と。彼女は自分が真に約束された者だと信じていたので、その言葉に全く迷いはありませんでした。しかしそのやりとりを聞いていた王は気が気では……」
と、その瞬間だった。
「だわあぁぁ!」
フィナルフィンがバランスを崩して派手に転んでしまったのだ。
同時に彼が手にしていたワインがメルフロウの上に降りそそいだ。
「わああ!」
思わず彼女も声をあげる。フィナルフィンは慌てて謝った。
「ごめん! うわ! 申し訳ない!」
「何やってるのよ! バカーッ!」
エルセティアが叫んだ。
「いや、ちょっと絨毯に引っかかって……毛足が長いから……」
かなりの量がかかってしまったようで、下着にまでワインが染みこんでくるのが感じられる。
それを見てエルセティアが言った。
「ちょっと……着替えないと。これ」
「すみません。僕も」
見るとフィナルフィンのズボンにも大きな染みができている。
「それも着替えないといけませんね」
メルフロウが言うとフィナルフィンはぺこぺこ謝りながら言った。
「すみません。一応着替えはあるんで、私も部屋に戻らせてもらいます。みんな、ごめん」
フィナルフィンは、ぽかんとしているフィーリアンとラルエイマに言った。
エルセティアも彼女たちに言う。
「ごめん。ちょっと待っててね」
「え? ええ」
二人はうなずいた。
それから二人が私室に戻ると、エルセティアがむっとした顔で文句を言い始めた。
「お兄ちゃんたらバカよ! まったく。酔っぱらってるんじゃないの? 大丈夫? 全くどうしようもないんだから。あんなだから彼女もできないのよ。ほんとに……」
「大丈夫ですよ。それよりタオルを持ってきて下さい」
「うん」
メルフロウはドレッシングルームに入って着替え始めた。
ワインは芯まで染みこんでいたので、下着から何から全部着替えなければならなかった。おかげでずいぶん時間がかかってしまう。
やっと着替え終えて戻ると、今度はラルエイマが眠ってしまっていた。
「エイマ! 戻られたわよ」
フィーリアンがそう言って彼女を叩くが―――目を覚まさない。
「うーん……」
「ああ、この子酔っちゃったみたいで」
それを聞いてメルフロウは答えた。
「それではお開きにしますか? もう夜も遅いし」
「そうですわね……フィンのお話をもっと聞きたかったのだけど……」
彼女はいかにも残念そうだ。エルセティアが言った。
「お兄ちゃんがバカしなければこんなことにならなかったのに!」
「すまん。本当にすまん」
フィナルフィンは平謝りだ。
「お気になさらないで下さい」
そうは言いつつも、メルフロウもちょっと残念だった。
だがそんな機会ならこれから幾らでもあるだろう。また開けばいいだけのことだし―――そのときには歩きながら話すのは禁止にしておけばいい。
そんな調子でその夜の夜話茶会はお開きになってしまった。
「ティア、ねえエイマ連れてくの手伝ってよ」
「うん」
酔いつぶれてしまったラルエイマを彼女たちが客室に連れて行った後だ。フィナルフィンがメルフロウに囁いたのだ。
「あの、すみません。後で二人だけでお話しできませんか?」
メルフロウは驚いた。
「お話しとは?」
「まあその男同士の話と言いますか……ちょっとティア抜きで……」
それを聞いたメルフロウは彼がエルセティアのことで何か話したいのだと思った。
「今からですか?」
「今晩を外すと今度はいつになるか分かりませんし……ちょっと外に出ませんか?」
メルフロウは同意した。
二人は屋敷から抜け出して湖の岸辺までやってきた。
涼しい風が吹いている。
水面には僅かに小波が立っている。
さらさらと森の葉ずれの音も聞こえてきて、風は少し寒いぐらいだ。
そこまで来てフィナルフィンは振り返ると、しばらくじっとメルフロウを見つめた。
「すみません……まずあなたに謝っておかなければ」
「先ほどのことでしたらもう構いませんよ?」
「いえ、その後のことです」
「その後?」
メルフロウは訝しんだ。その後って何のことだ?
「はい。実は……あなたが着替える所、覗いてたんです」
………………
…………
……
一瞬、彼が何を言っているのか分からなかった。
そしてまず思ったことは―――あのドレッシングルームは外から覗けたりはしないはずだということだ。
「え? どうやって見たんです?」
「昔に比べて魔法はちょっと上達してるんです。で、屋根に上がるくらいならもう簡単にできて……」
「あ!」
ティアからフィンの魔法のことは何度も聞いていた。
彼の使える魔法の中には軽身の魔法もあったが―――ならばドレッシングルームの天窓に上がるのは簡単だが……
そこまで考えたところで遅まきながらメルフロウも、もっとずっと重要な問題があることに気づいたのだ。
《覗かれて……いた⁈》
途端に顔から血の気が退いた。
まさか彼はあれを見てしまったというのか?
あそこで彼女はほとんど裸になって着替えをしていたのだが……
「それではあなたは……見てしまったのですか?」
思わず自分の胸を隠しながら尋ねると……
「はい……」
フィンはうなずいた。
今度はかっと顔が熱くなった。
エルセティアがよく顔から火が出ると言っていたが―――これがそうなのだろうか?
メルフロウは何か言おうと思ったが言葉が出ない。
そのまま走って逃げたかったが、体も動かない……
彼女は胸を押さえたままフィナルフィンをじっと見つめた。
だがフィナルフィンも同様に彼女をじっと見つめるだけで何も言わない。
やがて彼はふっと目を逸らす―――同時にメルフロウも魔法が解けたかのように体の力が抜けた。
メルフロウは大きく息をついた。
それから再びフィナルフィンを見る。
彼も同様に振り返ると―――再び目が合う。
だが今度は声を出すことができた。
「それで? お話とは?」
声が震える。
だがまだしっかりと両足で立ってはいられる。
その姿を見てフィナルフィンが答えた。
「はい。まあ、いろいろあるんですが……まず第一はティアのことでしょうね」
「ティア……」
メルフロウはうつむいた。
彼が彼女を心配するのは当然だ。自分が彼女を巻き込んでしまったのは間違いない。
「このような結婚が不自然なのは……お分かりですよね」
「ええ……」
彼女はうなずいた。
「ティアは……知ってて結婚したのですか?」
「ええ。私は一度解消しようとしたのです。でも彼女がいいと言ってくれたのです……」
それから彼女はティアに告白した夜のことをかいつまんで話した。
「……彼女がそう言ってくれたのです。私はだから……だから……」
フィナルフィンは大きく溜息をつきながらうなずいた。
「そうですか……あいつ、思い詰めたら何するか分からないから……」
メルフロウはきっとフィナルフィンを睨む。
「ティアを悪く言わないで下さい! すべて私が悪いのです」
フィナルフィンはその勢いに気圧されて……
「いえ、責めているんじゃありませんから……」
そう言って口ごもる。
場に沈黙が訪れた。
彼がそれ以上何も尋ねないので、メルフロウは逆に尋ねた。
「どうして私が男のふりをしているのか、お訊きにならないのですか?」
それにフィナルフィンはさらっと答えた。
「え? それはだいたいは察しがついています。フロウ。生まれた双子は男と女で、生まれてすぐに男の方が死んでしまったのでしょう? そこであなたの父君はあなたを男として育てることにした。世継ぎは男でなければなりませんから」
メルフロウは驚いた。
「ええ、そうですが、どうして……」
フィナルフィンは小さく首を振って答えた。
「いや、ずいぶん考えたんですよ? もしあなたが女だとしたら、どうやったらそんなことになり得るのかと……そうしなければならない理由は、ほとんどそれしか考えられないんです」
メルフロウはうなずいた。
それからまた尋ねる。
「それではいつ私が女だと分かったのです?」
「本当に確信したのはさっきです。それまでは本当にただの憶測に過ぎませんでした」
フィナルフィンは話しだした。
「最初にちょっと不思議に思ったのは、この間のバーベキューパーティーでした。あの帰りにリアンやエイマと色々話してたんですが、ティアって結婚したのにちっとも昔と変わっていないって話になって……」
「結婚したのに変わってない? ですか?」
フィナルフィンはうなずくとそのときの話を始めた。
―――パーティーに参加した一行を乗せた船が銀の湖の上を滑るように進んでいた。
「あー、楽しかった!」
「うんうん」
フィーリアンとラルエイマは先ほどからもう大喜びだ。
「あー、メルフロウ様、お綺麗だったわよねえ……」
フィーリアンの目は完全にとろけている。
「うんうん」
ラルエイマも完全に心ここにあらずといった様子だ。
「本当にお世継ぎ様とこんなにお話しできるなんて……役得よねえ」
「うんうん」
「あんなお方とずーっと一緒にいられるなんて……ティアってもう宇宙一の幸せ者よねえ」
「うんうん。でも……その割にはティアっていつもどおりだったんじゃない?」
「あー、そういえばそうよねえ。そ。もっとこう、イチャイチャしてるって思ったんだけど……」
「それを見せつけるために呼ばれたのかって思ったけど……」
「そうよねえ。あの子ならやりかねないし……」
その話を横で聞きながら、フィナルフィンも思った。
《確かに……何か本当にいつものホームパーティーみたいだったよな……》
一同が呼ばれたようなバーベキューパーティーはル・ウーダ邸や山荘などで良くやっていたが、いつもまさにあんな感じだった。
「でも……リエラ姉さんみたいになったティアなんて、想像もつかなかったけど……」
「………………ぷはーっ!」
フィーリアンが吹きだす。
「そうよねえ。淑女になったティアなんて、存在自体がパラドックスよねっ! あり得ないから!」
おいおい。そこまで言ったらちょっとだけカワイそうなんじゃ?
フィーリアンの姉のフェリエラ姫は昨年結婚したのだが、この妹にこの姉有りとしか言いようのない―――というか、彼女たちがこうなったのもすべてこの人の影響なんじゃ? というまさに破天荒な姫だったのだが……
《女は変わるんだなあって思ったもんだけど……》
ハネムーンから帰ってきた彼女が打って変わって大人っぽくなっていたのに、フィナルフィンも少々驚いたものだが―――それはともかく、彼もまた少しばかり違和感を感じていた。
《そうなんだよなあ。普通ハネムーン中って、二人っきりになりたいものなんじゃ?》
その真っ最中に友達や家族を呼び出してパーティーをするとか―――まあ、楽しかったのは事実だから、いけないというわけではないのだが……
と、そこでラルエイマが少し心配そうに言った。
「えっと~、それじゃまさかメルフロウ様、ティアにまだ触らせてもらってないとか?」
フィーリアンが驚いて尋ねる。
「えーっ。そんなこと、どうして?」
「だってあの子、調子に乗ったら一晩中でも喋ってるじゃない?」
「………………あ!」
フィナルフィンも聞いていて吹きだしそうになった。
確かにあのアホならやりかねない話だが―――と、そこでまた思い出す。
《そういえばあのとき……》
パーティーでの雑談でエルセティアに『結婚生活は楽しいか』と尋ねたら、彼女は『楽しいわ』と答えつつ、なぜか目を逸らしていたのだが……
彼女はそういう意味では本当に嘘が下手だ。
《……ってことは、何か喧嘩でもしてたのか?》
だが、そこで見た二人はまさにおしどりみたいで、仲がいいなんてものではない様子だった。
ただ確かに何というか、ベタベタしている風でもなかったが……
《とすれば……ナイトライフの方に何か問題でも?》
………………
…………
ぷはーっ!
《いやいやいや、そんなはずないよな? 絶対……》
たとえお世継ぎの君だからって、一人の男であることは間違いないわけで―――と、そのときだ。ラルエイマがフィーリアンにぽそっと尋ねた。
「ねえねえ、まさかなんだけど……」
「なに?」
「メルフロウ様……やり方分からないとか……ないわよね?」
………………
…………
「なに言ってるのよ! あんたバカじゃないの?」
「でも、お世継ぎの君がバーボ・レアルに行ってるとことか、想像もつかないし……」
それを聞いたフィーリアンがぷっと吹きだす。
「んなわけないじゃないの。お屋敷にお呼びするに決まってるでしょ?」
「あっ、そうか」
………………
あはははは! いや、確かにメルフロウが遊び歩いているようなイメージは全くないが、いくらなんでもそんなことがあるわけない。自分だって何度か連れてってもらったわけだし、そもそもそれって結婚相手に失礼だよね?
大体いくら彼女が喋りまくっていようと、ぎゅっと抱きしめてキスしてしまえば口くらい塞げるだろうし、あとはそのまま―――けふんけふん。
フィナルフィンがそんな妄想に耽っていると……
「でもー。本当にお美しかったわよねえ。メルフロウ様……」
「そうよねえ。まるで夢みたい……」
フィーリアンとラルエイマの話はループしていた。
だが、彼女たちがそうなってしまうのもほぼ不可抗力だった。
全くその気のないフィナルフィンでさえ思わず震いつきたくなりそうな美少年なのだ。
「いやあ、本当に綺麗だもんなあ……」
そこで思わずそうつぶやいてしまったのだが……
「え? フィンももしかしてお世継ぎを狙ってたとか?」
それをうっかりフィーリアンに聞かれてしまった。
「なに言ってるんだよ!」
「あー、分かる分かる~。フィンって実はそっちだったんだ~」
ラルエイマも怪しい笑みを浮かべている。
メルフロウが都の姫の間だけでなく、その筋の男たちの間でも超絶人気なのは公然の秘密であった。
「違うってーっ!」
まったくこいつらは……
「んなわけないでしょ? だからお世継ぎに妹姫とかがいたらそりゃさぞ綺麗だろうなって思っただけで!」
フィナルフィンはその場の出任せでごまかすが……
「あは それはすごい美女になるわよねえ。もう都のどんな姫君でも相手にならないくらい……」
「うっわあ~、そうよね~」
上手いこと二人がそのネタに食いついてくれたので、それ以上フィナルフィンは追及されずに済んだ。
《でも、妹姫ねえ……》
思わず頭の中でメルフロウを女装させてみると……
………………
…………
あははっ! めっちゃ似合いそう!
《……ってか、もう美女が男装してるって思った方が良かないか?》
そう思って吹きだしそうになるのを堪える。
《でも、確かにそう見えないこともないし……それなら夜に何もなくたって……》
………………
…………
……
あれ?
フィナルフィンは首をかしげた。
《あはは。んなわけないだろ? だって……》
だが、彼はメルフロウと一緒にお風呂に入ったわけではない。
………………
…………
《んー……えーっと……》
狩りなどに行けば一緒にどこかで着替えるようなこともあるかもしれないが、そういう機会は当分なさそうだし……
《だーかーら、んなわけないから! そもそもどうして姫を男として育てる必要があるわけ? そんなこと……》
と、そこでフィナルフィンの脳裏に一つの可能性が閃いてしまったのだ。
《え? なに? いやでも……》
彼は考えた。
一生懸命考えた。
《もしかして……本当に妹姫が⁈》
んなわけない!
そんなバカなことがあるわけがない!
ただの思いすごしだって!
だがしかし―――
フィナルフィンはじっとメルフロウを見つめた。
「でもそこでさっき言った理由を思いついてしまったんです……お世継ぎは男子の双子ですぐに片方が亡くなられてるということになっていますが……実はこれが男女の双子だったら、と……」
フィナルフィンはそこでまた一息継ぐ。
「そしてジークの家とダアルの家のことも思い出しました。そしてもしその場合、正しいことを発表してしまったら、世継ぎはカロンデュールになる。果たしてジークⅦ世はそれを許せるのだろうかと……そう考えたら符合してしまったんですよ。生き残った姫を男として育てる理由はあるのだと……」
メルフロウは笑った―――というより笑うしかなかった。
「あはははは、そんなことからばれてしまうんですね」
だがフィナルフィンはゆっくりと首を振る。
「いえ、まだここまでは私の妄想ですから。はっきり言って面白い物語だと思って放っておいても良かったのです。最初は本当にそうするつもりだったんです。先ほどの話なんかも元々は単に夜話のネタにするつもりでした。引っかけるためではなくて……」
「引っかける?」
「フロウ、あなたは『望まれなかった者のみが生き残るとは』という所で結構動揺していましたよね?」
「あ……」
メルフロウは口に手を当てた。
フィナルフィンはその表情を見て目を伏せる。
「もしそうでなければあんなことはするつもりはなかったのですが……それはともかく、考えているうちに段々怖くなってきたんです」
「怖い?」
メルフロウはフィナルフィンを見つめた。彼はうなずいた。
「ええ。これが本当だとしたら、もしかしてひどくまずい状況になっているのではないかと。何だかそれがひどく引っかかって……それで今回こうして無礼を承知で確かめさせてもらったのです」
そう言ってフィナルフィンは軽く頭を下げた。
メルフロウは尋ねた。
「まずい状況とはなんですか?」
フィナルフィンは顔を上げると答えた。
「色々あるんですが……まず子供はどうするのですか?」
「子供?」
ぽかんとするメルフロウにフィナルフィンが言う。
「ええ。子供です。すなわち世継ぎですよ。あなたの次の」
「それは無理なのでは?」
その答えにフィナルフィンはしばらく唖然とした。
「もちろんそうですが……そうるすと次回はあなたが即位しても、その次はやはりカロンデュールということになってしまいますが?……ジークⅦ世はそれでいいのでしょうか? それともそれまでにダアルの家を根絶やしにでもするつもりなのでしょうか?」
「ええ? でも……」
メルフロウは言葉に詰まる。
何故ならそれまで彼女はそのようなことを考えたこともなかったからだ。
そんな彼女を少し怒ったような表情で見据えながらフィナルフィンは続けた。
「それ以上に、あなたが女だということを永久に隠し通せるとも思えません。もう少しすれば声変わりの時期です。そのときはどうなさるのですか?」
「………………」
フィナルフィンはそんな彼女の目をじっと覗き込みながら、冷たい声で言う。
「正直に答えて下さい。これはあなただけでなくティアの問題でもあるのです。私は兄としてあいつが殺されたりするのを……」
メルフロウの顔から血の気が退いた。
「えっ? なんですって?」
殺されるっていったい? メルフロウは思わず声を荒げていた。
「どうしてティアが殺されたりするのです」
だがフィナルフィンは真っ向から彼女を睨み返す。
「でも、このままじゃそういうことになりかねませんよ?」
「どういうことです?」
「あなたは何も知らないのですか?」
「……知らないと思います」
フィナルフィンはしばらくまん丸な目をして彼女を見つめた。
それからほとんど聞こえないような小声で「本当かよ?」とつぶやく。
メルフロウは何だか恥ずかしくなってきた。
更に彼はしばらく無言で彼女の顔を見つめていたが、やがてゆっくり首を振ると話し始めた。
「これから話すことは、私の憶測ですから間違っているかもしれません。そのことを念頭にお聞き下さい」
「はい……」
「ジークⅦ世はあなたを男として育てました。それは男でないと世継ぎにはなれないからです。そのことはわかりますね」
「はい」
「ですが、どう考えたって一生そのままとは思えません。いつかはきっと露見する時がくる。子供のときならいざしらず、大人になったら男で通すのは難しいことです」
「はい……」
「ジークⅦ世はそのことを考えていないのでしょうか?」
メルフロウは首を振る。
「それは……分かりませんが」
フィナルフィンはうなずいた。
「考えていなかったら完全な馬鹿だ。あなたが女だとばれた瞬間ジークⅦ世は完全に都の笑い者になりますよ。それどころか大皇をたばかったとして死刑になってもおかしくない……」
「ええ⁈」
「もちろんあなたも、それにティアも同罪です……たとえ助かったとしてももう都にはいられないでしょう」
「そんな……」
メルフロウは愕然としたが―――言われてみれば当然のことだった。
「ジークⅦ世がそれを考えていないはずがありません。当然でしょう? だからあなたとティアの結婚を急いだのでしょう」
「ええ? どうしてですか」
メルフロウはぽかんとして訊き返した。
確かに婚約してから結婚するまでの期間は普通に比べて早かったが―――訝しげな彼女にフィナルフィンは答えた。
「とにかく子供がほしかったのです。あなたとティアの子供が」
「ええっ? 女同士で子供が作れるのですか?」
フィナルフィンは吹き出した。
「違いますよ。誰のでもいいんです。とにかく作るのです。皇子さえ生まれればいいんです。彼が新しいお世継ぎになるわけですから」
「そうですが、でも……」
まだ良く分かっていない様子のメルフロウにフィナルフィンが言った。
「まだお分かりではありませんか? あなたは大皇に即位してからすぐに死ぬことになるのです。事故か病気か知りませんが。そしてその皇子が大皇に即位します。当然幼帝ですから後見人が必要ですが、もちろんそれはジークⅦ世です」
それを聞いてやっと彼女も状況を理解した。
その表情を見てフィナルフィンは軽くうなずくと続けた。
「あなたは病気がちということになっているから誰も不審に思わないでしょう。もちろんあなたが実際に死ぬかどうかは別ですが、少なくとも公式には死んだことになるはずです……」
メルフロウの背筋に冷たい物が走った。
それから恐る恐る尋ねる。
「ティアは……どうなるのです」
フィナルフィンは顔を伏せた。
「分かりませんが……本当に殺されてもおかしくありません」
「そんなことって……」
「でも……ティアは経緯を知りすぎています。だとしたら……生かしておいてはのちのちトラブルが生じることになるでしょうし……」
「そんな……」
メルフロウは衝撃のあまり力が抜けて砂浜にへたり込んでしまった。
体が勝手にがたがたと震えてくる。
《どうして?》
どうして今まで思いつかなかったのだ? 言われてみれば当然のことばかりだ!―――それなのに今の今まで全く気づいていなかった……
自分はどこまで馬鹿だったのだろうか?
そしてこんなことにエルセティアやフィナルフィンを巻き込んでしまった―――だがもう引き返すことさえできない……
そんな彼女の姿を見てフィナルフィン慌てて彼女の肩を抱いた。
それから彼はぽんと肩を叩いて明るい口調で言う。
「まあともかくまだこれは想像ですから、こうなると限った物ではありませんよ。とにかくですね……」
「フィン……」
メルフロウはフィナルフィンを見つめた。
涙で視界がにじんでくる。
「フ、フロウ、気を確かに」
「ああ、フィン。私はどうしたらいいのでしょう……」
思わず彼女はフィナルフィンの腕にすがりついていた。
「え? あの……」
フィナルフィンがちょっと間抜けな声をあげる。
それからメルフロウも状況に気づいて慌てて手を離す。
途端にフィナルフィンが飛び下がると、ごまかすように言った。
「と、ともかく、ティアはまだですよね?」
「まだって? 何がですか?」
「要するに、ええ、まだ身籠もってはいませんよね?」
メルフロウは再び口ごもる。
「え? まだかどうか……」
「分かるでしょう⁈」
「どうやってですか?」
まともに訊き返す彼女にフィナルフィンは答えにくそうに答える。
「えっと、月の物は……あるんですよね? ティアのは?」
「え? それならありますが……」
「ああ、なら大丈夫だ……」
フィナルフィンは大きく溜息をついた。
「そうですか……」
メルフロウはフィナルフィンが何を気にしているのか今ひとつ理解していなかった。
「ええと、とにかくどういう方法かは分かりませんが、この話はティアが皇子を産むということが前提になります。逆に言えば皇子が生まれるまではあなたもティアも安全だということです。だからこちらとしては何としてもそれを阻止しないといけないわけです」
メルフロウは曖昧にうなずいた。言っていることは分かるが……
「でも……阻止ってどうやってするのですか?」
「どうやってって……」
フィナルフィンも言葉に詰まる。
それよりもメルフロウは気がかりなことがあった。
「あの、フィン、一つ聞きたいことが……」
「え、何でしょう?」
「子供って……どうやればできるのですか?」
フィンが吹き出した。
「あの、それが分からないとそもそもどうしようもないのですが……」
「し、知らないんですか?」
「ええ。男の人と女の人が結婚すれば生まれるということしか……」
フィナルフィンは目を白黒させた―――
「で、あいつ教えたの?」
アウラの問いにメルファラは微笑みながら答えた。
「はい。大変詳しく」
アウラは目を見張る。それから思わず尋ねていた。
「まさか、その……実地でとか?」
メルファラは吹き出した。
「とんでもありません! 砂の上に色々と絵を描いて、その手順を説明して頂いたんです」
アウラはほっとした。それから何故か顔が赤くなる。
そんな彼女をメルファラは面白そうに見つめた。
「私はそこで子供の作り方を本当に初めて知ったんです。あんな風に育てられたので全く何も知らなかったんです……」
メルファラは話を続けた。
話が終わったときにはメルフロウも上気していた。
まさか、子供を作るためにはそんなことをする必要があったとは……
「だいたい分かりましたか?」
「ええ。分かったと思います……」
何故か話を聞いただけなのに顔が熱くなる。
メルフロウはフィナルフィンを直視できなかったので、明後日の方を見ながら尋ねた。
「結婚していなくとも、そういう“行為”さえ行えば子供はできるのですね?」
「はい、まあそうです。正確には行為も必要でなく、子種が入ることによってですが……それに子種を入れる時期も重要だということはさっき説明した通りです」
メルフロウは振り返った。
「だとすれば……私はいったいどうすればよいのでしょう。常にティアを見張っていることなんてできませんし……それに力尽くで来られたら……」
フィナルフィンは口ごもる。実際にその通りだ。
「そのことについては、もう少し考えなければ……そこまでは考えていなかったので。ともかくもうしばらく考えさせて下さい。大体私の考えが元から間違っているかもしれませんし……」
「はい……」
しばらく二人は無言で向き合った。
それからフィナルフィンが立ち上がる。
「それではそろそろ戻りましょうか……ティアが探しているしれませんし」
「そうですね」
メルフロウも立ち上がった。
「このことはティアにも話した方がいいのでしょうね」
「そうですね。一番の当事者ですから」
それを聞いてメルフロウは胸が苦しくなったが―――そうなのだ。これから一番辛い目に会いそうなのはエルセティアの方なのだ。
「すみません……」
「いえ、もう済んだことはいいんです。とにかくこれからどうするかです」
二人は屋敷へ向かって歩き出した。
だが空気が重い。
そこで少し行った所でメルフロウはフィナルフィンに尋ねた。
「そういえばさっきの話の続きはどうなるんですか?」
「さっきの?」
「ワインをこぼして中断してしまったあの話ですが」
「ああ。あれはですね。姫は最初の二つの試練はやり遂げます。本当に難しかったのに。最後の試練は逆に簡単だったんですが、そこで王が安心して姫が実は偽物だったとばらしてしまうんです。それを知った瞬間、姫は失敗してしまって国は滅びてしまいます」
「やはり偽物はだめなのですね」
「いえ、違いますよ。彼女が自分を偽物だと思ってしまったからだめなのです。試練を乗り越えるのは本物とかそういった問題ではなく、その人の意志が問題なのだと、そんな話なんですが……」
それを聞いてメルフロウは少し心が楽になった。
「ありがとう。フィン」
その瞬間二人の目が合う。
途端に胸の奥で何かがどきりとした。
「いえ、まあ……」
フィナルフィンもそう言って目を逸らす。
そのときだ。近くの茂みでがさっと音がした。
《え?》
二人がふり向くと―――そこにはハルムートが立っていた。
「あ、ムート?」
メルフロウが反射的にそう言った瞬間だ。
彼は短刀を抜き放つとやにわにフィナルフィンに飛びかかって地面に組み敷いたのだ。
「フィナルフィン様。失礼します」
一瞬の出来事だった。
「うわ!」
フィナルフィンが悲鳴を上げる。
メルフロウは体がすくんで声も出せなかった。
「あなたはもう少し慎重にするべきでした」
ハルムートはフィナルフィンの喉に短刀を押し当てた。
「ムート! 何を……」
メルフロウはやっとそう言ったが、振り返ったハルムートの目は獣のようだった。
「フロウ様は口出し無用です」
彼女は何も言い返せなかった。
「待って! やめてください! ムートさん!」
フィナルフィンがかすれ声で言う。
「申し訳ありません。フィナルフィン様」
だがハルムートはそう言って手に力をこめる。
フィナルフィンが悲鳴のような声でわめいた。
「待て! 待てって! あんた、フロウがどうなってもいいのか?」
「ん?」
一瞬ハルムートの動きが止まる。
その隙をついてフィナルフィンが彼に問いかけた。
「ハルムートさん。一つだけ訊きたいんだけどさ、あんたはフロウとジークⅦ世とどっちが大切なんだ?」
ハルムートの目が大きく見開かれる。
フィナルフィンはここぞとばかりに追及する。
「あなたはずっと“彼女”を育ててきたんですよね?」
ハルムートの目が泳いで一瞬メルフロウの方を見る。
それから再び目を戻した瞬間、フィナルフィンが言った。
「何のためにです? 殺すためですか?」
「何だと?」
ハルムートの声がかすれている。
「だってそうでしょう? 違いますか? 子供ができた後、彼女たちはどうなるんです?」
「それは……」
「殺されるんですね?」
ハルムートは首を振る。それから小声で答える。
「ティア様は……でもメルフロウ様は……命を助けると……」
「そんな!」
メルフロウは叫んだ。
それから彼女はハルムートの腕を掴む。
「本当にそんなことを?」
彼女はハルムートをフィナルフィンから引き離そうとしたが、彼はまるで岩のようにびくともしなかった。
「ムート!」
メルフロウは叫んだ。ハルムートはぎゅっと目を閉じる。
そんな彼にフィナルフィンが言う。
「身勝手だな!……ティアは邪魔だから消す。フロウは助ける、か? でもハルムートさん! それが本当だって保証はあるんですか?」
「なに?」
ハルムートが再びフィナルフィンを睨む。
「ジークⅦ世が嘘を言ってないって保証ですよ」
再びハルムートの目が見開かれる。
「ジーク様は……」
「大皇をたばかったり、人の命を奪ったりする奴が、どうしてそこだけ正直なんです⁈」
ハルムートの手が震えだした。
そんな彼をフィナルフィンがじっと見て、静かに尋ねた。
「本当に彼女は助かるんですか?」
ハルムートは答えない。
そんな彼にフィナルフィンが尋ねる。
「それであなたは何が得られるんですか? 地位ですか? それとも金ですか?」
その瞬間ハルムートは天を仰いで叫んだ。
「あ、あなたは奴らが何をしたか知らないからそんなことが言えるのです!」
そして手にしていた短刀がフィナルフィンの頭の真横に突き立てられた。
短刀はほとんど柄まで地面に突き刺さっている。
フィナルフィンもメルフロウも真っ青で声が出せない―――それからハルムートは低く嗚咽するような声で言う。
「ダアルが……ジャナンの奴が何をしたか……」
ジャナンといえばダアルⅤ世の側近の一人の名前だ。色々と良くない噂のある男だが……
「知るかよ! だったらあんた達だけで決着つければいいだろう! どうしてフロウやティアまで巻き込むんだ?」
フィナルフィンがほとんど涙声で叫ぶ。
それを聞いたハルムートはもう激昂しなかった。
「私は……」
彼の体からがっくりと力が抜けた。
フィナルフィンはその下から這い出すと、その横にへたり込んだ。
「ムート……」
メルフロウがそう言って歩み寄ろうとしたが、彼は振り返ると彼女を制止する。
「来ないで下さい……」
「でも……」
頬には涙の筋ができている。
それが彼の本当の気持ちを雄弁に物語っている。
しばらく三人とも動かなかった。
やがてフィナルフィンが顔を上げる。
それからじっとハルムートとメルフロウの顔を見比べると尋ねた。
「ムートさん、もう一度聞きますがあなたはフロウとジークⅦ世とどっちが大切なんです?」
「それは……どちらも……」
ハルムートは下を向いたまま答える。
「でも今はどちらかを選ばなければならなくなったんです」
それを聞いたハルムートは目を見開いた。
「ムートさん。以前あなたは私達がフロウと遊ぶのを黙認しましたよね? それはどうしてですか?」
ハルムートはフィナルフィンを見る。
「あれは私がそうしました……フロウ様が可愛そうで……」
「ですよね? ならば今はもう一度あなたの考えで行動しなければならないのでは?」
ハルムートはじっと地面を見つめて考え込んだ。
そんな彼にフィナルフィンが言う。
「正直、私だけではティアもフロウも守れそうもありません。というか自分の命さえ。でもあなたがいれば……」
ハルムートは振り返ってフィナルフィンの顔を見る。
フィナルフィンはメルフロウに尋ねた。
「フロウ。あなたはどうです? 父親として彼とジークⅦ世と、どっちがいいですか?」
「父親としてって?」
驚いてメルフロウは訊き返した。
「あなたを育ててくれたのは彼なんじゃないんですか?」
ハルムートが驚いた表情でフィナルフィンと、そしてメルフロウを見た。
「いえ、私は……」
どう答えればいいのだろう?
「ジークⅦ世はほとんど家には来ないそうですね? 晩餐会とかがあるとき以外は。どうしてなんですか? あなたを見たくないからじゃないんですか? いろんな意味で……」
「ジーク様は……」
そのときメルフロウの心がはじけた。
確かにジークⅦ世は父親であり、尊敬もしている―――だが彼が一緒にいてくれたことはほとんどなかった。
ティアが来てくれるまでいつも側にいてくれたのは、このハルムートでありルウだった。
メルフロウの知っている人の温かさといえば、彼らのものだけだった。
これはまごうことのない事実なのだ―――だったら答えは明白ではないのか?
「ムート」
メルフロウは彼を見つめる。
振り返ったハルムートに彼女ははっきりと告げた。
「私は、あなたの方がいい」
「え?」
ハルムートが驚愕の表情になる。
「もし父親と呼んでいいのならば……あなたの方が良かった。あなたはいつも私と一緒にいてくれた。あなたとルウが私の両親のようなものです。だから……」
メルフロウはハルムートにすがりついた。
「フロウ……様」
彼のがっしりした体から震えが伝わってくる。
「どうします?」
フィナルフィンがハルムートに訊いた。
ハルムートはしばらく震えていたが―――ふっとそれが止まるとゆっくりうなずいた。
「わかりました……」
それから彼にすがりついていたメルフロウの頭をゆっくり撫でる。
メルフロウが見つめる。
ハルムートの目から再び大粒の涙がこぼれ落ちる……
フィナルフィンが大きく息をついた。
しばらく三人はそうして呆然と座っていた。
それからハルムートがぽそりと言う。
「とはいっても今後一体どうすれば……」
「それは……もう都落ちしか……」
フィナルフィンが答える。
「………………」
ハルムートとメルフロウは顔を見合わせた。
都の外にどんな国があるかくらいは知っていたが、そこで暮らすことなど考えたこともなかった。
「でも宛てはあるのですか?」
ハルムートの問いにフィナルフィンは首を振る。
「いえ、それは……」
「あてどなく彷徨うというのも……それに追っ手もかかるでしょうし……」
「そうですよね……それを攪乱するとなるとそれなりの準備が……」
フィナルフィンは天を仰ぐ。
「他国から来た内弟子の人は何人かいますが……彼らを巻き込むのも……」
それからしばらく彼は考えこんでいたが、急に顔色が変わった。
「そういえば、あなたは知っているんですよね? どうやってティアに子供を産ませるんです?」
ハルムートは言葉に詰まる。
「教えて下さい。重要なことなんです」
ハルムートは仕方なく話し出した。
「お二人を薬の入った飲物で眠らせたところに、ジーク様がきて……」
「いつです?」
「ハネムーンから戻ったら……」
フィナルフィンとメルフロウは顔を見合わせた。
「ともかくそれだけは阻止しないと……」
「でもどうやって?」
「どうやってといわれても……」
三人は顔を見合わせた。
「ともかく屋敷に戻りましょうか。ハネムーンが終わるまではまだもう少し間があります。それに……」
ハルムートがフィナルフィンの下半身を見ながら言う。
フィナルフィンもばつの悪そうな表情でうなずいた。
「そうですね……」
フィナルフィンは立ち上がる。それからハルムートに小声で言った。
「あの、それじゃ戻ったらズボン貸してもらえますか?」
「はい、もちろんです。申し訳ありません」
「どうされたのです?」
メルフロウが尋ねるとフィナルフィンがごまかした。
「いえ、ほら、ちょっと汚れちゃって」
そのときメルフロウもそこからぷうんと漂ってくる尿臭に気が付いた。
彼女は慌てて答えた。
「あ、そうですか。構いませんよ」
何が構わないのか良く分からないが―――三人は屋敷に戻った。
小便をちびった状態で色々偉そうなことを言っていたフィンの姿を想像して、アウラは吹き出した。
メルファラも同じことを考えていたのだろう。彼女も笑いながら言う。
「こんな感じでル・ウーダ殿との初デートは終わったんですが」
「そんなだったんだ……良く分かんない度胸は据わってると思ってたんだけど」
「初めてならこんな物なのではないでしょうか?」
「そうかもね」
二人は笑った。