第6章 秘密作戦
外はかなり暗くなってきていた。
メルファラはちらっと窓の外を眺めるとアウラに尋ねた。
「夕食はどういたします?」
「え? もう?」
だが昼からずっとお茶やお菓子をつまみながら話を聞いていたせいで、あまりお腹はすいていなかった。
それはメルファラも同様だったらしい。
「それではもう少し続きをお話ししましょうか?」
「うん」
アウラはうなずいた。
今ではこの話がどうなるかの方が夕食よりも興味があった。
そこでメルファラはパミーナに夕食を遅らせるよう指示をすると話を続けた。
「人生の転機といいますが、この日が私にとってまさにそれでした。その日を境に私の人生は本当に一変してしまったんです。それまではただ何も考えずにその日その日の義務を果たしているだけで良かったのですが、それからというものは、自分たちのはまり込んだ罠からどうやって脱出するかという戦いの日々になりました……」
そう話すメルファラは何かちょっと嬉しそうだった。
窓の外はさわやかな晴天だった。
季節はもう秋だ。
メルフロウとエルセティアはハネムーンを終えるとジアーナ屋敷の離宮に戻ってきた。
こんな日は遠乗りに行くにはうってつけだったが、今はそれどころではない。彼女たちは朝からずっと部屋にこもって密談をしていた。
部屋には二人の他にハルムートもいた。
彼は出立を急かすエルセティアに説明をしていた。
「……そう簡単にはいきません。もう少し準備期間が必要かと。ご存じの通り都からメリスまでは長い一本道です。そこで半日程度のリードでは間違いなく追いつかれてしまいます。もっと時間を稼ぐため、何らかの工作をしておかないと」
「工作って?」
「例えば影武者を立てて別な方に行ってもらうとかそういったことですが……迂闊なことをすればすぐばれてしまいます。慎重に事を運ばないと」
「うう……」
エルセティアもうなずかざるを得なかった。
それを聞いてメルフロウが言う。
「そうですか。簡単にはいかないんですね」
「まあ、焦っても仕方ありません。まだしばらく余裕ははありますから」
だがそこでエルセティアが言った。
「そうだけど……でも次ってあと三週間くらいだし。向こうだって知ってるんでしょ? 時期のこと……」
「まあ、それはそうですが……」
そこでメルフロウが言う。
「それを今心配しても仕方ありませんし」
「うん。まあ、そうだけど……」
二人は顔を見合わせる。確かに今思い悩んだところで何にもならない。
ともかく彼らは今できることをやらなければならないのだ。
《今、私達にできること……ですか……》
とりあえずの危機は脱したとはいえ、決して良い状況とは言えない―――だがそれなのにメルフロウは妙に生き生きとした気分だった。
彼女は隣に座っているエルセティアの顔を眺めた。
いつもころころと表情が変わって、見ていて全然飽きない。
そんな彼女を見ていると胸の奥に何か暖かい感情が湧き上がってくる。
《私が本物だったとしても……こんな気持ちなんでしょうか?》
一体自分とエルセティアというのはどういう関係なのだろう?
ほとんど成り行きでこんなことになってしまっているが―――それでも今、彼女が誰よりも大切な人なのは間違いない。
彼女を守るためならば何でもできる。
―――今はそんな気がする……
「ん? なに?」
メルフロウがそんなことを思いながら見つめているとエルセティアがふり返った。
「いえ、なんでも……」
そう言って目を逸らしたメルフロウにエルセティアが言う。
「まーた自分が男だったらとか考えてるんでしょ?」
「え? いえ……」
まさに図星だったが……
「だからもうそれは言いっこなしだから! 守ってくれたとき、もうその辺の男なんかよりずーっとカッコ良かったんだから!」
「え? ああ……」
メルフロウは少し顔が熱くなった。
それはつい先日のことだ。
そこで少なくとも一つ、彼女は成し遂げたのだ。
それはある意味、生まれて初めて行った本物の戦いでの勝利だった。
―――ハネムーンから戻った日の夜、メルフロウは一人で父親のオフィスにいた。
エルセティアが心配して一緒に来たいと言ったが断った。
ここは彼女の戦いの場なのだ。
メルフロウはデスクの向こうに座っている男を見つめた。
ジークⅦ世。全ての元凶。彼女の父親……
こんな風に彼と対峙したのは、エルセティアを園遊会に呼ぼうとしたとき以来だ。
同様に彼が彼女の元にやってくることも滅多になかった。
幼少時を育った湖の別邸には年に数回ちらりと顔を見せるだけだったし、このジアーナ屋敷に移ってきてからも住む棟が違っていて、互いに行き来することは希だった。
メルフロウは父親の顔をじっと見つめた。
そこには表情という物が見いだせなかった。
その顔は木から彫りだした面のようで、その目は穿たれた黒い穴のようだ。
《この人は本当に人間なのだろうか?》
メルフロウはエルセティアや彼女の友達と交わって、人には感情という物があることを知った。だから彼女たちと一緒にいるのはあれほどまでに楽しいのだ。
だが思い起こしてみたら目の前にいるこの人にそれを感じたことはなかった。
それでも彼女はずっと彼を尊敬し続けてきた。
父親が好きだった。
いや―――好きだと思い続けてきた。
《いったいどうして?》
以前なら考えもしなかったが、今ではその理由は良く分かる。
それはハルムートがそうしろと言ったからだ。
彼はジークⅦ世と若い頃から苦楽を共にしていて、今でも心底ジークⅦ世を尊敬している。
ハルムートは単にジークⅦ世の家臣に過ぎない。
だがメルフロウにとっては間違いなく真の父親よりもっと父親らしい存在だった。
物心付いた頃から常に彼女の側には彼とルウの姿があった。
彼女を誉めたり叱ったりしてくれるのは彼だった。
彼女に弓や剣を教えてくれたのも彼だった。
―――その彼が言ったのだ。時々やってくる不思議な男に対して『フロウ様。あのお方があなたのお父上ですよ。ご挨拶なさい』と……
ハルムートはその男に対して最大の敬愛の念を持って接していた。
ならば自分だってそうするのが当然だろう?
メルフロウにとって父との関係はそういったものだった。
「それで? 今日は何だ?」
ジークⅦ世が無表情に言った。メルフロウは奥歯を噛みしめた。
「今日は大切なお話があって参りました」
「大切な話?」
「はい」
「話してみろ」
メルフロウは軽くうなずいた。それから軽く深呼吸する。
「話とは……世継ぎに関することです」
ジークⅦ世は目を細める。
「世継ぎはお前であろう?」
メルフロウは首を振る。
「いいえ、私が即位したあと、私の後を継ぐ世継ぎに関してです」
ジークⅦ世はそれを聞いてまたちょっと目を細めると尋ねた。
「何故そのようなことを?」
メルフロウはじっと彼の目を見る。
「ご存じの通り、私達では子供は作れませんし」
ジークⅦ世はふっと鼻を鳴らす。
「お前がそのようなことを気にする必要はない」
そして会見は終わったと横を向こうとした。
だがここで終わらせるわけにはいかない―――メルフロウはその横顔に向けて叫んだ。
「いいえ! 気にします」
「なに?」
ジークⅦ世は振り返る。
メルフロウは彼の目を見据えて言った。
「あなたはティアをどうするおつもりなのですか?」
それを聞いたジークⅦ世は少し動揺した。
「どうするとはどういうことだ?」
「とぼけないで下さい! 全てはムートが話してくれました」
「なんだと?」
ジークⅦ世はそう怒鳴ってどんと立ち上がると、恐ろしい形相でメルフロウを睨んだ。
メルフロウは肝を潰した―――なぜならこれが彼女の父が見せた初めての感情だったからだ。
もし今までの彼女であればそこで力尽きてしまっただろう。
だが今の彼女には守るべき物があった。
「何故奴はそんなことを?」
メルフロウはぎゅっと拳を握りしめると答えた。
「いいえ、ムートは悪くありません。こちらから問いつめたのです」
「お前からだと?」
「はい。考えたら当然ではありませんか? 私達に子供はできない。だったら私の後を継ぐのは一体誰でしょうか? 気になって当然でしょう?」
ジークⅦ世は目を見開いてじっとメルフロウを見る。
「それで……どうしたいのだ?」
メルフロウの心臓は早鐘のように鼓動していた。
彼女は最大の勇気を振り絞って言った。
「まず、ティアは私の妻だ、ということです。だから誰にも、父上であっても、好きにはさせません」
「何だと?」
ジークⅦ世がじろっと彼女を睨む。
彼女は真っ正面から彼の視線を受け止めた。
「ですが私も理解しています。私がどのような存在なのか。私達はもう父上と一蓮托生なのも。だから父上が世継ぎを欲していらっしゃるも分かっています……だから、種だけ私に頂けますか?」
「なんだと?」
ジークⅦ世は絶句する。メルフロウは再び彼に向かって言った。
「子種です! それを頂ければ私がそれをティアに与えますので。そして世継ぎができれば、それは父上にお渡しします。その後私達は姿を消しましょう。どこか遠い所に。あとは父上、お好きになさって下さい。そういうことです」
それは全く予想外のことだったのだろう。
ジークⅦ世は唖然としてメルフロウの言うことを聞いていた。
話し終えた後、彼はしばらくじっと彼女の顔を見つめた。
「一体全体どこからそんな馬鹿げた考えが……」
途端にメルフロウの心の内に赤黒い怒りが湧き上がってきた。
「馬鹿げた⁈ 私のような存在は馬鹿げていないのですか?」
ジークⅦ世は再び激昂した。
「ふざけるな! ああ! そうか! あの小娘か……所詮ル・ウーダなどという……」
「父上! ティアを愚弄なさるのですか?」
その声が部屋に凛と響き渡る。
その響きに自分でも驚いていた―――それまで自分がそんな声を出せるということを知らなかったからだ。
ジークⅦ世は驚愕の表情で彼女を見つめる。
メルフロウはそんな父親をまっすぐ見つめ返す。
「ともかくこれだけは聞いて頂かなければ。さもないと……」
メルフロウは隠し持っていた短剣を抜き放ち、自分の喉にあてがった。
「何をするか?」
「見ての通りです。条件を呑んで頂かなければ……今ここで果てるまでです」
「お前は何を……」
ジークⅦ世の声に狼狽の色が現れる。
そんな父親に向かってメルフロウが叫ぶ。
「父上! あなたは許せたのですか? もし母上がティアと同じ目にあったとして?」
「………………」
ジークⅦ世は黙り込んだ。
それからふっと顔を上げると―――大きな声で笑い出したのだ。
そして彼は言った。
「よかろう」
それからメルフロウの前までやって来るとその顔をじっと見つめる。
「しっかりやれ」
ジークⅦ世はそう言って彼女の肩をぽんと叩き、踵を返してまたデスクに戻る。
それから会見は終わったというように手を振った。
メルフロウは軽くうなずくと踵を返して部屋を出る。
外ではハルムートとエルセティアが蒼い顔で待っていた。
「大丈夫? フロウ?」
「ええ。大丈夫です……」
だが途端に膝ががっくりと力を失ってしまう。
慌てて二人が彼女を抱きかかえた。
そんな姿で自室に戻りながらメルフロウは思った。
これではあまりフィンのことを笑ってもいられないようだ―――
思い起こしてみればこれが父親との最初で最後の触れあいだったのかもしれない。
『よかろう』と言ったときの父の顔には紛れもなく何かの感情が表れていた。
それが何だったのかはもう分からないが……
だがあの顔を見たことでメルフロウは父親を少しだけ許すことができた。
もちろんそれは後の話だ。
そのときのメルフロウはともかくこれからのことで一杯一杯で、そんなことを思いやっている余裕など一切なかった。
「ともかく三週間なんてすぐ経ってしまいます。いろいろ急ぎませんと」
気づくとハルムートがそう言っていた。
「そうですね」
メルフロウはうなずいた。それは全くその通りだ。
三週間後はエルセティアの生理予定日だ。そこで生理が来てしまえば彼女が身籠もっていないことが分かってしまう。
もちろん黄緑茶を飲むことで一時的に止めることはできるが―――そうなれば間違いなくジークⅦ世は治療師を連れてくるだろう。そうなったら妊娠していないことなどすぐバレてしまうだろうし……
もちろんたまたまうまく行かなかったと言えば、もう何回かは人工授精のチャンスはあるかもしれないが―――でもやがてはジークⅦ世も不審に思うだろう。
それを聞いたエルセティアが言った。
「いざとなったら本当に入れちゃえばいいんでしょ? お腹大きくなるまでなら旅だってできるし、それに男の子が生まれるって限らないし……」
だがメルフロウは言下にそれを拒否した。
「だめです! それは許しません!」
その剣幕にエルセティアはたじたじとなる。
「でも……」
「私のためにあなたがそんな目にあうことはありません」
「うう……でも……」
メルフロウは黙って首を振る。彼女はそれだけは許すつもりはなかった。
だがそうした場合確かに残された期間は短い。それで何とかなるのだろうか? 勝算はあるのだろうか?
そんな調子で場の空気が暗くなりそうになったとき、部屋にルウがやってくると皆に告げた。
「ル・ウーダ様がいらっしゃいました」
メルフロウはほっとした。
「お通しして下さい」
「はい」
しばらくするとフィナルフィンが入って来る。
「どうも、遅くなりました」
「いえ、どうぞお座り下さい」
フィナルフィンは空いたソファに腰を下ろすと大きく溜息をついた。
その様子を見るとそちらもあまり上手く行っていないようだった。
「どうでしたか?」
「いろいろ聞いてみましたが、ここはって場所はなかなかありませんね……ただの駆け落ちとかじゃありませんし」
「そうでしょうね……」
一同は顔を見合わせた。
彼らにとって最大の問題は都落ちした後どこに落ち着くかだった。
前にも述べた通りフィナルフィンの実家には各地から内弟子が集まっており、様々な地方の情報が集めやすかった。
彼はそこでみんなにいろいろ聞いてきたのだが……
「やはりアイフィロスが一番行きやすそうですが、その分都から来る人も多いわけで、大抵の貴族の館には都から来た人が逗留してるそうですし……そうなるとばれてしまう可能性も高そうで……」
「そうでしょうね……」
アイフィロス王国は都とつながりが深く、そのため都落ちの先としてはある意味一番ポピュラーな場所だった。それはすなわち彼らを知っている人と出くわしてしまう可能性も高いということだった。
フィナルフィンは続けた。
「短期ならともかく、長い間正体を明かさずにおくことは無理でしょうし、さすがに分かっていて匿ってくれとは……」
一同はうなずいた。
なにしろ貴族の子女がちょっと駆け落ちするとかいうレベルではないのだ。今回落ちるのは大皇の世継ぎである。それを匿うというだけでそれ相応の覚悟が必要となる。
しかも今回はメルフロウのとんでもない正体というおまけ付きだ―――そこまで知って匿うとなれば、下手をすれば都と全面対決ということまであり得るのだ。
だがこれがメルフロウだけならば、本当にこの世から消えてしまうことができた。
《というより……元々そんな“男”は存在していないのですから……》
そう。本来の性別に戻ってしまえばいいのである。
だが―――エルセティア達はそうはいかなかった。
彼女はもう世継ぎの妃として都では好む好まざるに関わらず有名になっていた。
そして彼女がいれば当然“メルフロウ皇太子”の行方に関わっていると思われるのは自然だ。そしてそこに皇太子がいなければ追及されるのは必然だ。それは彼女にとってより悪い結果としか言いようがなかった。
「だとすればどこか他の所ですか?」
メルフロウが尋ねるとハルムートが首を振る。
「それはそうですが……それはどこでも同じでは?」
それもうなずかざるを得なかった。
たとえそこがどういった国だろうと、彼女たちを知っていて匿うとなれば同じ理由で二の足を踏むのは間違いない。
いわばもうこの世界中どこにも安住の地はないような物なのだが……
それを聞いていたエルセティアが口を挟んだ。
「シルヴェストってどうなの? あそこ、ワインが美味しいんでしょ?」
フィナルフィンが答える。
「どうって、シルヴェストからは誰も来てないし。良く分からないよ」
「じゃあセイルズは? 確かメティエさんだっけ? あの人そこからでしょ? お魚がとっても美味しいって言ってたじゃない」
「ああ。彼には訊いたけど、悪くはないかもしれないけど、結構遠いしなあ」
「それじゃバシリカは? あっちの方が近いし。それにママの出身だし。ほら、お餅作ってくれたじゃない。こっちだとお米が手に入りにくいからたまにしか出なかったけど」
その頃にはみんな彼女の考えていることに気がついていた。
「おい、さっきから食い物の話ばかりしてないか?」
フィナルフィンの突っ込みにエルセティアは平然と答える。
「いいじゃない! どこ行っても同じなら食べ物が美味しい所の方がいいじゃない!」
メルフロウは吹き出した。
「確かにティアの言うことにも一理ありますね」
フィナルフィンもハルムートも一瞬うっと息を呑む。
「でしょ? でしょ?」
勝ち誇るエルセティアを無視してフィナルフィンはハルムートに尋ねた。
「それじゃやはり行くとしたら草原のどこかなんでしょうかね?」
だがハルムートはあまり乗り気ではなさそうだ。
「レイモンの国内というのはやはり……」
「そうすると真面目にシルヴェストとかサルトスあたりですか?」
考え込むハルムートにまたエルセティアが茶々を入れる。
「フォレスって所は? すごくきれいな所なんだって」
「だから観光じゃないっての。それにあそこはベラの属国みたいな所だって」
「さすがにベラとなりますと……」
「じゃあこの際エクシーレまで行ってみるとか?」
「もうお前一人で行ってこいよ」
前回の会合時にもこんな調子で紛糾したせいで、フィナルフィンが話を聞いてくるということになったのだが……
実際のところ、まともな落ち着き先などないのではないだろうか?
どこに行こうと正体が割れた時点で国際問題だ。
だとすれば正体を隠したまま各地を転々としていくしかないのだろうか?
実際、世の中にはそんな生活をしている人もいるらしいのだが―――メルフロウにはそんな生活は想像もつかなかった。
「ともかくもう一度シルヴェストあたりを中心に調べてみます。ただそうすると組合の方に訊いてみるしかなさそうですが……」
「組合ですか。注意して下さいね」
ハルムートは心配そうだ。フィナルフィンもうなずいた。
「ええ、まあ……本家まで巻き込みたくないですし……」
組合とは荷馬車の組合のことで、ル・ウーダの本家が代々取り仕切っている。
そこに行けば各地からの情報はずっと手にはいるのだが、知らないうちに今回の騒ぎに巻き込んでしまう可能性もある。
「すみません。フィン……」
思わずメルフロウはフィナルフィンに謝っていた。
「フロウ。違うんですよ」
「でも……私のせいで」
フィナルフィンとエルセティアが同時に手を振って答える。
「気にしちゃだめだって」
「だからそれは気にしないで下さい」
そう言われても―――気にしないでいられる問題ではない。
当然ながら彼らが姿を消すということは、彼らに関わった者もただでは済まないということだ。
まずジークの家の破滅は避けがたい。
これは彼の自業自得だと諦めることもできる―――だがそれだけでなく、エルセティアやフィナルフィンの実家であるヤーマンの家にも間違いなく火の粉は降りかかるだろう。
その点を尋ねたら二人とも『自分たちの両親はしぶといから大丈夫だ』と言うばかりだ。実際彼らの逸話を聞くとある程度は納得できるのだが―――でも元々この件に関しては一切無関係なのだ。
しかしいくらメルフロウがそう思ったからといって、代わりのいい案があるわけではない。
彼女は黙って彼らの親切を受け入れる他なかった。
《代わりに私は何をしてやれるのだろう?》
そう考える度に心が痛む。
みんなそんなことは脱出してからゆっくり考えれば良いと言う。
彼女はそれに口では同意するしかないが―――最近一人になって思うのはそのことばかりだ……
などと内心で鬱々としているうちに話は変わっていた。
「それはそうとムートさん、馬車はどうでした?」
フィナルフィンの問いにハルムートは首を振った。
「すみません。もう少しお待ちを。迂闊な所からは入手できませんので」
それを聞いてエルセティアが言った。
「あたし達別に馬車じゃなくてもよくない? 二人とも乗馬は得意だし。それにその方が速いでしょ?」
「でもこれからは天気が崩れることも多くなります。急いでいるときには宿屋に泊まれないこともあるでしょうし。そんなときに屋根がないのは」
「うう……そうか」
その答えに彼女も頭を抱える。メルフロウは尋ねた。
「上等な物を探しすぎていませんか? それって逆に目立ちませんか?」
「いえ、そういうわけではないのですが、ある程度防御のできる物の方が良いかと……」
そこにフィナルフィンが尋ねる。
「防御って? いきなり襲ってきたりしますか?」
「追っ手だったらいきなり襲って来はしないと思いますが……ただ最近馬車隊が襲われたという話もよく聞きますし」
その答えにフィンは納得したようにうなずいた。
「ああ、確かに……荷馬車のふりしてるとそういうのが寄ってくることもあるのか……」
「あ! それあたしも聞いた。最近結構多いんでしょ?」
そうだったのか? 単に逃げるだけでは済まないと? だとしたら?
「だったら武器も用意しておかないといけませんか?」
メルフロウが尋ねるとハルムートは首を振った。
「フロウ様はお気になさらずに」
そうはいかない! メルフロウは首をふった。
「いいえ! いざとなったら私も戦います!」
こんなときに使えなければ剣を習った意味がないではないか?
だがそこでエルセティアが言った。
「でもフロウ。ドレス着てるのよね?」
「え? あ!」
脱出行では少しでも相手を攪乱するため、彼女は女性の姿をすることになっていた。
「それだと……動きづらいですね」
口ごもる彼女に対してハルムートが言う。
「だからフロウ様はそのようなことはお考えになる必要はありません。あなた方を護るのは私の役割です」
「でも……」
「あなたが倒れたら何もかもが意味を失ってしまいますから」
メルフロウは抗弁したかったが言葉が出てこなかった。
そんな彼女を見ながら、エルセティアが少し嬉しそうな声で言う。
「ともかくフロウの服は一杯用意しないとね」
メルフロウは彼女の顔を見た。
「それはルウがやってくれていますが……でもやっぱりなんか変な感じですね。ドレスって」
この話が決まってから彼女は女の姿に慣れるため、何度もドレスを着て振る舞う練習をしていた。
「変って、もったいなさすぎなのよ! フロウがドレスアップしたらものすごく綺麗なんだから!」
「止めて下さい」
何だかちょっと顔が熱くなる。
「いいじゃない。デュールだって見とれてたんだし」
「だからあれは……」
済んだ話を―――そう思って話を変えようとしたときだった。
「ああ? デュール?」
フィナルフィンが不思議そうな顔で二人を見ている。
考えてみればこのことはまだ彼には話していなかったかもしれない。
「あ、この間のハネムーンのときね……」
そこでエルセティアはカロンデュールがやって来たときの話をした。
フィナルフィンは目を丸くしてその話を聞いていた。
「えっと……ムートさん、これって本当なんですか?」
「ええ、まあ……」
ハルムートもうなずいた。
「何て言うか、危ないなあ……」
「いや、全くその通りでした」
ハルムートがそう答えたところで、フィナルフィンは急にはっとした表情になると、下を向いて考え込み始めた。
「ん? どうしたの?」
「いや、ちょっと待ってくれ」
それからしばらくして彼はふっと顔を上げるとメルフロウに向かって言った。
「えっと……あの、仮の話なんですが……」
「なんですか?」
「フロウ。あなたはカロンデュールのことはどう思います?」
「ええ? どう思うって?」
「ま、その、彼ってなかなか、何というか、好男子ですよね?」
「え?」
彼女は今までそんなことを考えたこともなかったのだが―――聞いていたハルムートが驚いた様子で口を挟んだ。
「フィン殿、まさか、その……」
「え、いえ、だから仮の話なんですが……」
フィナルフィンは“仮”という言葉を強調する。
「どういうことよ?」
エルセティアの問いにフィナルフィンは答えた。
「つまりその、カロンデュールと“メルファラ皇女”が結婚ということになれば……その、結構上手く収まらないかなって、そう思ったんで……」
メルフロウは驚いて訊き返した。
「どういうことです? 私が?」
「ええ。だから、今の話ではデュールは決してあなた方を憎んではいなかったと。だとすれば彼と“メルファラ皇女”が結婚することで、ダアルの家とジークの家の確執を終わらせることができるのではないかと……」
メルフロウは目を見開いてその話を聞いた。
あまりのことに頭の中は真っ白だった。
ハルムートもエルセティアも同様だ。
「ジークⅦ世があなたを男として育てたこと、これははっきり言って認められることではありませんよね。だからこうして都落ちしようと算段していたわけですが……でも都落ちだけが解決法ではないわけで……」
三人は唖然とした顔でフィナルフィンの話を聞く。
「そもそも本物のメルフロウ皇子が亡くなられた時点で、世継ぎはカロンデュールだったわけです。だから彼が次期の大皇になるのが本来じゃないですか。その彼とあなたが結婚したら、あなたは大皇后となりますが……こうすればどちらの家も面目を失うことはないんじゃないでしょうか?」
「でもそうしたら今の私は?」
そう尋ねるメルフロウにフィナルフィンは答えた。
「例えば急病になったとか、どこかで事故にでも遭ったとかでいいんじゃないでしょうか。何か適当に理由をでっち上げて“メルフロウ皇太子”がこの世から消えて“メルファラ皇女”が現れるのです」
フィナルフィンはメルフロウを見つめる。そして言った。
「何しろ……それがあなたの本来の姿なんですから」
メルフロウはぽかんとした顔でフィナルフィンを見つめ返す。
自分の本来の姿?
確かにそれはそうかもしれないが……
でも彼女が彼と結婚する? 后として?
理屈は分かるのだが―――全くぴんと来なかった。
だがその点を除けば悪くない考えに聞こえた―――というより、考えれば考えるほどこれしかないのでは? と思えてくるのだが……
《では、もし私がそうしなければ?》
そうしなければ―――父親は破滅し、ル・ウーダの家にも多大な迷惑がかかり、明日をも知れぬ旅暮らしとなる……
自分一人ならばそれでもいいだろう。
だが、エルセティアやフィナルフィンを巻き込むのは嫌だった。
しかもその旅で彼女が彼らにしてあげられることは多分―――何一つないだろう。
だがもし大皇后になれるのであれば……
………………
…………
……
メルフロウはじっとフィナルフィンを見た。
「それで上手く行くんでしょうか?」
彼はゆっくりかぶりを振る。
「それは……分かりません。たった今思いついたことだし……そもそも仮の話ですから……」
話を聞いていたハルムートも同様だった。
「私もちょっとこれは……」
だがそのとき既にメルフロウの心は決まっていたのだ。
「私はいい考えだと思います。私には異存ありません」
「フロウ! ちょっと!」
「フロウ様?」
そのきっぱりとした答えを聞いて一同がメルフロウの顔を見た。
さらに何か言おうとする彼らをメルフロウは押しとどめた。
「ムート、考えてみたら“メルフロウ”なんて男はこの世に存在していないのですよね? ではこの私とはいったい何者なんでしょうか?」
「………………」
ハルムートは返す言葉もない。
「そんなことでこのおかしな状況を終わらせることができるのなら……それに私が私の本来あるべき姿に戻るというのですよ。何か問題がありますか?」
「いえ、しかし……」
ハルムートは口ごもる。横からフィナルフィンが言う。
「あの、フロウ、これはもう少し慎重に考えた方が……」
メルフロウはうなずいた。
「そう思いますね。何しろこれにはデュールの協力が必須ですし。彼に拒否されたらやはり都落ちしかないのでしょう?」
心が決まってしまえば言葉も考えもすらすらと出てくる。
「えっ? まあ……」
フィナルフィンも口ごもるが、それを聞いていたエルセティアが突っ込んだ。
「拒否なんてできないわよ⁉ フロウがちゃんとドレスアップしたら!」
「おいおい! お前どっちなんだよ?」
「ええ? あの、えーっと……」
混乱している一同を見てメルフロウは可笑しくなった。
「ムート。あなたは確かデュールの付き人の誰かと道場が同じだった言っていましたね?」
「え? スロムですか? はい。若い頃は……ただ最近はほとんど顔を合わせたこともありません」
「そうですか。彼ともう一度会って話す機会というのは作れないでしょうか?」
それを聞いてハルムートは考え込んでしまった。
「ちょっと簡単には……努力してみますが、怪しまれないようにするとなると……」
「それで構いませんから何とかお願いします」
「……分かりました」
メルフロウは何か胸のつかえが下りたような気がした。
もしこれが上手くいけば何もかもが丸く収まりそうだ。
何もかもが……
「私が今こうしていられるのもそういった経緯があったからでした」
そう言ってメルファラは一息ついた。
窓の外はもう真っ暗だ。
「そろそろ夕食にいたしますか?」
「うん」
さすがにお腹がすいてきていたのでアウラもうなずいた。
メルファラが合図するとパミーナが食事を部屋に運んでくる。
夕食が終わったところでアウラは尋ねた。
「それでデュールと……じゃなくて大皇様との結婚ってうまくいったの?」
それを聞いたメルファラはまた微笑む。
「うまく、と言いますか……最初はもう雲を掴むような話で。当時はデュールとプライベートに接触することなどほとんど不可能でしたから……でもそこでフィンが大失敗してくれたせいで予想外にとんとん拍子に行ってしまったんです」
「え? 大失敗? どんな?」
「それではお話ししてしまいましょうか」
「え? あの、ファラが良ければ……」
「こちらは構いませんから」
メルファラは話し始めた。
それから半月ほどしたある日の午後だった。
メルフロウの私室に再びフィナルフィンがやって来ていたのだが―――彼は出された数枚のメモを前に頭を抱えていた。
「もうこれってどうなのよ?」
「すまん。いや、こんな事になるとは……本当に迂闊だった……」
「迂闊ぅ? あのねえ、迂闊で済めば魔法使いなんていらないのよっ! ダメだったら一体どうするつもりなのよっ! これ!」
エルセティアの訳の分からない突っ込みにフィナルフィンはたじたじだ。
実際あまりの展開にメルフロウも開いた口がふさがらなかった―――というのも、都では今、世継ぎの双子の妹が生きているという噂で持ちきりになっていたからだ。
彼らの前のメモとは、その噂の調査をしたハルムートの部下が書き留めてきたものだ。
基本的な物は大体こんな感じだ。
お世継ぎのメルフロウ殿の死んだはずの妹が、実は世を忍ぶ姿で生きていた。彼女の名前はメルディアナ皇女という。メルフロウ皇子とメルディアナ皇女が生まれたとき、ジークⅦ世の夢枕に白の女王が立った。白の女王はジークⅦ世に、もしも皇女が一七才になるまでに人の目に触れたら恐ろしい災厄が起こるであろうと予言した。ジークⅦ世はそれで皇女を人里離れた山のなかでお育てした。
大方はこんな調子なのだが、中にはとんでもない大作もある。いちばん笑えるのはこれだ。
メルフロウ皇子の出産はひどい難産だった。皇子に続いて双子の妹メルフライア皇女が生まれたとき、母君のエイジニア妃は苦痛の中幻を見た。
それは大聖と白の女王の姿だった。
幻は妃に語りかけた。
『エイジニアよ、そなたの命運が尽きるときが近づいた。さあ、私たちと一緒に来るがよい』
それを聞いた妃は答えた。
『私は生まれて来るこの子たちを置いては行けません』
だが大聖の幻は首をふると答えた。
『これがお前の定めなのだ、この定めは私でも変えることはできない』
絶望した妃は尋ねた。
『それならばせめてわが子達の行く末を見せて頂くことはできないのですか?』
だが大聖はまた首を振る。
『私にはそれもできない。それを見ればお前の苦しみはいやが増すであろうから』
だが、妃は懇願し続けた。そこでそんな妃の苦しみを見かねた白の女王がとりなして、妃に子供達の未来を見せてやったのだ。
だがそれは子供達のあまりにも不幸な未来だった。
エイジニア妃の死によってジークⅦ世は発狂し頓死する。
庇護を失った子供達は別々の家に引き取られるが、兄のメルフロウ皇子はまだ言葉も喋れないうちに病死する。
妹のメルフライア皇女はすくすく成長して都でも一、二を争う美女となる。
だが彼女は体は成長しても心は赤子のままであった。
皇女を引き取った夫婦は心の底から皇女を愛していたが、この美しい皇女がこのままでは弄ばれるだけの運命にあるのを悲観して、皇女ともども湖に身を投げた……
それを見たエイジニア妃は言った。
『どうして罪のない子供達にこのようなつらい運命を背負わせるのです? 私の命だけでは飽き足りないのですか? このままでは私は死んでも死にきれません。私ならば結構です。地獄の底まで落ちて永遠の責苦を受けようと、亡霊となってこの地を永久にさまよう運命を与えられようと……ですが、その代わりに子供達には幸せをお与え下さい!』
その苦しみを見た大聖は言った。
『これはお前達の一族の呪いの果てなのだ。同じ一族でありながら争い、血を流しあった報いなのだ。だが、一つだけ方法がある。それは皇女をこの地の栄華から完全に切り放すことだ。その皇女が辛酸をなめることで、呪いは弱められ、ついには断ち切られることとなろう』
『その辛酸はどのぐらいの間ですか?』
だが大聖の答えはつれないものであった。
『私にも分からない。もしかすれば数年かもしれぬし、一生かかるかも知れぬ』
だがそれでも妃はそれを受け入れるしかなかった。
そして大聖の特別の思召しで、明け方のある時刻だけ、皇女に逢いに行くことが許された。
妃は死の間際にジークⅦ世にそのことを言い残して死んだ。
ジークⅦ世は妃の遺言を守り、皇女をいずことも知れぬ地に隠した。
その場所を知っているのはジークⅦ世以外では、ただ一人のさる高貴なお方だけであった。
皇女はその地で田舎の娘として育っていった。
彼女は都のことは知らなかったし、自分の生まれのことも露知らなかった。
だがいつも不思議に思うのは、朝目が覚めたときいつでも誰かが見守っていてくれたような気がすることだった……
この後は皇女が都からきた若者と恋に落ちて大ラブロマンスが発生するらしいのだが、それ以上はもうどうでもいいのでメモしてこなかったらしい。
最初噂が広がったときは、一同は本当に顔面蒼白だった―――しかも調べてみるとその噂の出所がどうやらフィナルフィンらしいのだ。
これで調査担当がハルムートでなかったら一体どんなことになっていたか想像もできない。
そもそもどうしてこんな事になったかというと―――それはメルフロウのドレスがきっかけだった。
カロンデュールと会見するときには当然皇女としての正装をしていかなければならないが、もちろんメルフロウがそんな衣装を持っているわけがない。エルセティアのドレスを直してごまかせないわけではないが、この際なら新調してしまおうとそういう話になったのだ。
だがもちろん直接注文するわけにはいかない。エルセティアやハルムートが動くわけにもいかない。
そこでフィナルフィンが代わりに注文しに行くことになったのだが―――その行き先でこんな出来事があったのだ……
―――そのときフィナルフィンは都随一のブティックの店内にいた。
彼は今まであまりこういう場所には縁がなかったので、その店の絢爛豪華な雰囲気に圧倒されていた。
《まあともかく、俺が選ぶんじゃないんだし……》
どのドレスを買うかはもう決まっている。エルセティアが彼女の持っていた山のようなカタログの中から一晩かけて選んだものだ。
「モーリヤーンでございますか? そのお品でしたらあれでございますが」
店員が店の中央に展示されている青色のドレスを指さした。
「おお……いいねえ……」
フィナルフィンはそう答えながら内心唖然とした。何だかここで売ってる最高級品じゃないのか? 幾らするんだ? あれは? まあ、自分で金を出すわけではないからいいのだが……
そのときだ。
「まあフィン! どうしてこんな所に?」
振り返るとそこにいたのはフィーリアン姫だ。
「あ? リアンか? そりゃまあ服を買うんだが? 君は?」
「私はホールと一緒に」
フィナルフィンはその後ろに男がいることに気が付いた。確かアスタルのマルホールといったと思うが……
《いつぞやお披露目でティアに声をかけた奴だっけ?》
あの後話を聞いたら、実は彼の本命はこのフィーリアン姫だったのだが、ちょっと喧嘩をしていて、そこで当てつけのためエルセティアに云々とかいう経緯だったそうで―――心底どうでもいい話だが……
彼らが軽く挨拶を交わしているとフィーリアンが言った。
「で? どなたに?」
「え?」
フィーリアンがにこにこしながらフィナルフィンを見ている。
彼女はそういったゴシップが大好きだ。
「どなたにお贈りになるの? まさか自分でお召しになるとか?」
「そんなわけないだろ?」
そこでフィナルフィンは口から出任せを言ったのだが……
「ティアにだよ。結婚祝いにここでドレスを新調してやるって約束してたんだ」
それを聞いたフィーリアンの目が丸くなった。
「まあ! 素敵! どんなドレスを?」
「ん? まあ、あれなんかどうかなって」
フィナルフィンは先ほどのドレスを指さした。
「まあ……」
フィーリアンは言葉を失ったようにそれを見つめる。
「君もいいと思う?」
「モーリヤーンの新作でしょ? これ以上なんてないわよ。ティアなんかには勿体ないわ。ねえ、ホール。あたしにもあんなの買って!」
マルホールが真っ青になる。彼は慌てて話を逸らそうと努力しはじめるが―――可哀想だがご愁傷様としか言いようがない。
その間にフィナルフィンは仕事をこなすことにした。
「じゃあこれに決めよう」
それを聞いた店員が言った。
「ありがとうございます。それでサイズ合わせはいかがなさいましょうか? ご本人様はいらっしゃいますか?」
「いや。それがちょっと屋敷を空けられなくてね」
「それでしたらこちらからお伺い致しますが?」
「いや、ちょっといろいろ忙しくてそういう時間も取れそうもなくて……でも寸法は測ってきたんでこれで頼みたいんだが」
そう言って彼は店員に採寸表を渡した。店員はしばらくそれを見ていたがやがてにっこり笑ってうなずいた。
「かしこまりました。お受け致します」
「ありがとう」
そのときフィーリアンが口を挟んだ。
「ティア、そんなに忙しいの?」
「やっぱりほら、立場上いろいろ雑用が多いみたいで。それに作法に関してはもう一遍仕込まれてるみたいだし」
それは本当だった。
「まあ! 大変なのね!」
そんなわけでその場はそれで終わったのだが、店から出た後、彼らは一緒にお茶をしようということになった。
フィーリアンはエルセティアの古くからの友達で、フィナルフィンとも幼なじみのようなものだ。そのため彼は全く油断していた。
三人は近くのカフェーでしばらく雑談した。そこでちょっと話題が途切れた所で、フィーリアンが意地の悪そうな笑みを浮かべながらフィナルフィンに尋ねたのだ。
「で、フィン。あのドレスどなたに?」
フィナルフィンは同じように答えた。
「ああ? だからさっきティアにって言っただろ?」
それを聞いたフィーリアンがにた~っと笑う。
「嘘おっしゃい! ティアだと胸回りが合わないわ。それともあの子の胸、そんなに急に大きくなったの?」
虚を突かれてフィナルフィンは口に含んでいたお茶を吹き出しそうになる。
そう。彼女は彼が店員に見せていた採寸表を横から見ていたのだ。
そして彼がこうしてうろたえてしまったせいで彼女は確信を持った。
「やっぱり! で、どなたなの?」
「え、いや、その」
フィナルフィンは頭が真っ白になった。
そこで口ごもる彼にマルホールが助け船を出してくれたのだが……
「おいお前、あまり詮索するのはやめておけよ」
「ん? でもあんな素敵なドレスを贈られる方ってどんな方か気になるじゃない? どちらの姫君なのかしら?」
「いや、だから、ははは」
そこでマルホールが言った。
「もしかしてバーボ・レアルのどなたかとかじゃ?」
バーボ・レアルとは都で最も高級な郭の名前だ。若い貴族が人目を避けて彼女たちに貢ぐのは良くある話だ。渡りに船だ! フィナルフィンは同意しようとしたが……
「まっさかあ!」
その前にフィーリアンに言下に否定されていた。
「ちょっと、どうして僕だとそうじゃないんです?」
フィーリアンは吹き出した。
「フィンが? 考えられないわ!」
男としてそこまで舐められるのもどうだろう?
そこでフィナルフィンは真面目な顔を取り繕って言った。
「はは。僕だっていつまでも恒久安全地帯じゃありませんよ?」
「はいはい」
もちろん全く信じていない顔だ。フィナルフィンがマルホールを見ると、彼はちょっと肩をすくませる。こうなったらもう止められないという顔だ。
《全くどうしてくれよう?》
―――だがそこでフィナルフィンは思い当たった。
《って、まあ構わないんじゃ?》
このままとぼけていてどうなるかというと―――彼がどこかの姫にこっそり服を贈ろうとしているという噂が立つだけだ。その程度なら別にいいではないか? それで困る相手がいるわけでなし……
そんなこんなでうやむやかと思った瞬間だ。
「分かったーっ! お世継ぎの妹君ね?」
ぶはーっ!
さすがにその攻撃は強烈だった。
今度は本当に口にしていたお茶を吹き出してしまった。
「きゃー! 当たったーっ!」
フィナルフィンは慌てて口を拭くと言い返す。
「何を寝ぼけたことを! お世継ぎに妹なんていないだろ?」
「でも前フィン、言ってたじゃない。お世継ぎに妹姫がいたらすごい美人になってただろうって」
フィナルフィンは一瞬言葉に詰まる。
《ちょっと待てよ⁈》
確かにあのバーベキューパーティーからの帰りに、ちらっとそんなことを言った覚えはあるが……
「そんな話はしたかもしれないけど、だから何で本当にいることになるんだ?」
「だって本当だったら素敵じゃない」
いや、だから事実と願望がごっちゃになってないか?
「そりゃ素敵だけどね。そんな姫がいたら。それが本当だったらね。もう……何とか言って下さいよ」
フィナルフィンはマルホールに助けを求めるが、彼も苦笑いするだけだ。
といった調子でその場は終わったのだが―――気づくと数日後には都中にそんな噂が広まっていたのである―――
「あそこからああなるなんて分かるか?」
「分かんなくても注意しないとだめじゃない!」
フィンが抗弁するがエルセティアはここぞとばかりに突っこんでくる。
「無茶苦茶言うなよ。分からなきゃどうしようもないだろ? 大体、お前の胸がもう少し大きけりゃさあ……」
だったらバレなかったのに……
「なーにーよ? あたしのせいだっていうの?」
「まあ、二人とも」
メルフロウが二人の間に割って入ったが……
「ああ! フロウが笑ってる!」
実際もう笑うしかなかった。
何というかもうフィーリアン姫の才能には恐れ入ったとしか言いようがない。
「ともかく今はもうムートの帰りを待つしかありませんから」
その言葉には二人とも反論できかなった。こうなった以上はもはや腹をくくるしかないのだから……
それなのにメルフロウは何故か落ち着いた気分だった。
この噂に関してジークの家は公式には一笑に付すという態度を取っていた。まあ当然のことだ。下手に騒いだりしたら藪蛇になるのは間違いない。
そもそもこういった有名人の秘密の縁者に関する与太話は、これに限らず今まで何度もいろいろな所で発生したことがある。
だからしばらくはみんな面白がって囁きあうかも知れないが、放っておけばやがて飽きられて忘れられていくものだ。
しかしジークⅦ世がその裏で噂の出所の調査を行うのも当然だった。
メルフロウ達にとってはそちらの方が大問題だったが、これも担当がハルムートになったことで片が付いていた。
その彼の“調査結果”では、実際にフィナルフィンがバーボ・レアルの遊び女にこっそりドレスを贈ろうとしたところを見つかって、その際に言った出任せが曲解されて云々という説明になっていた。
ジークⅦ世は今のところその説明に納得しているようだった。
そんなわけで家の内部に関しては一応収拾がついた形になったのだが、そこに降って湧いたのが今度の話だ―――なんとハルムートにカロンデュールの側近のカルスロムから接触があったのだ!
彼はエルセティアが半月亭で会ったときの従者その人だが、その彼がこの件に関してカロンデュールがひどく興味を持っていると伝えてきたのだ―――何しろ彼は実物の“メルファラ皇女”を目にしているのだからそれも当然だろう。
そんなわけでこのフィナルフィンの大ポカによって、図らずもカロンデュールと上手く秘密裏に接触が取れてしまったのだ。まさに怪我の功名と言っていいが――― 一歩間違えば奈落の底だったのも間違いないわけで……
そして今まさにハルムートが秘密会談に行っている最中なのだった。
「ムートさん大丈夫かな?」
エルセティアがつぶやく。そこでフィナルフィンが尋ねた。
「相手のカルスロムというのはどういう人なんですか?」
「若い頃は親友だったと聞きます。剣の道場を出てからあちらはダアルの家に、ムートはこっちにと別れてしまってそれ以来疎遠だったとは聞きますが……」
ハルムートは自分を信じて頂けるのならば彼も信じられる―――そう言っていた。
確かに以前はそうだったのだろうが、それから随分と時がたっている。必ずしも絶対とは言い切れないと思うが―――などと思い悩んでも仕方がない。
ハルムートが戻ってきたのはそれからしばらくしてからだった。
戻ってきた彼の顔には満足そうな表情が浮かんでいた。
「どうでしたか?」
「はい、上手く行きました」
そう言ってハルムートが軽く礼をする。一同に安堵の表情が浮かんだ。
「やったね!」
エルセティアが軽く飛び上がる。メルフロウもそうしたい気分だったが、さすがにそれは押しとどめた。
「それでいつですか?」
「次回の園遊会の後ということに」
「結構……近いですね」
メルフロウはちょっと心配になった。
「ええ、でも早い方がいいかと。ジーク様に気付かれてはいけませんし」
「そうですね」
それからハルムートはフィナルフィンの方を向いて言った。
「そういうわけでル・ウーダ殿、やはり山荘はお借りすることになりますので」
「分かりました」
フィナルフィンもうなずいた。
会見の場は可能な限り人目につかず、しかも中立な場所が必要だ。本来ならばどちらにも与しない仲立ちを立てるのが筋なのだろうが、今回はそうも言っていられない。
「でもそれならば他の手配も急ぎませんと」
「そうですね……こちらも急がせてますが。大丈夫だと思いますが……」
こうなったからといって都落ちの線がなくなったわけではないのだ。失敗すればやはり逃げるしかないのだから……
何しろまだカロンデュールは、メルファラはメルフロウの妹だと思っている。真実を知ったらドン引きしてしまうかもしれない。そのときのための準備も必要だった。
彼らは細かい手はずの相談を始める。
その話に一段落がついたところで、フィナルフィンはすぐに立ち上がって一礼する。
「それでは今日はこれでおいとまします」
メルフロウはちょっと驚いた。
「もう帰るのですか? 食事をして行かれませんか」
フィナルフィンは軽く首を振る。
「ええ、ありがとうございます。でもいろいろ準備もありますし」
「そうですか。次に来られるのは?」
「当日になりますか?」
「そうですか……」
メルフロウは妙に残念な気分だった。
「あまり出入りしていたら不審に思われますから。いくらティアの兄とはいっても」
それはその通りだ。メルフロウは同意するしかなかった。
「それでは失礼します」
そう言ってフィナルフィンが出て行こうとしたところにエルセティアが声をかける。
「今度はドジ踏まないでよ?」
フィナルフィンは振り返ると彼女を睨んだ。
「ああ? もう踏む所なんてないよ。お前こそちゃんとやれよ」
「大丈夫よ! バカ!」
などと言いながらエルセティアはにこにこ手を振っている。フィナルフィンも同様に笑いながら手を振ると部屋から出て行った。
そんな姿を見ていると、メルフロウはなにか自分が取り残されているような気分になった。
一体何なんだろうか? この気分は……
気づいたら彼女は扉の方に向かって歩き出していた。
「ん、どこ行くの?」
エルセティアの問いにメルフロウは慌てて、テーブル上に散乱しているメモ書きを指さした。
「ちょっと、あ、それを片づけておいて下さい」
「え? うん?」
メルフロウはそのまま部屋を出ると玄関ホールに向かって走った。
そこではフィナルフィンが丁度出ていこうとしているところだった。
「フィン、フィン」
彼は驚いたように振り返った。
「あれ、フロウ、どうしたんです?」
そう言われてメルフロウはなぜか頭がかっとなった。
一体自分は何をしに来たんだろうか?
「いえ、その……お礼を言おうと思って……」
「お礼?」
メルフロウはうなずいた。それを見てフィナルフィンが微笑んだ。
「いいんですよ。別に……」
「でも……」
こんな場合何を言えばいいのだろうか?
気づくと彼女は思わず彼の手を取っていた。
フィナルフィンがびくっとして彼女を見つめる。
「本当に、その、あなたは私とティアのために……」
その後の言葉が何故か出てこない。
二人はそのまま凍り付いたように見つめ合った。
フィナルフィンの手がじっとりと汗ばんでくる。
それから彼はふっと目を逸らすと言った。
「いや、ほら、あのバカがいつも変なことに首突っ込んではこうなるんで……まあいつものことですって」
変なこと?―――それはまさに自分のことだが……
「すみません……」
うなだれるメルフロウに、フィナルフィンは慌てたように付け加える。
「あなたにはどうしようもなかったんだから、もう言わないで下さい」
そう言って握った手をぎゅっと握りかえしてくる。
メルフロウは慌ててその手を見て―――次いで彼の顔を見る。
「本当にありがとうございます……これ以上なんと言っていいのか……」
何故か視界がにじんでくる。
フィナルフィンが慌てて手を離した。
「とにかく僕達はあなたが好きだから。みんな一緒に幸せになりましょう」
メルフロウは目を見張った。
あなたが? 好きだから?―――なんという響きだろう……
思い起こせばこんな風に言ってくれるのは彼らだけなのだ。
『何と麗しい』とか『何てお美しい』といった誉め言葉は今まで幾度となく聞いてきたが、それを聞いてもこんなに心が動かされたことはなかった。
なのにこの単純な言葉がどうしてこれほど心に刺さるのだろうか?
そんなことを思っていると……
「それじゃまた、フロウ!」
フィナルフィンは踵を返して馬車に乗り込んでしまった。
「あ……」
メルフロウは呆然とその後ろ姿を見送った。
《私も……あなた方が大好きです!》
自分は彼らに何もしてやれない。
でもこの次はせめてはっきりと彼らにそう言おう。
小さくなっていく馬車を見ながら彼女はそう思った。