第7章 ル・ウーダ山荘
その日はよく晴れていたが空気は少し冷たかった。
メルフロウはル・ウーダ山荘に向けて進む馬車から落ち着かなげに窓の外を眺めていた。
そろそろ夕暮れも近く、陽はもう山の端に隠れている。
馬車の中には彼女の他にエルセティアとハルムートが乗っている。御しているのはコークスという男で、少し前方にもう一人、ランパートという男が馬で先行している。
この二人はハルムートの腹心の部下で、長年メルフロウの屋敷を警備してきた。彼女の秘密を知る数少ない、無条件に信頼のおけるメンバーだった。
フィナルフィンとは現地で落ち合うことになっているので、一行はこれで全てだった。
「ルウは上手くやってくれてるでしょうか?」
メルフロウが心配そうに尋ねると……
「彼女なら大丈夫ですよ」
ハルムートは請け合った。
ジアーナ屋敷ではジークの家の定例園遊会が開かれていた。
彼らはそれに途中までは参加していたのだが、メルフロウの気分が優れないことを理由に途中で退席して来ていた。
それについては特に不都合はなかった。彼女がそのように行事を抜けたり欠席することは、それまでにも頻繁にあったからだ。
なにしろ女性の場合、月に一度はそういう時期がある。そのため本人は至って健康だったにも関わらず、一般には少し病弱だと思われていたのだ。
だが今回はそれが幸いした。そのためこうして途中でいなくなっても誰も不審に思わなかったからだ。
しかも園遊会でごった返していたせいで、どさくさに紛れて抜け出すのも容易かった。
そこで彼らの不在をごまかす役割を担っていたのがルウだ。
彼女はいわばメルフロウの母代わりだ―――とはいっても彼女は常に一歩控えていて、あまり誉められたり叱られたりした記憶はない。
だが彼女の周囲に常に空気のように存在して何くれとなく身辺を整えてくれていた。ハルムートとはまた別な意味でなければならない人だった。
「そうですよね……」
いくら心配でももう任せておくしかない。誰かがしなければならないことなのだから……
そんなことを思っているうちに馬車は低い丘を越えた。
すると正面に霧の湿原、右手前方に銀の湖が現れた。
「あ、見えた見えた。ねえ、あそこ覚えてる?」
エルセティアが湿原に島のように見えている丘を指さした。
「トネリコの丘ですね」
思い起こせば、そこでの約束が全ての始まりだった。
「またあそこでピクニックしたいわね」
「そうですね。上手く行ったら本当にそうしましょうか?」
「ムートもどう?」
「そうですね……」
ハルムートも感慨深げにトネリコの丘を眺めている。
前に彼も一度言ったことがあるのだ―――あの夏は彼にとっても楽しい思い出の夏だったのだと……
それまでは彼もまた心に秘めた物を押さえつけるように、ただメルフロウを見守るだけの日々だった。
彼自身、彼女をどう扱っていいか良く分かっていなかった。
そんなときに出会ったのがル・ウーダ兄妹だ。
彼らと一緒に狩りや野外料理などをしていると、彼自身が子供時代に感じた気持ちを思い出せた―――そしてそれを楽しんでいるメルフロウを見て、初めて彼が何を為すべきかに思い当たったのだと……
確かにあの後父親にばれてル・ウーダ兄妹と会うことはできなくなった。
だがハルムートとならばその後も何度も狩りに行ったり獲物を料理したりしていたのだ。
そのおかげで彼女は弓の腕前なら人に自慢できるくらいになっていた。
「山荘はこのあたりでしたか?」
ここまで来れば山荘は近いはずだが―――メルフロウが尋ねるとエルセティアが答える。
「もうすぐよ……あ、見えた。あれ。あの赤い屋根!」
「ああ、あれでしたか」
「ここってよく通ってたんじゃないの?」
「いえ、都に行くときはいつも船でしたから」
「そうなんだ」
一行は霧の湿原を大きく回り込むとやがて山荘への別れ道に達する。分岐点には“ル・ウーダ山荘”と書かれた朽ちかかった表札があった。
ここからさらに真っ直ぐ行くとやがてジークの別邸へ行きつくが、今回は分かれ道の方に入る。
ちょっとした木立の間を抜けると少し広い谷間になっていて、その奥に山荘はあった。
少し年季の入った丸太造り二階建てで、普段見ている屋敷に比べると何だか拍子抜けするほど小さかった。
一行が到着すると玄関からフィナルフィンが出てきた。
「いらっしゃい」
馬車から降りたメルフロウがきょろきょろしているのを見てフィナルフィンが言った。
「小さくて驚いてますか?」
「いえ、そういうわけでは……」
わりと図星だったのでメルフロウはごまかした。
「ま、とりあえず中へどうぞ」
中に入るとちょっとしたホールになっている。奥に二階への階段がある。暖炉にはもう火が入っていて中は暖かい。あたりは小綺麗に片づいていた。
だがそれを見たエルセティアが言った。
「うわ、何か今日きれい」
それにフィナルフィンが答える。
「一生懸命片づけたんだよ。お世継ぎとかを呼ぶんだから」
「一人で?」
「しょうがないだろ?」
事が事だけに迂闊な人を呼ぶわけにはいかないのは当然だが―――ということは彼は今までずっとここを片づけていたのか?
「すみません……お手数をおかけして……」
だがフィナルフィンは笑って手を振る。
「構いませんって。でもまあ、そういうわけなんで、あまり関係のない部屋は覗かないで下さい。特にあそことか」
などと言われてもその部屋の扉は開いたままだ。
その部屋の手前には急遽押し込められたと思われる椅子やテーブルがあって、その奥にはまたたくさんの卓があり、上に碁盤が乗っている。部屋の隅にはその他いろいろな古そうなガラクタが積んである。
思わずそれを見つめていたメルフロウにフィナルフィンが言った。
「内弟子の人達の合宿用の部屋なんですよ。夏はずっと。僕達もそれにくっついて来てたんです」
そう言って彼は扉を閉める。それから彼女を先導して歩き始めた。
「着替えとかは上です」
メルフロウとエルセティアは彼の後に続いた。
彼が案内したのは二階の端の部屋だった。
「あ、ここね」
部屋に入るなりエルセティアが言った。メルフロウが彼女の顔を見ると、彼女は続けた。
「小さいころここに泊まるとき、あたしたちいつもこの部屋だったのよ」
「そうなんですか」
そこは客室のようで、ベッドと応接セット、ドレッサーなどがあったが、ここも綺麗に片づけられていた。
振り返ると反対の壁には剣が何本かと、ウサギ狩り用と思われる弓と矢筒がかかっている―――ということはこのあたりで狩もできるのだろうか?
彼女は窓際まで行って外を眺める。
ちょっと荒れた感じの庭の向こうに小川が流れていて、その先には森が広がっている。
「あちらの森にはどんな獲物がいるのですか?」
それを聞いてフィナルフィンが答えた。
「ああ、大物はあまりいませんよ。そんなに広くもないし……行くときは湿原の森に行くんです。あっちだと時々鹿もいますよ」
「そうですか」
ちょっと残念そうなメルフロウにエルセティアが言う。
「フロウ、弓は得意だもんね!」
「一生懸命練習したんですよ?」
弓を本気で練習し始めたのはあの夏からだった。
あの浜辺でフィナルフィンに釣ってもらった魚は本当に美味しかった。そのため最初彼女はハルムートに釣りの仕方を覚えたいと言ったのだ。
だがジークの別邸から湖までは少し遠かった。そこでハルムートが『それでは弓を覚えませんか? バーベキューには肉もあったほうが良いでしょう?』そう言って彼女に弓の扱い方を教えてくれたのだ。
そして初めて彼女が自分で獲物を仕留めた日―――それがあのトネリコの丘の日でもあった。
「それで着替えはそちらに」
フィナルフィンがベッドの上の大きな箱を指差した。もちろん彼が“危険を冒して”注文してきたあのドレスだ。
「わあ! あれね?」
エルセティアのほうが嬉しそうなのだが……
「ティア、大丈夫か?」
フィナルフィンがちょっと心配そうな顔だ。今日はルウがいないから着付けは彼女に任せるしかないのだが……
「任せといてよっ!」
エルセティアは胸を張る。
彼女はいろいろ当てにならないところが多いが、これに関してならばまあ問題はないだろう。
メルフロウはその箱に近づくが―――思わずフィナルフィンの顔を見る。
「さあ、どうぞ」
彼女はおずおずと箱を開けた。
そこには淡い青色の素晴らしい仕立てのドレスが入っていた。
「うわあ!」
エルセティアが声をあげる。
「ちょっと合わせてみて」
「え?」
「こうして……」
エルセティアは横からドレスを取り上げると、メルフロウの胸に合わせてみる。
「すごくよさそう! ほらほら」
彼女はフィナルフィンにそれを見せる。
「そうだな。すごく……綺麗だな」
メルフロウは何と反応していいのか良く分からなかった。
「じゃ、始めるから、ほら」
エルセティアがフィナルフィンを部屋から追い出しにかかる。
「わかったよ」
フィナルフィンが退散するとエルセティアは振り返って言った。
「さあ、じゃあ始めましょうか」
「ええ……」
メルフロウは服を脱ぎ始めた。
それが終わって下着だけになった姿を見てエルセティアが言った。
「それっていつ見てもきつそうね」
「もう慣れてしまいましたから」
これまで彼女は本当にプライベートなとき以外はずっと、固い胸当てのついた特製のコルセットを身につけていた。
脇の紐をほどき胸当てがはずれると、メルフロウは大きく深呼吸をした。それを付けていると呼吸もままならないのだ。最近はこれのせいで本当に気分が悪くなることもよくあった。
エルセティアは床に落ちたコルセットをしまうと、この日のために用意した本物のコルセットを出した。
「はい。今度はこれね」
メルフロウはそれを受け取って身につける。
これは背中に紐が付いていたのでエルセティアに手伝ってもらう必要があった。
コルセットをつけ終わった所でメルフロウはふっと息をつくと言った。
「これはやっぱり息が楽でいいですね」
「えー? まあ……そうね……」
エルセティアは苦笑する。コルセットを付けてそんなことを言う者は普通はいない。
だが先ほどの胸当てに比べれば全くその通りなのだ。
続いてエルセティアはドレスを取り上げるとメルフロウに手渡した。
彼女は受け取るとしばらくじっとそれを見つめた。
「どうしたの? 着ないの?」
「いえ、何か勿体ないような気がして……」
「着なきゃもっと勿体ないわよ。貸して!」
「いえ、一人で大丈夫です」
メルフロウはドレスを身につけ始める。
あれから何度か練習したせいで、今日はほとんどまごつかずに済んだ。
背中のボタンをエルセティアに止めてもらうと彼女はドレッサーの前に立ってみる。
だがそこに映っている姿が自分なのだとなかなか納得できない。
「どう? サイズは?」
「ぴったりです」
そのドレスは見た目より遥かに軽く体にフィットした。
彼女が鏡の前でくるっと回ってみると、ドレスの裾がふわっと浮かび上がる。
「まるで……何も着てないみたいですね」
「え? そう?」
エルセティアはまた苦笑する。
多分自分の反応は少し変なのだろう―――でもそれは素直な感想だった。
実際、子供の頃はともかく体が成長してきた今、正装というのはほとんど牢獄のようなものだったからだ。
だがいま身につけているドレスはまるで体の回りをふわっと空気のように包み込んでいる。その一点だけでもこの姿の方がいい……
そう思いながら再び鏡の前で回ってみる。
そんな彼女を見ながらエルセティアがこぼす。
「フロウってあまりウエスト絞めなくてもいいから……」
「何で絞めるんですか?」
「だからいいってば! ほら、じゃあ座って!」
エルセティアはぶつぶつ言いながらメルフロウを座らせると、今度は化粧を始めた。
こればかりは彼女に任せるしかない。
それが終わると最後に、彼女のために特注した付け毛を付ける。今の髪型ではショートカットにしても短すぎるからだ。
そうしてできあがった姿を見て―――二人ともしばらく言葉が出なかった。
《これが……本当に私?》
何度見ても信じられない。
だが、鏡に映っているその女性はメルフロウが動くと全くそれと同じ動きをする。だから理論的にはこれは自分のはずなのだが……
「じゃ、行きましょ!」
ぽうっと鏡を見つめていたメルフロウの肩をエルセティアがたたく。
「え、はい……」
メルフロウはうなずくと立ち上がった。
エルセティアは彼女の手を引いて部屋の外に連れ出した。
階下ではハルムートやフィナルフィン達がカロンデュールを迎えるための準備に大わらわだった。
「ねえ、みんな、見て見て!」
その声に一同が一斉に振り向くと―――そこにはドレスアップしたメルフロウが立っていた。
途端にその場にいた皆が一様に言葉を失った。
エルセティアはにこっと笑うとメルフロウの手を取って階下に誘った。
階段を下りると、まだ呆然としている一同に向かってメルフロウは教わった礼をした―――それを見た彼らは慌てて答礼を返す。
「メルフロウ様……」
そうつぶやいて絶句したのはランパートだ。
ここでメルフロウが女装した姿を見たことがあったのはハルムートだけだった。その彼もあの別荘でへたり込んでいた所をちらっと見ただけだ。
フィナルフィンも同様だった。ドレスを買ってきてくれたのは彼だが、それを着た彼女を見たのはこれが初めてだ。
一同が無言でじっと見つめるだけなので、彼女は何だか気恥ずかしくなってきた。
「えっと、みんな……」
何か言いたいのだが、その後の言葉が出てこない。
そのときだった。
「メルファラ様」
そう言ってハルムートが彼女の前に跪いた。
「え?」
驚いてメルフロウが彼の顔を見る。
ハルムートは笑っているとも泣いているともつかない、何とも形容のしがたい表情で彼女を見上げている。
こういった場合どうすれば良かったのだろう?
まごついているメルフロウにエルセティアが囁いた。
「手、出せばいいのよ」
「あ? はい」
メルフロウは彼に手を差し伸べるが―――それを見てハルムートが少し困った顔になる。
そこでエルセティアが囁いた。
「そうじゃなくて、手のひら下で」
「あ!」
メルフロウは思い出した。こんなときに淑女がどうすればいいか……
ハルムートは彼女の手の甲を自分の頬に押しつける。
それから再び彼女を見上げると少しかすれた声で言った。
「お美しく……なられました」
「ありがとう……」
それから彼に続くように一同の者が彼女に挨拶を行った。
最後に挨拶したのはフィナルフィンだった。
彼の顔にもほとんど畏敬の念ともとれる表情が浮かんでいた。
「ティアの言った通りですね。あなたを拒絶できる男なんて、都には誰一人いませんよ」
「そんな。大袈裟ですよ」
その言葉を聞いたフィナルフィンは微笑んだ。
「でも言葉遣いはちょっと練習しないとだめかもしれませんね?」
「やはりそうでしょうか……」
暗くなりかかったメルフロウに、フィナルフィンが慌ててフォローする。
「いえ、いずれ、ということですよ。今はもうそんなこと言ってられませんし」
そして彼女は自分が何をしなければならないかを思い出した。
そうなのだ。これから彼女はカロンデュールと会談をするのだ。
「デュールは……大丈夫でしょうか?」
「そりゃびっくりするのは間違いないと思いますが……でも彼だって理解してくれると思いますよ?」
「だといいのですが……」
彼女は今ひとつ自信が持てなかった。
こんな格好でカロンデュールとまともに話せるのだろうか?
何しろこれからは“メルフロウ”ではなく“メルファラ”なのだ。
果たして自分は女として彼とまともに向き合うことができるのだろうか?―――考えるだけで緊張してくる……
メルフロウはフィナルフィンを見る。
《彼の前なら普通に振る舞えるのに……》
そんな心を見透かしてかフィナルフィンが言った。
「心配ですか?」
「ええ。まあ……」
うなずく彼女を見て彼は話し出した。
「いつかの話、覚えていますか? 刺青を彫られて運命を背負わなければならなくなった王女の話ですが」
「え? ええ……」
夜話のときの話か。一度落ち着いたら最後まで聞きたいと思っていたのだが……
「今度は何だか反対ですよね。あの話は本当は偽物だった王女の話なんですが、あなたの場合は本当は本物だった王女ですね」
「え? まあ……」
メルフロウは曖昧にうなずいた。確かにその通りではあるが……
「皇子としてのあなたは仮初めの姿だったかもしれませんが、たとえこれからあなたが皇子の役割を果たさなければならなくなったとしても、自分を信じていれば大丈夫なんですよ。本物じゃなくても……だったら本物ならもっと簡単だって思いませんか?」
「え?」
メルフロウは驚いてフィナルフィンの顔を見つめる。
「メルファラ皇女。それが本当のあなたじゃないですか? 正真正銘の……だから何も心配することなんてないんですよ?」
「フィン……」
彼女はフィナルフィンの言葉を完全に理解したわけではなかった。
だが少なくとも彼が励ましてくれていることは分かった。
今はそれで十分だった。
そう。これから自分はファラ―――メルファラなのだ。
これが本来あるべきはずだった姿で、今までの自分の方が仮の姿だったのだから……
《今から私は“メルファラ”なのですね……》
そう思うと何か胸の奥が熱くなってくる。
「いや、だからまあ、その……」
フィナルフィンはそう言って目をそらす。
彼女が言葉もなくただ見つめ続けるのに耐えられなくなったようだ。
「ありがとう」
次の瞬間、彼女は思わずそう言ってフィナルフィンの手を握りしめていた。
フィナルフィンが驚いて振り返る―――そこにエルセティアが割って入らなければそのまま彼に抱きついてしまったかもしれない。
「えーっと、お話中失礼ですけど、お茶入ったんだけど?」
メルファラは慌ててフィナルフィンの手を離した。
フィナルフィンも慌てて手を引っ込める。
その様子を見て笑いながらエルセティアが言う。
「お兄ちゃん、だめよ。ファラがいくら綺麗だからって、手出しちゃ」
「アホか!」
フィナルフィンが少し赤くなる。
メルファラもちょっと顔が熱くなる。
何だろう? これは―――そして何かいたたまれなくなってその場を離れた。
奥の間に行くとテーブルの上にはお茶とお菓子が用意されていた。
彼女が来た気配を感じてハルムートが現れる。彼はテーブルを指して言った。
「フロウ様、今のうちに何か少しお召し上がり下さい」
それを聞いて彼女はにっこりと笑って答える。
「フロウ? いえ私は“ファラ”ですよね?」
ハルムートは一瞬驚いて彼女の顔を見つめて―――それから慌てて頭を下げた。
「え? あ、申し訳ありません、ファラ様」
「ありがとう。ムート」
そのとき彼女は何か自分が本当に生まれ変わったような気分になった。
自分はファラだ……
そう思って見ると―――何もかもが違って見えるような気がする……
そんなことを考えていると他のメンバーが戻ってきて、ちょっとしたお茶会のようになった。
ここにいる皆は彼女が子供の頃からずっと一緒だった。
ある意味彼女にとって一番心安らかになれるメンバーだ。
だからと言って不安が消え去るわけでもない。
メルファラは思わずハルムートに尋ねていた。
「上手く行かなかった場合の手はずは大丈夫なのですか?」
人々の談笑が一瞬止まる。
それからハルムートがじっと彼女を見ると答えた。
「そちらも抜かりありません。でもうまく行きます。きっと」
メルファラは黙ってうなずいた。
もしカロンデュールとの会談が決裂したら、彼らはその足で都落ちすることになっていた。
そうなったら多分もう都の灯は二度と見ることはできないだろう。
その先はどんな日々が来るのだろうか? 想像もつかない……
誰もがこのように、彼女なら絶対上手くいくと言ってくれる。
だがメルファラは何故か今ひとつその気になれなかった。
何か違和感があった。
それがどこから生じているのかは分からなかったのだが……
都落ちの話題が出てしまうとどうしても空気が重くなる。それを感じてかエルセティアが口を挟んだ。
「ルウが作ってくれたメイド服、見た? あれも結構かわいいのよ?」
「え? はい。サイズを合わせるときに」
彼女が答えるとフィナルフィンがエルセティアに尋ねた。
「それって変装用か?」
彼らが都を出る際はどこかの侍従の奉公替えという建前になっていた。
「うん。みんなのもあるから。何なら見る? デュールはいつくらいになるのかしら?」
ハルムートが窓の外を見ながら答える。外はもう日が暮れて真っ暗だが……
「あちらの園遊会後に抜けてくると言われましたから。そろそろ都を出たくらいでしょうか?」
「じゃあもう少し時間あるわね。見に行く?」
エルセティアがそう言うとフィナルフィンが尋ねた。
「そうだな……で、俺のはどんな服なんだ?」
「もちろん執事の服よ? ルーディみたいな」
「うえ。あれかよ? でも俺が執事長に見えるか?」
「大丈夫よ。もっと下っ端のデザインだから」
それに対してフィナルフィンが何か言い返そうとしたときだ。
《ん?》
山荘の表の方で人の気配がしたのだ。
「え? もう来たの?」
ハルムートがコークスに目配せすると、彼はうなずいて玄関の方に出て行った。
いきなりのことにメルファラは胸がどきどきしてきた。
「大丈夫ですよ。メルファラ様」
彼女は黙ってうなずくと立ち上がる。こんな所でへこたれていてどうする?
だがそのときだった。
「誰だ? お前達は?」
そんなコークスの叫び声が聞こえてきたのだ―――次いで誰かのわめき声と、剣の打ち合う音……
ハルムートとランパートが弾かれたように立ち上がり、部屋の入り口に向けて突進した。
メルファラとフィナルフィン、それにエルセティアは一瞬顔を見合わせるが、すぐに彼らの後に続く。
玄関のホールでは―――コークスが何人かの男と戦っている!
男達はみな一様に覆面をつけているが―――どう見ても刺客だ!
「ファラ様! お逃げ下さい!」
ハルムートが加勢に向かいながら叫ぶ。
それからまごついているフィナルフィンに再び叫ぶ。
「ファラ様を! 早く!」
フィナルフィンは慌ててうなずくとメルファラとエルセティアを導いて裏口に向かった。
だが裏口は外から、今まさにこじ開けられようとしているところだった。
「上だ!」
そう叫んでフィナルフィンが二階に向かう。
それを見たハルムートがえっと声をあげるが、メルファラはその理由を考える間もなくその後に続く。
フィナルフィンは先ほど着替えをした客室に二人を導いた。
そこで初めてメルファラはハルムートが声をあげた理由に思い当たる。
「ここから……逃げられるのですか?」
この部屋ではもしかして袋の鼠なのでは?
だがエルセティアが笑って言った。
「それなら大丈夫よ⁉」
大丈夫って一体何が?―――そう思った所にハルムートとランパートが転がり込んで来る。
ハルムートがドアをぴしゃりと閉めると、ランパートとフィナルフィンに向かって叫ぶ。
「早くそれを」
ハルムートがドアを押さえている間に二人は長椅子やチェストをドアの後ろに動かして、簡単には開けられないようにした。
「コークスは?」
メルファラが尋ねると、ハルムートが唇を噛みしめて、それから首を振る。
「来られませんでした」
メルファラの目が丸くなる―――そして彼が何人もの男を相手に戦っていたことを思い出した。
「そんな……」
彼は目立たなかったとはいえ、心を許せる数少ない者達の一人だった。
だがそんな感慨にふけっている余裕はなかった。
ドアをどんどん叩く音がする。それから誰かが叫ぶ声が聞こえた。
「畜生、おい! あれを」
それと共にどすどす歩く音が近づいてくると、物凄い音がして扉の蝶番が吹っ飛んだ。その後に大斧の刃が突き出している。
「くそっ!」
ハルムートが舌打ちしてあたりを見回すが、もはや盾になるような物はない。
ハルムートとランパートは剣を構えた。
同時に扉が外されて、その後ろには大斧を手にした大男が立っている。
男がドアの後ろの長椅子を蹴飛ばすと、かなり大きな椅子だと思っていたのにそれは軽々と吹っ飛んだ。中にいる者たちが慌ててそれを避けた隙に、部屋に三人の武装した男が飛び込んできた。みんな同じような覆面をしている。
「貴様ら! 何者だ?」
ハルムートが唸るように尋ねる。すると端にいた少し小柄な男が答えた。
「お世継ぎはどちらだ?」
それを聞いたハルムートがまた叫ぶ。
「その声……貴様! アルジャナンだな?」
メルファラは息を呑んだ。
《アルジャナン?》
確かダアルⅤ世の腹心だった男では? ということは―――まさかカロンデュールが裏切ったというのか?
「ふっ。良く分かったな」
「当たり前だ! 貴様、何しに来た!」
「お前達には用はない。お世継ぎはどこだ?」
「知るか! ここにはいない!」
アルジャナンは部屋の中をぐるっと見回すが、確かにそこには“メルフロウ”の姿はない。
それから彼はメルファラに目を留める。
「そのお姫様が? なんとこれは想像以上だ」
「お前には関係ないことだ!」
ハルムートが恐ろしい声で言うが、彼は全く堪えた風もなく答えた。
「確かにお美しい……これではデュール様が骨抜きにされるのも無理はありませんな。どうしてまたあんなことを言い出されたかと思えば……ジークと和解したいなどと……」
そう言ってアルジャナンは笑ったが、彼の目は笑っていなかった。それから冷たい声で続けた。
「まあそういうわけで、我々もこういった関係をそろそろ終わりにしようと思ったわけですよ」
メルファラは歯を食いしばった。
だが彼の言い方からすれば、カロンデュールがこの刺客を差し伸べたのではないということか?
そのときだった。フィナルフィンが彼らの横の方に動いていくのに気がついた。
ハルムートがちらっと横目で彼を見る。フィナルフィンは彼に目配せする。
それに気づいたアルジャナンの声色が変わる。
「おかしなことを……」
彼がそこまで言った瞬間だ。
ずどん!
―――そんな低い音と共に、三人の敵が折り重なって倒れたのだ。
《あれは……》
どうやらフィナルフィンは魔法の腕を随分上げていたらしい。
ただ、彼女の知っているような一流の魔導師に比べればささやかな力だったとは言えるが―――でも今はそれで十分だった。
ハルムートとランパートが一気に敵に襲いかかると、虚を突かれた敵は全く反撃できなかった。
「そいつは殺すな」
アルジャナンにとどめを刺そうとしていたランパートにハルムートが言う。
彼は慌てて剣を引く。
アルジャナンは何が起こったか分からないという顔で彼らを睨み付けていたが、腹と足から大量の血が出ている。もう動くことはできないだろう。
「お前達を寄こしたのは誰だ!」
ハルムートがアルジャナンに尋ねる。
だが彼は憎々しげに見返すだけだ。
そのとき下の方からどやどやと人が来る音がする。廊下を覗いたランパートが叫ぶ。
「来ます! まだ!」
「くそ!」
ハルムートが毒づくが、そこでエルセティアが言った。
「こっちからよ!」
振り向くと彼女が部屋の窓を開けている。
「でもそこは?」
彼女は窓の下を指して答えた。
「そこから降りられるの」
メルファラが顔を出すと確かにそこにはちょっとした庇があって、その下は柔らかそうな地面だ。
エルセティアはにこっと笑った。
「良く夜中にこっそり抜けだしてたから」
メルファラは胸をなで下ろした。
ハルムートもほっとした顔でうなずく。
フィナルフィンも彼女に言う。
「じゃ、ティア、ファラを」
「うん」
彼女はにっこり笑ってうなずくと、慣れた様子でひらっと窓枠を乗り越えて外からメルファラに手を差し伸べた。
彼女はそれに続こうとしたが、そのときフィナルフィンが部屋の壁に掛かっていた剣を手にしていることに気がついた。
確かにこれからは武器が必要だ。
だが彼女が剣を取ってもあまり役に立ちそうもないが……
そのとき彼女は同じく壁にかかっていた狩りの弓矢に目を留めた。
《あ! これなら……》
彼女はその下に走る。
それを見て周囲の者が何か言おうとしたが、その機先を制して彼女は言った。
「役に立つかもしれませんから」
反論の余地はなかった。
彼女は弓を手にし矢筒を背負うと取って返し、エルセティアに続いて窓から飛び出した。
「飛び降りるのですか?」
下を見ると結構高い。だがエルセティアは首を振る。
「ううん、こっちよ」
エルセティアは庇の反対側まで行くと、柱と外壁の凹凸を足がかりに降り始めた。
山荘の外壁は丸太作りなので足をかける所は十分ある。
彼女は難なく降りきるとメルファラに向かって手を振った。
メルファラは彼女に弓を渡すと、彼女の真似をして下に降りる。ほとんど梯子を降りているようなもので、確かにとても簡単だった。
降りきった所で上を見上げると、月明かりに窓からフィナルフィン、そしてハルムートが出てくるのが見えたが―――その向こうから誰かが戦っているような音が聞こえてくる。
「こっちよ!」
エルセティアが小声で叫ぶ。
二人は彼女の方を見るとうなずいて、先にフィナルフィン、後からハルムートが下りてくる。
「さあ、行きましょう」
合流したハルムートがそう言ったが、メルファラは窓を見上げて言った。
「ランパートは?」
「あそこで食い止めます」
………………
…………
……
食い止める?
「え? でも……」
メルファラは躊躇したが―――それは当然の行為だった。誰かがそうしなければ、敵まで同じようにやって来てしまうのだが……
「早く」
ハルムートが彼女の手を引いて有無を言わさず進み始める。
頭の中が真っ白になった。
《ランパートが? 一人で?》
そんなことをしたらただでは済まないではないか?
コークスに続いて彼まで?
みぞおちのあたりに何かしこりができたような気がする……
再び振り返って見たが―――ここからでは中で何が起こっているか分からない。
そんな彼女にハルムートが言った。
「大丈夫です。奴の腕前はご存知でしょう?」
メルファラはうなずいた。彼の剣の腕前が一流なのは間違いない。そうだ。彼が簡単にやられるはずがない。そう。今はそう信じておくしか……
「これからどうしますか?」
そのときフィナルフィンがハルムートに尋ねた。
「ともかく脱出するしか……厩はこちらでしたよね?」
「はい」
だがそのときだ。
横の方から見知らぬ男が一人現れたのだ。
「新手か?」
ハルムートが剣を構える。
だが男は驚いたように手を振った。
「違いますよ。何か怪しい奴らがこっちに向かってたんで、来てみたんでさ。どうされたんです?」
それを聞いた一同は思わずほっとしてしまった。
「襲撃された。あなたは?」
そしてハルムートがうっかり剣を下ろした瞬間だ。
!!
男は後ろ手に持っていた剣でいきなりハルムートを突いてきたのだ。
声を出すいとまもなかった―――だが彼もまた百戦錬磨だった。うおっという声と共に身を躱して、致命傷になるのは食い止めていた。
「ちっ」
男が毒づく。
「貴様も仲間か?」
ハルムートは件を構え直す。
だが男はそれには答えず、その場から逃げ出すと大声で叫び始めた。
「いたぞ! こっちだ! こっちにいるぞ!」
「畜生!」
ハルムートが剣を振り上げようとしてうっと呻く。
見ると脇腹に大きな傷口が開いている。
「ともかくあっちへ」
そう言ってフィナルフィンが厩の方に駆け出した。ハルムートもやむなくその後に続く。
四人は何とか厩に逃げ込むことができた。
「逃げられるかしら?」
エルセティアがつぶやく。
厩に馬は四頭いた。
だがもちろん今は鞍も手綱もついていない。そんな準備をしている余裕はなさそうだが……
一同は顔を見合わせた。
「山荘から出る道は表だけなのですか?」
ハルムートが尋ねるとフィナルフィンは辛そうにうなずいた。
「……そうです。裏はみんな山で、道もろくろくついてません。こんな夜中じゃ……」
再び一同は顔を見合わせる。
「じゃあどうするの? ここにいても助けなんて……」
エルセティアの言葉にフィナルフィンが首を振る。
「分かってるけどさ……」
そのときエルセティアがぽんと手を叩いた。
「あ! デュール来るんじゃない? 彼が来てくれたら……」
一同ははっとして彼女の顔を見る。もしかしてこれは希望の光なのだろうか?
だがフィナルフィンが同意しかけて、それから首を振る。
「確かに……いや、来ないだろ」
「え? どうして?」
フィナルフィンは一同の顔を見ると答えた。
「あいつらがアルジャナンの部下なら、のこのこと次期頭首をこんな場に来させたりしないよな?」
ハルムートもうっといった表情でうなずいた。
「確かに……そうですね。来る途中で足止めするか、そもそも屋敷から出さないか……」
だとすると―――どういうことだ?
要するに自分たちはここで完全に孤立してしまったということなのか?
そんなことをしている間に、向こうに新たに人影が三つ現れた。
それを見たハルムートが言った。
「私が食い止めます。裏から逃げて下さい」
メルファラは目を見開いた。食い止めるって―――またこのパターンなのか?
「でもムートは怪我を……無理です」
抗弁する彼女をハルムートはじっと見据える。
「ファラ様!」
このまま逃げなければならないのか?
こうして一人ずつ減っていって?
それにさっきフィナルフィンは何と言った? 裏に行っても逃げ道はないのだろう?
だったらどうすれば?
裏がだめなら―――その瞬間メルファラは心を決めた。
彼女はハルムートを正面から見返す。
「さっき裏の道はないと言ったじゃないですか。ならば正面からいくしかないでしょう?」
ハルムートは驚愕する。
「ちょっと待って下さい。正面からって……」
だが彼女はそれを無視してフィナルフィンに言う。
「フィン、私が気を引きますからその隙にまたあの魔法を」
「え?」
「それだったら三人くらい大丈夫でしょう? ムート」
「え? ですが……」
彼らは何か言おうとしたが、メルファラはそのまますたすたと歩き出す。
人影はかなり近くまで迫ってきている。
ハルムートとフィナルフィンが慌ててその後を追う。
メルファラは男達の手前で立ち止まった。
彼女は大きく息をすると男たちに言った。
「アルジャナンはどうして兄を追っているのです?」
それを聞いた男の一人が答えた。
「はあ? アルジャナン? なんだそりゃ?」
「バカ。覚えてねえのかよ。あいつらの頭目だろうが」
「うるせえな。ともかくみんなやっちまえばいいんだろ?」
三人はぽかんと男達の会話を聞いていた。
なんだ? こいつらはアルジャナンの部下ではないのか?
「どうでもいい。で、お姫様。お世継ぎってのはどこだよ?」
だがともかくこいつらも“メルフロウ”を狙っているのは間違いない。
「さあ、存じませんが」
メルファラは軽蔑した口調で答える。
「あんまり俺達をなめるなよ?」
「なめるなんてとんでもない。汚そうですし」
「なんだと?」
男達が激昂してにじり寄ってくる。
その瞬間だった。
ズドン!
再びフィナルフィンが衝撃波の魔法をぶっ放す。
男たちは間抜けな叫び声を上げながら折り重なって倒れた。
そこにハルムートが襲いかかる。
今回も共同作戦は成功だ!
《やった!》
メルファラは心の中で小躍りした―――のだが、戦いが終わった後、なぜかハルムートが荒い息をついている。
「ムート?」
見ると彼の足からも血が流れている。敵の一人が盲滅法に振り回した剣が当たっていたのだ。
それを見た途端、喜びの感情はどこかに行ってしまった。
「歩けますか?」
「大丈夫です」
本当なのだろうか?
だが今はそんなことを心配している暇はない。今はまずここを離れなければ……
「ともかく脱出しましょう」
そう言ってメルファラが厩に隠れていたエルセティアに合図しようとしたときだ。
前方からさらに誰かがやってくる。今度来たのは―――六名だ!
「ちょっと! ありゃ無理だろ?」
フィナルフィンがつぶやく。
確かにそうだ。今回は成功したものの―――それでもぎりぎりだったのだ。
その上ムートは負傷している。そこにあの人数では……
「他のはないのですか?」
メルファラは思わずフィナルフィンに尋ねていた。
「え?」
「他の魔法です」
だが彼はうつむいて答える。
「……すみません。使えそうなのは……」
その瞬間、彼女はこれが酷な質問だったことに気がついた。これ以上彼に何を望もうというのだ?
「ごめんなさい」
「いえ、いいんです……ともかく戻りましょう」
メルファラは二人に先立って厩に戻った―――とはいうものの一体どうすれば?
結局もとの木阿弥だ。
敵を三人倒したとはいえ、ハルムートの怪我が増えてしまった。
これはよい取引だったのだろうか? いや、むしろ状況は悪くなっている気がするのだが……
《私のせいで?》
だが落ち込んでいる暇もなかった。
「おい、何してる?」
フィナルフィンの声に振り向くと―――今度はエルセティアが壁にかかった馬の鞍を下ろそうとしていたのだ。
「この子に鞍を付けるの。手伝ってよ」
「そんなことしてどうする?」
「決まってるじゃない! 助けを呼びに行くのよ」
一同はぽかんと彼女を見た。
「どこに?」
フィナルフィンの問いにエルセティアは答えた。
「デュール、来てるかもしれないんでしょ? 途中まで」
「そんなの分からないって!」
「でも行かないよりマシじゃない!」
フィナルフィンは言葉に詰まる。
確かに悪くはない考えだった。
ここでうろうろしていても助けは来ない。
ならば誰かが助けを呼びに行った方が可能性はある。
あるのだが……
「もう奴らが来てるんだ。そんなことやってる暇ないって」
フィナルフィンが叫ぶ―――そう。これほど切羽詰っていなければの話だが。
「ええ?」
エルセティアはちらっと外を見る。確かに数名の人影が近づいてくるのが見えた。
「逃げるぞ」
フィナルフィンがそう言ってエルセティアの手を引いた。だが彼女はそれを振り払った。
「あっちは行き止まりじゃないの!」
「でもここにいるわけにはいかないだろ?」
エルセティアはむっとした顔でフィナルフィンを睨む。
メルファラも彼女に言った。
「ティア、行きましょう」
エルセティアは渋々うなずいた。
「しょうがないわね……」
一同はほっとして厩の裏口に向かって駆けだした。
だが……
《ん?》
何だか彼女がついてくる気配がないようなのだが―――そう思って振り向くと……
「おい! こら!」
フィナルフィンが叫ぶ。メルファラも驚きのあまり目を見張る。
―――なぜならエルセティアが裸馬によじ登っていたからだ。
「しょうがないから鞍なしで行くわ!」
「こら! 馬鹿!」
「ティア!」
メルファラも思わず叫んでいた。
「大丈夫。乗ったことあるから!」
そう言って彼女が馬の腹を蹴ると、いきなり馬が駆け出したのだが―――その瞬間エルセティアは悲鳴を上げながらバランスを崩した。
「おわああ!」
それを見てフィナルフィンが間抜けな声を上げる。
だが彼女は何とか体勢を立て直すと、そのままやってくる男たちの中を突破していったのだ。
男たちは大混乱だ。
見ていたメルファラたちも頭の中が真っ白だ。
「逃げたぞ!」
「追え、追え!」
敵の一人が彼女を追って走っていく。
「ああああ」
フィナルフィンが口をあんぐり開けてそれを見つめている。
「ティアは……裸馬にも乗れるのですか?」
「乗れるっていうか……昔子馬にね。しかも落ちたくせに……」
「ええ?」
メルファラとハルムートは顔を見合わせる。
「ともかくこれを無駄にはできません」
ハルムートは戻ると馬をつないであった綱を切り始めた。
「乗ってくのですか?」
「違います。こいつらを放します」
「ああ」
フィナルフィンがうなずくと、一緒になってほかの馬の綱をはずして尻をぶっ叩いた。
馬達は大きないななきを上げると表に向かって駆け出した。
「今です。さあ」
ハルムートが裏口を指す。ともかくこの隙に乗じて逃げるしかない。
メルファラはうなずくとフィナルフィンが駆けてきた。
だが今度はハルムートがついてくる気配がない。
「ムート!」
彼女が叫ぶが、ハルムートはそれに背を向けると厩の中で仁王立ちになった。
「ル・ウーダ殿! ファラ様をお願いいたします」
「ちょっと! 俺だけじゃ」
「あなたはここに詳しい。それに今は私のほうが足手まといになります」
「でも……」
「大丈夫です。やつらの狙いは“メルフロウ”様ですから」
フィナルフィンは一瞬躊躇したが、振り向くとメルファラに言った。
「行きましょう」
彼女はうなずくしかなかった。
厩の裏手から森が始まっていた。二人はその中に逃げ込んだ。
月は出ているとはいえ森の中は真っ暗だ。
後ろから男たちの罵声が聞こえてくる。
何なんだ? これは―――みんなが一人ずついなくなっていく。
残るは彼一人。
「ともかく奥へ。隠れていれば諦めますよ」
「はい……」
暗闇の中、フィナルフィンの手の感触だけを頼りにメルファラは先に進んだ。
そこまで話してメルファラはふっと一息ついた。
もう夜も遅い。
だがアウラは興味しんしんで目は冴え渡っている。
そんな彼女の表情を見てメルファラは言った。
「それでは続きを話してしまいましょうか」
「うん」
ここまで来て寝るわけにはいかない。
メルファラはパミーナに濃いお茶と夜食を持ってくるよう頼むと、物語の結末を話し始めた。