第8章 五里霧中
森の中の暗い茂みで二人はじっと身を潜めていた。
「ここでじっとしていれば諦めますよ」
フィナルフィンが囁く。
「はい……」
メルファラはうなずきながら小声で答えた。
森の中は静かだった。虫の声の合間に互いの息遣いが聞こえてくる。
「あの連中は何者なんでしょうか? アルジャナンの部下ではないように思いましたが」
メルファラが尋ねるとフィナルフィンもうなずく。
「そうですね。でもあなたを……というか、フロウを狙っているたのも間違いないみたいですが」
さっきの奴らはアルジャナンの名前を知らなかったり他人事のように話したり、どうも不自然だ。
「少なくとも雇われたチンピラでしょう。ダアルの家の者とは思えませんし」
「はい」
相手の正体が何であれ、敵であることには間違いない。
そのときフィナルフィンがうっと小声を上げた。
彼の視線の方向を見ると、松明と思われる光が幾つか現れている。
「本気で探す気かよ?」
フィナルフィンがつぶやく。それから二人は顔を見合わせた。今いる場所ではやって来られたらすぐに見つかってしまう。
「もう少し奥まで行きましょう」
「はい」
二人は暗闇の中を移動し始めた。
空には月が出ているが、森の中にはその光はあまり届かない。
しかも辿っているのは道というよりは単なる踏み跡で、大きな木の根や段差があちこちにある。そんな道だから先導されていても全然早く歩けないので気ばかり焦ってくる。
その上すぐに傾斜も急になってきた。
やがて彼女はフィナルフィンにただ引っ張られているだけになってしまった。
「ファラ! 頑張って下さい」
メルファラは何とか答えようとしたが息が上がって声が出ない。
それに気づいてフィナルフィンが立ち止まると振り返る。
「ティアは戻って来ます! それまで頑張るんです」
メルファラは荒い息をしながら黙ってうなずいた。
心の中は不安で一杯だった。
《本当に彼女は戻って来られるのでしょうか?》
まるで確信が持てない。
とりあえず最初の囲みは破って行ったとはいえ、果たしてあの追っ手から逃げ切れたのだろうか?
もし彼女が捕まってしまったら……
………………
…………
思いは悪いほうへ悪いほうへと広がっていく。
メルファラは首を振る。
今そんなことを考えても何にもならない―――のだが……
「行きますよ」
フィナルフィンが再び歩き出そうとするのをメルファラは引き留めた。
「ちょっと待って下さい。ナイフはありますか?」
「え?」
メルファラは自分の足下を指さした。
「これが絡み付いて歩きにくくて」
彼女はまだあのドレスを纏ったままなのだ。これ自身は大変気に入っていたのだが、こんな場所を歩くにはかなり不向きだ。
「え? でも……」
フィナルフィンはそう言いながらも、ポケットから小さなナイフを取り出して彼女に渡す。
メルファラはそれを受け取ると、ドレスの裾を膝が出るくらいまで切り取った。
「これで歩きやすくなりますね」
「ええ、まあ……」
フィナルフィンは複雑な表情だ。
「これはどうしましょうか」
メルファラはドレスの切れ端をぶら下げて尋ねた。
「捨てない方がいいです。ここにいたことがばれてしまいますから」
彼女はうなずくと切れ端を丸めて矢筒の中に詰め込んだ。
それから二人はまた早足で歩き始める。
だがまたすぐに息が上がってきてしまった。
どうやらそれはコルセットのせいだった。いま着用しているのはいつものとは違ってずっと楽なはずなのだが―――それでもこういった運動をする際に着るものではない。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫ですが……」
メルファラはそう言って何度か深呼吸すると、フィナルフィンに向かってうなずいた。
「じゃあ急ぎましょう」
フィナルフィンはまた進み始める。
振り返ると松明の明かりが先程より近づいている。こんなところでぐずぐずはできない。
それからしばらく急な斜面を上ると、ぽっかりと開けた場所に出た。
ちょろちょろと水の流れる沢筋で、足元には大きな石がごろごろしている。
フィナルフィンはふうっと一息つくと沢の水をすくって飲んだ。それからメルファラに向かって手招きする。
彼女もうなずくとそれに習った。
ただの水なのにひどく美味しかった。生き返ったような気分だ。
おかげでメルファラはやっとあたりをゆっくり見回す余裕ができた。
この先どこに向かうのだろうか? だが目の前には―――岩壁のごつごつしたシルエットが月明かりに浮かび上がっているだけだ。
《え? 行き止まり?》
背筋がぞくっとする。
これで終わりなのか?―――いや、終わるはずがない!
「これからどこに?」
フィナルフィンが答えた。
「大丈夫ですよ」
「大丈夫って?」
どこかに抜け道でもあるのだろうか?
「あそこを見てください」
指された方を見ると、崖の中腹に岩棚があるのが見えた。
「あれが?」
だからどうだというのだ? あんな所に上がれるわけがない。
だがフィナルフィンは彼女の手を引くと、岩棚の真下まで来た。
「覚えていませんか? あのときのこと……私があなたの着替えを覗いてしまったときですが……」
フィナルフィンは笑った。
「あ!」
メルファラは思い出した。彼は軽身の魔法が使えたのだ。
それを使って天窓まで上れたのなら―――あの岩棚にだって上れるはずだ!
「それじゃちょっと、いいですか」
「え?」
「投げますからあの岩棚に飛び乗ってください」
「はい……」
メルファラがうなずくとフィナルフィンは彼女を抱きかかえた。
何故か胸の奥がずきんとする。
フィナルフィンの顔が側にある。
彼が目を閉じて精神の集中を始めるが―――なかなか放り上げようとしない。
「あの……?」
「すみません。行きます」
それからフィナルフィンはもう一度精神集中すると、今度は思いっきりメルファラを宙に放り上げた。
ふわっとした感触が身を包むと―――すうっと彼女は浮き上がり始めた。
恐怖はなかった。
こういうことは今までも何度もしてもらったことがあったからだ。
ただそのときの相手は一級魔導師だ。失敗する心配など一切なかった。
だが今回はちょっと違った。
彼女が岩棚に下りようとした瞬間、いきなり魔法が切れてしまったのだ。
「あっ」
急に落下したせいでメルファラは岩棚から転げ落ちそうになった。
「痛っ!」
それはなんとか踏みとどまったが―――そのせいで肘を派手にすりむいてしまった。
落ちていたらもちろんそれどころでは済まなかったところだが―――ともかく成功してほっとしたそのときだ。
「なあぁぁっ!」
下からフィナルフィンの悲鳴が聞こえてきた。彼は彼女以上にパニックになっているようだ。
「ファラ! 大丈夫ですか? ファラ!」
声が少し裏返っているが―――そんな彼がちょっと可笑しかった。
だが今はそれどころではない。
「大丈夫です! それより来てます!」
メルファラの所から松明が一つ、ほんのすぐ側まで来ているのがよく見えたのだ。
フィナルフィンは慌てて精神集中を始めると、思いっきり飛び上がった。
ところがもう少しで届くというあたりでフィナルフィンがちらりと肩越しに目をやったのだが―――松明がもうすぐ下で煌めいているのを見ると泡を食ってしまって……
「おわあ!」
そんな間抜けな声を上げながら落下してしまったのだ。
「フィン! フィン!」
メルファラは叫んだ。
今度パニックになったのは彼女の方だ。返事がない。まさか……⁈
だがすぐに下から声が聞こえる。
「あたたたた」
「大丈夫ですか」
「大丈夫です……」
だが実は大丈夫ではなかった―――がさがさと誰かがやってくる音が聞こえてきたのだ。
「フィン! 早く!」
メルファラは小声で叫んだ。フィナルフィンは再びジャンプしようと精神を集中する。
しかし彼が再び跳び上がる前に敵が背後に現れた。
「フィン!」
メルファラは叫んだ。
彼はもう間に合わないと悟ると振り返って剣を抜いた―――だが彼の剣の腕前が魔法以上にからきしなのはメルファラもよく知っている。
《フィン‼》
叫びはもう声にもならなかった。
「へっ、こんな所にいやがったぜ!」
やってきた男はかなりの大男で、フィナルフィンよりは二回りほど大きな体格なのがここからでもよくわかった。
そんな相手とまともに戦えるのだろうか? いや、無茶だ! だがどうすればいい?
そのとき彼女は自分が弓矢を持っていることを思い出した。
《これだ!》
メルファラは急いで弓の弦を張ろうとするが、慣れない弓なので手間取ってしまった。それからそれから矢を取り出して番えようとしたのだが―――そのときには下からガキンと剣を打ち合う音が聞こえ始めていた。
「ほらほら、どうした?」
フィナルフィンは男の最初の一撃をどうにか受け止めたらしい。
だがそのままパワーで押し込まれていく。これでは援護もできない!
「フィン!」
メルファラが叫ぶ。
「ほら、呼ばれてるぜ?」
そういって男はフィナルフィンを突き倒した。地面に倒れたフィナルフィンの利き腕を男が踏みつける。
「じゃあな」
男が剣を構えた。
「だめぇ!」
メルファラは叫んだ。
《そんな!》
ここで彼までがいなくなってしまったら、いったい自分はどうすればいいのだ?
だがそのときだった。
「おああ?!」
男が妙な声を上げて体をのけぞらせた。
見ると服の袖が燃えている。
男が慌てた隙に足が外れてフィナルフィンは逃げ出すことに成功した。
《フィン……》
メルファラは安堵した。
男は彼が魔導師であることに気づいたはずだ。ならば怯んでくれるかもしれない。そうすればチャンスはあるはずだが―――だがその希望は叶えられなかった。
「てめえ、何しやがった?」
フィナルフィンが魔導師だと知って、男は怯むどころか逆に激昂してフィナルフィンに襲いかかってきたのだ。
反対に油断していたのがフィナルフィンの方だ。
男の剣がフィナルフィンを捉えた。
「あがっ!」
フィナルフィンが悲鳴を上げてよろめいた。
男はその隙を逃さなかった―――次の瞬間、フィナルフィンは再び組み敷かれていた。
「ほら、もっぺんやってみろよ!」
男はそういってフィナルフィンを殴りつける。
《フィン!》
メルファラは叫ぼうとしたが、のどがからからで声が出ない―――だがその瞬間、彼女は気がついた。男がフィナルフィンを組み敷いているせいで二人の動きが止まっている! ここからだと男の大きな背中が丸見えだ。ならば行ける!
メルファラは弓に矢を番えると思いっきり引き絞って狙いをつける。
《当たれ!》
彼女の放った矢は見事男の背中に突き刺さった。
「うが!」
男が悲鳴を上げてのけぞった。
それから振り返って彼女を睨みつける。
だがそれは間違った判断だった。その瞬間フィナルフィンが下から男の脇腹を突き刺していたのだ。
「あう!」
男が呻いた隙にフィナルフィンは男を思いっきり突き飛ばすと、横転して男の下から脱出した。それから彼は立ちあがったのだが―――とはいっても剣を支えにしてやっと体を支えたと言っていい。遠くから見てもふらついているのがよく分かる。
《このままでは遅かれ早かれ……》
だがそのときだ。フィナルフィンがぎろりと男を睨み付けると……
「もういっぺんやれって言ったよな?」
その声の響きには、メルファラの背筋までがぞくりとした。
これが本当に彼の声なのか? 今まで聞いたこともない冷たい声だが……
男は何かまずいことになったと悟ったようだ。数歩下がると剣を構え直して、ちらっと退路を探して目を泳がせたのだが……
その瞬間だった。いきなり男の体がのけぞると―――ぼしゅっという音と共にその頭が破裂したのだ。
どさっと倒れる音と共にあたりは再び静寂になった。
頭を吹き飛ばされた男は、もはやただの肉塊と化していた。
《え?》
メルファラは一瞬何が起こったのか分からなかった。
だがそれはフィナルフィンも同様だったらしい。
彼はぽかんとその死体を見つめた挙げ句「ひゃああっ」と間抜けな声を上げて腰を抜かした。
「フィン! フィン!」
メルファラが上から叫ぶ。だがフィナルフィンはへたり込んだままだ。
メルファラは腹に力を込めて思い切り叫んだ。
「フィナルフィン! ル・ウーダ・フィナルフィン!」
それを聞いてやっと彼は彼女の方を見た。
「はやく! こちらへ」
彼女は届かないとは分かっていても手をさしのべる。
フィナルフィンはふらふらと立ち上がる。
だが数歩歩いて岩壁に手をつくと苦しそうに息をついた。それから上を向いて首を振る―――どうやらもう動けないと言いたいらしい。
だが、彼女のところからは新しい松明が近づいてくるのが見えていた。
「だめです!」
メルファラは叫ぶ。
フィナルフィンがえっという顔で上を見上げる。
「私のそばに来てください! 私を一人にしないでください!」
フィナルフィンは目を見開いた。
それからしばらくじっと彼女を見つめていたが―――ふうっと息をつくと目を閉じて精神を集中し始める。
それから彼はおもむろにジャンプした。
メルファラは思いっきり手をさしのべた。
彼がすうっと上がってきて―――手が届く!
メルファラは彼の手を握りしめると思いっきり引っ張った。
その瞬間また魔法が切れて、フィナルフィンがどさっと岩棚の上に転がった。
「うあっ!」
フィナルフィンが呻きをあげる。
「大丈夫ですか?」
彼は無理な笑みを浮かべながら小声で答えた。
「あまり……大丈夫じゃないかもです……」
「見せてください」
メルファラはフィナルフィンの怪我の具合を調べた。
腰にかなり大きな傷があって血がどくどく流れている。このままではいけない。どうにかしなければ―――だがどうやって?
そのとき彼女は思い出した。
彼女は矢筒に詰め込んでいたドレスの切れ端を引っ張り出した。
「やっぱり持ってきて良かったですね」
「そうですね……」
フィナルフィンが力なく笑う。
メルファラはドレスの切れ端でフィナルフィンの腰を縛った。
応急処置もいいところだが、傷を開きっぱなしておくよりはましだろう。
それが終わったとほぼ同時に下にまた敵が現れた。今度は二人だ。
男たちはすぐにさっきの男が倒れているのに気がついた。
「おい!」
男たちは倒れた男に近寄るが、調べるまでもなく彼は死んでいる。
それから周囲を見回し始めたが、ここはどう見ても行き止まりだ。
男たちはきょろきょろしながらしばらくあたりを探し回った。
メルファラとフィナルフィンは凍り付いたように身をすくませて、二人の動きを観察した。
《このまま行ってください!》
そんな祈りが通じたのか、男たちは首をかしげながら元来た道を引き返そうとした。
それを見たメルファラは安堵して体の力が抜けた。
だがそれがいけなかった―――そのせいでうっかり小石を落としてしまったのだ。
「ん?」
男たちは振り返り、次いで上を見上げた。
メルファラとフィナルフィンはなるべく見つからないように体を小さくしていたが、狭い岩棚だ。どうしても体の一部がはみ出してしまう。
「ああ! あんなところにいやがる!」
「どうやって上がったんだ?」
見つかってしまった! どうすればいいのだ?
だがそう思った後、二人は顔を見合わせた―――考えてみたらここならば安全なのでは?
あいつらにここまで登って来られるわけがない。無理に登ろうとしてもこちらは上から攻撃できる。
実際男たちは下で地団駄を踏んでいた。
メルファラはほっとした―――とは言っても単に今すぐ攻撃されることはないというだけで、状況は圧倒的に不利だ。
ここから逃げることもできないし、こちらから攻撃しようにも矢が数本あるだけだ。
フィナルフィンは横でぐったりしているし……
いつまでこの状態が続くのだろうか?
果たしてその危惧はすぐに現実になった。
「弓だ。弓を持って来させろ」
「おう」
そう答えて男の一人が下って行ったのだ。
弓で射られたらほとんど終わりだ。この場所ではほとんど的のようなものだ。
《あとは……》
残された希望は――― 一つだけある。ティアが間に合ってくれることだが……
話に一区切りがついたところで、アウラは思わずつぶやいていた。
「あいつ、あれやったんだ」
「あれ?」
メルファラが聞きとがめて、ちょっと訝しそうに尋ねた。
「頭吹っ飛ばすの。前一度あたしの真上でやってくれて。中身がかかっちゃって、滅茶苦茶熱かったのよ?」
メルファラは目を丸くした。
「そうなのですか? いったいいつ?」
「グラテスで盗賊を退治したとき。あれって炎の魔法だって言ってたけど本当なの?」
彼女は少し驚いた顔でアウラを見つめていたが、やがてうなずくと答えた。
「それは本当ですよ。あの炎の魔法という物は、厳密にはある場所を熱くする魔法なんです。それが空中だと火の玉みたいに見えるんです。あれで直接お湯を沸かしたりもできるんですよ」
「ふうん」
「でも注意しないといきなり爆発したりして危ないので、そういうことはするなと教えられています」
「へええ」
初めて聞く知識だ。フィナルフィンはこんなことは教えてくれなかったが……
「ファラって魔法も使えるの?」
彼女は微笑んで首を振った。
「いいえ。私は全然。でもこのくらいはこちらでは常識なので」
「ふうん」
それからちょっと一服すると、メルファラは続きを始めた。
「そんなわけで私たちは岩棚の上でただ震えていたんです。あのときほど心細かったことはありませんでした。何しろ頼みの綱と言えばティアだけだったんですから……ただでさえ頼りないのに、あんな状況で、しかも乗っていったのは裸馬で……」
彼女はそのときエルセティアがどうなっていたかを話し始めた。
確かにみんなの言うことも無理はない。
敵は迫ってきているし、鞍をつけている暇なんかなさそうだ。
だが、この先に逃げてどうする?
ここは小さい頃からよく来て遊んでいる所なのでよく知っているが、この先は沢筋についた小道があるだけで、それを行ったら最後は崖下で行き止まりだ。そんな所に追いつめられたら本当にどうしようもないのでは?
そう思ってエルセティアはフィナルフィンを睨みつけた。
だがそんな彼女にメルフロウが声をかける。
「ティア、行きましょう」
彼女の心は揺れた。
《どうしよう?》
彼女とは一緒にはいたい。彼女がそう望むのなら―――いや、そういうわけにはいかない!
《そうよ! あたし以外誰が行くっていうのよ?》
ここにいるのはたった四人。
フィナルフィンが行ったらハルムートは怪我をした身で二人の娘を守らなければならなくなる。
ハルムートが行ったらフィナルフィンは――― 一人でも守れるかどうか……
だったら残りは彼女しかいないではないか?
彼ら二人なら遙かに確実にメルフロウを守れるのではないのか?
エルセティアは心を決めた。
「しょうがないわね……」
それを聞いて一同は彼女が付いてくると勘違いして裏口に向かって駆けだした。
エルセティアはその隙に柵を開くと手近な馬によじ登った。
「おい! こら!」
それに気づいたフィナルフィンが叫んだ。だがもう遅い!
エルセティアは叫んだ。
「しょうがないから鞍なしで行くわ!」
「こら! 馬鹿!」
「ティア!」
フィナルフィンと、それからメルフロウの声も聞こえる。
一瞬後ろ髪が引かれるが、もう後には引けない―――というか、今はこの馬に乗ることに全神経を集中しなければ……
「大丈夫。乗ったことあるから!」
そう言って彼女は馬の腹を蹴る。途端に馬が駆け出して……
「やあぁぁぁ!」
エルセティアは投げ出されそうになるのを必死で堪えた。
「おわああ!」
後ろから間抜けな声が聞こえる。
だが彼女は馬から落ちないように必死にしがみつくことだけで精一杯だ。
「逃げたぞ!」
「追え、追え!」
気づいたら後ろからそんな声が聞こえてくる。あの敵の間をいつ抜けたのだろう?
ともかく―――最初の関門は突破したらしい。
だが、それでほっとしているわけにはいかない。
《すごく……乗り心地悪い……》
裸馬に乗るのがこんなに大変だとは……
鞍とか鐙とかを発明した人は天才だったに違いない。
「ちょ、ちょっとゆっくり走ってよ!」
エルセティアが叫んでたてがみを引っ張ると、馬は少しゆっくりになってくれた。
そこで彼女がそっと頭を上げて振り返ってみると……
「んげっ!」
後ろからもう追って来ている!
まだ距離はあるとはいえ、山荘の分岐点から馬に乗った男が二人出てくるのが見えた。
《やば!》
エルセティアは再び馬を急かそうとして思いとどまった。
この速さでもいつ落馬するか分からないのに、これ以上の速度なんて……
でもこのままでは追いつかれてしまう! あっちは鞍付きだし、乗り手も男だし……
そのとき街道の前方が二股に分かれているのが見えた。
《あそこだ!》
あの分岐は右が本街道、左に入れば霧の湿原経由の脇道だ。
街道上の追いかけっこでは絶対勝てないが、そっちなら何とかなるかもしれない!
それに距離は脇道の方が近い! でもあそこは―――などと考えている余裕はなかった。敵はどんどん迫ってくる。
エルセティアはそれ以上何も考えずに脇道に飛び込んだ。
入ってすぐの辺りは高い草の生えた草原になっている。
その間を抜ける道を、馬に必死にしがみつきながら駆け抜けた。
空には月が出ているので道はよく見える。
もちろん追っ手がどんどん間を詰めてくるのもよく見える。
《急いで! でも急がないで!》
エルセティアは心の中で叫ぶ。ああ、どうしよう! 気ばかり焦ってくる。
そのとき向こうに“休み岩”が見えた。
そこは兄と一緒によく遊びに来たところで、その先にちょっとした小川が流れている。
それを遡ったところに橋があるのだが、直接渡った方が近いので、馬で来たときはいつもそこを飛び越えていた。エルセティアは今回もそのつもりで真っ直ぐに突っ込んでいった。
だが小川が眼前に迫ってきたところでエルセティアは思い出した。
馬で跳べるとはいってもかなりの幅はあるのだ。最初の頃は何度か失敗したこともある。
今のこの状況で大丈夫だろうか?
《どうする? 止まる?》
だが即座にエルセティアは首を振る。
《とんでもない!》
エルセティアは心の中で叫ぶと、タイミングを数えた。
「一ぃ、二ぃ、行けぇぇぇ!」
その声とともに馬は一気に川を跳び越えた。
「ひゃああぁぁぁ」
思わず声が出たが―――ジャンプは大成功だった。
ただ着地した瞬間にまた振り落とされそうになったのを、たてがみを思いっきり掴んで立て直したのだが―――それが痛かったのか馬がいななきをあげた。
「ごめん! 大丈夫?」
エルセティアは馬をなでるとまた走らせ始める。
そのとき後ろから悲鳴が聞こえた。振り返ると―――小川のところで馬が一頭転んでいるのが見える!
《やたっ! ざまみろ!》
エルセティアは内心で歓声をあげたが、同時に背筋が寒くなった。
《よく跳んだわねえ……あそこ……》
などと感心している暇はない。残り一頭がやってくる。
《ちぇっ!》
だがリードはずいぶん広がっている。とりあえず一安心だ。
「頑張るわよ!」
エルセティアは馬と自分に囁きかけた。
そう。今は彼女が頑張るしかないのだ。
フィナルフィンとハルムートの二人がいればメルフロウに危害が加わるわけがない―――多分ないはずだ……
でも相手は大勢だ。
ハルムートは怪我をしていたし、いつまでも、とはいかないかもしれないが……
《ああ、フロウ! お兄ちゃん!》
もし彼女が間に合わなければ……
頭の中に不気味な光景が浮かび上がる。
それはどこか知らないところ。見たことのない場所だ。
前がよく見えない。ただ分かるのは一面が赤いということ。真っ赤だ。どこもかしこも真っ赤で、地面はどろどろ……
その間を何かが流れる。小川のように。真っ赤な血が―――転がっている三つの屍から……
「いやよ!」
エルセティアは叫びながら馬にしがみつく。
冗談じゃない! そんなこと、そんなことになったら……
だが悪いことはそれで終わりではなかった。
「やだ、霧が出てる!」
今エルセティアは霧の湿原の中心部に入り込んで来ていた。
ここはその名の通りよく霧が出るのだ。
今いる所はまだそれほど見通しは悪くないが、行く手に向かって霧が濃くなっていくのが分かる。
《あれ、大丈夫かしら? 道は分かるけど……》
ここは開けているので、遠くの景色さえ見えていれば絶対に迷わない場所なのだが、霧に巻かれてしまうと方向が全く分からなくなってしまう。
だが今はそれよりも切迫した問題があった―――追手がまた迫っているのだ。
《ああ、どうしよう! このままじゃ捕まっちゃうわ!》
もうこうなったら……
「ああ、白の女王様! どうかお助け下さい! こんなときしかお祈りしないのを許して下さい! でも、あたしが行かないとフロウが殺されちゃうんです!」
彼女は声を出して祈った―――こうなったら神頼みしかない!
「ああ、大聖様、白の女王様、黒の女王様でもいいです。お願いです。聞いてくれたら何でもします。もうわがままいいません。あたしどうなってもいいからフロウとお兄ちゃんとムートを助けて!」
そう祈りながらエルセティアは目から涙がこぼれてきた。
こんな横着なお祈りを聞いてくれる神様なんているわけない……
どうして自分はこんなに無力なのだろうか?
多分このまま捕まって殺されてしまうのだ―――そしてメルフロウたちも……
しかも湿原の中に入り込んだ道は前よりも細く曲がりくねって来たので、エルセティアは馬の速度を緩めなければならなかった。
「なのよね……」
エルセティアはなんだか力が抜けてきた。
これ以上どうすればいいというのだ?
敵はどうなっているだろうか?
エルセティアは恐る恐る振り返る。
「ああっ!」
敵はすぐ近くに迫っている。
そして今まさにその敵は、彼女の前を押さえるために草原を突っ切って来ようとしていた。
!!
彼女は愕然とした。
何ということだ!
どうして……
どうして……
どうしてあんなお祈りが通じてしまったのだろう?
「うわあ!」
次の瞬間、そんな叫び声と共に敵の馬が大きく傾いていった。
そう。ここは“湿原”なのだ。
街道が迂回していたり道がぐねぐねしているのにはわけがある。
道以外の場所はちょっと見ただけだとただの草原に見えるが、いざ踏み込んだりしたら腰までずぶずぶと沈んでしまうのだ。
「やーい、ばかばか!」
エルセティアは思わず叫んでいた。
「このやろう!」
男の怒号が聞こえる。だがその悪態はどんどん後ろに去っていく。
やがて男の姿が見えなくなると、腹の底から笑いがこみ上げてきた。
「きゃーっははははははは!」
エルセティアは大声で笑いながら疾走した。
それからしばらくしてはっと気がついた。
月夜の晩、裸馬に乗って馬鹿笑いを上げながら湿原を疾走する娘―――って、ほとんど悪魔か何かではないのか?
そう思った瞬間、今度は別な笑いがこみ上げてくる。
《結構じゃないの! みんなが助かるなら、悪魔にだって何にだってなってやるわよ!》
エルセティアはくすくす笑いながら馬を走らせると、大きく息をついた。
とりあえず追っ手は振り切った。
そう思った瞬間どっと疲れが出てきた。
裸馬にしがみついているのはひどく疲れるのだ。
あちこちの筋肉がこわばってきている。
足などはもう感覚がないくらいだ。これはちょっと休まないと……
思わずそう考えてエルセティアは首をふる。
いや、こんな所で休んでいる余裕はないはずだ。それに辺りを見回すと霧が濃くなってきている。急がないと!
エルセティアは疲れた体に鞭打って先を急いだ。
だが霧はますます濃くなって、ついに何も見えなくなってしまったのだ。
「ああ、どうしよう!」
喜びは急速にしぼんできて、逆に恐怖がこみあげてくる……
「ちょっと、ゆっくり歩いて!」
足下が見えづらい。ほんの近くだけが辛うじて見えるだけだ。
急ぎたいが急げない。うっかり道を踏み外したりしたら―――さっきの男と同じ目に会ってしまう。
エルセティアは慎重に馬を歩ませた。
あたりは何も見えない。
いったい自分はどこにいるのだろうか?
―――そのとき道が三つ股に分かれているところに行き着いた。
《え? これってどっちだっけ? 真っ直ぐで良かったんだっけ?》
湿原の中の道はかなり複雑だ。こんな箇所もたくさんある。
見通しさえよければ単に目標に向かっていけばいいので、どう行こうとも何とかなる。だがこの状況ではそうはいかない。下手をして同じ所をぐるぐる回ってしまったりしたら……
「ちょっと止まって!」
エルセティアは馬のたてがみを引いて止めると周囲を観察した。
だが目印になるような物は何も見あたらない。
《どうしよう?》
こんな場合いつもなら適当に選んで行ってしまっただろう。間違えたら謝ればいいし、といった感じで……
でも今回もし間違ってしまったら?
………………
…………
エルセティアは首を振った。
《こんなとき、お兄ちゃんどうしろって言ったっけ……》
以前フィナルフィンがこのような状況に陥った場合の鉄則を教えてくれたような気がするが―――ええと、そうだ!『無闇に動かずに霧が晴れるのを待て』だった。
《それじゃだめじゃない! バカーっ!》
エルセティアはがっくりとうなだれた。
確かにそうすれば自分だけは助かるかもしれないが……
エルセティアは身がすくんでしまった。本当にどうしたらいいのだ?
《ああ! どうしよう!》
そんな風にどれぐらい呆けていただろうか。
まぶたの裏に再びあの陰惨な光景が浮かび上がっていた。
真っ赤な血が―――死体が……
「フロウ! フロウ!」
エルセティアは叫んだ。
だが答えはない。
声は霧の中に吸い込まれていくだけだ。
微かに聞こえる葉ずれの音と虫の声。
「フロウゥゥゥゥ!」
その瞬間だ。
さあっと風が吹いて急に霧が薄れた。一瞬ちらっと星が見える。だがそれも束の間、再び霧があたりを包んでいったのだが……
《あ!》
だがその一瞬に見えたもので十分だった。
彼女の正面に見慣れた丘のシルエットがあったのだ。
《あれってトネリコの丘だったわ!》
道は正面でよかったのだ!
「行くわよっ!」
エルセティアは馬を歩ませ始めた。
やがてすぐに道は登りになってきた。
しばらく行くと霧が晴れてくる。
振り返ると湿原の上に霧が白い絨毯のように流れているのが月明かりに浮かび上がっている。
美しい光景だ……
だが今そんな物を鑑賞している余裕はなかった。
登りはすぐそこまでだが―――その上の方にちらっと人影らしい物が見えた。
「助けて、助けて!」
エルセティアは叫びながらその方向に向かった。
「助けて! フロウが、フロウが……」
だがその声はすぐトーンダウンする。
それはただの潅木の茂みだった。
エルセティアはため息をついた。
当然だ。こんな時間にこんな所に人がいるわけがない。
だがその茂みはなんだか見覚えがあるような気がした。
エルセティアがあたりを見回すと―――丘の上の方に大きな木が立っている。
「あっ!」
あの格好、枝振り。一目見るだけで十分だった。
もちろんそれは二人の約束を刻んだ“とねりこ”の木だ!
「ひゃっほう!」
ここならもう分かる。街道へどう出るかも!
「行くわよ!」
エルセティアの声とともに馬はいななくと、また小走りに走り出した。
彼女が丘を下ると、街道につながる尾根道を走り抜けた。
やがて街道との合流点に着く。
そこでまたエルセティアは立ち止まらざるを得なかった。
《えっと……》
まさか行き違ったりはしていないだろうか? 自分が霧の湿原をうろうろしている間に、彼らはもう通り過ぎていたりして……
だがそのとき街道の先の方にちらっと明かりが見えた。
「あそこよ!」
エルセティアはそちらに向かって馬を走らせた。
段々とその明かりが近づいてくる。
見ると結構な人数の兵隊らしき人影が見える。
その中央に立派な馬車が見えていて―――そこで何か話しているあの姿は?
《デュールだ!》
見間違えるはずがない! あれから何度も会っているし!
「デュール!」
エルセティアは叫んだ。
人々が一斉にこちらを向くのが見える。
あそこにいるのは間違いない。カロンデュールだ!
その横にはあのときの―――確かカルスロムという人の姿もある!
彼らの前に到着するなりエルセティアは馬のたてがみを思いっきり引っ張った。
「止まってぇぇ!」
さあ、これで―――と思った瞬間だ。
彼女の回りで世界が上下が逆さまになった。
「きゃあああああああ」
地面が見えて、次に星空が見えて―――それからものすごい衝撃が体を貫く。
次に気づいたときには誰かが彼女をのぞき込んでいた。
「姫! エルセティア姫!」
頭の中がじんじん鳴っている。えーっと、これは一体誰だ? いや見覚えがある。彼は……
「……デュール?」
「ああ、気がついた。大丈夫ですか?」
そして彼女は自分のすべきことを思い出した。
彼女は体を起こそうとした。
うん。何とか大丈夫だ。だが力があまり入らないので手を突いて体を支えようとすると―――何だか手が動かない。
《あれ?》
彼女がそのまま転びそうになったところをカロンデュールが支えてくれた。
「姫。動かないで。肩が外れているみたいです」
そう言ってカロンデュールがカルスロムに何か指示を出しているが―――それは普段なら驚愕の事実だっただろうが、この際には本当にどうでも良かった。
「そんなことどうでもいいの! デュール! 助けて!」
エルセティアはそう叫んでカロンデュールの腕を掴む。
「え?」
「デュール、デュール、フロウが……ファラが、ファラが……」
涙がたくさん出てきて声がうまく出ない。
「お世継ぎが? それにファラ? メルファラ姫がどうかなさったのですか?」
「助けて! 襲われてるの!」
「襲われてる? 誰に?」
誰って、あれは結局誰だったのだろう?
「山賊みたいな奴らなの!」
カロンデュールとカルスロムは顔を見合わせた。
「カロンデュール様、これは……」
それと同時にその場にいた兵隊たちも低くどよめいた。
「場所は山荘でいいのですか?」
「そうよ! 早く!」
エルセティアはうなずいた。
カロンデュールは兵隊の一団に向かって言った。
「お前たち、聞いたな?」
隊長らしき男がうなずいた。
「なら行け! 私たちもすぐ行く!」
「御意」
それと同時に兵隊たちが一斉に馬に乗ると駆けだしていった。
エルセティアはしばらく呆然とその後ろ姿を見つめていた。
それから少し不思議に思った。
「あの兵隊は?」
考えたらこれは秘密の会合だったはずだが―――まさか彼らがこの兵隊を連れてきていたのか?
だがカロンディールがにっこり笑って答えた。
「来る途中にばったり出会ったのです。こちらに盗賊の一団が向かったとの情報を得たので来たそうで……だから私たちにもこちらは危険だから戻れと言ってきて、そこでちょっと口論になっていたのです。彼らの言い分ももっともなのですが、こちらとしても行かないわけにはいきませんし……でも彼らを連れて行くわけにもいきませんし……」
エルセティアはうなずいた。そうだったのか―――運がよかったというのか、何なのか……
そのときカルスロムがやって来ると彼女の肩を触った。ずきんと痛みが走る。
「きゃ!」
彼女は思わず悲鳴を上げた。だがカルスロムが彼女の髪を撫でると言った。
「姫。少し痛いと思いますが我慢してください」
「え? ええ」
その心の準備が終わらないうちにカルスロムは彼女の外れた肩をはめたのだ。
「ぃやあああっ!」
エルセティアはほとんど気絶しそうになったが、何とか持ちこたえた。
その間にカルスロムが持ってきた布で、慣れた手つきで彼女の腕を固定する。
それからカロンデュールにうなずいた。
カロンデュールが彼女のそばにやってくると囁いた。
「じゃあちょっと失礼します」
そしてやにわにエルセティアを抱き上げたのだ。
「え? あの……」
エルセティアは思わず顔から火が出た―――もしかしてこれがいわゆる“お姫様だっこ”というものでは?
メルフロウがあんなだったから、実はこれが生まれて初めての体験だったりして……
カロンデュールはそのまま彼女を馬車に乗せる。
「大丈夫ですか?」
「ええ、まあ」
心臓がどきどきしているのは―――怪我のせいだ。絶対そうに違いない! それ以外には考えられないって!
「段々痛くなってくるかもしれません。でも今、屋敷に治療師を呼びにやっていますから我慢してください」
「ええ。ありがとう」
エルセティアは礼をした。
なんだか怖くて目を合わせられない。
それから上目遣いで彼の顔をちょっと見る。
「じゃあ、スロム!」
カロンデュールは御者台のカルスロムに向かって声をかけていた。
その横顔を見ているうちに何故か視界がにじんでくる。
一行を乗せた馬車はル・ウーダ山荘に向けて疾走を始めた。