第9章 闇に響く角笛
「ティアはそんな調子で頑張ってくれていたんですが、そのときの私達は心底絶望していました」
そう言ってメルファラはくすっと笑った。
「彼女には悪かったのですが、そのとき私は全然信じていなかったのです。彼女が本当に戻ってくるなんて……横ではフィンが死にかかっていましたし、もはやたった一人で、もう何もかもが無意味に思えてきていました……」
メルファラはアウラを見つめる。
「絶望したとかよく口にはしますが、本当に一切の望みが絶たれた状況というのがどういう物なのか、ほとんどの人は知らないのですよね」
それを聞いてアウラはうなずいた。
「そうよね」
絶望か―――そう。ガルブレスが殺されて傷を負ってあの森を這いずっていたときとか、レジェの屍を担いでアビエスの丘を登っていたときとかがそんな感じだったかも……
彼女の言葉にアウラが躊躇なくうなずいたのを見てメルファラはちょっと目を細めた。
だがそれについては何も言わず、話を続けた。
二人は岩棚の上で耐え忍んでいた。
横に座っているフィナルフィンから辛そうな息の音が聞こえてくる。
メルファラはちらっと彼の顔を見る。フィナルフィンは目を閉じている。
「フィン?」
フィナルフィンが薄く目を開ける。それから笑おうとしたようだが、口元が単に歪んだように見えただけだった。
何か言わなければ―――だが何と言えばいい? 言葉が出てこない。
「フィン……」
彼女は再び彼に呼びかける。
フィナルフィンはそれを聞いて軽くうなずく。
ともかく反応のあるうちは大丈夫だ。反応のあるうちは……
メルファラは下を見下ろした。
木陰から男が一人こちらを伺っている。さっき一人弓を取りに行った残りだ。あいつと睨み合いになってからどれくらい経つのだろうか?
そのときだ。下の方からがさがさと誰かがやってくる音が聞こえた。
《助けですか?》
だがその思いは一瞬で打ち砕かれた。
「持ってきたぜ」
「遅えんだよ!」
「あんだと? てめえはここでボケッとしてただけだろうが?」
メルファラは歯を食いしばった。
どうする?―――といってもここは狭い岩棚だ。逃げ場はない。
彼女は再びフィナルフィンを見ると、彼も目を開けてじっと相手を睨んでいた。
「とにかくさっさと撃ち落としちまえ」
「おう」
それからぎりっと弓を引き絞る音がして、びゅんという音と共に矢が飛んでくる。
矢はカランと近くの岩壁に当たった。
「どこ狙ってんだよ」
「うるせえ。難しいんだよ」
再び弓の音がする。今度はもう少し近くに当たって弾けた。
《このままじゃ……》
メルファラはフィナルフィンを見る。
彼は拳を握りしめて体を震わせている。
今まで聞いた彼の魔法では、この場はどうしようもない。唯一何とかなりそうなのが炎の魔法だが―――あの距離では正確な場所には出せないし……
だとすれば?
メルファラは心の中に何かどす黒い物が沸き上がってくるのを感じた。
だったら―――自分でやるしかない!
月明かりの下、男たちの姿はよく見える。自分たちが狙われるとは思ってもいないようだ。
メルファラは矢筒から矢を抜き出すと、弓に番えた。それから男の一人を狙って放つ。
「うあっ!」
矢は見事男に命中した。
だが元が小動物用の短弓だ。致命傷にはほど遠い。
彼女は続いてもう一人の男を狙って放つが、これは外してしまった。
男たちは慌てて近くの森の中に隠れた。
メルファラの腹の底から怒りが沸き上がる。
「弓というのはこうやって使うんです!」
「あのアマ……」
これでとりあえず再び膠着状態だ―――メルファラはそう思った。
だがそううまくはいかなかった。
今度は男たちは森の中から弓を撃ってきたのだ。さっきより更に距離があるのでなかなか当たらないのはいいのだが、こちらからも相手が全く見えない。
しかも残りの矢は二本しかない。
何本目かの矢がフィナルフィンの体をかすめた。彼がうっと呻きをあげる。
「大丈夫ですか?」
「かすっただけです」
見ると実際にそうだったのでメルファラは安堵した。
だがこのままではいずれ―――そう思ったときだ。フィナルフィンが言ったのだ。
「本当に弓は上手なんですね」
「え? まあ……」
「ちょっと明るくしたら当てられますか?」
「え?」
フィナルフィンはポケットからナイフを取り出した。それからハンカチを取り出すと柄の所に巻き付ける。
「これに火を付けて投げます。運が良ければ森の中の奴が見えるかもしれない」
今まで飛んできた矢の方向からおおざっぱな位置は分かっている―――ならばやってみる価値はあるかもしれない。
メルファラはうなずいた。
フィナルフィンは精神を集中し始めた。
同時にメルファラは弓を引き絞り、敵のいそうなあたりをじっと狙う。
ナイフの柄に巻き付けたハンカチがぽっと燃え出すと共に、フィナルフィンは思いっきりそれを投げた。
メルファラは目を皿のようにしてその先を見つめる。
《どこだ?》
見えない。あそこではなかったのか?
そのとき森の中で何かがきらりと光った。
《そこだ!》
メルファラは光がきらめいた場所に向かって矢を放つ。
「うあ!」
男の呻きが聞こえる。それから別な男の声がする。
「馬鹿野郎! 折れちまったじゃないか」
「あいつら……」
敵を倒せたわけではないが、どうやら弓が壊れたかどうかしたらしい。
そのときフィナルフィンが彼女の腕を掴んだ。
振り返ると彼は彼女に向かって小さくガッツポーズを返す。メルファラは彼に微笑みかけた。
今までの狩りでどんな大物を仕留めたときよりも嬉しかった。
メルファラはくっくっくと声を上げて笑い出す。
「ファラ?」
「え? いえ……」
何でこんなに可笑しいんだろう?
状況はまた膠着状態になっただけだ。またちょっとだけ破滅が先送りになっただけだというのに……
しかも残りの矢は一本しかない。
これの威力は今まで見てきたとおりだ。もはや完全に万策尽きたと言っていいだろう……
メルファラはしばらく笑った後、ふうっと息をついた。
《何で私はこんなことをしてるんでしょう?》
ここから身を投げれば十分死ねる高さだ……
そもそも、たとえここで生き延びられたとしても、その先に何があるのだ?
どっちにしても“メルフロウ”としての人生は終わりなのだ。
これから存在するのはメルファラなのだが―――彼女は未だにその“メルファラ”とは何者なのかがよく分からなかった。
「フィン」
「はい?」
「以前話してくれましたよね……刺青を入れられて運命の王女として育てられた姫の話を」
「ええ」
フィナルフィンはうなずいた。
「彼女が自分を真の王女だと信じているうちは試練を乗り越えられましたが、それを疑った瞬間彼女は失敗したと……」
「ええ、まあ……」
「あなたは私を本物の王女と言ってくれました」
フィナルフィンはうなずいた。
「でも本物であっても自分がそうだと信じられなければ……だめなんじゃないですか?」
「え?」
フィナルフィンの目が泳ぐ。
「結局本物かどうかは大した意味がなくて」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「いいんです。ありがとう」
メルファラは彼の腕に腕を絡めた。
「分かってます」
「ファラ……」
フィナルフィンが彼女の手を握った。
メルファラもそれを握り返す。
彼の方を向くことはしなかった。その感触が快かったからだ。
まさに最後の綱、それだけが今、彼女をこの世につなぎ止めていた。
もしそれが切れてしまったら?
彼女は再び岩棚の下を眺める。
けっこうな高さがあるが―――足からだと骨折くらいだろうか? 確実に死ぬにはやはり頭から落ちなければならないだろうか?
そんなことを考えていると下の方からまたがさがさと音がする。
「何手間取ってやがる?」
「いや、ちょっとしぶといもんで」
「さっさとやれよ」
また増援か⁉
メルファラがふり返ると―――フィナルフィンの表情はもう何か穏やかだった。
彼女はじっと彼の顔を見つめると、彼に言おうとした。
最後までずっと一緒にいてくれるか? と……
だがその言葉は喉の奥で詰まってしまった。
どうして彼にそんなことが言えるのだ?
ハルムートたちは彼女の家臣だ。ジークⅦ世と“メルフロウ皇太子”に身を捧げると誓った者達だ。
だが彼は違うだろう?
一体どうして彼はどうしてここにいるのだ?
それがエルセティアだったのならまだ分かる。彼女は彼女の妻なのだから―――どんなにおかしくても、結婚式の場でそう誓ったのだから。
だが彼は?
フィナルフィンはなぜここにいるのだ?
せめて何か報酬でも与えられれば良かったのだが―――でも今、彼に与えられる物はおろか、してあげられることさえ何もなかった。
彼だけ逃がすことができるのであればそうしたかった。
だがそういった方策さえ何もないのだ……
そう思うとなんだか体の力が抜けてきた。
段々もうどうでも良くなってきた。
《ごめんなさい……みんな……》
もう彼女は何も考えられなくなってきた。
どうしようか、もうこのまま本当に身を投げてしまおうか……
だがそうすることさえもう面倒だ。
そうだ。このままずっとここに座っていようか?
ああ。それがいいかもしれない。それが一番楽そうだ……
メルファラは目を閉じた。
だが―――今はそれさえさせてもらえなかった。
こんなとき、これまでならば布団に潜り込んで小さくなっていれば、いつしか夢の世界に入り込めたものなのに……
「ヒーッ……ハァ……………………ヒーッ……ハァ……………………」
苦しげな息づかいが聞こえてくる。
吐き出した後、もう二度と息を吸う音が聞こえないのではないかと思うと気が気ではない。
メルファラは思わずフィナルフィンの体に手を回すと、ぴったりと身を寄せて彼の胸に顔を埋めた。
「えっ?」
フィナルフィンが小さな声をあげるが……
「こうしていればあなたが生きていることがよく分かりますから……」
その答えを聞いて彼はしばらく妙な表情をしていたが、やがてくくっと笑う。
「そうですね……もう少し余裕はありそうです……」
確かに彼の心臓の鼓動は予想以上に大きく速い。この様子ならもうしばらく頑張ることもできそうだ……
二人はしばらくの間そうしてぴったりと寄り添っていた。
メルファラはじっとフィナルフィンの鼓動を聞いていた。
これが聞こえるかぎりはまだ終わりではない……
だが……
《どうしてこんなことになってしまったんだろう?》
またそんな思いが心の中をかけめぐる。
彼女が何か悪いことをしたのだろうか?
それとも―――女に生まれてきたということが、それほどに悪いことだったのだろうか?
………………
…………
そんなこと言われたって……
メルファラは無性に腹が立ってきた。
だって……
だって……
《だって、そんなの私のせいじゃない!!!》
―――その瞬間、思わずフィナルフィンを抱きしめる手に力が入ってしまう。
「うあっ」
彼が小さな悲鳴を上げる。
「ごめんなさい」
メルファラは再び優しく彼の体を抱きしめたが―――心の中は怒りで満ちあふれていた。
《どうして?》
その問いを続けていくうちに―――彼女は一つの答えに行きついた。
《父上……》
そうなのだ。全ての始まりはあの男だったのだ。ジークⅦ世―――彼女の父親……
………………
…………
「ふふふっ!」
思わず笑い声がこぼれてしまう。
フィナルフィンが不思議そうに彼女を見るが、メルファラは黙って首をふる。
確かにそれは事実だ。
全ての元凶がそこにある。
だが―――今更それが分かったところでどうなる? もはやどうしようもないではないか!
この岩棚で彼女は最期を迎えるのだ。
無力だ。彼女はまさに無力だった……
《白の女王様……》
思わず彼女は祈ろうとする。だが―――白の女王。ベルガ一族の始祖。そんな偉大な先祖を持ちながら、その末裔の自分はどうなのだ?
本来ならば彼女が人々の祈りに応えてやる立場なのではないのか?
それなのに彼女はこんな所で誰をも救えずに、ただ怯えて救いを求めるだけの―――惨めだ! 何と惨めで哀れな存在なのだ? この自分というものは……
気づくと彼女は赤黒い洞窟の中にいた。
その色は誰に教えられずとも、血の色だということが分かっていた。
彼女のために命を落としていった人々の流した血―――今、隣のフィナルフィンから流れ出す血がその床を染めている。
あちらこちらに見知った骸が散らばっている。
それなのに、何故か恐れはなかった。
何も感じなかった。
ただ得もいわれぬ焦燥があった。
顔を上げると、洞窟は奥へ奥へと続いている。
この先だ。その先に何かがある。
血塗られた道の先に。それが……
腹の中で何かがぞくりとした。
《私は、それが……?》
―――そのときだった。
??
夢現に何かが聞こえた気がしたのだ。
目を開くと―――そこはまだ先ほどの岩棚の上だった。
それから耳をそばだてる。幻聴だろうか?
だがフィナルフィンもまた目を見ひらいて遠くを見ている。
彼にも聞こえたのか? それならば……
そしてそれは再びはっきりと聞こえた。
二人は顔を見合わせる。彼の顔にも驚きの表情が浮かんでいた。
―――それは狩猟ホルンの音だった。
幻聴ではない。
しかもその意味するところは明白だった。
その証拠にそれを聞いた下の男達も混乱を始めていた。
「ああ? なんだ?」
「ちょっと待て、ありゃベルガの調べって奴じゃねえか?」
「あんだと? だとすりゃやばいぞ」
「どうするよ? あれ?」
「放っとけ!」
男達は慌てて姿を消してしまった。
それは彼らにとっても予想外だったのだ―――ということは……⁉
メルファラが、がばっと岩棚の上で立ち上がる。
それから腹の底にありったけの力を込めて叫んだ。
「ホーイ! ホー!! ホーイ! ホー!!」
しばらくの静寂。それから―――それに呼応して再びホルンの音が響いてきたのだ!
《ティア……》
そう。彼女が間に合ったのだ。
メルファラはへたへたと岩棚の上に崩れ落ちた―――
「なに? そのホイホイとかいうの?」
アウラの問いにメルファラは吹き出した。
「いえ、これは狩りで使う掛け声なんです。ホルンがあればそれで返すのが普通なんですが、なかった場合はあんな風に叫ぶんです」
「へえぇ」
「狩りをしていると遠く離れたグループが連携しなければならないことが多くて、それでホルンを使って連絡を取りあうんです。その調べによっていろいろな意味があるんですが、あのときの調べはベルガ一族の者が今向かっている、という意味でした」
アウラは興味深げにうなずいた。
フィンから都の貴族が狩り好きなことは聞いていたが、それ以上のことはあまり詳しく聞いていなかったからだ。
フォレスではアイザック王がたまに行うこともあったが、エルミーラ王女があまり積極的ではなかったせいで彼女が実際に参加したことはなかった。
「あ、そういえばこんなのも狩りで使うって言ってたわね」
アウラはフィンから教わったハンドサインをしてみせた。
「それはル・ウーダ殿に?」
メルファラはにこっと笑って同じようなサインで返す。
「うん。便利なのよね。これ」
そう言いながらアウラは同意のサインを出す。実際にこのハンドサインは既に何度も役に立っている。
それを見てメルファラは『ここで休むか?』というサインをした。アウラはちょっと面食らったがすぐにその意図が分かったので『もう少し先に行こう』と返す。
メルファラは微笑むと続きを話し出した。
そんな掛け合いを何度か行っているうちに、やがて下から彼らを呼ぶ声が聞こえてきた。
「お世継ぎの君! メルフロウ様!」
「こちらです!」
メルファラは叫ぶ。
何度も叫んだせいで声が涸れてきている。
やがて崖下に何人かの兵士らしき男達が現れた。
その中に一人の私服の男が混じっている。その男が周囲を見回しながら叫んだ。
「メルフロウ様? どちらです? 私はカルスロムです!」
「ここです!」
カルスロム達は上を見上げて崖の中腹に二人の姿を認めると安堵の息を漏らした。
「どうやってそこまで?」
「彼が……」
メルファラは言いかけて心配になってフィナルフィンの方を振り返った。彼は大丈夫だろうか?
だが彼はしっかり目を見開いていた。
かなり疲れた表情ではあるが―――とりあえずは大丈夫そうだ。
それから彼女は下のカルスロム達に向かって言った。
「これから降りますが……ちょっと見ててください」
「はい?」
男達は訝しそうに上を見上げた。
メルファラが振り返るとフィナルフィンは軽くうなずいた。それから手を貸して岩棚の上に立たせると、二人は向き合って立った。
フィナルフィンが意識を集中し始める。やがて体がふっと軽くなり、彼女はふわっと抱きかかられた。
「行きますよ」
「はい」
フィナルフィンは崖下に飛び降りた。
男達は一瞬どよめいたが、すぐに彼が軽身の魔法を使っていることに気がついた。
今回は完璧だった。
フィナルフィンはゆっくりと地面に足を付くとメルファラを下ろす。
だが次の瞬間、うっと腰を押さえると地面にうずくまってしまった。
「フィン!」
メルファラが彼の肩に手をかける。
降りてきた二人の姿を見て一同は声を失っていた。
それからカルスロムが彼女に向かって尋ねる。
「ええと、貴女は?」
振り返ると彼女は答えた。
「メルファラです」
「あ、初めまして……私はカルスロムと申します」
こんな状況で何を言っているのだ?
「それより彼を!」
メルファラがむっとした声で答えると、カルスロムは我に返った。
「あ、はい」
兵士達が即席の担架を作り始める。その間にカルスロムが彼女に尋ねた。
「本当にご無事で……申し訳ありません。お声からメルフロウ様だと思っておりましたので、お世継ぎは何処に?」
メルファラは少し言葉に詰まった。
「大丈夫……だと思います。兄はこちらにはいませんが……」
カルスロムははっとした表情を浮かべて彼女を見る。
「ということはあなた方が囮を?」
「え? まあ……」
メルファラは曖昧にうなずいた。カルスロムは感服した表情で言った。
「なんと勇敢なお方だ! お怪我はございませんか?」
「いえ、私は何とも。それより早く彼を」
カルスロムはうなずいた。
その頃には担架もできていたので、彼らはフィナルフィンを乗せると山を下り始めた。
その途中カルスロムは担架を先行させるとメルファラに近づいてきて囁いた。
「申し訳ありませんが、ちょっとお訊きしたいのですが……」
「なんでしょう?」
「屋敷の中は覆面を付けた男達の死骸がごろごろしておりまして……その中に当家のアルジャナンの死体があったのです」
メルファラは思わず立ち止まってカルスロムを見る。
「エルセティア様にお訊きしたところでは、奴がこの襲撃の首謀者だったとか……」
彼らは信じたくないだろうがそれは事実だ。メルファラはうなずいた。
「ええ、はい……」
カルスロムは大きくため息をついた。
「……本当に申し訳ありません。何と言いますか……」
カルスロムは小さくなっている―――ということは、やはりあれはアルジャナンの単独行動だったのだろうか?
「そのことについては後でお話ししましょう……」
「はい……」
そんなことを話しているうちに山荘の明かりが見えてきた。
玄関の前ではエルセティアとカロンデュールが待っていた。
戻ってきた一行の姿を認めるとエルセティアが駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん!」
彼女が先行してきた担架の側に駆け寄ってくる。それを見てフィナルフィンが軽く手を振る。
「何だ。大丈夫なんじゃない」
「何だとは何だよ?」
「大丈夫ならいいのよ。それより……」
それを聞いてフィナルフィンは後方を示す。
メルファラは後からカルスロムと一緒に来ているところだった。
彼女は今度はこちらに走ってきた。
「フロウ!」
「ティア……」
メルファラは感極まって彼女を抱きしめようとしたところで、彼女が腕を吊っていることに気がついた。
「それは?」
「え? ああ、ちょっと落ちちゃって、あははは」
メルファラは目を見張った。
「落ちたって? 笑い事じゃありませんよ⁉」
「だって、しょうがないじゃない……ってか、なに? それ!」
エルセティアは拗ねたような声でそう答えてから、メルファラのドレスの裾を見て叫んだ。
「え? これですか? 歩きにくかったから……それに彼の傷を縛るのに」
エルセティアは口を開けたまま絶句してしまった。
それからいきなり彼女の手を掴むと引っ張って歩き始めた。
「ともかく、着替えましょ!」
「え? ええ……」
ちょうどそのときカロンデュールがやってきて、二人に話しかけようとしていた。
だがエルセティアが彼に向かって言った。
「ごめんなさい。ちょっと着替えてきます」
「あ、はい……」
カロンデュールはメルファラの姿をぽかんと見つめて、それから慌てて目を背けるとうなずいた。
メルファラとエルセティアは一緒に山荘に戻った。
入るといきなり玄関ホールの床に血だまりができている。
二人は目を背けながらその前を通り過ぎる。
エルセティアは彼女を二階の一部屋に案内した。そこは片付いておらず雑然としている。
「あの部屋もちょっと……ね」
あそこで最後ランパートが戦っていたはずだが……
「みんなはどうなったんです?」
エルセティアは暗い顔になった。
「コークスさんとランパートさんはだめだったけど……でもムートは大丈夫だから」
「そうなんですか?」
これは喜んでいいのだろうか?
「うん。まあ……」
だがエルセティアは沈んだままだ。
「どうしたんです?」
「それが、ひどく殴られてて……拷問されてたみたいで……」
「え?」
拷問? そうか。彼らはメルフロウを探していた。だから残ったハルムートから彼の居場所を聞き出そうとしていたのだ。
「彼は今どこに?」
エルセティアは彼女を導いて部屋を出ると、二階の反対の端の部屋に導いた。
ベッドの上にハルムートが横たわっている。
顔は赤黒く腫れ上がって、まるで死んでいるようだ。
「ムート!」
メルファラは慌てて駆け寄った。だがエルセティアが後ろから言った。
「大丈夫。眠ってるだけだから」
よく見れば胸が微かに上下している。
メルファラは安堵した―――ともかく最悪の事態だけは免れたのだ。
「ねえ、早くそれ何とかしないと」
エルセティアに急かされて彼女はやっと自分のひどい格好を何とかする気になった。
せっかくのドレスなのに泥だらけでずたずたな上、血の染みも何カ所かについている。
メルファラは元いた部屋に戻ってまず顔を洗うと、着替えを探した。
だがあのドレスは文字通り一張羅だ。こんなことは想定していなかったのでまともな替えなどない。
「どうしましょう。変装用のメイド服ならあるけど……」
エルセティアが侍女が身につける地味な黒服を取り上げた。
だがメルファラは何となく気が進まなかった。これからカロンデュールと会談しなければならないというのに……
「いえ、なければこれにしましょう」
そこで彼女はここに来るまでに着ていた“メルフロウ”の礼装を取り上げた。
「え? それって」
「着慣れた服ですし。それに話をするならこちらの方が良さそうですし」
「……まあ、フロウがそう言うならいいけど……」
そう言うエルセティアにメルファラはにこっと笑いかけた。
「私はもうファラですよ? 先程も間違えていましたよね?」
エルセティアは手で口を覆った。
「あ、ごめんなさい……」
メルファラはぼろぼろのドレスを脱ぎ捨てると、いつも身につけていた固い胸当ての付いたコルセットを取り上げた。
だがしばらく見つめてから軽く首を振るとそれを横に置いて、そのまま上着を身につけ始めた。
「え? なくていいの?」
「ええ。もう」
いつも着ていた礼服なのに、コルセット無しで着ると何だか変な感じだ―――特に胸のあたりがきつくてボタンが留めにくい。
鏡の前に立ってみると、どこかの姫が無理矢理に男装しているようで少々滑稽だ。
《髪型のせいでしょうか?》
そう思って彼女は付け毛をはずそうとしたが、少し考えて思いとどまった。
そんな彼女をエルセティアは複雑な表情で見つめている。
メルファラは彼女をじっと見つめ返すと言った。
「ごめんなさい。ティア」
「え?」
彼女の真剣な表情を見て、エルセティアは不思議そうな顔をした。
「“メルフロウ”として貴女の前に立てるのも、これが最後でしょうから……」
エルセティアの目が丸くなる。
彼女はしばらく何も言わなかったが、やがてこくんとうなずいた。
「え? うん……」
「ありがとう。ティア……」
メルファラはエルセティアをぎゅっと抱きしめた。
エルセティアが鼻をすすり始める。
「泣かないでください」
「何言ってるのよ。こんなときに泣かないなんて……女の特権なのよ?」
自分だって女なのだが?―――それに彼女に泣かれてしまうと自分もそれを抑えられる自信がないのだが……
そのときノックの音がした。
「どうぞ」
入ってきたのはカルスロムだ。二人の様子を見てちょっと目のやり場に困ったようだ。
「カロンデュール様が、どんなご様子か心配されておられまして……」
カルスロムは彼女の姿を見て驚いた。メルファラはそんな彼に向かって微笑んだ。
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
そして声のでないカルスロムに向かって言った。
「ああ、これですか? 良い服がなくて、それで兄のを借りたんです」
「そうですか……それで、そのこれからは?」
カルスロムは口ごもる。
「はい。参りますよ。ただその前に、フィンはどうなっています?」
「ル・ウーダ殿ですか? あちらの部屋でお休みになっておられます」
「怪我の具合は?」
「幸い大事には至らないかと。少々出血は多かったのですが、内蔵に傷はついておりませんでしたので」
メルファラはほっとした。
「そうですか。ちょっとそちらを見てから伺いたいのですが、よろしいでしょうか?」
「了解いたしました」
カルスロムは去っていった。
「それでは見てきましょうか?」
そう言って彼女がフィナルフィンの所に向かおうとしたときだった。
がたんと音がしたので振り返ると―――エルセティアが床にへたり込んでいる。
メルファラは慌てて駆け寄った。
「ティア? どうしました?」
「え? いえ、ちょっと足に力が入らなくて」
「え?」
「ほら、裸馬にずっと乗ってたんで……安心したらなんだか……」
そのときメルファラはまだ彼女がどういう状況でカロンデュールにこの事態を伝えたのか知らなかった。
「それではあなたも寝ていてください」
「え? でも……」
「大丈夫です。後は一人でもできます」
メルファラは彼女の肩を抱いて立たせると、近くの長椅子に横たわらせた。
「大丈夫?」
「ええ」
メルファラは彼女の髪を撫でると微笑みかけた。
それから彼女はフィナルフィンの部屋に向かった。
屋敷の中は閑散としている。兵士達は盗賊を追っているのだろう。
メルファラはフィナルフィンの寝ている部屋の扉をノックする。
だが返事がない。
彼女はどうしようかちょっと迷ったが―――黙って扉を開けた。
奥のベッドにフィナルフィンが一人横たわっているのが見えた。
メルファラが近づいて側に座ると彼は目を開いた。
それから彼女の格好を見てあんぐりと口を開ける。
「変ですか?」
「いえ、何と言いますか……その格好もなかなかですよ」
フィナルフィンは微笑んだ。
「ありがとう」
しばらく二人は見つめ合っていた。
「怪我はどうです?」
「大丈夫みたいです。もうしばらくしたら治療魔導師も到着するそうですので」
「そうですか。良かった……」
メルファラは安堵のため息をつく。
その表情を見ながらフィナルフィンが言った。
「それでは……最後の仕上げですね」
メルファラはどきんとした。
それから彼の顔を見ると、ゆっくりとうなずく。
「はい……」
これから何をするべきかはよく分かっている。
それは彼女が決めたことであり、そのために彼らは命を賭けてくれたのだ。
だが―――何故か彼女の心は重かった。
メルファラは再びフィナルフィンを見つめる。
「どうしました?」
そう言って―――フィナルフィンは目を逸らす。
メルファラは思わず彼に尋ねていた。
「行って……大丈夫ですね?」
フィナルフィンはびくんとして振り向き、再びしばらく沈黙した。
それから彼は笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ。ちょっと一緒には行けませんが……」
だがその顔が微妙にこわばっているようにも見えるのだが……
それはどういう意味なのだろうか?
傷が痛むのだろうか?
それとも?―――いや、ともかく今は為すべきことがある。
「分かっています。ゆっくり休んでいてください」
彼女は立ち上がると踵を返して歩き始めた。
だが二~三歩行ったところで足が止まってしまった。
視界がなぜかにじんでくる―――どうして涙が?
メルファラは振り返った。
フィナルフィンはもう目を閉じていたが―――その顔を見て、彼女の中にやむにやまれぬ衝動が沸き上がった。
メルファラは再びフィナルフィンの側に戻ると、やにわに彼の唇に自分の唇を合わせた。
思わぬ感触にフィナルフィンが驚いて目を開ける。
互いの目と目がほんのすぐ近くある。
しばらくの間その距離で二人は見つめ合った。
それからメルファラは慌てて体を起こした。
何でこんなことをしてしまったのか? 自分自身に対して驚愕していた。
「それでは行ってきます」
メルファラは立ち上がってフィナルフィンに背を向けて、逃げるように歩き始める。
そのとき後ろから声がした。
「ファラ」
彼女はびくんとして立ち止まる。
肩越しに振り返ると―――フィナルフィンが微笑んでいた。
「……行ってらっしゃい」
「はい」
彼女はうなずいた。
そう。彼女は行ってこなければならない。多くの人のためにも……
なのにどうしてこんなに気が重いのだろう?
何なのだ? 求めていた物が手に入らなかったときのようなこの喪失感は……
メルファラは黙って首を振った。
そんなことを考えている時ではない。今はこれからのことが重要だ。余計なことに気をとられてはだめだ。
彼女が部屋を出て階下に降りると、カルスロムが待っていた。
メルファラは彼に尋ねた。
「カロンデュール様は?」
「あちらでございます」
カルスロムは彼女を先導して歩き始めた。
メルファラはうなずいてその後を追った。
一階の奥の部屋の前でカルスロムは立ち止まると、ドアをノックする。
「入れ」
中からカロンデュールの声がする。カルスロムはドアを開けた。
入ってきたメルファラの姿を見て、カロンデュールの目が丸くなった。
彼女はちょっと可笑しくなった。
そしてカロンデュールに礼をしながら言った。
「申し訳ございません。ドレスが破れてしまいましたので、兄の服を借りたのです」
カロンデュールは慌てて立ち上がると彼女に椅子を勧める。
「いえ、さあどうぞ」
それからドアの所に立っていたカルスロムに、お茶を持ってこいと指示を出した。
彼が行ってしまうと部屋の中は二人だけになった。
「その、メルファラ皇女……」
「はい」
じっと見つめ返されてカロンデュールは赤くなって言葉に詰まり、それから慌てたように言った。
「今回は大変申し訳ありありませんでした。まさかアルジャナンがこのような大それたことをしでかしていたとは……何とお詫びして良いか……」
それを聞いてメルファラははっとした。
これまでは自分たちの秘密をどう打ち明けようかとそればかり考えてきた。
はっきり言って父ジークⅦ世の行ったことは許されることではない。
だから交渉とはいっても、ほぼ一方的にこちらから懇願することしかできそうもなかった。だからこそ心も重かったのだが……
メルファラは首を振った。
「いえ、こうして助けていただいたのですから」
「とんでもない! 当然のことです。それよりメルフロウ殿がまだ見つかっておられないようなのですが、どちらに向かわれたかご存じありませんか?」
そう言うカロンデュールの真顔を見ているとメルファラはなんだか可笑しくなった。
だが笑い出すわけにもいかないのでうつむいて首を振る。
彼はそれを見て悲しんでいるのと勘違いしたらしい。
「お気を落とさないで。草の根を分けてでも見つけだします。私の名誉に賭けて!」
メルファラは顔を上げた。カロンデュールはこれ以上ないほどに真剣な表情だ。彼としては当然のことだろう。さすがにこれ以上引き延ばすわけにもいかない。
そこでメルファラは深く息をつくとおもむろに答えた。
「いえ、もう見つからないと思います」
「ええ?」
カロンデュールが驚いて彼女を見る。
メルファラは微笑み返すと付け毛を撫でながら尋ねる。
「ちょっと鬱陶しいのではずしてかまいませんか?」
「はい?」
カロンデュールはまったく訳が分からないといった様子だ。そんな彼にもう一度微笑むと、つけ毛を留めていたピンを外していった。
それが取れると―――ショートカットのメルフロウの顔が現れた。
カロンデュールは驚愕のあまり絶句する。
それから何度も彼女のその顔と、男物の上着からはち切れそうになっている豊かな胸とを見比べ始めた。
次いでそのとんでもなく失礼な行為に気づいてまた真っ赤になる。
「いえ、その、そういうつもりでは、あの……」
慌てふためくカロンデュールの姿に、彼女はとうとう笑いを抑えきれなくなった。
「あっははははは!」
………………
「あの……」
笑い続けるメルファラにカロンデュールが困ったように話しかける。
メルファラはやっとの事で笑いを抑えると言った。
「すみません。話せば長いことになるのですが……」
「どういうことなのです?」
「そうですね……一言で言えば“メルフロウ”という人間は元々この世には存在しなかったのです」
―――そしてメルファラは彼女の物語を語り始めた。