エピローグ 思いがけない朝

エピローグ 思いがけない朝


「話をし終えた後、カロンデュールはしばらく呆然としていました。普段ならばとても信じられる話ではありませんから……でも動かしがたい証拠が目の前にある以上、彼も信じざるを得ませんでした」

「うん……」

「それからはもう障害など無かったも同然でした。元々私とカロンデュールの間に確執はありませんでしたし、今はどちらも後ろめたいことを抱えていましたので……」

 アウラはうなずいた。

 ジークの家の方はメルファラが“メルフロウ”として世継ぎを詐称していたのに対し、ダアルの家の方は世継ぎを暗殺しようとしていた。

 互いに絶対に公にはできないであろう秘密なのは彼女にもよく分かる。

 両家が体面を守ったまま騒ぎを収めるには、メルファラの申し出が間違いなく最善だったに違いない……

「聞けばダアルの家は“メルフロウ”が即位した後のことをひどく危惧していたそうです。私が大皇に即位しても当面は父が摂政をするわけですから……父が今までのことに対してどう報復するか、彼らは心底恐れていたのです。実際、父はその立場になったら躊躇なくダアルを潰しにかかったと思います。そこでアルジャナンが暴走してしまったようです」

 それを聞いてアウラは尋ねた。ちょっと気がかりなことがあったからだ。

「襲ってきた連中はみんなダアルの家の人だったの?」

 メルファラは首を振った。

「いいえ、そこがまたちょっと込み入っていて……実際あそこにいたダアルの家人はアルジャナンともう一人いただけで、残りは彼が雇ったごろつきでした」

 アウラはうなずいた。

「ところがその中に最近都周辺を荒らしていた盗賊団の一味が紛れ込んでいたのです」

「盗賊団?」

「はい。ちょっと前から都近辺を荒らし回っていた者共でしたが、そのため都では警備を強化していました。それで彼らも仕事がやりにくくなったのでしょう、最後に大仕事をしてから撤退しようとしていたらしいのです」

「大仕事?」

 メルファラはうなずいた。

「はい。世継ぎ誘拐です」

 アウラは一瞬ぽかんとした。

「ええ? そんな大それたこと……」

 それを聞いてメルファラが笑った。

「そうですわね。でもムートが言うには、この手のことは中途半端は良くないとか。小公家の姫を狙おうと世継ぎを狙おうと捕まれば斬首です。ならば大物を狙った方が、などと言っておりましたが……私にはよく分かりませんが」

「ううん……」

 アウラも首をひねった。

 フィンとかエルミーラ王女ならそんなことも言いそうな気もするが……

「そういったわけでアルジャナンの一味の後を更に盗賊団が付けていて、アルジャナンが世継ぎを殺そうとするところに割って入って横取りするつもりだったようです。でもある意味みんな見込みが外れてしまったわけですが……」

 メルファラはそう言ってくすりと笑った。

 アウラは納得した。

 どうとは言えなかったが、盗賊達の行動は何となく不自然だと感じていたからだ。

 だがこんな理由があったのなら納得がいく。

「それからどうなったの?」

 そうアウラが続きをせがんだときだ。メルファラは手を口に当てると大きなあくびをした。窓の外ではもう空は白みかかっている。

「その後はもうあまり大したことはありませんでした」

 メルファラは簡潔にその後のことを話した。

 ル・ウーダ山荘での事件は公式に発表されることはなかった。

 代わりに田舎で秘密裏に育てられていたメルファラ皇女の正式なお披露目が行われた。

 しかしメルフロウ皇太子は体を壊して引きこもり気味になり、やがて病没する。

 人気の皇太子を失って都は大いなる悲しみに包まれたが、同時にメルファラ皇女とカロンデュール皇太子の正式な婚約が発表される。

 長きにわたったベルガ一族の内紛が最終的な和解に至ったこともあり、悲しみは新たな喜びによって拭い去られていった。

「……そのときは本当に大変でした。“メルフロウ”がまだ生きているうちは、私は一人二役でハードスケジュールをこなさなければならなくて……」

 メルファラは笑った。

「でもおかげでティアにはあの後何度も“フロウ”として会えましたから。あれが最後でなくて本当に良かったです」

 そこまで聞いてアウラはついに尋ねた。

「それでティアって今どこに?」

 まだ見ぬフィンの妹、ティア。

 その名前だけは今まで何度も聞いていたが、フィンもあまり詳しくは教えてくれなかった。視察の最後には都に寄るからそのときには会えるだろうと……

 メルファラの話に出てきたティアはひどく魅力的だったが、反面ちょっと会うのが怖いような気もしていた。

 だがその瞬間、メルファラの顔が暗く沈んだ。

 彼女は少し沈黙してから顔を上げると、沈痛な声で答える。

「いないのです」

「え?」

 いないとはどういうことだ? 驚いて見返すアウラに、メルファラは話し始める。

「メルフロウ皇太子の“病没”後、しばらくして父が死にました。表向きはこちらも病没でしたが、実際は自殺でした」

「うん……」

「その結果ジークの家の継承者はメルフロウ未亡人であるティアということになりました。彼女はジアーナ屋敷の当主となったわけです」

「え? ジアーナ屋敷って昨日泊まった?」

 先々日の晩泊まった、あの城みたいな屋敷のか? それって下手な国の王様よりすごいのでは? 少なくともガルサ・ブランカ城よりずっと大きいのは間違いないが……

「はい。本来ならばあそこで彼女をお引き会わせできたはずなのですが……」

「どこかに行ってるの?」

「それが……分からないのです」

 メルファラは悲しそうに言った。

「分からない?」

「はい。今から三年ほど前になりますが、ある日突然屋敷から姿を消してしまったのです。何の前触れもなく……もちろん都をあげて探させましたが、手がかり一つ出てきませんでした」

 アウラは何と言っていいか分からず、ただうなずいた。

「その一年ほど前にはル・ウーダ殿も都から出て行かれていましたので……彼女が私の唯一心の許せる友達でしたのに」

 フィンの話が出たのでアウラは思わず尋ねた。

「あいつ……何で出てったの?」

 それを聞いて再びメルファラは目を伏せた。

「色々とあったのだと思います。実際私達にはこのような大きな秘密があるわけですが……それを知る者の扱いはどうしても微妙になってしまいます。その気になれば彼にはどんなポストでも回すことはできたのですが……それにティアにも。乙女のまま未亡人となってしまって……それなのに誰もいい人を紹介することもできず……」

「そうなんだ……」

 アウラはもうどうコメントしたらいいか分からなかった。

 ル・ウーダ兄妹はこれほど尽力したというのに、文字通りの骨折り損のくたびれもうけだ―――だとすれば嫌になって出て行きたくなっても当然かもしれないが……

 彼女は一瞬そう思ったが即座に心の中で否定した。

《そんなわけないわよね……》

 彼らは間違いなくメルファラのことが大好きだった。

 少なくともフィンはそうだったし、ティアには会ったことはないが、彼女だって絶対そうだったと思う。

 アウラは目の前にいるこの不思議な女性をじっと見つめた。

 そうなのだ。この人が“ファラ”なのだ。

 アウラがフィンと出会ってから、そして愛し合うようになってからもう随分経つ。

 今では彼女は彼に絶対の信頼を置いていたし、彼もまたそう思ってくれていることは多分―――いや、絶対に間違いない。

 だが彼女は気づいていた。

 彼の心の片隅に一カ所、アウラの入れない場所があった。

 彼があの短刀を眺めているとき、そのときだけ彼の心は彼女の知らない別な何かに囚われていた。

《それが……この人なんだ》

 美しいだけでなく、驚嘆すべき人生を送ってきた人……

 フィンと秘密の過去を共有している人……

 二人はあの瞬間、間違いなく惹かれあっていた。

 怪我をしたフィンにキスをしたというくだりを話していたときの彼女の顔には―――彼女は気づいていなかったかもしれないが、もう恍惚とした表情が浮かんでいた。

《そして今も?》

 どうなのだろうか?

 彼女が今、彼をどう思っているか尋ねてみようか?

 だがアウラは尋ねなかった。

 それを彼女が肯定しようと否定しようと、そのことに何の意味がある?

 これに関してはどれほど言葉が無力であるか、アウラはある意味一番よく知っていた。

 グラテスから一人旅をして来る最中、考える時間はたくさんあった。

 その中で一番考えたことといえば―――かつてなら一人でいても全然気にならなかったのに今はどうしてこんなに寂しいのだろう? いつから自分はこんな風に変わってしまったのだろう? ということだった。

 そして今思えばその境目は、あのトレンテの河原だったのだ。

 あそこで足をくじいて道ばたでうずくまっていたとき、あのお人好しが戻ってきて彼の馬に乗せてくれたとき―――あの瞬間、自分は変わっていたのだと。

 それなのに本当に自分が変わっていたことに気づいたのは―――そう、コルネがバルグールに囚われてひどい目に会わされそうになったときだ。

 そのときも彼は助けに来てくれた。

 そこで彼女は初めて自分の本当の気持ちに気がついた。

 今から考えればそれまでの自分は滑稽としか言いようがない。

 だが決してふざけていたのではない。あの時はあの時で真剣だったのだ。ずっと……

《だとすれば?》

 アウラはメルファラを見つめた。

 彼女が本当は今もフィンのことを思っているのだとしたら?

 そう思った瞬間、胸の奥にずきりと痛みが走った。

 昔よく感じていた傷の痛みとは違う―――何か別な切ない痛みだ。

「どうかしましたか?」

「え? いえ、何でも」

 アウラは慌てて首を振った。

 それからごまかすようにテーブルの上のフルーツをつまむ。

「それでアウラさん。これからどうなさいますか?」

 メルファラが尋ねる。アウラは彼女に向かって深々と頭を下げた。

「え? いえ、本当にありがとうございました。明日にでもフォレスに戻ります」

 メルファラは驚いた。

「明日? ですか?」

「はい。急がないと山越えが大変だし」

 もう秋だ。フォレスに行くにはあのパロマ峠を越えなければならない。夏期でも場合によっては雪が降る峠だ。全速力で行っても超えられるかどうか分からない。

「もう十分遅いと思いますよ。こちらで冬を越して行かれませんか?」

 彼女の言うことももっともだった。

 だがアウラは心を決めていた。彼女は第一にフォレス王家の家臣だし、フィンと約束もしているのだ。

「ありがとうございます。でもこれ以上ご迷惑はかけられませんので」

 それを聞いてメルファラは首を振ると―――それから妙な笑みを浮かべながら言った。

「迷惑なんてことはありませんわ。でもあなたはここで大変な秘密を知ってしまったことはお分かりですよね?」

「え?」

 アウラは慌てた。ちょっと待て! それって―――いや、確かにそうなのだが……

「これを知ってしまった以上、そう簡単に出て行けるとお思いですか?」

 メルファラの目は―――本気なのか?

 馴染みの者であればアウラはその仕草からその者の本音を見抜くことができた。

 だが彼女とは知り合ってからはまだ日が浅い。これは一体どちらなのだろうか?

「ええ? そんな……あたし絶対言いませんから。命に賭けて約束します! だから……」

 真顔で慌てるアウラをしばらく見つめて―――メルファラはくすくす笑い始める。

「分かっています。もちろん冗談ですよ」

 アウラはほっとした。

 だが今の彼女の態度は本当に冗談だったのだろうか? 今ひとつ確信が持てないのだが……

「でもル・ウーダ殿のご両親にも挨拶された方がよろしいでしょうし、せめてもう何日かは滞在なされませんか? ご両親もあなたのお話を聞けば喜ばれると思いますし?」

「ええ? まあ、それは……」

 確かにそれはそうかもしれない。仕方なくアウラはうなずいた。

 メルファラはほっとしたような表情を浮かべた。

 それから彼女は冷めたお茶を一口すすると、夜食のデザートを一切れ口にした―――ところがその瞬間、彼女は顔をしかめた。

「パミーナ? パミーナ!」

 部屋の隅でうたた寝してたパミーナが慌てて飛び起きた。

 二人が一晩中ずっと話している間中、彼女はそこに控えていろいろと用を足してくれていたのだが、さすがに疲れていたのだろう。

「はい! なんでしょう?」

 メルファラは寝ぼけ眼の彼女に向かって、剥いた夏蜜柑が盛られていた皿を指した。

「これ、蜜がかかっていないのでは?」

 それを見てパミーナはあっという顔になる。

「申し訳ありません、その……」

「いいえ、遅くまでつきあわせた私も悪いのですが……」

 それから二人はアウラの方を見る―――というのはその皿の中身は夜の間にアウラが一人で七割方を食べてしまっていたからだ。

 そこでメルファラが彼女に尋ねた。

「これ、酸っぱくありませんでした?」

「え? いえ?」

 アウラは首を振る。

「甘い物、お嫌いでしたか?」

 アウラは再び首を振った。

「ううん。好きだけど、最近胃の調子が悪いことが多くて、こんなさっぱりしたのが……」

 そこまで言いかけてアウラはとんでもないことに思い当たってしまった。

 同じことはメルファラとパミーナも同時に気づいた。

 メルファラが彼女の顔を見つめると尋ねる。

「もしかして……最近臭いに敏感になったりしてませんか?」

「………………」

 言われてみれば、都に来る途中の街道で夜盗に絡まれてぶった斬ったことがあったが、その血の臭いにむせて吐いてしまった記憶が―――今までそんなことなんてなかったのに……

「ちょっと待って!」

 アウラは慌てて指を折って数えた。考えてみたら……ない!

 彼女が一人彷徨っている頃はかなりの生理不順だったので、定期的に来なかったからといってあまり気にしてもいなかったのだが―――こんなに来ていないのは初めてだ!

 ということは……?

 アウラは呆然として顔を上げた。

 満面の笑みを浮かべたメルファラの顔が目に入る。彼女は嬉しそうに言った。

「まあ! 申し訳ありません。そんなこととはつゆ知らず、こんなことにつきあわせてしまって」

「いえ、その……」

「ともかく今日はお休みください。都に戻ったらお医者様に診ていただかなくては」

「え、いえ、その……あたし」

「だ・め・ですよ。身重な方をこんな時期に一人で旅立たせるなどできませんから!」

 アウラは返す言葉がなかった。

 その表情を見てメルファラは再びにっこりと笑った。



 パミーナに付き添われながら寝室に向かうアウラの後ろ姿を見ながら、メルファラは思った。

《これは一体……どういう巡り合わせなのでしょう?》

 あれからもう六年にもなるのか……

 あのときは無我夢中で何も分からなかった。

 カロンデュールとの盛大な結婚式。それからしばらくして前大皇が崩御し、カロンデュールが新大皇に即位した。それと共に自分は大皇后となった。

 そう。彼女はこの世で女性が求められる最高の地位に就いたと言ってもいい。

 なのに何故かそれを手放しで喜べなかった。

 一体何故なのだろう?

 不自由など一切ないし、カロンデュールは相変わらず優しい。

 ―――だが何かが足りないのだ。

 フィンとティア……

 彼らがいなくなってしまったからなのだろうか?

 それともあの子が生まれて来られなかったからなのだろうか?

 それらが大きな要因であることは間違いない。

 だが本当にそれだけなのだろうか? 彼らさえいてくれれば良かったのだろうか?

 彼女はずっとそのことを考え続けてきた。心の奥底で……

 ―――そんな所にやってきたのがアウラだ。

 彼女から話を聞いたとき、自分の中の何かに火が付いたのだ。

 彼女の遍歴した遠くの国々。彼女の体験した驚くべき出来事……

 今ならはっきりと分かる。

 そう。彼女がうらやましかったのだ。だからこんな話をしてしまったのだ。

 自分が彼女に対抗できそうなことと言えば、これしかなかったから……

 そう思って彼女はふっと一人笑った。

《一体何をしているのでしょう?》

 でもこの二日間、これほど楽しかったのも久々だ。

 朝日が窓から差し込んできた。

 メルファラは大きくあくびをすると、自分も寝室に向かった。


シルバーレイク物語 玉の輿には気をつけて! 完