あぶない秘密工作 第1章 誓いの夜

あぶない秘密工作


第1章 誓いの夜


 その言葉を聞いた瞬間、フィンは思いっきりむせて口の中の飲み物を全部噴出していた。

 普段ならばいかに虚を突かれようと、一国の国王の前でそんな失態は犯すわけがない。

 だがそのときのフィンは極度の緊張から解放された直後で、精神的に全くの無防備だった。

 目の前のアラン王もフェデレ公もびっくりした顔でフィンを見る。

 横に座っていたアウラも目を丸くして言った。

「注意して飲みなさいよ」

 だがフィンの耳にはそんな言葉は全然入らなかった。彼は思わず王に尋ねていた。

「あ、あの、今、何ておっしゃられました?」

 慌てるフィンを見て少々不思議そうに王は答える。

「ル・ウーダ殿が驚くのも無理はないかもな。ご出身の所であるし。だが確かに奴らは白銀の都を攻めようとしているのだ」

 その言葉を聞いてフィンは目を丸くした。

《白銀の都を? 攻めるだって?》

 一体どういうことなのだ?

 文字通り青天の霹靂だ。

 元はと言えば彼はレイモンの動向を調べるためにこちらの方に派遣されている。だから予めレイモンが動くとしたらどういう風に動くかは色々と考えていた。

 だがその想定の中に都攻めなどなかった。

 白銀の都―――彼の故郷。

 フィンは決してそこが嫌いな訳ではなかった。それどころかそこを守るために命を賭けて戦ったのだ―――まあ半分はある一人の女性を守ることが目的だったが、残りの半分は都その物を守るためでもあったのだ。でなければあそこであのような決断はしなかっただろう。

 彼女からもらった短刀を眺めるとき、彼はいつも答えの出ない疑問について思いを巡らしていた。

 もしあのときあそこで「行くな」と言っていたらどうだっただろうかと……

 彼女は留まっていてくれただろうか? それとも……?

 だが最後には必ず彼は首を振ってつぶやくのだ。

 最善の決断をしたのだと。

 何に対しても恥じることはしていないのだと……

「どうなされた?」

 アラン王の言葉が聞こえる。フィンは王の顔を見ると慌てて首を振った。

「え? いえ。あの、でも、いったいどうしてですか? だってその、意味が良く分からないんですが……都なんか攻めて一体何の得が……大体そんなことをしたら敵に背を向けるようなものですし……」

 フィンの言葉に王も首を振った。

「それはわしらも疑問なのだが……一説にはマオリがあの美しいお方にのぼせたとかいう説もあるが……」

「はいぃ?」

 フィンはもう一度吹き出しそうになるところを何とか堪えた。

 頭の中をその言葉が駆け巡る。

《あの美しいお方? 美しいお方って……ファラのことか?》

 まさか? 都には綺麗な姫なんてごまんといるじゃないか? アンシャーラ姫とか……

《でもファラがその中で一番なのは間違いないけど……》

 じゃなくって! ってか、ファラのためにレイモンが都を攻めるなんてことが?―――いや、絶対ないとも言い切れない? 特にデュールの戴冠式のときのあの姿を見てたら……

「ともかく、レイモンは都に向かって兵を出すらしい。その間背後ががら空きになるところをわしらに牽制して欲しい、というのがあの書状の真意だ」

 王はフィンの目を見据えながらそう言った。フィンはかろうじてうなずいた。

「は、はい……」

「これがどういったチャンスかは理解頂けるな?」

 フィンはうなずこうとしたが、その瞬間王の言っている意味がさっぱり分かっていないことに気がついた。

《チャンス?》

 何のチャンスだ? フィンは慌てて考えた。頭が混乱していて考えがまとまらない。しどろもどろになっているフィンを一同が不思議そうに見つめている。

「え? はい。あの、いえ、わかりました……」

 フィンは曖昧に返答した。そんなフィンを見て王はちょっと首をかしげた。それからふっと窓の外を見ると言った。

「それにしてもそろそろ夜も明けそうな勢いだな?」

 東の空が白々としてきている。

「とりあえず今日はここまでにして、後の詳しいことは追って話し合うこととしよう。それでよいかな?」

「あ? はい……」

 どうやら疲れで頭が回っていないとでも思ってくれたのだろうか? そんな王の言葉は非常に有り難かった。

 とにかく今は時間が欲しい。ゆっくり考えなければ……

 一体これはどういうことなのだ⁉

「ならば、そう。もっと良い部屋を用意せねばな。今日は待遇が悪くて大変失礼したな」

「いえ、その……」

 普段だったらもうちょっとましな受け答えができたに違いないのだが、今はそれだけが精一杯だった。

 振り向くとアウラがそんな彼を不思議そうな表情で見ている。

 フィンは慌てて彼女に微笑みかけながら囁いた。

「まじ疲れたみたいだ。寝させてもらおう」

「うん?」

 彼女は首をかしげながらうなずいた。



 騒ぎから二日後の午後、アラン王の執務室への道すがら、フィンは考えをまとめようと必死に努力していた。

 あれからあまりよく寝ていない。体は疲れ果てているのに頭だけが妙に冴えて眠れないのだ。

 目を閉じるとレイモンの都攻めのことやファラのことが浮かんできてしまう。

 一旦それに囚われてしまうともう、頭の中を考えがぐるぐる回り出して止まらなくなってしまうのだ。

《これ以上ぐたぐた悩んでもしょうがないだろ? もう……》

 そう考えてフィンは大きく深呼吸した。

 二日間考え続けた結果、フィンはある一つの結論に達していた。

 だが未だにそんなことをして本当にいいのかどうか確信が持てなかった。

《ともかくアラン様に話してみるしかない……》

 彼が行おうとしていることにはアラン王の協力が必須だ。要するにアラン王の同意がなければそもそも悩む意味がないのだから。

 フィンが廊下の角を曲がると王の執務室が見えた。

 部屋の前には兵士が立っている。フィンはちょっと緊張して兵士に挨拶する。何しろ一昨日の晩に大暴れした場所だ。

 だが兵士は彼の顔をちらっと見ただけで無表情に扉を開けてくれた。

 王の執務室に入るとそこにはアラン王とフェデレ公が既に来ていた。

 フィンは膝をつき二人に向かって丁重な挨拶を行った。

「ル・ウーダ・フィナルフィンです。この度は貴重なお時間を割いて頂き、まことにありがとうございます」

 アラン王はそんなフィンをじろっと見つめると一言言った。

「いや、構わんよ」

 そうしながら身振りでフィンに椅子を勧める。フィンが再び一礼してそれに座ると王は促した。

「それで?」

 フィンは一瞬言葉に詰まった。

《いきなりかよ……》

 確かに王は忙しそうだ。それにこの王は社交辞令などで時間を潰すタイプではないのはもう何となく分かっている。

「はい。まずは先日の件ですが、あれは、その、本当に失礼いたしました。可能な限りのお詫びは致したいと思っております」

「うむ? それならば既にお伝えした通りだ。ル・ウーダ殿はもうご心配なさらずとも良い」

 フィン達が脱獄して王を襲いに行ったというあの騒ぎは、城中を震撼させた。普通なら城内は今も大混乱でおかしくない。

 だがアラン王は、警吏長官のファルクスが王の暗殺を謀っていたのをフィン達が命がけで防いだ、というような理由であっさりと収めてしまっていた。

 その説明ではフィンとアウラはファルクスの陰謀を知って王に注進しに来たところを捕らえられて牢に閉じこめられていたらしい。

 そのため彼らは今ではシルヴェスト城の賓客扱いだ。

「ですが……私のせいであのルートが使えなくなってしまったわけで……そうしますと色々支障があるのではと……」

 その点はかなり気がかりだった。結果的にフィンはディレクトスの男娼達を使ったレイモンとの連絡経路を使用不能にしてしまっている。そのことはアラン王にとってもかなりダメージなのではなかろうか?

 それを聞いて王はにやっと笑った。

「まあそれはそうだが、我々もあのルートのみに依存していたのではないからな。あれに関しては別な連絡経路もあるので当面は問題はない。ただ相手側に今回のことをどう説明するか、それにはかなり神経を使うことになりそうだがな」

 王は再びにやっと笑う。

「申し訳ございません」

 フィンが頭を下げると王は笑いを止めると言った。

「で、今日はそのことを謝りに来たのかな?」

 フィンは慌てて首を振った。この会見は王が忙しいと言う中、かなり強硬に頼んだ結果実現したものだ。実際目的は全く別なところにある。

 そこでフィンは襟を正すと話し始めた。

「いえ、もちろんそれだけではありません。もう一つお訊きしたいことがあって……そのお答え如何によっては少しばかりお願いをすることになるのですが……」

 そこまで聞いた王はずばりと答えた。

「それはもしやレイモンの都攻めに関わりがあるのかな?」

 フィンは一瞬言葉に詰まり、それからうなずいた。

「はい。そのとおりです」

「そうだろうと思った。あれを聞いた瞬間妙に動揺なさっていたようだから」

 やっぱり見透かされていたか―――まあ、あのときの取り乱しようは誰でも気づくとは思うが……

「申し訳ありません。あのときは……すこし気がゆるんでしまっておりまして……それはともかくまずお訊き致したいのですが、レイモンは一体何が目的で都を攻めようとしているのでしょうか? アラン様はご存じでしょうか?」

 それを聞いて王は真剣な顔になった。

「奴らの目的が何なのか? 確実なことは分かっておらん。明らかなのは奴らが都の侵攻を企てていること。そのためにディレクトスルートを通じてフェデレに伝えてきたことだ。後方が手薄になった場合牽制せよと、な」

 フィンはうなずいた。

 現在レイモン王国と小国連合は勢力が伯仲している。だから互いに睨み合いで動けない状況なのだ。

 そこにレイモンが都攻めのために兵力を割けば、当然後ろ側、すなわち小国連合方面の兵力が減ることになる。これは小国連合側のチャンスに他ならない。

 だからレイモンはフェデレ公に対して、そうなった場合には内部工作を行ってレイモンに対する侵攻を止めさせよと指示したのだ―――まずはそう考えられる。

 だが実際はそんな単純な話ではないことはほぼ間違いない。

 フィンは横にいるフェデレ公の顔を見ると言った。

「ですが……フェデレ様はシルヴェストの重鎮ですが、やはり一領主の立場です。国内の動きはともかく、他国の動きまで完全に牽制はできないと思うのですがどうでしょうか? 例えばアイフィロスが先走ってしまったような場合などですが?」

 フェデレ公は少し驚いたような顔をしたが、すぐにうなずいて答えた。

「もちろん私にはどうしようもないし、アラン様も簡単には止められないでしょう」

 フィンはアラン王の顔を見て言った。

「ですが、都が攻められたといったような場合、あそこがそう動くのはほぼ間違いないのではないでしょうか?」

「うむ。そうだろうな」

 アラン王はうなずいた。

「ということは、レイモンもそれを想定しているのではないでしょうか? 連合の足並みを乱して、まずはアイフィロスから各個に撃破して行こうと考えているのではないかと思うのですが?」

「うむ。わしらもそう考えておった」

 そう言ってアラン王は満足げに笑った。

「だとすればアラン様はどうなさるおつもりでしょうか?」

 フィンの問いに王は笑い止めるとじっとフィンを見据えた。

「それを聞いてどうする?」

 フィンは息を呑んだ。これは間違いなく国家機密に属することだ。軽々しく質問できるような事ではない。

 だがフィンにもそれだけの事情があった。

 フィンは真っ向から王を見据えると言った。

「これは私の仕えるフォレスにとっても、もはや他人事ではない事態なのです。中原で全面的な戦いが発生するともなれば」

 王はそんなフィンを見てまた口元に笑みを浮かべる。

「そうだな。確かにそうだ。アイザックにとってもベラにとっても、安穏としていられる状況ではなかろうな……まあ、確かにそういう状況になれば、我らも付き合う他あるまい。アイフィロスだけに行かせるのではなく、他の三国も同時に侵攻を行うしかなかろうな」

 フィンは黙ってうなずいた。やはりそうか……都が攻められている状況をアイフィロスが看過するはずがない。行くなと言っても行くだろう。だとすればもうみんな一緒に行くしかない。

《だが……》

 まだこれで終わりではない。

「そうなった場合ですが、レイモンはそういうことを想定していないのでしょうか?」

「というと?」

 王はまたちょっと首をかしげると問い返す。フィンは続ける。

「都にちょっかいを出せばアイフィロスが黙っていないことは周知の事実ですし、そうなれば他の国も追従しなければならないのも当然です。そのためレイモンはフェデレ公に牽制しろと指示したわけですが、それがどこまで有効かははっきり言って不明です。それがうまくいかなければレイモンは不利な戦いに巻き込まれてしまうことになると思うのですが」

「そうだな。それで?」

「そのあたりまで含めてレイモンの計略ではないかと思うのですが」

 王は上目遣いにフィンを見る。

「ほう? 詳しく」

「こうなった場合、小国連合側からレイモンに攻め込む形になりますが、これは敵のホームグラウンドで戦うことに他なりません。今まで互いに動けなかったのは、先に攻めた方が不利になるからですし。ということなのでレイモンの最終的な狙いはそこにあるのではないかと思うのです」

 そこまで聞いて王はにやっと笑った。

「さすがにディレクトスルートを潰されたお方だ。なかなか読みが鋭い」

「あ、いえ……」

 フィンは頭を下げながら思った。やっぱりアラン王は口には出さなかったが、間違いなくそこまで考えていたのだ。この王と話すのは神経が疲れる……

「わしらもおおむねそう考えておる。ガルンバやティグレを侮ってはならん。少なくともその程度のことは確実に考えているであろう」

「だとすれば……」

「確かにこれは相手が仕掛けてきたことだ。奴らが勝算のないことをするとは思えん。言い換えればこれが敵の罠である可能性は高い。だが罠にかかったと思った獣に食い殺されることだってある。奴らが少ない兵力で戦わなければならない以上、我らが一方的に不利なわけではない」

 フィンはうなずいた。

 実際これはレイモン側としても結構な賭だろう。

 戦いにおいて一番重要な要素は何をおいても兵力だ。寡兵で大軍を相手にするような真似は、通常ならただの自殺行為でしかない。セロの戦いのような例は例外中の例外なのだ。フィンがこの若さでフォレス王宮内で今のような立場にいられるのも、まさにあの戦いを成功させたためだ。もう一度やれと言われても絶対お断りだ。

 相手がそのことを知らないはずがない。当然それを承知で仕掛けているわけで……

「その場合はその通りだと思います。ですが、レイモンが都を攻めるふりをするだけということはないでしょうか? 張りぼての侵攻軍をでっち上げるなどして」

 王は軽く首を振った。

「なるほど。あり得る話ではある。だが現在レイモン軍の主力は連合との国境に集中しており、北の都方面にはほとんど展開されていない。もし本気なら大規模な兵力の移動が発生することになるだろう。だがハッタリならばそれが起こらない。そんなことを全く秘密裏に行うというのは簡単ではなかろう?」

 フィンはうなずいた―――まあアラン王なら当然か。そういった見え見えの引っかけに簡単にははかからないということだ。

 実際それであったらフィンにとっても一番望ましい結果と言える。レイモンが一人でドタバタしただけで、結果としてはどこにも悪影響はない。

「現在兵力の移動は見られるのですか?」

「いや、まだだ。これから都攻めをするなら来年の春ではないかな?」

「そうですね」

 白銀の都はフォレス同様高原地帯にある。冬は厳しい。そんな季節に攻め込むと大変なことになるのは、セロの戦いのベラ軍同様だ。だとすればまだ兵力の移動がないのは納得がいく。

 ―――ということでハッタリだった場合はともかく、アラン王はレイモンが本気で都攻めを行った場合、背後の防備が手薄くなったところを四カ国で同時侵攻するつもりなのだ。

 それは多分レイモンが自分の懐に敵を引き入れるための計略だろうがそれは承知の上だ。これはレイモンにとってもかなりぎりぎりの賭だろうからだ。

 要するに伯仲した勢力同士の戦いなのだから、どうやったって勝算も五分五分になるということだ。だが現状を継続するのもそろそろ限界に近い。ここで勝負をかけてみる価値は十分にある―――レイモンの、そしてアラン王の意図はそういうことなのだ。

 もしフィンがアラン王の立場であったら間違いなくそれで納得してしまっていたことだろう。

 ―――だが彼は多分王が知らない情報をいくつか知っていた。

 フィンは顔を上げると王を見た。

「王のお考え、もっともなことと感じます。ですがそれに関して、いくつか危惧があるのですが……」

 王は少し意外な表情でフィンを見る。

「申してみよ」

 フィンはうなずくと続けた。

「レイモンが本格的に都攻めを行い、それに呼応してアラン様達が背後から侵攻したとします。その途端に都攻めに投入された軍が引き返して来たらどうなるでしょう?」

 それを聞いて王は一瞬ぽかんとしてから答えた。

「ああ? どういうことだ?」

 王がそう言ったのも無理はない。敵同士の軍団が対峙している場合、和睦も行わず片方がいきなり背を向けるなど、通常はあり得ないことだ。背後から襲ってくれと言っているようなものだからだ。

「それなのですが……」

 フィンは首を振る。

「私も魔導師の端くれであることはご存じだと思いますが……ですから私も銀の塔で色々学んでおりました。なのであの中のことは多分アラン様よりも詳しいかと思います」

 アラン王は眉をひそめてフィンを見つめた。フェデレ公も同様だ。

「ご存じの通り、都は長年各国に魔導師を派遣しておりますが、都自身が戦乱に巻き込まれたことはありません。これがベラ魔導軍になりますと、隣国のエクシーレとよく小競り合いを繰り返しておりましたので、まだ実戦に慣れております。ですがはっきり申しまして、都の魔導軍には、その何というか、そういった常識が通用しないところがあるのです」

「何だと?」

 王が目を見開いた。フィンは首を振りながら続ける。

「それでしたらまだいいのですが……最悪の場合戦わずして降伏してしまうとか……もしそんなことになったら、少なくともアイフィロスの動揺は大変な物になるでしょうし……最悪、都が直接敵に回るかもしれませんし……」

「ちょっと、ル・ウーダ殿?」

 フェデレ公が慌てた顔で遮ってからアラン王の顔を見る。アラン王も少々青ざめた顔で尋ねた。

「そのようなことがあり得る……と??」

 フィンは黙ってうなずいた。アラン王とフェデレ公は顔を見合わせた。

「都にいた頃はそうでもなかったのですが……こうして都を出てみてはっきり分かったことがあります。いかにあそこが浮世離れしていたか、ということです。なのであそこの行動をこちらの常識で計って予測するというのは、かなり危険なことかと……自分の故郷に対してこのようなことを言いたくはないのですが……」

 王とフェデレ公は返す言葉もなくフィンの顔を見つめた。

 間違いなくそういった場合は想定していなかったという顔だ。

 無理もない。シフラ戦以降レイモンは、都にとって不倶戴天の敵のはずだ。あの戦いで一番顔に泥を塗られたのは、他でもない白銀の都の権威なのだから。

 あの戦い以前は都の魔導師と言えばそれこそ神のような存在だった。その神の本拠地である都に牙を剥こうとする輩など当然ながらいるはずがなかった。

 だがあの戦い以来、その権威は地に落ちてしまった。

 レイモンが直接に都を攻めようなどと考えているのがその最大の証拠だ。

 だがそれでも、都が簡単にレイモンに屈するようなことはあり得ない。あり得ないはずなのだ―――常識的に考えれば……

「ル・ウーダ殿は少し貴公の生国を過小評価をしすぎなのではないか?」

 王の問いにフィンは首を振って答える。

「それだったらいいのですが。ただ前線で常に戦っているフォレス軍に属してみて、都の魔導軍は何というか、思考停止状態にしか見えないのです。クォイオの戦いやシフラ攻防戦についての詳細を知ったのは、フォレスに来てからでした。都にいる際には誰も教えてくれませんでしたし、どこかで研究しているような事もなかったと思います……少なくとも私の知る限りでは。私もあまり気にしていなかったのですが……」

「うーむ」

 アラン王は顔をしかめて腕組みすると考え込んでしまった。

 間違いなくアラン王は、かなりの戦力が都に釘付けになるだろうという前提で戦略を練っていたに違いない―――常識的に考えれば、そこそこの戦力が最低数ヶ月は都攻めに加わって後方からいなくなるはずなのだ。だからその間に一挙に攻略できればこちらの勝ちだ。

 だがもちろんレイモンもそのことは織り込み済みだろう。兵力に劣る彼らは多分シフラやバシリカなどの防御に徹して時間稼ぎをしてくるだろう。

 結局勝負は都がどの程度時間を稼いでくれるかに大きく依存する。都だっていくら何でもその程度は分かるはずだ―――アラン王はそう考えていたはずだ。

《それに、本気を出せば時間稼ぎどころじゃないと思うし……》

 白銀の都は山岳地帯にある。都への街道はアルバ川沿いの一本道だ。途中には峡谷地帯もいくつかある―――すなわちフィンがセロの戦いでやったように戦える場所がいくつもあるということだ。そういうところをうまく利用すれば、それこそ完膚無きまでに叩きつぶすことだって不可能ではないだろう……

 今のフィンは当然のようにそう考えることができた。

 しかしそうできたのはあの戦いを生き延びてきた今だからこそだ。

 都にずっといただけだったらなら、死ぬまでそんなことに思いを馳せたりはしなかっただろう……

 もちろんフィンがそうだったからといって、都の住人全員がそうだというわけではない。

 だがそういった考えを抱く者が主流派になれるかどうかはまた別の問題だ。

 ともかく都がそういった“常識的”な行動をしてくれる保証はどこにもない、ということなのだ。

 アラン王は顔を上げた。その表情には明らかに苦渋の色が見えた。

「ル・ウーダ殿……もし貴公が言われることが確かならば、これは由々しきことだな……」

 そこで王は少し口ごもったが、再びじっとフィンの顔を見つめ返すと言った。

「だがそれでもわしはこのチャンスを逃すわけには行かないと思う」

 フィンはうなずいた。多分アラン王ならそう言う気がしていた。レイモンに一矢報いるためにこのフェデレ公にあれだけの苦汁を強いてきたのだ。これを逃したら次がいつになるか分からないのは確かだ。

《やっぱりそうだよな……》

 どうやらここからがまた正念場のようだ。

《どうする?》

 フィンは自問した。

 ここまでならばまだ引き返せる。

 だがこの先一歩踏み出してしまうと、もう取り返しがつかない。

 だが―――フィンの瞼にまたメルファラの姿が浮かんだ。

 あのとき以来それが心から離れない。

 レイモンが都に侵攻という話を聞いた瞬間、浮かんだのは彼女の顔だった。

 都が戦乱に巻き込まれたりしたら一体どういう事になる?

 もちろん勝てば何と言うことはない。だがたった今アラン王にも言ったとおり、都が間違いなく勝つという保証がどこにもないのだ。それどころかその反対の事ばかり思い当たる……

《そして都が負けた場合どうなる?》

 レイモンは都を併合してしまうだろうか?

 フィンはレイモンによって滅ぼされたウィルガ王国やラムルス王国のことを思い出した。あそこの王族は処刑されてしまった。同じ事が都でも起こったら……

《馬鹿な!》

 フィンは首を振った。さすがにそんなことはないだろう。大皇は伝説の大聖直系の存在だ。彼に手を出すようなことはいくらなんでもしないはずだ―――というより、大皇を傀儡にしてレイモンが実質支配した方がいいはずだ……

《だが大皇后は?》

 フィンは唇をかんだ。

 彼女の場合は尊敬されているといってもあくまで大皇の后としてだ。ならば人質として取られることくらいは軽くありそうではないか?

 それにアラン王はレイモンのマオリ王が“あの美しいお方”にのぼせたとも言っていたし……

 それはフィンにとっては最悪のシナリオだった。

《あのとき俺はどうして彼女を行かせてしまったのだろうか……》

 それは―――彼女に幸せになって欲しかったからだ。

 少なくともそんな運命にさらすためにそうしたのではない! それだけは間違いない!

 ならばやはりそれを阻止するために、自分は何かをしなければならないのだ。

 行かせてしまった以上、ここで放り出すわけにはいかないのだ……

 もちろん、そんなことはあの当時は予想できなかったといえばそれまでだが―――そしてここで何もしなくても誰に誹られるというわけでもないのだが……

 フィンはふっと笑った。

 何だか何度も同じように悩んだ記憶がある。

 そして結局“余計なこと”をするという決断をして―――そのおかげで今の自分がいる。

 あのときああしなければ、と考えることはよくある。

 だが、少なくともああしなかったら今、彼の回りにいる様々な人と出会うこともなかっただろう。

 こうしてアラン王と話していることもなかっただろうし、アイザック王やエルミーラ王女と出会うこともなかっただろう。

 アウラともそうだし―――そしてファラにも……

 フィンは心を決めた。そして真剣な顔でアラン王に言った。

「アラン様のお考えはもっともだと思います。ですが少しばかり私の話を聞いていただけないでしょうか?」

 その表情を見てアラン王はうなずいた。

「申してみよ」

「はっきり言いましてこれは越権行為なのですが……実はフォレスで今ある動きがあるのです」

「うん?」

 アラン王が眉をちょっとひそめる。

「その動きの中心にはアイザック様がいらっしゃるのですが……アイザック様はベラと都の間の調停を行おうとしていらっしゃるのです」

「何だと?」

「ええ?」

 アラン王とフェデレ公が驚いて同時に声を上げた。

「両国の長い確執の歴史を考えれば、これは普通ならあり得ない話だと思います。しかし現在は状況が異なっています。レイモンという共通の敵がある今、そういったことも不可能ではない状況になっている、そうアイザック様はお考えなのです。私がフォレスで重用されたのも、私が都にある程度のコネクションを持っていることが大きな要因となっております。今回私とアウラがこうして中原を視察している理由も元を正せばそこにあります」

 アラン王はじっとフィンの顔を見つめてから黙って促した。フィンは続けた。

「ですので、もしアイザック様の計画が成就すれば、レイモンは完全に孤立することになります。小国連合は都とベラの全面的なバックアップの元に戦うことができます。もしかしたらレイモンはそうなる前に動くかもしれませんが……その場合は今回とは逆で、主導権はある意味こちらにあることになります。いずれにしても今回よりは遙かに有利な状況で戦いに望めると思うのです」

「その“計画”はどの程度進展しておるのだ?」

 フィンは首を振った。

「正直言いまして、まだ道半ばというところです。ベラの方は既に色々と根回しを始めている所ですが……ご存じの通りフォレスとベラは長年の盟友関係にありますし、近年はエルミーラ様とロムルース様が大変ご親密なので……しかし都の方は正直これからです」

「なるほど」

 王はうなずいた。

「そういうわけでアイザック様もまだこれに関しては内密にということにされていたのですが……中原がここまで緊迫するとは、正直予想していませんでした。なので私の勝手な判断なのですが、こうしてアラン様にお伝えした次第です。それにレイモンが都を狙っているという事実があれば、交渉を加速することも十分可能なのではないかと思います。そうした場合予想以上に早く調停が実現することはあると思うのです」

「うむ……」

 アラン王は考え込んだ。

 無理もない。長年の間小国連合とレイモンは対峙を続けてきた。こういう戦いでは普通は防衛する方が有利だ。だから戦力差がなければ攻める方が無理になる。戦端が開かれなかった理由はまさに、先に動いた方が負けという状態だったからだ。

 今回はそういう状況に業を煮やしたレイモン側から仕掛けてきたといえる。

 もちろんレイモンのことだから単純に攻め込むようなことはせず、わざと隙を作って小国連合に攻めてこさせようとしているのだ。そういった見せかけの隙に乗じて攻め込むというのは間違いなく危険なことだ。

 だがそれが分かっていても無視するわけにはいかないのだ。都が攻められれば少なくともアイフィロスは動揺するだろうし、それに引きずられて他国が動く可能性もある。それをまとめ続けるのは至難の技だろう。アラン王としては結局不本意だったとしても乗ってやらざるを得ないのだが……

 アラン王はふっと顔を上げると言った。

「確かになかなか面白いご提案だと思う……だが一つ問題があるように思うが」

「と言いますと?」

「既にレイモンは動いてしまっているということだ。早ければ来春には奴らは侵攻を開始するであろう。その前に調停を行うなどほぼ不可能ではないかな?」

 フィンはうなずいた。

「はい。まさにその通りです」

 あっさり答えたフィンを見て、王とフェデレ公が少し驚いた表情を浮かべる。

「ではどうするのだ?」

 王の問いにフィンは答えた。

「そういうわけですので、まずは何としてもレイモンの侵攻を止めさせるしかありません」

 その答えに王は驚いて尋ねた。

「何と? そのようなこと簡単にはできぬと思うが? それとも何か良い方策がお有りということか?」

 そこが一番頭の痛いところだった。フィンは首を振った。

「申し訳ありません。確実な方法は……ありません。もしも今回の侵攻が単にマオリ王の我が儘に付き合っているだけだとすれば、国境付近で少し不穏な状況を作るだけで止めてくれるかもしれませんが……多分そうもいかないと思います。ですのでアラン様にお願いがあったのです」

「申してみよ」

 アラン王はじっとフィンの顔を見た。フィンは大きく深呼吸すると言った。

「それを実現するには、レイモンに潜入して内部から工作するしかないかと思うのです。そのためにアラン様には私がレイモンに潜入する手助けをして頂きたいと、お願いに参ったのです」

 王はしばらく驚いた顔でフィンを見つめ、それから言った。

「潜入してどうされるおつもりだ?」

「どうするかはまず行って調べてみなければ何とも言えませんが……こちらが相手の意図を知っているということをリークするだけでいいかもしれませんし……場合によったら、例えば重要な人物に……その、消えて頂くなどすることも、可能ですし……」

 アラン王はそれを聞いてちょっと眉をひそめた。

 フィンはうつむいてちょっと言葉を切った。

 それはフィンにも分かっていた―――何かが少しずつ麻痺していることに……

 以前だったら間違いなくこんなことは言えなかった。

 だが今は、本当に守らなければならない物があったとしたならば、そのためにはこういった手段でも実行できてしまうのだ……

「ただいずれにしても一人では到底困難ですし、レイモンにいる間にアラン様のご助言が必要になることもあるかと思います。ですのでレイモン国内でそういったことに協力していただける方を紹介して頂きたいのです」

 アラン王はそう言ったフィンをしばらくのあいだぽかんと眺め、それから笑い出した。

「なんとまあ、大胆なご提案だな。全く!」

 王はしばらく笑い続けた。それからゆっくりと首を振ると答えた。

「色々と熟考に値する話だとは思う。だがちょっと今すぐ結論を出すわけにはいかんな。話が大きすぎるのでな。まずはそういうことでよろしいか?」

 当然だろう。こんな話を即決できるとは思えない。

「はい。もちろんでございます」

 フィンは深々と頭を下げた。顔を上げたところでアラン王が尋ねた。

「それにしてもル・ウーダ殿」

「何でしょうか?」

「それは大変危険なことだと思うのだが、どうしてまた?」

 フィンはちょっと口をつぐんだ。

「私は今フォレスに仕えておりますが、その国益を考えればこれが最も良いと思いました。それだけでなく御国にとりましても、祖国の都にとりましても最も良い結果になり得るのではとそう考えたためです」

 そう答えてはみたが、王は信じてくれただろうか?

 だが王はじっとフィンの顔を見ると言った。

「なるほど……まあ良い。ともかくこの件に関しては一度こちらで検討を行い、追って連絡することにする。大変有意義な時間をありがとう」

 フィンは立ち上がると深々と礼をした。

「こちらこそありがとうございました」

 王の執務室を出るとフィンは膝が震えているのに気がついた。

 フィンは大きくため息をついた。

《いいんだよな……これで……》

 だがそう後悔しても、もう引き返せない道に踏み込んでしまっているのは間違いなかった。



 火照った肌に当たるシャワーの感触が快かった。

 フィンは天を仰ぐとふうっと大きくため息をつく。水が顔に当たって流れ落ちて行くのが感じられる……

 ここに来て初めてほっとした気分だった。

 何者かに命を狙われ出してから此の方、あの晩の騒ぎに至るまでずっと緊張の糸が緩んだことはなかった。

 それだけでも十分だったというのにその後まるで延長戦のように、ほとんど休みも無しにアラン王達と会議を続けていたのだ。

 フィンにとってはある意味こちらの方がよっぽど神経に堪えていた。

 なぜならそれまでは基本、自分達の命だけを心配していれば良かった。

 だがその後の話となると、これは一国どころかこの世界にあるほとんど全ての国の命運に関わってくることなのだから……

 だがそれもやっと片がついた―――いや、正確には為すべき事が決まっただけなのだが……

 でも明確な目標があれば人は迷わずにすむ。

 今は迷いの森を抜けて遠くに灯明が見えた、そんな感じだ。

 見えているのが遙か遠方だったにしても……

 そのとき側にいたアウラがシャワールームから出て行って、開いた扉からふっと風が吹き込んできた。

「ああ! 気持ちいい!」

 アウラがつぶやくのが聞こえる。

 フィンもシャワーの水を止めると、体の水滴を拭いながら部屋に戻った。

 今二人がいる部屋はシルヴェスト城の王族プライベートエリアに用意されていた。おかげで今まで泊まった部屋の中では最高クラスの設備だ。

 だがこれは誤解だったとはいえ、フィン達を亡き者にしようとした事に対するお詫びであるのと同時に、彼らが簡単には出て行けないようにするという意味もあるのだが―――まあそれも仕方のないことだ。理由はともあれ首を刎ねられていても文句は言えないようなことを仕出かしていたのだから……

「ああ、いい景色」

 見ればアウラが一糸纏わぬ姿で窓際に立っている。フィンは少々慌てた。

「おい、そんな所、外から見られないか?」

 アウラは首を振った。

「大丈夫よ。遠いし、それに暗いし」

「そんなに見えないもんか?」

 そっちが気にしなくともこっちが嫌なのだが―――フィンはアウラの横に並んで窓の外を見た。

「ああ、そうだな……」

 二人の部屋はグリシーナ城の上層にあって、窓からは下層の建物の屋根と、その先には遙か下にある町の明かりしか見えない。確かに普通なら大丈夫だろう。普通なら……

 そう思った瞬間、そうやって見えないはずの所から覗いた記憶が蘇ってきた。

 あのとき“フロウ”が濡れた服を着替える姿を見てしまったとき、フィンは驚きのあまり屋根から転がり落ちそうになった。

 まさかとは思っていたがいざその現物を見てしまうと―――だが、それにしても見事な……

《違うって!》

 フィンは首を振って妄想を払いのけると、アウラの腰に手をかけて自分の方に引き寄せた。

 いつも自然に行っていた動作だったのだが……

「あ、痛!」

 途端にアウラが呻いた。

「あ、ごめん」

 フィンは驚いて謝った。何だ? 何かしたか?

「痛いじゃない!」

 アウラがむっとした顔で睨む。フィンは彼女が何故怒っているのかよく分からなかった。

「どうしたんだ? それ?」

 それを聞いてアウラは目を丸くした。

「どうしたって、さっき言ったじゃない! エレバスにやられたって」

「え? あ! ああ……」

 言われてみれば―――確かさっき彼女が上になっているとき、逝きそうで思わず腰を掴んだらそんなことを言われたような?

「そうだったな……」

 フィンは慌ててうなずいた。ちょっと今日は頭が疲れていて注意が散漫なままではあるが―――でもああいうタイミングで何か言われても、そりゃうっかりもするんじゃないか?

 フィンはそんなことを考えながらグリシーナの夜景を見下ろした。

 高い所からの夜景というのは小さい頃から何度となく見てきた。

 フィンも都の貴族の端くれだったから屋敷は白銀の都の高台にあった。その端から見下ろした夜景がちょうどこんな感じで美しかったが……

 そう思うとまた考えが都のことやファラのこと、そしてレイモンがそれを狙っている話に移ってしまう。

 あれから何度もアラン王と会合を持って、今日、最終的な方針が決まっていた。

 結論を言えば、王はフィンのレイモン侵攻阻止工作には全面協力してくれるが、それはあくまで“第二プラン”としてということだ。

 それにはフィンも同意せざるを得なかった。国家の命運をフィンの行動に一点賭けするわけには行かない。四カ国同時侵攻というのは当然ながら十分な下準備が必要だ。どちらにしても現状維持で準備は行っておき、もしフィンの工作が成功すればそれに乗ろうということなのだ。

《これでいいんだよな?》

 フィンはまた自問した。

 これ以外にもいくつか方策は考えられた。

 その中でも特に、早急に都に戻ってこのことを報告し対策を練る、というアイデアはかなり魅力的だった―――だが、都ではフィンには何の実権も実績もなかった。

 いや、実際はそこらの者よりは遙かに強力なコネはあるのだ。彼はその気になれば現大皇に私的に会って話をすることが簡単にできるのだ。何しろ今、カロンデュールが大皇の座にあるのは、間違いなくフィンの働きがあったからだ。

 だが同時にそのことは決して口外してはならない秘密でもある。

 表向きには世継ぎの交替は無風で成し遂げられたが、ジークの家からダアルの家にこんなに簡単に権力が移譲したことについて、拍子抜けのような思いを持つ者も多かったのだ。

 それまでの確執を考えればもっと血で血を洗う抗争が発生してもおかしくなかったのだから……

 そんな中でフィンが分不相応に扱われたりしたら、すぐに色々と邪推する者が現れるだろう。

 彼はあくまで早世したメルフロウ元皇太子の未亡人、エルセティア妃の単なる兄でしかない―――都とはそういう所なのだ。

 そんなわけなの彼は都に情報を伝えることはできても、それを元に“対策を練る”際にはほとんど蚊帳の外に置かれるのは間違いなかった。

 それならば別にアラン王が使者を送るのとどれほどの違いがある?

 その上、レイモンの動きやシルヴェストの意図を都にリークするタイミングもあった。

 レイモンの都攻めは極秘情報だが、それにシルヴェストが既に気づいているということは、ある意味それ以上の極秘事項だ。

 だから都も含めて他国にそれを知らせるのは、ある程度相手の動きがはっきりした時点でないと色々不都合がある。

 ともかくアラン王は少なくとも今は時期尚早と考えていたし、そういった判断にフィンが口を挟む筋合いもなかった。

《だからこれ以外にはないんだ……》

 そんなわけなので結局フィンはレイモンに潜入するという道を選んだのだ。こちらの方が遙かに実り多い結果を出せそうだったからだ。

 当然のことだがアラン王はレイモン国内にフェデレ公のルートとは別の独自な諜報網を持っていた。そして王はフィンにその組織への接触を許してくれたのだ。

 これなくしては行っても途方に暮れるだけだっただろうが、組織の情報を使えるのならば話は別だ。一人でもいわゆる“蜂の一刺し”を噛ますことだって可能だろうからだ……

「王女様のこと、びっくりしたわね」

 アウラの声がする。

 確かにエルミーラ王女の出産の報には驚いたが―――フィンは振り返らずに答えた。

「ああ。でも言われてみればそろそろだったよな」

「ハルディーン王子様だって? フィンは王女様の方が良かったんだっけ?」

「ん? ああ……」

 フィンは生返事をしながら考えた。

《ともかくもっとレイモンの内情が分かれば、いろいろできることはあるさ……》

 まるで無敵の怪物のようなレイモン王国だが、彼が内情を知らないからそう思えるだけかもしれないのだ。

 実際ベラに行ってみるまではあそこがああなっていたとは露とも知らなかったわけで―――あれほどではないにしても色々と弱点は見えてくるはずだ。

 例えば現在レイモンは秘密裏に侵攻を計画しているようだが、これはやはり堂々と攻め込むのが怖いからだとも考えられる。だから相手が気づかぬうちに虚を突いて一気に片を付けようとしているのかもしれない。

 それならばその計画は実は相手にばれているぞと思わせるだけで浮き足立ってくれるかもしれない。

 クォイオの戦いやシフラ攻防戦の大勝利で彼らが単に慢心していてくれれば更に隙は多いだろう。そんな状態ならば内部のタガが緩んでいる可能性は高いし、単純に将官を買収することだって可能かもしれない。

 そして最悪の場合は責任者に退場してもらう、といった手段もあり得るわけで―――その手だけは使いたくはないのだが……

 そのときフィンの反応の悪さに少々しびれを切らしたようにアウラが言った。

「そう言えばハスミン達、結局来るの?」

 フィンは振り返って答えた。

「え? ああ、明後日くらいにはやってくるらしいよ」

「そうなんだ!」

 アウラが満面の笑みを浮かべる。それからちょっと顔をしかめると言った。

「えーっと、ハスミン達にはフェデレ公はファルクスに騙されてたって言うのよね?」

 フィンはうなずいた。

「うん。そうだ。あとそれに王が関わってたとかは絶対言うなよ?」

「うん」

 彼女はまあ色々と考え無しに仕出かしてくれることは多いのだが、ちゃんと約束をしておけばそれを違えることはない。そういう所がアイザック王やエルミーラ王女に信頼されている大きな理由なのだろう―――まあ王女の方はもう少し異なった理由もありそうだが……

 そう思ったとき、フィンはアウラに頼まれていたことを思い出した。

「あ、それからレジェの墓、立て直してくれるそうだよ」

「え? 本当?」

 アウラの顔がぱっと明るくなった。

「ああ。ある意味彼女が教えてくれたようなものだしな」

「やった!」

 アウラは長椅子から跳ね上がると、そのままくるっと一回転した。

《おいおい……》

 彼女が本当に喜んだときにはいつもこうして体全体で表現してくれるのだが――― 一糸纏わぬ状態でそういうことをされるともう何だかまたむらむらと……

《いや、さっきやったばかりでシャワーから出てすぐじゃないか……》

 そう思ってフィンは首を振ると考えた。

 それはともかくだ。

 レイモンに行って何かするというのは、都に行くよりもずっとできることが多いのだ。少なくともそう思える……

 フィンは再びグリシーナの夜景を眺めた。

 もちろんうまくいく保証はないが、それならそれで仕方がない。都に戻って防衛に手を貸すのはその後でも遅くないかもしれない。明確な脅威が現れた後の方が色々意見も通りやすいかもしれないし……

 ともかくそうなった時はそうなった時だ。今思い悩んでも仕方ない。

 それよりも……

「ねえ、それで終わったら次はどこに行くの? やっぱりガルデニア?」

 アウラのその言葉を聞いた途端、フィンはぎくっと体をこわばらせた。

 そうなのだ。

 ある意味最大の問題がこれだった。

 フィンは今度の任務にはアウラを連れて行かないつもりだった。

 もちろんこれはひどく危険な任務だ。

 だが相手がアウラの場合あまりそれは理由にはならない―――というより、いてくれた方が何かと心強かったりするくらいだ。何しろ国王暗殺に付き合わせてしまったくらいなのだから……

 気が進まない理由は違うところにあった。

 それはやはり彼があえてこんなことに首を突っ込もうとしている真の理由について、彼自身も十分に認識していたからだ。

《ファラ……》

 そう。結局の所、今回彼がこのような危険を冒そうとしているのは、極めて個人的な事情に依っていた。

 彼女がいなければ都が祖国だったにしてもここまではしなかっただろう。

 また彼女が絶対安全な立場だと分かっていれば、やはり同様だっただろう。

 だが実際にはそうではないのだ。

 国が破れたとき、その国の最高権力者やその身内がどのような目にあうか?

 少なくともレイモンが彼らが滅ぼしたウィルガ王国やラムルス王国に対して行ったことは、フィンはよく知っている……

「ん? どうかしたの?」

 フィンの様子がおかしいのに気づいたのだろう。心配げな声だ。

 フィンは振り返った。だがすぐには言葉が出てこない。

 本当は来て欲しかった。

 今では彼女が存在するのがもう当たり前になってしまっているのだ。

 彼女のない日常は考えられない。

 そしてアウラは自分を心底信じていてくれる―――王を斬りに行くとか言って平気でついてきてくれる奴なんて、彼女以外に誰がいるというのだ?

 あのときは滅びるときは二人一緒だ―――そう思っていたからこそ問題はなかった。

 どのような結末になろうとも、彼女の信頼を裏切るような真似だけはしない自信があった。

 だが今回は?

 また同じような戦いが発生したら、一体何と言ってついてきてもらえばいいのだ?

 そんな戦いが起こらないという保証は一切ないと言うに……


《とにかく……こいつだけは裏切りたくないんだ……》


 そう思ってフィンは大きく深呼吸してから告げた。

「いや、ガルデニアには行かない」

 アウラは驚いた。

「え? じゃあどこに?」

 フィンは迷った―――だがもう決めたことだ。今更心変わりしてどうする?

 彼は顔を上げた。

「お前……レイモンが都攻めをしようとしてるって事、聞いたよな?」

「え? うん……」

 アウラが曖昧にうなずく。

「それを阻止しなければならないんだ」

「うん?」

 彼女はよく分かっていない風だ。まあ当然だが……

「そのため俺は、レイモンに行ってそこで都攻めを妨げるための工作してこようと思う」

「ええ?」

 意外な言葉にアウラはぽかんとしてフィンの事を見つめるだけだ。

「そのことをずっとアラン様と話し合ってたんだが、アラン様にも分かって頂けて、全面的に協力してもらえることになったんだ」

 アウラがじっとフィンを見つめる。それからちょっと唇を噛んだがすぐに顔を上げるとうなずいた。

「分かったわ。で、いつから行くの?」

「後始末が終わったらすぐ。一週間くらいだと思うけど」

「で、レイモンのどこに行くの?」

 それを聞いてフィンは一瞬言葉に詰まる。

 そう。彼女はまだ同行できると思っているのだ。彼女がそう思わない理由はない……

 でもやはりこれはもう決めたことだ。

 フィンは沈んだ声で答えた。

「それは秘密なんだ」

 アウラは一瞬ぽかんとした。それから食ってかかるように言う。

「ええ? 秘密って、どうせ一緒に行くんだし、教えてくれたっていいじゃない」

 フィンはゆっくりとかぶりを振った。

「いや、一緒には行けないんだ」

 今度はアウラはじっとフィンを見つめたまま何も言わなかった。

 フィンも何と続けるべきか分からないまま、二人の間に重苦しい沈黙が流れる。

 するとアウラはいきなり立ち上がってフィンに詰め寄ってきた。

「ええ? どうしてよ?」

 フィンは彼女の肩に手をかけると、じっとその目を覗き込んだ。

「このことはアイザック様から受けた命に反するから。だからそのことを説明した書状を持ってフォレスに戻って欲しいんだ。俺の代わりに」

「ええ?」

「それにちょっと今度のは、何て言うか、隠密行動なんで目立つとまずいし……」

 アウラがじっとフィンの顔を見つめている。

 部屋は窓から入り込む星明かりだけだったが、その表情の意味するところはよく分かった。

 それ以上フィンはアウラの目を見ていられなかった。

「どうしても、なの?」

 フィンはそう動く彼女の口元だけを見ていた。

 その唇はフィンの決意をもう少しで打ち砕くところだった。

 だがフィンは最後の最後で踏みとどまると、静かに答えた。

「ああ……」

 アウラの唇が再び何か言いたそうにぴくぴくと動く。

 だが最後に出てきたのは次の言葉だった。

「うん……分かったわ」

 それを聞いた瞬間、フィンの胸の奥でずきりと何かが疼いた。

 彼女はフィンの望み通りの答えをしてくれたのだ。

 それなのにどうしてこんなに胸苦しいのだ?

 次いで今度はフィンの腹の底から押しとどめられない衝動が沸き上がって来る。

 フィンはもう自分を抑えることができなかった。

 彼はアウラを思いっきり抱きしめた。

「え?……あ! 痛い!」

 アウラが呻いたが、その声は彼にはほとんど届いていなかった。

 フィンはその声を呑み込もうとするかのように彼女の唇を自分の唇で塞いだ。

「ん……」

 気づくと既に彼の物は痛いほどにそそり立っている。

「今夜は離さない!」

 フィンはアウラをそのままベッドに押し倒すと彼女を押し広げ、有無を言わさずに一気に貫いていった。

「ああっ!」

 アウラが悲鳴に近い声を上げる。いつもならばそんな声を出されると一気に冷めてしまうのだが、今回はなぜか違った。

 ぞくぞくっと背筋に電気のような物が走り、フィンの情熱はなぜか前にも増して燃え盛った。

「アウラ、愛してる」

 フィンは彼女の耳元でそう囁くと、荒々しく彼女の中をかき回し始めた。

「あ、あ……」

 アウラの声が喘ぎにと変わり、その声音はますますフィンの激情をたぎらせていく……

 そのような時がどれほど続いたのだろうか?

 次に我に返ったときは二人とも汗びっしょりでベッドの上で横たわっていた。

 フィンはすべてを出し尽くしたかのようで、息も絶え絶えだ。

 アウラは絶頂のあまり体を震わせながらほとんど気を失っているように見える。

 頭の中は空っぽだ。

 何だか夢の中のようだ。何もかもがどうでもいいような―――ただ横にいるアウラの体に触れている所だけが妙にリアルな、そんな気がした。

 そうやってしばらくフィンは濡れたアウラの体の感触を意識するともなく感じていた。

 星明かりの中、フィンはじっとその横顔を見つめた。

《アウラ……》

 彼女を失う事なんて考えられない。

 だがもう少ししたら彼女と離ればなれになってしまう。

 それは自分で選択したことなのだが―――なぜか死ぬほど辛かった。

《戻ったら……そうしたら結婚式を挙げよう》

 そうだ。両親やティア達も呼んで。ちょっと遠いけど、特にティアには気分転換になっていいに違いない。

 新居はどこがいいかな? 個人的には白き湖の湖畔がいいが―――でもさすがにちょっと城と遠いだろうか? まあ戻ってからゆっくり考えてもいいだろう。なに、ちょっとの間、別れ別れになるだけだし……

 そうは思いつつも、これが決してそんな簡単な話ではないことは十分承知だった。

 フィンは再び彼女の横顔を眺める。

 眠ってしまったのだろうか? 安らかな寝顔だ。

《アウラ……約束するよ。絶対戻るから……お前の所に、きっと……》

 そうなのだ。

 今、彼にはアウラがいる。彼女しかいない―――そう思った瞬間フィンの胸の奥に鈍い痛みが走る。フィンは慌てて首を振った。

 違う! 違う! 違う!!

《彼女は……あの人は確かに……確かに……》

 何だったのだろう?

 彼女とどんな約束を交わしたわけでもない。

 納得ずくで互いの道を行っただけじゃないのか?

 ………………

 …………

 ……

 フィンは体を起こすと眠るアウラの姿を眺めた。

 こうやって眠っているとその顔はひどく愛らしく見える。

 真っ黒な長い髪がその顔の後ろから幾条もの流れとなって広がっている。

 いつもは編み込んでいるため、こういうときでもないとこんな光景はなかなか見られない。

 その中に横たわるしなやかな肢体。

 すらっとした足。

 ふっくらとした腹の丸みに、ちょっと小振りだが形の良い乳房……

 その真ん中を斜めに大きな傷跡が走っている。

 だが彼はもうそれを醜いとは思わなかった。

 確かにこれは彼女の辛い過去を物語っている―――でもそれがなかったら彼女とこうして出会うこともなかったのだから。

 そう。全てが、何から何までが愛おしい……


「俺はもうお前以外の女をこうして抱いたりしないから……ずっとお前だけだから……」


 フィンは彼女の髪をそっと撫でながらつぶやいた。

「ん?」

 頬に触れる感触に気づいてかアウラが薄目を開けた。

 フィンがそっとキスをすると、彼女は再び満足げに目を閉じた。

 彼は再び、今度は彼女が痛がらないよう細心の注意を払いながら抱きしめた。

《お前だけだから……》

 彼女の肌の温もりを感じながら、フィンは心の中で何度も何度もそう繰り返した。