王女の休日 第2章 劇場でドッキリ!

第2章 劇場でドッキリ!


 それから一週間ほど後、王女一行はルナ・プレーナ劇場に来ていた。

 この劇場は白銀の都で、というよりこの世界で最高の劇場だ。あらゆる歌手や役者、芸人はここの舞台を夢見ると言ってもいいだろう。

 そこで彼女達が見ている『レイシアンの歌』という音楽劇は、この手の演劇の中では古典中の古典で、全編上演するとなると三日かかる大作だ。

 現に始まってから二時間以上は経過しているが、まだ序夜の半分くらいに達したばかりだ。

 そんな長い作品をメイが見るのはもちろん初体験だ。果たして途中で寝たりしないかと心配だったのだが―――それは全くの杞憂だった。

 劇が始まった途端に彼女は舞台に引き込まれて、時間が経つのも忘れていたのだ。

《ほえー……》

 もうため息しか出てこない。

 今はまさに序夜の山場だ。

 魔物達との戦いに倦み疲れた主人公が森の中でヒロインと出会い、復讐に取り憑かれて凍て付いていた男の心が彼女の歌声によって徐々に溶かされていく名シーンだ。

 ここの段の素晴らしさにはエルミーラ王女も目を見張っていた。

 それまでは雑談も出ていた他のメンバー達も、ここに来て言葉もなく、ただ舞台に釘付けになっている。

 今来ているメンバーとは、エルミーラ王女とメルファラ大皇后、彼女の侍女パミーナ、それにアウラとリモン、メイ、最後に“アウラの昔なじみ”のクリスティだ。

 彼女達は今、ロッジと呼ばれる劇場の壁面にしつらえられた個室の中にいる。

 前面は空いていて広いステージが一望の下に見渡せるが、ここはその中でも特別な部屋らしく、位置はステージの真っ正面にあたるし、その広さも七名が思い思いに座ってもゆったりとしている。

 それにしても今回のメンバー、侍女連中を除く四人は凄いとしか言いようがないが……

 そもそもエルミーラ王女とアウラが正装して並んでいるだけでも大輪の花が咲いているような物なのだが―――ただしアウラは黙っていればという条件が付くが―――彼女の昔なじみのクリスティは、聞けば今はバーボ・レアルのプリマドンナの一人らしい。

 バーボ・レアルというのはそちらの世界の頂点に当たる場所で、世界中の男性が一度はそこで一晩過ごしたいという夢を見る場所だという。

 そんな所でトップを張っている人だから、実際もうメイの目から見ても震いつきたくなるような美人、という形容がぴったりだ。

 見事なスタイルに優雅な物腰、流れるようなブロンドの髪、ドレスからこぼれ落ちそうなバストは触ったらとても柔らかそうだ。近寄ったらとても甘い香りがするし―――メイでさえ彼女にぎゅっとされたらとろけてしまうかもしれない。

 それにしてもアウラがフォレスに来る前のことはあまり聞いたことがなかったが、一体どんな生活だったのだろうか? 確か夜番とか聞いていたが―――こんな人たちに囲まれて暮らすというのはどんな気分なのだろうか……

 だが問題はそれだけでは終わらない。

 “問題”とはクリスティの側に座っている超美形の青年のことだった。

 最初、彼女達が合流する場所に“彼”が現れたときは全員茫然自失だった。

 一体どこの太子が現れたのだ? メイ達は当然のこと、エルミーラ王女やクリスティも目を丸くしたのだ。

 ところがそれが何とメルファラ大皇后だったのだ。

 訊けば女同士でそういうところに行くのはやはり何とかなので、そのため大皇后がホスト役を買って出たというのだが……

《ちょっと先に言っといて欲しかったんだけど……》

 それよりも何よりも、どうしてここまでハマっているのだろう?

 メイはベラで開かれた仮装舞踏会などで男装した女性を何度も見たことがあるが、やはり何か不自然な所があるのは否めない。

 だが大皇后の立ち居振る舞いは、メイなどは言われるまで女性だと気づかなかったくらい完璧なのだ。

 こういう事には興味がないはずのリモンまでが見た瞬間にぽうっとなっていたが……

 そもそも先日は緊張のあまりゆっくり観察している余裕がなかったが、大皇后というのがとんでもない美形なのは確かだ。

 こうやって見るとそれがますます際だってくるのだが―――というか、むしろこちらの方が良かったりして……

 そんなメンバーだから一行はどこにいても周囲の目を引きつけていた。

《これじゃ全然お忍びになってないんじゃ?》 

 もちろん王女の顔は知られていないし、この青年が大皇后だなどと考える人はいないだろうから、騒ぎさえ起こさなければ大丈夫だとは思うが……

 だがそのせいで普段はあまり人目を気にする必要のないメイ達までが、いろいろな人にじろじろ見られる羽目になっていた。

 特に今日は秘書官の制服のような無粋な物はダメだとかで、黒っぽいドレスを着せられているのだが―――彼女とリモン、それにパミーナのドレスがお揃いのところを見ると、どうやらこれがこちらの侍女の服らしいのだが……

《ちょっと可愛らしすぎるんじゃないの?》

 確かに一時はメイも王女付き侍女だったからメイド服姿だったこともある。

 だがフォレスの物に比べてこの服はもうフリル派手派手で大きなリボンもついていて、ちょっと何だか居心地が悪い。リモンも同様にずっともじもじしているし……

 パミーナは慣れているのか堂々としたものだが。

 そんな心配も劇が始まるまでだった。

 舞台の上では心が通い合った二人の二重唱が始まっている。

 メイはうっとりとそれに聞き惚れてた。

 やがて気がついたときは舞台は暗転していて、あたりは割れんばかりの拍手に包まれている。

 メイが我に返ると、まだみんなの顔には恍惚といった表情が浮かんでいる。

 それを見た彼女の心の中にとある想いが沸き上がってきた。


《ふっふっふ、コルネェェェ! ざまあみれぇぇぇ!》


 これを聞けないなんて、メイにレイシアンの歌の本を読ませてくれなかった天罰に違いない!

 彼女の父親は城に出入りする雑貨商だったが、アイザック王の図書館絡みでいろいろな本も扱っていた。二人はよくその商品をこそこそと読んでいたのだが、その中にこのレイシアンの歌があったのだ。

 もちろん二人で同時に読むわけにはいかないので、くじ引きで順番を決めたのだが―――あの小娘があんなにもたもたと読んでいなければ、売れてしまう前にメイだって最後まで読めたものを!

「素晴らしかったですわ! あの歌手の方は有名な方ですの?」

 エルミーラ王女が大皇后に話しかけるのが聞こえる。

「ああ、デルビスとパライナと言って若手の超有望株なのですよ」

「そうなんですの? 本当に素晴らしかったですわ!」

 王女が劇を見てこんなに感動しているなんて初めて見た。

 実際メイの目から見てもガルサ・ブランカで時折上演される旅芸人の劇とはレベルが全く違う。

 そのとき大皇后が独り言のように続けた。

「ティアがいれば喜んだでしょうに……」

「ティア?」

 王女が尋ねた。彼女達にとって“ティア”とはフォレスのルクレティア王妃のことだが…… それを聞いて大皇后は慌てて首を振った。

「あ、いえ、エルセティアのことですよ。兄上の奥方だった」

「ああ……えっと、今、確か……」

 王女は口ごもった。

 彼女達も今、そのエルセティア姫が失踪中だということは聞き及んでいた。

 大皇后は寂しそうに王女の顔を見た。

「彼女がいればもっと良かったでしょうに……彼女はとっても楽しい人で、特にあのデルビスのファンで、兄上の喪が明けたら正式にパトロンになるって言ってましたのに……」

 何だか空気が重くなってきた。

 と、すかさずパミーナがワインのデキャンタを持ってやってくる。

「ファラ様。グラスが空いていますがお注ぎ致しましょうか? 他の方もいかがでしょう?」

「ありがとう」

 そこにクリスティが言った。

「まあごめんなさい。こういう事は私がやらなくっちゃいけないのに」

 その笑顔にパミーナもちょっと赤くなる。

「いえ、クリスティさんもどうぞ」

「ありがとうね」

「メイさん達もどうぞ」

 そういってパミーナは彼女達にテーブルの上の料理を示した。

「ありがとうございます」

 ロッジの中にはこんな風に飲み物や食べ物も用意してある。

 料理も素晴らしいしお酒も上等だ。

 来るまでは劇場というのは堅苦しいところだと思っていたのだが、これでは食べ過ぎや飲み過ぎに注意しなければ……

 実際来る途中そんな小事件を目撃していた。

 一行が予約したロッジへの通路を歩いているときだった。角を曲がるといきなり髭面の男性がご婦人にキスしている場面に出くわしてしまったのだ。

 すると今度はご婦人の方が『いきなり何するのよ』と言っていきなり男性に平手打ちを食らわして行ってしまった。

 男性は何か弁解しながら後を追っていったが―――と、事件と言ってもそれだけの話なのだが、ともかくお酒が入った王女とアウラには注意しておかなければならない。

 特に王女に関してはメイは色々身をもって体験していたわけで……

《あははははっ!》

 メイがそんなことを考えていると間奏曲が急に盛り上がってきて、舞台がぱっと明るくなった。どうやら最終シーンが始まるらしい。

 舞台は先程の森の中からうってかわって、広い宮殿の王座の間とおぼしき場所だ。

 メイは一言一句聞き漏らすまいと舞台を見つめていた。

 そのとき、横にいたリモンがメイをつついた。

「ん?」

「これ、もうすぐ終わるの?」

 リモンが小声で尋ねる。

「うん。序夜の最後のシーンだから」

 メイにとってこの先は大変思い出深いシーンだ。

 主人公とヒロインがここで王様に結婚したいと願い出るのだが、当然王様は許してはくれず主人公は無理難題を押しつけられることになって―――と、メイが丁度その辺りまで読んだところで本が売れてしまったのだ。

 おまけにコルネの奴が『つづき、教えてやろうか~?』などと目尻を垂らして言うもんだから、絶対聞かない! 聞いてやるもんか! とそのまま今の今まで恐ろしく欲求不満な状態で放り出されていたのだから!

 だがそれもこれで終わると思うと、思わず笑みがこぼれてしまう。

 しかもこんなに素晴らしい歌とお芝居付きだ―――ふっふっふ、コォォルネェェェ……

「ねえ、メイ」

 にたにた笑っているメイの袖をリモンが再び引っ張った。

 メイは振り返って彼女を見た。

《ん? どうしたのかしら⁉》

 見ると何やらひどく不安そうな様子なのだが……

 リモンとアウラはこのメンバーの中では一番こんなことに向いていないとは言えるが―――でも二人とも主人公と魔物の対決シーンでは体を乗り出して見ていたし……

「リモンさん、どこか具合でも?」

 彼女は首を振って小声で答えた。

「違うのよ。その、終わったらやっぱりあたし達も行くのよね?」

 ………………

 …………

 ……

 行く?

 その意味が頭に浸透するに連れて、メイも音楽劇の素晴らしさに隠れてすっかり忘れていた事実を思い出した。

「ええ、まあ……」

 二人は顔を見合わせた。

 リモンの顔が何だか赤い。

 メイも急に顔が熱くなってくる。

 そうなのだ。フォレスにいた頃は王女が“外泊”されるとき一緒に行くのはアウラやナーザで―――アウラが旅に出てからはベラの後宮から来た護衛のガリーナだったが―――そんな日はメイ達は休みになるのが常だったし、王女もその辺のけじめだけはきっちりとつけていた。

 だが今回は少々状況が違う。

 表向きは大皇后と一緒に観劇に行って、帰りが遅くなるから近くの別邸に泊まってくるということになっていたのだ。

 だとすればメイ達が付いて行かない理由がない。

 もし行かなかったらコルンバン達が勘ぐるかもしれないし―――だがそれでは彼女達は王女に付いていって一体何をすればいいのだ?

 その話をしたら王女は一笑に付して『それなら控えの棟で小娘とお茶をしてらっしゃい』とか言うのだが……

 さすがにメイだってもうブルーベリー摘みの時のような子供ではないし、それに諸般の理由で遊郭の中がどうなってるかということに関しても、かなり知ってはいるのだが……

 でもそこで行われていることを自分でしてみたことはない。

 いや、かつてそういった体験ができるかも、というところまでは行ったことがあるのだが……

《ストーーーーーーーップゥゥゥ!!!》

 そんなことないもんね! ファーストキスはペペちゃんとだしっ!

 うっかり思い出しそうになってしまった黒歴史を闇に無理矢理葬り去ろうとしていたら―――逆に何だか変な気分になってきた。

《うわあ……どうしよう?》

 ともかくこれは少し頭を冷やさねば……

 そこで彼女はリモンに言った。

「何か飲む?」

「え? ええ」

 メイは立ち上がると二人分のグラスに冷たいジュースを注いだ。

 そのときだ。

 ロッジの扉をノックするする音が聞こえた。何だか乱暴な叩き方なのだが……?

《??》

 それに気づいてパミーナと王女も振り返った。

 メイは手にしたグラスをテーブルに置くと、二人に自分が出ると合図して扉に向かった。

 ロッジの扉を開けると―――そこには見たこともない若い男が三人立っていた。



 三人はどこかの貴族のようだった。

 何だか高そうなスーツを着ていて、金や宝石でできた装飾品をこれ見よがしに付けている。

 しかもみんなかなり酒に酔っているようだ。

「あの、どちら様でしょうか?」

 メイが尋ねると、中央にいた少し背の低い男が彼女をじろっと睨んで言った。

「こっちにクリスティがいるんだろ? 代わってくれよ」

「は?」

 一体何のことだ?

「えっと、いらっしゃいますがどういったご用件でしょうか?」

 それを聞いた男は再びメイをじろっと見ると……

「うるさい! 田舎者が!」

 そう言って彼女を払いのけたのだ。

「きゃっ!」

 予想だにしなかったことなのでメイは避けることもできず、もんどり打って床に倒れこんでしまった。厚い絨毯が敷いてあったため全然痛くはなかったのだが……

「メイ!」

 リモンが驚いてメイの側に駆け寄ってくる。

 彼女が無事だと言うことを見るや、リモンはメイを払いのけた男を睨みつけた。

 そのときには全員騒ぎに気づいていた。

 来た男を見てクリスティが驚いたように言った。

「まあ、マグニの若様、どうなさったの?」

 若様と言われた男は答えた。

「お前、何でこんな所にいる? こいつらは誰だ?」

 そう言って男はロッジの中を見回すが―――そこで若い貴公子がクリスティを含む三名の美女に取り囲まれている姿を見て、何故かわなわなと体を震わせ始めた。

「この……が売女が!」

「若様、お気をお鎮めになって下さいな」

 クリスティはそんな悪口は気にもとめない風で男に歩み寄る。

「お前、今日はエルノンのとこの野郎と一緒だったんじゃないのかよ?」

「ええ。そうでしたけど、代わって頂いたんですよ? 古いお友達が遠くから来てくれたんで、カトレア姉様にお願いしてマニール様にもご了解を頂いて……」

 そこまで話してクリスティははっとした顔で男を見る。

「それじゃ若様、また入れ替わられたのですか?」

「だから何だ? 俺はお前に会いたいから来てやってるんだぞ?」

 クリスティはちょっとため息をついた。

「でも若様、そのような事はやっぱりお控えになった方が……」

「やかましい! 俺に指図するつもりか?」

 男はいきなりクリスティを張り倒した―――すると彼女は数メートルも吹っ飛んで壁に激突してぐったりしてしまったのだ。

《え? なに? これ?》

 あの男はそんなに力が強いのだろうか?

 いや、あれは力が強い人に殴られたときの飛び方ではない。ということは―――彼は魔導師なのだ!

「クリスティ!」

 アウラがそう叫ぶなり彼女の側に駆け寄った。

 クリスティが身じろぎする。死んではいないようだが、大丈夫なのだろうか?

 それを確認した途端にアウラがふらっと立ち上がった。

 表情が一変している。あれは……

「何すんのよ?」

 アウラが男達の前に立ちふさがった。

 それから呆然と見ていたメイとリモンに目配せする。

 そうだ。こういったときはともかく王女様達をお守りしなければ!

 二人は慌てて王女と大皇后の前に立った。

 リモンは護身用に持ってきた薙刀を取り出している。こういう場所で邪魔にならないように折りたたみ式になっているものだが―――あれからガルサ・ブランカの職人の努力の結果、見事にそんな薙刀の柄が完成していたのだ。

 メイはそんな物を持っていなかったので、仕方なくテーブルの上のフォークを手にする。

 クリスティを吹っ飛ばした男はそれまで少し呆然としていたが、アウラ達のそんな様子を見ると鼻で笑った。

「何だ? やる気か? この田舎芸者が……」

 だがそこまでだった。

 そのときにはアウラの隠し持っていた短刀の柄が、男の鼻っ柱に深々とめり込んでいたからだ。

「ふがっ!」

 男は吹っ飛んだ。

 そうそう。殴られて吹っ飛ぶときにはこんな感じになるものだ。

「ああ?」

 残りの二人は一瞬呆然としていたが、尻餅をついた彼らのボスの鼻から鮮血が吹き出しているのを見ると、激昂してアウラに何か魔法をかけようとした。

 だが彼らも同様な運命をたどった。

 次の瞬間、男の一人はアウラに襲いかかられて、短刀の柄でこめかみをぶん殴られていた。

 男は顔を押さえてよろめくとロッジの手すりを超えて下の平土間に落ちていった。

 下層の方から悲鳴とどよめき声が上がる。

「てめえ!」

 残った男がファイヤーボールの魔法を使った。

 だがそのときには男の前方には誰もおらず、壁に黒こげができただけで……


「ギャアアアアッ!」


 次の瞬間、凄まじい悲鳴とともにその男は耳を押さえてうずくまった。

「あんだ?」

 尻餅をついていた“若様”が真っ赤になって何か言おうとしたが、その前にアウラが何かを放り出す。

 男はそれを見て絶句する―――それは切り落とされた耳だったからだ。

 そして男の鼻の下に血に染まった短刀の刃がぴたりと当てられていた。

「なによ?」

 アウラが冷たい目で男を睨む。

「はの、はの……」

 男はもう涙目でろれつも回っていない。

 後ろで耳をそがれた男が何かしようとしたが―――その男を睨んでアウラが言った。

「こいつの鼻があるうちに消えなさいよ!」

 男は一瞬躊躇したが、アウラの目を見て彼女が本気だということに気づいたのだろう。

 次いで間抜けな声をあげると一人逃げ出した。

「おひ!」

「あんたもよ!」

 アウラはそう言って若様の顔面にもう一発蹴りを見舞う。

 男はもんどり打って転がると床を這いずりながら扉の方へ向かう。

「ちょっと!」

「へ?」

「これ持ってってやんなさいよ?」

 アウラは男に切り落とされた耳を渡した。

「ひぇぇぇ」

 男はよく分からない叫びを上げながら、今度は脱兎のごとく部屋から出て行った。

 一同は呆然としてその一部始終を眺めていた。

「クリスティは大丈夫?」

 アウラが彼女の介抱をしていたパミーナに言った。

「ええ、大丈夫みたいです」

「良かった……」

 それから彼女は下の方で騒ぎが起こっていることに気づくと、ロッジの窓のところまで行って下を眺める。

「あいつ、死んだかな?」

 メイとリモンが慌てて下を覗く。先程落ちた男が大の字になっているのが見えるが……

「大丈夫じゃないですか?」

 リモンが答える。どうやらぴくぴく動いているようなので……

「あ、そう」

 アウラは平然としている。こういう所はすごいとしか言いようがないのだが……

 それより彼女は今の騒ぎよりもリモンが取り出した薙刀の方に興味があるようだった。

「ねえ、それなに? 見せて!」

「え? はい……」

 リモンがアウラに折りたたみ式の薙刀を渡す。

「わあ! すごいわね。これ。便利ね。どうしてもっと早く見せてくれないのよ?」

「だってその……」

 来てからずっと何だかんだ忙しくてそんな暇はなかった。

「どうやるのかな? 組み立てるの……」

「そこを合わせて半回転させるだけです」

 アウラが言われたとおりにすると、カチリと柄がつながった。

「あ、これ何かきもちいい!」

 それを見ていたエルミーラ王女が呆れたように言った。

「アウラ!」

「あ、ごめん……」

「騒ぎになってしまいましたね……クリスティさんは動けますか?」

 言ったのは大皇后だ。

「まだ目の焦点が合ってないんで、もうちょっと寝かせておいてあげた方が」

 パミーナがクリスティをハンカチで扇ぎながら答える。

「そうですか……ともかく彼女が気づいたら引き上げるしかありませんね」

「そうですわね……」

 王女も残念そうにうなずいた。

「じゃあパミーナ。ハグリに伝えてきて。帰らなければならなくなったって」

「えっと彼女は……」

 パミーナが倒れているクリスティを心配そうに見る。そこでメイが名乗り出た。

「あ、私がやります」

「じゃ、お願いね」

 そう言ってパミーナは御者のハグリに言づてを伝えるためにロッジから出て行った。

 クリスティを介抱しながらメイは呆然としていた。

《なんなの? これ……》

 結局また続きは見られないのか?

 もしかしてメイにはレイシアンの歌の続きを見られない呪いか何かがかかっているのか?

 とはいってもこれでは劇そのものが中止だろうし、どうしようもないのも確かだが……

 それにしても元をただせばあいつらのせいとはいえ、こんな騒ぎの元凶になってしまって大人しく帰れるのだろうか?

 壁は焦げてるし、絨毯に血の染みは付いてるし……

《あは、高そうよね、これ……》

 多分彼女たちに請求が来たりはしないだろうが―――そう思ったときだ。入り口から誰かが入ってきたのだ。

《あー、やっぱり?》

 劇場の支配人が怒鳴り込んで来たに違いない!

 ―――ところがよく見ると、入ってきたのは今し方出て行ったばかりのパミーナだった。

 しかも何故か後ろ向きなのだが?

「あの、おやめになって下さい!」

 パミーナが後ずさりしながら誰かに言っている。一体誰だ?


「あーん? そういうわけにはいかないのよ? お嬢ちゃ~ん。ちょーっとどいててね?」


 そんな声と共にいきなりパミーナが浮き上がる。

 彼女が慌ててじたばたし始めるが……

「だーめよ! 暴れちゃ。怪我するからね~!」

 パミーナはそのまま部屋の端まで浮遊していくと、すとんと空いた椅子の上に落ちた。

 部屋の入り口に立っていたのは、四十過ぎぐらいの女性だった。



《ああっ⁉》

 その女性が魔導師のローブを着ているところを見なくとも、魔法使いだということは明白だ。

 だがその彼女もすごく酒に酔っているようで顔が真っ赤だ。

 小じわからその年齢は隠しおおせないとはいえ、その表情は若々しい―――というか、何だか子供じみたところがある。

「ファシアーナ様!」

 パミーナが哀願するように言うが、ファシアーナと呼ばれた女性はそれを無視して部屋の中をじろっと見回した。

 それからちょっと首をかしげると部屋の外に向かって怒鳴った。

「おい! どいつだ? そんな奴いないだろ?」

 それを聞いて戸口に現れたのは先程の二人だ。

 二人とも赤くなったハンカチを鼻と耳に当てている。

「あの、彼女です……」

 そういって“若様”の方がアウラを指さした。

 アウラはそれ聞いてファシアーナの顔をきっと睨んだ。

 だが彼女は目をしょぼつかせてアウラを見ると、若様の方を向いて言った。

「このお嬢さんが? あんたら三人を? バカお言いじゃないよ?」

「本当なんですよ」

 若様が哀願するように言う。

 ファシアーナは再びじーっとアウラの顔を見る。

 それからその向こうで倒れているクリスティを見つけた。

「彼女はどうしたのよ?」

「え? あ、その……」

 若様は口ごもった。それを見てアウラがファシアーナに言った。

「そいつにやられたのよ! あんたもそいつの仲間?」

 思いもかけない言葉付きにファシアーナはびっくりしてアウラの顔を見た。

 それから彼女はまたクリスティと若様の顔を交互に見る。

 それから段々と目が据わってきた。

 それに比例して若様の顔から血の気が引いていくのが分かる。

「う、嘘だ! ファシアーナ様、そんなどこの馬の骨ともつかない奴の言葉を信じられるのですか?」

 男が引きつったように叫ぶ。

《うわあ……》

 ダメっぽい奴だと思っていたが、ここまでとは―――だがこの男、社会的地位はありそうだし、この女性が言いくるめられてしまう可能性も?

 メイがそう思ったときだ。


「それならば私がそうだと言えばいかがです?」


 途端にファシアーナはきょろきょろと辺りを見回し、その言葉を発したのが正面にいた美男子だと気づいて目を見張った。

 それからあっという顔になると言った。

「メルファラ様? 何でまたそんなご格好を?」

「へ?」

 横の若様があんぐりと口をあける。

 そんな姿は無視して大皇后はファシアーナに言った。

「まあ少々ございまして……一部始終は私が見ておりましたが、私の証言では不服でしょうか?」

「いえ、ですが一体何が起こったんで?」

「私達がこうして劇を見ていると、いきなり彼らがやってきて、何だか『代われ』とおっしゃるのですよ。そこでクリスティさんがなだめに入ったのですが、いきなり暴力を奮われて……それでアウラがちょっと懲らしめたんですが、少なくとも先に手を出されたのはそちらの御方々ですわ」

 ファシアーナは黙って聞いていたが、やがてうつむくと低い声で笑い始めた。

 それから振り返ると男達をすさまじい形相で睨んだ。

「あーんーたー、よーくーもーあたしに恥を掻かせたわね?」

「いえ、だからその、最初から誤解だと……」

「何が誤解かなぁ?」

 途端に御曹司はふっと浮き上がると壁に大の字になって張り付いた。

「ぬぅふぇー!」

 男が訳の分からない叫びを上げる。

 その前にファシアーナは腕組みをして立ちふさがる。

「さっきあんたは言ったわよねぇ? ちょっと部屋を間違えたらいきなり襲われたとか何とか?」

「いえ、その、あの……」

「今のじゃなに? あんたがここに押し入ったんじゃないのよ? 違うの?」

「いえ、そんなつもりではなくて……」

「そんなつもりじゃないなら、どうしてそんなことをしたのよ? メルファラ様を襲おうとしてたわけ?」

「め、滅相もございません。大皇后様とは存じ上げませんで……」

「ああ? じゃあ一体何しに来たってのよ!」

 途端に男の周囲が何か歪んだようになった。

「あがががが!」

 御曹司は悲鳴を上げて白目をむいてしまった。

「ああ? なんなの? こいつ……」

 ファシアーナは頭を掻くと今度はもう一人の耳をそがれた男を睨んだ。

 男は身がすくんで動けないようだ。

「で、何であんたらはここに来たのよ?」

「いえ、ですから、ちょっとクリスティの客と代わってもらおうとしてただけで……」

「はあ? 代わってもらうってなによ?」

「ですからその、ちょっと彼女にこちらに来てもらえればと、その……」

 ファシアーナは眉を顰めて、倒れているクリスティを見た。

「じゃあ彼女が来なかったから殺したわけ?」

「こっ、殺してません!」

 男は真っ青になって手を振った。

「だって彼女……」

 そこでメイが恐る恐る言った。

「あの、死んでません。気絶してるだけで」

 ファシアーナはじろっとメイを睨む。

《ひえええええっ!》

 その視線にメイまで気絶しそうだ。

 だが彼女はすぐにまた男の方を向いた。

「ん? あ、そう。でも殺そうとしたんでしょ?」

「違います。ちょっと口論になって、その弾みで……」

「んー……よく分からないなあ」

 彼女も酒のせいであまり頭が回っていないようにも見えるが……

「あの、ほんのちょっとした手違いで、その……」

「んー……まあともかく彼女を横取りしようとしてたわけね?」

「いえ、えっと、そういうわけではなくて、ちょっと代わってもらおうかと……」

「代わってもらうって、何を代わってもらうってのよ? ええ? 訳わかんないわよ!」

 ファシアーナが男ににじり寄った。

「ひぇぇぇ」

 その男も訳の分からない叫びをあげる。

「あんたねえ、ちゃんと喋りなさいよ! じゃないと脳みそ引きずり出すわよ?」

「そ、それだけはご勘弁を……」

「で、それでどうして殺したのよ?」

「はい?」

「代わってもらえないからって殺したわけ?」

「ですから殺してません!」

「あ、そうそう。死んでなかったってね」

 何か話がループしているが―――この人もあまり大丈夫じゃないかもしれない……

 ファシアーナは考え込んだ。

 それから男をぎろっと睨むと、ふっと手を振った。

 途端に男は壁に張り付いている若様の横に同じく大の字になって叩きつけられた。何だかごきっといった音がしたような気もするが……

 次いでふっと鼻を鳴らすと二人はボロ雑巾のように床に倒れ伏した。ぴくりともしない。こっちの方がもっと死んでるんじゃないのか?―――などとは怖すぎて突っ込めない。

 それから彼女が入り口の方を睨むと、扉がばたんと開いた。

 その向こうで立ち聞きしていた野次馬が慌てて散っていくと、一人身なりの良い紳士が残ったが―――明らかに怯えている。

 男に向かってファシアーナが言った。

「んー、支配人?」

「は、はい、そうでございますが……これは一体……」

「こいつらがね、この方達を襲おうとしたのよ。袋にでもつめて塔に送っといて。あたし知ってるわよね?」

「え、もちろんです。ファシアーナ様。かしこまりました」

 支配人は慌てて出て行くと、すぐに数名のボーイを連れてきて、倒れている男達を運び出していった。

 メイ達一行はその一部始終を呆然として見ていたが、運ばれていく二人を見てともかくこれで騒ぎは一件落着だ―――と、誰もがそう思っていた。

 ところがそうは問屋が卸さなかった。

 ファシアーナは今度は赤い顔をアウラに向けると言ったのだ。


「で、そうか~。あんたがそのベラから来たお姫様なんだ?」


「だったらどうだってのよ?」

 アウラが彼女の顔を睨み返す。

「あんた、都の魔導師は使い物にならないって言ったって?」

「え?」

 ちょっと待て! 彼女はそんなことを言ったのか?

「あまりねえ、都でベラの連中にでかい顔してもらっちゃ困るのよねぇ」

「ちょっと! シアナ!」

 事に気づいて大皇后が止めに入る。

 だがファシアーナは意に介さない。

「メルファラ様は下がってて下さいな。この小娘にちょっとお灸を据えてやっとかないとね……」

 そう言ってファシアーナはアウラに向かって手を差し伸べようとした。

 だがそのときにはアウラはそこにはいなかった。

「やめてよ」

 アウラがファシアーナの耳元でささやく。

 何と彼女の喉元に抜き放たれた短刀がぴたりと当てられている。

「別にあんたと戦いたくないし」

 ファシアーナは一瞬面食らった顔になった。

 だがにたっと笑ったと思うと―――短刀の刃がパキンと音を立てて折れてしまったのだ。

「え?」

 そう言った瞬間にはアウラは壁に叩きつけられていた。

 だが彼女はうまく身をひねって受け身を取ったので、さっきの男達のような目には会わなかったが、ダメージはかなりあったようで歯を食いしばっている。

 彼女は立ち上がると折れた短刀を見つめてうなった。

「これ……ファラにもらったのに……」

 アウラはすごい形相でファシアーナを睨んだ。

「謝まんなさいよ!」

「はあ?」

「だから謝れって言ってるのよ!」

「どうしてあたしが?」

 アウラの口元に妙な笑みが浮かんだ。

 それから急に振り返るとリモンに向かって手を差しのばして命じた。

「それ!」

「あ、はい……」

 リモンは反射的に手にしていた薙刀をアウラに投げ渡した。先ほど組み立ててそのまま置いていたものだ。

 アウラはそれをぶるんぶるんと振り回した。この場所はそういった立ち回りをするには結構狭くて障害物も多いのに、全く気にする様子はない。

 その姿を見てファシアーナがにやっと笑う。

「そんなもんでどうしようって? あたしを斬ろうとでも?」

「そうよ」

 アウラは全く動じる気配がない。

「そんなものあれと同じにしてやるわよ?」

「やってみたら?」

 それを聞いてさすがにファシアーナも息を呑んだ。

 アウラが氷のような目で彼女を見据えている。

 これ以上ないくらいに彼女は本気だ。

 ファシアーナがぴくりとでも動こうとしたら真っ二つにしようとしているのだ!

「ちょっと! アウラ!」

 エルミーラ王女の声も何も聞こえていない。

 ここまで集中しているアウラを見るのは初めてだ。

「あの、メルファラ様、これは……」

 王女がおろおろした様子で大皇后に尋ねる。だが彼女も首を振る。

「どうしましょう。シアナがああなったら……」

 大皇后はもっとおろおろした様子だ。

《ちょっと待って? この状況って?》

 メイは背筋が寒くなってきた。

 要するにこれはベラ王族の姫と都の大魔導師が喧嘩しているということで、しかも二人ともぶち切れていて、どちらかが血を見ない収まらない状況で―――ということは……


《どっちが勝っても戦争なのかーっ?》


 メイが恐る恐るエルミーラ王女の顔を見ると、彼女も引きつった笑いを浮かべながら硬直している。

《あはははは!》

 一体どうすればいいのだ? とにかく二人を止めなければ……

 でもどうやって?

 止めるとすればとりあえずあの間に割って入るしかなさそうだが……

《嘘でしょ?》

 そんな所に行ったら間違いなく死ぬ! 真っ二つの黒こげになって死ぬに決まっている!

 でもそうしないと都とベラが戦争になってしまって、もっと多くの人たちが死ぬかもしれないのだが……

 などと考えても怖い物は怖い! まだ死にたくない!

 でもどうにかしなければ……

 どうすればいいって―――どうもこうもない! こうなったらやっぱり……

 メイは目を閉じて大きく息を吸うと、思い切って飛び出そうとした。

 ところが―――その途端に後ろからぎゅっと引き戻されたのだ。

 驚いて振り向くがそこには誰もいない。

 同時にガシャーンと大きな音がして、テーブルの上に乗っていた食器や皿が吹っ飛ぶのが見えた。

 次いでテーブルクロスが二枚浮かび上がったかと思うと、一瞬にしてアウラとファシアーナの頭に生き物のように巻き付いたのだ。

「ああ?」

「ふわああ?」

 二人が面食らった叫びを上げる。

 そこに後方から凛とした声が響き渡った。


「何してるんですか? 二人とも!」


 後方? 後方って、そっちは舞台に面した空間なのだが……

 振り返ると手すりの向こうに蒼いドレスを纏った、こちらも四十歳くらいの女性が浮かんでいるのが見えた。