第4章 レディーズ・イン・ザ・ホットウォーター
四人はふわっと浮き上がると再び真っ暗な空を飛び始めた。
「お風呂って、あのお屋敷の中ですか?」
メイがニフレディルに尋ねる。
何だか数十年は人が入ってなさそうな所なのだが?
「いいえ、あっちの方よ」
ニフレディルは屋敷の背後の山腹を指さした。
メイは目をこらしてよく見たが、暗くて何も見えない。
だが一行が近づいていくと月明かりに、山の中腹に開いた洞穴から小川が流れ出しているのが見えてきた。
と、そこにぽっと明かりが灯る。
「シアナ達が着いたみたいね」
メイ達が到着した場所はその洞窟からちょっと離れたところにある、テラス状の小さな広場だ。
そこにはちょっとした東屋がしつらえてあって、側の灯明に火が灯っている。
「食べ物はそこに置いておいて」
「あ、はい」
確かにこの東屋で景色を見ながらお酒を飲むと気持ちよさそうだ。
四人が降りて荷物を置くと、ニフレディルが先行して歩き出した。
彼女がテラスの脇にある大きな岩の下を回り込むと、その先にはちょっとしたプールのような水たまりが広がっていた。どうやら川をせき止めて作ったものらしい。
少し離れた右手に王女一行が固まって立っている。
「おお、来たな」
見るとプールの向こうでファシアーナが空を飛びながら、周囲の燭台に火を付けて回っていた。
メイは目の前に広がるプールを見た。
確かにこの広さなら全員が入って泳ぎ回れるが―――でもこれってどう見ても水なのだが?
だが心配は全くいらなかった。
明かりを付け終わったファシアーナが岸辺に立つと一同を見回しながら言った。
「じゃ、いくよ。ちょっと下がってて」
彼女は両手を前に出すと精神集中する。途端に水面から湯気が立ち上ってきた。
大皇后がしゃがんで手を浸ける。
「ちょっと熱くありませんか?」
「あ、どうしても温度むらができるんでね。これから混ぜるから」
そう言うと今度はいきなりプールのお湯が渦を巻き始めた。
しばらくしてそれが止まるとファシアーナが言った。
「そろそろいいよ」
一同は一瞬顔を見合わせた。何というか今までのお風呂の常識とはかなり違っている物だったから……
「ん? どうしたんだ?」
「それじゃ、お言葉に甘えて~」
そう言って服を脱ぎ始めたのはクリスティだ。
「じゃ、あたしも~」
アウラがそれに続く。
それをきっかけに一同がばらばらと服を脱いではお風呂に浸かり始めた。
こうなったらもう四の五言っても始まらない。メイも服を脱ぐと中に入った。
《うわー!》
これは気持ちいい!
メイは空を見上げた。
満点の星空に天の川が流れている。月が山の端から昇ったばっかりだ。
下を見ると銀の湖の暗い水面の彼方に、ぼうっと都の夜景が見える。
こんな景色を見ながらお風呂に入れるなんて……
「どうだ? いいだろ?」
ファシアーナが横にいたアウラに言うと……
「うん。すごい!」
アウラも目を丸くして答えた。
彼女達も仲直りできたみたいだし、何はともあれ一安心だ。
《ほえー……》
温かいお湯に浸かっていると、何はなくともほっとする。
それからメイは見るともなしにあたりを見回した。
当然目に入ってくるのはいろんな人達の裸身なのだが―――それにしてもみんな見事なお体ばっかりで……
エルミーラ王女とアウラについては、仕事柄一緒に入ることも多かったので見慣れているが―――この二人はどこに出しても恥ずかしくない王女と姫であることは折り紙付きだ。
ただし王女に関しては最近やや運動不足ぎみでお腹のお肉がちょっとだぶつき気味というのは国家機密だが……
アウラは相変わらずすらっとしなやかに引き締まった体つきで、その滑らかな動きはちょっと人間離れしている。ここでも他の人たちが滑って転びそうで怖々と歩いているようなところを、一人するすると行ってしまうのだ。
それに対して大皇后とクリスティの裸身を見たのは当然初めてなのだが―――いや二人とも見事と言うしかない。
スタイルや胸の大きさで言えばほとんど差がないように見えるが、二人から受ける感じは随分違っている。
クリスティの方はそのきめ細かな肌やふわっとした髪の毛がとっても女性的だ。
大皇后の方はショートカットだし、こうやって見ると結構肩幅があって骨組みもしっかりしていて、男装が似合っていたのもちょっと納得がいく。
どちらに抱きつきたいかと訊かれたらクリスティで、どちらに抱きしめてもらいたいかと言われたら大皇后でって感じで―――って何を考えているのだ? 大皇后とバーボ・レアルのプリマを比べたりして……
でも目の前に並ばれている以上、仕方がないし……
ともかく二人合わせると一幅の絵といった光景だ。
《ファシアーナ様とかニフレディル様っていったいお幾つなのかしら?》
別の意味ですごいのがこの二人だった。
二人とも四十を超えているように思うのだが、こうやって見ると三十代前半か、頑張れば二十代にも見える。
メイのお母さんとかはそのくらいの歳になると胸が垂れてしまっていたのだが、この二人は残りのメンバーに交じっても全く遜色がないところがすごいが……
でもともかくこうして温もっていると、目の前に素晴らしい裸身を見せている人々が大皇后だったり、フォレスの王女だったり、都随一の郭のプリマドンナだったり、なく子も黙る大魔導師のお二人だったり、一応ベラフェレントム一族のお姫様だったりとかいったことはもうどうでもいい気分になってくる。
《生まれた姿はみんな一緒だし~》
それは王女が常々言っていることだが―――でも胸の大きさとかは……
《確かに生まれたときは一緒くらいだったんだろうけど……》
―――メイがそんなことを心中ぶつぶつとつぶやいていると、アウラが湯から上がってプールの岸辺に座った。
「ああ、気持ちいい風!」
それを見たクリスティが言った。
「アウラちゃん、お腹、きれいに引っ込んだのね」
彼女はすっとアウラの足下に近づくとアウラのお腹を撫でた。
「うん。坊やが入ってたなんて嘘みたい」
「それにしてもびっくりしたわ。カリエーラ通りでぱったり会ったときは。都で会えるなんて思ってなかったし。おまけにお腹はまんまるだし」
「うん」
アウラが恥ずかしそうにうなずく。
「アウラちゃんがママになるなんて、泣く娘が一杯いるわよ。シャノンとかエステアとか、旦那さん隠しとかないとね~」
「そんな……」
アウラがちょっと赤くなる。
そこにファシアーナが話に入ってきた。
「アウラちゃんとクリスティってどんな知り合いだったんだ?」
クリスティが答える。
「ああ、あたしね、前はグリシーナにあるヴィニエーラというところにいたんだけど、そこで彼女が夜番をやってたの。そこで彼女はみんなに大人気で」
「大人気って、そんな……」
アウラは恥ずかしそうだが……
「えっ⁉ どんな風に?」
ファシアーナは興味津々だ。
「それはもう。ほら、その傷」
クリスティがアウラの胸に斜めに付けられた大きな傷跡を指した。
「え? ああ。すごい傷だよな。それが?」
さすがの彼女もその傷の事をずけずけと訊くことはしていなかった。
「郭ってもちろん楽しいことばっかりじゃないから。本当に辛かったとき、アウラちゃんが慰めてくれるの」
「ちょっと、クリスティ!」
「ええ? いいじゃない。素敵だったんだし」
「だって……」
アウラはそう言って再び風呂に入るとクリスティをどこかに引っ張って行こうとした。
だがそこにエルミーラ王女が割って入った。
「そうよ。私もそのことあまり聞いてなかったわ。私が許しますからお話しして。クリスティ」
「ミーラったら! ちょっと!」
「だめよ!」
そう言って王女はアウラをぎゅっと抱きすくめた。
「ちょっと、ミーラったら!」
アウラがちょっともがくが彼女は放さない。
その間にクリスティがにっこりと笑いながら話し始めた。
「例えばねえ、いろいろ辛いことがあったとき、気がつくとアウラちゃんが側にいるのよ。そして話を聞いてくれるの」
「あれはタンディとかが言ってくるから……」
クリスティは取りあわずに話を続ける。
「それからねえ、今日はゆっくり休みましょう。私も一緒にいてあげるからって」
「きゃああ。かっこいい!」
エルミーラ王女が黄色い声をあげる。
「ミーラったら!」
「そして気がついたらお風呂で二人っきりなの。そしてね、こんな感じで……」
そう言うとクリスティはファシアーナの前で跪くと、彼女の首にそっと両手をかけて自分の胸に少し引き寄せる。
「あなたの体は綺麗だから。それに壊れてもないし……」
ファシアーナが驚いてクリスティの顔を見上げる。
クリスティが微笑んだ。
「そうなのよ。みんな驚いちゃうの。そんなことないって言おうと思うんだけど、でもその目の前にあの傷があるとね、もうどんな殺し文句よりもずっとどきどきしちゃって、もうどうしていいのか分からなくなって……」
それからクリスティは今度はファシアーナの横に座ると、彼女の胸に指を這わせた。
「するとね。大丈夫。あなたは女の子だから。辛いこともあるけど、楽しいこともあるから……っていいながらね」
「うわ!」
ファシアーナがびくっとして体を離した。
「まあ、私そんなことしてもらったことがありませんわ」
王女がにやにやしながら言う。
「だからミーラったら!」
「もうみんなその時点でもうメロメロで、その後はもう……」
「もう?」
ファシアーナが続きを促す。
「そんなこと……私の口から言わせるんですか?」
クリスティは少々わざとらしく目をそらす。
「おいおい」
「クリスティったら!」
アウラが真っ赤だ。
「でもアウラ、壊れてるって?」
口を挟んだのは大皇后だ。それに対してエルミーラ王女が答えた。
「彼女、こっちに来たときは不感症だったんですよ」
「え?」
「でもいろいろあって今では大丈夫だけど」
それを聞いてクリスティが言った。
「そうそう。だからお礼をしなきゃって思ってたのよ~」
クリスティがとろんとした表情でアウラににじり寄る。
「ちょっと、何を……」
その口をクリスティはいきなり彼女の唇で塞ぐ。
それからアウラをぎゅっと抱きしめると、彼女の体をまさぐり始めた。
「んー!」
アウラはそう言いながら彼女の体を押し放した。唇が離れると二人の舌が絡んでいたのが見えた。
「だから、どこ触ってるのよ……」
「あなたの体も綺麗なのよ。その傷も含めて、みんな大好きだったんだから」
そう言ってクリスティは再びアウラを抱きしめた。
「みんなが見てるって!」
「いいの!」
「だから……ああっ!」
アウラが呻いた。
「やだ! そこって……」
「うふ! アウラちゃんのそんな声、初めて聞いたわ♪」
何だかクリスティはすごく嬉しそうだ。
「やだ、だから、そこは……」
思わずそう言ってからアウラはちょっとクリスティを睨むと、急に彼女をぎゅっと抱きしめ返した。クリスティが驚いてふり返ると、いきなりアウラがその唇を奪った。
「ん! ん……」
今度呻いたのはクリスティの方だ。
それに構わずアウラは今度は彼女の胸に唇を這わせながら、彼女のお尻の方に手を伸ばす。
途端にクリスティはあっと叫んでびくっとのけぞると、くたっとなってしまった。
「相変わらずそこが弱いんだから……」
そこまで言ってアウラは慌てたように振り返った。
もちろん王女や大皇后達が目を丸くして眺めている。アウラは途端に体中真っ赤になった。
「彼女大丈夫か?」
ファシアーナが驚いて近づくと、クリスティが薄目を開けてふうっと息をついた。
「大丈夫ですぅ。こんな感じでみんな……ファシアーナ様もいかがですか?」
「え? ちょっと、その……」
ファシアーナが慌てたように半歩ほど下がる。
その様子をみて大皇后が笑った。
「まあ! シアナを怯ませるなんて、何て恐ろしい御方ですこと!」
「怯んでなんかないよ? でもね……その……」
そこに今度はクリスティがくっついてきた。
「アウラちゃんがだめなら私はどうですか?」
「え?」
クリスティがファシアーナに抱きついて胸にほおずりをしている。
それを見てファシアーナがちょっと目を見開くと、驚いたように彼女を見つめた。
「おい、ちょっと……」
「ファシアーナ様が私を助けて下さったんでしょ? だからお礼がしたいんです。でもあたし、他には何もできなくて……」
「助けたって、お前さっきの話を……」
ファシアーナがばつが悪そうに言う。
実際助けたというか、もっと話をこじれされた張本人なのだが―――ファシアーナはそこで言葉を止めると、じっとクリスティの顔を見た。
「おい、いいのか?」
「ファシアーナ様……」
クリスティがとろんとした表情で見つめている。
「だめだって、こんなとこでさ」
彼女はそう言って少し躊躇したが、やがて振り返るとにっと笑った。
「んじゃ、まあ、ちょっと」
そう言うと彼女はいきなりクリスティをお姫様だっこすると、ふわっと飛び上がった。
「やん!」
「あっちにいいとこがあるんだ」
そう言って二人は洞窟の奥の方に消えてしまった。
王女と大皇后、それにアウラはぽかんとしてそれを見送った。
それから三人で顔を見合わせると、恥ずかしそうに目をそらす。
「シアナ、どうしたんでしょう?」
大皇后がぼそっと言うと、アウラが答えた。
「クリスティって、前から魔法使い好きだからね」
それを聞いて王女がうなずいた。
「ああ、それで……」
それを聞いた大皇后が少し不思議そうな顔で尋ねる。
「魔法使いだと何か特別なことが?」
答えたのはアウラだ。
「うん。いろいろあるみたい。例えばこう、宙に浮かされた状態で、とか……」
それを聞いて大皇后が赤くなった。
それに気がついてアウラも慌てて口を閉ざす。
三人はまたちょっと沈黙して目をそらし合う。
やがてその間を破るように王女がアウラに尋ねた。
「あなた、おっぱいちょっと大きくなった?」
「うん。ちょっと。でもあまりよくお乳が出ないの。乳母さんに来てもらってるからいいけど」
「人によるから……」
アウラは王女の胸を見ながら言った。
「ミーラみたいに大きければ一杯出るのかな?」
だがちょっと王女は浮かない顔になった。
「私は……ずっとディーンの側にはいられないし……」
「あ、そうなんだ……女王様になるともっと大変だね」
「そうね……」
実際それはメイの目から見てもちょっと可哀想だ。王女は最近公務が忙しくて、ほとんど王子と一緒にいる時間が取れないのだ。
それを見て大皇后が尋ねた。
「エルミーラ様の王子様はいつお生まれに?」
「去年の夏ですから、もうすぐ満一歳ですわ」
「これから可愛くなりますわね」
「ええ。でも帰るまでに忘れられてないといいですけど……」
エルミーラ王女が嬉しそうに笑う。
それを聞いた大皇后がふっとため息をついたのに気づいて、慌てて王女がフォローした。
「メルファラ様だって、大皇様はご健在ですし、大丈夫ですよ」
アウラもそれに合わせる。
「そうそう。すごく優しそうな人だったじゃない」
「ええ、まあ……」
大皇后は生まれる前に子供を亡くしてしまったのだ。あまり子供の話で盛り上がるのは辛いだろう。
でもまだ大皇も大皇后も若いのだからこの先がいくらでもある、そういうつもりだったのだろうが―――なぜか大皇后はますます浮かない顔になる。
王女とアウラは少し首をかしげた。
そこで王女が言った。
「メルファラ様はすごく綺麗なお体ですわね」
「え?」
「三人の中で一番大きいしね」
アウラがニコニコしながら続ける。
「そんな……」
大皇后がちょっとはにかむ。
「男の人ってやっぱり大きい方がいいって言いますわよね?」
そんな様子を見ながら王女が言うが……
「え? 感度がいい方がって人もいるけど」
そう答えたアウラに王女はにやっと笑いかける。
「それを言ったのは誰です? フィン?」
アウラがまた赤くなる。そんなアウラの乳首を王女が軽くつねった。
「やん! 何するのよ! ミーラ!」
「フォレスに最初に来たときは全然感じなかったのに。やっぱり一杯触ってもらうといいのかしら?」
「そんなことないって! ミーラはどうなのよ!」
「ルース? あの人はもうちょっと落ち着いてくれた方が。猪突猛進なだけでは……でもそういうところが可愛いんだけど……」
アウラも大皇后も返す言葉がない。
放っておくと延々とのろけ始めるのでアウラが大皇后に向かって言った。
「ファラは? 大皇様って優しい?」
「え? いえ……」
大皇后は不自然に目をそらした。
それを見て二人も少し変だと思ったようだ。
再び顔を見合わせると、王女が彼女に尋ねた。
「ごめんなさい。もしかしてお気に障りました?」
それを聞いて大皇后は首を振った。
「いえ、お気になさらずに。こちらのことですから……まあ、夫とはしばらく、その、床を共にしておりませんので……」
………………
「まあ、それは、ええっと……」
王女は絶句した。
「お構いなさらずに。私が悪いのですから」
「メルファラ様?」
「あの子が生まれてさえいたら……」
そう言って大皇后はうつむいてしまった。
王女とアウラは再び顔を見合わせる。
―――そのとき洞窟の奥の方からクリスティの悲鳴のような声が聞こえた。
王女と大皇后は驚いてその方を見るが―――アウラが平然と答えた。
「あ、大丈夫。クリスティが逝っちゃってるだけだから」
「え? どうして?」
王女の問いにアウラが答えた。
「あの声はそうなのよ」
「声だけで分かるの?」
「うん」
あっさりと首肯するアウラに、大皇后と王女は納得したようなしないような顔でうなずいた。
それからまた大皇后がふうっとため息をついたときだった。
エルミーラ王女がすっと彼女の側に行くと、そっとその肩を抱いたのだ。
大皇后が驚いて王女を見た。
そんな彼女に王女が囁くように言った。
「もしお嫌でしたら、いつでも言って下さいね」
それから彼女の腰に手を回して、胸にほおずりをした。
「エルミーラ様!」
王女はちょっと体を離すと、大皇后を見据えて言った。
「寂しいときって、やっぱり誰かとこう、ぺたっとしてると、何となく気が紛れません? それが仮初めの人であっても……」
「え?」
大皇后は目を見開いてエルミーラ王女を見たが、もう彼女を押しのけようとはしなかった。
それを見て王女がアウラに目配せした。
アウラもうなずくと大皇后の反対側に寄り添った。
それからしばらく三人はその状態でぴったりと寄り添ってお湯に浸かっていた。
そのままずっとそうしているかと思ったときだ―――大皇后がうっと軽い声をあげた。
それを見て王女が何かを囁く。
大皇后は言われるままにといった様子で湯から上がると、岸辺の滑らかな石の上に寝そべった。
王女はプールの中から大皇后の胸に唇を這わせ始める。するとアウラがすっと湯から上がって大皇后の側に座ると彼女のお腹を撫で始める。
大皇后が断続的に呻きをあげ始める。
それに合わせるかのようにアウラの指の位置が段々下がっていって―――やがて彼女の秘所に触れると……
《ひええええぇぇぇぇぇ!》
いいいいいいのだろうか? ああああんなこと?
だってその、ほら、そうそう。相手は大皇后様だし、そんな失礼なことを……
《でもあの表情、何かとろんとして嬉しそうなんだけど……》
いや、だだだだだから……
そのときだ。メイの背中に誰かが触れた。
「ひゃああああ!」
メイが飛び上がって振り向くと、それは体中が真っ赤になったパミーナだった。
どうやら彼女もパニックになっていて、それでメイにぶつかってしまったと見える。
「えと、その……」
「いえ、すみません」
パミーナは慌ててお辞儀をするとメイから離れようと後ずさりしたが、今度はそこで固まっていたリモンに蹴躓いて転んでしまった。
派手な水音に王女達がこちらを向く。
「いえっ、そのっ、どぞっ! お気になさらずにっ!」
メイは慌てて立ち上がるとその場を逃げだした。
気づくと最初にやってきた東屋だが―――なぜかリモンとパミーナも一緒だ。
「はの……はの……」
パミーナが何か言おうとしているが言葉になっていない。
メイだって同じだ。実際こういったときには何と言ったらいいのだ?
「どうしたの? 三人とも?」
そんな所にまた声をかけられて三人は再び飛び上がった。
「濡れたまま立ってると風邪を引くわよ?」
見るとガウンを纏ったニフレディルが東屋の中でワイングラスを手にしていた。
「体くらい拭きなさいな」
そう言うとタオルが三枚飛んできて、メイ達の首に掛かった。
そのときやっと三人は素っ裸で水を滴らせていることに思い当たった。
メイ達は慌てて体を拭く。
「そこに着替えがあるわよ。こっちに来る?」
いいも悪いもない。
三人はガウンを纏うと、東屋のテーブルについた。
メイ達が互いに牽制して何もいわないので、ニフレディルがくすっと笑った。
「あなたたちも参加しないの?」
三人が同時にぶるぶると首を振るのを見てニフレディルはぷっと吹き出した。
「それじゃこっちで何か頂きましょうか。せっかくメイちゃんの作ってくれたお料理もあるし」
そう言うとニフレディルはワゴンボックスの蓋をあけて中の料理をテーブルに並べにかかった。
「あ……」
慌てて手伝おうとするメイに、ニフレディルは人差し指を立てて言った。
「気にしなくていいのよ。このくらいは」
それから三人分のグラスを用意すると言った。
「赤いのがいい? こっちの白いのがいい?」
「あ、赤いのでお願いします」
メイの返事に残りの二人もうなずいた。
ニフレディルは三人のグラスに赤ワインを注ぐ。
「それじゃちょっと乾杯しましょうか」
三人はニフレディルと乾杯すると言われるままにグラスを空けた。
ワインがお腹にしみるとちょっと正気に戻ったような気がするが―――いや、やっぱり変だ。体が妙に火照ってしまって、何だかむずむずするし……
それを見てニフレディルがにやにやしながら言う。
「みんな、ああいうのはもしかして初めて?」
「え?」
三人は顔を見合わせた。
いや、もちろん話には何度も聞いていたのだが、実際にその現場を見たのは初めてで……
と、そこにパミーナが尋ねた。
「リモンさん、婚約してたんじゃ?」
いや、この場合婚約とかは関係ないんじゃ? とメイは思ったのだが、リモンはぽっと赤くなると……
「彼としかしてません!」
思わずそう口走ってしまって―――今度は全身真っ赤になった。
ニフレディルがまた吹き出した。
「そうなの。じゃあメイちゃんは? 恋人はまだいないの?」
ぷはーっ!
「えええ? いませんよ! そんな……」
なんであたしに振ってくるかなっ!
そう! メイに恋人なんかいないし、かつて存在したこともないのだっ! あのリザ―――何とかいうのは、そんな記憶はございませんなわけでっ! メイのファーストキッスはあくまでペペちゃんに―――と、そこでニフレディルが不思議そうに尋ねた。
「どうして? あなたみたいな子なら、引く手あまたじゃないの?」
「どうして? って……」
いや、メイみたいな地味な娘がどうして引く手あまたなのだ?
言葉に詰まるメイにニフレディルが悪戯っぽく笑った。
「でもあの王女様のお世話じゃそんな暇ないかしらね?」
「そう。そうなんですよ!」
思わずそう答えてしまってから、メイは軽く引っかけられたことに気がついた。
「まあ、そうなの? 後でエルミーラ様に言いつけちゃおうかしら?」
「えええっ?」
「なんて……冗談よ」
メイは安心した。全く人が悪い……
だがそのときまたプールの方から大皇后の呻きが漏れてきた。
メイ達は顔を見合わせる。
「あの、その……」
パミーナが真っ赤になってメイに何か言おうとする。
言いたいことはよく分かる。
メイはともかくうなずいた。だがどうすればいいのだ?
フォレスでは王女の外泊についてはスケジュールの把握だけはしているが、基本的に王女の自主性に任せている。
でも今回は相手が相手だし……
だがそんな様子を見てニフレディルが言った。
「放っておいたらいいんじゃないかしら?」
「え?」
三人はぽかんとした顔で彼女を見つめる。
「彼女達だって子供じゃありませんから……それに、お久しぶりなんじゃないかしら? 大皇后様がこんなに楽しそうなのは?」
そう言ってニフレディルはパミーナを見た。
「え? まあ……」
パミーナはこくっとうなずいた。
何かいろいろ事情があるのだろうか?
だがそれでもやはり心配なのだが……
そんな不安を見透かしたようにニフレディルが言う。
「都じゃね、この程度の不倫ならどうということはないのですよ」
「え?」
不倫? 確かにそういう考え方もあるが……
「あなた達、私が真実審判師をやっているのをご存じ?」
「はい……」
そのことについては調査済みだ。彼女は都にいる真実審判師のナンバーワンと言っていい。
真実審判師とはかつてフレーノ卿事件のときに知り合ったグリムールもそうだったが、相手の心を読む力を持った魔導師だ。
彼らは主に裁判などで各種の証言の真偽を判定する役に就いているが、その力のせいで人々から畏れられているのが普通だ。メイもグリムールと出会う前までは、まさに雲の上の人だったのだが……
「だからどうしてもいろいろな人たちの秘密を知ってしまうことになるのね。もちろん具体的には言えないけど……でも不倫にしても、その組み合わせにしても、こんなことは日常茶飯事なのよ」
「はあ……」
そうなのか? だが彼女がそう言うのならそうなのだろう。
メイ達はうなずくしかなかった。
「それにエルミーラ様は素晴らしい御方だと思うし。王子様だったらってよく言われない?」
「え? それは……」
自分の大好きな主君が褒められるというのは結構気分のいいものだ。
「でも王女様でよかったわ。子供はできないし。大皇后様がフォレスの王子の子供を身ごもったとかになったら、それこそ世界的なスキャンダルだし」
「あははははは!」
ただでさえ頭が沸いてるのにこれ以上ややこしいことは考えたくない。
そこでメイは話を変えた。
「ニフレディル様はご結婚なされてるんですか?」
彼女はちょっと寂しそうな顔になった。
「いいえ。私もシアナも独身よ」
「あ、すみません」
「別に。いいのよ。もう。だってそうでしょ? 怖くない?」
怖くないとは―――彼女の事をか?
《えーっと……》
いや、確かに怖くないわけがない。
相手は都の大魔導師、世界トップクラスの魔女にして真実審判師なのだ。
だがメイは既に何人ものベラの大魔導師と個人的に話をしたことがあった。確かに彼らは並外れた力を持っていたが―――でもそれでもメイと同じ人間だ。
《この人も同じでしょ? きっと……》
だがまだそう確信できるほどのつきあいがあるわけでもなく―――メイは曖昧にうなずいた。
「時々ね、怖くないって頑張る人がいるのよ。でも体を触れあわせてみると……分かっちゃうのよね。その人の本心が……別に嘘付いたからどうこうってわけじゃないけれど、その人は私のことを思ってそう言ってるんだって分かるんだけど……でもやっぱり冷めちゃうのよね」
そう言ってニフレディルはグラスの酒をすすった。
「だからクリスティちゃん、すごいわね。あのマグニの跡取りがこだわってたのも納得いくわ」
ぽかんとした三人の顔を見ながら、ニフレディルは続けた。
「あの子ね、見られても気にしないっていうか、見られることで燃えてくるみたいなのよ……あなた、自分の恥ずかしい姿を見られることが好きな人がいるのは知ってる?」
「え? まあ、話だけは……」
それって話には聞く、ロシュツヘキとかなんとかいうやつか?
「そういう人でもね、心の中を覗かれるのには抵抗があるものなのよ。自分の心だけは自分のものだから、体は好きにさせても心は、って感じでね。でもそんな最後の砦に相手はずかずかと侵入してくるの。逃げ道はないのよ。それってどう? 怖くない? 怖いでしょ?」
それはまあそうだが―――メイ達はうなずいた。
「でも彼女ね、そこまでされるのが好きみたいなの。最初に介抱したとき、たった一瞬なのにあの子、私に見られてることに気づくと……こっちがびっくりしたわ」
「そうなんですか?」
メイにはそういった能力はないから、今ひとつよく分からないのだが……
「でもね、それって本当は素晴らしいことなのよ。心が通じあうってことは……互いに感じてることが伝わってきて、シンクロして二人で上りつめていくのは、他ではもう味わえない幸せだから……」
ニフレディルはとろんとした目で話し続ける。
「言葉ではなかなか説明しづらいけど……互いに体の触れあったところから直接に相手の存在を感じ取れるって言ったらいいかしら。すると心と体の奥底で感じていた甘いうずきが流れ込んでくるのが分かるの。同時にこちらからもそれが流れ出していって、やがてぶつかって渦を巻き始めて……」
えーっと? 何の話なんだろう?
「相手の体は自分の体で、自分の体は相手の体で、相手の心は自分の心で、自分の心は相手の心で、本当は何をしたいか、本当は何をして欲しいのか、お互いに分かるというよりはもう既成事実で、まるで一人のようなのに一人じゃないの。抱きしめてる体は明らかに自分の物じゃないのに、でもその体を確かめるともう自分でそうしているみたいな疼きが走って……その体が今度は私を蹂躙するのだけど、でもそれは自分の意志で……いえ、それが自分の意志なのか操られているのか、もうそんなこともどうでもよくて、普段では絶対あり得ないことなのに……口にどころか、考えることさえ憚られるのに……でもまごうことなきそれが私達の望みだったから……」
あはははは! なんだ? これは?
ニフレディル様は完全に目が据わっているように見えるのだが……
「そうなるともう自分じゃない生き物になってしまったみたいで……そうなったらもう後はそのうねりに身を任せるしかなくて……気がつくと二人は真っ黒な深淵の淵にいるのよ。そこを超えたらもう帰って来られないってことが分かるのだけど……でもそのときはもうそんなことはどうでも良くって、自分一人だったら超えられない恐怖と孤独も、二人なら大丈夫だって……そうしてその深い淵の中で、永遠の時を生きていきたいって、そんな気持ちになってくるの……」
ニフレディルは陶酔して話し続ける。
「でも人の体って素晴らしいのよ。肉体とは理想的な魂の器なのね。それがあるから人には許されていないその深淵にも呑まれてしまわないのよ。どんなに一体化していても、体が離れれば即座にこの現実に引き戻されてしまうの……そう素晴らしい……素晴らしい牢獄だわ! その軛から解放されるとき……それが死という名の解放なの」
ニフレディルはそう言ってじっとメイを見つめた。
《あはははははは!》
それから彼女の顔が引きつっていることに気がついたのだろう。
「あ、大丈夫よ。あなたにそんなことしないから。そんなことしたら壊れちゃうし」
メイは思わず口走っていた。
「だから、そんなこと言うから怖がられるんじゃないですかっ!」
ニフレディルがまるで恐れたようにメイの顔を見る。
「怖い? 私が?」
途端に彼女の目から涙がこぼれ落ちた。
だ・か・ら! そういうのはやめて欲しい!
「違うんですって!」
もしかして面倒な人なのか? やっぱりこの人も面倒な人なのかーっ?!
一体どうしてくれよう!
そのときメイは彼女のグラスが空になっているのに気がついた。
ともかくここは適当に話を変えなければ!
「グラスが空ですけど、お注ぎしましょうか?」
ニフレディルは鼻を啜りながらうなずいた。
えーと、確か彼女は白いのを飲んでいたはずだから―――何本か酒瓶があるが、白ワインはどれだろう? なんだかみんな赤みたいだが―――って?
メイはその酒瓶の一本に目が釘付けになった。
《どうしてこれがここに?》
メイがその瓶を指して尋ねた。
「えっと、ニフレディル様? もしかしてこれお飲みになってました?」
ニフレディルは涙を拭きながら答えた。
「ええ。そうよ。何だか見慣れないお酒だったけど、冷やしたらとっても美味しかったから」
「割らずに……そのままでですか?」
「ええ? そうだけど?」
メイはちょっとくらくらしてきた。彼女はこれをがぶ飲みしていたのか?
「これ……アルカなんですけど。王女様が献上するために持ってきた……」
「ええ? これが?」
アルカとは木の実などを発酵させた原酒を蒸留して作る、いわゆるスピリッツの一種だ。
「その辺で売ってるのは辛いんですけど、ちゃんと作るとそんな風にとっても口当たりが優しくなるんです。それはベラの山の中で三十年寝かされてた最高の古酒なんですよ。でも強さは変わらないからそんな勢いで飲んだら……」
「ええ?」
ニフレディルは驚いて立ち上がろうとすると、ぐらっと体が傾いた。
「ああ!」
メイとリモンが慌てて彼女の体を支える。
やっぱりぐでんぐでんだ。
「まあ……本当だわ……どうしましょう……」
ニフレディルがぼうっとした表情でメイを見る。
「お水にしておきますか?」
「ええ、そうね」
ニフレディルは手渡された水を飲み干すと、ふうっと一息ついた。
それから彼女はメイの方を見ると微笑んで言った。
「ありがとう」
「いえ、どういたしまして」
大魔導師と何を話していいかは知らないが、酔っぱらいの扱いなら心得ている。家では父親の友人がよくやってきては酔いつぶれていたからだ。
そんなことを考えているとニフレディルが言った。
「でもあなた、すごいわね」
「え?」
「あそこで飛び込もうとしてたでしょ?」
「は?」
メイは一瞬彼女が何を言おうとしているのか分からなかった。
「シアナとアウラがやり合ってたところよ。あんなところに飛び込んだら、真っ二つにされた挙げ句に黒こげよ?」
そう言われて再び思い出す。
あはははははは! 確かにあれは彼女の人生最大の危機だったかもしれない―――その後の展開に半ば忘れかかっていたが……
「別に放っといても良かったんじゃないかしら? どうして飛び込もうなんて? せいぜいシアナの腕が落とされてたくらいだと思うし」
どうしてと言われても―――いや、腕を落とされたらまずいんじゃ?
そんな表情を見てニフレディルはにっこり笑った。
「なかなかそんな勇気はでないから。普通。立派よ」
単に何も考えてなかっただけなのだが―――というか、あの川遊びのときだって勝手に体が動いただけだし―――後から考えるとまさにヤバいなんてものじゃなかったのだが……
でもまあ褒められたら素直に嬉しい。
「あははは! そんなことありませんって! リモンさんなんかもっとすごいし」
「え?」
いきなり振られてリモンが驚く。
それを見てニフレディルがはっと気づいたように尋ねた。
「それじゃ、もしかしてその背中の傷は?」
だがリモンは首を振った。
「これは王女様をお守りできなかったからなんです」
それを聞いたニフレディルはちょっと真顔になった。
「それを悔やんでるの?」
「え?」
ニフレディルはもう一度尋ねる。
「それを悔やんでるの?」
リモンは黙ってうなずいた。
ニフレディルはそんな彼女の顔をじっと見て言った。
「だめよ。それはね。誇りに思わなければだめなのよ」
「え?……はい」
そうは答えたもののリモンは納得したようなしないような表情だ。
そんな彼女にニフレディルが言った。
「あなたも呪われた一族なのね」
「はい?」
ニフレディルは三人の侍女達を代わる代わる見つめた。
「リモンちゃん。メイちゃん。それにパミーナちゃんは前からよく知ってるけど……みんなよく言われてたでしょ? しっかりしたいい子だって」
「………………」
三人は顔を見合わせる。
それは確かにそうだった。そういう意味ではちょっと似たもの同士なのか?
そんな三人を見ながらニフレディルは続けた。
「悪い魔法使いがね。生まれた子供に“しっかり者の呪い”っていうのをかけていくことがあるのよ。そうするとその子はね、何か大変なことがあったら『ここで自分が頑張らなくっちゃ』って思うし、まずいことがあったら『自分がもっとしっかりしてたら』って考えちゃうようになってしまうの」
「………………」
そのときまた岩陰から喘ぎ声が聞こえてきた。
三人はぴくっとその方を見る。
ニフレディルもちょっとそちらに目をやってから言った。
「まあ、実際ああいう人たちにはそういう人がいてくれないと困るんだけど……」
彼女はため息をついた。
「でもね。自分自身も大切なのよ。まだその時じゃないかもしれないけど……でもその時が来たら迷っちゃだめよ? 呪いは自分で断ち切らないとね」
「………………」
ぽかんとして聞いている三人に対してニフレディルは言った。
「少し寒くなって来たかしら? もう一度入らない?」
「え? でも……」
確かに言われたとおりだが―――今あそこに戻ったらもっと大変な物を目撃してしまいそうな……
それを察したかのようにニフレディルは微笑んで言った。
「大丈夫よ。下の方にもまだお風呂はあるの。私が沸かしてあげるから」
そう言って彼女は先だって歩き出す。
ああ、それなら大丈夫かも。
三人はうなずきあうと、立ち上がってニフレディルの後に続いた……
―――といったあたりでその夜の事を語るのはもう止めにしておくのがいいだろう。
その後語るべきことがなかったわけではない。
例えば酔っぱらって魔法を使うと水だって爆発することとか、次の朝塔から見た朝日はとっても綺麗だったこととか、その朝日に照らされて王女とか大皇后とか都の大魔導師とかバーボ・レアルのプリマドンナとかがおっぱい丸出しでごろごろ寝ている光景はちょっと壮観だったこととか―――語ろうと思えばいくらでも語れるが、何だかもうどうでもよくなってきたので……
ともかくこの日はメイの一生の中でも一番印象深い一日だったのは確かだ。
大人への階段を三段飛ばしくらいで上がってしまった記念すべき夜だったという意味でも……
それからの都での日々はあっという間に過ぎていった。
気がつくともう季節は夏。フォレスに戻らなければならない時期だ。
一直線に急げば一月ちょっとしかかからないが、途中シルヴェストに寄って挨拶していく予定なので、そろそろ出立しないとまたパロマ峠で寒いことになる。
旅立ちを数日後に控えたある日、大皇后がお別れパーティーを開いてくれた。
場所は最初に来たとき歓迎会を開いてくれたあの庭園だ。
「本当に楽しかったわ。アウラちゃん」
ウルスラがアウラを抱きしめている。
それから彼女はゆりかごの中で眠っている坊やを愛おしげに撫でる。
「坊やもしっかりしてきたわね」
「うん。ありがとう。えっと……お母さん」
それを聞いてウルスラはちょっと涙目だ。
「でも、次はいつ来られるか分からないのよね?」
「うん。ごめんなさい」
ウルスラは残念そうにため息をついた。
そんな彼女にエルミーラ王女が言った。
「フォレスがもっと近ければ、遊びにいらしてくださいと言えるのですが……」
まさにその通りだ。
来るときの旅を思い出しても、ちょっと簡単に人に勧められる物ではない。
だがそれを聞いていたパルティシオン氏が言った。
「確かに旧界は少し遠いので行く機会がありませんでしたが、この機会に一度尋ねてみてもいいですな……」
「まあ? パルティシオン様がいらして頂ければ父が喜びますわ!」
「ちょっと! あなた!」
「ん? なんだ?」
パルティシオン氏は何だかちょっと嬉しそうだ。
その表情を見てウルスラは肩をすくめる。
そういえば彼も若い頃は各地を武者修行して回っていたと聞いている。その旅先で彼女と出会ったという話だが―――でも若い頃ならともかく、今またそんな旅となると少々考えてしまうだろう。特にウルスラの立場としては……
「いや、いろいろ雑事がありまして、すぐにとは参りませんが」
さすがに大喜びで飛び出してくるというわけにはいかないようだ。
「パルティシオン殿がいらっしゃられるなら私も参りましょうかしら?」
大皇后がやってきて口を挟む。
あははは。こちらは思いっきり飛び出してきそうだが……
「メルファラ様に来て頂ければ今度はこちらが大歓迎致しますわ。ただちょっと田舎ではございますから少々退屈かもしれませんが」
そう言いつつエルミーラ王女も嬉しそうだ。
というよりこの二人はあの晩以来、何だか随分と親密になってしまっているのだ。
あれから数日おきには会っていて、既に怪しい噂が立ち始めているくらいで……
もちろんあの夜の出来事は国家機密である。ばれたら本気で戦争になりかねない。
何しろ天下の大皇后様にフォレスの王女とフェレントムの姫が、口にも出せないようなあんなことやこんなことをしていたなどと―――でも逆に都の大魔導師が王女達を人里離れた塔に監禁してあれこれしたという解釈もあり得るし……
ともかく、あれは夢だったのだ! そうしておこう! それが一番いいのだ!
メイはそう思うと手にしたグラスを空けた。これは軽いカクテルだから問題はない。
「面白そうだね。あたしも行っていいか?」
今度やってきたのはファシアーナだ。
「もちろん歓迎いたしますわ。ただ戦争を起こされるのだけはちょっと勘弁ですが」
「それはそうよね。シアナ」
大皇后も笑いながら言う。
「おいおい!」
あれ以来都の大魔導師二人ともよく会っている。
建前は大皇后の護衛みたいなことになっているが、間違いなくあれは遊びに来ているな。
実際二人とも結構楽しんでいるのは間違いないし……
「ニフレディル様は今日は?」
エルミーラ王女の問いにファシアーナは答えた。
「やっぱり会議を抜けられないみたいなんだ。出立の日には見送りに来るって言ってたよ」
「そうですか。残念ですわ……」
それを聞きながらメイは思った。
《ファシアーナ様はお仕事はないのかしら?》
ニフレディルは今日みたいに会議だ何だと来られないことも多いのだが、彼女の方は何故かいつでも姿があるような気がするが―――そんなことを考えていると後ろから誰かにつつかれた。
「メイちゃん、メイちゃん!」
振り返るとパミーナだ。
「ちょっとこっちに来ない?」
「え? なに?」
彼女はメイを少し離れた木陰に導いた。そこにはリモンも待っていた。
この滞在中メイとリモンは彼女とも意気投合していた。
先日、トラブルで中断していた観劇をもう一度する機会があったのだが、その晩二人はパミーナの家に泊めてもらったのだ。
そこで困ったご主人様を持ってしまった侍女同士の苦労話で一晩盛り上がってしまって―――その夜王女様達が何をしていたかは、もうノーコメントだが……
「二人ともありがとう」
そういって彼女は包みを二つ取り出すと、メイとリモンに渡した。
「大した物じゃないけど、お餞別」
「え? そんなことしてくれなくていいのに」
「ううん。二人に会えてとっても嬉しかったから」
彼女はそう言って二人に微笑んだ。
メイとリモンはちょっと顔を見合わせるが、同じく満面の笑みを返す。
「うん。こっちも。ありがとう。帰ったら手紙出すから」
「待ってるわ」
三人は握手した。
本当にあっという間だった……
都に来たときは先行きの不安に押しつぶされそうな気持ちだったのに、今ではもう離れるのが辛くなってきている。
だが彼女の故郷はフォレスだ。
そこに彼女のなすべき事があるのだが―――そのときメイはふと思い出した。
「あ、そういえば今日もあれで来てるの」
メイが尋ねるとパミーナがうなずいた。
「え? そうだけど?」
「あとでまたちょっと見せてくれない?」
「いいけど……」
パミーナは首をかしげながら言った。
あともう一つちょっと羨ましかったのは、彼女がすごく可愛いカブを持っていたことだ。
やっぱり大皇后様付きの侍女だとそういう点は恵まれている―――ギグでなくカブなのだから。
“ギグ”と“カブ”―――正式には“カブリオレ”は同じ二輪馬車ではなくて、サスペンションの造りが全然違うのだ。
それがどんなに幸せなことか随分と説明したのだが、なぜかパミーナはそのことについては今ひとつ納得してくれない。やはり恵まれすぎると贅沢になってしまうのだろう……
と、そのときだった。
「メルファラ様はいらっしゃる?」
この声は―――ニフレディルだ。
見ると彼女が人混みをかき分けてやってくるのが見えた。
会議で来られないと言っていたのにどうしたのだろう?
だが、ちょうどいいから後で挨拶しておこう。彼女にも随分とお世話になったことだし……
《??》
だが少し様子が変だ。ひどく真剣な―――というより少々取り乱した表情に見えるのだが……
「どうしたのです?」
大皇后が尋ねると、ニフレディルは首を振ってから一度深呼吸すると、答えた。
「レイモンが、侵攻して参りました」
あたりのざわめきが凍り付いた。
しばらくして大皇后が問い返す。
「今……何と?」
「レイモンが侵攻してきて……現在メリスを包囲中とのことです」
再び静寂。
次いであたりがどよめきに包まれる。
「ロパス! ロパス!」
エルミーラ王女が叫んだ。親衛隊長のロパスが慌ててやってくる。
「一昨日の報告では何事もなかったのでは?」
「は、はい。確かにそうなのですが……」
ロパスの目も焦点が合っていない。
「どうして?」
エルミーラ王女が天を仰いだ。
彼女達はこういった事態に対しては万全の準備をしてきたはずだった。
白銀の都は山の中にあるためその入り口を抑えられてしまうと袋のネズミになってしまう。そういったことを避けるために、都への街道の起点にあるメリスに駐在員を置いて、逐一中原の情勢を報告させていたのだ。
その報告は一昨日にもやってきていて、それによれば中原は相変わらず平穏だったはずなのだが……
「何かの間違いでは?」
大皇后が尋ねるが、ニフレディルは黙って首を振った。
エルミーラ王女はしばらく呆然と辺りを見回した。
それから大きくため息をつくと、大皇后に向かって言った。
「申し訳ございません。せっかくお別れパーティを開いて頂いたのに……」
それからもう一度大きくため息をつくと言った。
「もうしばらくこちらに置かせて頂きますか?」
「え? ええ……もちろんですわ。喜んで」
大皇后のその顔は少々強ばってはいたが、なにかほっとしたという色も感じられた。