第3章 ランドー・オブ・ザ・デッド
待ちに待った週末の日は、最初から思いもよらぬ展開になっていた。
「えー! 本当にいいんですか?」
思わずメイは訊き返していた。
「もちろんですよ。今日明日は使う予定はありませんから」
イクストーヴァ氏が答える。
「本当によろしいのですか? こんな子のために」
王女の問いにイクストーヴァ氏は首を振った。
「構いませんよ。メイさん方も大切なお客様ですから」
「あ、あ、あ、あ、あ、ありがとうございますっ!」
まともに言葉のでないメイを周囲にいた者達が苦笑しながら眺めている。
彼女が舞い上がっていたのには当然の理由があった―――それは今、目の前にある見事なランドーだ。
さすがに彼女といえども都の馬車工房までカバーしていたわけではない。だからこれがアグリア工房製のファルケと呼ばれる型だと聞いても今ひとつぴんと来なかった訳だが―――こうやって目にしてみれば途轍もない名車であることは一目瞭然だ。
見事なカーブをを描いているボディーには漆が何重にも塗り重ねられており、それがまた一点の染みなく磨き上げられて黒く輝いている。
壁面には宝石と金箔でできたハヤセ家の紋章が象眼されている。
扉のノブの意匠は羽のついた蛇のようだ。ボディーを乗せるシャーシにも細かな彫刻が施されている―――まさにこれは走る芸術品と言って良い!
これに比べたらエルミーラ王女専用の“フェザースプリング”でさえ質実剛健といっていいかもしれない―――そんな馬車の主賓として乗って行けるというのだから、彼女が少々我を忘れてしまっていたとしても仕方のないことだった。
「それじゃメイ。行ってらっしゃい」
「はい! はいっ!」
当然のことながら当初は王女達自身のベルリンで行く予定だった。
ところが前日になって急に王女が生理痛になってしまったのだ。この見学は王女も色々な意味で楽しみにしていたのだが、こればかりは仕方がない。
だが日時をずらそうにも現在は曲がりなりにも戦争中だ。ニフレディルに次の暇ができるのはいつになるか分からない。
そこで王女はメイの落ち込みようを見ていられなくなったのだろう。ちゃんとした報告書を書くという条件でメイ達だけで行ってこいと言ってくれたのだ。
もちろんメイは二つ返事でOKだ。
ちなみにメイ“達”とは彼女の他にリモンとルカーノだ。
さすがにこういうご時世だ。道中メイ一人では少々心許ないので誰か護衛が必要だということになったのだが、それに選ばれたのが彼らだった。
そこには王女の別な気遣いもあった。
前述のごとくに二人は婚約中だったが、この旅に同行してからというもの、ゆっくり二人だけでいる余裕などはなかった。
そこで王女はこの機会を彼らにも与えてくれたのだ。
行き帰りの間はともかく、メイが銀の塔に入ってしまえば護衛は不要だ。その間は二人で都でも見物して来いというわけだ。
しかしさすがにそのために王家のファイヤーフォックスを使うわけにはいかない。またコルンバン達は都で色々調査をしているので、彼らの馬車も今ここにない。
そこで昨日メイはイクストーヴァ氏に館の馬車を貸してくれるよう依頼していたのだ。メイ達だけなら使用人用のブレークやワゴネットでも十分だからだ。
ところが何故かそのために貸し出された馬車というのが、いま目の前に鎮座している本屋敷のお抱え御者付きランドーだったのだ。
聞けばたまたま今日は使用人用の馬車が一つも空いていなかったらしいが―――だったら荷馬車でもいいと言ったのだが……
《まるで夢みたい!》
夢なら醒めないで欲しい―――そんなことを思いながら馬車の側面を撫でているとリモンが言った。
「メイ! さっさと乗りなさいよ」
「あ! はいっ!」
そんな様子を見て王女が半ば呆れた様子で言った。
「すみません。それではお借りしますね」
「いえ、いつでも言って頂ければ」
イクストーヴァ氏がそう言って礼をする。
メイはそのランドーに乗り込んだ。
内装もまた素晴らしいとしか言いようがない。
シートは美しい刺繍が施されたサテンの生地で、何だかお尻を付けるのがもったいないくらいだ。
見ると前部座席にリモンとルカーノが並んで座っている。
「え? あの……」
「どうせそっちに座りたいんでしょ?」
リモンが後部座席を指して言った。図星を指されてメイは口ごもった。
「あうー、でも……」
そこは正賓の席で、いや、確かに座りたいのは山々だが、リモンは彼女の先輩に当たるわけで―――こういった場合、一体どうすれば?
だがリモンは微笑んで言った。
「いいのよ。遠慮せずに。私達今回はあなたの護衛だから」
「じゃあ……」
メイははにかみながら後部中央の席に腰を下ろす。
「うわー!」
なんだかお腹の底から喜びが沸き起こってくる!
そんな彼女を見てリモンとルカーノが顔を見合わせて笑った。
「それでは行って参ります」
ルカーノが窓越しに王女達に言った。
「あまり羽目をはずすなよ?」
一緒に見送っていたロパスがにやにやした顔で言う。ルカーノがちょっと赤くなる。
「何を言ってるんですか! これも任務です!」
横のリモンも顔が赤い。やっぱり二人も嬉しいのだろう。
「それではよろしいでしょうか?」
御者が声をかける。
「ああ。よろしく頼みます」
ルカーノが答えると彼女達の乗ったランドーはすうっと動き出した。
《うわああ!》
何て滑らかな発車なんだろうか?
窓の外を見ると王女達が手を振っているのが見えた。
「行ってきまーす!」
メイは窓から手を振り返した……
このようにして彼女達の小旅行は始まった。
アルヴィーロ氏の別邸から都までは馬車で数時間の行程だ。
別邸は山間のちょっとした盆地にあって、館の下にある小さな村を過ぎるとまずは牧場地帯を横切ることになる。
《……にしても、えーっと……》
彼女の向かいにはリモンとルカーノがずっと黙したまま座っている。
二人の婚約が明らかになったときにはガルサ・ブランカ城内は結構な騒ぎになった。
ルカーノは親衛隊員だが、そもそも親衛隊というのは国王直属の兵士であって、いわばエリート中のエリートだ。
ルカーノはその中でも若くハンサムで、しかも忠誠心が厚く剣の腕も確かだ。そんな彼が城の女官達の間で人気が無かったわけがない。
片やリモンも、アウラと共に城の若い“男女”の間で絶大な人気があった。
王女誘拐事件のときに勇敢に戦ったことは知られているし、その後親衛隊に交じって訓練を続けて、例の五人抜きは今でも語り草だ。
おかげで王女直属の護衛官としてアウラ、リモン、そしてベラから来たガリーナの三人が城内の人気を三分していた。
だがそのうちのアウラにはフィンという正式の恋人がいる上に、曲がりなりにもフェレントムの一族だ。一般の者から見ればちょっと手の届かない雲上人だ。
ガリーナはまさにダンディーで素敵なのだが、何といっても来てからまだ日が浅い。
だがリモンはそうではない。彼女はガルサ・ブランカ出身で、元は単なる侍女だったのが、本人の努力によって今の座を掴んだという意味において、人々にとって一番身近な存在だったのだ。
そんな二人の婚約だから臍をかんだ娘や青年も多かったのだが―――その婚約の経緯というのがまた奮っていた……
メイは並んでいる二人を眺めた。
こうして見るとルカーノは大きい。彼は親衛隊の兵士にしてはやや小柄な方なのだが、それでもリモンやメイに比べたら二回りは大きい感じだ。
《これをノックアウトしちゃうんだから……》
その現場はメイも見ていたから今でもよく覚えている。
それはルカーノが親衛隊の新人研修をしているときだった。
その頃にはリモンはもう王女の正式な護衛として認められていて、彼女が親衛隊の先輩になるわけだが―――それはともかく、フォレス親衛隊の新人研修はかなり難度が高かった。
例えば以前アウラがテストされたときのように、意地の悪い奇襲をしてみたり、護衛される側がいきなり逃亡を企ててみたり……
《エルミーラ様だと本当にやりかねないし……》
そんな初めてだとまず引っかかるようなトラップがたくさん仕掛けてあるのだ。
そしてその一環として、色々変わった武器を持った相手と戦う訓練があった。
親衛隊とは当然王や王女の身を守るのが最大の任務だ。もちろん襲ってくる相手が正々堂々と来てくれる保証はない。
すなわち、例えば“薙刀を持った女性”というのが敵であっても当然対処できなければならないわけだ。
そのときの試験官としてルカーノの相手をしたのがリモンだった。
―――それは昨年の春、例の王女ご懐妊騒ぎのあったベラ視察旅行から戻ってきてすぐの頃だ。
ガルサ・ブランカ城の中庭には人だかりができていた。
親衛隊員や若い女官、使用人などの野次馬達のが作る円陣の中央で、リモンとルカーノが対峙している。
メイと王女は二階の窓からその光景を見物していた。
その頃にはずいぶん王女のお腹も大きくなっていたので、王宮内から見られるようにその場所でやれと命じてあったのだ。
「始め!」
審判のロパスが言った。
リモンとルカーノは互いに自らの武器を持って構える。
あたりはしーんと静まりかえった。
次の瞬間仕掛けたのはリモンの方だった。
きえーっという掛け声と共に彼女はルカーノに斬りかかっていく。
剣を持った者が薙刀相手にしてまず苦労するのはそのリーチの差だ。放っておくと自分の剣が届かない間合いから次々に攻撃される。
だから最初にどうにかしてその間合いを詰めなければならないのだが……
ルカーノは慣れない攻撃相手に防戦一方だ。
「何をしている! 新人!」
周囲からヤジが飛ぶ。
ルカーノはくっと歯を食いしばると逆襲に転じようとした。
だが最初はまず間合いを詰めることに気を取られて、それを相手が待っているということに考えが及ばないのだ。
彼が業を煮やして一気に飛び込もうとしたその瞬間、リモンが文字通り彼の足をすくった。
ルカーノはそれをぎりぎりで避けることはできたのだが、上体が突っ込んだままだ。次の瞬間、薙ぎあげられてきた薙刀の刃が―――もちろん本物ではないが―――もろに彼の顎にヒットした。
ルカーノは物も言わずに地面に突っ伏した。
「まあ、大丈夫かしら? あの人」
メイの横で王女がちょっと心配そうに言う。
「どうでしょう?」
一本入れたリモンの方が茫然自失だ―――この頃はまだ彼女は寸止めが苦手で、良く相手に痛い目をさせていたのだが、ここまで綺麗に決まったのはメイもほとんど見たことがなかったくらいだ。
それから慌てて親衛隊の兵士がやってきて、倒れたルカーノを介抱し始める。
もちろん元が頑丈な出来だからその程度でどうなるわけではない。すぐにルカーノは息を吹き返したが―――何が起こったかに気づいた途端に、いきなりぼろぼろと涙をこぼし始めたのだ。
それを見て慌てたのがリモンだ。
「えっと、大丈夫?」
彼女はそう言って彼の顎の傷を確かめようとした。
だがそのときだ。ルカーノはいきなり彼女の手を握ると涙声で言ったのだ。
「あなたに勝てたら、結婚してくれますか?」
もちろん周囲にいた者は全員が唖然とした。
リモンも返す言葉がない。
若い女官達がきゃーきゃー叫び始める。
言ってしまってからルカーノは状況に気づいたようだが―――もう遅かった。それから彼は周囲の親衛隊員達にボコボコにされて、リモンの返事をその場で聞くことはできなかったわけだが―――
でもそれがきっかけになったのだ。
それからしばらくして、昨年の秋頃だが、晴れて二人は正式に婚約した。
その際にもう一度試合をしたかどうかは教えてもらえなかったが―――聞けばルカーノは最初からリモンに憧れていて、そのために頑張って親衛隊に入ったという。
見事に夢を叶えたわけだ。
《なんだけど……》
向かいに座っている二人はずっと黙ったままだ。
リモンもルカーノも元々おしゃべりな質ではない。二人でいるときも大抵黙って一緒にいる。今この馬車の中でも同様だ。
彼ら二人だけならいいのだろうが―――このままだとメイの方の間が持たない。
馬車はごとごとと田舎道を走っている。
メイはそれに揺られていると段々眠気を催してきた。
夕べは今日のことを考えていて結構寝不足なのだが……
《だめーっ!》
寝てしまうなんてそんなもったいない! ともかく何か話していよう。
そこでメイは尋ねた。
「えっと、午後はどこに行くんですか?」
「え?」
リモンが顔を上げてルカーノを見る。
ルカーノはちょっとはにかんだように答えた。
「競馬を見に行こうかと」
「あー、そうなんだ! いいなあ」
競馬か―――あの雰囲気はメイも結構好きだ。
前に一度ベラの田舎で見たことがあるが、こちらでも同様なのだろうか?
「あなた、飛空機が見たいんじゃないの?」
「それはもちろんそうだけど。馬もいいわよね。可愛いし」
もちろんメイは馬も好きだ。大好きな馬車だって彼らがいないと走ってくれないわけで……
そんな感じでしばらくは馬車の中は馬の話で盛り上がった。
しばらくしてリモンが言った。
「えっと、迎えに来てくれるのはパミーナさんだったわよね?」
「はい。そう聞いてます」
今回の都行きに大皇后は迎えを途中まで出してくれることになっていた。
銀の塔に行くのに街道を普通に行くと遠回りになってしまうのだが、近道は結構入り組んでいて迷いやすい。そのための案内が彼女だった。
聞けば実家が近くにあってそのあたりの地理に詳しいらしいし、彼女ならもう顔なじみなので色々肩も凝らなくていい。
「彼女、午後はどうするのかしら?」
「え? どうするんでしょうね?」
今日の予定は彼女に銀の塔まで案内してもらい、メイが中を見学している間は別行動で、夕方また塔の前に集合して、夜は大皇后の屋敷に泊めてもらうことになっているのだ。
どう考えても彼女が飛空機などに興味を示すとは思えないから、午後は何かで暇を潰さないといけないが、だがそうするとリモン達のデートが……
「一緒に競馬を見に行ったらどうだ?」
「そうね。彼女が好きなら」
あまりメイが心配することではなかった。
《うーむ。二人とも落ち着いているな……》
これが大人の余裕という物なのか? 二人っきりになれるというのにあまり舞い上がってないし。
これがメイだったらどうだろう? あのときは滅茶苦茶ハイテンションだったような気がするが……
《あははははは!》
いやー、何だろうなあ。あのときって! 彼女にそんな体験はないはずなのにっ! どこかで夢でも見たのかな? あははっ!
………………
はあ……
メイは内心ため息をついた。
王女の側近ということもあってメイの周囲にはある意味“いい男”はよりどりみどりだったりするのだが、あの王女の側近だということはそんな雰囲気になっている余裕なんて全くないということでもあって……
《うー……この次が……あるのかなあ?》
などと思わずブルーになりかかっていると、馬車は下りの山道に差し掛かった。
途端におおっと声が出そうになる。
《あら……?》
このランドーはブレーキの効き具合もすごくソフトではないかっ!
見かけだけでなくこういう所も芸が細かいらしい。普通はもっとこうがりがりと音がしてがくんと速度が落ちるものだが……
それはそうとメイは少々まずいことに気がついた。
ここから先はしばらく険しい山道が続くのだが、そのため休息できる場所がほとんど無い。
「あの、リモン?」
「どうしたの?」
「朝ちょっとお茶飲み過ぎちゃって……」
昨夜はちょっと興奮しすぎてなかなか寝付けなかったため、今日は少々寝不足だ。そのため朝、濃いお茶を普段より多めに飲んできたのだが―――お茶にはちょっとした副作用がある。
リモンはすぐに理由を察して御者に言った。
「すみません。ちょっと休息できるところで止めてください」
「かしこまりました」
馬車はしばらく坂を下って平坦になったところで停止した。
「すみません」
メイがそう言って馬車から降りようとすると、リモンが首を振って先に馬車から降りた。
それからあたりをさっと見回して安全なのを確認するとメイに手を差し伸べる。
「そんな、私に……」
「いいじゃない」
リモンが微笑む。
これは王女が馬車から降りるときのいつもの作法で、メイは王女の後から降りるのが決まりなのだが―――まあたまにはこういう事もあっていいかも
メイはリモンの手を取って馬車から降りた。
「場所は……」
「いえ、大丈夫ですよ。一人で」
メイは慌てて近くの茂みの陰に行った。
こういう場合の“正式”の手順では、リモンがまず良い場所を探して下準備して、そこに相手を導いた後はすぐ近くで見張っていることになっている。
終わった後の後始末も彼女がやってくれるのだが―――そんなことまでしてもらうのはさすがに無理だ。
メイが用を足して戻ってくると、ルカーノも馬車から降りてリモンと何か話していた。
「お待たせしました!」
「うん。じゃあ行こうか」
ルカーノがそう言って馬車に再び乗り込もうとしたが、そこでメイは手を振って答えた。
「ちょっとだけ待ってもらえますか?」
「?」
メイは馬車の側に行ってブレーキを調べてみた。
こんなにソフトな効き味のブレーキとはどんな仕組みになっているのだろうか? その秘密が分かると面白いのだが……
「また?」
リモンが呆れたように言う。
「ちょっとだけ。ちょっとだけ」
「ちょっとだけよ」
メイはブレーキの秘密を解明すべくじっとその構造を観察した。
しかしどう見ても特に変わった構造をしているようには見えない。
《え? どうして?》
メイはしゃがみこんでもっとよく調べてみた。
「メイ! そろそろ……」
リモンが焦れてきている。そろそろ止め時か? と、思ったときだ。
「あれ?」
「どうしたの?」
「これ、これ……」
メイはブレーキのシャフトの一部を指さしながらルカーノの顔を見る。
「どうした?」
彼がそう言ってメイの指した場所を覗き込むと、あっと声をあげてその表情が変わった。
「これ、まずいですよね?」
「ああ……」
ルカーノはうなずいた。
メイの指したシャフトの部分に割れ目のようなものがあるのだ。
そこはブレーキのシューを車輪に押しつける際に一番力のかかる場所なのだが、ここが割れていると力が入らないのでは? 効き味がソフトだったというのではなく―――単に効いていなかったのでは……?
メイは背筋がぞっとした。
「どうしたの?」
二人の様子がおかしいことに気づいてリモンが尋ねる。
彼女は機械には強くないので見ただけでは状況が分からなかったようだ。
「ブレーキが壊れてるみたいなんです」
「ええっ?」
もちろん彼女もその言葉の重大さが分からぬはずがない。
二人が顔を見合わせてる間に、ルカーノは馬車の反対側のブレーキも調べに行っていた。
「ああ? こっちもか?」
ルカーノの声がする。それを聞いて御者も驚いた様子で降りてきた。
二人の会話が聞こえてくる。
「どうなさったんですか?」
「ほら、見てみろ。ブレーキが……これは細工されてるんじゃないか?」
「何ですって?」
「ほら、ここだ……ぐわあぁぁぁ!」
………………
…………
……
は?
メイは一瞬何が起こったのか分からなかった。
今、確かにルカーノが悲鳴が聞こえたような気がするが……
メイはリモンの顔を見た。彼女の表情も凍り付いている―――ということは?
次の瞬間リモンはかっと目を見開くと脱兎のごとくに駆けだした。
メイも慌ててその後を追う。
馬車の反対側で彼女達が見たものは―――背中を真っ赤に染めて倒れ伏しているルカーノの姿と、血染めのショートソードを持って立っている御者の姿だった。
「お前……」
リモンは体を震わせながらそれ以上言葉が出ない。
「すまん。別に恨みは無いんだがな」
そう言って御者はいきなりリモンに向かってきた。
がきーんという音がする。
見るとリモンが護身用の懐刀で御者のショートソードを受け止めていた。
《ひえええええ!》
こういう場合一体どうすれば?
王女が襲われたような場合は今まで何度も訓練してきた。
そのときは敵は護衛に任せて、とにかく王女を安全なところに避難誘導する。
もし更に何かがあれば、身を呈してでも王女をお守りするというのがメイの役目だが―――今回は守るべき王女はいないのだが?
だとすると彼女は単に逃げればいいのだろうか?
だが……
《!!》
そのときメイはリモンが相手に押されていることに気がついた。
考えてみれば当然だ。リモンが今手にしているのは短い懐刀だ。それでも戦えるように訓練しているとはいえ、このままでは早晩やられてしまうに違いない。
だとすれば……?
メイは全力で馬車に戻って、リモンの荷物から折りたたみ式薙刀を取り出した。
馬車から出ながら大急ぎでそれを組み立てる。何度かやらせてもらったからやり方は分かっている。
カチリと薙刀が完成すると彼女は再びリモンが戦っているところに駆け戻った。
そこでは彼女が危険な状況になっていた。御者に道の端まで追いつめられている!
「おい! こらあぁぁ!」
メイは薙刀を振りかざして大声で叫んだ。
御者がちらっとこちらを見た―――そしてメイの姿というより、その手にある危険な武器に気づいて御者は一瞬動きを止めた。
それで十分だった。
「うあ!」
その隙を突いてリモンの懐剣が御者の腕をかすめたのだ。
傷はあまり深くはないが結構な長さだ。ぱっと鮮血が噴き出した。
「貴様ら……」
御者は慌てて数歩下がったが、それは彼にとって致命的な判断ミスとなった。
その隙にメイがリモンの側にたどり着いて薙刀を彼女に差し出していたからだ。
リモンは薙刀を受け取ると構え直した。
これで形勢は完全に逆転だ!
「どうしてこんなことをしたの?」
リモンは御者をきっと睨みながら尋ねる。
だが御者は答えなかった。
それからショートソードを構え直すと一気にリモンの方に突進してきたのだ。
だがそれはもう“想定済み”の行動だ。
リモンは御者の動きを軽く躱すと薙刀を一閃する。
次の瞬間、御者の喉元がばっくりと割れてそのまま頭から地面に突っ込んだ。
あっという間もなかった。
《えっと……えっと……》
こういった場合、一体どうすればいいんだろう?
だが気がついたら体が勝手に動いていた。
「リモンさん!」
メイは呆然と立ち尽くしているリモンに抱きついていた。
涙で視界がにじんでいる。
それに気づいてリモンが振り返る。それから彼女はメイの頭を撫でると、小声で言った。
「ありがと……」
次いでその状態で二人はがっくりと地面に座り込んでしまった。
こんな怖い目に会ったのは生まれてから―――三回目ぐらいだろうか?
メイとリモンは呆然とした様子でしばらくあたりを見つめていた。
頭の中は真っ白だ。
こういった場合、一体どうすればいいんだろう?
視界の中には男の死体が二つ……
《二つ⁉》
メイとリモンは同時に気がついた。
二人は慌てて立ち上がるとルカーノの側に向かう。もしかしてまだ息があったりは……
だがその姿を見て二人は目を背けた。
先程の戦いっぷりから見ても御者はこういう事の素人ではなかったわけだが……
《えっと……えっと……》
こういった場合、一体どうすれば?―――泣いてしまっていいのだろうか?
「ともかく……戻りましょう」
蒼白な顔でリモンが言った。
「え、ええ……」
メイは慌ててうなずいた。
当然だ。まずは館に戻って王女やイクストーヴァ氏に報告しなければ……
「で、これは……」
メイは地面に転がっている死体を指した。
「積んでくしか……」
その通りだ。ここに放置しておく訳にはいかない。
リモンがランドーの背面にあるトランクルームの扉を開ける。
中の荷物を下ろしたら二人分ぐらいの空きはできたが……
二人はまず御者の死体を持ち上げようとしたが……
《うわあ! 重い!》
リモンはともかく、メイの力ではトランクの高さまでなんて持ち上がらない。
「どうしましょう?」
リモンがそう言ったときだ。
後方から馬に乗った男達が数名やってくるのが見えたのだ。
彼らも同時にメイ達に気づいたようだった。そこで尋常でないことが起こっていることにも……
男達は顔を見合わせると早足でやってきて馬から下りる。
来たのは四人の農夫だった。
「どうしたんだ?」
男の一人が尋ねた。
「それが、何だか馬車に細工がしてあって、それを調べてたら御者の人がルカーノさんを……」
メイが状況を説明する。
それを聞いて別な一人が倒れている御者とリモンを見比べながら言った。
「こいつを……彼女が?」
メイはうなずいた。
男達は馬車に立てかけてある薙刀の刃に血が付いているのに気づいたようだ。
男達は再び顔を見合わせた。
そんな彼らを見てメイは少し違和感に襲われた。何だか少し変な気がするのだが――― 一体何が?
「えっと、おじさん達は?」
「あ? 上の屋敷から来たんだが?」
メイは男達を観察した。だが全員見たことのない人たちだ。
彼女はこちらに来て以来、上の屋敷の使用人とはほとんど顔なじみになっていると思っていたのだが―――それに彼らが腰から下げている剣は農夫が使うものにしてはちょっと大げさすぎないか?
《いや、まさか⁉》
そのときリモンが言った。
「あの、この人達を運ぶのを……」
メイはリモンの言葉を途中で手で遮る。
リモンが不思議そうな顔をしたがメイは軽く首を振る。リモンはちょっと目を見張ると小さくうなずいた。
それからメイは尋ねた。
「えっと、皆様方はお屋敷のどちらにいらっしゃいましたっけ?」
男達は明らかに口ごもった。それから一人が御者の死体を指して言った。
「どこでもいいだろ? それよりそいつの始末が先だろ?」
何だかあからさまに不自然だ。
それを聞いたリモンは立てかけてあった薙刀を手に取ると、メイのすぐ前に立ちふさがる。
それから冷たい声で尋ねた。
「あなたたち、本当にお屋敷から来たの?」
それを聞いて一人が頭をかきむしった。
「ああ! めんどくせえ! 要するにさっさとやっちまえばいいんだろ?」
「あ、バカ!」
後ろの男が言ったがもう遅い。こいつらは御者の仲間確定だ!
「しょうがねえな」
そう言って後ろにいたリーダー格の男が剣を抜く。
それに合わせて他の男達も同様に武器を手にした。
とりあえず騙し討ちはなくなったにしても―――これが大ピンチなのは間違いない!
リモンは歯を食いしばると薙刀を構え直す。
たとえこれがアウラだったとしても手練れ四人を同時に相手にするのは大変だ。
《えっと……えっと……》
こういった場合、一体どうすれば―――そのときだ。
『馬車を、出して』
リモンが小声で囁いたのだ。
『え?』
『早く!』
メイは戸惑った。
こんな大きな馬車を操車したことはほとんど無いし、その上これはブレーキが壊れているときている。
しかもこの先は急坂や急カーブが連続だ―――ああ! そうか! ってことは元々事故死に見せかけようとしていたのか? それがうっかりばれてしまったんで御者は慌ててあんなことをしたのだ!
―――などということが今分かったところでどうしようもない。
『でも……』
メイは口ごもる。
それだったら馬車で逃げたって結果は同じになるのでは?
そんなメイを見て、いきなりリモンはきっぱりとした口調で言った。
「メイ! あんた斬り殺されるのと轢き殺されるの、どっちがいいの?」
「へ?」
いや、どちらも嫌なのだが……
「あんた・な・ら、轢き殺される方よね?」
「え? あ?」
「さ! 行きなさい!」
リモンはどんと尻でメイを突き飛ばした。メイは勢いに呑まれてそのまま走り出した。
《えーっと、えーっと……》
頭の中は真っ白だ。
ともかくメイはランドーの御者台によじ登ると手綱を取る。
「行ってぇぇぇ!」
メイが馬の背中を手綱で叩くと、馬は一声いなないて走り始めた。
途端にメイは背筋がぞっとした。
「リモン!」
まさか彼女はあそこで一人で戦っているのでは―――だがすぐにランドーの後ろの方から声がした。
「大丈夫よ!」
メイはほっと胸をなで下ろした。
ここから姿は見えないがどうやら発車すると同時にトランクに飛び乗ったらしい。
「あいつらは?」
「戻ってったから、多分来るわ。馬で」
「えーっと、で?」
「とにかく馬車は頼むわ。奴らが来たら私が何とかするから」
「えーっと、でも……」
道は川沿いの緩いまっすぐな下りだ。馬車はかなりの速度で走っている。今はまだ比較的平坦だからいいが、確かもうすぐ急な下りに差し掛かるはずだ。
そんな所にこんな勢いで突っ込んだら―――もっと速度を落とさなければ……
そう思ったときだった。
「奴らが来たわ!」
「ええ? もう?」
馬車より馬の方が速いのは当然だ。
「逃げて!」
リモンの叫びが聞こえる。だが……
「だめって。これ以上は」
そう答えながら振り返ってみると、馬に乗った男が三人迫ってくるのが見える。
さっきは四人いたと思ったが―――ああ、そうか。あの死体の始末をしているのか?
―――とはいっても十分多勢に無勢だ。
「メイ! 来るわ!」
「でも!」
そのときにはメイの耳にも馬の蹄の音が迫ってきているのが聞こえていた。
《逃げなければ‼》
メイは馬を急かそうとして思いとどまった。
今でも馬車は最高速度に近い。これで少々速度を上げたところであいつらを振り切ることができるとは思えないし、うっかりしたら振り落とされかねない。
でもだったらどうすれば……?
「ヒャハハハハ! お嬢ちゃーん!」
下品な声が聞こえる。
《うわー! どうしよう?》
そのとき道が軽い上りに差し掛かった。
途端に馬車の速度がぐっと落ちる―――と、ほぼ同時だった。
「ウギァ!」
男の悲鳴が聞こえた。
振り返ると近くまで迫っていた男が血しぶきを上げて落馬していくのが見える。
ランドーの後部越しに薙刀の刃が覗いている。
そうか! どうやら減速の際に追っ手はうっかり馬車に近づきすぎたらしい。
リモンはそれを見逃さずに一人仕留めたということだ。
「リモン、大丈夫?」
「大丈夫よ」
メイはほっと胸をなで下ろそうとした―――だが次の瞬間心臓が凍り付いた。
軽い上りが終わった先は、急勾配の下りになっていたのだ!
「あ、あ、あ!」
馬車は少々減速していたとはいえ、普通ではあり得ない速度で急坂に突入した。
馬車がぐんぐん加速を始める。馬たちが異常を感じていななきをあげた。
《ブレーキっ!》
メイは全力でブレーキハンドルを引いた。だが―――ふわっとした感触があるだけだ!
「わ、わ、わ!」
メイはハンドルを何度も引っ張った。
どうやら効果が全くゼロというわけではないようだが―――辛うじて現在の速度より速くはならない程度で、減速するまでには至ってくれそうもない。
また馬がいなないた。彼らも戸惑っているのだ。
普通なら自分達が引っ張るはずの馬車から思いっきり押されているのだから……
止まりたくとも止まれない。これでは馬が足を痛めてしまう! どれかが転んだりしたら―――なんてことはもう考えたくもないが……
それよりリモンの方はどうなっただろうか?
メイは振り返る。道が緩く曲がっているせいで見通しが悪い。
「後ろは?」
メイはリモンに向かって叫んだ。
「離れてついてくるわ!」
あいつら――― 一番賢いやり方に気づいたようだ。
このまま遠巻きに追いかけていれば、そのうち事故る。絶対事故る! その確率、間違いなく百パーセントだ!
《どうしよう?》
だがメイにはもう為す術がなかった。
普通の場所ならば別にブレーキが無くとも馬車は止められる。
ちょっと手綱を絞って馬に止まってくれるよう伝えてやればいいだけだ。
だがこんな坂道では馬車本体が自走して馬を押してしまう。そういうときのためにブレーキがあるのだが……
《前門の虎後門の狼という諺にぴったりな状況よねえ……》
―――なんてどうして頭に浮かんでくるのだ? もう何だか人生走馬燈状態に突入しているのか?
だが彼女達の運はまだ尽きていなかった。
緩いカーブを曲がるとそこで急な坂道が終わって“そこそこな”坂道になってくれたのだ。
これならゆっくり時間をかければ減速していけるかもしれない!
だがほっとする間もなかった。
次いで現れたのは急なカーブだ。
「わあぁぁぁ!」
馬車はあり得ない速度でカーブに差し掛かる。
車体が外側に膨らんで道を外れそうになるが―――今走っているのは斜面につけられた切り通しだ。外側にはみ出したらそのまま真っ逆さまなのだが……
「きゃあああ!」
だが何とかそのカーブは切り抜けられた。
振り返ってみるとまさに危機一髪だ。
外側にもう五センチ膨らんでいたら……
………………
…………
……
見なかったことにしよう―――そう思って前を向いた瞬間だ。
《はあぁぁぁ?》
まさに目が点になった。
その先にはもっととんでもない障害が待ち構えていたのだ。
カーブの先はちょっとした直線になっていたのだが、少し先の開けたあたりに―――なんと荷馬車が一台道を塞ぐように止まっているのだ!
「ぎゃああああ! どいてぇぇぇぇ!」
メイは手綱を引き絞ると声の限りに叫んだ。
このままでは―――激突してしまう!!
その叫びが聞こえたのか、荷馬車の御者台にいた男が慌てて馬を動かし始めた。
《ごめん! 間に合って!》
ランドーは急に止まれない。
荷馬車も急に動けない。
二台の馬車はどんどんその距離を縮めていって……
「わあああああ!」
メイは思わず目を閉じた。がきんと何かがぶつかったような音がする。
だが……
彼女が恐る恐る目を開くと―――再びの危機一髪だった。
ランドーは荷馬車をかすめながらその脇ぎりぎりを突破していたのだ。
荷馬車が離合場所にいてくれたおかげで道が空いて―――これが通常の場所だったら間違いなくそこでこの物語は終了だった。
《嫌! もう……》
また道が大きくカーブしている。
その先で橋を渡ると今度はまた上りになっているが―――と、そのときだった。
「ええっ?」
リモンの驚愕する声が聞こえたのだ。
「どうしたの?」
「あの人……」
ふり返るとメイにも見えたのだ。何者かが追っ手を馬から叩き落としているのを……
え? どういう事だ?
「ともかく止めて!」
リモンが叫ぶ。
「うんっ!」
とはいうものの、勢いのついた馬車はなかなか止まらない。
しばらく走って上り坂に差し掛かったあたりでやっと馬車は停止した。
同時にリモンが飛び降りる。
「リモン!」
「あなたはそこにいて」
「うん」
見ると道の向こうから男が一人やってくる。
あの服装は―――行商人か? ともかくさっきの追っ手とは違うようだが……
だが手には血塗られた剣が握られている。
リモンはそれを見て薙刀を構えた。
それを見て男は手を振った。
「違うってよ。何もしないって」
そう言いながら男は自分が手にしていた剣を見る。
それから慌てて腰の手ぬぐいで血を拭き取ると鞘に収めた。
そうしてもう一度両手を広げると言った。
「大丈夫だって!」
リモンが少し警戒を解いた。
だが男が更に近づこうとすると再び薙刀の刃を向ける。
「おいおい。助けてやったんだぜ。それ、怖いから向けないでくれよ」
そうは言われてもこんな目に会った後だ。リモンもおいそれと同意するわけにはいかないだろう。
そんな彼女を見て男はふっと笑った。
「まあ、しょうがないか。それはともかく、あんたら、よく生きてたな……」
「あなた、何者?」
「あんたらの味方だ。一応な。というかまあ、あいつらの敵って方が正しいかもな」
「じゃああいつらが何なのか知ってるの?」
「ああ。そのために来たのさ。この先で起こる“予定”だった事故を防ぎにな」
それを聞いてリモンは男の喉頸を狙っていた薙刀の刃先を逸らした。
男がほっとしたようにため息をつく。
「というわけであんたら、俺と一緒に来な」
「え?」
「それともその馬車で行くか? 確かに俺の荷馬車よかずいぶん立派だが」
「………………」
まあそれはあり得ない。
リモンは男から目を逸らさずに手で合図しながら言った。
「メイ!」
「うん……」
メイは御者台から降りてリモンの隣まで行った。
近寄ってみると男は髭もじゃで行商人っぽい服を着ているが、結構がっしりした兵士のような感じだ。
だがその眼光には何か抜け目ないというか危険というか、そんな少し尋常でない輝きがある。
《この人……何者なのかしら?》
いま分かることは、少なくとも追っ手を二人やっつけてくれたらしいということと、当面の敵ではないということだけだが……
じろじろと値踏みされていることに気づいてか、男はにやっと笑って言った。
「あんたがその馬車を動かしてたのかい?」
「え? ええ」
「すげえな。こんど戦車レースにでも出ねえか?」
「お、お断りです!」
メイは真っ赤になった。今そう言う冗談を受け流している余裕はない。
「そりゃしょうがねえな。ま、それはそうと、ほら、ついてきな」
そう言って男は手招きすると背を向けて彼の荷馬車の方に歩き始めた。
メイとリモンは顔を見合わせた。
だが現在それ以外に選択の余地が無いというのは明らかだった。