知りすぎていた娘 第6章 タワーリング・インフェルノ

第6章 タワーリング・インフェルノ


 出立してからしばらくは何事もなく過ぎた。

 最初は緊張していたから良かったが、メイは段々退屈になってきた。

 外を眺めようにも救急馬車の明かり取りからでは何か今ひとつ気分が出ない。

 メイは横のリモンを見る。

 彼女は膝の上に折りたたんだ薙刀を乗せて、じっと黙って座っている。元々彼女は寡黙だから別に黙っていてもおかしいことはないのだが、何しろあんなことがあったばかりだ。

 でもどう話しかけたらいいのだろう?

 大体考えてみればメイよりもリモンの方がずっと大変だったのだ。

 本来ならば楽しいデートのはずが……

《そうなんだ……ルカーノさんが……》

 あの後、怒濤のように押し寄せてきたトラブルのせいで何だかうやむやになっているが―――まずその一点だけでもショックで寝込んでしまえるレベルのダメージのはずなのに……

 メイには想像もつかないが―――だが王女がさらわれたとき、そのせいで参ってしまったコルネを見ているだけで胸が締め付けられるような気持ちになったが、少しはそんな気持ちに近いのだろうか。

《大好きな人が永遠にいなくなるなんて……》

 メイは首を振った。

「ん?」

 それを見てリモンが不思議そうに声をかける。

「いえ、何でもないの」

「そう」

 二人は再び黙りこむ。

《それなのにリモンは……》

 本当に辛かったはずなのに、命がけで敵と戦って何人も倒してきた。

《一杯人が死んで……一杯殺してしまって……》

 そんなことが起こっていたのだ。少しくらい気分が悪くなって何が悪い?

 というより自分は何なんだろう?

 胸がどうとか言ってぶち切れた後は、何だかもう慣れっこになってしまったみたいで―――いいのだろうか? こんなことで?

 そんなことを考えていると御者台からパミーナの声がした。

「向こうから荷馬車が来るわ」

 メイとリモンは再びベッドに横たわった。

 密着しているリモンの体が緊張するるのが分かる。何か起こるだろうか?

 ―――だがしばらくしてゴトゴトと馬車がすれ違う音がしただけだった。

 二人はふうっと息をつく。この調子なら今後も問題なさそうだ。

 再び二人はベッドの端に腰掛けた。

 そういえば出立してからずいぶん来ているような気がする。

 そこでメイはパミーナに声をかけた。

「まだなの?」

「もう半分以上来てるから」

 もう半分なのか、まだ半分なのか……

 そのやりとりを聞いてもリモンはじっと目を閉じたままだ。

 そういえばフェーゴが言っていた。あっち側とかこっち側とか……

 フェーゴというのは何か危険な雰囲気がある。

 多分今までずっとこんな事をしてきたのだろうが―――彼が警備兵を躊躇なく殺したのを見てメイは衝撃を受けた。

 だが今思えば彼の言ったことももっともだった。

 彼らを逃がしたりしたら、また仲間を連れて追ってくるに決まっている。そうなったら自分達が殺られるか―――もしくはもっとたくさんの人を殺さなければならないわけで……

 だからそうならないようにもっとも確実な方法を実行した、それだけなのだ。

 それだけなのだが……

 そうは言ってもあんな風にあっさりと人の命を奪えるというのは―――慣れたら死体の横でランチが食べられるとか何とか言ってたが……

 メイは首を振った。

 分からない。はっきり言って想像もつかない……

《でも彼女には……理解できるんだ……もう……》

 メイはリモンの横顔を見た。

 あっち側とこっち側―――彼女はもう決して届かない所に行ってしまったのだろうか?

《でもアウラ様は?》

 そういえば彼女は以前賞金稼ぎをしていたと言うが、それはすなわち彼女もそうやって人を殺したことがあるということだ。

 だが彼女と一緒にいても別にそんな危険な感じはしないのだが―――アウラってどっち側なのだろう?

 そのときだ。またパミーナの声がした。

「向こうから誰か来るわ。警備兵みたいよ」

「分かったわ!」

 メイとリモンは再びベッドに横たわった。

 今度はリモンは毛布の下に隠した薙刀をしっかり握りしめている。

《またあんなことにならないといいけど……》

 だがフェーゴ一人で処理しきれないときは、彼女が助太刀しなければならないだろう。

 二人が緊張して横たわっていると馬車の外から話し声が聞こえてきた。

 パミーナと多分警備兵だ。

「どちらから?」

「ヘルゼの村からですが? バレーナの病院まで。急患なんです」

「そうですか。どんなご病気です?」

「よく分からないんです。でもひどい腹痛と嘔吐があって、ただの食あたりじゃないみたいで。だからこうして」

「そうですか。実は表街道の方で東方から来られたお客人の馬車が山賊に襲われたそうで、お付きの侍女が二人行方不明なんだそうですが……」

 メイとリモンは緊張して体を硬くする。

「そういった方を見かけませんでしたか?」

「え? いえ、気づきませんでしたが?」

「そうですか。もし何か見かけたら番所の方に教えて頂けますか?」

「分かりました。注意しておきます」

「それではお大事に」

 警備兵は去っていったようだ。

 メイとリモンはふうっと息をつく。

「ああ、緊張したぜ」

 フェーゴの声が聞こえた。

 それに対してパミーナが答えた。

「どうして中を確かめなかったんでしょうね?」

「単なるこの辺の自警団か何かだったんじゃ? メイド二人を捜せとは言われていても、裏事情までは知らされてなかったんだろう。多分」

 なるほど。だったら納得はいく。

 盗賊に襲われたメイドなら、警備兵がいたら間違いなく保護を求めるだろうし―――それに話しぶりを聞いていても、いい人そうだったし……

 そのとき馬車ががくんと大きく揺れて、メイは横のリモンにごつんとぶつかってしまった。

「あうっ!」

 それを聞いてパミーナが声をかけた。

「大丈夫?」

「大丈夫だけど……」

「ここから幽霊屋敷への道なの。凸凹が激しくなるから注意してね」

「分かったわ」

 よし! これで最後の行程だ! 後は―――と、そう思ったときだ。後方から男の声が聞こえてきたのだ。

「おーい! おーい!」

「え?」

 メイが馬車の後ろの小窓から外を覗くと―――先程の警備兵らしき男が追いかけてくる。

「どういうこと?」

 ともかく二人はまたベッドに横たわる。

 声の主は近づいて来ると言った。

「おーい! そっちは病院じゃないぞ!」

 うわ! もしかして馬車が違った道に入ったのを見て、間違えたと思って戻ってきてくれたのか? 小さな親切大きなお世話だ!

「あー、色々ちょっと事情がありましてね」

 戸惑ったようなフェーゴの声がする。

「え? でもそっちは……」

「ちょっと待ってもらえますかい?」

 それからフェーゴがパミーナに何か囁いている声が聞こえた。

 するとリモンがばっと飛び起きて、御者台への小窓に顔を押しつけて言った。

「どうする気?」

「ここは俺が何とかするぜ」

「じゃあ私も……」

 だがフェーゴは即座にきっぱりと答えた。

「だめだ!」

「でも……」

「俺が行った後はお前しかいないだろ?」

「………………」

「大丈夫だって。相手は二人だし。素人っぽいし」

 リモンは口ごもる。

「じゃ、後は頼んだぜ」

 フェーゴはそう言って御者台から降りようとした。

 それをリモンが呼び止める。

「待って!」

「ん?」

 フェーゴが振り返る。リモンは彼をじっと見つめると言った。

「……気をつけてね」

「ああ。そっちこそな」

 フェーゴが笑うとリモンも微笑んで答える。

「うん……」

 それからフェーゴが馬車から降りると、不思議そうな警備兵の声がした。

「あの、どういうことです?」

「それがな……」

 彼がそう言った所でパミーナが馬車を発車させる。

「おい? どこへ?」

「まあまあ、ちょっと俺の話を聞いてくれないかな……」

 そう言ってフェーゴは警備兵を引き留めると何か話し始めたが―――すぐに馬車が離れてしまったのでその先はもう分からなかった。

 やがて道がカーブすると彼らの姿も見えなくなってしまった。

 メイとリモンは顔を見合わせる。

 リモンは今度は薙刀を手にして馬車の後方を凝視し始めた。

 フェーゴはどうする気なのだろう?

《話してごまかしきれないときは……多分また……》

 メイの胃がまたぎゅっと縮むが―――今はそんなことを気にしていても仕方ない!

 そのときパミーナが言った。

「ねえねえ、メイちゃん」

「何?」

「荷物の中に手紙入ってる?」

「え? 手紙?」

 メイはぽかんとして訊き返す。

「最後にフェーゴさんが言ったのよ。荷物に手紙があるから、それをファシアーナ様に見せろって」

 手紙? ファシアーナに渡せだって?

 ともかくメイはフェーゴの手荷物を漁ってみた。

 すると確かに封をされた宛先のない手紙が見つかった。

「あったけど?」

「じゃあ忘れないように持ってて」

「分かったわ」

 一体何の手紙なのだ?―――興味津々だが、今はそれどころではない。

 メイもリモンと一緒に後方から誰か追って来ないかじっと観察した。

 だがとりあえずは誰も来ない。どうやらフェーゴは何とかしてくれたらしい。

《あんまりひどいことしてないといいけど……》

 いや、今はそういうことを考えるのはよしておこう。

 やがて馬車は森の中に入っていく。

 それにつれて道は更にひどくなってきた。

 それから今度は結構な勾配の上りになる。あんまりがたがた揺れるので酔ってしまいそうだ。

 いい加減うんざりしかかったとき、馬車は森を抜けてぽっかりと開けた場所に出た。

 そこでパミーナが馬車を止めて言った。

「着いたわよ」

 メイとリモンはここぞとばかりに後部ドアを開いて地面に降り立った。



 救急馬車を降りてもまだ体が揺れているような気がする。

 そこはちょっとした広場になっていて、来た方は深い森に、行く手には崩れかけた石壁があって錆び付いた大きな鉄格子の門が付いていた。

 門は閉じていたが、石壁の崩れた所から中に入れそうだ。

「ここなの?」

 メイの問いにパミーナがうなずく。

「ええ。それより手紙は持った?」

「もちろんよ」

「それじゃ行きましょう」

 パミーナは彼女達を先導して歩き始めた。

 石壁の崩れを乗り越えると屋敷の敷地だ。

 かつては壮麗な庭園だったのだろうが、今では高い雑草が森のように生い茂っている。

 その中には小さな木まで混じっていて、本当に森になりつつある。

「これっていつからこうなの?」

「さあ。お母さんが小さかった頃からこんな感じだったって」

「パミーナさんは来たことあるの?」

「子供の頃何度か探検にね。すごく怒られたけど」

「でしょうね」

 一行が廃園の中を抜けると屋敷が見えてきた。

 こちらももうボロボロになっていて、あちらこちら屋根が崩れ落ちていて近づくとあたり一面瓦礫の山だ。

 壁面は一面太い蔦に覆われている―――というよりその蔦のせいで何とか形を保っているようにさえ見える。

「塔ってどっちかしら?」

「多分こっちだけど……」

 パミーナは二人を案内した。

 ところがしばらく行くと、行く手は瓦礫の山で先に進めない。

「ここじゃダメだわ。回り道しないと」

 一行は引き返して別な道を探す―――と何度も試行錯誤して、やっとあの夜に来た塔が見えてきた。

「ファシアーナ様、どうしてこんな所に住んでるのかしら?」

 リモンがぼそっと言った。

「さあ……私も知らなかったわ。ここはずっとみんな廃墟だって思ってたし」

 そうなのか―――それはそうと……

 メイは塔を見上げた。こうやって見るとものすごく高い。

 屋敷は元々三階建ての石造りになっているが、その各所ににょきにょきと塔が五カ所ほど建っている。

 そのうち三つは崩れ落ちているが、残りの二つは屋根の高さの倍以上の所まで伸びている。

 ファシアーナが住んでいるのはそれの湖に近い方だが、そちらは地面が傾斜しているため塔の基部が通常の三階くらいの高さになっているし……

「それで入り口は?」

 メイの問いにパミーナは首をかしげた。

「さあ……」

「さあって……」

「だって私もここまで来たのは初めてだし」

 まあ当然か。メイ達はあたりを観察した。

 現在いる所は荒れ果てた庭園の隅で、袋小路のようになっている。

 一方が屋敷の壁、二方向が敷地の外壁だ。

 彼女達が外壁の割れ目から外を覗くとそこは湖に面した崖だった。

「うわ、こっちじゃないわね」

 だが屋敷の方にも入り口はない。

「戻って屋敷の入り口を探した方がいいのかしら?」

 メイの問いにパミーナが答えた。

「でも中は人が通れる状態じゃなかったわ」

 確かにここに来るまでに何カ所か入り口があったが、瓦礫で埋まっていたり中がひどく壊れていたりしたので入らなかったのだ。

「そういえばファシアーナ様、階段は壊れてるって言ってなかった?」

 ………………

 …………

「あ……」

 リモンの言葉にパミーナが手を口に当てる。

 そう言えば何となくそんなことを言っていたような気が―――ということは?

 三人は顔を見合わせる。それからパミーナが独り言のようにつぶやく。

「それじゃどうやってあそこまで行くの?」

 三人は塔を見上げる。

 メイは塔をじっと観察してみた。

 塔や屋敷の壁面は太い蔦で一面に覆われている―――だとすれば原理的には……

 彼女達は再び互いに顔を見合わせた。

「ここから叫んで見ましょうよ。聞こえるかも」

 パミーナの言葉にメイとリモンもうなずいた。いい考えだ!

「そうしましょう!」

 そこで三人は大声でファシアーナの名を叫んだ。

 だが彼女は出てこない。

 そこでまた叫ぶ。

 しかし彼女は出てこない。

 それから彼女達は声が涸れるまで、ついには悪口なら聞こえるかも、と罵詈雑言まで吐いてみたが―――やはりファシアーナは出てこない。

 いい加減声が涸れた頃、パミーナがぼそっと言った。

「やっぱり酔っぱらってるのかしら?」

 その可能性は大いにあるとは思うが……

「ほら、あそこってすごく高いし、扉とかも分厚かったから、閉めてたらやっぱり聞こえないんじゃ……」

 メイの言葉に三人は再度顔を見合わせる。

 それからメイは塔をじっと観察する。

 塔や屋敷の壁面には太い蔦が一面に這っているから、原理的には……

 するとリモンが言った。

「ここで待ってたら出入りしないかしら? そのときなら……」

 いい考えだ! と思ったが、パミーナが答える。

「でもできる限り早く伝えないと……それに追っ手が来ないとも限らないし……」

 !!!

 確かに追っ手が来る可能性は―――ある!

 だとすれば―――三人は再び顔を見合わせた。

 それからメイは塔をじっと観察する。

 塔や屋敷の壁面には太い蔦が一面に這っているから、原理的には……

《やっぱこれっきゃない?》

 メイははあっとため息をついた。

 どうやらこれは彼女の役割らしい。

「分かったわ。私見てくる。これ持ってて」

 そう言ってメイはパミーナに手紙を渡した。

「見てくるって……もしかして」

「だって二人とも、高い所だめでしょ?」

 ………………

 パミーナとリモンは顔を見合わせた。実際その通りだからだ。

 メイはリモンの手を握った。

「リモン。ありがとう。でもあなたばっかり危ない目に合わせられないから」

「でもメイ……」

 リモンの目がメイと塔の間を何度も往復する。

 メイは彼女に微笑みかけた。

「追っ手が来たらそっちは任せるから。こっちは私に任せて」

 それを聞いたリモンは何か言いたそうにじっと彼女を見つめる。

 次いでがばっとメイを抱きしめた。

「分かったわ。こっちは任せて」

 体を離すとメイは二人に手を振った。

「じゃ、ちょっと行ってくるね!」

「メイちゃん……気をつけてね」

「らいじょうぶって!」

 だがなるべく気軽な口調で言おうとするあまり、逆に噛んでしまう。

 それを聞いて二人の表情がちょっと険しくなった。

《まずい!》

 これ以上引き留められたら決心が鈍ってしまう!

 メイはぱっと駆け出すと、するすると屋敷の壁を登り始めた。

 壁は一面太い蔦に覆われている。

 長年かけて絡みついたため、かなりの太さがあって足場も持ち手もしっかりしている。

《これだったら木登りと同じじゃない?》

 そう思ってメイはちらっと下を見た。

 リモンとパミーナが心配そうに見上げている。そこでメイは彼女達に手を振った。

 二人が慌てる姿が見える。それを見て彼女はちょっと可笑しくなった。

「うふふふ」

 これだったら大丈夫だ。メイは農場育ちだ。子供の頃からそういった遊びは散々やり倒してきている!

 メイは鼻歌交じりに屋敷の壁を登っていった。

 実際屋敷の屋根までは全く困難なくたどりついた。

「大丈夫?」

 下からパミーナの声がする。

「全然大丈夫よ!」

 と言って下を見ると―――結構な高さになっている。さすがに少々注意して行かなければ……

 メイはこれから行くルートを確認した。

 まず屋根の上を伝って塔の下まで行って、そこからまた登っていかなければならない。建物は斜面に立っている部分なので、屋根も傾いていたり段々になっていたりするが、それほど危険そうなところは見あたらない。

 メイはそろそろと屋根の上を歩き始めた。所々壊れているところがあるが、屋根の梁そのものはまだしっかりしている。そういう所さえ注意すれば大丈夫だ。

 メイはゆっくりと注意深く進み、やがて塔の真下にたどり着いて辺りを見回してみると……

「うげ……」

 思わず声が出る。

 ファシアーナの塔は湖の崖の端に近い所に立っているが、そこは既に屋敷の屋根では一番高い部分だ。

 振り返るとリモン達が遙か後方に豆粒のように見えた。

 途端に胃がぎゅっと握られたような感じがする。

《ううう……これってやっぱりヤバいかも……》

 メイだって高さに対する不感症ではない。しっかりした足場さえあれば少々高くてもあまり怖くはないが、それも程度問題だ。さすがにこれは……

 メイは首を振った。

《とにかく頑張らなきゃ!》

 ここまで来て今更やめることなどできない!

 メイは目の前にそびえ立っている塔を観察した。

 これが最後にして最大の難関だが―――ここにも相変わらず太い蔦が密生しているから、注意さえ怠らなければ今までと大差ない。

 メイは何度か深呼吸して心を落ち着ける。

 それからおもむろに登り始めた。

《何だ! 大丈夫じゃない!》

 下を見るから怖いのだ。下を見ないで手元の蔦だけに注意を払っていれば怖くない! 梯子を登っているのと同じだと思えば!

 だが最初のうちはそれで良かったが、だんだんそうもいかなくなってきた。

 こういった塔の造りの一般として、下の方は傾斜があるが上に行くに従って垂直に近くなってくる。

 それに絡みついている蔦もだんだん細く少なくなっていく。

 挙げ句に遮る物がないので時折かなり強い風が吹き付けてくる。

 そして何よりも―――段々手足が疲れてきたことだ。

《うー……》

 安全な所でメイは手をぶるぶると振った。握力が無くなってきているのは明らかだ。

 だがこれからが一番大変な所なのだが……

 メイの登るペースはどんどん遅くなっていった。

 そしてある場所でメイはそれ以上進めなくなってしまったのだ。

「えーっと……」

 疲れもさることながら、この先どう行けばいいのだ? まっすぐ上だと蔦が少ない。どちらかに回り込まなければならなそうだが……

 そのときメイは気がついた。


《足下が……見えない……》


 ロッククライミングをする場合、登ることは簡単な場所でも横に行くのは難しく、下るとなるとロープでもなければほぼ不可能だ。

 メイが陥っている状況もそれと同じだった。

 上に行く場合はしっかりした足場を目視しながら、必要なら強度を確認しつつ登っていくことができる。

 だが横の方だと枝や葉に隠れて足を乗せるところが見づらい。

 更にはその足場が安全かどうか、予め確認する術もない。

 メイはその事実を今、身をもって体験していた。

《これって……もしかして……》

 そう。これが何を意味するかというと―――もう引き返すことはできないということだ。

 それを実感した瞬間、メイは本気で怖ろしくなってきた。

 途端に今まで普通に動いていた手足まで思うようにならなくなってくる。

《ちょっと待ってよ?》

 メイは大きく深呼吸する。だが恐怖はなくならない。

《うう……どうしよう?》

 そのとき彼女は思いついた。ファシアーナの部屋にずいぶん近くなっている。

 ここからなら声も聞こえるかも……

「ファシアーナ様! ファシアーナ様!」

 メイは大声で叫んだ。

 だが返事はない。

「ど……た…の?」

 しばらくして遙か後方から微かにパミーナの声が聞こえた。

《あはは……あれじゃ聞こえないわよね……》

 などと今更分かっても仕方ない。

 ともかく彼女には前に進む道しかないのだ。

 生き残る術はファシアーナの所にたどり着くこと。それだけなのだ!

 メイは可能な限り反り返って、左右を観察する。

 すると少し太めの蔦が斜めに這っているのが見えた。

《あれ伝いなら……》

 メイはそろそろと横に移動した。

 登るのに比べて足下が分かりにくい。

 足を乗せるときでもいきなり体重をかけずに、いつでも元に戻せるように徐々に体重をかけなければならない。そうすると半端なく両手に負担がかかるのだが―――落ちるよりはましだ。

 距離にしたらわずか数メートルだった。だが渡り終えたときメイは心底ほっとした。

 一息ついて見上げると塔のバルコニーが見えている。

《あそこだ! あそこまで行けば!》

 そう思ってメイは勇んで登ろうとした。

《??》

 ところが何故か手が動かない。

「え?」

 メイは再び手を伸ばして上の蔦を掴もうとするが―――動くことは動くが、まるで鉛のようになった感じで力が全然入らない。そのうえ蔦を握ろうにも指が開かないのだ。

「ちょっと、ちょっと待ってよ!」

 さっきの横移動でバランスを崩しかけて腕力で全体重を支えた箇所が何カ所かあったが、そのせいか?

 えーっと、こういう場合どうしたら―――疲れならちょっと休めばいいはずだ。

 メイはその場で深呼吸する。

 だが状況が状況だ。それで休みになっているのかどうか……

 そもそも彼女は今、人里離れた廃墟の塔の中腹にへばりついている。

 頼みの綱は上にいるはずのファシアーナだが―――しかし別にアポを取ってやって来たわけではない。彼女が留守というのも十分にあり得ることだが……

 ―――などということにメイは今更ながら思い当たった。

《だとしたら?》

 そう思ってメイは首を振る。

 別に問題はない。今見えているあのバルコニーにまで行き着ければ、最悪そこでファシアーナの帰りを待てばよい。

 リモンやパミーナをあそこに置いておくのは心配だが、敵が来ると決まったわけではないし、リモンなら少々の敵が来たって大丈夫だろうし、そもそもあそこは隠れるところならいくらでもある。何とかやり過ごせるに違いない!

 メイはうなずいた。

《よし。問題なし! それじゃ……》

 だがそう思って登ろうとしたのに、相変わらず彼女の手は動いてくれなかった。

「ああ?」

 途端にメイは怒りがこみ上げてきた。

《みんな頑張ってるのに、何やってるのよ! この……バカ!》

 やにわにメイは、思い通りにならない自分の右手に頭突きを食らわせた。

「痛!」

 手と頭が痛い! 当たり前だが―――でもそれで少し手が自由になったのだ!

「やった!」

 甘やかしてばかりではだめということだ。

《今度は言うこと聞くのよ?》

 メイは手をそろそろと伸ばして蔦を掴んだ。大丈夫だ。指は動く。感触もしっかりしている。落ち着いて行けば大丈夫だ!

 それから今度は左足の位置をそろそろと変える。

 今度は左手の位置を変え、それから右足の位置を変え……

 梯子を登るときに手足をどう動かすかなど今までまともに考えたこともなかった。

 だが今はそれを全力で考えないと体が反応してくれない―――だがそれでもまだ彼女の手足は彼女の物だ。どんなにゆっくりとでも動いてはくれる。

 メイは進むことにのみ全神経を集中した。

 どんなにゆっくりでも動いてさえいればいつかは目的地につくはずだ。いつかは……

 ―――それからどのくらいの時間が経ったのだろうか?

 ふと気づいたら、あのバルコニーが斜め上すぐの所に見えていた。

 ここからなら声が聞こえるかも!

「ファシアーナ様! ファシアーナ様!」

 メイは再び叫ぶ。だが返事はなかった。

 ファシアーナは本当にいるのだろうか?

 ともかくせめてあのバルコニーまで行かなければ……

 そのときメイはとんでもないことに気がついた。

 バルコニーはどうも後から修理されたらしく、付近の壁面の色が少し違っているのだ。

 そしてその際に蔦を取り払ったようなのだが……

 すなわちバルコニーに行くにはほとんど凸凹のない、蔦も這っていない壁伝いに行くしかないが……

《そんなの無理よ!》

 世の中にはそういうことができる人もいるらしいが……

「ファシアーナ様! ファシアーナ様! ファシアーナ様ぁぁぁ!」

 メイはあらん限りの力を込めて叫んだ。

 だが返事はない。

 こういう場合、一体どうすれば……

 このままずっとここに張り付いていろというのか?

 いや、そんなことはできない。そろそろメイの手足は疲労で限界に近い。それよりも……

 メイは上を見た。

 上がって斜めに行けばバルコニーの上に行けそうだ。そこからなら降りられるかも!

《よしっ! あそこまでだ!》

 ともかく行くしかない! 行ってしまえば最悪ファシアーナがいなくとも何とかなる。

 あそこまで行きさえすれば!―――そうメイは心を決めると再び登り始めた。

 だがそこから少し行った所だった。

《これを掴んで足をあそこに乗せれば、後はもうすぐだわ!》

 そう思ってメイは一見しっかりしている蔦を掴んだ。

 だが蔦はしっかりしていたのだが、その下の壁が風化していたのだ。

 彼女が蔦をぐっと引っ張った瞬間、壁がぼろっと崩れた。

 そんなことを全く予期していなかった彼女はバランスを崩して足を滑らせてしまったのだ。

「ああっ!」

 メイは慌てて近くの蔦を両手で掴んだが―――それは彼女の全体重を受けたせいで、壁からめくれ上がるように剥がれていく。

《え?》

 声にもならない恐怖がメイの胃を締め付ける。

 まるで永遠の時が経過したかのようだった。

 メイが恐る恐る目を開けると―――蔦の剥がれは止まっていた。

 しかしメイの足下には何もなかった。

 壁面を這っていた蔦の枝が剥がれて、その先に彼女がぶら下がっている状態だ。

《げげげ!》

 メイはともかく足場を探した。

 だが運の悪いことに彼女の足があるあたりはバルコニー脇の蔦を取り払われた場所だ。

 胸のあたりにならさっき足を乗せていた太い蔦がある―――それならば一回だけ懸垂ができれば何とかなるかも……

 だが今の彼女の腕は懸垂どころか、ただぶら下がっているだけで精一杯だ。

《!!》

 あまりのことに声も出ない。

 こういう場合一体どうしたら―――って、これってもしかしていわゆる“絶体絶命”という奴じゃ⁉

 遠くから何だか悲痛な叫びが聞こえてくる。

 次いでメイの口からも悲鳴がほとばしった。


「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 もうだめだ! 何もかもが終わりだ!

 彼女は元々そんなに腕力があるわけではない。おまけに最近はペンより重い物は持ったことがないし……

 握力はどんどんなくなっていく。

 体を引き上げようにも伸びきった腕はぴくりとも動かない。

 それどころかもう手の感触もほとんどない。

 となれば後は……


「助けてぇぇぇぇぇ!」


 涙で視界がにじんでくる。もうダメなのか?

《嫌! まだ死にたくない!》

 そのときだった。上の方でがたんと窓の開く音がしたのだ。

「あん? あんた……メイちゃん? 何で……」

 そこから首を出しているのはファシアーナだ。

《ファシアーナ様?》

 気づいてくれた! ファシアーナが気づいてくれた‼‼

 ということは?

 そうだ。彼女はファシアーナに知らせるために来たのだ。

 一部始終ならリモンが知っている。

 フェーゴの手紙はパミーナが持っている。

 だったら?

 そうだ。もう大丈夫なのだ。彼女の役目は終わったのだ。


 ―――それが分かった瞬間、メイの手の中からずるっと蔦が抜けていった。



「メイ! メイ!」

 どこからか声がする。

 この声はリモンの声だが―――どうしたんだろう?

 メイは薄目を開けた。

 覗き込んでいるのは確かにリモンだ。

 リモンは彼女を見て大粒の涙をこぼした。

「メイ! あなたまで行っちゃったのかと思った……」

 そう言うなりメイをぎゅっと抱きしめた。

 何だか意識が朦朧とした感じだ。

 一体どうしてこんな所で寝ているのだろう?

 メイはリモンの肩越しに周囲を見た。

《えーと……ここは?》

 見たこともない石造りの部屋の中だ。

 天井は煤けていて周囲には乱雑に色々な物が置かれている。

 壁面は一面本棚になっていて、ぎっしりとあれやこれやの本が詰まっている。

 彼女の寝ているベッドの脇にはテーブルがあって、酒瓶と半分空いたグラスが置かれている。

《??》

 そのとき床の穴からふっとパミーナが顔を出した。何かと思ってよく見ると、どうやらそこは螺旋階段の降り口らしい。

「メイちゃん、起きたの?」

「うん」

 リモンの答え聞くとパミーナも部屋に飛び込んでくるとメイに抱きついた。

「良かった! 本当に」

 二人の様子は変と言えば変だが―――妙に納得いく行動のような気もする……

 えーっと―――何だったっけ? 確か……

 段々記憶が蘇ってくる。

《そうだ! 確か塔を登ってたんだっけ? それから……えーっと》

 何だかすごく怖かったような気がするが……

 次いでファシアーナが下からするっと飛び込んできた。

「目、覚めた?」

 ファシアーナ? ということは、ここは?

「え? あ……」

 途端に彼女は思い出した。

 そうだ。彼女はファシアーナに会うためにあの塔を登っていて、途中でにっちもさっちもいかなくなって、とうとう力尽きて……

 途端にメイの目からも涙が噴き出してきた。

「ごめんなさい……でも……でも……」

「あー! いいからいいから。ともかく」

 ファシアーナがメイの頭を撫でる。

 すると今度上がってきたのはニフレディルだった。

「メイちゃんが気づいたって?」

「はい」

 パミーナが答える。

 ニフレディルはそのまますうっと飛んでやってくると、メイの側にすっと降りた。

 それから彼女の頭に手を当てる。

 しばらくそうしていた後、彼女はにっこりと笑った。

「大丈夫。どこも悪くないわ」

 リモンとパミーナがほっとした表情で息をつく。

「それで……あの……あの後は?」

 それを聞いてファシアーナがにやっと笑って答えた。

「まったく人がいい気分でうたた寝してたら、窓の外で騒いでる奴がいるじゃない? で、覗いてみたら勝手に落っこちてくし。ったく、人の家の庭で勝手に飛び降り自殺してんじゃないよ? 迷惑だから」

「すみません……でも」

「普通ならどやしつけてるとこなんだけどね。いろんな意味で滅茶苦茶だろ? 魔法も使えない奴がこんなとこ登ってくるなんてさ。でも今回はな」

 そういってファシアーナはふっと笑った。

 それから彼女はメイ、リモン、そしてパミーナの頭をぐりぐりと撫でた。

「あんたら、本当によくやったよ。百二十点くらいの出来だな」

 ファシアーナはそう言うともう一度メイ達に微笑みかけた。

 その横でニフレディルが言った。

「本当にとんでもないことをしてくれたわね。あなた達は」

 その表情は―――笑ってない。うわ、やっぱり怒ってるのだろうか?

「えっとあの……すみません」

 それを聞いてニフレディルは笑って首を振る。

「違うわよ。こっちよ」

 そう言って彼女は手紙を取り出した。あれは確かフェーゴに託された……

「あ……で、何だったんですか? それ……」

 リモンとパミーナが顔を見合わせる。ニフレディルとファシアーナの顔も真剣になる。

 そしてニフレディルが答えた。

「これには、ハヤセ氏がレイモンと通じていると記されてるわ」

 ………………

 …………

 ……

「え?」

 メイはぽかんとした。

 それからその意味が脳に染み渡って行くにつれて―――それがとんでもない情報だと言うことを理解した。

「え? あの、じゃあ……」

 ニフレディルはうなずいた。

「そう。今回の侵攻はハヤセ氏が裏でレイモンと通じていたから起こったと」

「え? でもアルヴィーロさんは、レイモンと戦おうとしてたじゃないですか? 一番……」

「そうね。そしてレイモンを撃退すれば、都での地位は盤石になるでしょ?」

「え? あ……」

 確かに―――裏で通じていればいくらでも出来レースはできそうだし、そうなればハヤセ氏はレイモンを撃退した英雄だ。

「でも……それならレイモンに何の得が?」

 それが事実ならレイモンがハヤセ氏の野望達成に協力してくれたということになるわけだが―――その質問を聞いてニフレディルはちょっと微笑むと、再び真顔になって答えた。

「講和成立の暁には魔導師をレイモンに派遣する約束になっていたらしいわ」

 ………………

 …………

 ……

《えーっと……えーっと……それって……》

 ちょっとまてーっ!

「何か、だめじゃないですか? それって! ほら、それって都がレイモンのバックに付くみたいな、仲直りって事ですよね? だったら小国連合の方とかはどうなるんですか?」

 メイの答えを聞いてニフレディルはにっこりと笑った。

「だからとんでもないことをしてくれたって言ったのよ」

「………………」

 えーっと―――えーっと……

「普段ならこんなのはどうせ怪文書だけど、これはさすがに調査しないといけないでしょ?」

「………………」

 えーっと―――えーっと……

 絶句しているメイにファシアーナが言った。

「というわけで、しばらくあんたらはここにいな。リアルに口封じされる可能性もあるし」

 ………………

 …………

 ニコニコしながら怖いことを言わないで欲しいのだが……

「……えっと、ここは?」

「はあ? 塔の上だよ。あんたが登ってきた」

 ああ、そうか。当然と言えば当然だが―――確かにここ以上に安全な場所はそうはないはずだ。

 そこにニフレディルが口を挟む。

「これを機会に彼女達に掃除してもらいなさい。汚いわよ。ここ」

「ああ? いいって。そんなの」

 メイはベッドから起き上がった。もうどこも悪くないようだ。両手もしっかり動くし疲れもない。

 寝ている間にニフレディルが直してくれたのだろうか? だったら何かしていないと……

「大丈夫ですよ。お掃除だってお料理だって」

 メイはそう言ってガッツポーズをする。

「ああ? 掃除ならしてるって。ちゃんと何がどこにあるか分かってるし」

「嘘おっしゃい! 下の惨状はなんなの? あれは?」

 ニフレディルはにべもない。

「だからあれは急だったからさ」

「とてもそうは思えません!」

 二人は口論を始めた。

 窓の外を見るともう薄暗い。気づいたらお腹もすいてきている。

 そこでメイは言った。

「皆さんお腹すいてません? 何か作りましょうか」

 それを聞いてファシアーナが首を振る。

「え? でもあんなことあったんだし。休んでなよ」

 だがメイも首を振った。

「いえ……何かしてたいんです」

 じっとしていたら嫌なことを思い出しそうだ。

 彼女のそんな様子を見てリモンとパミーナもうなずいた。

 そんな三人を見て、ファシアーナとニフレディルはちょっと顔を見合わせるとうなずきあった。

「それではともかく、私はこのことを報告に戻りますから。あなたはこの子達を」

「ああ。そっちも気をつけろよ」

 ニフレディルは軽くうなずくと螺旋階段からすとんと飛び降りた。

 それを見てファシアーナが言った。

「じゃあ、また晩ご飯、頼むよ」

「はい」

 メイ達も互いに微笑んでうなずき合うと螺旋階段を下りた。そこは……

「え? 何これ?」

 そこは前回彼女達が来た広間だったが―――テーブルはひっくり返され、床には乱雑に物が散らかっている。広間の絨毯は乱暴にめくられて隅にぐしゃっと置かれていて、床の真ん中には大きな魔法陣が描かれている。

 それを見てパミーナが答えた。

「それが、ニフレディル様、瞬間移動の魔法で来たのよ」

「ええ?」

 話には聞いたことがあるが、とても難しいそうなのだが……

「ファシアーナ様に連れてきて頂いて、メイちゃんを寝かした後、あの手紙をお渡ししたのよ。それを読んだらいきなりニフレディル様と心話を始められて、それから今度はいきなり床の絨毯を吹っ飛ばして魔法陣が見えるようにしたんだけど……」

 うはははは! 気絶してる間にそんなことが―――前のときもそうだったけど、こういうときは気絶に限る!

「私達はここ片付けるから、メイはそっちお願い」

「うん」

 リモンの言葉にメイはうなずくと厨房に向かった。だが……

「あん?」

 厨房は前はもっと小綺麗だったような気がするのだが―――どうして今はひっくり返っているのだ?

 まあ、こういう苦労ならいくらでもOKなのだが……