第2章 血の盟約
それから約半月の後、フィンはシーガル城の中にいた。
シーガルはアキーラからは急げば八日程度なのだが、プリムスには途中のバシリカでこなさなければならない任務があったため、そこにしばらく滞在していたのだ。
当然その間にフィンは外出することはできず、宿屋にずっと閉じこもっていなければならなかった。
バシリカは彼の母親ウルスラの故郷でもあり、本来はもっとゆっくり見て回りたかった所なのだが、以前ヴォランと来たときにも結局駆け足になってしまっていた。
そういうわけもあってフィンはよっぽど逃げ出してやろうかと思ったのだが、ぎりぎりの所で思いとどまっていた。
たとえああいう状況だったにしても約束は約束だ。それに逃げ出してまた捕まったりしたらもう言い訳不可能だ。
そもそもあのプリムスがそういう想定をしていないはずがない。彼は少なくともフィンよりは能力のある魔導師だし、どんな仕掛けがあるかも分からないのにわざわざ藪を突くわけにはいかなかった。
その上ボニートという最凶の足手まといもいるし……
それにフィンは、慌てて逃げ出すよりもこの際もうアロザールまで行って色々見聞きして来るつもりになっていた。
知りたいことはいくらでもある。
アドルトの一派が今アロザールでどういう立場にいるのか? 彼らはまだベラへの野心を持っているのか? 持っているなら今後どうするつもりなのか?
それにロクスタはアロザール単独でバシリカを陥とす手段があると仄めかしていたが、一体それが何なのかも気になっていた。
普通に考えればレイモンが都に対してやったように内通者を利用することだろうか?
だがここは大ガルンバ将軍のお膝元だ。そんなに簡単に事が運ぶとは思えないが―――だとしたら一体彼らは何をしようとしているのか?
ともかくそういったことを調査して帰った方がいい―――フィンはそう考えたのだった。
アロザールの王都シーガルは大河アルバの河口近くの低地にある。
シーガル城はその町の中央付近の、大河から引き込まれた堀に囲まれた曲輪内にそびえ立っていた。
城は上の階の方が徐々に小さくなっていて、遠くから見るとピラミッド型にも見える。シーガル付近は見渡す限りの平原地帯だったから、その姿は遙か遠くからもよく目だった。
城下は結構賑わっていた。
フィン達は城に直行したためその町並みは馬車の窓からちらっと見ただけだったのだが、少なくともそこにはかなり盛況な市場があって、立ち並ぶ露店には何だかよく分からない物が並んでいる。漂ってくる磯臭い香りから、近くの海などで採れた海産物のようだ。
《アウラと来てればな……》
それならば間違いなく真っ先に見物して回ったはずだが。
現在アロザール王国は小国連合の中では一番裕福な国だった。
それはこういった海産物を都やベラ両方面に一手に輸出しているためだ。
都では特に重要な宴を開く際には海の魚でもてなしする習慣ができていた。
そのために専用の魔導師を派遣して、魚や海老などを凍らせて持ってきたりするのだ。
また姫君のドレスを飾る真珠や貝殻のボタンなど、生活の様々な面で海産物は必要であったりする。
そういった産物はかつてはラムルス王国が各地に輸出していたのだが、そこが現在レイモン領になってしまったため、都やベラに対する輸出の拠点がアロザールに変わっていたのだ。
そのためかつては海浜の貧乏国であったこの国が発展したわけで、それに関していえばレイモン様々であるとも言えるのだが……
《とはいっても国が無くなったら終わりだし……》
ラムルス王国は滅びてしまった。
現在国力が増していると言っても、盛時のラムルス王国に比べたらアロザールはまだまだ小さい。レイモンが本気になったら単独ではひとたまりもないだろう。
だからこそ彼らも小国連合の一員となっているわけだが……
―――そんなことを考えながらフィンはシーガル城の三階の回廊をプリムスと共に歩いていた。
窓からはシーガルの城下町が一望できる。
町はここから見ると全体が黒っぽい色合いをしている。
あちこちには水路があって、小舟が荷物を載せて滑っていくのが見える。その雰囲気はベラの首都、ハビタルの光景を少し彷彿とさせた。
《もしかしたらそれでフィーバス達が気に入ったのかな?》
そのとき、かぐわしい香りがふっとフィンの鼻を捉えた。
「まあ、ブルツァ様がそんなことを?」
「やだぁ!」
そんな会話と共にすれ違った女達の姿を見てフィンは一瞬呆然とした。
《なにこれ?》
彼女達の姿は艶やか―――というよりほとんどエロチックである。
胸元が大きく開いていて谷間が丸見えだし、スカートにも大きくスリットが入っていて、歩く度に素足がこぼれ見えてくる。振り返って後ろ姿を見ると―――背中にも大きくカットが入っていて素肌が丸出しだ。
それにこの香り、何だろう? あまり嗅いだことのない香だが、何というか動物的というか、いきなり体が反応してきそうな……
フィンは一瞬後宮にでも迷い込んだのかと思った。そこならばそんな感じでもおかしくはないが……
だが間違いない。普通の城内だ。これはプリムスの案内だし、正面からまっすぐ入ってきただけなのだが? そもそも後宮なんて普通はガードが堅くて、迷い込みたくても迷い込めるものではない。
フィンは横を行くプリムスの顔を見た。
だが彼は全く普段と変わらない。気づいていないのだろうか?
「ちょっと、今の……」
「ん? なんだ?」
「今の娘達なんだけど……」
「今の侍女がどうかしたのか?」
「侍女??」
驚いたフィンの顔を見てプリムスは納得したという顔をした。
「ああ、あれは冬服だからな。暑くなるともっとすごいぞ」
「ええ?」
フィンがかつてエルミーラ王女に依頼されてベラに行った際、当地の女性の衣装が開放的なのに驚いたことがあるが、あれは行ったのが八月の終わりということもあって、そんな服でないと暑くて仕方がないからだった。
その後、ベラで冬越しをしたときには、女達ももっと普通の格好をしていたものだ。
だが今は三月。春の兆しはあると言っても、まだまだ風は冷たい。
「冬があれなら夏はどうなるんだよ?」
プリムスはにやっと笑う。
「ふふ。楽しみか?」
「いや、その……」
「ここじゃこんなもんだ。気にするな」
気にするなといわれても―――大体寒くないのか? いや、寒いはずだ。城内はあちこちに火が焚かれていて寒くないようにしているからで、もうちょっと上に引っかけるだけで薪が随分節約できるように思うのだが……
それにあの香水だか香油だか知らないが、何というかせめてもっと花の香りみたいな清楚なものにならないのか? あれじゃついむらむらする奴が続出しそうな気がするのだが―――後から聞いたら龍涎香とかいう何か海で採れる珍しい香料なのだそうだが……
だがその後にすれ違った女官達も似たような物だった。
この城に入ったときからちょっと違和感はあったのだ。
玄関から正面ホールに入った瞬間感じたことなのだが、もちろんそこは間違いなく非の打ち所のない王宮のホールだったが、そこに充満していた匂いに何か不自然な感じがしていたのだ。
かつてアウラと共にガルサ・ブランカ城に来たときには夜だったということもあって、少々埃っぽいような蝋燭のすすの香りがしていた。
ハビタルの国長の屋敷に行った際には木の香りがしていた。
グリシーナ城に行ったときは花の香りがしていた。
だがここは一体何だろう? 動物的、といったら失礼だろうか? まあ匂いなんて土地柄が変われば変わるだろうしと、あまり気には留めていなかったのだが……
《あんな娘がうろうろしてたらそりゃそうだろ……》
フィンは少々心配になったが、それ以上は口に出さなかった。二人が国王やフィーバスのいるフロアに到着したからだ。
当然警備も厳しくなっていくが、二人が特に調べられることはなかった。警備兵達はプリムスの顔を見ただけで黙って道を空けていく。
《こいつ、ここでも偉いんだな……》
やがて二人は大きな扉の前に来た。そこで初めて二人は警備兵に止められた。
警備兵は一応形式上、二人が武装していないかなどを確認した後、扉を開けた。
二人は部屋に入った。
広く清潔な感じの部屋だ。床にはアロザール風の例の写実的な絨毯が敷き詰められていて、窓からは明るい陽光が差し込んでいる。
部屋のあちらこちらにはアロザール風の椅子が置かれている―――こちらの椅子には一般的に背もたれがなくて、その上に分厚い座布団が置かれている。アロザール人はその上にあぐらをかいて座るのが伝統なのだという。
そこには二人の人物がいた。
一人は五十歳くらいの痩せた背の高い男だ。
彼は窓際に立っていて外を眺めていたが、フィン達がやってきたのに気づいて振り返った。
「プリムスか? そちらが?」
「はい。ル・ウーダ殿です」
プリムスがそう言って礼をする。それを見てフィンもそれに習った。
「こちらがフィーバス様です」
「お初にお目にかかります。私、白銀の都、ル・ウーダ・ヤーマンの末裔、フィナルフィンと申します。お見知りおきください」
それを見てフィーバスはじっとフィンの様子を見据える。
「うむ。私がフィーバスだ」
フィンは緊張してその男の顔を見た。
何しろ彼は現在のベラ・フォレスに対する最大の脅威なのだから―――だがその姿を見てフィンは少し肩すかしを食った気分になった。
目の前にいる男は頬が少しこけた感じで額も少し後退しているが、その眼差しは穏やかで、アラン王のような相手を刺し貫くような眼光はない。
口元にはごく自然な笑みが浮かんでおり、腹に一物あるような雰囲気は一切なかった。
こんな出会い方でなければ、ごく自然に信頼できそうな人物だと判断してしまっただろうが……
《ものすごく芝居上手ってこともあるだろうし……》
フィンの立場上、そういった判定は当面は保留しておかなければならない。
次いでプリムスはちょっと離れた長い椅子の上にうつぶせに寝そべっていた少年に手を差し伸べた。
「あちらがお世継ぎのアルクス殿下です」
その姿を見て思わずフィンは目を見張った。
《お世継ぎだって?》
アロザール王国の王子ってこんなに若かっただろうか? 確かもっと年上だったように思ったが、王子は一人ではなかったような気もするし……
フィンは記憶が曖昧だった。こんな形での訪問でなければもっと下調べして来たものを。場合によったら誰かがエルミーラ王女の婿になる可能性さえあるわけで―――彼女の正式な夫の座はまだ空席のままなのだ。
ここでそんな人物に出会うとは思っていなかったのでフィンは少し戸惑ったが、もちろん礼を失するわけにはいかない。フィンは彼にも正式の挨拶を行った。
それを見るとアルクスはぴょんと飛び起きて、椅子の上にあぐらをかいた。
それから悪戯っぽそうな眼差しで言った。
「そっか。君がル・ウーダ君か」
その瞬間フィンは思わずアルクスの姿を見返していた。
《え? 若いよな?》
語りかけられた瞬間、もっと大人に話しかけられたように感じたのだ。
だが―――どう見直しても彼は十三~四歳の少年だ。声変わりもしていない。
それなのに彼の話し方やフィンを見つめるその眼差しは、異様に落ち着いているというのか、子供っぽいその姿とは妙にミスマッチに思える。
《早熟なのかな?》
それで説明できるのだろうか?
「ま、いいから座りなよ」
そう言ってアルクスは椅子を指さす。
フィンとプリムスは言われるままに手近な椅子に腰を下ろした。
同時にフィーバスもやって来るとアルクスの側の椅子に腰を下ろす。
それから彼はフィンに言った。
「さて、ル・ウーダ殿。フォレスから来られたそうだが、ルクレティアは元気か?」
「はい。少なくとも私があちらを出立した際には大変ご健勝でいらっしゃいましたが……」
そう答えながらフィンは戸惑っていた。
確かフィーバスはフェレントムの兄弟を憎んでいたのではなかったか? 彼女はその妹だし……
そんな気持ちを察したのか、フィーバスは言った。
「ル・ウーダ殿はご存じなかったか? 私と彼女は許婚の間柄だったのだが?」
「え? そうだったんですか?」
フィーバスはうなずいた。
「昔の話だが……だから彼女には長生きして欲しいのだよ」
「………………」
一体どうコメントすればいいのだろう? ガルブレスとグレンデル、それにその息子レクトールの死は間違いなく彼の差し金なのだが……
「もしあちらに戻れたのなら、フォレスとは良い関係を続けたいと思っていたしな」
「………………」
「でもそれはちょっと難しくなってしまったようだが」
そう言ってフィーバスはフィンを見ると笑った。
《やっぱり根にもってるのか?》
慌て気味のフィンをにやにやした顔で見ながらフィーバスは続けた。
「あちらではアドルト家に対する憎しみは相変わらずなのだろう?」
「え? まあ、それは……」
事実だから仕方がない。フィンは曖昧にうなずいた。
「だったらそう思わせておけばいい。こっちはもうどうでも良いのでな」
そのようなことは確かロクスタも言っていた。
だが本当なのだろうか? フィンは今ひとつ信じられないでいた。
そこで彼は思い切って尋ねた。
「あの……それは本当なのですか?」
「信じられないかな?」
「はい。その、やはりベラは貴方の故郷なのではないですか?」
それを聞いてフィーバスは意味ありげな笑みを浮かべると逆に尋ねた。
「ル・ウーダ殿は海を見られたことがあるかな?」
フィンは首を振った。
「え? いえ、まだありませんが」
白銀の都もフォレスも山の中だ。海というのは本当に話に聞いたことがあるだけだ。
「ならば一度見てくるといい。あの大きさに比べたら、ベラなどというちっぽけな国など、どうでもいいと思えてくるから」
「………………」
「もちろんこちらに来たばかりの頃は、やはり故郷は恋しかった。だから彼らに色々任せてみたのだが……」
フィーバスはちらっとプリムスの顔を見る。
「ああなってしまったことに関しては仕方がないと思っている。彼らも精一杯やってくれたわけだし……」
プリムスはうつむいている。
《だとしたら本当にもうベラへの野望は捨てたということなのだろうか?》
彼の言葉を信じていいのだろうか?
もちろんフィンが帰ることを見越して嘘をついている可能性はあるが……
「でも今度はそのル・ウーダ殿が私達に協力してくれるというわけだからな」
フィーバスは微笑みながらフィンの顔を見つめた。
フィンはそれを聞いてちょっと慌てた。
ここは言うべき事は言っておかねば……
「はい。ですが、その、ロクスタ様よりもご連絡が行ってると思うのですが、それに関して……」
フィーバスはその言葉を遮って言った。
「ああ。例の期限付きの話だな?」
「はい。そうです」
「なかなか珍しい申し出だし、どうしようかと考えていたのだ。もちろん仕えて頂くなら末永くそうしてもらった方が良いのは間違いないのだが……」
うう―――やっぱり?
「だが無茶を言っても始まらない。今ここで君に無理に約束させる事もできるわけだが、そういうことをしてもそれが続く保証はない。それならばロクスタも言うように納得ずくの期限付きというのも悪くないだろう」
「えっとそれでは?」
フィーバスはうなずいた。
「うむ。レイモンの野望を挫くまで、という約束で仕えて頂くということでな」
………………
何だかあっさり話が通ってしまったようなのだが―――いいのだろうか?
だが今の言い方はちょっと引っかかる所がある。
そこでフィンは尋ねた。
「レイモンの野望を挫くとは、今回の都侵攻が失敗するまでということでよろしいでしょうか?」
それを聞いてフィーバスはちょっと考えるとうなずいた。
「まあ、今後の展開がどうなるかはわからんが、その場合はそうだな」
確かに未来のことは分からない。どういった予想不能な展開が待っているか分かったものではないが―――分からないことを気にしていても仕方がない。
だとしたらこちらも拒否する理由がない。
「承知いたしました」
フィンはそう言いながら内心驚いていた。何だかものすごく話の分かる人物なのだが……
もちろん彼らが嘘をついていないという保証はないが―――それはあらゆる約束事につきまとう問題だ。
それ以前に話し合いが成立したという点が重要だった。
そもそも彼らは一方的にフィンに強制できる立場にあるのだから―――にもかかわらずこうして交渉に応じてくれたということは、これは彼らがある意味誠実だということを示している。
これが現首長のロムルース相手だとこうはいかない。あいつは人の話は聞かないし、思い込んだらその方向しか見えないし、文字通り“話にならない”のだ。
エルミーラ王女の尻に敷かれている現在はまだいいのだが、そういった状況がずっと続く保証もないし……
フィンは顔を上げるとフィーバスをちょっと見つめる。
今話した感じではこの人物は十分に国長の器量があるように思うのだが―――でもたまたま彼に能力が出てしまったということは運が悪かったとしか言いようがない。本人的にも、ベラという国家的にも……
そのとき横で聞いていたアルクス王子が大あくびをした。
彼は二人の話をずっと退屈そうに聞いていたが、今はまた椅子の上に寝っ転がっている。
それからフィンとフィーバスの方を見てだるそうに尋ねた。
「で、タルタルの兄上の件は?」
「それをこれから話そうとしていたところです」
フィーバスは向き直ってフィンに言う。
「で、早速なのだがル・ウーダ殿にはやって頂きたいことがあるのだ」
「といいますと?」
「そちらのアルクス殿下はザルテュス様の第三王子に当たられるのだが、殿下がお世継ぎとなるまでには色々と紆余曲折があったのだ」
第三王子? だとしたら若いことは納得いくが―――当然第一、第二王子がいるわけで、彼らを差し置いて目の前の少年が世継ぎということは……
フィンがフィーバスの顔を見ると、彼は軽くうなずいて話し始めた。
「ザルテュス様がアルクス様をお世継ぎに指名なされたとき、殿下はまだ八歳だった。ご長子であったマリウス殿下は、そのときはもう成人なされていたし、当然陛下の決定には不服だった。そして側近の讒言などもあってついに謀反を起こされたのだ」
「はい……」
「その謀反は三年ほど前に鎮圧されたのだが、その残党がトラドール殿下のバックに付いているという情報がある。彼らは表向き恭順の意を示しているが、裏では何を企んでいる全く分からないのだ」
「トラドール殿下とは?」
「第二王子にあたられる。マリウス様亡き後、その御領地を継承なされているのだ」
フィンはうなずいた。こういった王家ならものすごくありがちな状況だ。
「これはル・ウーダ殿の目的にも大きく関わってくるだろう?」
それを聞いてフィンは一瞬、アロザールのお家騒動がいったい彼にどんな関係が? と不思議に思ったのだが……
「これから我々はレイモンに侵攻することになるが、そういったとき国元にそんな不安要素があったらどうなるか、ル・ウーダ殿にはお分かり頂けるだろう?」
フィンは思わず膝を叩きそうになった。いや、全くだ!
レイモンを攻めるということは、アロザールのほぼ全軍が北に侵攻する事を意味するわけだが、そうなれば当然本国はがら空きになる。そんな所でそのトラドール殿下が謀反を起こしたりしたらどうなる?―――というか、もしフィンがレイモン側の立場ならそんな火種を放っておくわけがない。成功するかどうかはともかく、諜略工作を仕掛けるに決まっている!
「はい。それはその通りです」
それを見てフィーバスはおもむろに言った。
「そこでだ。ル・ウーダ殿には、その“不安要素”を排除する手助けをして頂きたいのだ」
「え?」
フィンは絶句した。不安要素の排除だって?
フィーバスはフィンの様子には構わずに話を続ける。
「現在それをアルデンに任せているのだが、なかなか難航しているらしく埒があかない。そこでル・ウーダ殿に協力して頂きたいのだ。それに成功すればル・ウーダ殿の実力を天下に知らしめることもできるわけだし」
そういうことならば納得できる。要するに彼のテストも兼ねて、実力を見せて欲しいということなのだろうが……
《実力とか言われたって困るんだけど……》
セロのときには色々な幸運があったわけだし。特にナーザやネブロスの助けなくしては何もできなかったと思うのだが……
とはいえ、いずれにしてもフィンに選択の余地はなかった。彼は同意するしかないのだ。こうなればなるようになってもらうしかない。あのときだって実際似たようなものだったし……
《しょうがないか……》
やるしかなさそうだが、それならばもう少し詳細な情報が必要だ。
そこでフィンは尋ねた。
「承知いたしましたが、その、もう少し詳しい状況をお訊きできるでしょうか?」
だがフィーバスは首を振った。
「いや、色々込み入っているので今ここでというわけにはいかない。近いうちにアルデンと会えるようにしておくので、彼から詳しく聞いてもらおう」
それなら仕方ない。フィンはうなずいた。
「承知しました」
しかしなんだろう。不安要素の排除ということは、やっぱりいわゆる“物理的排除”なんだろうか? こういった場合、大元を消してしまうのが一番その目的に叶うわけだが……
ということは―――王子暗殺?
………………
…………
《またこれかよ……》
そう考えてもその程度の感想しか出てこなくなっている自分に気づいて、フィンは何か鬱々とした気分になる。
《これじゃまるで悪の手先だよな……》
とは言いつつ既に、目的のために国王の殺害をしようとしたことがあるわけで……
レイモンに潜入したときだって、場合によっては将軍とかの首を取る覚悟はあったわけで……
少なくとも相手側から見ればその通りである。
そんなことを考えていると、急にアルクス王子が口をひらいた。
「それで父上のところにはもう行ってきたのかい?」
驚いて顔を上げると、アルクスはプリムスに向かって話していたようだった。
「いえ、これからです」
プリムスはそう言って首を振る。
「色ボケで役に立ってないけど、まあ一応形式だからね」
色ボケって―――息子じゃなきゃこんなことは言えないよな。
「………………」
だがそれを聞くとプリムスは急にむっとした顔になった。
「どうしたんだい? プリムス。ヴェーラに会えて嬉しくないの?」
「いえ……」
それを見てアルクスは不思議な笑みを浮かべる。
それから急にフィンの方に向かって言った。
「ル・ウーダ君には恋人はいるの?」
フィンは慌てて答えた。
「え? 一応婚約者はいますが」
「ふうん。今どこに?」
「フォレスにいるはずです」
それを聞いてアルクスはにこっと笑った。
「そうなんだ。心配だよね。そんな娘を一人で置いとくなんて。だったらこっちに呼び寄せたらいいんじゃない?」
「いえ、それは……ちょっと」
慌ててフィンは首を振る。不可能だ! それだけはあり得ない!
だがアルクスはそれが不可能な理由を知らない。彼はにやにやしながらたたみかける。
「でもあんまりいないと取られちゃうかもよ。誰かに」
「そんなことはありません!」
フィンはついムキになって答えてしまった
「へえ。そうなんだ」
アルクスはそんなフィンを面白そうな表情で見つめる。
それから彼はまたプリムスを見て言った。
「彼女だって待ってるんだから、早く行ってやりなよ」
「ええ。まあ……」
プリムスは妙に不機嫌な顔だ。どうしたのだろう? そもそもそのヴェーラというのは誰なのだ?
「君だって納得してたんだろ? あれって」
「もちろんです。別にそのこととは関係ありません」
アルクスはにやにやしながらプリムスを見つめたが、それ以上は何も言わなかった。
《なんなんだよ?》
二人は一体何の会話をしているのだ?
それにこの王子は一体何なんだ? どう見てもプリムスの方が二回り以上も年上に見えるのだが、彼に子供扱いされているようにも見える。
「それでこちらでのお話はこれでよろしいでしょうか?」
プリムスはこれ以上からかわれるのには耐えられないといった様子で言った。
フィンはちょっと意外な印象を受けていた。
今までいつも人当たりのいい感じで、言い換えれば常にそういう風に装っていたプリムスが、このように感情を表すのを見るのは初めてだったからだ。
そんな彼にフィーバスが答える。
「うむ。アルデンの件については後で伝えさせる」
「承知いたしました」
プリムスはそう言って立ち上がるとフィーバスとアルクス王子に一礼する。
フィンもそれに習って二人はその部屋を後にした。
「次はザルテュス様の所なのか?」
フィンは黙って先行するプリムスに尋ねた。
「そうだ」
プリムスは振り返らずに答える。フィンは軽く深呼吸した。
フィーバスとの会見も緊張したが、まだ彼は政府高官に過ぎない。今度会見するのは国王本人なのだ。いくらフィーバスがOKを出したところで、国王が嫌だと言ったら終わりなのだ。
《一体どんな人なんだろう?》
今まで出会った国王は侮れない人ばかりだった。
実際ザルテュス王はアロザールを統治してかなりになるはずだ。さっきアルクスが彼を色ボケ呼ばわりしていたが―――その齢にしてまだ精力にあふれているということなのだろうが……
やがて二人は城の別な一角にやってきた。案内されたのはまた同じような大きな扉の前だ。
プリムスが用件を伝えると警備兵は横の小扉を叩く。
そこには小窓が付いていて、中から侍女の目だけが覗いた。警備兵は彼女と少し言葉を交わすと向き直って言った。
「しばらくお待ちください」
プリムスはそれを聞いてため息をついたように見えたが、黙ってうなずいた。
二人は黙ってしばらく扉の前で待った。
いつもならこういったときはプリムスがなんだかんだと話しかけてきて退屈しないのだが、さっきからずっと彼は不機嫌そうに黙ったままだ。
フィンがこのままでは間が持たないと思い出した頃、再び小窓が開いて侍女が警備兵に何か言う。それを聞くと警備兵は恭しく大扉を開いた。
「どうぞ。お入りください」
「ああ」
プリムスは無愛想にうなずくとつかつかと中に入っていった。フィンも慌てて後を追った。
中に入るといきなりむっとした空気がフィンを包み込む。
《あん?》
部屋の中はまるで夏のように暑い。
その上、そこには更にむせかえるようにあの甘い龍涎香の香りが立ちこめている。
フィンはあまりきょろきょろしないように注意しながら部屋の中を見回した。
先ほどの部屋同様アロザール風の内装なのだが、こちらは絢爛豪華と言っていい。床の絨毯は更に贅を尽くしたものだし、壁面には色とりどりのクロスが垂れ下がってる。
部屋の中央には―――ベッド? いや、あれはこちら風の長椅子だ。さっきの部屋でアルクスが寝そべっていた物よりもっと長くて大きいが、椅子なのは間違いない。
《ってか、寝室で謁見するわけがないよな……》
その椅子の上には豪華なガウンを羽織った太った壮年の男があぐらをかいていた。
その端にはまだ若い女性が―――といってもフィンよりはずいぶん年上に見えるが、彼女もガウンを羽織った姿でちょこんと腰掛けている。
フィンはその女性が何故か気になった。
《王妃様?》
いやこの年齢差だと寵姫の方だろうか?
だが失礼ながらそういった姫にしてはすごく美人と言うほどでもないが―――それでは普通の女かというと何かが違っているようにも思えるし……
《でもなんだ? 二人ともガウンって……》
ということは―――今までお楽しみの最中だったのか? 来たとき妙に待たされたのはもしかして? でも何だ? まだ真っ昼間だぞ? こんな風に客が来ることだってあるだろうし……
そっちの方に頭が行ってしまったので、フィンはプリムスが男に礼をしたのをもう少しで見落とすところだった。
「ザルテュス様。ル・ウーダ殿をお連れしました」
それを聞いてフィンは慌てて礼をする。
彼は内心蒼くなっていた。国王の前で思いっきり礼を失するところだ。これがアイザック王などだったら、そんな様を見られたら即座に突っ込まれていたところだが……
「そうか」
ザルテュス王が言ったのはそれだけだった。
《えっと……》
代わりに口を開いたのは側にいた女だ。
「まあ、プリムス。お帰りなさい。こちらにはいつまでいられるの?」
それに対してプリムスは、ちょっと彼女を睨むように見つめると答えた。
「そんなに長くはいられません。この後シフラにも行かねばなりませんし」
「ええ? またなの? お仕事ばっかりしていたら禿げるわよ?」
フィンは耳を疑った。何しろ目の前のザルテュス王の頭は、ちょっと薄くなりかかっていたからだ。
だがプリムスは王などそこにはいないかの如くに答える。
「こうやって私たちが働いているから、あなたがそうして遊び呆けていられるのです」
「まあ、プリムスったら。どこかに行って戻るたびに口うるさくなっていくのね」
「あなたこそいつ戻ってもすぐに会えた試しがありませんね」
「だってザルテュス様はお忙しいから」
プリムスはそれを聞いてむっとして黙り込む。
《えっと……》
何なんだ? 国王を目前にしてのこの馴れ馴れしい会話は?
それから彼女はプリムスの横で少々混乱気味のフィンを見て言った。
「それでそちらの御方が?」
プリムスはうなずくと妙に他人行儀に答えた。
「はい。ロクスタ師匠からの書状はご覧になられたでしょうか?」
「ええ。ベラでは大活躍だったんですってね」
女はそう言ってプリムスとフィンの顔を見比べる。プリムスはまた不機嫌そうに黙り込む。
《ちょっと……なんだ? これは?》
ともかくここは自己紹介すべきなのだろうか?
そう思ってプリムスを見ると、彼も軽くうなずいた。そこでフィンは再度礼をすると王に向かって言った。
「お初にお目にかかります。私、白銀の都、ル・ウーダ・ヤーマンの末裔、フィナルフィンと申します。お見知りおきください」
「うむ」
それを聞いても王はそう言ってうなずいただけだ。
《えっと……》
これでは話のきっかけが掴めない。
アイザック王でも時々はそんなことはあったのだが、それは本当に多忙な場合だった。
だが目の前のザルテュス王はどう見ても多忙とは思えず―――さっき彼女が忙しいと言ったのは絶対仕事なんかではなさそうだし……
だとしたら本当にフィンに興味がないということなのだろうか?
《そういう事ってあるのか?》
痩せても枯れてもフィンは白銀の都の小公家、ル・ウーダの一族だ。それがどういう事か分からぬ者がいるとは思えない。だからこそ面倒ごとに巻き込まれないためにも、普段は身分を隠して行動していたのだが……
それに代わって答えたのはまたその女性だった。
「あなたがル・ウーダ様ですのね? わたくしどんな御方か楽しみにしておりましたのよ。プリムスをやっつけたなんて。思った通りハンサムね」
いや、だから、何と答えたらいいのだ? それより彼女が話すとき胸元がちらっと見えたが、やっぱり下は何も着てない? みたいだが……
ってことは―――本当に真っ昼間から?
などと考えている暇はない。フィンは慌ててもごもごと答えた。
「あ、いえ、お褒め頂いて光栄ですが……えっと、それでその、貴方は……」
「あら、ごめんなさい。私、プリマヴェーラと申します。ザルテュス様には大変お優しくして頂いておりますわ」
それではさっきアルクスが言っていたヴェーラとは彼女のことか?
だが結局彼女が王の何なのかは判然としない。こんな謁見に同席するというのは、普通は王妃クラスの立場なのだが……
「はい。お目にかかれて光栄です」
フィンはともかく失礼にならないように答える。
するとプリマヴェーラはころころと笑いながら言った。
「まあ、光栄だなんて。プリムス。とってもいいお方ね!」
何で彼女はいちいちプリムスとじゃれあうのだ?
だがプリムスはそんな彼女を無視するかのように王に向かって言った。
「で、ザルテュス様はロクスタよりの提案につきましていかがお考えでしょうか?」
「提案と?」
王はぼうっとした目でプリムスを見る。プリムスはうなずいた。
「はい。ル・ウーダ殿につきましては、ご協力は期限付きという件なのですが」
それを聞いてフィンは少し正気に戻った。
そうなのだ。この会見で再度その点をクリアしなければならないのだ。
だがどう考えてもかなり特殊な申し出である。
その期間が終了した後には彼は間違いなくフォレスに帰ることになるわけだが、当然国王だってフィーバス達の出身地やそこで起こったトラブルは知っているだろう。間違いなくそう簡単には認められない条件だと思うのだが―――たとえフィーバスがOKだったとしても……
「問題ない」
ところが国王はあっさり首肯したのだ。
《え? え?》
問題ないって、問題ないということなのか? OKなのか? マジで?
「承知致しました。それでしたらこちらの書面にご署名願えるでしょうか?」
プリムスがそう言って、書類を取り出して王に渡す。
同時にプリマヴェーラが脇にあった小机を王の前に持ってきた。
ザルテュス王は机の上にあったペンを取り上げると、書類をろくろく見もせずにサインをしてプリムスに手渡した。
「恐悦至極に存じます」
プリムスが国王に向かって礼をした。フィンも一瞬ぽかんとしてから慌ててそれにならう。
フィンは内心大混乱だった。
間違いなく色々と問い詰められるものだと思っていたのだ。シーガルまでの旅の間中はそれについてずっと考えていたようなものだ。
しかし本当にその件に関しては終わったらしかった。
「うむ。大儀である」
そう言って国王はフィンに向かって手を振った。これは―――会見終了の合図だ。
フィンとプリムスは再度礼をして引き下がる。
《えーっと……いいのか? これで?》
小首をかしげながら王の居室を退出しようとした所に、プリマヴェーラが声をかけてきた。
「プリムス。せめて二~三日はゆっくりしていけるんでしょ?」
「その程度なら」
「じゃあ明日の晩ね?」
プリムスはそれを聞いて不承不承という感じでうなずく。
《何なんだ? この会話は?》
何だか国王の目前で逢い引きの約束をしてるように見えるのだが……
それとも彼女は国王の寵姫なのではないのか?
それとも―――フィンは何か壮大な勘違いをしているのか?
よしんば勘違いだったにしても、そもそもどんな王宮だって王の御前で話すべき内容ではないと思われるのだが……
しかし王は相変わらず無関心だ。
《おい……こんなんで大丈夫なのか? 本当に色ボケなんじゃ?》
そのときフィンは嫌な可能性に思い当たった。
《もしかして……操られてたりするとか?》
フィーバスに代表されるアドルト一派は当然ながらこのアロザールでは外国人である。それが譜代の家臣を差し置いてこのように王宮で権力を持っているわけだ。何らかの“特殊な手段”があってもおかしくないわけだが……
フィンは思わず声を上げそうになったのを慌てて抑えこんだ。プリムスは彼女の方をずっと見ていたので悟られずに済んだが……
《何かいろいろヤバそうだな……》
フィン中の不安はいや増していった。
その日の晩、フィンは与えられた客室の窓辺で悶々としていた。
もう夜も更けている。明日の午前中にはトラドール殿下の件に関してアルデン将軍との打ち合わせがある。さっさと寝ておかないと差し支えるかもしれないのだが―――妙に目が冴えて寝る気になれない。
《それにしても……》
今日は本当に忙しい一日だった。
会見はあれで終わりではなく、あの後さらに別な高官と実務的な話をしたり、その後は会食があったり、最後には……
《うー。ずきずきするな》
フィンは包帯を巻いた指を見る。これは先ほど行った“血の盟約”なる儀式で付けられた傷だ。
《それにしてもあんな儀式だったなんて、まったく……》
その件に関してはあらかじめプリムスからも聞いていた。アロザールで働くにはそういった儀式が必要なのだそうなのだが……
その話からフィンは例えば王の前で何かの宣誓したりするようなことを想像していた。多くの国では臣従する際にはそんな誓いを立てるのが普通だからだ。
だがフィンは既にフォレスの家臣である。アロザールには一時的に協力するという建前だ。そのような者がそんな“忠誠の誓いの儀式”を行うのは普通は問題がある。
だがプリムスはそういうことは気にしなくて良いと言うばかりだ。
《確かに問題なかったけど……》
その儀式とはこんな感じだった。
―――儀式の場所は王宮の地下にあった。
部屋は比較的小さな真四角で、窓はなく、中央には腰の高さくらいまである四角いテーブルが置かれてある。それには紫色のクロスがかかっており、そのほぼ中央に浅い鉢が、その横に金のゴブレットと小さな鋭いナイフが置かれていた。
その周囲にはフィンの他にフィーバスとアロザール王国の高官らしい男達が数名取り囲んでいる。
「それでは我らの新しい友を紹介しよう」
フィーバスがそう言ってフィンを示した。
「ル・ウーダ・フィナルフィン君だ」
フィンが胸に手を当てて黙礼すると、周囲の男達もそれに習った。
次いで男達の一人が一歩前に出て尋ねた。
「ならば問おう。ル・ウーダ・フィナルフィン。汝はこのアロザールの母なる大海の中ににその血潮を流すことを厭わぬか?」
フィンは言われたとおり答えた。
「厭いません」
今度は別の男が一歩前に出て尋ねた。
「ならば問おう。ル・ウーダ・フィナルフィン。汝はこのアロザールの父なる大地の上ににその血潮を流すことを厭わぬか?」
「厭いません」
最後に前に出たのはフィーバスだ。
「ならば問おう。ル・ウーダ・フィナルフィン。汝はこのアロザールの兄弟達のためにその血潮を流すことを厭わぬか?」
「厭いません」
次いで三人の男が同時にフィンに向かって言う。
「ならば我らとの友情と信頼の証として血の盟約を結ぶことに異存ないか?」
「異存ありません」
フィンは言われたとおりに右手をゴブレットの上に差し出した。
フィーバスは先の鋭く尖ったナイフを取り上げると、フィンの人差し指の背にちょっと傷を付けた。ちくっとした痛みが走る。それと共に血が何滴かこぼれ落ちてゴブレットの中に落ちる。
ゴブレットには薄い塩水が入っていて、そこに落ちた血が広がっていくのが見えた。
それからその場にいた一同が同様に指に傷を付けられて血を垂らしていく。
それが終わるとフィーバスはゴブレットを持ち上げてかき回した。
「この容れ物はアロザールの大地。この水はアロザールの大海」
その言葉と共に全員が鉢の上に手を差し出す。
「父と母の中に流れる血潮は混じり合ってその子供達にもたらされる。我らはこの大海を母と大地を父とした兄弟なのだ」
そう言ってフィーバスは差し出された手にゴブレットに入った塩水をかけていった。
それから用意されていた木綿のハンカチでめいめいが手を拭う。
最後に再び全員で胸に手を当てて黙礼する。
儀式はそれで終わりだった―――
最初この話を聞いたときには仰天したものだ。血の盟約って一体何だ? 大げさにも程があるわけで……
だがプリムスが言うには、これはアロザールにおける伝統的な儀式で、アロザール人の男は成人式にみんなこれをするらしい。彼らに信頼されるためには必要な儀式なのだそうだ。そうでなければいつになってもよそ者扱いなのだという。
要は郷に入れば郷に従えということで、少なくとも国家への忠誠がどうとかいったような意味合いは全くないということらしかった。
更にまだ不安げなフィンにプリムスはこう言った。
『それにこれでも随分文明化されてるんだぜ。昔は海の中で手を剣で斬って、その血を啜りあっていたそうだからな』
それを聞いてフィンも渋々納得した。
《要するにまだ結構野蛮な土地柄って事なのか? ここは?》
そういうわけでこの儀式は今後アロザール人と仲良くしますよという誓いではあるが、他の国に忠誠を誓うなとも言われていない。すなわちフィンが相変わらずフォレスの臣下であっても問題ないと解釈はできるわけだ。
なのでフィンはこの件に関してはもうこれ以上深く考えないことにした。
大体考えなければならない問題はそれ以外にも山積みなのだ。
《うー……いったいどうしてくれよう……》
フィンは心の中で唸った。
今一番の問題は、今後の彼のスタンスをどうするかということだった。
もちろん基本的な考え方は同じだ。彼は命を助けられた。その借りを返す。それだけだ。
それだけのはずなのだが……
《でも……》
フィンはシーガルに来てフィーバスらと接触してみて、ますます混乱していた。
彼らと接すれば接するほど、何か思ったほど悪い奴らとも思えなくなってくるのだ。
《だめだろ? それじゃ……》
アドルト一派はベラ・フォレスの仇敵なのだ。彼らが今までそれだけのことをしてきたのは事実だ。あの事件の際にフィンの首が刎ねられそうになったことだって、元をたどれば奴らが原因だ。だから彼らはフィン本人に対しての敵でもあるのだ。
《でも……》
誰だって理由も無くそんなことはしない。
では彼らが何故そんなことをしたか? その答えは明白だ。
彼らは故郷に帰りたかったのだ。
そのためには故郷にいる反対勢力をどうにかしなければならない。彼らが再びベラの地を踏むためにはそうしなければならなかった。
そして今、それまでは明白だと思っていたアドルト一族放逐の理由がいまひとつ不透明になっている。
《フィーバスはフェレントムの兄弟と協力していたと言うけど……》
話によればアドルトの次男フラベウスは放逐されても仕方がなかったという。それはフィーバス本人が認めていることだ。
しかしそれならばなぜフィーバスまで放り出されたのだ? なぜそんな必要があったのだろうか?
もしそれに納得いく根拠が無かったとしたら―――その後の手段はともあれ、フィーバス側にだって大義があることになる。
《うー……》
フィンは首を振った。これ以上考えていても仕方がない。
今のフィンにはどちらかが正しいと言いきれるだけの十分な情報がないのだ。
それよりも……
《フィーバスが昼間言ったことは本当なのか?》
こちらの方が問題かもしれない。
彼はもうベラなどどうでもいいと言っていたが―――それは本当に本心からなのだろうか? それが正しければ、彼らはもうベラやフォレスの敵ではないということになるのだが……
彼らはこうしてアロザール王国の中枢に入り込んでいるが、アロザール王国は小国連合の一員で、当然フォレスやベラとも無関係ではない。ここで過去の因縁を理由に敵対しても、もっと巨大な敵に利するだけになってしまうのでは?
《ならここは?》
アイザック王はベラと都の調停を考えていた。
ならばフェレントムとアドルト間の調停だって不可能ではないのでは?
そう。
確かにそれは理論的にはあり得る話だ。
あのお家騒動の際にフェレントム側にも後ろ暗いところがあったとしたのならなおさらだ。
敵だからといって互いに相手が消滅するまで戦い合う必要はないのだ。
《そうしたら……》
残る問題はただ一つだ。それは彼らがアウラに対して個人的に行ったことだ。
こればかりはもうどうしようもない。
フィンはずっと彼女の受けた苦しみを見続けてきた。
あの胸の傷跡は―――あれがなければ彼女はどれほど美しいことだろう?
今ではそれを含めて愛おしいのだが、それでも目の前で揺れるその傷跡を見るにつけて、やはりこれがなければどれほど良かったことだろうと思わざるを得ないのだ。
《でも……》
その実行犯の一人とフィンは二週間近くを共に過ごしていた。
そうしていれば好む好まざるとに関わらず、彼の人となりに接してしまうことになる。
奴が単なる下衆だったとしたらどれほど良かったことだろう。
だが特に今日のプリマヴェーラとの絡みなどを見てしまった後は……
《プリムスは、納得ずくだったって言ってたよな……》
アルクス王子が最後に言っていたことだ。
要するに何だ? プリムスと彼女は恋仲だったが、彼女を国王の寵姫に差し出したため別れなければならなかった―――とかいった経緯でもあったのだろうか?
国王の前で彼女はあれだけ好き勝手に話して叱責も受けていないということは、彼女はよっぽど国王のお気に入りになっているのだろうが―――かつての恋人がそんな風になっているのを見たとしたら、一体どんな気持ちになるのだろう?
《まさか、それが見ていられなくってベラに行ったとかいったことは……》
それって、手放してしまった思い人を見ていられなくて出奔した誰かと同じではないのか?
だとしたら……
………………
…………
……
いや、そんなことを考えてはダメだ!
大体、彼らが恋仲だったと直接聞いたわけではない。彼らのやりとりを見ていたらそう思えたというだけで。
ともかく奴は敵だ。敵なのだ!
フィンはアウラの顔を思い浮かべて必死にそういった考えを打ち消した。
それよりも……
《じゃああれってマジで色仕掛けなのか? アルクス王子が世継ぎになれたのもそんな工作でだったりして?》
昼間見聞きしたことから、どうもザルテュス王はプリマヴェーラに骨抜きにされているように思われるのだが―――要するにアドルト一派はそういったやり方で裏から王宮を支配しているということなのだろうか?
いや、でも彼らはそれを隠そうともしていない。フィンがたった一日いただけで分かってしまうようなことなのだ。もう公然の秘密といった方がいいようにも思えるし……
フィンは首を振った。
よく分からないことだらけだが――― 一体彼はどんなところに迷い込んでしまったのだろう?
そんなことを考えながら悶々としていると、また傷ついた指が疼いた。
「くそ。なんだかずきずきするぜ」
フィンは包帯した指を見てつぶやいた。
「痛いの~? だったらなめてあげようか~?」
ベッドに寝そべったボニートが甘ったるい声で言う。
「いらん!」
フィンは本気で頭痛がしてきた。
色々と神経に堪える会見を複数こなし、妙な儀式まで行って、いい加減疲れて部屋に帰って来たらベッドの上にこんな奴が半裸で寝転んでいるわけで……
「ねえ、まだ寝ないの~?」
それを聞いてフィンはむかっ腹が立ってきた。
《こっちの件は一体どうしてくれようか?》
何だか知らないが彼らは同じ部屋をあてがわれていたのだ。
しかもせめてツインならばともかく、部屋のど真ん中に大きな天蓋付きのダブルベッドが鎮座していたときには、本気で暴れ出しそうになった。
何が悲しくてこんな所で男と同衾せねばならないのだ? しかもオカマなんかと!
だがフィンが帰ってきたときには夜も更けていた。こんな時間に部屋を替えさせたりするには忍びない。
《ぐぐぐ……》
彼は再び部屋の中を見回した。他に寝られそうな所は―――ない。
最初彼は長椅子で寝ようかとも考えた。こちらの長椅子は他の所のよりは寝やすそうだが―――まだ寒い季節だ。風邪を引きかねない。
それにそもそもこの部屋の主賓はフィンなのだ。言わばあれはフィンのベッドなのだ。外で寝るのはどう考えたってあいつの方だろうが?
とは言ってもボニートを叩き出すのも忍びないと言えば忍びない。こうなったのは一応こいつの責任ではないからだ。
フィンは渋々ベッドの方にやって来てその中に潜り込んだ。
「うふ! やっと一緒だね!」
フィンはボニートの方は見ずに、精一杯不機嫌な声で答えた。
「うるさい! 二度とそんなこと言ったら脳みそフライにするぞ?」
「わーん。怖いよう」
こいつは言っただけでは全然堪えない。というかフィンはそういうことはしないと完全に見透かされている。
「真ん中からこっちに来やがったら本気でぶん殴るからな?」
「えー? 意地悪!」
フィンはそれを無視して彼に背中を向けて横たわった。
だがボニートも自分の命が助かったのはフィンが取りなしてくれたせいだとは知っていて、まあ言われた事は守るのだ。
「ねえ、フィンの好きな人ってどんな人?」
―――だが、言われなかったことに関してはとことん無神経だった。
「話しかけるな!」
「真ん中越えてないからいいじゃないか」
「うるさい!」
好きな人って―――そんなことを思い出させるなんて―――そもそもアウラ抜きでずっと一人でどれほど寂しかったか分かってるのか? それに大体何でこんな所でこんな目に会っているかというと……
それからフィンは目を見開いた。
《えっと……だから俺の好きな人ってのは……》
それは今までフィンが自分自身に対して全身全霊を尽くして曖昧にしておこうと努めていた話題であって―――だというのにこのガキはずけずけと……
《このバカ、覚えとけよ?》
結局その夜は明け方まで眠りにつけなかった。