世界の危機とワンダーライフ 第3章 ネイの英才教育

第3章 ネイの英才教育


 それからとんでもなく多忙な生活が始まった。

 気づいたらもう九月も下旬だ。アロザールも夏は終わり、さすがにそろそろ過ごしやすい季節になってきているが、そんな気分を満喫している余裕はない。

 その日もフィンは数日ぶりに屋敷に帰ってきて、久々に自分のベッドでゆっくり眠れると思っていたところだったのだが……

「はあ……」

 フィンはため息をついた。

 ベッドの上にひらひらした下着を着けた可愛い少女―――のように見える少年が寝たふりをしている。

《このバカ……》

 フィンはボニートの足を持ち上げると足の裏をくすぐり始めた。

「ぎゃああああ!」

 ボニートが慌てふためいて逃れようとするが、フィンはそのまま脇の下に足をしっかり抱え込んでくすぐり続けた。

「わああ! わあああ!」

 こいつの足の裏が普通以上に弱いことは随分前に判明している。

 フィンはボニートが息も絶え絶えになったところで放してやった。

 ボニートはそのままベッドから転がり落ちて半泣きの顔で言う。

「どうして分かったんだよ?」

「普通分かるわ! どアホ!」

 こいつは寝息という概念を知らないらしい。どこの世界に息を潜めて眠る奴がいる?

 その辺のアホっぷりはエルセティアとどっこいどっこいだ。子供の頃はよくそうやって寝たふりしていたあいつをからかってやったものだが―――というか、本当に眠っていたらくすぐったって気づかないだろうが?

 それはともかく……

「俺は寝たいんだ。とっとと自分の部屋に戻れ!」

「意地悪!」

「仕事で疲れてるんだよ。いいから寝かせろ!」

「ケチ! ネイはいいよな。チャイカさんと一緒で」

「あ? お前は子供か?」

「ぶー!」

 文句を垂れながらボニートは部屋から出て行った。

《全く……あの野郎、ちょっと甘くするとすぐつけあがりやがって……》

 というのは、館に来てからも何度か奴と一緒に寝てやったことがあったのだ。

 最初は確か六月頃、ものすごく雷が鳴ってフィンでもちょっと怖かった晩があった。

 チャイカはそれほどでもなかったのだが、ネイとボニートが真剣に怯えていたので、その夜はネイをチャイカの所で、ボニートは自分の所に寝かせてやったのだが―――もちろん添い寝してやっただけだが……

 だがそれからしばらくしてだ。ある夜遅く疲れて帰ってきたら、ボニートが今みたいな格好で熟睡していやがったのだ。

 本気で熟睡されると今度はこいつは何をしても目覚めない。そのまま叩き出すのもちょっと可愛そうだったし、とにかくへとへとだったしで、フィンもそのまま爆睡してしまったのだが―――奴はそれで完全に味を占めたようだった。

《まあ……奴の気持ちを考えれば分からんこともないが……》

 この異国で頼れる者といったらフィンだけなのだ。彼なりに一生懸命であるのは間違いないのだが―――などと一々考えてやっていたら、それこそどんどん足が抜けなくなってしまう。

《もうちょっと非情にならんとだめなんだろうが……》

 フィンはため息をついた。

《とは言ってもなあ……》

 フィンはベッドでごろごろしながら考える。

 レイモンの都侵攻が明らかになってからというもの、この二ヶ月あまりはフィンはほとんど城詰めで、そうでなければ軍の視察に同行したりと、屋敷にまともに帰れるのは週に二~三日程度だった。

 特に最初のうちはフィンは心配で夜も眠れなかった。

 フィーバスはそちらに関しては有能な工作員を潜入させているから心配ないと言っていたが、そうは言っても不慮の事故はあり得る。どんな予想外の事態が起こるかなんて分かったものではない。

 そのため九月の初頭にアルヴィーロ氏の失脚の知らせを聞いてフィンは心底安堵した。

 ―――もちろんその失脚劇の背後で何が起こっていたかは全く知らなかったわけだが……

《やっぱ、都もそこまでバカじゃなかったってことだよな……》

 そのときフィンは暢気にそう考えていたのだが―――もし彼が報告書を精読していれば外遊中のフォレスの王女に関する記述を見つけられたかもしれない。もしそうなっていたら別の意味で寝られなくなっていただろうが……

 ともかく今の彼にはアルヴィーロ氏の失脚の顛末よりも、その後のレイモンの動きのほうが遙かに重大事だった。

 その後の報告によると侵攻軍と防衛軍はずっと睨み合いを続けているという。

《とっとと叩けば追い返せると思うんだが……》

 レイモンは内通者の協力が前提だからこそ、あれだけの少数で攻め入っているのだ。それがなくなったのなら反攻されると保たないと思うのだが……

《その辺が都だからか?》

 だとすればフィンの予想は半分くらい当たったと言える。

 だが先日ついにアイフィロス王国が国境を越えて進軍したという情報が入っている。彼らがそうしてしまえば小国連合の他の国も追従せざるを得ない。

 だがこれだけではまだどちらかと言えば連合側に不利な戦いだ。元々両者の勢力は拮抗しているし、小国連合側が“攻めさせられた”という形にもなっている―――すなわち主導権はレイモン側にあるのだ。

 それもあったからフィンはレイモンの都侵攻を防ぐべく体を張っていたのだが……

《本当に大丈夫なのか? あれって……》

 彼が今こうしてアロザールに協力しているのは結局ロクスタが言ったこと、すなわち彼らにバシリカを陥とす秘策をがあるというのを信用したからに他ならない。

 だが今まではともかく、そろそろ具体的にそれが何なのか教えて貰えないと色々困るのだ。

 それなのにその詳細はアルデン将軍にさえも知らされていなかった。

 このままでは色々と計画に支障を来してしまうわけで―――そこで彼らは先日、ついに業を煮やしてフィーバスにその秘策とやらを聞きに行ったのだが……


 ―――フィンとアルデン将軍は少々いらついた様子で城の音楽ホールに向かっていた。

 会見に来てみたらフィーバス達はこちらにいると言われたからだ。

《こんなときに宮廷楽団の練習の立ち会いとか……》

 情勢は刻々と変化している。国境付近では先行部隊とレイモンの守備隊が小競り合いしたという情報も入っている。本隊の出陣も間近なのだ。

 ところがそんな時期に新作の発表準備だ? いくら何でもちょっと暢気すぎるのではないだろうか?

 とは言ってもとやかく言う権限があるわけでもない。前を歩いているアルデン将軍も同じだ。将軍とは最近よく酒を飲んでは愚痴をこぼされているが、焦る彼の気持ちもよく分かった。

 ホールに近づくとオーケストラの美しい音色が聞こえてきた。

《いや、確かに素晴らしい音楽なんだろうが……》

 複雑な気持ちでフィン達は中に入った。

 見るとフィーバスはまたアルクス王子と一緒に指揮者後方の席に座ってうっとりしている。

 やがて二人はフィン達に気づくと立ち上がって近づいてきた。

「ああ、そうだったな。もうこんな時間か」

「えっとそれで……」

「ああ。ちょっとここはうるさいな」

 そう言ってフィーバスとアルクス王子はホール脇の控え室の方に向かった。

 控え室には大きな窓があってそこからはシーガルの町並みをよく眺めることができる。

 フィーバスはフィン達に座るよう促し、自らも手近な椅子に腰を下ろした。アルクス王子はまたいつもの調子で近くの長椅子に寝そべっている。

 さてどこから切り出したものかと思っていたら、フィーバスの方から話し出した。

「ル・ウーダ君は音楽は好きかな?」

「え? ええ……」

 フィンだって音楽が嫌いなわけではない。あの音楽劇“クーレイオンの解放”は実際素晴らしいものであったし、都にいた頃は様々な音楽会に行ったものだ。

 ただ彼の場合は聴き専門で、演奏関係に関してはまったくの素人だった。

《もし何か弾けてたらどうなってたんだろう?》

 アイフィロスで彼らが金欠になった際、アウラの最初の提案は旅芸人の真似をすることだったが、フィンが演奏できないために賞金稼ぎをすることにしたわけで……

 もしそうなっていたらその後は展開は全く違ったものとなっていたことだろうが―――だが今はそういう話をしに来たのではない。

 それを聞いてアルクスがまた何か意味ありげな笑みを浮かべると言った。

「音楽って不思議だよね。言ってしまえばただの音だっていうのに、でも聴いていると色々な気持ちがわき上がってくるよね」

「ええ、まあ……」

 確かにその通りだからそうとしか答えられない。

 控え室にまでこぼれ聞こえてくるオーケストラの音楽をうっとりと聴きながら、アルクスは言った。

「でもさ。本当に出鱈目な音の連なりじゃこうはならないんだよね。感動できる音楽にはそれを構築するための法則があるんだ……あ、ほら。この響き。こういう不安を呼び起こすような響きは……ほら、こうして平穏な響きで解決してやらなければならないんだよ」

「………………」

「でもほら、まだ完全に終わったわけではなくて、背後では別な響きが響いているよね? 平穏の中に撒かれた不安の種。それがまた今度は別な旋律を生み出して……」

 えっと―――何なんだ?

「それで、今日のお話なのですが」

 アルデン将軍が不安そうな表情でフィーバスとアルクスに言った。

 フィーバスがにこっと笑って答えた。

「バシリカ攻略についての話だね?」

 将軍は一瞬言葉に詰まるが、すぐにうなずいた。

「はい。そうです」

 もうすぐアロザール全軍で北進を開始する予定になっている。

 その場合のレイモンの出方としては、今のところバシリカで籠城戦をする公算が一番高かった。

 一般常識としては籠城戦の場合、攻城側には何倍もの勢力が必要だ。だが数の上から言えば、バシリカの防衛部隊とアロザール軍がほぼ互角なのだ。アロザール側に魔道軍があることを勘案しても、簡単にいく戦ではない。

 また白銀の都の防衛戦では内通者が失われたことによって、そちらもまた簡単には決着が付かなくなっているはずだ。

 その結果は―――中原地帯全域での長い戦乱状態に突入することを意味しているのだが、各国がそんな長期的な戦いを戦い抜けるのだろうか?

 アロザールはまだしも、山間の国家群はこちらほど裕福ではない。

 しかも小国連合は一角が崩れると連鎖的に崩壊する可能性を持っているわけで―――などということを、少なくともフィーバスは理解しているはずなのだが……

 だがフィーバスはあっさりと答えた。

「それに関しては準備はもう万端に整っていると言っていい」

「しかし……それならば我々はどのように行動すればよろしいのでしょうか?」

 アルデン将軍が尋ねる。

「それは難しく考える必要はない。必要な数の兵士を揃えてバシリカまで進軍してもらえれば良いのだ。そうすれば自ずから壁は崩れるだろう」

「え?」

「は?」

 フィンと将軍はぽかんとした表情でフィーバスの顔を見た。

 それからフィンが尋ねた。

「あの、自ずから崩れると言いますと、やはり内通者などが内側から攪乱するようなことでしょうか?」

 それを聞いてフィーバスはにっと笑った。

「ん? まあ似ているがちょっと違うな。こちらから巫女を送り込んでいるのだよ」

 二人はまたぽかんとした顔でフィーバスを見る。

「巫女? ですか?」

「ああ。そうだ。そして奴らに天罰を下すのだよ」

「あの、えっと……」

「まあ、確かに俄には信じがたいだろうが、これについては我々と、その巫女達を信頼して貰いたいのだよ。ご存じの通り、どういった作戦でも相手に手の内を読まれたら対策を打たれてしまうものだからな。君たちを信頼しないわけではないのだが、可能な限り詳細は伏せておきたいのだよ」

「………………」

 信頼しろと言われても……

 だが、結局その会合ではそれ以上詳しいことは分からなかった―――


 フィンは天井を見つめながら考えた。

《何なんだよ? それって……》

 まさか本当に神頼み何じゃなかろうな? でも大聖様とか黒の女王様とか、そういった面じゃあまり親切じゃないし……

 だが国王とかはともかく、フィーバスもロクスタもそういうバカには見えない。何らかの裏付けがあることなんだろうが……

《ともかくそれについちゃもうちょっと詳しく調べないと……》

 状況をアラン王に報告するにしても、これでは説得力がまるでない。

 それにフィーバス達の自信がハッタリでなければ、その後の展開は誰もが予想していなかったことになるのは間違いない。

 そうなったときには……

《あれやるってか?》

 何かすごく心許ない上、色々考えたくないことが多々あるのだが……

「うー……」

 フィンがそう呻いてベッドの上で寝返りを打ったときだった。

 ノックの音がする。

「ん? なんだ?」

 ドアが開くとチャイカが入ってきた。

「ご主人様。今日はお夜食はいかが致しますか?」

「あ、ちょっと早いけど、今日はもう寝るからいいや。ありがとう」

「承知致しました」

 チャイカは恭しく礼をすると出て行った。

 ふっと甘い香りがフィンの鼻をくすぐる。チャイカの香水の匂いだ。今日は清楚な花の香りだ。

《うう……これって余計?》

 以前戻ったとき彼女が龍涎香の香りをさせていたことがあって、さすがにそれは我慢ならんと思って―――もちろんフィンが我慢できなくなるという意味だが―――たしなめたことがあったのだが……

《でもこういう香りは香りで何かより自然なエロスが……》

 って、要するに何でもだめってことかよ?

「はあ……」

 それはそうとチャイカに関しては何だかますます訳が分からない状況になっていた。

 それというのも……

《殿下って要するにただのエロガキだったんじゃ?》

 チャイカが龍涎香の香りをさせていたのはアルクス王子の差し金だった。

 彼女はいまだに正式にはアルクス王子の侍女なので時々登城していることがある。

 一体そこで何をしているのかと思えば、どうやったらフィンを落とせるかについての悪巧みをしているらしかった―――というか、もうそうとしか思えない。

 フィンがフィーバスと会見しに行くと、王子も大抵そこでごろごろしていた。

 そこで北進の手はず等といった重要な案件を話してももほとんど興味がないようで、口を開けばどうしてチャイカを抱いてやらないんだとか、旅先で愛人ができたからといって国の彼女には普通は謝れば済む話ではないかとか、そもそも戻るときに連れて行かなくてもいいんだし、などという悪魔のささやきばかりをしてくる始末で……

 またあの海水浴で一度理性が決壊している以上、あまり強く反論もできなかったりするところがまた難点なのだが……

 正直王子は特殊な英才教育のせいで確かに成人以上の教養は身につけているのだが、その本質は頭の中がピンク色の、ある意味正常な十三歳のガキと考えるのが一番妥当なのではないだろうか? クーレイオン古城の件は女がらみだったからやる気になっただけで、それが何かたまたま当たってしまって政治的にも好結果になっただけで……

「だとしてもな……」

 挙げ句に最近、彼女のマスターになるために来る暇がないなら、彼女を抱いた時点で自動的に彼女のマスターになるようにしてあげようなどと言いだしていた。もちろんフィンの立場上そんなことを言われても断れないわけで……

 おかげでチャイカがいろいろ張り切っているのだ。

 館の生活をフィンの好みに合わせようと誠心誠意努力している気持ちは、もう痛いほど伝わってくるのだが―――そういった姿がフィンには一番堪えた。

 こういった真面目に働いている姿の中に無意識に醸し出されるエロスというのは―――確かにチャイカの場合は常人よりはそういったガードが甘いのだが―――露骨に迫られるよりずっとフィンの心に響いていた。

 そこが王子とかの狙いかも知れないが……

《絶対からかって遊んでるだけだろ?》

 今は正直目の回るような忙しさだから何とか保っているが、ちょっと余裕ができたりしたらもう本当に危ない。

 でもそうなってしまったら……

《何か言い訳のしようがあるのか?》

 チャイカを抱いてしまうということには、もうあの誓いを破ること以上の重大な意味ができてしまっているのだ。

《マスターって……》

 それはフィンにとってはある意味どうでも良いことであった。だがチャイカにとっては彼女の運命を完全に支配する存在なのだ。

 もしフィンが彼女のマスターになったなら、彼女は文字通りに命をかけて彼に仕えるだろう。それはほとんど確信的事実だ。

《そんなの……結婚相手にだってそこまでするか?》

 よく分からないが―――ともかくそのような彼女にフィンは何を返してやれるのだ?

 理論的には、何も返してやる必要はなかった。

 何故ならそれが隷属関係だからだ。

 だからフィンが彼女に仕えさせるだけ仕えさせて、不要になれば誰かに譲ってしまったからと言って、彼女はその運命を甘んじて受け入れることだろうが……

「あ゛~っ!」

 そんなことはフィンには無理だった。

 すなわち彼女を抱いてしまうということは、結局彼にとっては一生彼女の面倒を見てやることとほぼ同義であって……

《それって世間一般じゃ結婚って言わないか?》

 そもそもフィンが何故女を抱かないなどという誓いをしたのかというと、とどのつまりはアウラに対して後ろめたかったからだ。

 彼が命がけでレイモン潜入に踏み切った理由は、要するにファラを助けるためだ。

 その時点で彼はある意味既にアウラを裏切っていた。だからその代償―――になっているかどうかさえ不明だが、ともかくそんな誓いをしたのである。

 なのに一生面倒を見ますなんて女を連れて帰ったりしたら?

「あ゛~っ!」

 だがこのような状況を続けることが、実はチャイカをずっと虐げているのと同義だという気もするのだ。

 正直彼女は普通の女ではない。男と肌を合わせるということは、彼女にとって食事をするのと同じようなものらしいのだ。

 すなわちフィンは彼女に食事を与えずに飢えるに任せているという残虐行為を行っているわけで……

 だとしたら……

《だ・か・ら!》

 そんなことを考えてしまったせいでこの間一度理性を失いかけているのだ。

 フィンは大きくため息をついた。

 あのとき日焼けでなかったら今、一体どういうことになっていたのだろうか?

 幸せだったのか不幸だったのか……

 それはともかく、こうなってしまった以上はもう迂闊なことはできなくなっている。

 それはある意味何かすごく残念な気もするのだが……

《ともかく今日はもう寝よう》

 明日はまた朝から会議がある。

 そう思ってフィンは眠りについたのだが……



 それからどのくらい経ったのだろうか。

 フィンがぼうっとした頭で目を開けると、外はまだ真っ暗だ。

 窓から明るい月の光が差し込んでいるのを見ると、まだそんなに遅い時間にもなっていないようだ。

《あれ、寝る前にちょっと飲み過ぎたか?》

 どうやら目が覚めたのはそのせいだ。

 フィンがもぞもぞと起き出して小用に向かい、終えて戻ってくる途中のことだった。

《ん?》

 誰かの声が聞こえてくる。どうもチャイカの部屋の方からだが……

 フィンは一度あんなシーンを目撃してしまって以来、夜中になるべく彼女の部屋の前を通らないようにしていた。

 だが今度は喘ぎ声とかではなくて、何か話しているようだが……

《何だろう? こんな夜更けに?》

 フィンは思わず彼女の部屋に近づいた。

 中からまた声がした。

「ほら、どうしました?」

「ん~!」

 このむずがっているような声は? ネイのようだが――― 一体何を? まさか……

「ほら。気が散ってますよ。ちゃんとご本に集中なさい」

 フィンは自分の想像にずっこけそうになった。

 そういえば確かネイに読み方を教えてやって欲しいと彼女に頼んだことがあったが、その授業中ということか。

《こんな夜中にしなくても……》

 昼間そんな暇もないほど忙しいのか? 確かにこの家を一人で切り盛りしてるのはわかるが……

「それではもう一度そこから読んでご覧なさい」

「はい……とおくからは、かぜのおとにまじって、けだもののうなるような、ん~、こえがきこえてくる。こんなさばくの、どまんなかに、どんなけだものがいると、いうのだろうか。すくなくとも、みわたすかぎりの、ん~、きょむともいうべきせかいの、ただなかだ。もしそんなけだものが、いたとしたなら、いまここで、こりつむえんのわれわれは、ん~、かれらにとっては、どれほどおいしい、しょくじになるのだろうか?」

《お? 結構読めるようになってるじゃないか?》

 本を読み上げるネイの声を聞いてフィンはちょっと驚嘆していた。かなり難しい単語も混じってるようなのにすらすら読んでいるようだが―――何だろう。この物語は? 砂漠の探検の物語なのか? 少なくともフィンが借りてきていた本にはなかった話だが……

「そんなわたしの、ふあんのひょうじょうをみても、かのひとは、ん~、おだやかな、えみをたやさず、こういった。なにをおそれているのですか。このさばくはわたしの、へやのようなもの。すなのだいちは、ん~、わがしとね、そのてんがいはあのそうきゅう……えっと、そうきゅうって何?」

「蒼穹ですね。空のことをそうとも言うのです。ベッドの天蓋を女王はそういう風に例えたのでしょうね」

 何か本格的な文学作品なのか?―――にしても、ネイは何か変なところで引っかかるな?

「ふうん……ん~! わたしのねやのなかで、しんぱいすべきことは、ほかにあるでしょう。ここではみずは、たいへんきちょうなもの。あなたはそれを、ただながれゆくままに、ん~、してしまうのですか、と」

 ???

「わたしのこころは、げんじつに、ひきもどされた。じょおうが、しんぱいするのも、ん~、むりはなかった。かのじょの、ひめどころはいま、このさばくのおあしすよりも、なみなみとみずをたたえ、そのいちぶはすでに、ていぼうをあふれだして、いちじょうのすじとなって、ん~、ながれおちているのだ」

 ちょっと待て! これってまさか……

「じょおうは、わたしにむかって、ん~、いった。さあ、わたしのいずみのみずを、むだにしないでください。あなたにのみつくして、ほしいのです。あの、さばくのばらのように、かわいてしまうまえに。そういってじょおうが、せんさいなゆびで、みずからのいんしんを……えっと、いんしんって何?」

「陰唇ですね。女性のここの花弁のことを、固い言葉ではそう呼ぶのですよ」

「ふうん。えっと……いんしんを、おしひろげると、みずみずしいたいりんのはなが、めのまえにあらわれた」

 ちょっと待てっ!

 フィンはチャイカの部屋のドアを押し開いた。

「おまえら……」

 そういってフィンは絶句した。

 中にはチャイカとネイが―――二人とも全裸で、ネイはチャイカの膝に乗って本を読んでいたのだ。

 しかもチャイカは何故かネイのあそこを握っていて……

 ………………

 …………

 ……

 え゛っ?

《じゃあ、ネイがん~ん~言ってたのって……》

 やってきたフィンを見て、チャイカが少し驚いた表情で答えた。

「ご主人様。お目覚めでしたか?」

「ああ、ああ……ってか、ちょっと、それ……」

 フィンは驚きのあまりろれつが回らない。

 チャイカはにこっと笑ってネイを撫でながら答えた。

「ああ、ちゃんと出来上がりましてからお見せ致すつもりでございましたが、まだちょっと未熟でございますので、でも大変この子は筋がよろしゅうございますし、もしお急ぎでございましたら……」

「いや、一体何の話だ?」

「はい?」

「一体何を読ませてる? ってか、何してる?」

 チャイカはちょっと首をかしげると答えた。

「はい。この子の教育のために、アルクス様よりお借りしたご本を読ませております。今読んでいるのは『ヴェーヌスベルグの女王』という本でございまして、西の砂漠に女だけの王国がございまして、そこを訪れました男の旅人は大変な歓待を受けるのでございますが……」

「いや、だからそれって子供に読ませる本じゃないだろ、ってか、裸でなにしてるんだ?」

「ご主人様より承りました、この子の教育でございますが?」

 ………………

 …………

 ……

「承った??」

 フィンは記憶をたぐった。

 そういえば確かあれは八月半ばだったか? やたら暑かった記憶があるが……


 ―――その頃フィンはネイを持てあましていた。

 本来ならば彼にはもっといい里親を見つけてやるべきだった。

 だが彼はアルクス王子よりクーレイオン解放の功績に対する報償として与えられていたという建前もあって、簡単に他人に渡すというわけにも行かなかった。

 そこでともかく面倒を見てやることにしたのだが、彼もまたクーレイオンに連れてこられるような身の上だ。まともな教育など受けているはずがない。そこでフィンが暇を見て彼に読み書きを教えてやっていたのだった。

 だがレイモンが都に侵攻したという知らせがもたらされて、フィンの生活は目の回るような忙しさになった。そのためゆっくりと彼の相手をしてやる暇がなくなってしまったのだ。

 その日もネイが読みかけの本を持ってやってきていた。だがフィンは仕事の疲れでとてもではないがそんな気力が出なかった。

「ごめん。ちょっと今日は疲れててね、また明日にしよう」

「ええ? せっかくやってきたのに」

 ネイはノートを持ち上げて言う。

 確かに今日までに書き取りをしてこいと言った記憶はあるが……

「ごめんな」

 ネイは涙目だ。彼の一生懸命っぷりにはこちらの頭が下がってしまう。

 少なくとも彼の場合、本当に売り飛ばされそうになっていたところを救出されているのだ。あのままだったら一体どういうことになっていたことか……

 その辺に関してチャイカに後で聞いてみたのだが、男の性奴隷というのもそれはそれで悲惨なことになるらしい。

 ともかく彼にはまともな人生を歩んでもらわなければならないのだ。

《それに……》

 ネイは女衒に目を付けられただけあって、正直可愛かった。

 その上ちゃんとした格好をさせると、何というか、子供時代のメルフロウにちょっと雰囲気が似ていたりして、おかげでますます彼のために何かしてやりたくなってくるのだが―――ともかくその日の晩は疲れていて、既に瞼がくっつきそうだった。

「うっ、うっ……」

 ネイの目から涙がこぼれ落ちる。

《うわあああ!》

 どうしよう? とは言っても―――そのときだった。

「ご主人様。お夜食はいかが……おや、どうしました?」

 そこにチャイカがやってきたのだ。

 それを見てフィンは思いついた。

 彼女が読み書きできることは、それも結構難しい本も読めることは既に明らかだった。ファミューラになる訓練の一環として必要だったらしいが―――それなら彼女に頼めるのではないか?

「あ、チャイカさん。君、本読めたよな?」

 チャイカが驚いた表情で答える。

「はい? 少々は?」

「それじゃネイをちょっと教育してやってくれないかな」

「は? 私めにですか?」

 チャイカはぽかんとした顔で答える。フィンはうなずいた。

「ああ。ネイにはしっかりとした教育を受けさせたいんだが、それにはまず字が読めないと話にならないしね」

 それを聞いてチャイカは目を丸くした。

 彼女はしばらくそのままフィンを見つめて、それからおずおずといった感じで訊き返す。

「教育のために……読書をでございますか?」

「ああ。読み書きは全ての基本だからな。もちろん本からの知識だけじゃだめだけどね。実際に見て聞いて感じないと分からないことも多いけど。でも本が読めれば居ながらにして世界中のことを知ることもできるんだ」

 チャイカはそれを再びぽかんと聞いていたが、またおずおずと訊き返す。

「あの、ご主人様……私めなどがネイを教育したり致しまして本当によろしいのでございますか?」

「いや、別に構わないけど? それとも何かまずい?」

 それを聞いてチャイカは首を振ると、またいきなり土下座する。

「いえ、ご主人様がそうお命じなのでございましたら、私めは全力を尽くしてネイの教育に当たらせて参ります」

 フィンはいつもながらに大げさなリアクションだと思いつつ、チャイカに顔を上げさせると言った。

「そこまで構えなくていいからさ。仕事の暇なときでいいんで」

「はい。承知致しましたが、それで一つお尋ね致したいのでございますが、この子を教育するにあたりまして、やはり男らしくすべきなのでございましょうか?」

「は? そりゃそうだろ?」

 フィンは彼女が何でそんなことを言いだしたのかよく分からなかったが、まあ当然と思えたのでそう答えた。

「承知致しました」

「うん。じゃあ頼むよ」

 それを聞いてチャイカはネイに言った。

「聞きましたね? ご主人様は私めにお前を教育せよとお命じです。よろしいですか」

「うん」

「それでは参りましょうか」

「うん!」

 二人は出て行った。その後ろ姿を見ながらフィンはほっとして、そのまま爆睡した―――


 確かそんな感じだったが……

《おい……これって……》

 フィンはくらくらしてきた。

 幾ら眠かったからといって、何でこれに気づかなかったのだ?

 知っていたはずなのだ。彼女の見かけや振る舞いがいかに完璧に普通のメイドだったとしても、その中身は常人とは全くかけ離れた存在なのだということを。

 彼女が普通に振る舞っているように見えたのはフィンがそうすることを望んだからで、彼女はその望みに応じて“普通の侍女”というものをずっと演じていたのだということを。

 それを見てフィンが勝手に勘違いしていたのだが―――そんな短期間で彼女の本質が変わるはずがなかった。

 すなわち―――そうなのだ。彼女にとっての“教育する”という言葉は、こちらでの“調教する”という言葉と同義なのであり、フィンは何度も訊き返す彼女に対して間違いなくそうせよと命じてしまったわけであり、それ故に彼女はフィンの命令を誠心誠意実行しつつあったのだ。

「あ~っ!」

 フィンは思わず頭を抱えてしゃがみ込んだ。

「ご主人様。いかがなされました?」

 チャイカが慌ててこちらにやってこようとする。だがもちろんチャイカは素っ裸だ。

「服! ともかく服着ろ! 二人とも!」

 そういって彼は壁の方を向く。

「あ、失礼致しました」

 後ろを向いたままフィンは考え込んだ。

《一体どうしてくれよう?》

 やがて後ろから声がした。

「あの、ご主人様?」

 振り返ると夜着を羽織ったチャイカとネイがフィンの前に跪いている。

 もちろん二人の顔には悪いことをしたというような表情は微塵たりとも浮かんでいない。

「ネイは……今日は寝なさい。チャイカさんとちょっと話があるから」

「はいっ」

 ネイは大きくうなずくと、本を持って自室に戻ろうとした。

「ちょっと待て。その本は置いていきなさい」

「え? どうして?」

「どうしてもだ!」

 フィンがそう言って睨むと、ネイは渋々といった表情で本を置いて部屋に戻っていった。

 部屋の中にはフィンとチャイカだけが残された。

 そのときにはチャイカも何かひどくまずいことになったことに気づいていた。

「あの、ご主人様……私……」

 チャイカの顔は真っ青だ。

 フィンは大きくため息をつくと言った。

「一体あいつに何教えてたんだ?」

 チャイカは一瞬絶句したが、やがて小声で答える。

「男らしくとの仰せでしたので、女性の扱い方を一通りと、ご覧のように本の読み方でございます……」

「何でそんな格好で本を……」

「そのようなやり方がお好みかと存じまして……」

 フィンはおもわずぴしゃりとチャイカの頬を叩いていた。

「違うんだよ。こっちじゃね、教育するっていうのは、読み書きを教えたり、歴史とか算術とかいった学問を教えることなんだ」

 それを聞いてチャイカは大きく目を見開いた。

 それから口に手を当ててしばらく頬をひくつかせたあと、いきなり土下座をする。

 いつもならそこでくどくどと謝り始めるのだが―――今回に限ってはそのまま肩を震わせるだけだ。

 フィンは黙って彼女の肩を持つと起き上がらせた。

 それから彼女の顔をじっと見つめて言った。

「ともかく、その教育はおしまいだ。いいな?」

 チャイカは力なくうなずいた。

「……承知致しました」

 フィンは首を振りながら立ち上がると歩き出した。

 部屋を出がけにちょっと振り返ったが、チャイカはそこでまだがっくりとうなだれて頭を垂れたまま、体を震わせ続けている。

 フィンはふらふらと自室に戻り始めたが、帰る途中の廊下で力が抜けて座り込んでしまった。

《なんだよ……これ……》

 フィンはまだ頭の中が混乱している。

 それからふっと思い出した。

《そういやボニートの奴……》

 寝る前にあいつ何か言ってなかったか? 確か、ネイはチャイカさんと一緒でいいよな、とか……

「あいつ知ってやがったのか?」

 急にフィンはむらむらと怒りが沸き上がってきた。

 フィンはその足でボニートの部屋に向かう。

 ばたんと乱暴にドアを押し開けると、ボニートがぴくっと起き上がった。

「うわ、なに?」

 フィンはベッドの側につかつかと歩み寄った。

「お前知ってたな?」

「何を?」

「チャイカがネイを、その、夜に教育してたことだ!」

 ボニートはしばらく絶句していたが、やがてうなずいた。

「え? ……うん」

 フィンは彼を睨み付けた。

「どうして言わなかった?」

「だってチャイカさんに怒られるし……」

「………………」

 フィンは大きくため息をついて首を振る。

 聞いた自分がバカだった。

《……ってか……》

 フィンはふと気づいてボニートがかぶっていた毛布を剥いだ。

「きゃっ!」

 見たらその下は……

《あああ! どいつもこいつも……いつからこの屋敷はこんなエロ屋敷になったんだ?》

 自分のことは棚に上げつつ、フィンはふらふらと近くの椅子に座り込んだ。

「どうしたの?」

 どうしたもこうしたもあるか!

 フィンはボニートを睨みつける。それから大きくため息をついた。

 まったくなんてことだ。

 だがしかし……

《!!》

 フィンの頭の中に一つの考えがよぎった。

《これって……もしかして……》

 もしかしたらこの機会を利用すべきなのかも知れない。

 そうでないと……

《でも……そうしたら本当に……》

 フィンは虚ろな表情でボニートを見つめた。それから立ち上がると言った。

「ちょっと来い」

「え?」

「俺の部屋に来いって言ってるんだ」

「え? え?」

 このガキは―――本番になったらヘタレるタイプか?

「さっさと服着て俺に付いてこい」

「あ、うん……」

 混乱しているボニートを従えて、フィンは部屋に戻っていった。