第4章 偵察ピクニック
ネイの教育事件から数週間が経過していた。
チャイカはアロザール国境付近の小高い丘の上で、ピクニックランチの準備を行っていた。
もう十月も半ばだ。今日はやや曇り気味で風も少々冷たい。持ってきているランチは冷めているし、温かいお茶も欲しいだろう。
彼女は慎重に組みあげた薪を前にして火打ち石と火口を取り出した。
だが屋内の竈に火を付けるのはよくやっていたことだが、ここは少々風が強かった。打ち出した火花は火口に燃え移ったと思ったらすぐにふっと消えてしまう。
「あらまあ……」
そのつぶやきを聞いて、近くでファーベル達と話していたフィンがちらっと彼女の方を見る。
《ご主人様の魔法なら……》
チャイカはそう思ったが、もちろん彼女の方から頼むような真似はできない。だが焚き火への点火は少々難航した。
それを見てフィンが業を煮やしたようにやってくると、チャイカを乱暴に蹴飛ばして退かせた。
「火もまともに点けられないのか?」
フィンはそう言ってチャイカを睨み付け、離れていろという仕草をする。
「申し訳ございません」
次いで彼は両手を薪の上に差し出すと、手の上に小さな火の玉が現れた。それはすうっと薪の上に落ちて、ぽっと炎が上がった。
「あとはやっとけよ?」
「承知致しました」
フィンはそのまま振り向きもせずに戻っていった。
彼が話しているのはファーベルとこの丘にある偵察基地の隊長だ。
ここからはこの周辺地域がよく見渡せるので偵察隊が常駐しているのだが―――それはともかく、何故彼女がこんな所にいるかというと、十月の初頭についにアロザール全軍が北進を開始したのだが、それに彼女達まで同行することになったためだった。
もちろんチャイカは戦争になったなら、フィンが帰ってくるまで館を守るよう言われると思っていた。だから一緒に戦争に付いてこいと聞いてさすがに仰天したのだが、聞けば総大将のザルテュス王やアルクス王子は侍女だけでなく後宮の寵姫達や料理人、それに宮廷楽団までを引き連れて行くという。
実際来てみればその通りで、もう本陣付近はまるでシーガル城がそのまま移動してきたようだ。
そのせいもあってなのだろう。同行する彼女の主人、フィンにも大きな天幕が一つ与えられていた。中は三部屋にも仕切られてあって、簡易型とはいえベッドや絨毯、家具付きだ。その管理をするのに彼女の手が必要なのも納得がいった。
そんなことを思っていると、ネイが大きなバスケットを持ってやってきた。
「チャイカさん。これ」
その中には今日のランチが入っている。メインは大きな葉にくるんで蒸し焼きにしたチキンや魚などだ。
だが調理したのは昨夜なので完全に冷めている。火は通っているからそのまま食べられなくもないが、温めた方が美味しいのは間違いない。
「それ、焚き火のまわりに並べて頂戴」
「うん」
ネイはバスケットから葉っぱの固まりを取り出しては焚き火の周囲に並べ始めた。
その姿を見てチャイカは思った。
《この子を連れてきて本当に良かったんでしょうか……》
曲がりなりにもこれから行くのは戦争らしいのだが―――とはいってもフィンの世話のためチャイカが行かなければならない以上、彼らを家に置いていくわけにもいかない。ネイやボニートがここに来て役に立つとは思えないのだが……
だがフィンはボニートも連れていくと言って憚らなかった。そうなればネイも連れて来ざるを得ない。
《ちょっと手伝ってもらえたら、もう少し早く食べられますのに……》
チャイカは恨めしそうにフィンの近くに立っているボニートを見た。
あの事件まではボニートは完全に彼女の管理下で、好きなように働かせることができた。だがあれ以来フィンは彼にそういうことをさせなくなったのだ。
おかげで彼はこちらに来てからというもの、フィンに金魚の糞みたいにくっついてうろうろしているか、天幕の中でごろごろしているかで役に立たないことおびただしい。
その上フィンにちょっと優しくしてもらっているからといって、それを鼻に掛けてチャイカを見下す始末だ。
まあ、いても役に立たない奴というのは、いると害になる奴に比べればまだましだが……
「……で、向こうの戦力は?」
フィンが偵察隊長に尋ねている。隊長が答える。
「数百くらいでしょうか? 守備隊に毛が生えたようなものです」
「ってことは、ここを死守する気はないってことか」
「おそらく……」
現在アロザール軍が陣を張っているのは、大河アルバとその支流ベリアス川の合流地点だった。
ベリアス川はアロザール王国とレイモン王国の現在の国境でもある。すなわち目前に横たわる川を越えるともうレイモンの平原だ。
チャイカはもし大規模な戦闘が起こるとしたらここだと聞かされていた。
だが来てみたら敵の影も形もなく、近くの村に小規模な守備隊がいるだけだという。
「やはり、籠城か?」
「そうなんだろうけど……」
ファーベルの問いにフィンが首をかしげる。
この遠征に同行して、チャイカが初めて仕事中のフィンをこうしてじっくりと見ることができたのは、ちょっと嬉しかった。
館にいるときの彼は、なんだか頼りない人といった感じなのだが―――確かにこうやって見ると、最初見たとき感じたような魅力が戻っているような気がする。
《あのときのご主人様は……》
クーレイオン古城で彼女がウィスクム伯爵の盾にされたとき、彼女の命を助けてくれたのが彼だった。
正直あのときはもうだめかと思ったのだが、何だか分からないうちに彼に抱きかかえられており、驚きのあまりに失礼なことを言ってしまったような気がするが……
だからアルクス様―――本当のご主人様からそのフィンがメイドを募集しているが行ってみるかと言われて二つ返事で承知したのだ。もちろんそれが誰だったからと言って拒否できたわけではないが……
でも自分で仕えてみたいと思う主人に仕えられるというのは、彼女のような女にとっては望外の幸せなのだ。
その上アルクス様は、彼がOKならばマスターを代わってやって良いというのだ。こんな幸運が転がり込んでくるなんて、生きていれば少しはいいことがあるものだ。
それにしてもアルクス様というのもまた随分と変わった御方なのだが……
―――クーレイオンから解放された後、チャイカ達は途方に暮れていた。
彼女はこれまでずっと“ヴェルナ”として彼女の主人に仕え続ける毎日だったのだ。なのでこれからどうしたいか等と尋ねられても答えようがない。
そこで王子にそのことを正直に言うと、彼はあっさりと彼女達のマスターになってくれたのだった。
だが失礼ながら最初はちょっと疑念を抱いていた。
何故なら彼はまだどう見ても子供にしか見えない。その彼がそもそも彼女達のマスターになることの意味を理解しているのだろうか?
だが最初にご奉仕に行ったとき、そんな疑念も四散することになる。
何しろ彼は体こそ子供なのだが、女の扱い方は大人と言うより、もはや老成の域に達していたのだ。
そのまだ初々しいと言っていい肉体と女体を知り尽くしているかのようなテクニックで、まるでどちらが楽しませて貰っているか分からない状況で彼女が果てていると、彼はそんな彼女を愛しそうに撫でながらこう言った。
「うん。君のサービスっぷりは最高だけど、でも僕はお腹いっぱいだし」
それというのは―――何か不満だったのだろうか?
「あの、もしかしてご満足頂けませんでしたか? それでございましたら……」
「いや、これ以上ないっておもてなしだったよ。それ痛かっただろ?」
そう言ってアルクスはチャイカの背中の鞭傷にキスした。
「あぅ!」
それはクーレイオンで不埒なことをしていた罰として打たれた傷で、直りかかっていてもまだ痛かった。そのため背中が寝床につかない形でずっとしていたのだが……
「あの、前からの方がよろしゅうございましたか?」
「いや、そういう問題じゃなくてね」
アルクスはにこにこしながら言う。
フィンの所で働かないかと言われたのはその二日後だった―――
フィンのことについてはそのときもうちょっと詳しいことを知らされた。
彼は最近フォレスという所からやってきた外国人で、アロザールの譜代の家臣ではないのだという。
確かにル・ウーダというからにはアロザール人でないのはわかるが、どうして都ではなくフォレスなんて変なところから来ているのだろう?
それはともかく、アルクス王子は言った。
『アロザール王国って結構人材不足だから、有能な人にはずっといてもらいたいんだよ。彼が有能なのは君にも良く分かるだろ? だから彼がずっとこちらにいたくなるように、君に世話してもらえないかな?』
主人の身の回りの世話をするのが彼女達の職務だ。NOであるはずがない。
こうして彼女とフィンの同居生活が始まったのだが……
「ル・ウーダ様は敵が出てくるとお考えですか?」
偵察隊長が尋ねている。
「ん? まあその可能性もあるんじゃないかと」
「ずっと相手はバシリカに立て籠もると言ってたんじゃ?」
ファーベルが疑問を呈すとフィンは答えた。
「都の決着がつく前はそうだけどね。あっちの工作が成功してレイモンと都が同盟したりしたら、その時点で勝ったも同然だから、こっちの方でわざわざ危険を冒す必要はないだろ? でも今はもうそれはない。だとするとレイモン側も守ってばかりじゃないかもってね」
ファーベルと偵察隊長はうなずいた。
「だとしたらここって結構重要な拠点だから。何かあるかって思ったんだけど……」
そう言ってフィンは遠方を見渡した。
その姿はチャイカから見てもなにげに魅力的に見えるのだが―――館で一緒にいるときの彼は、何か自信なさげでおどおどしていた。
彼女に対してその職務柄当然のことについて一々礼を言うし、夕食などもみんな一緒で取ろうとか言い出すから理由を聞いてみたら、その方が手間が掛からないとか何とか……
主人の言うことに逆らう理由もないが、彼はチャイカを自分の家族か何かと勘違いしているのではないだろうか? だとしたら―――正直変と言うより、そんなことをすると周りの者に示しがつかない。お屋敷の侍女を家族扱いなどしたら、だいたいそんな屋敷は崩壊するとしたものなのだが……
ただ今度のお屋敷はお屋敷と言ってもほとんど彼女一人で管理しているから、そういった問題は出ないのかもしれないが……
ともかくフィンはそう言った意味で少々変わってはいるが、大変お優しいご主人様なのは間違いない。
今までお仕えしたご主人様は大抵が気まぐれで、別にヘマなどしなくとも気分次第で打ち据えられるようなことも普通だった。そういう点では確かに天国のような生活だったのだが……
「時間が掛かって得するのはどっちなのかな?」
フィンの声だ。
「時間?」
「ああ。バシリカを包囲しても、陥ちるのは随分時間が掛かるだろう? こっちだってあまり長く国を空けておくことはできないし。それに余所の戦場で決着がつくかも知れないしな……アイフィロスとか、大丈夫なのかな?」
「では……バシリカは防衛に徹した方が相手にとっては良いとお考えですか?」
「でも、バシリカって大きな町だから。人口も多いし、一般民もいる。兵糧は正直どのくらいなんだろう?」
「間諜の報告では十分だと言うことだが?」
「だけどな。向こうが不安と思ったら一気に決着を付けに来る可能性もあるしな……」
「でも敵軍がバシリカを出たという報告はありませんが」
「うん。多分思い過ごしなんだろうけど……」
今回のお勤めでは一つ大きな問題があった。
それまでのお勤めではあり得ないことだったので、それまでそういうことが問題になるなど夢にも思っていなかったことなのだが……
というのは、このご主人様がチャイカに全くご褒美をくれようとしなかったことだった。
《あれがあんなに辛いことだったとは……》
何しろチャイカのそれまでの人生は、掛け値なしにそれだけが楽しみで生きてきたようなものなのだ。それ以外にどんな楽しいことがあるというのだ?
今までのご主人様ならそれこそ仕え始めたその晩から―――それどころかその場ということさえあったが―――昼となく夜となく、隙あらばお楽しみになる方ばかりだったのだが……
このご主人様は何と一ヶ月近くも放置なのだ。
せめて彼が何かの病気などで全くできないというのであればともかく、そういうこともないようだ。
さすがにあのときにはもう辛抱堪らず、少々はしたない真似までしてしまったのだが……
《おかしな方ですね……》
彼女に手を出さなかった理由というのが、故郷に恋人がいるからだとか何とか……
大体女が操を立てるという話は聞いたことがあるが、男が立てるなんてあっただろうか?
しかもその彼女に言われたというならともかく、何か一人で勝手に誓ったらしいが……
正直よく分からない。
「あの、聞いた話なんですが、バシリカに天罰が下りつつあるというのは本当ですか?」
偵察隊長がちょっと不安そうな声で尋ねている。
「住民の間で結構な噂らしいな」
「実際に呪いを受けた人もいるそうですが……」
それを聞いてフィンは首を振りながら答えた。
「僕も詳しくは知らないんだけど。そういう報告はあるみたいだな」
「だったら勝てるんでしょうか?」
「本当にそうならな……それで聞きたかったんだが、あの山って結局どうだった?」
そう言ってフィンは左後方にある岩山を指した。
現在のアロザールの陣は本陣を中心に、前方はベリアス川、右側方は大河アルバの本流、左側方は深い森が広がり、左後方にこの地方ではよくある岩山が聳えている。そのため敵が攻めるのはかなり難しい場所だということなのだが。
「山慣れた少数ならともかく、まともな軍勢で越えられるとは思えません」
「そっか。でもそういった部隊なら本陣を奇襲できるよな?」
「え? まあ確かに……そういうことがあるとお考えで?」
「ならそちらの防備も増やすか?」
「いや、そうじゃなくって……」
フィンが声を潜めたのでそれ以上は聞こえなかったが、聞こえたとしてもチャイカにとっては正直どうでもいいことだ。
チャイカは目の前ではぜている焚き火に目を落とし、また物思いにふける。
ともかくこの何ヶ月かはあり得ないほど平穏な日々だった。
ご主人様自らご褒美をくれないというのはちょっと残念だが、一人でする分にはしたいだけすればいいと言われているし―――あと、声が漏れないようにとも言われたが……
だがしたいとき好きにしろと言われると逆に今度は何だか物足りなくなってくる。
今までは色々なときに不意に求められたりするのが自然だったのだが―――だが彼が近くにいるときに息を殺して気づかれないようにするのも、結構熱くなれるシチュエーションである。
《でも……》
そうなのだ。そうやって燃え上がってしまうとその後にはちょっと醒めた時間がやってくるが、そうするとやはり何だか寂しいのだ。
できうることならご主人様にして頂く方が本当はもっと嬉しいのに……
アルクス様が言うには、ゆっくりと時間を掛けて攻めて行けと。
故郷の恋人に操を立てているような男はくそ真面目だから下手に迫ると逆効果だ。でも誠実に仕えていけばいずれは―――なのだそうだが……
「これもういい?」
ネイが焚き火の周りに置かれた葉っぱの塊を指して言った。
見ると表面が軽く焦げていて湯気も出ている。
「よろしいみたいですね。ご主人様方をお呼びしてくださいな」
「うん」
その間にチャイカはお茶の準備を始めた。
やがてネイに連れられてフィン達がやってきた。
「ご主人様も皆様方もどうぞお座りください」
チャイカは一行に向かって言う。焚き火の周りには屋外用のクッションを並べてある。
「どうもお邪魔します」
「うむ」
偵察隊の隊長とファーベルがそういって腰を下ろす。
だがフィンは勧められた席をじろっと見て言った。
「おいっ! こんな所に座らせる気か?」
見ると彼の席の上に枯れ草が乗っている。注意して見たはずだが、いつの間にか風で飛んできたのだろう。
「ああ! 申し訳ございません」
チャイカは慌てて枯れ草を払い落とした。フィンはむっとしたような顔で腰を下ろす。
ファーベルと偵察隊長がちょっと顔を見合わせるが、フィンは二人の顔を見るとにこっとして言った。
「さあ、昼食にしましょう」
二人は黙ってうなずいた。
「これは何が入ってるんだ?」
フィンの問いにチャイカは答えた。
「いろいろでございます。チキンや魚や、キノコが入っているのもございます」
「開けてのお楽しみですね」
偵察隊長がにこやかに言う。
「隊員の皆様方の分もございます」
「ありがとう。あいつらも喜ぶぞ」
一同はめいめいが焚き火の周りに置かれた葉っぱの塊を取り上げて封を開く。
あたりにぷんと香ばしい香りが漂った。
「わーお!」
ボニートはほとんどよだれを垂らしそうだ。
ファーベル達もそれを口にして軽くうなずいた。チャイカはフィンに尋ねた。
「火加減はいかがでございますか?」
「ああ」
彼もそれには文句の付けようがなかったようだ。
だが彼が手にした包みには白身魚の切り身が入っていたのだが、フィンはそれにがぶっとかぶりつくと顔をしかめていった。
「おいっ! 骨が入ってるぞ!」
「え? ああっ! 申し訳ございません」
しまった。そこまでは確認していなかった……
「いつも言ってるよな?」
「申し訳ございません。給食部隊から頂いた物でございまして……」
「口答えする気か?」
そう言うとフィンはいきなりチャイカに平手打ちを食らわせた。
「申し訳ございません」
チャイカは即座に土下座する。それを見てファーベルが言った。
「骨ぐらいよくないか?」
だがフィンは首を振って答える。
「骨は取っておけと言ってある。その程度の言いつけも守れないこいつが悪い」
ファーベルは黙って首を振った。
チャイカは平身低頭したまま考えた。
《一体どうなってしまったんでしょうか……》
あの日以来、彼の態度が豹変してしまったのだ。
それまではよっぽどのことがあってもいつもにこにこしていて、声を荒げることさえ滅多になかったのが、このように些細なことでも一々殴られるようになったのだ。
確かにうっかりネイを教育してしまった件では、彼は本気で怒っていたようだ。彼女はそのとき本当にこれでここの生活も終わりだと観念したのだ。
だが彼女が首になることはなかった。
館の管理は今まで通り続けられたし、ネイの教育に関してもフィンの言っている意味でのそれなら継続中だ。この遠征に来てからも彼女はネイに読み書きや計算の仕方などを教えているのだから。
しかし大きく変わったこともあった。
彼がこのように妙に“怒りっぽく”なったことだった。
《でも……》
チャイカはフィンに張られた頬に手を当てる。
そこはほんのりと暖かかった。
そうなのだ。
正直この程度、彼女にとっては殴打のうちに入らなかったのだ。
《本当に怒られているのでしょうか?》
チャイカは顔を上げると、むっとした顔で昼食を食べているフィンの横顔を見る。
彼女はこれまで幾度となくひどい目に遭ってきた。
中には侍女達を特に理由もなくほとんど動けなくなるまで打ち据えるような主人もいた。
そういった主人達が女を殴打する時は、例えば純粋に激昂していたり、苦しむ女を見て楽しんでいたり、全くの無表情だったりといろいろ人それぞれだったが……
「……で、レイモンは都からは撤退したんですか?」
偵察隊長がファーベルに尋ねている。
「そう聞いている」
「撤退した軍はどちらに向かうんでしょうねえ」
「さあ。アイフィロスの戦線か?」
それを聞いてフィンが言った。
「んー。でもあまり数は多くないから、どこ行っても同じじゃないかな?」
「うーむ……」
焚き火の周りの会話が少し途切れる。
そこでそれまで話を聞いていたネイがフィンに質問をした。
「ねえ。レイモン王国が白銀の都に攻めていったから、戦争になったんだよね?」
「ああ、まあそうだな」
「どうして攻めていったの?」
それを聞いてフィン達は一様に苦笑いした。
それについては一度ざっと話を聞いたことがあるが、正直チャイカには理解不能な世界だ。そんなことを子供に分かるように説明できるのだろうか?
「まあ、いろいろ難しいんだよ」
フィンは逃げにかかっている。だがそれを聞いてボニートが言った。
「あ。僕知ってるよ」
「なになに?」
ネイが目を輝かせる。ボニートは思わせぶりに話し始めた。
「白銀の都には大皇様がいらっしゃるのは知ってるよね」
「うん」
「そのお后様っていうのが、ものすごい美人なんだって。それを見たレイモン王国の王様がね、お后様が欲しくなって攻めていったんだって」
それを聞いていたフィンが思わずぷっと吹き出した。
「ええ? そう聞いたよ?」
その話はチャイカも聞いたことがあった。
「まあ、そんな話もあるがな……」
そう言って横を向くフィンに更にネイが尋ねる。
「お后様ってそんなに綺麗なの?」
それを聞いてボニートも突っ込んだ。
「そういやフィン、見たことあるんだよね? 当然。どうだった?」
フィンは妙に顔が赤い。
「え? そりゃな。遠くからだけど。でも確かに美人だったけどな……」
「傾国の美女というんですか?」
偵察隊長が納得したように言うのを聞いてファーベルがぼそっと突っ込む。
「他人の嫁だろうが?」
フィンがいきなりむせて咳をした。何か口の中の物を少し吹き出したようだ。
「あ、大丈夫でございますか?」
チャイカはフィンにハンカチを差し出す。彼はそれを受け取って口の周りを拭うとカップを差し出して言った。
「お茶。あるか?」
「はい。ございます」
そういってチャイカはカップにお茶を注いでやったのだが―――キャンプ用のポットは注ぎ口の出来が今ひとつで、後引きして焚き火の中にお茶が垂れて、ぱっと灰が巻き上がった。
「あ! 申し訳ございません」
「気をつけろ! ボケが!」
再び平手打ちが飛んでくる。
こういったキャンプはチャイカもあまり経験がないのでいつもよりヘマは多いにしても……
「申し訳ございません」
そんなフィンとチャイカを見て、ファーベルと偵察隊長がまた顔を見合わせている。
土下座しながらチャイカは思った。
彼はどうしてしまったのだろうか?
彼女が嫌いだったり憎かったりするのであれば分かる。虐めるのを楽しんでいるというのなら、それはそれで構わない。
だがあれは―――彼女を殴った後の彼の表情は……
《もしかして……苦しんでらっしゃるのでしょうか?》
もし結局彼が相変わらず前のままの彼だったとしたのならば……
《このままだといつか……》
彼女が今までこうして生きてこられたのは、彼女に可能な限りご主人様の望みを叶えるべく行動してきたからだ。
だとすれば?
その日の晩、フィンが大本営の天幕から出たときは雲一つない満天の星空だった。
「うーっ! 疲れた……」
フィンは天を仰いで首をぐるぐる回す。
《……にしてもこんなんで大丈夫なのかよ?》
夜遅くなってしまったのはそれまで作戦会議をしていたのだが―――ほとんど会議という名の宴会だった。
一応今後の方針についても話題にはなったのだが、ザルテュス王やアルクス王子は周囲に女を侍らせ、やってきた将軍や閣僚にも酒が振る舞われて、すぐに話が脱線してしまってほとんど会議どころではなかった。
《確かに目前の脅威はないんだが……》
現在彼らが駐屯しているこのベリアス河畔は、激戦地になる可能性もあった場所だった。
ここを突破してしまうと、後はバシリカまで平原の経路が続く。レイモン側が防衛するにも適した場所のはずだった。
だが昼間の偵察からも分かるように、川向こうにほとんど敵軍はいない。
すなわち彼らはアロザール軍に攻め込ませて、バシリカで食い止めようとしていると思われるわけだ。
だとしたらここは単に行程の中間地点でしかなく、少々みんなのタガが緩んでしまうのも分からないではないのだが……
《まあとりあえずやれることはやったし……》
冷たい風がさっとフィンの周囲を吹き抜けた。
「さぶっ!」
寒さが染みこんでくる。フィンは自分の天幕への道を急いだ。あそこまで行けばとりあえず暖かい布団が待っている。
《中にいるのはあのバカだがな……》
そう思ってフィンはため息をついた。
だがそれでも湯たんぽ代わりくらいにはなる。こんな寒い晩はそう思うことができるのでまだましだ。
そんなことを考えながらフィンが自分の陣屋に帰ってきたときだった。
気配を感じて中からチャイカが出てきた。
「お帰りなさいませ。ご主人様」
「ん」
フィンはいつも通り彼女を無視して天幕内に入ろうとした。
だがその日彼女はいきなり彼の進路を遮ると、土下座をしたのだ。
フィンは少し動揺したが、平静を装って言う。
「何だ?」
「ご主人様。その、申し上げたいことがございます」
「俺は眠いんだが?」
「はい。それは承知しておりますが、どうかしばし、この端女の言葉に耳をお傾け頂けないでしょうか?」
「手短にな」
そろそろ来たか―――やっぱりそうだよな……
フィンは彼女を見下ろした。
「で?」
「はい。その、先月私めの愚かな勘違いによりまして、ご主人様が大変お怒りだったことは承知しております。それ以来、ご主人様が大変厳しくおなりになったのでございますが、このようなことを私めから申し上げるのはまことに僭越なのでございますが、もしご主人様が今後ともこのようになさることをお望みでございましたら、ちょっとその、私めは、その、何と申しますか……」
《そうだろうな。そりゃそろそろ限界にもなるよな……》
フィンは彼女がやめたいと言い出すのだと思った。
だが彼女の言葉の続きは違っていた。
「旦那様のお望みを叶えられないかもしれないことが恐ろしゅうございます」
………………
…………
……
「は?」
一体彼女は何を言っているのだ? 俺の望み??
ぽかんとしたフィンに対して彼女は続けた。
「あの、ご主人様。ご存じの通り私めの真のマスターは未だアルクス様でございます。それ故に私めはアルクス様の命には逆らえないのでございます。ですので、その、今後とももご主人様が今のようになさりたいのでございましたら、その私めの“本当のご主人様”になっては頂けないでしょうか?」
「ああ?」
フィンを見あげるチャイカの眼差しは、真剣この上ない。
《ちょっと待て! なんだ? これって……》
彼女は一体何を言い出した? なんで今頃またそんなことを蒸し返してるんだ?
彼女はある意味非情に思慮深い女だ。伊達や酔狂でそういうことを言っているのではないはずだ。だとすれば……
《もしかして……モロばれ?》
彼女の言った“旦那様のお望み”というのが今フィンが考えている“計画”のことだとしたら……
フィンはがっくりと座り込みたくなったが、辛うじて我慢した。
―――そう。もちろん彼がチャイカを虐めていたのは訳があった。
これまでの経緯から彼はアロザール軍の北進について、大きな危惧を抱いていた。
正直フィーバスやアルクス王子が腹の底で何を考えているのかさっぱりだ。呪いだの天罰だのと、少なくとも常識的な考えではそんなものでバシリカが落とせるとは思えない。
だがそれがもし本当に実現したのなら一体どういうことになる?
それはもうフィンの常識を越えた事態としか言いようがない。
もちろん彼だけでなく、アイザック王やアラン王だって全く想像だにしていない事態だ。
だが今のフィンにそれを止める力はない―――だとしたら彼にできることは何なのだ?
そう考えての“計画”の一端だった訳なのだが……
《何でばれたんだよ?》
その理由を聞いてみたくなるのをじっとこらえて、フィンは言った。
「何でそんなことを言う?」
「その、今のままでございますれば、私めはご主人様がなさりたいことの障害になってしまうかも知れませんゆえ……もし本当のご主人様になって頂ければ、この私めを思いのままにして頂いて構わないのでございます」
やっぱり分かっているみたいだ……
フィンは動揺を隠すため腕組みしてそっぽを向いた。
《どうするよ? これって……》
彼女の意図はどこにあるのだろうか?
もし彼女がフィンに敵対する意志があれば、フィンの“計画”に気づいていることは黙っていた方がいいはずだ。
だが彼女はこうしてこっそりと彼に打診している。
《彼女は俺のためを思っているのか?》
あんな仕打ちをしていたというのに、本当なのだろうか?
もしそうなら真実を打ち明けて彼女に協力して貰うのがいいのだろうか?
だが、彼女の“マスター”になるためには、あることをしてやらなければならないわけで―――だがそんなことをしたら、せっかく今まで心を鬼にして彼女を虐げてきた意味がなくなってしまうし……
《彼女に芝居させるか?》
フィンがマスターになったなら何でも言うことを聞くというのなら、マスターになってやって今の状況を続けさせることも可能だが……
《いや、相手がアルクスじゃ……》
それだと依然アルクスがマスターだというふりをさせなければならなくて、当然今まで通りに時々彼の呼び出しに応じなければならないのだが、普通の相手ならともかく彼にそんなペテンは無理だ。
《いっそもう、首にするか?》
だがこれももうタイミングを逸していた。
そうするのならネイへの教育が発覚した時点だ。それにそもそも、アルクス紐付きの彼女を身内に置いているということは、別に疚しいことなどないですよというポーズでもある。
それは向こうだって承知しているはずで、彼が彼女にこんな時期にどうして首になったのかと尋ねたら、チャイカは気づいたことを話すかもしれない。
それに正直彼女がいないともう身の回りのことが何もできないし……
フィンは横目でちらっとチャイカの方を見る。
《本当に彼女は俺のためを思って?》
もしかしてアルクスに言われてこんなことをしているんじゃ?
ならばその目的は?
彼がフィンの忠誠を疑っているというのなら、直接尋ねればいいことだ。彼が本気になれば嘘はつけない。さすがにそんな重大なことをこんなまどろっこしいやり方で調べようとはしないだろう。
《……ってことは?》
彼女は信頼できるのだろうか?
フィンは振り返った。チャイカは同じ場所に跪いて、じっとフィンを見上げている。
その眼差しは、ひたすら真っ直ぐにフィンを見つめていた。
《しょうがない……》
こうなったら信じるしかない。
そこでフィンは答えた。
「一体何の話だ? 君をここに置いているのは、侍女がいないと困るからだ」
それを聞いてチャイカは目を見開いた。
「でも、ご主人様……」
フィンはしゃがんで彼女の顔を正面から見つめる。それから小声で言った。
「余計な憶測で行動しないでくれ。それが一番僕のためになるんだ」
チャイカはそれをじっと黙って聞いていたが、やがて平伏して答えた。
「この端女の浅知恵でございました。申し訳ございません」
「分かったならもういいな?」
「はい。承知致しました」
フィンはふうっと息をつくと、彼の天幕の中に入った。
入口近くにはチャイカの簡易ベッドがあって、その中ではネイが眠っている。フィンは垂れ幕をかき分けて奥の部屋に入る。
彼のベッドには―――ボニートがぐっすり眠っていた。
《………………》
もう本当にどうしたものなのか。せっかく苦労していろいろ芝居をしていたというのに、チャイカには全く通用していなかったらしい……
フィンは無性にボニートをベッドから放り出したくなった。
だが、これはチャイカだけでなく周りの者みんなに信じて貰わなければならない。
今のところ彼女以外がそれに気づいている様子はない。だったらやはり現状は継続していかなければならないだろう。
それに無駄口を叩いていなければこいつだって無害なものである。
フィンはもぞもぞと夜着に着替えると、ベッドに潜り込んだ。
入口あたりからチャイカが同様に着替える衣擦れの音が聞こえてくる。
《………………》
何が悲しくてこんなことをしなければならないのだろう?
その日はいつになく、そんな思いが頭の中を駆け巡り、体は疲れているというのにあまりよく寝付けなかった。
明け方近くになって、しばらくうとうととした時だった。
遠くから何やら叫び声が聞こえてくるような気がした。
フィンは寝ぼけ眼をこすった。
《夢か?》
セロの戦い以来、時々戦場にいる夢を見ることもある。
フィンはぼうっとした頭で天幕の天井を見つめる。夢ならもう聞こえなくなるはずだが……
しかし遠くの方から依然として兵士の罵声のような声が聞こえている。
《一体何の騒ぎだ? こんな時間に……》
夜明けは近いとはいえ、日の出にはまだ早い時間だ。外はまだほとんど真っ暗だ。
再びはっきりと誰かが叫んでいる声が聞こえた。それに混じって剣を打ち合ような音も……
これってもしかして……
「えええ?」
フィンは慌てて飛び起きた。
「んー……」
横でボニートが平和に眠っている。フィンは彼の胸ぐらを掴むと揺り起こした。
「おい! 起きろ!」
「んー? ああ? なに?」
ボニートが間抜けな顔で目を開ける。
そこに部屋の入口の垂れ幕の間からチャイカがネイをつれて顔を出した。
「あの……ご主人様……」
彼女もどうやら騒ぎに気づいていたらしい。
「多分、夜襲だ」
「ええ?」
さすがのチャイカもそれを聞いて驚いて凍り付く。
周囲の天幕からも慌てたような声が聞こえ始めている。
「えっと、その……」
チャイカは混乱しているようだ。さすがにクーレイオンでもこんな場合の対処は教えてくれなかったのだろう。
「君たちはここでじっとしていろ。俺は見てくる」
「でも、外は危険では……」
「大丈夫だ。ここは本陣の中だ。一番安全なところだから」
だが彼女の顔からは不安が消えない。
そこでフィンは彼のチェストから愛用のショートソードを取り出して彼女に握らせた。
「あの……これは……」
「念のためだ。いいな?」
チャイカは息を呑むと軽くうなずいた。
「……はい。承知致しました」
「えーっと、どうしたの?」
ボニートはまだ寝ぼけているようだ。
「夜襲だ。とにかくここで待ってろ」
「え? あ?」
「ネイもだ。チャイカさんと一緒にじっとしてるんだ」
ネイは怯えた表情だが、黙ってうなずいた。
フィンは三人を残して天幕から出た。
テントの外はまだ暗かった。宵のうちには輝いていた篝火も、この時間には大部分が消えている。
だが周囲では既に混乱が起き始めていた。
あちこちの天幕からは声が聞こえていて、入口から誰かが外を伺っている所も多い。天幕から出て右往左往している者もいる。
このあたりは遠征に同行した城の文官達が主に集まっているところだ。当然彼らが修羅場に慣れているはずがない。
《うわ、このままパニックになられたらまずいぞ?》
フィンは軽身の魔法で飛び上がって近くの柵の上に乗ってバランスを取り、戦いの起こっている場所を見極める。
《ああ!》
間違いない。騒ぎは本陣の中央にあるひときわ大きな天幕のあたりから聞こえている。
ということは……
フィンは周囲に向かって大声で叫んだ。
「みんな落ち着け! 敵は撃退した!」
おろおろしていた人々がフィンの方を見る。
「落ち着くんだ! 大丈夫だ! 敵は撃退した!」
正確にはもうすぐ撃退されるというのが正しいのだが……
「おい、本当か?」
「大丈夫なのか?」
何人かがフィンの下に集まってきた。フィンは彼らに向かってうなずいた。
「ああ。大丈夫だ」
だがそのとき、中央の大天幕の方から大きな鬨の声が聞こえてきた。
「あの声は?」
やってきた一人が怯えた声で尋ねる。
フィンは人々に向かってはっきりと分かるように言った。
「あいつらが罠にかかったんだ。本陣には伏兵が待ち構えている」
「そうなのか?」
「大丈夫だ」
そう言いながらフィンは自分の言っていることが半分信じられなかった。
もしかしたら夜襲があるかもしれないから国王や王子は別なところに移って、本陣には兵士を待ち伏せさせて置いたらどうかと進言したのは彼自身なのだ。
《ってことはやっぱりあの山越えで?》
アロザール陣の構えは、左後方の山側の防備が薄くなっている。
山側から大軍で攻めることは不可能だから、その分他の所を厚くするのが道理なのでそれはそれでいいのだが、少数での山越えによる奇襲は不可能ではない。
その場合は間違いなく大将の首狙いで来るはずだ。
そこで大将がいると思われる場所、すなわち中央の大天幕に伏兵を仕込んでおくよう進言したのだが―――何かそれが通ってしまっていたのだ。言ったときにはそこまで強い確信があったわけではないのだが……
どうせザルテュス王もアルクス王子も、後宮の寵姫達の天幕にいたかったのだろうが……
それはともかく、これはフィンの予想が当たってしまったということなのだ。
遠くからは最初はかなり激しい戦いの音が聞こえていたが、それがこちらに迫ってくる様子はなく、戦いの音も段々と小さくなっていった。
それからしばらくして戦いのあった方から一人の兵士が走ってくる。
彼はフィン達の姿を見て叫んだ。
「ご心配なさらずに! 敵が攻めて参りましたが、撃退致しました! 敵は撃退致しました!」
周囲から安堵の声が漏れる。フィンも大きく息をつくと、柵から降りて自分の天幕に戻ろうとした。チャイカ達が心配しているに違いない。
だがそのときやってきた兵士が叫んだのだ。
「こちらにル・ウーダ様はいらっしゃいますか?」
「え? 僕だが?」
「将軍がお呼びでございます」
「え? 僕を?」
「はい」
一体何なんだ? 作戦計画とかの時ならともかく、こんな実戦のさなかに?
だが不思議がっていても仕方ない。フィンは兵士の後を付いていった。
兵士が案内したのは罠を仕掛けた大天幕の前だ。
普段は本当に王族専用の豪奢な天幕だが、そこでは激しい戦闘が行われたようだった。死体などは片付けられていたようだが、あちこちに傷が付いていたり、あからさまな血痕が残っている。燃え落ちている天幕もある。
その前はちょっとした広場になっていたが、今はそこに人垣ができている。
それにはアルデン将軍だけでなく、アルクス王子やザルテュス王の姿まで見えた。
《一体何なんだ?》
フィンが人垣をかき分けて前へ出ると、その中央には鎧を着たがっしりとした老人が座っているのに気がついた。
《誰だ?》
人々がフィンの顔を見る。それに気づいて中央の老人も振り返った。
「この男が?」
老人が言った。
「そうだ」
答えたのはアルデン将軍だ。
老人はフィンをじっと見つめると言った。
「若い……な?」
「あの、あなたは?」
「わしは……アヴィシオン」
「ええ?」
次の瞬間、フィンは思わずその老人のまえに歩み寄ると、膝をついていた。
「大ガルンバ……将軍でしょうか?」
「そうだ」
それ以上フィンは声が出なかった。
ガルンバ・アヴィシオン。
その名はフィンの心の中に刻み込まれていた。
魔導師達の仇敵であり、古い秩序を崩壊させた立役者……
だがフィンは彼がどのようにしてそれを成し遂げていったのか、もうよく知っていた。
「そろそろ幕引き時だとは思っていたが……そうか。お前か……」
ガルンバ将軍は何故か満足そうに笑う。
それからまた正面を向くと、アルデン将軍に向かって言った。
「では首をはねるがよい」
アルデン将軍は黙ってうなずいた。
《え?》
ちょっと待て。いきなり処刑か? そんなことよりも……
だがそのとき彼は気がついた。ガルンバ将軍の脇腹からはどくどくと血が流れ出ているのだ。
これではもう助からない……
フィンは黙って将軍の背に向けて礼をした。
それから立ち上がって将軍に背を向け、数歩歩いて取り巻きの人垣に入ったとき、後ろで鈍い音がした。
フィンは振り返らなかった。
彼はそのまま人垣から出ると、近くにあった椅子に腰を下ろして天を仰いだ。
空はもう白んでいる。もうすぐ夜明けだ……
《………………》
言葉が浮かんでこない。何なんだろう? この気持ちは……
そのとき近くに人の気配がした。見るとフィーバスだ。
「……見事だったな?」
「何が、ですか?」
「将軍の夜襲を読んだことだよ」
「偶然ですよ」
「だが、あんな準備がなければ、無事では済まなかっただろう」
「そうかもしれませんね」
「あんまり嬉しそうじゃないな?」
「いや、その、何ていうか……」
あのガルサ・ブランカの図書館でナーザにクォイオの戦いの真実に付いて教わって以来、フィンはガルンバ将軍のことについては調べ尽くしてあったといっても良かった。
だから今では彼は身近な知り合いのようにさえ感じられる。
いろんな局面でフィンは、ガルンバ将軍ならどうするのだろう?―――と、いつも考えていた。
彼の優れた点は幾つも挙げられるが―――その中に、決して敵を舐めないということがあった。
それ故に彼は敵を研究し、その弱点を調べ尽くして戦うのだ。
そんな彼が今回の戦いに臨んだらどうするだろうか?
確かにバシリカの防衛に徹するのは堅い作戦だ。
だが、アロザールの天罰のことはもう相手にも知られているはずだ。
大抵の者ならそんな話は笑い飛ばすことだろう。
だがそれが将軍だったならどうだろう?
もしそれに根拠があったとしたら?
ならばその場合、天罰とやらが下される前に片を付けてしまうべく短期決戦で来るのではないだろうか?
だからフィンはこの場所で会戦が行われるのではないかと予想していたのだが……
《奇襲って……しかも本人で……》
フィンが今回の待ち伏せ作戦を提案したのは、この場所はそういうことが可能な場所だから念のためだったのであり、本当にそうする必要があると思ったからではなかった。
大体こんな作戦は正直、窮鼠猫を噛むような場合にするものだ。
セロの戦いだってそうだ。あれはやりたくてやったのではなく、他にどうしようもなかったから最後の手段に出たという方が正しい。
だとしたら将軍は彼らがそこまで追い詰められていると感じていたことになるのだが……
《何か怯えすぎなんじゃないか?》
大ガルンバ将軍も年老いたということなのだろうか?
―――だが、将軍の判断が正しかったことはすぐに証明されることになった。