世界の危機とワンダーライフ 第5章 愛のメッセンジャー

第5章 愛のメッセンジャー


 それからも相変わらず多忙な生活が続いていた。

 気づけばもう十一月も終わりに近い。このバシリカでは木枯らしが吹き始める時期だが、寒いの何のと悠長にこぼしていられる状況ではない。

 この一ヶ月というもの、疲れの溜まることばかりでゆっくりできた日など皆無だった。

 だが今日という今日は……

「はあ……」

 フィンは大きなため息をついた。

 ベッドの上にはひらひらした下着を着けた可愛い少女―――のように見える少年がくったりとしている。

《やっちまったよ……》

 これでもう後戻りはできない。いろいろな意味で……

 フィンは横たわっているボニートを見下ろして、再度ため息をついた。

 それから彼はガウンを羽織っただけの姿で窓際まで歩いていくと、窓を開いてバシリカの町並みを見下ろした。

 冷たい空気がそろっと入り込んでくるが、火照った体には心地よい。

「暗いな……」

 しばらく前までは町の各所で炎上している建物もあって夜でも少しは明るかったのだが、今はもうほとんど真っ暗だ。

 バシリカで明かりが灯っているのはフィン達が駐留しているこのバシリカ城塞だけだった。

 あれから一ヶ月。

 僅か一ヶ月なのだ……

 レイモン王国の第一の都市だったこの町が、ほとんど廃墟と化している。

 一体誰がそんなことを予想しただろうか?

 バシリカは元ウィルガ王国の首都で八百年の歴史を持つ古都だ。

 ウィルガ王国が白銀の都の最大の同盟国であったせいもあって、ここは長い間中央平原最大の都として栄えてきた。

 中央平原にはその間たくさんの小国が乱立して、大抵の時代はどこかで戦いが行われていた。だがその中でウィルガ王国だけがある程度の盛衰はあるものの常に存続してきたのだ。

 だから今から三十数年前にレイモン王国がウィルガ王国を滅ぼしたという事件は、歴史上最大級の事件であった。

 だがそのときでもこのように町が破壊し尽くされたわけではない。

 クォイオの戦いでウィルガ軍を撃破したレイモン軍は、怒濤の勢いで首都バシリカに向かって進軍したが、ウィルガ王家はそれを見て恐れをなして都を放棄して逃げたのだ。

 徹底抗戦していれば多分そう簡単に落ちる都市ではない。

 だがバシリカが攻められるという事態はもう二百年以上起こっていなかった。その間にウィルガ人はそうするだけの気概を失ってしまったのだ。

 こうしてほとんど戦いらしい戦いもなくバシリカはレイモン王国の占領下に入る。

 多くのウィルガ人が難民として他国に流出し、その後をレイモン人が埋めていった。

 バシリカはこうしてレイモンの都市に変わっていったのだ。

 その都市が今、廃墟と化している。

《これって自分の町じゃなかったのかよ……》

 正直アロザール軍は寄せ集めの軍隊と言っていい。生粋のアロザール人の部隊は第三軍だけで、他は傭兵だったりウィルガやラムルスの難民の子孫で占められている。

 町をここまで破壊し尽くす原動力となったのは、その“元ウィルガ人”達だった。

 だが彼らは親たちから自分はウィルガ人だとは知らされていても、彼らの故郷は既にアロザールだった。彼らにはバシリカその物の記憶はなかった。ただ憎むべきレイモン人が住んでいる都市というだけで。

《………………》

 フィンは無力感に苛まれていた。

 バシリカは彼の母、ウルスラの出身地でもある。だからアウラとゆっくりと見て回りたかった場所の一つなのだ。

 だがそれももう不可能だ。

《もう二度と取り返せないのに……》

 何百年もかけて作り上げられた町でも、壊すのは一瞬だ。

 兵士達が半ば狂気に駆られたように町を破壊していく中で、フィンにできたのは古い絵画を数枚保護できたことだけだった。

 ウィルガ人が去った後、新たにやってきたレイモン人は、少なくともウィルガの文化が自分たちの物よりずっと洗練されていることをよく分かっていた。そのため残されていた建物や美術品などは貴重品として丁寧に扱っていたのだが……

 フィンは無造作に部屋の壁に立てかけてあるその絵画を眺めた。

 一枚は皿に盛った果物の絵で、他に田舎の風景画が数枚ある。フィンにはかなり良い作品と感じられたのだが、粗野な兵士達にはただのゴミにしか見えなかったのだろう。美人画だったなら良かったのだろうが……

「どうしてこうなっちゃったんだよ?」

 そのセリフをつぶやくのはもう何度目だ?

 だが今までは自分の判断ミスを悔やんで出てきたセリフだったのだが、今のは純粋に疑問の念だ。

 フィンはバシリカの攻略戦の一部始終を見ていた。

 だが―――理解ができなかった。

 一体何が起こったというのだ?

 それまでずっと彼はバシリカを包囲した後は長期戦になるとばかり考えていた。

 確かにガルンバ将軍がああやって戦死したことは防衛軍にとってはダメージだっただろうが、でも要塞都市を守りきるということならばそこまでの才能がいるわけではない。

 その上包囲といっても完全包囲ですらなかった。

 バシリカは大河アルバ沿いに建てられた町だ。そのため陸軍主体の現勢力だと相手が船で出入りするのを妨げることさえできない。これでは兵糧攻めも不可能なのだが―――そのため川沿いを封鎖できるように船団を派遣するよう進言したこともあるのだが、何故かそれは却下されていた。

 確かにアロザールの船は海用で吃水が深く川用に作り直す必要はあったのだが……

 ともかくそういった心配は確かに杞憂だったのだ。


 ―――その日フィンは後方からただそれを見つめているだけだった。

 アロザール軍はあの奇襲以来ほとんど戦うこともなくバシリカの郊外に到着していた。

 もちろん城門はぴたりと閉ざされている。ここはレイモンが数十年掛けて強化した城塞で、少々の魔法ではびくともしない。

 城壁の上には大量の弓兵達が、射程内に入ったら矢ぶすまにしてやろうと待ち構えている。

 しかも防御する兵の数は攻撃側と大差ない。

 このままでは延々にらみ合うしかないように思えた。

 そのときぱっとアロザール軍の前面が割れると、第一軍の将軍と共に派手な装飾を施された大型の屋根のない馬車数台が進み出た。

「ああ?」

 敵味方含めてそこにいた者達が全て目を疑った。

 なぜならその馬車にはシーガル城の宮廷楽団のメンバーが、楽器を手にして乗っていたのだから。

《なんだ? 演奏でもするのか?》

 誰もがそんなバカな! と思った。ところが―――本当にその通りだったのだ。

 最前の馬車の御者台にいた指揮者が立ち上がってタクトを振ると、あたりに朗々とした音楽が流れ始める。確か以前シーガル城で練習していた新曲のようだが……

 誰もがそれをぽかんとした顔で見つめる中、一団が城門の上にいる防衛軍の指導者達の前で停止すると、音楽は一旦終了した。

「何だ? お前達は? おひねりでも貰いたいのか?」

 城門の上から誰かが叫ぶ。他の兵士達が爆笑した。

 だが先導していた第一軍将軍は言った。

「お前達は今すぐ城門を開けて、バシリカを我々に明け渡すのだ」

「何を寝ぼけたことをほざいている!」

「我が王ザルテュス様は大変心を痛めておられるのだ。天罰を受けて滅び去っていくお前達の運命にな。これはその神の怒りを静めるための音楽なのだ」

「神様? 一体そんな物がどこにいるというのだ?」

 フィンにとっては相手の言い分の方がもっともに思えた。

 神だと? 確かに神はいた。

 かつて存在した東の帝国は、神とその使徒である魔導師達に支配されていたと聞くが―――そこは大聖と白の女王、黒の女王の滅ぼされたのだ。

 それ以外にどんな“神”がいるというのだ?

 当然ながら交渉は―――そう言っていいのかさえよく分からないが―――決裂した。

「ならば仕方ない。もはや我々にお前達の滅びを食い止める術はない。せめて、散りゆく魂達に平安のあらんことを」

 それとともに楽団は再び音楽を奏で始めた。

 それから馬車はゆっくりと動き出すと、バシリカの周囲を城壁に沿って回り出す。

 こうして音楽隊はバシリカを半周して回って戻ってきた。

 二日目以降も同じことが繰り返される。

 そして七日目。

 バシリカは陥落した―――


 なぜバシリカが陥落したか?

 その直接的な理由は簡単だ―――戦闘できる者がいなくなってしまったからだ。

 アロザールが包囲を開始した次の朝、バシリカ市内の兵士や市民の中に何故か体が動かなくなっている者が多発したのだ。正確には全く動けないことはないのだが、体に力が入らないため杖をついて歩くのも困難だった。

 最初の日にそういう症状を現した者は全体の数パーセントほどだったが、次の日に一割以上が、更にその次の日には三割近くと、数日のうちに兵士と男性市民の半数以上がそんな状態でまともに動けなくなってしまったのだ。

 不思議なことにその症状になったのは男だけで、女はみんなぴんぴんしていたのだが―――いずれにしてもこれではもう戦争どころではない。

 元気な市民は我先に逃げ出し始めた。

 兵士達にも士気を失って逃走する者が現れ始める。

 そして七日後。バシリカは無血開城したのだ。

《どういうことなんだ?》

 その話を聞いてフィンが真っ先に思ったのは、誰かが毒でも撒いたのか? ということだ。

 だが、だとしたらそれは一体どのような毒なのだ? 男だけに効果を現し女に効かない毒? 聞いたこともないが―――仮にそういう毒があったとして、どうやってその毒を撒いた?

 一番よくあるやり方は飲料水に混ぜることだが―――バシリカの一般的な水源は地下水だ。人々は市内に無数にある井戸で生活をしている。

 すなわち水に毒を混ぜたかったら、誰かが市内に潜入して街中の井戸一つ一つに毒を入れて回る必要がある。そんなことをしていて全く気づかれずに済むものだろうか?

 しかもつい先日までは何事もなかったわけだから、前々から汚染していたのではないはずだ。

 水でなければ霧状の何かなのだろうか?

 だがそんな物を使ったら味方にだって被害が出そうだし……

《だとしたらあの音楽に何か?》

 フィーバス達が行った怪しいことといえばあの音楽の演奏だが―――何かの魔法の音楽だったのだろうか?

 だがはっきり言ってそれも考えにくい。

 あれは敵も味方も聴いているのだし、フィンの知る限り、敵の男性だけを狙い撃ちにする全体魔法の類など存在しなかった。

《そういえばフィーバスは巫女がどうとか言っていたが……》

 その巫女とやらが多分何かの工作はしていたのだろうが―――彼女達が行ったのはもう随分前のことだ。その仕込みがこんな上手いタイミングで発動する物なのだろうか?

 フィンは首を振った。

 幾ら考えても分からないものは分からない。

 だが少なくともフィーバス達が嘘をついていたのではなかったことだけは証明されたのだ。ともかくこうしてバシリカが陥落した以上、レイモンが都に手を出すことはもうないはずだ。

 それはいいのだが……

「はあ……」

 フィンはまたため息をつくと真っ暗なバシリカ市街を眺める。

《こんな結果になるなんて……》

 市内にはもうほとんど戦える状態の者はいなかった。

 五体満足だった者はみんな逃げ出してしまっていたからだ。

 だから残っていたのは動けなくなっている男か、その男に付いて残った女達だ。

 すなわちそれはもう羊の群れに狼を放したようなものだった。

 果てしのない殺戮と暴行……

《だのに……それを止めることもできない……》

 その点についてはフィンにできることは何もなかった。ただこうして成り行きを見つめることしか……

「おまけに……」

 そうつぶやいてフィンはまた臍をかむ。

 何しろ彼は大変なチャンスを逃していたのだ。

《多分……逃げられたよな? あのどさくさなら……》

 兵士達がバシリカの略奪を行っていた数日間―――あの混乱の最中であれば、ネイやボニート、チャイカを連れて逃げることだって可能だったはずだ。大量の難民の中に紛れ込んでしまえば見つかる可能性はほぼ皆無だった。

 だがある意味彼は虚を突かれたのだ。

 元々彼はこのタイミングで脱出できるとは想像だにしていなかった。バシリカの包囲戦はうんと時間が掛かるはずで、そのための準備もこれからのはずだった。

 また積極的に逃げなければならないほど切羽詰まってもいなかった。

《それに……》

 フィンは彼が“救出”した絵画を眺める。

 悪くない絵だと思うが―――ここまでして救い出す価値があったのかどうかは分からない。

 だがあのときは思い入れのある都市の貴重な物が壊されたり焼かれたりしているのを見て、少々頭に血が上ってもいたのだ。そのため思わずこうして絵を保護してみたり、そういった略奪をやめさせるよう上層部に働きかけたりしていたのだ。

 軍はいま再び軍紀を取り戻し、町は平穏を取り戻している―――というより死に絶えているといった方がいいが……

 そして落ち着いてみたらまた前の通り、簡単には抜け出せない状態に戻っていた。

 今後の方針をどうするかについて、また連日の軍議が始まっていた。

 フィンはガルンバ将軍の奇襲を予測したということで、そういった軍議には全て参加せざるを得なくなっていた―――こうなるともう簡単には足が抜けない。

 軍議では各地からの情報が入ってくる。

 バシリカ陥落の報を聞いて、どうやらシフラも降伏してシルヴェスト軍が進駐したらしい。同じくセイルズの町はサルトス軍が占領したという。

 アイフィロスが攻めているトルボ城塞も落城間近だという。

 残るはレイモンの首都アキーラだ。

 白銀の都を攻めていた小ガルンバ・アリオールは撤退してメリスまで下がっていたが、そこからまた首都防衛のためにアキーラに向かったらしいが……

《何なんだろう……》

 ほんの少し前までは中原最大の勢力を誇っていたレイモン王国が、なぜか今、風前の灯火なのだ。

 これまでのフィンはフォレスやベラが今後レイモンとどう対峙していかなければならないかということを考えて行動してきたのに、そうしてきたことがまるで無駄になってしまったようだ。

 確かに巨大な敵がいなくなったのだから良しとするべきなのだろうが……

《いや、そうじゃないだろ?》

 今後アロザールがずっと味方のままでいる保証は一切ない。

 もし彼らが牙を剥いたとしたらこの世界は一体どうなってしまうのだろう?

 ある意味レイモンは強かったが、理解のできる相手だった。

 フィンはアリオールに捕らえられてひどい目に遭わされそうになったが、彼がそうした理由はよく分かる。だから自分の馬鹿さ加減を呪うことはあっても、アリオールを憎む気持ちはなかった。

 だがこのアロザール王国というのは何なんだろう?

 もう一年近くも彼らと一緒に行動しているのに、結局どうしてこうなっているのかほとんど分からずじまいだ。

 だとしたら彼は何をしなければならないのだ?

 そのとき開いた窓からふっと風が吹き込んできた。

 フィンはぶるっと体を震わせる。さすがにそろそろ体も冷えてきている。

 フィンは窓を閉めると再びベッドの方に歩み寄った。

 ベッドの中にいたボニートがフィンの足を撫でる。

「ああ? 冷えちゃってるじゃない」

「どうでもいいだろ?」

「ねえ、またしてよ」

 フィンはボニートを睨むとごつんと軽く叩いた。

「アホ! お前が約束を果たしてからだ」

「んー、じゃあ始めてよ」

「そのつもりだ」

 フィンは服を脱いでベッドの中に潜り込むと、ボニートの体に軽く手を回す。

 それから彼の耳元に唇を寄せると囁き始めた。



 その次の日、バシリカ城内にあるフィーバスの執務室の前でフィンは息を荒げていた。というのはフィンがこの場所を発見するためにほとんど城中を、最後の方は半ば駆け回っていたからだ。

 ウィルガ人というのは、クーレイオン古城の内部もそうだったが、建物や町の構造を整然とわかりやすくすることに関してはあまり興味がなかったらしい。このバシリカ城はウィルガ王国時代からある由緒ある建物だが、ここもその例に漏れず内部はまるで迷路のように入り組んでいた。

 だが彼が深呼吸していたのはそのせいだけではなかった。これからフィーバスに話さねばならないことを考えて少々緊張してもいたからだ。

 フィンはドアをノックした。

「入りたまえ」

「失礼します」

 フィンは執務室に入った。

 室内は比較的質素だった。中央に頑丈そうな木のデスクが置かれていて、部屋の端の方に長椅子と応接テーブルが置いてある。シーガル城の中に比べたらフィンにとっては遙かになじみ深い内装だ。

 かつては絢爛豪華な見栄えだったのだろうが、レイモンの支配下に入って以来彼らの趣味に合わせて過度な装飾は取り外されている。

 だがそれでも壁に埋め込まれた燭台など簡単に外せない物は往時のままなのだろう。それだけが妙に浮いてきらきら光っていた。

 フィンは部屋の中を見渡した。

 いるのはフィーバスだけだ。フィンはちょっとほっとした。

 これがシーガル城だと大抵は部屋のどこかにアルクスがごろごろしていたのだが、こちらに来てからは彼は捕虜の検分に―――もちろん若い女の捕虜に限るが―――忙しいため、ほとんどこういった場所には姿を現さない。

 彼がいるといろんな意味で調子が狂うので、それは願ったりだった。

「遅かったな」

「すみません。近道かと思ったらなんか訳の分からないところに行ってしまいまして……」

 それを聞いてフィーバスは笑った。

「ははは。そうか。わしはもう表通路しか歩かんことに決めたよ」

 実際大抵の者が一度ならず城で迷子になった経験を持っている。

「その方が早いみたいですね」

「で、話とは?」

 フィーバスは早々に本題に入ってきた。

「あ、はい」

 フィンは背筋をただした。

「えーっと、以前私がこちらにお仕えする際に交わした約束についてなんですが……」

 それを聞いてフィーバスはちょっと目を見開くと、思い出したようにうなずいた。

「約束? ああ、レイモンの野望が潰えるまでというあれか?」

「はい。一応条件として、レイモンの都侵攻が阻止できるまでということになっていたと思うのですが」

「うむ」

「それについてですが、こうして私たちがバシリカを占拠しているわけで、もはやレイモンにそのような余力はありません。なので、私はその条件を満たせたと考えているのですが如何でしょうか?」

 フィーバスはちょっと顔をしかめると考え込んだ。

「うむ。まあそういう考え方もできるかもしれない」

「でしたら丁度いい機会でもありますし、このあたりで暇乞いできないかと思っているのですが……」

「なるほど……」

 フィーバスは考え込んだ。それから顔を上げると残念そうに答える。

「言われていることはよく分かるのだが……ちょっと考え直してはもらえないだろうか?」

「はい?」

「いや、正直少々急だったのでな、あまり君が抜けることを考えていなかったのだ。実際君にはこちらの想像以上に働いてもらった。特にあの奇襲の予測の件に関しては、国王の覚えも大変めでたくてね」

 そんな風に言われそうなことは予想が付いていた。

「ありがとうございます。ですが……」

「うん。それは分かる。なのでずっととは言わない。もう少し、アキーラ侵攻が終了するまで待ってはもらえないだろうか?」

 フィンは思わずフィーバスの顔を見る。

「え? ではやはりすぐに北進するのですか?」

「ああ。この機会を逃すと、レイモン側にも立て直す余裕を与えることになるかもしれない。だからこのまま一気にアキーラを攻略すべきだとの意見が強くてね」

「それは……そうだと思います」

 その点に関してはフィンも同感だった。

「これについてはまだ内密に願いたいが、次の軍略会議では正式な議題に上がると思う」

「はい……」

「だがそうなると君にもまた色々助言を願う場面もあるだろう。だから私としてはもう少し君にいて貰いたいのだ。それに多分それはそんなに長い期間ではない。遅くとも来年の春までには片が付くだろう」

「はい……」

 フィンはうなずいた。

 それは今となったらもう決して夢物語ではなかった。バシリカをこうやって攻略できたことを考えれば、それがアキーラでも同様になるだろうということはほぼ確実なのだ。

 だとしたら……

「そうなれば君との約束も完全に守られることになる。もはや野望を抱こうにもレイモンという存在がなくなるわけだからな」

「………………」

 フィーバスはあっさり言ったが……

《レイモンが……なくなる?》

 ちょっと前までは全く想像することさえできなかった事態だ。

 中央平原で最大の勢力を誇っていた国家が、何ヶ月もしないうちに消滅しようとしているのだ。

 だが実際このままアロザールがアキーラに侵攻したら、如何に現実味がなくてもそれは実現してしまうのだ。

 それはともかく、どうしたらいいのだろうか? ここは徹底的にゴネるべきなのだろうか? だがフィーバスの言うことももっともだが―――などと考えているとフィーバスが言った。

「それにもちろんこちらとしてもタダ働きして貰うつもりはない。事が成就した暁には良き報償を期待してもらっていい」

 ぐぬぬぬ……

 やむなくフィンはうなずいた。

「分かりました。そういうことでしたら、アキーラが占領されるまではこちらで働かせて頂きます」

「うむ」

 もちろんそれが美味しい話だからということもある。

 だがフィンはそれよりも今出て行くのは何だかやりかけの仕事を放り出していくような気になっていたのだ。

 実際、このアロザールでの生活は意外に楽しかった。

 ここでは彼の才能が必要とされている。相手が誰であれ正当に評価されるというのは嬉しいものなのだ。

 だからそういう意味では暇乞いはアキーラ戦の後の方が遙かにキリがよいというのは間違いなかった。

《それに今戻っても大した報告もできないし……》

 正直アロザール王国について分かっているのは、表面的なこと以外は訳が分からないということだけだった。

 あのバシリカ戦で何故勝てたのか、どういう仕組みになっているのかも、いまだにさっぱり分からない。

 もうしばらく滞在したからといってそれが分かるとは言えないのだが、もう少し情報は増えるかもしれない。

《しょうがないな……》

 ともかく彼がこう決心したのならば、もう一つの願いをしなければならない。

 そこで彼は居住まいを正すとフィーバスに言った。

「えっと、それでしたら一つお願いしたいことがあるのですが」

「何だ?」

「この機会にまたアラン様に報告書を出したいのですが」

 それを聞いてフィーバスはそんなことかといった様子でうなずいた。

「それは構わんよ。もちろん前と同じ条件で、だな?」

「はい」

 以前一度、中身をチェックして貰うという条件で報告書は出している。今回ももちろんそのつもりだ。だが今日はそれだけではなかった。

「で、その報告書を送る際に同行させたい者がいるのですが、構わないでしょうか?」

「同行させたい? 誰だ?」

 それを聞いてフィーバスは眉をひそめた。

「私の小姓をしているボニートという者なのですが」

 フィーバスは目を見開いた。

「ボニート? ああ、彼か? 一体どうして?」

 フィンは真面目な顔をすると答える。

「彼の家族に会わせてやりたいんです。彼は長い間家族と離れて暮らしているみたいで、それで約束してたんです。バシリカが陥落したら会わせてやるって。こちらもこんなに早く陥落するとは思ってもなかったのですが」

 それを聞いてフィーバスは驚いたようにじっとフィンを見つめた。

 それから少し考えこんだ後答えた。

「うむ……まあ、そういうことなら仕方ないかもな」

 フィンは抗弁しようとして―――思わず自分の耳を疑った。いま彼はなんと言った? 仕方ない? ってことはOKというわけなのか?

「え? あ、ありがとうございます」

 フィンは少々慌て気味でフィーバスに礼をする。

「うむ。家族や知り合いと離れて暮らす気持ちはわしもよく分かるしな」

「はい。彼も喜ぶと思います……」

 それからフィンは更にフィーバスと幾つか事務的な会話をした後、執務室を後にした。

「はあ……」

 自室への帰途、誰もいない通路に来たところでフィンは大きく肩で息をついた。

《……にしても、行かせてくれるとは思わなかったな》

 ボニートの件に関してはフィンは間違いなくあれこれ言われて拒否されると思っていたのだが……

《まあ、どっちでも結果は似たようなもんなんだが……》

 あまり気にしても仕方がない。

 これからがちょっとした正念場だというのはもう確定的事実なのだから……



 バシリカの東に二日ほど行った平原のど真ん中にその道中宿はあった。

 日はもうとっぷりと暮れて冷たい雨が降り注いでいる。宿屋の主人が今日はもう誰も来ないだろうと思って戸締まりをしているときだ。

 遠くから兵士らしき男が二人、雨の中、馬を飛ばしてやってきた。

 男達は宿屋の前の馬止めに馬を繋ぐ。宿屋の主人は男達に向かって言った。

「お泊まりですかい? それならその子達を厩に入れてやりましょうか?」

 だが男達は黙って首を振ると答えた。

「いや、ここに伝令と若い小姓が泊まってるな?」

「え? まあ、はい」

 それを聞いて男達は雨具を脱いだが、ズボンはじっとりと濡れて水が滴っている。

「案内しろ」

「でもその前にお着替えなさっては? そちらでお待ちください。呼んで参りますから。お名前は何とおっしゃいますか?」

 宿屋の主人はそう言って食堂の方を指さした。そこにはストーブが赤々と燃えている。

 だが男達はじろっと主人の顔をみる。

「こちらから行く。案内しろ」

 二人は主人の前に立ちはだかった。そして一人が腰の剣に手を掛け、もう一人は懐から金貨を一枚取り出すと主人に手渡した。

「そいつらの部屋はどこだ?」

「あ、はい。案内致します」

 主人は仕方なく二人に先立って歩き出した。一般的には外から来た客をいきなり通すのは不躾とされているが、こんな場合では仕方がない。

 主人は二階に上がると一番奥の部屋に向かった。それから扉をノックする。

「お客さん、お客さん」

 しばらくして扉が開かれる。

「何です?」

 出てきたのは三十過ぎの男だ。彼も兵士のようでがっちりとした体つきをしている。

「こちらの方が……」

 主人が言い終わる前にやってきた二人の男が前に出た。

 それから男の一人が主人にもういいというように首を振る。

「あの、でも……」

 主人は口ごもったが男は黙って首を振った。主人は諦めたように去っていった。

 後には三人の男が残された。

 部屋の中にいた男が言った。

「じゃあ……」

 やってきた男達がうなずく。中の男もうなずき返して彼らを部屋に招き入れた。

「ん? アバスさん。誰? その人たち」

 そう言ったのは部屋の奥のベッドに寝転がっていた、綺麗な顔立ちをした少年だ。

「こいつがボニートか?」

 やってきた男の一人が尋ねる。中にいた男、アバスがうなずいた。

 男達はつかつかとベッドの側まで歩み寄ると、ボニートを上からじっと見下ろした。

「え? なんだよ? 一体?」

 ボニートは怯えたように男を見上げる。それを見て男は尋ねた。

「お前はどうしてここに来た?」

「え?」

「どうしてお前はここに来たと聞いている」

 ボニートは少し目を泳がせるように考えてから答えた。

「どうしてって、帰ってきていいって言うから」

「なんだって?」

「だからお母さんが病気なんだ。だからお父さんが帰ってきていいって言ったんだ。じゃないと二度とうちの敷居はまたがせないって言ってたんだけど。だからフィンが行かせてくれたんだよ」

 それを聞いて男は首を振った。

「ああ、それは聞いている」

「じゃあいいじゃないか!」

 男はボニートがふくれっ面でそう言うのを無視してもう一人の男に目配せした。

「荷物を調べるぞ」

 二人目の男はそう言うとボニートの荷袋を開けて中を調べ始めた。

「何するんだよ!」

 ボニートは抗おうとしたが、側に立っていた男が剣を抜いてボニートの目の前に差し出す。ボニートはそれ以上ぴくりとも動けなかった。

「アバスさん。何とか言ってよ!」

 ボニートは一緒に部屋にいた男に向かって言うが、アバスは黙って首を振る。

「何もない」

 やがてボニートの荷袋を調べていた男がそう言うと空になった袋をはたいた。

「何もあるもんか!」

 男がじろっとボニートを見る。ボニートはむっとした顔で目を逸らす。

「彼の荷に忍ばせているとかいうことは?」

 それを聞いてアバスが目を見開く。

「見ていいか?」

「ああ」

 そこで男はボニートの荷と同様、アバスの荷も調べ始めた。

 だが一般的な旅行の装備品以外は、彼らの使命であるアラン王への書簡しかない。

 男はその書簡もよく調べたが、何か細工をしたような形跡は見つけられないようだった。

「だから何もないって言ってるじゃないか。どうしてこんなことするんだよ!」

 ボニートは男達を睨んだが、男達は柳に風と受け流す。

「お前が何か変わった手紙とかを言付かってないか、心配してる方がいるんだ」

 それを聞いてボニートは青くなった。

「知らないって!」

 声が少し裏返り気味だ。それを聞いて荷物を調べた男が言った。

「後はそいつの体か?」

 男達はちょっと嫌そうに目配せした。それを見てボニートがわめいた。

「何も持ってないって」

「服を脱げ」

「嫌だ! 変態!」

「お前に言われたかないぞ?」

「大人しくしないと……」

 そう言って男が剣を突きつける。

「分かったよ! 脱げばいいんだろ!」

 ボニートはあっさり観念して服を脱ぎ始めた。

「寒いんだけど」

「知ったことか」

 ぶつぶつ言いながらボニートは生まれたままの姿になる。

「ほら! 調べたきゃ調べろよ! 何も入ってないから!」

 そう言ってボニートは男達に尻を向けた。男達は顔を背けると言った。

「その前に服だ」

 ボニートは男達に背を向けたままベッドに座り込んで、着ていた服を男達に投げて寄越す。

 男達は服を調べたが何も見つからないようだ。

「下履きは?」

 ボニートは後ろを向いたまま答える。

「そんな物も見るのかよ?」

「当たり前だ」

「男の下履きが見たいなんて、本当はそっちの趣味なんだろ?」

「いいから早く見せろ!」

「変態!」

 そのとき男の一人がボニートが何やら毛布の下で手をもぞもぞさせているのに気づいた。

「何をしている?」

「え?」

 男がいきなり毛布を引っぺがした。ボニートが慌てて何かをシーツの下に隠したのが見えた。

 ボニートは慌ててその上に座り込む。

「何を、隠した?」

「え? 知らないよ」

「そこをどけ」

「やだ」

 男はボニートをじろっと見つめると、その腕を掴んでベッドから引きずり落とした。

 ボニートは暴れたが体格が二回りは違う。力でかなうはずもない。

 その間にもう一人がシーツの下を探ると小さな封書を取り出した。

「だめだよ! それは大切な……」

 男達がボニートをじろっと見る。

「大切な、なんだ?」

「誰にも見せちゃいけないんだ」

 ボニートは涙目だ。

「何が書いてるんだ?」

「知らない。でも、大切な手紙なんで……うっ、うっ……」

 男が目配せすると手紙を持った男はうなずいて封を破って手紙を取り出し、読み始めた。

 そして男は―――大きく目を見開いた。

「どうした?」

 男は手招きする。ボニートを脅していた男はそちらに寄っていって手紙を受け取る。

 それを見たその男もまた目を見開いた。

 更に男達はそれまでの騒ぎを部屋の隅で大人しく見ていたアバスにもそれを差し出した。

 アバスもまたそれを見て―――それから三人は何とも言えない表情でボニートの顔を見た。

「何なんだよ?」

 ボニートが涙声で言う。だがそんな彼にアバスが言ったのだ。

「お前も見るか?」

「え?」

 ボニートは一瞬ぽかんとした後、ベッドから出て行こうとして自分が素っ裸なのに気づく。

 男達がボニートに服を投げ返してやる。ボニートはそそくさと服を着ると、その手紙を受け取った。

 それにはこう書いてあった。

親愛なるパルティールへ


 元気にしてるか? こちらは問題なく元気なんだが、ちょっと君には悪い知らせがある。実はこの秋にはそっちに帰れると思っていたのだが、どうやら来年の春までお預けになりそうなんだ……

 うん。ごめんよ。分かってるって。そんなに待たせたら爆発しちゃうってんだろ? こっちだってそうさ。本当に君が側にいなくて寂しいんだから。でもごめん。こっちでもう少ししなきゃならないことがあるんだ。だから我慢してくれ。

 それでお詫びに君に贈り物をすることにするよ。この手紙を持ってきたボニートという小姓なんだが、こいつはアキーラで知り合ったんだけど、多分抱いてみたらびっくりすると思うよ。この半年、僕がみっちりと仕込んでやったから。君の敏感なところとかもじっくりとね。だからしばらくの間なら僕の代わりに楽しんでもらえるんじゃないかな。というわけでもう少し我慢して待っていてくれ。くれぐれも女なんかに手を出すなよ!


愛を込めて。フィンより


追伸:バシリカは本場だから結構楽しいぜ。

 それを読むとボニートも目を丸くして男達の顔を見る。

「なに? これ……」

 男の一人が首を振った。

「どうやらあんた、厄介払いされたようだな」

「ええ? どういうことだよ?」

「まあ、気を落とすな。次の旦那を紹介してくれてるだけでもまだましだろ」

「ああ。売り飛ばされたって文句はいえないからな」

「………………」

 それからやってきた二人はアバスに言った。

「邪魔したな」

「ああ……」

 アバスもそう言ってうなずくだけだ。

 二人は呆然としているボニートを残して部屋を後にした。

 ドアを閉めるなり、中から叫び声が聞こえた。


「フィンの、バッカ野郎~~~ッ!」


 男達は顔を見合わせた。

「あいつの旦那って、結構いい人って噂だったんだがな……」

「裏じゃエグいことやってんだな」

「まあ魔法使いなんてそんなもんだろが」

「でもなあ……後生大事に守ってたってのがあんな手紙じゃな……」

「ああ。何か泣けてきたぜ……」

 二人がそんなことを話しながら階下に降りてくると、宿屋の主人が心配そうな面持ちでうろうろしている。

「あの……」

「ああ。夜分邪魔したな」

「はい……」

 主人はほっとした表情だ。下手をすると死体の片付けをする羽目になると思っていたに違いない。

 宿屋から出がけに男の一人が言った。

「上に泊まってるガキに、ちょっといい物でも食わせてやんな。さっきの金貨で足りるだろ?」

「え? はあ……」

 混乱した表情の主人を残して男達は闇の中に消えていった。



「はう~……」

 バシリカ城の自室に帰り着くなり、フィンはベッドの上に倒れ込んだ。

 今日はもうそこにボニートはいない。

「いかがなされました?」

 その様子に驚いて部屋の掃除をしていたチャイカが声を掛けてきた。

「いや、ちょっとな」

「お体の具合がよろしくございませんか?」

「いや、そうじゃなくってね、ああ……それじゃお茶を一杯……」

「かしこまりました」

 チャイカはそう言って部屋から出て行った。

 フィンはベッドに寝転がると天井を見つめる。

《予想はしてたとはいえ……》

 実際に言われてみると結構なダメージだ。

 フィンは先ほどまで軍略会議に出席していたのだが、それが終わった後フィーバスにちょっと呼び止められたのだ。


 ―――こんな風に呼び止められるのはあまりないことだった。

《来たか?》

 フィンは少し緊張したがそれを表に見せないようにして振り返った。

「なんでしょう?」

「少し、いいかな?」

「はい。構いませんが……」

 それを聞いてフィーバスは人気のないところにフィンを誘った。それからちょっと言いにくそうに黙っていたが、やがてフィンの顔を見つめると話し始めた。

「最近の君を見ていてちょっと思うところがあるんだがね」

「はい?」

 一体彼は何を話すつもりなのだろうか?

「人というのは自分一人だけじゃ何もできないものだ。君がたくさんの実績を上げたのは事実だし、そのことに関して自信を持つのは当然だ」

「ええ、はい……」

 それを聞いてフィーバスは続けた。

「だがそれは常に君一人だけの力ではなくて、君を支えてくれている者達がいるからこそ成し遂げられたのだということを忘れてはならないと思うのだよ」

「ええ、まあ、その、私もそう思いますが……」

 フィンは曖昧にうなずいた。それを見てフィーバスは言った。

「ならばそういう者達に対して、君もそれなりの接し方をしてやった方がいいと思うのだ。それが端女や小姓だったとしてもね」

 うわ! そう来たか!

「……いや、あいつらは……」

 慌てて弁解しようとするフィンを遮ってフィーバスは言った。

「もちろん甘やかせと言っているのではない。厳しくするのは構わんが、あまり理不尽な仕打ちはしてやらん方がいいと思うのだ」

「ええ、いえ……」

「もちろんどう思われようと構わんが、そろそろ老いぼれ始めた男から若い君へのささやかな忠告と思って貰いたいのだ」

 フィンは頭を下げて言った。

「……はい。心に刻んでおきます……」

 心なしか顔もちょっと赤くなっているようだ。フィーバスはにこっと笑ってうなずき、二人はそこで別れたのだが―――


《説教されちゃったよ……》

 実際最近のフィンの振る舞いを見ていたらそう思われるのも間違いない。

 チャイカに対しては公衆の面前で罵倒したり殴ったりしているし、ボニートには……

《ってことは、あれ読まれたわけだ……》

 この一年近くの付き合いで、フィーバスが少なくともかなりの人格者であることは分かっていた―――だとしたらあれをさぞひどい仕打ちだと思ったことだろう。

《あんな目で見られたら……》

 フィーバスの目は真剣に道を踏み外そうとしている若者を諭す目だった―――分かってはいてもそんな目で見られるというのはちょっと堪える物がある。

 もちろんそれはフィンが自分で仕組んだことではあるのだが……

《でもともかくあいつは行けたってことなんだよな?》

 ボニートはどうやらつつがなくシルヴェストに旅立てたようだ。

 それさえうまくいってくれているのなら、少々の悪評は我慢するしかないが……

 フィンは大きく息をついた。

《良かったんだよな……これで……》

 最近ついつい忘れがちになるのだが、アロザールとはフィンにとっては“敵国”なのだった。

 彼が忠誠を尽くしているフォレス王国とその同盟国であるベラ首長国にとって、フィーバスらアドルト一族は仇敵である。そんなところに囚われてしまった以上、彼は常に逃げ出す機会を狙い続けて来た。

 当初彼らの言いなりになって行動していたのは、ひとえに彼らと利害が一致していたことと、今フィーバス達のことをベラに通報しても無用の混乱を招くだけだったからだ。

 また、実際に話をしてみるとフィンには必ずしも彼らが一方的に悪いとは思えなかった。

 少なくとも彼はフェレントム一族の言い分しか聞いてこなかったわけで、フィーバス達の言い分が間違っていると言えるだけの確信がなかった。

 ならばこれに関しては話し合いをする余地があるように思うし、そうやって彼らが和解できるのならそれが一番良い解決なのでは? という気になっていたのだ。

 だがこのアロザールでしばらく暮らしてみて、フィンは彼らとは別な危険性を感じ始めていた。

 それはザルテュス王やアルクス王子だ。

 彼らに関しては、正直今でもどういう人間なのかさっぱりだ。

 二人とも単に色ボケであってくれたのならいいのだが、そうと言い切ることもできない。

 それにもっと問題なのは、バシリカを陥落させるためにアロザールが使用した“大魔法”だか“天罰”だかの正体だ。

 フィンだって一応は都の魔導師の端くれだから、銀の塔でそれなりに魔法の勉強をしてきている。

 だが彼らが使ったような魔法に関しては、教わったことも本で読んだことも一切なかった。

 一つの可能性としては、フィーバス達がそれをアロザールにもたらしたという可能性だが―――フィーバスはベラの王族である。当然ベラの国家機密レベルの魔法についても知る立場にあるわけだ。もしベラがそんな魔法を隠し持っていたなら、彼ら経由で来た可能性もあるわけだが……

《それって普通ないよな……》

 ベラと都は敵味方とはいえ、ある意味互いを一番よく理解している間柄だった。

《あのときだって……》

 かつてエルミーラ王女の命でハビタルに行ったとき、ベラの大魔導師グリムールと話す機会が何度もあったが……

《メイがローブを貸してくれって言ったときも、真剣に怒ってたもんな……》

 真実審判師の姿を騙るというのはベラでもまさに論外の愚行だったわけで―――そういう基本的な認識が両者は一致しているということなのだ。

 だからフィンは信じらなかった。

 確かに理由を問われたら返す言葉はないのだが、彼の接したベラの魔導師達を見ていると、彼らが都でも全く未知だったこんな強力な魔法を隠し持っていたとはどうしても思えないのだ。

 大体それならばどうして彼らはもっと早く使わなかったのだ? 都とベラの確執の歴史は長い。そんな機会は幾らでもあったはずなのだが……

 すなわちこの不思議な魔法はフィーバス達がもたらした物ではないとすれば……

《だったら一体どこから来たんだ?》

 アルクス王子は少なくとも強力な読心魔法が使えるのは事実だが、彼が都やベラで教育を受けた事実はない。

 しかし魔法というのは非常に微妙な能力なのだ。素質があってもちゃんとした教育を受けないとまずそれが開花することはない物だ。


《じゃあ一体彼はどこで教育を受けたんだ?》


 もしかして都でもベラでもない魔法国がどこかに存在していたと?

 アロザールの謎の大魔法もその辺に関わっていたのだとしたら……

 そのことに関して今まで何度かそれとなく尋ねてみているのだが、誰も知っている者はいなかった。本来ならそのあたりをもっと調査すべきだったのだろうが……

《俺程度じゃ……》

 はっきり言ってフィンは恐ろしかった。

 そもそもこの相手がどんな能力を持っているかさえ全く不明なのだ。

 僅かに明らかになっているアルクスの能力一つとっても、フィンの扱える程度を越えている。迂闊に首を突っ込んだりしたら、それこそ命が幾つあっても足りないだろう。

 そもそも彼はそんなことを調査しに来たわけではないし、そんな藪を突いて命を落とすような真似はしたくなかった。

 ただ彼は生きてアウラの元に戻りたかった。だからその辺に関しては基本的に知らんぷりを決め込んできたのだ。

 しかし彼がそう願ったからと言ってアロザールにいる以上無関係でいられるわけでもない。

 少なくとも彼らは今までそういった力があることを秘密にしてきたのだ。

 一国で簡単にバシリカを落とせるだけの力があるということは、別に他国と同盟しなくとも国防に不安はなかったことを意味するはずなのだ。

 ならば何故彼らは小国連合の一員として大人しくしていたのだ?

 これに関しては、例えばその大魔法を熟成させるために期間が必要だったから、みたいな説明は付けられるのだろう。

 それよりも問題はこの後だ。

 ここでついに彼らはそんな力があることを公にしてしまったのだ―――バシリカを陥落させたという事実によって……

 だとしたら彼らは今後一体どうするつもりなのだろうか?

「はあ……」

 フィンはベッドの上でため息をついて寝返りを打った。

 多分タイミングは今しかなかったはずだ。

 ずるずる引きずって、もしアロザールが全方位に敵対行動をとってしまったら、もはやいかなる通信も許してはもらえなくなるだろう。

 もちろんアロザールがそうするとまだ決まったわけではない。

 だがそうなってからでは遅いのだ……

《ボニート、がんばれよ……》

 すなわちこれまでの一連の出来事は、フィンがアラン王に秘密のメッセージを送るために仕込んだ狂言だった。

 フィン本人が帰れれば言うことはないのだが、それが不可能な場合はせめてメッセージを送る手段を確保しておかなければならなかった。

 だが普通の手紙は中身をチェックされる。だから結局誰か信頼の置ける者に託すしかないのだが、フィンにとってそういった者というのはボニートしかいなかった。

 彼は以前男娼ルートのメッセンジャーとして働いていた実績はある。だから最低限の危険に対する対応くらいはできるだろうが……

《おかげで……》

 もちろんそれはボニートにとっても決死の行動である。正直怖がられてしまったらお終いなのだが―――だが彼は同意してくれたのだ。ちょっとした交換条件と引き替えに……

《あれでいいのかよ?》

 本人がいいと言うからいいのだろうが―――それにフィンの誓いは“女は抱かない”であったからそちらに抵触することもないのだが……

 そんなわけであの日彼はボニートにたくさん“思い出”をくれてやっていたのだ……

「う゛~~……」

 思い出すだけで色々痒くなってくる―――しかも実際溜まっていたせいか何か悪くもなかったような……

「うああああっ!」

 思わず声が出たところを、深呼吸してごまかす。

《ともかく……あいつがアラン王の所に行き着いてくれればいいんだよ!》

 そう思って何もかも忘れるしかない。

《あいつさえ行き着いてくれれば……》

 いいはずなのだが―――その価値に今ひとつ確信が持てないということが少々問題だった。

 彼を送ったのは単なる手紙の運び屋になって貰うためだけではなく、彼の“能力”をちょっと活かしてもらうためだったのだ。

 その能力とは―――ボニートは無駄に記憶力が良かったのだ。

 例えばフィンがアキーラで捕まった際、口から出任せにアルエッタのインチキな過去話をしていたとき、ボニートに細かい言い間違いを一々指摘されて大迷惑だったのだが、実際の所彼がメッセンジャーに取り立てられたのはそういった才能があったからだという。

 だが結局それはあまり生かされずに終わっていた。

 その理由は彼の拷問耐性が大変低かったからだ。ちょっとくすぐられただけで何でも吐いてしまうような奴では、いくら物覚えが良くてもあまり役には立たない。

 だが今回はそれが役に立つかもしれなかった。

 というのは実はアラン王にメッセージを送ろうにも、送る内容がなかったのだ。

 アロザールは何となく怪しい気がするから気をつけてください、みたいな内容では危険を冒して送る価値などない。その程度ならバシリカがあっさり陥落した時点で、アラン王なら気がついて然るべきだ。

 そこでフィンはあのチャイカの教育事件以来、ボニートに色々と寝物語を聞かせてやっていた。

 それは主にその日起こった出来事で気になったことを羅列したものだ。さらには可能な限り彼を連れ回して色々な事柄を見せてやっていた。

 すなわちもう何が重要なことかさっぱり分からないので“何もかも”を覚えさせていたのだ。そうすればアラン王の方でもしかしたらその情報を有効に引き出してもらえるかもしれないと思って……。

 今ここでフィンにできそうなことと言えばそれしかなかったのだ。

《でも……本当に役に立つんだろうか?》

 役に立たなかったとしたら―――それこそ色々自爆しまくっているわけで……

「うぅー……」

 フィンは寝返りを打った。

 今更そんなことを考えても仕方がない。

 というわけで、メッセージはボニート本人というわけだが、残る問題は彼をどういった理由で送り出すかだった。

 単にメッセンジャーに出したいと言って素直に認めてもらえるだろうか? フィンはもちろんそこまで信頼されているとは思っていなかった。でなければ手紙の中身をチェックさせろとも言われないだろう。

 ならばどうやったら疑われずに彼をアラン王の元に送り届けられるか? だ。

 ボニートに一人で勝手に行き着いてくれるだけの才覚があれば良かったのだが、さすがにそれは期待できなかった。それにバシリカ陥落の混乱で、周辺の治安もひどく悪くなっている。

 そこで考え出したのが今回の作戦だ。

 まず適当な理由をでっち上げて、アラン王への連絡の際に彼を同行させてもらえるようフィーバスに頼んでみる。今回フィーバスはOKを出したが、たとえ拒否されようとも伝令を買収するなりしてボニートを連れて行かせるつもりだった。

 運良く気づかれなければそれでよいが、まず間違いなく途中で調べられる事になるだろう。

 だがそうなった場合にあの手紙を見てもらえれば“こそこそと彼を送りだそうとした理由”は納得してもらえるはずだ……

 だがその作戦が成功するためには条件があって……

「はあ……」

 フィンはまたため息をついた。

 そのときチャイカがお茶とお茶菓子を乗せた盆を持って戻ってきた。

 彼女はベッド脇のテーブルに盆を置くと言った。

「ご主人様。こちらでよろしいでしょうか?」

「ああ。ありがとう」

 フィンは起き上がってカップを手に取ると一口すすった。

「はあ……」

 うまいお茶だが、あまり味わって飲む気分になれない。

 そんな彼にチャイカが小声で話しかけてきた。

「あの……」

「なんだ?」

「それが、階下でちょっと小耳に挟んだのでございますが……」

「ああ」

「あのボニートのことなのでございますが、何でもご主人様が弄んだ挙げ句、飽きて売り飛ばしたなどと噂になっておりまして……」

「あはははは」

 フィンは笑うしかなかった。

 もうそんなに広まってるのか?

「そのうえネイも既に毒牙に掛かっているのではないかと言う者もおりまして、それでその、お聞きしたいのでございますが、そのようなことを聞かれた場合、私めは一体どのようにお答えすればよろしいのでございましょうか?」

 フィンはチャイカの顔をじっと見ると、またため息が出そうになる。

 彼女は彼女でそういうところが聡すぎるのがいいのか悪いのか……

「黙って首を振ってろ」

「かしこまりました」

 チャイカは下がって部屋の片付けの続きを始める。

 フィンはため息をついた。

 ―――そうなのだ。その作戦を成功させるためには、彼はどうしようもないオカマの屑野郎でなければならなかったのだ。