世界の危機とワンダーライフ 第6章 サイレント・ナイト

第6章 サイレント・ナイト


 翌年二月。アキーラは陥落した。

 あれから僅か三ヶ月。しかも本格的に侵攻を開始したのは年が明けてからだから、実質一ヶ月強でレイモン王国は滅亡してしまったのだ。

 そのように国際情勢は風雲急を告げていたというのに、フィンの生活は妙に平穏だった。

 フィンは相変わらずバシリカの城塞にチャイカやネイと共に仮住まいしていたが、もう彼女を虐げる必要もないし、チャイカも今は誤解なくネイの世話をこなしている。

 しかも北進の際には少しくらい現地ですべきことがあるかと思っていたのだが、結局そんな事態になる前に全てが終わっていた。

 結局バシリカ戦以降はずっとチャイカとネイとの幸せな三人家族みたいな生活だったのだ。

 その日フィンは自室でお茶を飲んでいた。

 午後からまたフィーバスに面会する約束になっているが、まだちょっと時間が早い。

 フィンはぼけっとこれまでのことを思い起こしていた。

《何だかなあ……》

 正直拍子抜けだった。

 フォレスに仕官して以来、フィンは常に中原におけるレイモンの脅威にどう対応するかという問題に関わってきた。アイザック王は今後エルミーラ王女が直面しなければならない世界は、レイモンを中心とした長い戦乱の世になると予想していた。

 フィンもそれを当然と思い、それが彼の一生をかけた仕事になると覚悟していたのだ。

 だがそれがこうもあっさりと解決してしまうとは……

《問題はこの後だけどな……》

 レイモンが滅亡した後、アロザール王国はどう動くのだろうか?

 こちらに来て以来フィンはとりあえず最悪の可能性を考えて行動してきた。色々と大切な物を犠牲にしてボニートを送り出したというのもその一環だ。

 彼についてはグリシーナ城まで辿り着けたことは分かっているが、その後の消息は不明だ。

《結局どうなったんだろうなあ……》

 アラン王の元に行き着ければまあ悪いようにはならないだろうが―――だが、そもそもこんなフィンの行動に結局のところ意味があったのだろうか?

 アロザール王国に来てこれでほぼ一年目だが、相変わらずよく分からなかった。

 ここに住んでみての正直な感想は、かなり住みやすい土地だということだ。

 アロザールは海産物の輸出などで元々かなり豊かな国だ。

 こちらの食事は慣れてみたら結構美味しいし、真夏を除けば気候も悪くない。ファーベル一家に代表されるような生粋のアロザール人は良き隣人だ。

 また現在の国内はおおむね治安もよく、税金もそんなに高くはない。人々は結構幸せそうに暮らしている。

 要するに決して悪の帝国というわけではないのだ。

 というか、フィンが最初そう思っていたのはここにフィーバス達アドルト一派が潜伏していたからで、それとアロザール王国はそもそも別な話なのだった。

 そのアドルト一派でさえ、今では敵なのかどうか曖昧になっているし……

 もちろん手放しで褒められる楽園というわけでもない。

 少し前までは王子同士の内戦で混乱していたし、ウィルガ人と現地人の軋轢も依然として残っている。更にはバシリカ戦ではアロザール軍は恐るべき凶暴性を露わにしていた。

 だがこれも他の国に比べて格段に劣っているわけではない。歴史を紐解けば似たような事態はあちこちで起こっている。

 要するにここもおおむね普通の国なのだ。

《それなのに……何なんだろう? この不安は……》

 フィンは来て以来ずっとそんな漠然とした不安から逃れられずにいた。

 それはアロザールがバシリカ戦で見せたあの力の源が不明だということに関わっている。

 レイモンという大国をあっさり滅ぼしてしまえるだけの力。間違いなくそれはレイモン以上の脅威である。

《問題はその力を今後どう使おうとしているかだが……》

 そこがまた頭が痛かった。

 そもそもアロザール王国の意志決定を一体誰が行っているのか、フィンは未だによく分かっていなかった。それが分かっているなら調査のしようもあるだろう。

 だがアロザールは王国評議会が決定機関のようなのだが、最終決定権は国王にある。国王とはあの謁見以来まともな話はしていないが、実はメクラ判を押しているだけではなく、言うべきときにはちゃんと口を出してくるのだ。

 実際今回の侵攻作戦でも総司令官として随行してきている。

 だが来てやっていることといったらおおむね後宮の女達と戯れているばかりのようにも見えるのだが……

《実はものすごい賢帝がバカのふりをしているとか?》

 そんなことをする必要性が全く分からないが―――ともかくそういうわけなのでアロザールの意志決定者もしくは機関というのは結局の所よく分からないままなのだった。

 それ故にフィンはこの国を心から信用することができなかった。

 だとしたら?

《そろそろ終わりにするしかないよな?》

 彼の契約期間は満了している。フィーバスとはアキーラ戦までという約束をしているし、それは先日終了している。今度ばかりは彼が出て行く事について文句は言えないはずだ。

《問題があるとすれば……》

 フィンが戻った後の最悪の想定は、アロザール王国が連合を裏切って牙を剥いてくる可能性だ。

 もちろん今のところ彼らはそんなことはおくびにも出していない。戦後処理についてどうするかをそれとなく聞いたことはあるが、まずは各国との話し合いをすると言われただけだった。

 だが間違いなく彼らにはそれが可能だ。

 そうなった場合、今度はアロザールの挑戦を受けて立つ立場になるわけだが……

《そのときこの体験が役に立つんだろうか?》

 フィンはこの一年間アロザールの中枢部に接触してきた。当然いろいろな所から情報を求められることになるだろうが……

「うーん……」

 フィンは思わず呻いた。

 正直有効な助言ができるとも思えない。今のままではアロザールは敵に回すべきではないと言うしかないのだが……

《幾つかあることはあったけど……》

 とりあえず二つ。重要そうな現場、もしくは人物に接する事はできていた。

 一つは“解呪の儀式”だ。

 バシリカでは“天罰”とかで男の大半が脱力して動けなくなって大量の捕虜になっていたのだが、その中でアロザールに恭順の意を表した者が集められて、受けた呪いを解く儀式というのが行われていたのだ。


 ―――その儀式はフィンも傍聴が認められていた。

 広間に大勢の捕虜が集められている。捕虜達はみなよぼよぼの老人のように、杖をついたり他人に支えられたりしながらやってきて、床の上にうずくまっていた。

 広間の前面には低いテーブルが置かれていて、そこには本が一冊乗っている。その後ろ側には白い衣装を着た合唱団が立っている。

 やがて合唱団が美しい歌を歌い始めた。その音楽をバックに紫色の衣を着た男が入ってきた。その男は評議会のメンバーでフィンも顔は知っていた。

 合唱が終わると男は一同の顔を見渡した。

「大いなる悲劇があった」

 しんとした広間に男の声が響き渡る。

「一つの伝統ある都市が、その終焉の時を迎えたのだ。それはなぜか?」

 そう言って男は再び捕虜達の顔を見渡した。

「私はその問いには答えられる。それはすなわち、お前達が道を違えたからなのだ」

 男はまた一同を見渡すと、今度は声を抑えて語り始めた。

「かつてこのように道を説いた者がいた。覚えているだろうか。古の時代に隆盛を誇った東の帝国に現れて、人々に道を説いた者を」

 もちろんその話を知らない者はいないだろう。白銀の都を築いた大聖の伝説だ。

「お前達もよく知っているように、東の帝国は一夜にして消滅した。その者の言葉を信じて付いていった者は生き残り、それ以外は骨すら残らなかったのだ。彼らは自らが滅びたことさえ知らなかっただろう。だが滅びた者全てが全く救いようのない者だったのだろうか? 後から思い返して、明日はあの七家族の後を追っていこうと決心していた者はいなかったのだろうか?」

 それを聞いてフィンは内心おおっと思った。そういう観点から考えたことはなかったからだ。

 だがこの手の伝説は一歩でも遅れたらそれが致命的になるものなのだ。

「黒の女王はそのような者も含めて全て灰にした。だが我々の神はこうしてお前達に悔い改めるだけの余裕を与えたのだ!」

 捕虜達から低いどよめきが上がった。確かにやり直しの機会を与えてくれる神様というのは少し親しみやすいかも知れないが―――その神様というのが何なのかよく分からないのが問題であるが……

「我々はかつては異なった道を歩んでいた。だが別れていた道は今ここに一つになり、これからは皆、同じ道を歩むことになる。今ここにいる者は皆、アロザールの兄弟達だ。兄弟達に神は許しを与えることだろう」

 男は両手を挙げて上を見上げ、しばらく目を閉じて祈った。

 それから彼は本を手にすると捕虜達に一人一人尋ね始めた。

「汝はこれよりアロザールの道を歩むや?」

 捕虜がうなずくと、男は次の捕虜にまた同じ問いを投げかける……

 そうやって全員の捕虜に尋ね終えると、男は再び前に戻りまた両手を天に掲げて言った。

「お前達の意志は受け取った。お前達には平穏な眠りと快き目覚めが約束されたのだ!」

 再び合唱団が合唱を始める。紫衣の男はそれと共に退場していった―――


 それだけだった。

 フィンはそれを目を皿のようにして見ていたのだが、特に変わった点は見つけられなかった。変わっていると言えばその儀式そのものとしか言いようがないが……

《だからなんだってんだ?》

 正直コメントを求められても困るとしか言いようがない。

 しかしその次の日、捕虜達がみんな動けるようになっていたのも事実だ。何らかの効果があったのは間違いないのだが……

 そしてもう一点、重要そうな事柄というのは、捕らえられていた“巫女”と話せたことだ。

 巫女とはフィーバスが言っていたが、バシリカに事前に送り込まれた工作員だ。その何名かがレイモンの捕虜となっていて、救出された一人とちょっと話をする機会があったのだ。

 だがそれも期待はずれとしか言えなかった。

 聞いたところによれば彼女は普通の町娘だったが、高給のアルバイトがあるといって集められたという。

 彼女達の行ったことは、バシリカに行って『やがてここに天罰が下るぞ』といった噂話を言いふらすことだけだった。その内容もフィンが既に知っている物だった。

 その娘が捕まったのは、彼女が少々熱心に仕事をこなしすぎたせいだった。兵隊達にその話を広めようと兵舎に行ったら、一般人立ち入り禁止の所に入り込んでしまったらしい。そのためスパイと間違えられてずっと牢屋に入れられていたという。

 どっちかと言えば単なる間抜けのようなのだが―――とは言いつつフィンにも似たような体験があったので、あまり人のことは言えないのだが……

 ともかくこちらについても正直、何とも言いようがない。

 後もう一点、重要なのかどうかよく分からないのだが、アキーラ戦には宮廷楽団は参戦していなかった。

 アロザール軍が行く前にアキーラでは既に“天罰”が広まっていて、防衛戦の形態にすらならなかったのだ。

《ってことはやっぱり伝染病みたいな物なんだろうか?》

 だが病気だとしたらあんな儀式で直るというのも何だか考えにくいし―――大体都でもいきなり病気を治す魔法などない。

 怪我などの場合は止血したり傷を塞ぐのに魔法を使うが、それは医師の治療の延長のようなものだ。病気のような場合は薬を飲んで寝ているというのが当たり前だ。

《でもあんな風にするだけで病気が治せる魔法があったら……》

 正直すごいのだ。

 そうなるとアロザールの魔法の水準は都やベラを遙かに超えているということになりやしないのか?

《それって……》

 ある意味未曾有の事態ということにならないか?

 そこまで考えてフィンは首を振った。

 これは彼の想像にしか過ぎないのだ。何の証拠もない。そんなことを考えたって時間の無駄にしかならない。

「ご主人様、そろそろお時間では?」

 そう言ってやってきたのはチャイカだ。言われてみればそろそろ会見の刻限だ。

「ああ、そうか」

 フィンは立ち上がって、フィーバスの執務室に向かった。



 さすがに今度は迷うこともなく彼の部屋に到達した。

「失礼します」

「うむ」

 フィンが部屋に入るとフィーバスがうなずいた。見ると今日は暖炉際に置かれたカウチにアルクスが寝そべっている。

「待たせたな」

「いえ」

 フィーバスとの会見は随分前に申し込んでいたのだが、彼もいろいろ多忙なため今日までずれ込んでいたのだ。

 フィーバスは横手にある長椅子を指した。フィンは軽く礼をするとその椅子に座る。フィーバスはフィンの対面の椅子に腰を下ろすと、大きくのびをして首をぐるぐる回したた。

「うーむ。デスクワークばかりしていると肩が凝っていかんな」

「はあ……」

 実際の所、彼が何をやっているのかよく分かっていなかったりするのだが―――フィンは曖昧にうなずいた。

「年をとると色々不自由になるものだな」

 そんな調子でフィーバスはぶつぶつと最近少し腰が痛いとかいった話をし始めた。

 しばらくそれに付き合った後、フィンは口を切った。

「それで、その、今日お話をしたかったことなんですが……」

「ああ。そうだな。契約のことだろう?」

「はい。アキーラは占領下にあり、マオリ王も亡くなられたと聞いております」

「うむ」

 フィーバスはうなずいた。

 レイモン国王だったマオリ王は家族を連れてアキーラから脱出していたが、ある村に潜伏していた所を発見され、結局自害したという。

 レイモン王国はこうして名実共に滅亡していた。

《本当に実感がないんだよな……》

 その間フィンはずっとバシリカの城塞で会議をしていただけなのだ。外はまだ治安が良くなく護衛なしに出歩くのも危険なため、ほとんど城にこもりっきりだった。実感のわきようがない。

「ですので、これを機会にこちらでのお勤めを完了させて頂きたいと思っております」

 それを聞いてフィーバスは再びうなずいた。

「うむ。ル・ウーダ殿には本当によく働いて頂いたと思う。もちろんこれ以上お引き留めするわけにもいくまい」

「それでしたら?」

「ああ。ほんとうに感謝しているよ。最初の出会いは少々ユニークだったとはいえ、今では君を大変信頼しているのだが……」

 どうやらフィーバスはちゃんと約束を守ってくれそうだ。だとしたら、あの件に関してはきっちりと話をつけておく必要があるだろう。

「こちらこそ本当に色々ありがとうございます。そこで一つご相談があるのですが……」

 フォレスに戻った際、アドルト一派のことをどう報告すべきかという点だ。フィンは誤解が解けるものなら解いてやりたいという気になっていた。その辺に関してフィーバスはどう考えているのだろうか?

 だがそれを聞いてフィーバスは言った。

「相談か? 実はこちらからも一つあるのだが……」

「え? どのようなことでしょうか? お先にどうぞ」

 彼からの相談って何だ?

「いいかな? それではすまんな。いや、これはもし君が良ければという話なんだがな」

 どうも何かやって欲しい仕事があるらしい。

「どのようなお話でしょうか?」

 もちろんフィンは話は聞いても受けるつもりはなかった。そういうことをずるずるやっていては永久に帰れなくなってしまう。

「実は大仕事が一つ終わった段階で、我が国の未来のことを少し本気で考えねばならないのだが……」

「はい」

「それはお世継ぎのお相手のことなのだ」

「は? えーっと、そのアルクス様の?」

「ああ。将来アロザールの王となる王子には、当然家柄の良い妃が必要なのは理解して頂けるであろう?」

「はい。それはもちろんですが……」

 フィンはうなずいた。正妻に関して言えば全くその通りだ。エルミーラ王女の例を挙げるまでもなく王家の子女というのはそれだけは自由にならないわけで……

 だがそれと自分と何の関係があるのだ?―――そう思ったときだった。

「そこでザルテュス様は、白銀の都のメルファラ大皇后などはどうだろうとお考えなのだ」

 ………………

 …………

 ……

 は?

 何て言った?

 今フィーバスは何と言ったのだ?

 フィンは自分の耳を疑った。

「あの、都の?」

 呆然と問い返すフィンに、フィーバスは大きくうなずいた。

「ああ。メルファラ大皇后様だ」

「はあ?」

 フィンはそう答えるのが精一杯だ。

「うむ。今回の戦乱の顛末に関して、我がアロザール王国が決定的な役割を果たしたというのは異論のないところであろう?」

「そうですが……」

「事はレイモンが都に侵攻したことから始まったわけで、控えめに言っても我々が都を救ったというのは事実だ」

「そうですが……」

「ならばそれだけの価値があるとは思わんかね?」

「いえ……その……」

 フィンは頭の中が真っ白だった。

「そういうわけでザルテュス様はアルクス様の后として大皇后様を頂けるようお願いしようとなさっているのだ」

「………………」

 声のでないフィンにフィーバスは続ける。

「いや、驚かれるのも無理ない話だと思うがな。それでル・ウーダ殿。貴公にお頼みしたいこととは、その大皇后様をこちらに迎えるにあたり、お迎え役をしては頂けないかということなのだ。何しろル・ウーダ殿は都のご出身であるし、何よりも大皇后様とは個人的にお知り合いのはず。一番の適任だと思ってな」

「………………」

「もちろんこれは先の契約とは全く別の話だ。だからこれに関しては再度契約をし直すことになるだろうが……その場合少々長い期間になるやもしれん。大皇后様に来て頂いたら、その御側勤めとしても都の御方にはいてもらいたいし。もちろんそれだけの地位や報酬も用意されている」

「………………」

「無論これは強制ではない。この役にル・ウーダ殿が一番ふさわしいと思ったのでお願いしてみているのだ。断って頂いて全然構わないし、貴公以外にも都出身の者は……」

 だがそれを聞いてフィンは首を振った。

「いえ……お受けします」

 いいも悪いもない。これこそフィンにとっては全く選択の余地のない話だった。

 それを聞いて逆にフィーバスの方が驚いた。

「宜しいのか? もう少しゆっくりと考えられても良いのだぞ?」

「いえ、問題ありません。お受けします」

 フィーバスは驚いたように寝そべっていたアルクス王子の方を見た。

 王子はにやっと笑って飛び起きると言った。

「ほらね? フィン君は絶対やってくれるって言っただろ?」

 フィンは思わずアルクス王子を睨んでいた。王子はにこにこしながら手を振る。

《じゃあ……分かってたのか?》

 フィンは動揺を隠すために歯を食いしばって下を向いた。

 そうなのだ。間違いない。アルクスは知っていたのだ。フィンの心の底の気持ちを……

《一体いつ?》

 ―――などと考えてもあまり仕方がない。この一年、多分機会など幾らでもあったように思うし……

 そんな様子のフィンにアルクスはにやにや笑いながら尋ねた。

「大皇后様ってとっても美人なんだって?」

「ええ……はい」

 それだけは間違いのない事実だが……

「わくわくするなあ。そんな人が僕のお后になるなんて」

「でも、その……大皇様がお許しになるかどうか……」

「まあ、その辺は父上とかが何とかするんじゃないかな。外交の問題だしね」

 フィンは唇を噛んだ。

 確かにそうだ。

 だが今の状況では都といえどもアロザールに本気で逆らえるだろうか?

 都のことだ。ファラ一人を差し出して済むなら―――などと考えてもおかしくないわけで……

 そう思った瞬間、何だか気が遠くなってきた。

「それでは、詳しい手はずなどはまた後ほどと言うことでよろしいか?」

「はい……」

 フィーバスの言葉にフィンはうなずいた。まるで体が機械になったかのようだ。

 その後の事は混乱してあまり覚えていないが―――ともかく人生最大のトラブルに巻き込まれたということだけは間違いがなかった。



 それから三ヶ月は瞬く間に過ぎた。

 フィンはまた疲れた体を引きずるように、バシリカ城塞の自室に戻ってきた。

 時は五月。あの話を聞いたときは寒風が吹きすさんでいたのだが、もう初夏の風が吹いている。

「はあ……」

 フィンは大きくため息をついて窓の外を見る。

 明るい月夜だ。バシリカの町にはまたあちこち明かりが灯り始めている。復興が少しずつ進んでいるのがよく分かる。

「お帰りなさいませ。ご主人様」

 続きの部屋からチャイカが出てきた。

「風呂は?」

「用意してございます」

「じゃあちょっと入ってくるよ」

「承知致しました」

 彼女といつもの会話を交わし、フィンはバスルームに向かった。

 湯船には温かいお湯が満ちている。フィンは服を脱ぐととっぷりとそれに浸かった。

「はあ……」

 フィンは再び大きなため息をついた。

 多分ある意味今日は人生最悪の夜なのだ。

 フィンはぼやっとこれまでのことを思い起こしていた。

 今まで色々最悪な時があった。

 もちろん命の危険という意味では今以上にヤバかったこともある。

 アキーラで囚われた時などは全くの孤立無援で、ロクスタ達の助けなしには生き残るのは厳しかったかもしれない。

 だがその全てについて、最悪ではあったにしても今よりは気が楽だったのは確かだ。運悪く命を落としたところで所詮それだけのことなのだと。

 だが今回は何だ?

 今度失ってしまうのは、それこそ彼の全てを賭けて守ろうとしてきた物そのものなのだ。

 挙げ句に自分の手で直々にそれに引導を渡そうとしているのだから……

 だのにそれを防ぐために一体何ができている?

 無力感からいったら断然今回の方がひどかった。

「はあ……」

 ともかく明日はクォイオに出発だ。

 そこで大皇后の一行を出迎えることになっているのだ。

 とんとん拍子にこの話が決まったときには、フィンはほとんど怒り出すところだった。

 事もあろうに都はアロザールの無礼千万な要求に対して、あっさりと大皇后を渡すと言ってきたのだから……

 確かにあのレイモンを簡単に滅ぼしてしまったアロザールだ。容易に抗えるとも思えないが―――それでもせめて適当に誤魔化して時間稼ぎをするくらいの芸はなかったのだろうか? そうしてくれればこちらだってもっと準備に時間をかけられたものを……

《ファラは……自分で来ると言い出したんだろうな……》

 彼女ならやりそうなことだが―――でも、普通周囲が黙っているはずがない。都はもう誇りという物を忘れてしまったのだろうか?

 フィンは首を振った。

 今更嘆いても仕方ない。今はこれからのことを考えるしかない。

「はあ……」

 ため息しか出てこない。

 最初フィンは出迎え役として都まで行ければ何とかなると考えていたが、どうやらそこまでは信頼されていなかった。彼はシーガルで大皇后に快適に暮らして頂くための準備にあたることになり、彼女を都から案内してくる役は別人の担当になってしまったのだ。

 そこでやむなく、どうしても彼女を迎えに行きたいとゴネた結果、途中で案内の引き継ぎをするという手はずに落ち着いたのだ。

 その場所というのがあの有名な戦いの起こったクォイオだった。

 クォイオはバシリカとアキーラの中間付近にある村で、バシリカからは数日ほどの距離だ。

 フィンはそこで大皇后と落ち合ったら即座に脱出・逃走するつもりだった。

《そこしかチャンスはないよな?》

 クォイオとバシリカの間がフィンが一番手を出しやすい区間だ。

 バシリカを過ぎてしまうと脱出はどんどん困難になり、シーガルまで来てしまったらほぼ不可能になる。それにクォイオ近辺は現在アロザールの勢力下にあるとはいえ、占領されたのはつい最近だ。色々と隙も多いはずだった。

 だが最大の問題はフィンの味方がほとんどいないことだった。

 アロザールには信頼して秘密の任務を任せられる者など皆無だった。

 フィンは確かに実績を挙げてある程度の地位にいるとはいっても、まだ来て一年程度の新参外国人なのだ。

 結局そういうことが任せられたのはボニートだけだと言っていいが、彼ももういない。

 残るはチャイカとネイだが―――要するにフィンは異国で完全に孤立無援なのだ。

 すると後は大皇后に随行してきた都側のスタッフだけが頼りになるのだが、その中に男性はいなかった。

 というのは、アキーラ周辺では相変わらず天罰だか呪いだかが蔓延中で、アロザールに帰順しなかった者は後から来た者でもその呪いを受けていた。すなわち男性の随行員では来ても足手まといにしかならないのだ。

 報告では大皇后一行は本人の他に七~八名の侍女が随行しているだけで、それ以外の護衛は皆アロザール人だという。

「うーん……」

 そのことを思うとまた気が重くなってくる。

 当初は大皇后を連れて逃げるだけなら何とかなるのでは? と思っていた。実際二人だけならその可能性はかなり高いだろう。

 だがそうすると残りの侍女達はどうなるのだ?

 そんな所に付いてきた侍女だ。自分たちが身代わりになるから逃げろとか言い出しかねない。

《多分パミーナちゃんは来てるよな……絶対……》

 パミーナは今は大皇后の筆頭侍女だったはずだが、メルフロウの育ての親と言っていいルウさんの娘だ。

 彼女と初めて会ったのは山荘事件の後、カロンデュールとメルファラの婚約が発表されたときだ。

 そこからしばらく、世にメルフロウとメルファラという双子の兄妹がいる事を信じさせなければならなかったのだが、そのためにはどうしても二人が同時にいる場面が必要になる。

 そんなときにメルファラの影武者になってくれたのが彼女だったのだ。

 そんな大役をこなしたくらいだから百二十パーセントの信頼ができるだけでなく、恐ろしく腹の据わった娘だったのを覚えている。

 だから彼女がこういうときに来ないわけがないし、それどころか来ている“大皇后”が彼女の可能性さえある。

 ともかくフィンはそんな彼女達を見殺しにしたくはなかった。

《でもなあ……》

 実際問題として見通しは限りなく暗かった。

 クォイオというのは旧レイモン王国のど真ん中みたいなもので、他の安全な場所にはどこからも遠かった。

 逃げるにしても街道沿いは敵勢力の中に突っ込むような物なので、東の草原地帯を通って行くしかないが、ここは草原地帯と言ってもうねうね低い丘陵がひろがり、未開の森や荒れ地、その間を走る細い谷などもあって、決してまっすぐ行けばいいという地形ではない。

 更に大河アルバを越える方法が難しい。幅が広すぎて橋はよっぽど上流まで行かないとないので船で渡るしかないが、船着き場は間違いなく相手に押さえられているだろう。それに川の対岸も現在はアロザールの勢力下にある。

 もちろん追っ手もすぐかかるに違いない。

 そんな状態で逃げ切れるものなのか?

 ということでフィンは東に逃げる振りをして西に行く作戦を考えていた。

 西に行くとマグナバリエという大山脈があるのだが、その中もしくはその先に潜伏してほとぼりを冷ますのだ。普通とは逆方向だから行ける可能性はあるだろう。

 だが正直、自分でもいい作戦とは思っていなかった。

 とりあえず彼らがクォイオからの脱出に成功したとして、西の方はどんどん人口が減っていく。だがそうなるとフィンと十人近い娘達の一行というのはとても目立つのではないだろうか?

 数名までなら得意の行商人一家として連れていくのは問題がないが――― 一体どういう設定にしたら良いのだ?

 フィンはそれ以上に良い方策を思いつけなかった。

 だが時間だけは刻々と過ぎていく。彼は仕方なく、ともかく行商人に化けられるだけの準備をしておくしかなかった。

 聞いた人数ならとりあえず二手に分かれればまだ何とかなるかもしれない。

 だが別れた方の一行というのは一体どういう事になってしまうのだ? さすがに女ばかりの行商人というのは滅多にいないし―――それに行商人というのも細々とした知識が必要になる。ちょっと突っ込まれたらすぐぼろが出るに違いないし……

「んー……」

 結局そのあたりもうやむやのままなのだ。

 だがもうタイムアウトだった。

 そんなことを考えているうちに段々のぼせてきたので、フィンは風呂から上がった。

 夜着に着替えてまた窓の側まで行く。

《これでこの光景も見納めか……》

 そう思ってもあまり感慨は沸かなかった。

 何だか全く現実感がないといった方が良かった。

 そのときチャイカが盆を持って入ってきた。

「ご主人様……」

「ん?」

 盆の上には酒の入った徳利とグラスが二つのっていた。

「そんな物頼んだっけ?」

「いえ、これは私めからでございます」

「??」

 驚くフィンを尻目に、チャイカはその盆をサイドテーブルの上に置くと、フィンの前に跪いて平伏した。

「おいおい」

 一体何なんだ?

 チャイカはそれから上体を起こしてフィンを見上げる。

「ご主人様。私めはこのようなことを申し上げられる分際ではございませんが……その、やはり帰ってきて頂く訳にはいかないのでございましょうか?」

「ああ? 何の話だ?」

「ご主人様は明日よりお役目でまたクォイオにいらっしゃいますが、そこからお逃げになるのでございましょう? 大皇后様を連れて」

 フィンは吹き出しそうになった。

 もちろんこの件はチャイカにも秘密にしていたのだが……

「何の話だ?」

 だが思わず声が上ずっている。

 チャイカは黙って首を振った。

「ご主人様がいらっしゃらないときにも、何故かやたらに古着などを売りに来る者がいるのでございます。その者はご主人様が高く買ってくれると申しまして……もちろん知らぬと言って追い返しておりますが」

 フィンは脱力した。確かに擬装用の商品を入手するため色々手を回していたのだが……

 ってことはもう何もかもばれてるって事か?

「それで、その話は誰にしたんだ?」

 フィンの声は少々上ずっていた。だがチャイカは首を振ると答えた。

「誰にも話してはおりません」

 フィンは目を見開いた。

「どうして?」

「尋ねられませんでした故」

 本当かよ?

 フィンは一瞬彼女を疑ったが、やがて思い直した。

 彼女がそう言うからにはそうなのだと。

 彼女は随分前からフィンが裏でこそこそやっていたことを知っていて、フィンにそのことを隠そうともしなかった。

 もし彼女がフィンを陰から監視していたのなら、そのことをフィンに知らせる必要はない。だからフィンは彼女を信頼することにしたのだ。

 確かにもっと高度なペテンである可能性はあるにしろ―――疑いだしたらきりがないからだ。

「そうか……」

 フィンはうなずいた。

 だから彼は身の回りの世話と称してチャイカとネイを連れていくつもりだった。残していって人質にでも取られたらますます動きづらくなる。実際両者とももうフィンにとってはかけがえのない身内のようなものだ。

「じゃあ、まあそういうことだ。君も知ってるとおり、僕は都の出身だ。大皇后様に仇なすようなことはできないんだ」

 チャイカはフィンをじっと見た。

「でも、すぐに追っ手がかかります。逃げ切ることができるのでございますか?」

「やってみせるさ」

 フィンは全く成算はなかったがそう答えた。

「そういうご決心でございましたら……大変申し訳ございませんが、私めは明日ご主人様に同行するわけには参らないのでございます」

 フィンはチャイカが怯えているのだと思った。

「ごめん。こんなことに巻き込んじゃって……でも、残っていても危険だと思うんだ。多分捕まって殺されることになる。だとしたら僕と来た方がまだ生き残れる可能性はある」

「いえ、それは承知しております」

「え? それじゃどうして……」

「私めはあくまでアルクス様にお仕えする身なのでございます。最近は全然お召しもかからないのでございますが……アルクス様よりご主人様の身の回りの世話をするようにと申し遣っておりますれば、こうしてずっとお仕えして参りましたが、その際にアルクス様は、ご主人様がアロザールを裏切るような行為に及ぼうとする場合は、その命に従ってはならないとおっしゃっておられます。今回のご主人様の行為は、明らかにそのような行為でございます故、私はその命に従うわけにはいかないのでございます」

「でも、そんなこと言ってる場合じゃないだろ? 来なきゃ死ぬんだ!」

「おっしゃることはよく存じております。でも私めはマスターの命に逆らうわけには参らないのでございます」

 チャイカは“マスター”という言葉を強調した。

「マスターって……」

 フィンは目を見開いた。

《ちょっと待てよ!》

 何故彼女は酒などを持ってきたか?

 フィンは恐る恐る尋ねた。

「お前、マスターの命なら何でも聞くんだよな?」

「はい。ご主人様」

 チャイカは期待に満ちた目でフィンを見上げる。

 そうなのだ。

 フィンが彼女のマスターになってしまえば何の問題もなくなるのだ。

 しかも彼は簡単にそうすることができる。ちょっとこれから彼女を抱いてやりさえすればいいのだ。

 いいのだが……

 だが―――そうしたらフィンが立てて今まで守ってきた誓いはどうなる?

 いや、はっきり言ってあのときはあれがこんな大層なことになるとは思ってもいなかったのだ。だからある意味気軽に誓ってしまったのだが……

 でも、それがどんなに馬鹿らしい誓いだったとしても、それは彼がアウラに対して誓ったものだった。

 彼女はフィンがそんな誓いを立てたことさえ知らないが―――それが何だ? 少々状況が変わったからと言って簡単に覆してしまえるような物ではないのだ。

 人の誇りとはそういう物なのだから……

《はあ……》

 フィンは疲れたように首を振った。

 それから彼はしゃがみ込むとチャイカと目線の高さを合わせる。

「チャイカ。僕の国でも、このアロザールでもそうだけど、人が人を所持することは許されてないんだ。君はクーレイオンから救出された時点で、もう誰の物でもなく、君自身は君自身の物なんだよ。だからそんな“マスターの命令”を守る義務はない。そのことは分かるかい?」

 その言葉はチャイカにとって全く期待はずれのようだった。

 チャイカは目を見開いてフィンを見つめると、黙って首を振った。

 フィンは言葉に詰まった。

《分かんないって……》

 だったらどう説明すればいいのだ?

「ご主人様のおっしゃりたいことは分かります」

「だったら……」

「いいえ、違うのでございます。私めは“人でなし”なのでございます」

「え?」

「ご主人様はお尋ねになりませんでした故、お話は致しておりませんが、クーレイオンにて私めがスタッフとして何を行っておりましたのか、更にはそれ以前に私めが何を行っておりましたのかご存じでございましょうか?」

「え? いや……」

「ご主人様にはあの浜辺で私めの体験はお話ししたと存じますが、あそこに出て来た教官もまた私めなのでございます」

「え? あ……」

「もちろんファミューラの養成だけでなく、フォルマやペクスなどの教化も行ったことがございます。いずれに致しましても……そのようなことを行う者とは一体どのような者なのでございましょうか?」

 チャイカはそう言ってじっとフィンの目を見つめた。

 その眼差しには大いなる悲しみが秘められていた。

「えっと……でも、それは君が命令されてやったことだろう?」

「その通りでございます。でもそれを実行したのはこの私でございますし……奴隷(ヴェルナ)の身であるならばそれはマスターの命を実行しただけのことでございましょう。でも私がもしご主人様のおっしゃるような自由な人間なのだとしたら、私はその咎を受けねばならないのではないでしょうか?」

「えっ? ああ……」

 フィンは絶句した。

「申し訳ございません。ご主人様……私めは本当に恐ろしいのでございます。私めの犯した咎を購うために、何をせねばならないかと思いますれば……申し訳ございません。ご主人様がどうしてもそうせよとお申し付けなのであれば、そう致しますが、でもそうなりますればそのような咎人がご主人様の御側に侍るわけには参りませんので……なのでご主人様。もしこの端女が少しでも哀れだとお思いになられましたら、どうかそのような事はおっしゃらずに、家畜のようにでも扱って頂ければ私めは本当に満足なのでございます。ですから……」

「ちょっと待ってくれ!」

 フィンは思わずチャイカの肩を抱いた。

「ご主人様?」

 チャイカが潤んだ瞳でフィンを見つめる。

 だがその後の言葉が出てこない。

 彼女は自由な人という概念を四角四面に捕らえすぎなのではないだろうか? もうちょっと肩の力を抜いて、あまり細かいことに囚われずに―――フィンはそんなことを言おうとした。

 だがその瞬間、その言葉が、あの誓いにこだわっているフィン自身にブーメランのように還ってくることに気がついたのだ。

 誰にも理解されないかもしれないが、あの誓いはフィンにとっては本当にとても大切な物だった。

 同じようにチャイカにとって奴隷であるということが何故か本当に大切なことなのだ。

 それはフィンには全く理解できないが―――いや、むしろチャイカは奴隷であったが故に逆に“自由人”の意味と責任を一番理解しているのかも知れない。

 だとすれば……

 だとすれば……

 だとすれば―――フィンにその信念を矯正する権利はあるのだろうか?

 ………………

 …………

 ……

 その質問にフィンはYESと答えることはできなかった。

 フィンは大きくため息をついた。

「お前……バカだよ。本当に……」

「はい」

「俺も同じくらいバカだけどさ……」

「ご主人様?」

「ごめん。本当に悪いけど、やっぱり君を抱くことはできないんだ。本当にごめん」

 チャイカは黙って微笑んだ。

「でも明日君に一緒に来て欲しいとも思ってる」

 チャイカはちょっと目を開いたが、再び微笑んだ。

 その微笑みは―――多分これが天使の微笑みとでもいうのだろうか?

「もし気が変わったら……来てくれ」

「承知……致しました」

 それからフィンは立ち上がるとサイドテーブルに置かれた酒の徳利を取り上げて、二つのグラスに注いだ。一つをチャイカに渡す。

「多分ちょっと違った乾杯になっちゃったみたいだけど……」

「いえ。そのようなことはございません」

 二人はグラスを合わせて、その中の液体を味わった。

 とても良い酒のようだったが、味は苦かった。

 何でだろうか?

 どうしてこうなってしまったのだろうか?

 こういう場合、一体何を憎んだらよいのだろうか?


 ―――出立の日の朝、予想通りチャイカは来なかった。



 フィン達が出立した後、チャイカはがらんとした部屋をいつも通りに掃除していた。

《どうして私は……》

 そう考えようとしてチャイカは首を振る。

 ああは言われた物の、フィンが再び帰ってくる可能性も僅かながらある―――はずだ……

 そんなときに埃の溜まった部屋で主人を迎えるわけにはいかない。

 チャイカは一生懸命そう考えては、部屋の清掃に精を出した。

 だがここは今までも毎日そうしてきた部屋だ。

 ボニートのいた頃は一日放置したらびっくりするくらい汚くなっていたが、ネイはそういう意味ではお行儀が良かった。

 そのためやることはすぐになくなってしまった。

 チャイカはあてどなく部屋の中を回っては、何かすることがないか探し回ってみた。

 それとももう一度始めからやり直すか? それもいいかもしれない。何もしていないよりは意味がなくても何かやっている方が気が紛れるし……

 そんなことを思ったときだ。彼女は人の気配がしたので振り返った。

「やあ!」

「アルクス様?」

 戸口に立っていたのはアルクス王子だ。彼がこんな所まで来るなんて、一体何の用なのだろうか?

 チャイカはともかく彼の前に跪いたが、なんと言っていいのか言葉が浮かんでこない。

 彼女が口を開く前にアルクスが彼女に尋ねた。

「部屋の掃除かい?」

「はい」

「どうしてまた?」

「……ご主人様がお戻りになられた時のためでございます」

 アルクスはそれを聞いてにやっと笑ってチャイカを見つめた。

「本気でそう思ってるの?」

 チャイカは気がついた。

 そうか。アルクスもそう思っていたのか―――このことをフィンは知っているのだろうか?

 チャイカは目を逸らす。

「いえ……」

 それを見てアルクスはまたふっと笑う。

「置いてかれちゃったんだ」

 チャイカはそれを聞いてアルクスをきっと見つめると首を振る。

「いえ、私めが残ったのでございます」

 アルクスは驚きの表情でチャイカを見た。

「ええ? どうしてだい?」

「……フィナルフィン様にはマスターになって頂けませんでしたゆえ……」

 それを聞いてアルクスは目を見開くと不思議そうな顔で尋ねる。

「別にいいじゃん。行きたかったんだろ? どうして付いていかなかったんだい?」

 チャイカは歯を食いしばって、また首を振る。

「私めのマスターはアルクス様でございます」

 それを聞いてアルクスはチャイカをしばらく見つめると、またくっくっと笑い出した。

 それからにやーっと彼女を見つめると言った。

「へえ。でもさ、僕が裏切り者を行かせちゃうような奴に優しくしてあげると思う?」

 チャイカは背筋がぞっとした。

 叶うことならばこの場から逃げ出してしまいたかった。

 だが彼女はそうすることができないことも分かっていた。

 チャイカはアルクスの前に平伏すると答えた。

「いいえ。申し訳ございません」

 そんなチャイカを見下ろしながらアルクスが冷たい声で言った。

「ふうん。分かってるんだ。じゃあちょっとお仕置きしないとな」

 チャイカは体がぶるぶる震えてきた。

「お許しくださいませ……」

「いや、だめだ。立て」

 チャイカは身についた習慣として、言われるままに立ち上がる。

 アルクスはまだチャイカとそんなに身長差はない。彼はぐるっとチャイカの周りを一周回ると、再び彼女の前に立って、慣れた手つきで彼女の胸元を留めている紐を解き始めた。

「あの……」

「黙って」

「………………」

 すぐにアルクスの目の前にチャイカの豊かな乳房が露わになった。

 アルクスはにこっとしてそれを眺めると、愛おしむように両手でそれを撫でてから彼女の乳首を軽くつまむ。

「あ……」

 それから彼はじっくりとチャイカの胸を弄び始める。

 しばらくそうやって愛撫をした後、アルクスは面白そうに言った。

「君たちみたいなバカは初めて見たよ」

「申し訳ございません……」

「じゃあそこに手をついて」

 アルクスはベッドを指さした。

 チャイカは黙って後ろを向いてベッドに両手を付いた。

 アルクスはチャイカのスカートをたくり上げると、彼女の下履きをずるっと引き下ろす。

 むき出しになった尻をアルクスは軽くぴしゃりと叩くと、チャイカに秘所にするっと指を這わせた。

「濡れてないね」

「申し訳ございません。急なお越しでございましたので。少々お待ち頂ければ……」

 このような経験なら今まで数え切れないほどあったのでチャイカは慣れていた。

 まずはアルクスを口で慰めてやりながら、自分でも弄っていればすぐに濡れてくるはずで……

 だがアルクスは首を振った。

「そんなことしなくても大丈夫だよ。こうすれば」

 チャイカがえっと思った瞬間だった。


『チャイカ。君は素敵だよ』


 その声に驚いてチャイカは振り返った。

「え?」

 そこにいるのは―――フィンだ! でもどうして彼がここに?

『君が心配だから戻ってきたんだ。いいだろ?』

 そういって“フィン”は彼女の胸を愛撫し始めた。

「あうっ!」

 思わず声が出てしまう。

 体の芯がきゅっとなって、ぞくっとした快感が走り抜ける。

 えっと―――これは一体どういう事なのだ?

 そのとき彼が再びチャイカの秘所に指を這わせる。チャイカはびくっと体を震わせた。

「あうっ!」


「ほらね? 大丈夫だっただろ?」


 ―――そう言って彼女の愛液に濡れた指を立てているのはアルクスだった。

「え?」

 そのときにはチャイカも何となく理由が分かってきた。

 アルクス王子は魔法使いなのだ。そのことはフィンにも本人にも聞いて知っている。だが彼が魔法を使うところは今まで見たことがなかったが……

「本当はこうして欲しかったんだよね?」

「はい……」

「いいよ。彼をとっつかまえたら、今度は君の奴隷にしてあげよう。そうすればいつだって……」

「え?」


『好きなだけこんなことができるよ』


 そこには再び“フィン”が立っている。

 彼はズボンを下ろすと自分の一物を取りだした。

『どうしたい?』

 チャイカは思わず彼の前に跪くと、それを手で愛撫する。

 彼の物はすぐに大きく堅くなっていく。チャイカはそれを口に含むと満遍なく湿らせていった。

『これをどうして欲しいんだい?』

「こちらに……その……入れて頂きたいのです」

 チャイカは思わずそう言って自分の秘所を指で広げた。

 なぜかもう自分でも信じられないくらいにぐしょぐしょになっている。

『そっか』

 そう言って“フィン”はやにわにチャイカをベッドに押し倒すと、その両股の間にそそり立った物を埋めていった。

「あ……あ……」

 チャイカは思わずのけぞりそうになる。

『おや? なんだい? それは?』

「あ……」

『お仕置きされてるっていうのに、どうしてそんなに嬉しそうなんだい?』

「あ……」

『君って心底雌豚なんだね』

「ああ……申し訳……ございま……ああ……」

 “フィン”はそれから彼の堅い物でチャイカの中をかき回し始める。

 まるで腰から下がとろけてしまったように思える。

 今までこんなに感じてしまったことは無かったのではないだろうか?

「ああ……ああ……」

 やがてチャイカはもはや何も聞こえず、何も考えられなくなっていった……

 夢うつつに何度も何度も絶頂に達していったような気がするが……

 気がついたら彼女ははしたない格好でぐったりとベッドの上に横たわっていた。

《いけない……ご主人様のベッドの上で……》

 そのとき彼女の横に座っているアルクスに気がついた。

「目が覚めた?」

「あ、あの、私……」

「ひどいなあ。あんな大きな声出すんだもん。誰かやってこないかって心配になっちゃったよ」

「申し訳……ございません」

 チャイカは起き上がって部屋の片付けをしようとしたが、腰が抜けてしまっている。

 アルクスは起き上がろうともがくチャイカを制止すると言った。

「いや、もうここは放っておいていいよ。彼の世話は今日で終わりにするから」

「……はい」

「多分このあと教育係になって貰うから。それまではゆっくりしてるといいよ」

「え? どなたの教育でございますか?」

「もちろん、大皇后様のだよ」

 ………………

 …………

 ……

《大皇后……様⁉》

 あまりの言葉にチャイカは声が出なかった。

 それからアルクスは立ち上がると窓際まで行って独り言のようにつぶやいた。

「ふふ。わくわくするなあ。あの女の末裔がお人形さんだなんて……早く見てみたいなあ!」

 あの女? って、誰のことなのだろうか?

 それはともかく―――なぜかチャイカもちょっとわくわくしているのに気がついた。