二人の王子様
第1章 夢の終わり
その年の夏は蒸し暑い日が多かったのだが、その夜は良く晴れてとても気持ちの良い風が吹いていた。
エルセティアはその日ジアーナ屋敷で、幼なじみのフィーリアンとラルエイマを招いて音楽夜会を開いていた。
会場は屋敷の小ホールと呼ばれているこぢんまりとした広間で、オーケストラも小編成のものだった。屋敷にはもっと大きな広間や立派なステージもあったが、今日来ている客はこれだけだったのでここでも十分すぎる広さだ。
ステージ上ではオーケストラの伴奏に乗って、若い美男美女が二重唱を歌っている。
曲がクライマックスに達して美しい和音で終止したところで、ティアは立ち上がると二人に喝采を送る。
「デルビス~! パライナ~っ! 素敵よ~っ!」
ステージ上の二人がにっこり笑うと胸に手を当てて礼をする。それと同時にあたりからまばらな拍手がわき起こる。
「ん~。やっぱり素敵ね!」
「何だかまだ夢みたい!」
そうつぶやいたのはエイマとリアンだ。
二人とも感極まっているといった様子で、その顔には恍惚の表情が浮かんでいる。
それもそのはずだ。この日のコンサートはティアとリアン、それにエイマの三人のためだけに催されたコンサートだったからだ。
彼女達は小さい頃から仲が良く、かつてはよく三人でルナ・プレーナ劇場に観劇に行った物だった。
だがその頃はみんな貧乏貴族の子女だ。エスコートしてくれる人がいたならともかく、そうでなければ平土間から一般人に混じって見るしかない。もちろん舞台が始まってしまえばその世界にどっぷり浸ってしまえるのだが―――それでもいつかは専用のロッジをみんなで借りられたら、などといった夢を語り合っていたのだ。
それがなぜか今、ルナ・プレーナ劇場のトッププリマを呼び出して彼女達三人のためだけにに歌ってもらっているのだ。
もはや夢が叶ったどころの話ではない。彼女たちは幸せの絶頂にあった―――と、本来ならそのはずだった。
ティアの脇に座っていたエイマが肘で軽くつつく。
「ねえ、もしかしてさっきのまだ気にしてる?」
ティアは慌てて首を振る。動揺している様子を見せてはならない。
「ううん。全然!」
のだが……
「でも何か無理にはしゃいじゃってるし、それもあんまり食べてないし……」
エイマはイチゴソースのかかったヨーグルトを指さした。
「ぐ……」
幼なじみにはそう簡単に隠しておける物ではないのだ。
リアンもちょっと心配そうにティアの肩に手を置いた。
「そうそう。ジェラとかの言うことなんて無視してていいのよ。単にやっかんでるだけなんだから」
「うん。ありがとう」
「でも正直あたしも聞いたときはちょっとびっくりしちゃった」
エイマの言葉にリアンがうなずく。
「そうそう。こりゃティアももうだめだわって、まず思ったわね」
「あははは……」
「まあとにかくこれでも食べて」
リアンがヨーグルトを取って渡してくれる。ティアを慰めるにはそれが一番だと知悉しているのだ。
ティアは言われるままにそれを口にした。
口の中に甘酸っぱい香りが広がると、ちょっと落ち着いた気分になる―――とは言っても、さすがに今回はこれだけで元気満点とはいかなかった。
二人が慰めてくれているのは、今、巷に広がってしまっている噂についてだった。
「でも大皇后様のお身体ってどうなの? やっぱりよくないの?」
エイマが心配そうに尋ねる。
「うーん。ちょっとね」
ティアはメルファラ大皇后のことは、都で一番良く知っているといって良かった。今でも月に一度は顔を合わせているし―――と言うより、最近は月に一度しか顔を見られないといった方がいいが―――ともかくそういうわけで問題がどこにあるのか彼女は熟知していた。
《だからこそあたしなんだろうけど……》
先年大皇后は御子を死産されてしまい、その後ずっと体調を崩してしまっていた。
実は体調と言うより精神的に参っていたというのが真相なのだが―――いずれにしても当分お世継ぎは生まれそうもなく、ならば妾妃を迎えようという話が湧き上がっていたのだ。
ところがその候補というのがなんとティアだったのである。
《というか、まあ、分かるんだけど……》
ティアはふうっとため息をついた。
先のお世継ぎで“病弱”だったメルフロウの君に妹姫がいるということが判明したときには、都の上から下までが大騒ぎになったものだ。そしてそのメルファラ姫とカロンデュール皇太子の婚約が発表されたときにはもうその二乗の騒ぎになった。
ともかくそのために長年の確執があったジークの家とダアルの家が和解できたのだが、お世継ぎのメルフロウ皇子はついに病気で亡くなってしまい、第二継承者のカロンデュール皇子が大皇に即位して―――といった騒動の渦中に彼女はいたのであるが……
「ティアとフロウ様のときもすごかったじゃない」
「うん」
自分で言うのも何なのだが、彼女とお世継ぎの君では正直釣り合いがとれなかったのだ。
見栄えについては―――人間中身で勝負するとしても、家柄の格の違いに関してはもはや如何ともしがたかった。ル・ウーダの分家のそのまた分家みたいな弱小貧乏貴族で、しかも母親が平民だったりするし……
―――もちろんこんなことになるまでは誰もそんなことは気にしていなかった。
それどころかいつか皆で母親の故郷に遊びに行くのを楽しみにしていたくらいなのだ。
だが、都ではそういうところが最も重要な争点になる。
例えばメルフロウの君には元々ハヤセのアンシャーラ姫という婚約者がいた。
正式な婚約はしていなかったらしいが、自他共に次期大皇后は彼女しかいないと思われていた。家柄については申し分なく、しかも美人で教養があって、非の打ち所がないというのは彼女のことを指すような姫だったのだが……
すなわちティアはそんな姫君からお世継ぎの君を横取りしてしまったわけで……
もちろんそんなつもりは毛頭なかったわけだが、結果的には間違いなくそうなってしまったのだ。
そのような場合に世間という物が一体どういう反応をするかということを、ティアは身をもって体験してきた。
《ありゃひどかったけど……》
メルフロウ皇太子の逝去という弔事の時でさえ、あからさまな「ざまを見ろ!」とか「罰が当たったんだ」などという声が聞こえてきたものだ。
それからもう四年近くが経過して、やっと人々の記憶からフェードアウトできたと思った矢先だ。
今度は彼女を現大皇の妾妃にという話なのだ。
妾妃といえどももし本妻が子をなさなければ“お世継ぎ”の母親になる可能性だってある。
しかもメルファラ大皇后の“体調不良”が発覚してからは、前述のアンシャーラ姫や、元許嫁だったマグニのキャルスラン姫が既に名乗りを上げていたりして、そこにまたまた彼女が割り込んだような形になっていて……
《マジ、殺されるかも……》
都では半分洒落になっていないから怖い。
だがメルファラ大皇后やカロンデュール大皇はこの話に乗り気だった。
ティアは元々その二人とは親しかった。
彼らとはプライベートでは“ファラ”とか“デュール”と呼び合っている仲で、正直いま都で打ち解けて話せる相手は、家族にリアン、エイマを除けばあの二人くらいだったりするのだ。
どっかの馬鹿は一人で勝手に逃げてくし……
「いや、あれはなあ……」
フィンは思わず口を挟んでいたが、即座にエルセティアに突っ込み返される。
「あれは? 何よ? ちゃんと目を見て話してご覧なさい! ファラの」
食事中のメルファラがちらっと二人の方を見て少々引きつり気味の微笑みを浮かべている。
「いや、なんでもないです」
「だったら余計な口挟まないの!」
ぐ……
《こいつ……いつか締めてやる!》
と思いつつも、実際あのときは逃げたと言われても弁解できない状況だったのだが……
そんなフィンの思いをよそに、エルセティアは話し続けた。
正直贅沢な悩みなのかもしれないが、それでもティアは気が重かった。
《まるで夢みたいな話なのに……》
そんなことを思っていたとき、ステージ上のデルビスが甘い声で言った。
「それでは宴もたけなわになって参りましたが、ここでエルセティア様の亡き君のために一曲歌わせていただきます。“レコルダーレ=思い出してください”です」
オーケストラの弦楽の伴奏に乗ってシャルモーが美しいメロディーを奏で始めた。
《う……これって》
大好きな曲だ。
やがてパライナが美しい声で歌い始める。
Recordare Jesu pie
quod sum causa tuae viae
ne me perdas illa die...
古い言葉なので歌っていることの意味は今ひとつよく分からないが、鎮魂のための曲だとも言われている。
ティアはちょっと複雑な思いで着ているドレスを見た。
今日も纏っているのは漆黒のドレスだ。
彼女は建前上は今もずっとメルフロウ皇太子の喪に服しているということになっているのだ。普通なら服喪は長くても三年までなのだが……
《ミュージアーナ様だって黒いドレスがお好きだったっていうし!》
そんなときはいつもこう思うことにしている。それに黒というのは何か大人っぽい色だし。
彼女が今暮らしているジアーナ屋敷は、伝説の舞姫ミュージアーナ姫が暮らしていた屋敷だ。実際この屋敷にはミュージアーナ姫の使った茶器とか肖像画とかが色々残されていたりするのだが、ティアはなぜか今、そんな館の主なのだ。
四年前のあの騒ぎの後、メルフロウ皇太子が“病死”すると父のジークⅦ世も後を追うようにこの世を去っていた。
表向きは彼も病死だったが実は自殺だった。
その結果、ジークの家の当主は“メルフロウ”の妻だったティアということになってしまったのだ。
もちろんジークの家の財産に関しては、いろいろなしがらみがあってかなりの部分が一族の者に持って行かれてしまっていたが……
《てか、そんな物が欲しかったんじゃないし!》
昔も今も彼女はフロウと一緒にいたかった。フロウも彼女と一緒にいたかった。
ただそれだけだった。
二人とも本当にそれ以上は何もいらなかったのだ。
だから財産が少々目減りしたところでティアは何とも思っていなかったのだが―――というよりは根が貧乏性だったので、それがどれほどの物なのかよく分からなかったと言った方がいいが―――それでも今の彼女は宮殿のような屋敷に住んで、こんなミニコンサート程度なら小遣いで悠々と賄えるくらいの金持ちなのだった。
だから本当ならもっと色々な人を招いての大夜会を開きたかった。
そもそも彼女は一人静かにしているなんていうのは全然柄ではなく、みんなでわいわいやっているときが一番楽しいという質だった。
だから呼んで騒ぎたい友人はもっともっといたりするのだが―――確かに服喪中にそんな宴を開くのは問題だが、彼女にはそうできないもっと大きな理由があった。
「はあ……」
「どうしたの? また思い出してるの?」
エイマが尋ねる。
「あ、まあね……」
「あんまり思い詰めると、本当に体に良くないわよ」
「え? うん」
「そうそう。もう三年過ぎてるんだし、そろそろいいんじゃない?」
リアンも笑いながらティアに言う。
「うん。でも、まだその、なにか、ね……」
リアンとエイマは二人はちょっと顔を見合わせたが黙ってうなずいた。
「まあ気が済むまでそうしとくといいわ。でも気が済んだらすぐに教えるのよ?」
「あはは。うん」
彼女たちが心配してくれているのは痛いほどよく分かる。ティアだっていい加減現在の状況には飽き飽きしていたのだ。
どんなに絢爛豪華な屋敷であっても、そこに引き籠もりっきりでは退屈してしまう。
何かをしたかったのは一番彼女だったのだ。
―――だが彼女には簡単にはそうできない訳があった。
実のところ、今来ているこの二人を招くことだって本当はちょっと危険な話なのだ。
彼女達はハネムーンや例の夜話茶会のとき以来“フロウ”や“ファラ”に何度も会っているので、いきなり面会謝絶になった方がおかしいだろう、といった理由でOKになっているのだ。
《そうなのよね……》
あのときは無我夢中で全然ぴんと来ていなかったのだが、今となってはさすがにそれがどれほどのことなのか身をもって分かっている。
カロンデュールがメルファラが結婚して一年ほどした後、前大皇が崩御して彼が新大皇に即位した。
その即位式には都のみならず、近隣諸国の王侯貴族までが参列して、新大皇と共にその美しい大皇后に対して驚嘆の眼差しを向けたのだ。
《ファラなら当然よねっ!》
メルファラ大皇后はそのときより白銀の都の新しい象徴となったのだ。
しかもその彼女にはミステリアスな過去があった。
彼女の母親であるエイジニア皇女の遺言により、生まれてすぐに双子の兄と引き離されて、都からずっと離れた田舎でひっそりと育てられていたというのだ。
年頃になるまで彼女の存在は知られておらず、唐突にメルファラ皇女が現れたときには都中が大騒ぎになったものだ。
もちろんそんな理由を信じない者も多く“裏の理由”も色々取りざたされていた。
例えば彼女の父親が違っていたとか、実はある貴族にずっと人質に取られていたとか何とか……
だがティアはそういった噂に関しては全く気にかけていなかった。
なぜなら彼女は“メルファラ皇女”の本当の出自を知っていたからだ。
《まあ、こっちの方がよっぽど嘘っぽいけどね……》
とは言ってもこれが“何がどうあっても守らねばならない秘密”であるということは彼女もよく理解していた。
だが秘密を守るというのは難しいのだ。
たとえ彼女にばらすつもりがなくても日常の中でついうっかりヒントになるようなことを言ってしまう可能性は多々ある。
最初自分の兄に“メルファラ皇女”の正体がばれてしまったときだって、別に彼女が積極的に喋ったわけではないのだ。勘のいい者がいたらちょっとしたきっかけでもボロが出てしまうのはある意味避けられないことなのだ。
だとすれば結局、彼女が秘密をばらさずにいるための最も確実な方法は、余計な人物と接触しないようにすることしかなかった。
彼女が長い喪に服していたのはこういった訳だったのだが―――そのことに関しては彼女よりずっと心を痛めている人がいた。
《ファラ……》
メルファラとは彼女が大皇后になった後もよく会うことができた―――というより彼女が頻繁に羽を伸ばしにやってくるのだ。
考えたら当然のことだったのだが、彼女にとってカロンデュールの実家であるダアルの家はあまり住み心地の良いところではなかった。
もちろんカロンデュール本人はとてもいい人だ。彼本人は家の確執とかいったことは全く気にしていない―――だが他の家人はそうではなかった。
ジークの家とダアルの家の確執の歴史は長く、確かにこうやって和解には至ったとはいえ、やはりその中では彼女はどうしても孤立気味になってしまうのだ。
そういうわけでメルファラは結婚後もよくジアーナ屋敷に遊びに来ていた。
それはいつでもとても楽しいひとときだったのだが、話題が尽きてしまうとどうしても話はティアの行く末のことになってしまう。
そのことについてはティア自身も本気でどうにかしたいとは思っていた。
引き籠もっているのにはいい加減飽き飽きしているし、婚期もそろそろ本気で逃しそうな雰囲気だ。実は縁談には事欠かなかったのだがずっと断り続けざるを得なかった。中には悪くない相手だっていたのだが……
もちろんその理由は相手が“部外者”だったからだ。
彼女と結婚するということは、彼女の秘密をも共有できなければならないのだが、そういった条件を満たせる者になってしまうともうほとんど誰もいないといっていい……
そんなこんなで無為に時が過ぎていくなか、ある日メルファラ自身が持ってきた話というのが、大皇カロンデュールの妾妃の話だったのだ。
《確かにある意味理想的だとはいえるけど……》
秘密に関しては大皇本人が共犯者であるから無問題である。
しかも大皇はかつてはメルフロウ皇太子と都の乙女の人気を二分していたほどの好男子だ。その上ティアは何の間違いか彼にプロポーズされたことさえある。
そのときはティアの方から振ってしまった訳だが……
うわあああ!
「なんっつう贅沢な……」
「ん? なに?」
リアンと雑談していたエイマが振り向く。
リアンもティアをちらっと見て、それからふっと鼻で笑う。
「独り言でしょ。この子思ってることがすぐ口に出るじゃない」
「あ、そっか」
エイマもすぐに納得する。
《うぎゃあああああ!》
何か人格を見透かされてないか?
「え? なに? あたしがバカだって?」
ティアが食ってかかるとリアンが涼しい顔で答える。
「誰もそんなこと言ってないじゃない。単に思ったことすぐ口にするって言っただけで」
「あたしだってそういう諺は知ってるんだからねっ! そういう人にはとっておきの秘密、教えてあげないんだからねっ!」
「秘密?」
エイマが瞳を見開いた。
「ふん。どうせ大した秘密じゃないんでしょ?」
リアンは言った手前興味の無いふりをしている。
「ふっ。どうかしらね♪」
ティアはにやにや笑いながらエイマの耳にこっそりささやいた。
実際にこれはとっときの秘密なのだ。
『彼らねえ、今度レイシアンの歌の主役抜擢かもって』
「ええ? それ本当?」
目を輝かせるエイマの顔を見て、リアンは口をとがらせた。
「何よ。本当にそんな秘密なの?」
「言っていい?」
エイマはうずうずしている。
「ふっふっふ。どうしようかなあ!」
「分かった。分かったから教えて! これをどうぞっ!」
リアンがそう言いながら頭を下げてティアのグラスにワインを注いだ。
「うむ、それでは教えて進ぜよう。ルナ・プレーナ劇場の来期の公演でレイシアンの歌が久々にかかるんだけど、その主役にあの二人、抜擢されるみたいなのよ」
「ええええ?」
リアンも手を口に当てて叫び声を上げた。
レイシアンの歌というのは音楽劇の中でも古典傑作中の傑作で、それに端役でも出られるというだけで一流の証なのだが、主役となれば名実ともにトップスターが約束されたようなものなのである。
リアンはステージの二人に向かって言った。
「本当なの? 今の」
「はい、まあ……」
デルビスが少しはにかんだように答える。
「おめでとう! 初めて見たときから絶対行けるって思ってたわ!」
それを聞いてパライナがデルビスの袖を掴んで言った。
「デルビス。まだ内定状態よ。公には……」
今度はティアとエイマが蒼くなる。
「え? なに? まだ秘密だったの。そんなの先に言ってくれないと……」
「はい?」
不思議そうな二人にエイマが説明する。
「あの~……彼女に教えちゃったらもう公になったも同然なのよ」
「な……なによそれ? あたしが聞いたこと、何でもかんでも言いふらすと思ってるの?」
と言いつつ、本人までもがしまったという顔をしている。
リアンの噂を広める能力は超人級なのだ。その能力が期せずして役に立ったこともあったりしたのだが―――それはともかく二人には迷惑なことになったのでは?
「ええ? そうなんですか? それは困りました!」
だがデルビスもパライナもなんだか嬉しそうだ―――ということはどうやら建前的なことなのだろう。なに、噂ごときで内定取り消しとかになるはずないし、それにそうなったらそうなったで……
《ふふっ。今のあたしには金と権力があるんだからねっ》
劇のキャスティングなどいくらでもねじ曲げてやるわ! あははっ!
―――などとそれからしばらくは彼女たちと劇の話などで盛り上がってしまったので、過ぎていく時間を忘れられたのだが……
やがてリアンが言った。
「あら……もうこんな時間?」
時は無慈悲に過ぎ去っていく。
「ええ? 本当!」
話が盛り上がっている間にもう夜は更けている。
ティアは笑いながら二人に言った。
「だったら泊まってきなさいよ。部屋なんていくらでもあるし」
それを聞いて二人は一瞬息をのんだが、やがて残念そうに首を振る。
「ごめんなさい。坊やが待ってるし……」
「うちのも、帰ってやんないと……」
「あはは。だよねー」
もちろんティアも分かっている。
この二人はもう結婚して子持ちなのだ。彼女たちには帰らなければならない家がある。ティアのわがままで引き留めるわけにはいかないのだ。
それに彼女たちがもう来られないというのでもなく、実際はかなり頻繁に遊びに来てくれているので、この屋敷にもそろそろ慣れっこになっていたりするのだ。
最初にあの離宮に連れて行ったときは、二人ともそれこそ肝をつぶしていたものだが……
「それじゃ最後の、お願いね!」
彼女はステージ上のデルビスとパライナに合図をする。彼らはうなずくと、ルナ・プレーナ劇場でデビューしたときの歌を歌い始めた。
ティア、リアン、エイマの三人も聴いていた思い出の曲だ。
「あ、これ……」
「うう……あの頃は若かったわね……」
「何言ってるのよ。まだまだこれからよっ!」
とは言いつつもあのときと同じにはなりようがないことは分かっているのだが……
こうして夜会がお開きになって、エイマとリアン、それに歌手達が引き上げてしまうと、ティアはがらんとした広い屋敷に一人ぽつんと取り残された。
本当ならもっとたくさんの使用人で溢れかえっていても良いはずなのだが、それも前述の理由で最小限にとどめざるを得ない。人が多ければ多いほど秘密が漏れる可能性も大きくなってしまうのだ。
そのためこの屋敷には、先代のジークⅦ世の頃からずっと仕えてきた信頼の置ける者しかいないのだが、そうなると皆必然的に彼女よりも遙かに年上の人たちばかりになってしまう。
すなわち年代の壁のために普通に話が合わなかったりするのだ。
もちろん丁重に扱ってはもらっているのだが……
《家だったらもっと賑やかなのに……》
ティアの実家はそれなりに由緒のあるル・ウーダ一族であるが、貧乏貴族という言い方がぴったりだ。
だが父親のパルティシオンは囲碁の腕前では都の内外に名を知られていた。
彼は若い頃、武者修行と称して中原各地を回って、当時はまだ健在だったウィルガ王国の都バシリカの貴族の館で侍女をしていた娘を見初めて連れてきたのが、フィンやティアの母親であるウルスラだった。
その際には相手方が譲るの渋ったため、彼女を賭けて碁の勝負を行って勝ち取ったとかいう噂もささやかれているが、そのことを聞いたら両親共に話をはぐらかすので本当かどうかは定かではない。
それはともかく、その武者修行で名を挙げたパルティシオンの元には、各地から挑戦者だけでなく弟子入り志願の者などが現れ、そういった者達が屋敷の一角にたくさんたむろして何か合宿所のような体を為していた。
そんな家だったのでティアもフィンも、使用人も客人も家族同様のある意味おおざっぱな生活に慣れていたのだが、それ故に逆にここのように丁重だが他人行儀な扱いをされると正直肩が凝るのだった。
《とは言っても……》
彼らには彼らの歴史があるのだ。
彼らは今は亡きジークⅦ世にずっと忠実に付き従って来た者達だ。
そのジークの家がこんなことになってしまって―――もちろん形式上はこうして残っているのだが、現当主と言えば訳の分からないこんな小娘で、実勢上は無くなってしまったも同然なのだ。
だから中にはそうなってしまった元凶がティア達にあると考えている者がいてもおかしくなかった。
《本当に……良かったのかしら?》
あのときはああするしかないと思った。
だが今から考えてみると―――それは本当に正しい選択だったのだろうか?
ティアはぷるぷる首を振ると離宮への道を辿り始めた。
ジアーナ屋敷の内部は贅を尽くした内装になっている。
磨き抜かれた大理石の壁にふかふかの絨毯、柱には見事な飾りを施された黄金の燭台、ここかしこに精巧な彫刻や何やらが置かれていて、各部屋の調度も名手の手になる骨董品ばかりだ。
しかしその程度なら大貴族の屋敷なら普通のことだ。
だが彼女が今向かっている離宮はもはやそういった次元を超えた存在だった。
長い廊下を抜けて一度屋敷の外に出る。
屋根の付いた渡り廊下が前方に延びており、その先には月明かりに輝く巨大な宝石、としか形容のできないような輝く建物が聳えていた。
それが水晶宮とも呼ばれ、ジークの家の最盛期に当主だったジークⅣ世が、今でもその名を語り継がれている伝説の舞姫ミュージアーナのために建造したもので、不思議な森と奇岩の間にそそり立つ総ガラス作りの宮殿だ。
渡り廊下を抜けて離宮の玄関をくぐると、そこはまるで美術館のホールのようだ。
そこには世界各地から集められた絵画や彫刻、古代遺物などが一見雑然と、しかしよく見ると細かいところまで考え抜かれた配置で置かれている。
だがティアは無感動にその間を抜けて、奥の部屋に入っていった。
広い部屋の一面はガラス張りになっていて、そこからは庭園を見渡すことができる。
今この時間は深夜なので、あちらこちらに立てられた篝火が地上に落ちた星のようだ。
そんな場所が今のティアのプライベートリビングだった。
彼女がこの場所を選んだのは美しいからだけではなく、静かで誰にも邪魔をされないことと、ここが彼女と“メルフロウ”との思い出の場所でもあったからだった。
ティアは窓際まで行って、ついまた篝火の数を数えてみる。
それからふっとため息をつくと窓に背を向けてつぶやいた。
「ちょっと汗かいちゃった?」
気持ちの良い夜だとはいっても季節は夏だ。フォーマルな服装で客のもてなしなどをしていればそれなりに汗をかく。
ティアは部屋の片隅にあるバスルームの入り口に向かった。
扉を開けると中からほわっと湯気がこぼれてくる。
彼女は中に入ると無造作に着ている物を脱ぎ始めた。
あたりはまるで天然の岩場のようになっている。
その奥は両面の壁から水が流れている“洞窟”があって、その先からは明かりがこぼれている。
ティアは一糸纏わぬ姿になるとその洞窟を抜けた。
奥には湯気を上げる水面が広がっていた。
まるで天然にできた大きな池のようで、あちらこちらに様々な形状の岩が突き出している。
だがよく見るとその岩は、肌を傷つけないように表面がすべすべに磨き抜かれており、その形も座ったり寝そべったりできるようにいろいろ計算されていた。
《あの日は月が出てたけど……》
今日は高窓からは星の光しか見えない。
ティアはまたふっとため息をつくと、どぼんと湯船に飛び込んだ。
そのまま仰向けになって湯に浮かぶと彼女は逆さ平泳ぎで一掻き水をかく。
体がすうっと前に進み、やがて近くの岩にごつんとぶつかった。
「あたっ」
ティアは頭を押さえて湯船の中に座り込み―――それからまた何か涙が出てきてしまった。
《フロウ……》
ここは“メルフロウ”との思い出の場所であると共に、彼を永遠に失ってしまった場所でもあった。
もちろんその代わりにかけがえのない友を得た場所でもあるのだが……
ティアは立ち上がると湯船の中を歩き、反対側の岸辺から上陸する。
そこはちょっとした空間になっていて、壁の一面は鏡だった。
ティアはその場所の中央に立つ。すると鏡には一面の絵画のように映るのだ。
「ん~……」
彼女はそこでじっと自分の姿を見つめた。
多分そんなに悪くないと思う。
ファラはそう言ってくれるし、リアンとかエイマと比べたってだめだとは思わない。
まあ確かに胸の大きさとかはファラにはちょっと負けるが―――リアンとだったらどっこいどっこいだし。
《でも……デュール……どう思うかな?》
やっぱり彼は大きいおっぱいの方がいいのだろうか?
考えたら彼はファラのをずっと見てきてるわけだし、こんなんじゃ―――でも……
後ろを向いてみると、すらっとした背筋にきゅっとしたお尻が盛り上がっている。
《こっちならOKよね?》
とりあえずここなら彼女のチャームポイントにできるのではないかと、内心ひそかにこっそりと秘密裏にちょっとだけ思っていたりするわけだが……
でもそうすると―――デュールが彼女の肩を抱いて『君のお尻はすばらしいよ!』などと言ってくれるのだろうか?
ティアはそんな光景を想像して……
「きゃっ! 恥ずかしっ!」
恥ずかしいのはこっちだ!
一体何ののろけ話だ? これは?
「何の話なんだよ? これ?」
「やかましいわねえ。黙って聞きなさいよ!」
「だから、もう少し要点を明確にだな……」
「要点? 簡単じゃない! あれからずっーーーーーっとあたしが孤独だったってことよ! あんたが綺麗なメイド奴隷さんと乳繰りあってる間にねっ!」
「待て! 何かそれ時系列が変だろ?」
「あん? 細かいことにいちいちいちいちいちいちいちいち、サイテーよねっ! 大体さあ……」
しまった! このままではますます脇道にそれる!
「わかった。わかったからさ、で、続きはどうなんだ?」
「だからあんたまで出て行っちゃって、本当にこんなときは暇で暇で、こうでもしてないと大変だったってことよ!」
「わかったから。それはわかったからさ」
フィンは何とか話を本筋に戻すことに成功した。
我に返るとティアは何だかまた寂しさがこみ上げてきた。
彼女だってかつては白馬の王子様を夢見る普通の乙女だった。
すなわち大きくなればごく普通の男と結婚してごく普通の人生を送るようになるのだろうと漠然と知っていたからこそ、王子様を夢見ていられたのだ。
ところが何の間違いか彼女の場合、そんな夢が本当に叶ってしまったのである。
そう思うといつも笑いがこみ上げてくる。
《結局、ガラじゃなかったのよね……》
だからそれはやはり一時の夢で終わり、今ではこうしてただ一人、豪華絢爛な宮殿の中で虜囚のような生活をしている……
「だ~か~らっ!」
ティアは大きな声を上げて、顔をぴしゃぴしゃ叩く。
こんな所で一人落ち込んでいてどうする? それこそ彼女のガラではない。
ティアは回れ右すると再び湯船にどぼんと浸かった。
だが忘れようとしてもどうしても思ってしまうのだ。
こんなとき優しく抱きとめてくれる人がいたなら……
《結婚か……》
リアンもエイマも結婚なんて忙しいばっかりでいいことない、などと口では言いながら結構幸せそうだ。
だがもう彼女にはそれが本当かどうか確かめる術さえないのだ。
ティアは湯船の中に座り込むとお腹をさすった。
部外者と結婚できない最大の理由がここにあった。
《あたしがバージンだってばれたら……やっぱり絶対おかしいって思われるわよね……》
そうなのだ。
彼女は未亡人なのだが、ある必然的な理由によってまだ生娘だったのだ。
だがその“必然的な理由”を知らなければ、当然相手は彼女の元夫になにかの欠陥があったと思うことだろう―――それこそが彼女が口が裂けても言えない秘密の核心なのだが……
だとすれば―――事前に誰かと練習しておかなければならないのだろうが……
でもそうなれば結局それは秘密を共有している者でなければならないわけで……
《そんな人って……デュール以外だと……ハルムートさんとか?》
彼はメルフロウの忠実な従者で、ほとんど育ての親と言っていい人だ。すなわち彼女の父親くらいの年代だし、しかもメルフロウの教育一筋で結婚もしていない。
だとしたら―――女の子の扱い方とかを知っているのだろうか?
あのおじさんが『私も初めてなんだ。痛かったらすまないね』なんて言ったりして……
「あう~!」
ティアは自分の想像で果ててしまった。
一体何を考えているのだ?
彼女は目を閉じて湯の中に沈み込んで、しばらくそうしてぶくぶくと泡を吐いてみる。
だんだん息が苦しくなってきて、やがてぷはっと顔を出して息を吸う。
それからゆっくり目を開ける。
だが今回は目の前に大きなおっぱいがあったりはしなかった。
《てか、何考えてるのよ!》
何か今日はいつもにもましてブルーな気分だ。
《くそ。こうなったらもうちょっと飲んでやるか》
ティアは立ち上がるとざぶざぶ湯の中を歩き、入り口のトンネルを抜けて脱衣場に戻る。
片隅のクローゼットには乾いたふかふかのタオルや着替えがきっちりとしまってある。
彼女は体の水滴を拭き取ると黒のナイトガウンに着替えてリビングに戻り、部屋の片隅にあるキッチンの冷蔵庫を開けた。中には冷えたワインが入っている。
いつもながらルウさんに手抜かりはない。
彼女はここの管理をしてくれている女性で、前述のハルムートの妹だ。
彼と同じくメルフロウの親代わりといってもいい人だ。すなわち絶対的な信頼が置ける数少ない一人である。
ティアは手酌でワインをグラスに注ぐときゅっと飲み干した。
《おいしい……》
ワインの銘柄には詳しくないがシルヴェスト産の高級品なのは確かだ。
こんな物を一人で飲むなんて―――この際ルウさんを呼んでこようか? こんなときは良くフロウ坊ちゃまやパミーナさんの話で盛り上がった物だが……
ルウさんは普段は無口なのだが、ちょっとお酒が入ると結構饒舌になるのだ。
そう思ってティアは首を振った。
今何時だと思っているのだ? いくら何でもこんな時間に叩き起こすわけにはいかない。また明日にしよう……
パミーナさんといえば、あれもなかなか傑作というか、大変だった。
彼女はメルファラ大皇后と比較的背格好が似ていた関係で、いろんな儀式とかで影武者をやっていたのだ。
そんなことをやれと言われたら真剣にびびってしまうのが普通なのだが……
《すっごく度胸据わってたわよね……彼女……》
などということを漠然と考えながらグラスを空けていると、やがて何だかほわーんとしてくる。
《うむ。これって酔っぱらってるって言うのよね?》
彼女だって成長はするのだ。酔って皇太子を酒場のステージに引きずり上げるような真似はもうしないのだ。
ともかく今はこれからのことだ。過去に生きていたってしょうがないのだ。
だったらどうするか?
妾妃の話は確かに悪くない。何よりもこれからもずっとファラやデュールと一緒にいられることが保証されるわけだし、それについては望んだり叶ったりだ!
だが―――都中を敵に回す元気はあるだろうか?
そう思ってティアはため息をついた。
今度はガラスの破片入りの手紙程度では済まないかもしれない。
それだけでなくファラやデュールにまで迷惑がかかるかもしれないのだ。彼女のせいで二人の立場が悪くなったりしたら……
「それはいやよ!」
その一点だけは明確だった。
だとしたら……
だとしたら……
だとしたら、この際ずっと前から温めていたあの計画を本気で実行してみようか?
計画とは、各地を回って若い才能を集める事だ。
例えば今日来たデルビスとパライナだって、元はラーヴルというところの酒場で歌っていたらしいが、それを半月亭のマスターが見つけて来たおかげで今がある。
だとしたら色々なところにもっと別な才能が埋もれていたりしないだろうか?
あれからティアはルナ・プレーナ劇場に入り浸った生活になっている―――まあそうするしかなかったのであるが―――おかげで歌や踊りの鑑識眼はちょっとした物なのだ。
とはいっても―――そうすると今度は都にファラを一人置いていくことになってしまう。
今では彼女の個人的に親しい友人というのはティアだけだと言って良い。
彼女がここに遊びに来るときは本当に楽しそうだ。彼女が普段かなり緊張して暮らしているのは間違いないわけで……
「くそっ! バカ兄貴が。なんで逃げちゃうのよ! あんたがいればあたしが出かけることだってできるのにさっ!」
「いや、だから……」
「やかまし! 大体あんたは結婚しろとか言われなかったでしょ?」
「いや、そうだけど……」
フィンは黙り込んだ。
実際、そう誹られても言い訳できないのだ。
フィンにはあの後、大皇の側近に取り上げようという話があったのだ。もちろんそれは彼の家にとって見れば大出世以外の何物でもない。もちろんそれなりのやっかみは受けるかもしれないが、仕事だと割り切ってしまえばいいのだ。
だがそうすると彼は必然的に大皇や大皇后の身近にいることになってしまうわけで……
エルセティアはフィンのそんな思いにはお構いなしに話し続ける。
くそー。マジどうしてくれよう?
ティアは段々腹が立ってきた。
見ると東の方から下弦の月が昇ってきている。
《うわ、もうこんな時間?》
それは彼女の理不尽な怒りの炎にさらに油を注いだ。
《何で月なんか昇るのよ! ミュージアーナ様もディアナなんて完膚無きまでに叩きつぶして、朝なんて来なくすればよかったのにっ!》
彼女はむしゃくしゃしながらテラスに出た。
庭の篝火はいくつかを残して消えており、その分夜空の満点の星が殊に美しい。
ティアはそのままテラスのベンチに座り込んでワインをすすりながら星を眺めた。
こうして見ているとこの広い星空の下、彼女一人しかいないようだ。
冷たい風がさっと吹き抜けた。
「うう……寒っ!」
夜はしんしんと更けわたりかなり冷えてもきている。それにナイトガウンの下は何も着ていないし……
ティアはここにいても埒があかないので、そろそろ寝ることにした。
別に明日仕事があるわけではない。昼過ぎまで寝ていたところで誰も文句を言わないだろう。
昔はそんな生活に憧れた物だが―――本当にそうなってしまうと一ヶ月で飽きてしまうが……
「ま、いいや。ともかく……」
彼女は体を起こして部屋に戻ろうとしたのだが、ふと気づいて目を凝らした。
《ん?》
なんだか星が動いているような気がするのだが……
「あん?」
ティアはその方を凝視する。確かに―――遠くの方から星が動いて来る。
??
彼女は目をこすった。飲み過ぎたのだろうか?
その可能性はあるが―――でもワインのボトルは三分の一くらいしか減っていない。この程度でそんなに酔っぱらいはしないはずだし、それに本当に飲み過ぎたときはいつも視界がぐるぐる回って目の焦点が合わなくなる物だが、今はその星以外はちゃんと見えている。
《へ?》
ティアは呆然とその星を見つめた。
やがて星はどんどん大きくなっていって―――大きくなって⁉
近づいてくるとそれは星ではなく、大きな羽の生えた銀色の乗り物だと言うことが分かった。
「え? 何? あれ……」
それはもちろん飛空機であったが、ティアはメイと違って乗り物などに興味はなかったのでそれが何か全く分からなかった。
呆然としているティアの上空で飛空機は停止すると、羽がするっと縮み、次いで彼女の前にすうっと降下して地上五〇センチほどの高さでぴたりと止まった。
機体からは低いブーンという唸りが聞こえている。
《………………》
ティアがどう反応するべきか悩んでいると、いきなり機体の横腹に入り口が開いて中から男が降りてきたのだ。
暗くて今ひとつよく分からなかったが、ともかくがっちりした体つきで何だか妙な服を着ているようにも思うが―――少なくとも頭はぼさぼさで振る舞いもあまり貴族然としているとはいえない。
降り立った男はぶっきらぼうに彼女に尋ねた。
「ジアーナか?」
「は?」
「だから、ジアーナか?」
思わずティアは答える。
「ここはジアーナ屋敷だけど?」
「黒い衣装。じゃあジアーナか?」
「は? あんた誰よ?」
「迎えに来た」
そう言って男はつかつかと歩み寄ってきた。
ここまで来た時点で、やっとティアも安穏な生活をしすぎて危機意識が少々欠如していたことに気がついた。
もしかしてこれって明らかに異常な事態ではなかろうか?
「ちょっと……やめてよ!」
彼女は二歩ほど後ずさると振り返って逃げだそうとした。思いっきり叫べば警備員が聞いてくれるに違いない。そう思って大きく息を吸ったのだが―――しかし相手の方が速かった。
その前にいきなり後ろから顔にタオルのような物を押しつけられ、何か妙な臭いがして―――それから急に気が遠くなっていった。