第3章 悪霊屋敷
「チャージ?」
「そうなのよ。いきなりそんなこと言われたって分かるはずないでしょ?」
「ん、まあ……」
何だっけ? どっかで聞いたことがあるような気がしないでもないが……
「そしたらねえ、メイちゃんが教えてくれたの。飛空機? ってあの子言ってたけど、スライダね、あれ飛ばすのに、何かきらきらしたコインみたいな物を入れるんだって。それをチャージって言って、飛空機の食べ物みたいな物なんだって」
「メイが?」
フィンはちょっと驚いた。
彼にとってのメイは、相変わらずハビタルに行ったときに同行した厨房の少女だった。
セロの一件の後、彼女がエルミーラ王女の秘書官に抜擢されたためにそれなりに顔は合わせていたが、仕事が忙しかったりアウラとの視察旅行が始まったりして、彼女のことを気にしている余裕なんて一切なかったというのもあるが……
《そんなことまで知ってるなんて……どういう娘なんだ?》
あのときには彼女のやたら詳しい馬車に関する知識が役に立ったのは確かだが……
「そうなのよ。銀の塔の地下に壊れた飛空機があって、ニフレディル様に見せてもらったんだって。そこのはチャージを入れても飛ばないそうなんだけど……でも何? あの子、すごいわねえ。変なこと一杯知ってるし、ニフレディル様とタメ口聞いてるし、お料理までプロ級だし。エルミーラ様っていいわね。あんな秘書がついてて。あたしも一人欲しいな」
フィンは『いや、秘書ってのはエルミーラ様みたいに忙しい方に必要な物であって、お前みたいな食っちゃ寝してるだけの奴には不要だ!』と全力で突っ込みたかったのだが、心を鬼にして顔に笑顔を浮かべると言った。
「で、それでオアシスから帰れなくなったってわけだ」
「それなのよ! それでね……」
エルセティアは話を続けた。
ティアとイルドはすごすごと家に引き返した。
今までの人生、がっかりしたことは多々あるが、多分これはあの夏の日、いくら待ってもフロウが来なかったときに匹敵するがっかり具合だ。
「………………」
そういうときにはもはや言葉も出てこない。
あのときもそうだったが、現れないフロウを待ちながら、涙が出てきたのはずいぶん後のことだ。
《これって……もしかして、帰れないってこと?》
何だかとんでもないことのようなのだが―――さっぱり実感がわかない。
というより、今ここにいるということ自体がまず夢のような話なのだ。
夢の中で更に夢を見て実感しろと言われても、それは無理な話だ。
「んー……残念だったな」
だがイルドは相変わらず無神経だった。
ティアは無言でじろっとイルドを睨む。
その様子を見てさすがに彼女が本気で怒っていることを察したようだ。
「んー……すまん。こんなことになるとは思ってなくて」
再びティアはぎろっとイルドを睨む。当たり前だ。知っててやったとか言ったらここで殺す。
「んー……だからさ、こうなっちゃ仕方ないから、ここで暮らせ」
………………
「あ?」
さすがにそれを聞いてティアも思わず声を挙げていた。
「ほら、ここだってそんなに悪いところじゃないし。お前だって結構喜んでたじゃないか。もし寂しいって言うんなら、俺が暖っためてやってもいいぞ」
………………
ティアは本気でずっこけそうになった。
《こ・の・男は……》
こういうタイミングでそういうことを言うか、普通?
ティアは最大限の屈辱を込めて吐き捨てるように言った。
「結構よ! どうせ体目当てでしょうが!」
だがイルドは全く堪えた様子もなく、即座に答えた。
「いや、それはない。こっちにももっといい体の娘は一杯いるからな」
………………
…………
……
「はあ?」
なんだって?
この馬鹿は今何と言ったか?
目の前が真っ白というのはこういうことを言うのだろう。
それから今度はいきなり顔が熱くなってくる。
ティアは立ち止まるとまじまじとイルドの顔を見つめた。
そして忘れ掛かっていた一つの事実を思い出した。
そうなのだ。
昨夜ジアーナ屋敷で風呂に入った後、確かナイトガウンを羽織っただけの格好でだらだらしていたが、えっと、着替えたのはいつだったか? 少なくとも目覚めたときにはさらっとした寝間着みたいな物を着ていて……
ということは?
「見たの?」
「ああ?」
「あたしの裸、見たの?」
イルドはあっさりとうなずいた。
「ああ? じっくりと……ごあっ!」
次の瞬間イルドの顔面には、ティア渾身の正拳が叩き込まれていた。
イルドは不意を突かれて尻餅をついた。
「この、ド変態っ!」
ティアの髪は逆立ち、怒りのオーラが渦巻いていた。
「ひがうって」
イルドは鼻を押さえながら言う。
「やかましいわ!」
ティアが今度は顔面に渾身の蹴りを入れようとするのをイルドはぎりぎりで避けた。
「ひがうって。じっくり見ようとひたらアラーニャに追ひ出されたから、見てないって」
「やっぱ見ようとしたんだろうがっ!」
こいつ殺す! 絶対殺すっ!
そのときだった。
「イルド! ティア様!」
振り返るとそこにいたのはアラーニャだ。
「止めないで。もうこいつ殺すんだから!」
くそっ! 人を殺すってのはどうやればいいのよ? 素手で殺す技術なんて知らないし。あ、そうだ。何か武器になるものよ。大きな石なんかがあったら……
だがアラーニャはいきなり二人の間に割ってはいると跪いた。
「すみません。すみません!」
そういって彼女は白い布の包みをティアに差し出した。
「何よ? それ?」
「ティア様が来られたときに着てらっしゃった物です。その、お洗濯して差し上げようと思って、でもこんな布地見たことなくて、普通に洗っていい物か分からなくて、それで横に置いておいたらそのままうっかり……ごめんなさい。ごめんなさい。さっき見つけて急いで来たんですが、ごめんなさい。これ忘れたから怒ってらっしゃるんでしょ?」
アラーニャは包みを差し出しながらぷるぷる震えている。
ティアの中から何か力が抜けていくのが分かった。
「そうじゃないから……」
「え? でも……」
「えっとティア?」
鼻血を押さえながらイルドが何か言おうとするが……
「やかましいわ! 帰るわよ」
「え? え?」
エルセティアはイルドを放ったまま、まごつくアラーニャの手を引っ張って家に向かった。
それからしばらくの時が経った。
その日ティアはアラーニャとキールと一緒に、久々にうきうきした気分で朝食を取っていた。
オアシスには秋が訪れている。
「アラーニャちゃん。これおかわり」
ティアはアラーニャに空になった椀を差し出す。
「はい」
アラーニャがお粥を注いでくれている間に、皿に盛ってあるカットされた梨を一つ取って口にほおばる。
《ん~っ! おいしい!》
梨というのは都にもあったが、こちらのは異常にみずみずしくてしゃきっとしていて、あちらの梨の十倍くらい美味しいのだ。
顔の緩んでいるティアを見てキールが言った。
「ティアさんって本当に美味しそうに食事されますね」
「だってアラーニャちゃんのお粥美味しいんだもん」
「そんな……」
アラーニャがちょっとはにかみながら粥の入った椀を差し出す。
こちらでも朝食はパンとスープが普通らしいのだが、ここのパンは焼きたての時こそ絶品だが、古くなると石のようになる。しかも屋敷が町からちょっと離れているから毎朝買いに行くのも大変だ―――ということで前々から朝はもっぱらお粥なのだという。
だがこれが病気の時に食べるようなものではなく、あっさりしたスープ味で肉や野菜や卵なども入っていて、寝起きのお腹にはぴったりなのだ。
《あっちで作ってもらってもいいかもね。うふふ……》
ジアーナ屋敷のモーニングは確かに究極と言うべきものだったが、一人でそんな上等な物を食べていると逆に何だか空しい気分になってくるのだ。贅沢と言われればそれまでだが……
これが実家だとテーブルの上にパンやらジャムやら何か色々入ったスクランブルエッグやらお茶のポットなどがどかんと置いてあって、みんなで適当にわいわい食べていたのだ。
そういう意味では三人いる今の方がまだ賑やかで楽しいが、でもジアーナ屋敷には時々ファラが遊びに来た。そんなときだけは本当にあそこの食事は世界最高になるのだが……
《ファラ……どうしてるかな? 心配してるわよね……》
下手をするともう二度と会えないかも……
いや、いかんいかん! そんなことを考えてたらまた鬱が入ってしまう。とりあえずそのことは脇に置いておこう。今日は待ちに待った日なのだから!
「で、お祭りっていつから始まるの?」
「午後からですから、もう少し時間はありますよ」
「うー……そうなんだ」
ティアがその日いつもよりうきうきしていたのは、今日がオアシスの収穫祭だったからだ。
オアシスというのは控えめに言ってド田舎だ―――控えめに言わなければもう、何でこんな所で人が生きていけるのか全く不明としか言いようのない地の果てだ。
国と言っても人口数千程度で、広さだって歩いて一時間くらいで一周できてしまうし、何よりも町の外は全部が砂の海なのだ。
めぼしい見所と言えば最初の日にイルドと一緒に見た物がほとんど全てだった。
確かに砂漠の日没は美しいが、毎日見ていればやはり見飽きてくるわけで……
それでも色々と初めのうちは細かい風俗習慣の違いなど、日々ちょっとした発見があって楽しめたものだが、馴染んでいくに連れてただ退屈な日常が続くようになっていく。
だから秋には大きな祭りがあると聞いて、ティアは指折り数えて待っていたのだ。
《どんなのかな~♪ 何か一杯人が集まってすごく賑やからしいけど……》
キールは田舎の町の普通の祭りですよ、などと言うが、それは地元出身で何度も見ているからそんな感想になるのだろう。でもティアにとっては今回が初めてだ。何事も初めてというのは新鮮なのだから……
「じゃあ午前中どうしてよっか……」
ティアは無意識のうちに手をさすりながらつぶやいた。
それを見てキールが言う。
「まだ痛みますか?」
「いや、それは全然。もう大丈夫なんだけど、つい癖になってて……」
おかげでまた少々嫌なことを思い出してしまった。ティアはキールにちょっと険のある口調で尋ねる。
「で、イルドはまた?」
「そうですね」
ティアの問いにキールは素っ気なく答える。
《あのやろ~!》
要するにあのバカ男は夕べもまたどこかの女の所にしけ込んでいるということだ。
別に誰がどこで何をしようとそりゃ勝手と言えば勝手だが―――あの暴言でぶち切れて奴の顔面に全力グーパンチをお見舞いしてやってから一週間、ティアは手が痛んで夜も寝られなかったのだ。
彼女は武闘派ではなかったから、グーで殴る場合に親指を握り込むべきではないことを知らなかったのは仕方がない。
だがそれならそれであの馬鹿も顔に青痣をこしらえたままになっているべきなのだ。
それなのにあいつは次の日には涼しい顔で現れやがって『いや、いいパンチだったがな。俺様には効かないぜ』とかなんとか―――いや、本当にひどかったらちょっとは謝ろうかという気もあったのだが、お陰で何の罪もない花瓶が一個可哀想なことになってしまって……
《うー……》
確かに結構な手応えがあって確実に仕留めたと思ったのだが―――実際あのときは結構な鼻血を吹き出していたようにも思うし―――でも結果としてはティア一人だけが痛い目を見たわけで、思い出したらまた何か本気でムカついてくる。
大体人がこんな“屋敷”で寂しくしている間に自分だけは何か楽しそうなことしやがって!―――じゃなくって、だから楽しませろとか言ったら、じゃあ肌で暖めてやるとかすぐ言い出すし、別にそういうことに興味がないわけではないが、まずそれ以前に彼女をさらってきた責任上、もう少し真面目にこっちの面倒を見るべきではないのか?
なのにそういったことはみんなキールとアラーニャに押しつけて……
そんなことを考えながらティアはキールをちらっと見た。
彼はイルドの兄ということなのだが―――二人はどうもものすごく仲が悪いらしく、彼らが同時に屋敷にいるのを見たことがないほどだ。
兄弟だけあって顔形だけは確かによく似ているが、その性格は全く別人だった。
キールの方は紳士的で礼儀正しく、しかもこんな田舎に住んでいる割には教養もある。
ただ何というか、恐ろしく気弱で煮え切らないところがある。そのせいで理不尽にもティアの世話を押しつけられたのだろうが―――ともかくあれ以来ティアの面倒を親身になって見てくれていたのは彼の方だった。
《てか、あんた達のせいじゃないんだから、もっとがつんと言えばいいのに!》
キールとアラーニャを見ているといつもそう思うのだが、彼らには彼らの事情があるのだろうし、そういったことにあまり口出しできる立場ではないし……
そのあたりに関してはかようにうやむやな状態だったのだが、少なくともこの二人がティアのことを親身になって世話してくれているのだけは確かだった。
おかげでこの何ヶ月かティアは少々退屈ではあっても生活に不自由はしていなかった。
《でもいつまでもここじゃねえ……》
彼らはオアシスの町からちょっと離れたところにある“屋敷”に住んでいた。
屋敷と言ってもオアシス基準で大きめの家ということで、都基準で言えば新婚夫婦にうってつけな感じの野原の中の可愛い一軒家と言った方が良い。
家はコの字型になっていて、部屋は全部で五つ、あと厨房や食堂だ。ちゃんとしたバスルームがないのは砂漠地帯だから仕方がない。
だが中庭に井戸があるので水浴びならできるし、夏の間はずっとあのオアシスの湖で泳いでいたのでそれほど困ってはいなかったが……
《でも冬にお風呂なしって、やっぱり寒いかなあ……》
砂漠というのは暑い所とばかり思っていたのだが、秋になった昨今は朝晩は手がかじかむくらいに冷えることもある。冬は雪こそ降らないが滅茶苦茶寒いらしい。
まあ寒いのには慣れているし、そのときはそのときだが……
ともかくそんな“屋敷”にティアとキールまたはイルド、それにアラーニャの四人きりなので全然狭くはなかった。ティアが増えてもまだ一部屋空いている。
ティアの生まれ育った屋敷も元々そんなに大きくはなかったし、あのル・ウーダ山荘は二階建てだったが一つの部屋はこれよりもうちょっと広いくらいだし、そういった意味での不平はない。
それに家の外には広大な野原が広がっていて季節ごとに花も変わる。
最近は青い花弁が五枚ある花が一面に咲いていて、ともかく綺麗なところなのだ―――というように、住めば都と自己暗示をかけようとしてみても、やはりオアシスが田舎だという事実は如何ともしがたかった。
そんなわけで彼女もそろそろ何かしなければと思い始めていたのだが……
《でも何かするって言ってもねえ……》
ここにずっと住むというのはさすがにちょっとあり得なかった。
曲がりなりにもティアはお姫様育ちだし、砂漠の生活は都のそれとは違いすぎている。
実際退屈しのぎにアラーニャの仕事を手伝ってみようかと思ったこともあったのだが、何から何までが都と違っていて手の出しようがなかったのだ。
だとすればどうにかして都に帰るしかないわけだが……
《歩くしか……ないのよね?》
スライダが使えない以上それしかないわけだが―――聞けば都は方向的には大体東に当たるらしいのだが、実際に行くためには一度砂漠を南下していく必要があるらしい。都との間にはマグナバリエという大山脈があって、まともにそれを超えられる場所はずっと南のロギスモスという峠越えの道しかないという。
そしてその山脈を超えると何とバシリカに着くのだそうだ。
バシリカといえばティアの母親の故郷で、両親が知り合った頃はまだウィルガ王国だったが今ではレイモン王国になっていて―――と、その場所は大体知っていたが、都を離れたことがなかったティアにとってはもう想像を絶する遠方としか言えない場所だった。
《まあ、ともかくそこまで行ければ何とかなるんだろうけど……》
バシリカからなら実際に彼女の両親がやってきたところだから、彼女だって何とかなるはずだ。
問題はそれ以前の所にあった。
《呪われたヴェーヌスベルグって……本当なのかしら?》
オアシスはかように都や中原の都市から離れた場所にあったが、それでもその気になれば旅行できない距離ではなかった。
それなのに何故この何十年も都に行った者がいなかったかというと、砂漠を南下する経路中の重要拠点が通れなくなってしまったからだという。
その拠点とはかつてはミエーレと呼ばれるオアシス町だったのだが、そこが“呪われた女達”に乗っ取られてしまったというのだ。
その呪いが具体的にどんなものかは今ひとつ定かではないのだが―――女達に食われてしまうのだとか、永遠の悦楽の中で夢を見ているのだとか色々な説があるが、少なくともそこを通過することができないのは確かなようで、調査に行った者は誰一人戻って来ず、南から定期的に来ていた隊商もぱたりと来るのを止めてしまった。
以来その町は“ヴェーヌスベルグ”と呼ばれるようになり、砂漠の南北は完全に分断されてしまったのだという。
希に南から人が来ることもあったが、それはヴェーヌスベルグを通らずに“不毛の砂漠”を運良く抜けて来られた者だった。
その砂漠を抜けようとすると、目印もなくすぐ道に迷ってしまう上に、更には“ヌルス・ノーメン”というもっと恐ろしい場所があるらしく―――これまた何なのか更によく分からないのだが―――ともかく話によればそこを見つけてしまったらそのままあちらの世界に連れて行かれてしまうらしい。
砂漠とはかように魑魅魍魎な世界なのだ―――などという話をキールとアラーニャから代わる代わる聞かされては、さすがにティアといえども砂漠越えを強行する気にはなれなかった。
というわけで何もすることの見つからぬままうだうだしている間に、ずるずると数ヶ月が経過していった。
《ま、ともかく今日は楽しまなきゃ!》
だめなことを思い悩んでいたって仕方ない。
そういうわけで今日は待ちに待った秋祭りの日なのだ。これを逃したら次の祭りは新年まで待たねばならない。
《なんだけど……》
食事が終わってアラーニャは全くいつも通りに後片付けの最中だし、キールも部屋の片隅で何か本を読んでいる。一度どんな本を読んでいるのか見せてもらったことがあるのだが、何かえらく昔の言葉で書かれた古本ばかりだった。
この何十年も外界と途絶されていたのだからある意味仕方のないことだったが、元々ティアは雨がざあざあ降っているとき以外はそもそも本を手に取ろうという気にもならない質で、当然そんなときでも難しい古典などは論外で、若い娘向けのロマンスとかそんな物しか読む気が起こらない。
更にまずいことにはこのオアシスでは雨が滅多に降らなかった。
そこで夏の間はずっとキールとアラーニャを引っ張り出してオアシスの湖で泳いでいたのだ。
キールならイルドと違って見張り役には最適だ。見るなよ? と言えばちゃんと見ないでいてくれる紳士なのだから……
「人がそんな地の果てで明日をも知れないってときに綺麗なメイド奴隷さんとむにゅむにゅしてるような人とは大違いよねっ!」
突っ込んでもないのに言われるのかよ……
「でもね。アラーニャちゃんってそれまであんまり泳いだことなかったんだって。だからあたしが泳ぎ方教えてあげたんだけど、すぐうまくなってね……」
フィンの脳裏にどうしようもない必然性を持って、砂漠の林の中の美しいオアシスの湖で娘達が戯れあっている光景が浮かんできたが……
《砂漠だし……ちゃんとした水着なんてないよな? 普通……》
だとしたら―――水に浸かったら透けて見えたり、ぽろっと取れてみたりとかいった事故が―――アロザールのオーラ・オヴァーレに海水浴に行ったときも色々と目の毒だっが、キールという男はそんな環境でただ見張り番をさせられたというのだろうか?
フィンはもう色々と諦めムードだったが、こいつにずっとつきあわされたというキールという男には深い同情心を抱いていた。
《確かさっきちらっと見た奴か?》
逆さ吊りにされて以来、食事も与えられずにこいつの長話を聞かされているせいで何か基本的な情報がいろいろ欠落しているわけだが―――そもそも何でアウラやエルミーラ様がここにいるのか? とか……
それはともかく……
「そんなところで泳いでて、他の町の人とか来なかったのか?」
こいつって見られたらまずかったんじゃなかったっけ?
「ううん。あんまり。みんな働いてるから平日には来ないのよ」
フィンは即座にアリとキリギリスの話を思い出したが、もちろんそんなことはおくびにも出さなかった。
「じゃ、キールにだって仕事があったんじゃないのか? 見張りなんてさせてて良かったのかよ?」
「それはしなくて良かったんだもん」
「どうして?」
「それがね……」
ティアは続きを話し出す。
それは最初ティアもちょっと気になっていたことだった。
どういう世界だって食うためには働かなければならない。それを免れられるというのは非常に限られた運のいい人間だけなのであって―――ティアのように。
その点についてだけ言えば彼らもまた運の良い方の一部だった。
だが彼らにもしそんなことを言えば間違いなく、あの温厚なアラーニャだって激怒したことだろう。
というのはキールとイルド、それにアラーニャの三名は“悪霊憑き”として今の屋敷に“隔離”されていたからなのだ。そのため彼らは町で働きたくとも働くことができず、食事や生活物資などは族長の館から差し入れてもらっていたのである。
その族長がなぜそんな親切なことをしていたかというと、キールとイルドがなんと彼女の―――このオアシスでは代々族長は女性が勤めることになっていたが―――息子だったりするからなのだ。
いわば非常に何というか言いにくいことだが、キールとイルドはこのオアシスの“王子様”なのだった。
《ってことは、一応形式上は王子様が輝く銀の鳥に乗ってあたしを迎えに来てくれたことになるんだけど……》
うーっぷ! 乙女の夢を土足で踏み壊すような真似は本当にやめて欲しいものだが。
―――それはともかく、キールもイルドもさすがにずっとこの状況に甘んじるつもりはなかった。イルドがあんな暴挙に出た理由というのも元をただせばそこにあったのだ。
最初にティアがやってきた日、キールがミュージアーナ姫に呪いを解いてもらいたかったと言っていたが、それは彼らにとって本当に心からの願いだったのだ。
《あいつも真剣だったんだろうけど……バカだけど……》
そのためティアがここに住む理由は意外に簡単に見つかった、というより“でっち上げる”ことができた。
彼女はあの日、記憶を失って町外れに倒れていたのをイルドが見つけたという設定になった。そしてそれ以前のことは何も覚えてないと言い張ると、なぜか彼女もその悪霊屋敷に住むことが許されたのだ。
というのは、この地方では悪霊憑きが砂漠に放り出されることは良くあって、すなわちそんな風にして現れた者はおおむね悪霊憑きなのである。
従ってそんな娘がキール達と一緒にいるのは当たり前で、既にアラーニャもいるし、一人増えたところでどうということもない―――という理屈らしいのだが……
『ちょっと! それってそのうち砂漠に放り出されるってことじゃないの?』
当然ながらティアはそんな説明をしたキールに食ってかかったのだが、キールはあっさりとこう答えた。
『まあ……でもそのときは僕たちも一緒ですから……だからその、できれば呪いを解いてほしくって……』
要するに一つ明らかなのは、キール、イルド、それにアラーニャが無事なうちは、ティアも無事だということだ。
だとすればあまり悩んでいても仕方がない。
イルドではないが、そのときはそのときとしか言いようがないわけで、それにもしかしたらその悪霊とやらの正体が分かれば、それこそ都だったら何とかなるかもしれないわけで……
そんなこんなでオアシスの町外れにある“悪霊屋敷”に悪霊憑きが一人増えたのである。
かくして不思議な新生活が始まったわけだが、それは何だか拍子抜けするくらいに平穏だった。
悪霊憑きと言うからには夜中に誰かがケタケタ笑ってみたり、首が一八〇度逆を向いたりとかいうことが起こるかと思ったのだが、そんなことは一切起こらない。
一体どんな悪霊とやらが憑いているのか尋ねてみても、三人ともそれについては答えてくれない。ただ普通に暮らしていれば特に危険はないらしかったが……
《だったら隔離なんてしなくてもいいじゃない……》
そうは思ってもこれはこの町の掟だ。何だか知らないが彼らが呪われていることが周知な以上、彼らは隔離されなければならないのだ。
というわけでティアは最初は町の人の方が恐ろしかった。
オアシスの人は悪霊憑きに対してどんな反応をするのだろうか? 見つけ次第石を投げつけられたりされないだろうか?
だがそんな露骨な迫害も起こらなかった。キールもイルドもアラーニャも、その気になれば普通に町の中を歩くことができた。町の人は彼らに対して何もしなかった―――もっと正確にはそこにはまるで誰もいないかのようにスルーしたのだ。
それはティアに対しても同じだった。
小さな町だ。悪霊屋敷に悪霊憑きの娘が増えたというニュースは一瞬で町中に広がっていた。
そして住人達は本当のところは興味津々のようで、ティアとアラーニャが一緒に町を歩いていると、そのときは誰一人こちらを見ようとしないのに、物陰からの視線だけはあちらこちらから感じ取れるのだ。
《こういうのって……露骨にいじめられるのよりも嫌かも……》
ティアも都にいたころは、特にメルフロウ皇太子との婚約発表がされた後など、色々と陰口を叩かれたり幾度かは露骨な意地悪をされたこともあった。
だが彼女の場合、そういった際にはやられたらやり返す! をモットーにしていたので―――残念なことに最後までやり返す前に止められてしまうことが普通だったが―――ともかくぶち切れてお風呂に入って夕食を食べて寝れば、まあ次の朝の目覚めはそこそこ爽やかにはなるものだ。
だがこういったあからさまな無視というのは―――こちらから因縁をつけるわけにはいかないし、単にストレスばかりが貯まっていく。
だがそのことについて文句を言っても、キールはちょっと肩をすくめるだけだし、アラーニャは寂しそうに笑うだけだし、イルドに至っては何をしたって文句を言われないのだからいいじゃないかとか言って、女の所に夜這いしまくっている。
『ちょっと、何よそれ! 何で呪われた男に襲いかかられようとしてるのに、その子、騒がないのよ?』
と尋ねたらキールは、イルドが族長の息子だからだと言うのだが―――その程度でOKになるようなら本当にそれって呪いなのだろうか?
まあともかくそんなこんなで、一体何が言いたかったかというと、キールもアラーニャも秋祭りに行くのはあまり乗り気ではないということだ。
《別にお祭りなんて、誰も他人のことなんて気にしてないのに……》
この点に関してはティアとイルドは意見が一致していた。
しかもこの秋祭りはみんなお面を被って繰り出す習慣があるらしい。だったらなおのこと分かりゃしないのに―――まあ確かに普段からの習慣はそうは覆せるものではないわけだが……
《それはそうとイルドは結局来ない気かしら?》
まあどうでもいいけど。
そのようなことを思い起こしながらティアは祭り用のお面を取り上げた。
祭りに行きたいというティアの願いに答えてキールがどこかから持ってきた物だが、凹んだ三日月型をしていて、顔の上半分だけが隠れるようになっている。表面には不思議な模様が一杯描かれていて、砂漠の精霊の顔なのだそうだ。
「そろそろ時間?」
「もうちょっと待ってください」
そういえばアラーニャはさっきから厨房に籠もって何かやっている。近づくとぷうんといい香りが漂ってきた。この香りは……
「何でクッキーなんて焼いてるの?」
「お返しです」
「は?」
「お祭りで何か頂いたらお返しにあげるんです」
「はあ……?」
何だかよく分からないが、まあそういったものなのだろう。
「食べていい?」
「いいですけど、ちょっとだけですよ」
ティアはアラーニャの焼いていたクッキーをつまむ。
「あ、おいしい!」
彼女が料理上手だというのは本当に幸運だ。
「全部食べないでくださいね」
「もちろんよ。あははは!」
最近はアラーニャにまでそんな釘を刺されてしまう。別に一回か二回つまみ食いでちょっとお腹いっぱいになってしまったことがあっただけなのに―――ぶつぶつ。
そんな話をしているとキールがやってきた。
「準備はいいですか?」
「ずっと前からOKよ!」
「アラーニャは?」
「はい。もう行けます」
「では行きましょうか」
「うん♪」
三人は屋敷を出た。
アラーニャは先ほどのクッキーが入っているバスケットを下げている。
こうやって見ると本当に普通の娘にしか見えないのだが―――呪われているとか憑かれているとか本当なのだろうか?
彼女はキールやイルドと違って普通の家の出なのだそうだが、憑き物のせいで砂漠に放り出される代わりにこうして二人の世話をするように言われたらしい。呪いが分かったのは結構小さい頃なので、両親の顔もあまり覚えていないという。
そんな話を聞いてついうっかり『じゃあ、彼らがいなかったら?』などと聞いてしまったことがあったのだが、アラーニャに『砂漠で乾いてたと思います』などとさらっと答えられてしまって返す言葉がなかったことを思い出すが……
まあそんなことを思い悩んでもきりがない。とりあえず今日のお祭りを楽しむのが先だ!
というのに―――ティアはキールに尋ねた。
「結局イルドは?」
キールはほとんど無表情に答える。
「さあ、分かりません」
こんなときくらい仲良くすればいいのに……
まあ、あんなのと子供の頃から一緒なのだから、怒りゲージが貯まりまくっていたって仕方がないが、でもこういうときは奴がいた方が賑やかなのは確かなのだ。でも個人的な関係にあまり立ち入ってもしょうがないし……
前を歩くキールの後ろ姿を見てティアは思った。
《いい人なんだけどなあ……》
正直彼にはちょっと悪いなと思っているのだ。
ああいうバカを弟に持ったというのは彼の責任ではないわけで、それなのにこの何ヶ月間か、ティアのわがままを一身に受け止めてくれたのは彼なのだ。
正直来た当初はティアも少々キレ気味だったので、ついアラーニャにまで色々と当たってしまったこともあるのだが、そんなときいつも彼女をかばって謝ってくれたのは彼だった。
《いや、本当に実際悪いのはあのバカなわけで……》
彼らこそが被害者以外の何者でもないのだ。
そういうわけですぐに二人にはなるべく優しく接することにして、その分イルドの場合は見つけ次第締め上げることにしたのだが―――だがあの男の場合、いくらそうしてみたところで全く堪えているように見えないところが更にムカつく。
《呪いってのがあいつの脳みそのことだったら、確かに無理だわ。それって》
かようにイルドに関わるといつも腹が立つのだが、奴は最近はそれを見越してか、ティアが特に機嫌のいいときに限って、しかもココメロや梨の籠を手にして現れるのだ。
《何て卑怯な奴!》
ココメロとは最初の日にアラーニャが出してきた中が真っ赤なメロンみたいな果物だが、都ではお目にかかれなかったこともあって、彼女の一番のお気に入りになっていたのは確かだが……
などと考えていると前を歩いていたキールが振り返って言った。
「そろそろ面を被りましょう」
一行はそろそろ町外れに着いていて、人通りもちらほら出てきている。
三人は持ってきたお面を被った。
「何か変な感じ!」
お面というのはおもしろい。
都でもよく仮装パーティーが開かれることがあって、そんなときにはティアもいろんな仮装をして行ったものだが、ちょっと布や木で作られたそんな被り物をつけるだけで自分が何だか全く別な存在になってしまったような気がするのだ。
「この砂漠の精霊って、いい精霊なの? 悪い精霊なの?」
お面だけ見たら悪霊にしか見えないが。
それを聞いてキールは一瞬戸惑ってから答えた。
「精霊にいいも悪いもありません。砂漠の中にいて、そこに踏み込んだ者をただ見守るんだそうです」
「見てるだけなの? 助けてくれないの?」
「はい」
「それってやっぱり悪い奴じゃないの? 困ってる人がいるなら、助けてあげるのが普通なんじゃないの?」
「はい?」
キールは驚いたような目でティアを見て、それから笑った。
「面白いことを言われる方ですね」
「ええ? そんな面白いかなあ?」
「いえ、彼女と同じだから」
そういってキールはアラーニャをちらっと見た。アラーニャの顔は半分お面で隠れていたが、明らかにちょっとはにかんでいる。
「アラーニャちゃんと?」
「彼女も言ったんですよ。同じことを……初めて会ったとき。まだ子供でしたが」
「なによそれ。じゃああたしの言うことが子供並みってこと?」
「そんなこと言ってませんって」
キールがちょっと慌てた様子で答える。
「分かってるって。アラーニャちゃんはいい子よね。で、どうするの? 今日は彼女を誘うの?」
それを聞いてキールがあからさまに赤くなる。
「何を言われるんですか!」
「ティア様!」
アラーニャもちょっと赤くなる。
実はこの秋祭り、収穫を祝うだけのお祭りではないらしいのだ。聞くところによると祭りの夜には若い男女の間の無礼講があるらしい。
もちろんティアがそれに参加するつもりはなかったが―――興味がないふりをするつもりもない。というより既に都にいた頃から、いい相手がいればいつだってOKみたいな状態だったのだが……
《こんなときは本当にフロウが男だったらって思っちゃうわよね……》
本当ならばあの晩がティアの初めての夜だったはずが―――何だかすごく違った運命の夜になってしまったわけで……
あれ以来結局ティアはいわゆる“いい男”に巡り会えていなかった。
いや、カロンデュールがダメだということは決してない。それどころか彼以上の男などいるはずがないが―――でもやはりファラのことが引っかかってしまうのだ。
特に最近は何だかデュールとファラの間がよそよそしくて、そんな中に割り込むような形になってしまうと……
《えーっと、じゃなくって! 今日はお祭りっ!》
だとしてもだ。
彼女だってまだ相手構わずというところまで追い詰められてはいないのだ。
だが後学のためにその無礼講とやらがどんな感じなのかを見ておくのも悪くないわけで、決して変なことや疚しいことをしようと思っているとかそういったわけではなくって―――などといったことを心の中でぶつぶつつぶやいているうちに、一行は町の目抜き通りに出た。
「うわあ……」
いつもは閑散としている町が人で一杯だ。
「なに? これいつもより多くない?」
「遊牧民達も集まりますからね」
「ああ、そうなんだ……ってことはあの人達も?」
ティアは四つ辻で大きなたき火を焚いている一団を指さした。そこで何だ? 羊の丸焼きを作っているようだが……
「いえ、あれは町人です。遊牧民は町の外側にテントを張ってますよ」
「へえ……」
三人はその一団の横にさしかかった。
一団は真っ昼間から酒を酌み交わしているようで、もう完全にできあがっている様子だ。
するとそこの男が一人立ち上がっていきなり串に刺した肉を差し出した。
「どうだよ?」
「え?」
ぽかんとしたティアにアラーニャがささやいた。
「頂きますか?」
「いいの?」
「もちろん」
それを聞いてアラーニャは串を三本受け取ると一本をティアに差し出した。
ティアはおっかなびっくりでその串を受け取る。アラーニャはキールにも一本渡すと、串をくれた男に対してバスケットのクッキーをひとつかみ渡した。
「気持ちですが、よろしく」
「おうよ!」
男はにこにこしながらクッキーを受け取る。すると子供達がわっとやってきてそれを取り合い始めた。
「へえ……」
お返しとはそういうことか。
一団から離れたところでティアはアラーニャに尋ねた。
「このお祭りじゃクッキーで食べ物が買えるの?」
「え? 買うというか、べつにクッキーじゃなくても。若い女の子は普通クッキーですけど」
それを聞いてキールが補足する。
「自分の家で作った物なら何でもいいんですよ」
「でもそれってちょっと不公平になったりしない?」
ティアは手に持った串を見つめながら言った。何だかこれだけでお腹いっぱいになりそうなのだが。
「別にお返しが欲しいから振る舞ってるんじゃないんですよ。むしろたくさん振る舞った方がいいんです。特に有力者なら。でも一方的にもらうだけだとそれこそ不公平なんで、ああいう風に気持ちを返すんです」
へえ。何だかちょっといい感じ。
一行が歩いていくと、四つ辻ごとにそんな集団がいてどこも宴会の真っ最中だ。
基本は真ん中にどかんと羊の丸焼きがあるが、その周囲にはソーセージみたいなものや、シチューみたいな物とか、果物の山とか、小さな饅頭のような物とか、椰子酒の樽とか、その他諸々、とにかく全てがクッキーで食べ放題なのだ。
《うわ! こんなことならアラーニャを手伝ってもっと一杯焼いてくれば良かったかしら?》
だがその必要はなかった。ティア達はすぐにお腹いっぱいになってしまったのだ。
《うわ! こんなことならもっと控えめに食べてれば良かったかも……》
祭りだけあって、ティアが普段見たことのないような食べ物がいっぱいあるのだ。
何かものすごくいいお祭りなのではないか? これって?
などとティアがいい気分になったときだった。
「うおぉぉ! ざけんなよ? ゴルァ!」
「やがましいわぁ!」
いきなり怒声が沸いたかと思うと、近くの椅子がひっくり返って男が往来に転がってきた。
「やりゃあがったな?」
立ち上がった男の―――額がぱっくり割れて血がどくどく噴き出しているのだが―――男は懐から変な形をしたショートソードを取り出してわめいた。
「ぶっころしたるがぁぁ!」
ティアは蒼くなった。
「ええっ?」
だがキールもアラーニャもちょっと驚いているだけだ。
「危ないですからそっちを回りましょう」
キールが冷静に誘導する。
「えっと……」
「まあ良くあることですから。死にはしないでしょう」
「そ、そうなの?」
いや、都だったらこれって絶対警備兵が駆けつけるよね?
やっぱり田舎の祭りだけあるかもしれない。
などといった喧噪の中、やがて一行は町外れの広場に来た。
「あ……ここって……」
ここはあの晩スライダに乗ろうとして果たせず、すごすごと引き返してきた場所だが―――今は広場の真ん中に特大の篝火が焚かれて、町人がたくさん集まっていた。
篝火の周りでは子供達が何か歌を歌っている。
「うわ、かわいい!」
子供達というのはいつ見ても可愛いものだ。
アラーニャも同様のようで、口元にちょっと笑みが浮かんでいる。
「何て歌ってるのかな?」
何か古い言葉を子供達が棒暗記で歌っているようなので、何がなにやらよく分からない。
「あれは始祖様の歌ですね」
キールが答える。
「始祖様?」
「はい。このオアシスを開いた始祖様と、永遠の女性の物語を歌った歌です」
「へえ? それどんなお話?」
「ただの昔話ですよ」
「いいから聞かせてよ」
「わかりました」
そう言ってキールは語り始めた。
―――今から何百年も何千年も昔のこと、その頃の砂漠地帯は本当に死の土地というべき不毛の地だった。人々が住むことができたのはマグナバリエ山脈の山麓部分だけで、砂漠地帯は重罪を犯した者が放逐される処刑の地でもあった。
その砂漠の中で一人、体中の水分を失いつつある中年の女がいた。
女は砂嵐にまかれ、方向を失い、食べ物も飲み物も尽きて砂の上に伏したまま、ただ死を待っていた。
そのときどこからか輝く鳥がやってきて女の側に着地した。
その鳥には不思議な女が乗っていた。
女の見かけはとても若く見えたのに、その眼差しには何百年も生きてきたかのような叡智が宿っていた。
女は倒れている中年女に尋ねた。
『どうしてあなたはこんな所で死を待っているのですか』
中年女は答えた。
『私は罪を犯し、故郷の村から放逐されたのです』
『一体どのような罪を?』
『子供を……盗んだのです』
『どうしてそのようなことを?』
中年女の目は涙をこぼそうとしたが、もうそれだけの水も残されてはいなかった。
『子供が……欲しかったから』
『あなたには夫がいなかったのですか?』
『いえ、いました。でも私には子が授かりませんでした。だから夫は私を捨てました』
それを聞いて謎の女の顔に深い悲しみが宿った。
『どれほどの時が経とうと、女の運命は変わらぬ物なのでしょうか……いいでしょう。お立ちなさい。ここで会ったのも何かの縁。あなたに未来を授けましょう』
中年女は抗弁した。
『立てとおっしゃりますが……私にはもうそのような力は残されておりません……』
だがそう言いながら女は自分の手足に再び力が戻ってきているのを感じた。
それから起き上がって両手を見ると、砂漠の風によって干からびかかったしなびた皮ではなく、まるでみずみずしい果物のようなつややかな肌になっているのに気がついた。
『ですがここには何もありません。生きていこうにも……』
たとえ若返ったとしてもこのような砂漠の真ん中ではすぐにまたその水は乾いてしまうに違いない。
だが謎の女はふっと微笑むと手を高く天にさしのべた。
途端に地響きと共に近くの岩の割れ目から水柱があがった。そして彼女達の目の前にみるみるうちに大きな湖ができ、その周囲にはにょきにょきと木が生い茂り、気がついたときには女は美しい林の中にたたずむ湖畔にいた。
だが女の心はまだ晴れなかった。
『ですが私の周りがオアシスとなっても、私の腹の中は石のように渇いたままなのです』
それを聞いて謎の女は微笑んだ。
『ならば夜まで待ちなさい。あなたはその渇きを癒すことができるでしょう』
女はいうとおりに夜まで待った。
するとその湖畔にまるで天使のように美しい男がやってきて、女と一夜を過ごしていったのだ。
次の日の朝、再び謎の女がやってきた。元中年女だった若い女は夢うつつに言った。
『あなたにはどう感謝してもしきれません。どうかお名前を教えてください。私だけでなく、子々孫々にまでその名を忘れぬよう言い伝えて行きたいと思うのです』
だがそれを聞いて謎の女は首を振った。
『それだけは教えるわけには参りません。でもどうしても知りたいというのであれば、ヌルス・ノーメンをお探しなさい』
そう言って謎の女は姿を消した。
女は月満ちて子供を産んだ。
やがてどこから話を聞いたのか、あちらこちらからそのオアシスに人が集まり始めた。
その女は初代の族長となって始祖様と呼ばれるようになった。
彼女は大きくなった子供達とオアシスの村を見て思った。
『やはり私は彼女にお返しをしなければなりません』
そして彼女は一人、ヌルス・ノーメンを探しに、砂漠の深奥に向かって旅だった。
彼女はあてどなく砂漠を彷徨い続け、そしてついにある日どこともしれない砂丘の間に小さなオアシスを発見した。
『ここはどこなのでしょうか?』
そのとき夢にまで見たあの声が聞こえた。
『ここまで来てしまったのですね?』
そこにはあのときの謎の女の姿があった。
始祖様はまた再び年老いていたが、謎の女はあのときと全く変わらぬ姿だった。
『はい。どうしてもあなたに私の感謝を伝えたいと思ったからです。どうか教えてください。あなたの名前を。それから聞いてください。私と、私の子供達からの感謝の言葉を』
それを聞いて謎の女の顔に一瞬喜びの光が宿ったが、やがてそれは深い悲しみに覆われていった。
『見てお分かりでしょうが、私は一見永遠の命を持っています。でもこれは私に課せられた呪いなのです。私は名を問われてしまったら答えなければなりません……そうしてその名を知ってしまった者達の魂を贄にして、再び長い時を生きねばならないのです。それではお聞きなさい。私の名前は……』
とても美しい名前を聞いたと思ったのだが、それが心に刻みつけられる前に始祖様の意識は薄れていった。
しばらくして彼女を心配して探しに来た子供達の手によって始祖様の遺骸は見つけられた。
彼女はかつてはオアシスだったらしい化石化した森の中に倒れていた。
その姿は彼女が姿を消してから長い間が経っていたにも関わらず、まるでたった今までそこで眠っていたかのようであった。
それ以来、砂漠をさまよってそんなオアシスを見つけたら、そこで名前を問うてはならないのだという―――
「えーっと……それってこういうこと? その女の人は、ご親切な方、お名前を教えてくださいって言われたら、相手を殺しちゃうってこと?」
「まあそういうことです。愚にも付かない昔話ですが」
「ううん。何だかすごく悲しいお話だなって思って」
「そうですか?」
「だってそうでしょ? いい人に親切なことをしたらその人を殺しちゃって、親切してもらってもお礼も言わないような奴だけが生き残るんでしょ? イルドみたいな。あたしだったらそもそもそんな親切しようなんて気にならなくなるもの。でもそれなのにその人、そうなることが分かってても困ってる人を見逃せなかったんでしょ? だから、えーっと……」
自分でも何を言っているかよく分からなくなってきたが、そこでキールが微笑みながら言った。
「ティアさんも意外にお優しいんですね」
「意外? 意外って言った? なによ! それ! あたしはいつだって優しいわよ!」
ティアはキールをぽかぽか叩く
「すみません。すみません」
「まあいっけど……」
そのとき向こうの方からどっと歓声が上がった。
「なに?」
「あ、来ますよ」
アラーニャが指さした。
「何が?」
ティアは彼女の指した方を見て、思わず息を呑んだ。
その方からスライダが地上二メートルくらいの所に浮かんですうっと動いてきたのだ。
《やばっ! もしかしてばれたりしてない? イルドが勝手に使ったこと……》
だがどうやらそれは杞憂のようだった。
スライダは上半分の屋根がなくなっていて、そこには着飾った中年の女性とまだ若い女の子が乗っている。
「ジーニー、ジーニー、エル、セクード、メアル! ジーニー、ジーニー、エル、セクード、メアル!」
女の子が良く通る声でそう叫ぶと、中年の女性が手にした金盥からぱっと水を撒いた。
その水にみんなが声を上げて群がっている。
「なに? あれ?」
「族長のエレオーネ様です。あの水を被るといいことが起こるんですよ」
「え? 本当?」
思わず人垣を分けていこうとするティアにアラーニャが言った。
「大丈夫ですよ。こちらにも来ますから」
果たせるかな、スライダはティア達の前にもやってきて、ティアも族長の水を少し受けることができた。
「どんないいことがあるのかな?」
わくわくしながらつぶやくティアにアラーニャが答える。
「縁結びとかですけど」
「げげ!」
ここで縁がありそうな奴って、キールかイルドしかいないわけだが……
「だから言い伝えですって」
「そうなんだ……それよりあのスライダってこれからどこに行くの?」
「え? 町を一周して戻ってきますが」
「それだけ?」
「はい」
と、いうことは―――どうやらばれるのはあと百年ぐらい大丈夫かもしれない。
よく分からない笑みを浮かべているティアを不思議そうな顔で見ながら、アラーニャが言った。
「そろそろ暗くなってきましたし、引き上げましょうか?」
「え? もう?」
一般的には祭りとはこれからが本番のような気がするのだが―――そのときだった。向こうからやってきた男の二人連れがティアとアラーニャの前にやってくるとなぜか深くお辞儀をしたのだ。
「は?」
だがアラーニャは軽くティアを制止すると、胸に手を当てて首を振る。男達は残念そうな身振りをすると、また別の娘の方に向かっていった。
「えっと……」
ティアが良くみると、あちらこちらで男女のペアができていて、みんないそいそとオアシスの林の方に向かっていくのが見える。
《あ! そっか!》
これが例の無礼講という奴だな? だとすれば―――しょうがない。さすがにみんなが何してるか林に覗きに行こうとは言えないわけで―――それに十分にお腹は一杯だし、昨日イルドが持ってきた梨がまだたくさん残っている。あれでみんなでお茶にしよう。
「それじゃ帰ろっか……って、キールは?」
それを聞いてアラーニャも驚いたようだ。
「あら? 先ほどまではそこにいたのに……どうしたんでしょう?」
ティアは辺りを見回したが、キールの姿はない。
「先帰っちゃったのかな?」
「ええ?」
とは言いつつキールがそういうことをする人間でないことはよく分かっている。
「どうしよう?」
「えーっと……」
アラーニャも頭を抱えている。
彼らは悪霊憑きという立場上、あまり人に声をかけるわけにはいかないのだが―――そのときだった。彼女達から少し離れたところでなにやら騒ぎが持ち上がったのだ。
「なに? あれ?」
広場の隅でかなり大きな一団が宴を繰り広げていたのだが、そこのテーブルの一つがひっくり返されている。
「まーた喧嘩?」
初めての時はびっくりしたものの、二回目になれば余裕も出てくる。だとしたら巻き込まれないように遠回りすればいいわけで―――だがそのときだ。アラーニャが両手を口に当ててつぶやいた。
「キール様!」
「あ?」
ティアも慌ててその方を見ると―――良く見慣れた後ろ姿の男が数名の男に取り囲まれているのが見える。
「ちょっと、どうしてキールが?」
イルドならともかく、彼がトラブルを起こすなんて考えられないのだが―――と言おうと思ったときにはもうアラーニャは駆けだしていった後だった。
「ちょっと!」
彼女が行ってどうなる? 怪我をするだけじゃ?
ティアも慌てて後を追うが……
「……のことについては謝る! 謝るから……」
「お前が謝ったって意味がないだろ! あいつはどうしたよ?」
「いや、今はだめなんだ。だから……」
「ふざけるな。メヒナを傷物にしやがって……」
そんな会話が聞こえてくるが―――キールがどうしたんだ? 傷物って、あのキールが?
「いいからもうやっちまえよ!」
「でも族長様が……」
「とっとと砂漠に放り出しときゃ良かったんだ」
周囲の男達が剣を抜いた。
これって―――これって相当やばい状況なんじゃ?
そのときだ。キールと男達の間にアラーニャが割ってはいる。
「申し訳ございません。申し訳ございません」
アラーニャはそう言って地面に額をこすりつけた。
「アラーニャ?」
キールが思わず声を上げる。それを聞いて男達に動揺が走った。
「アラーニャだと?」
「何だって?」
そんな声があたりに広がっていく。
そんな中にアラーニャの声が響き渡った。
「申し訳ございません。ここはどうかキール様をお許しください」
「そういうわけにはいかない!」
そう言ったのは正面にいた身なりの良い青年だ。
「よりによって兄上はメヒナに手を出したんだぞ! 絶対許す訳にはいかないっ!」
アラーニャは振り返るとキールの顔を見る。
「キール様……」
「いや……」
―――て、何? これ? 兄上? ってことはあの男はキールやイルドの弟ということか?
「そうだ。よりにもよって……」
「やっちまえ」
「砂漠に放り出せ!」
男達は酒が入っていることもあって、相手が悪霊憑きかどうかなど関係がなくなってきているようだ。
男達は抜き身の剣を構えてじりじりとキールとアラーニャににじり寄ってくる。
そのときだった。
「ひぃぃぃ!」
そんな叫び声と共にいきなり凄まじいつむじ風が巻き起こったかと思うと、あたりのテーブルの上に乗っていた皿やら食べ物やら食器やらが巻き上げられて宙を舞い始めたのだ。
《え?》
アラーニャとキールににじり寄ってきた男達はその風に飲み込まれて吹っ飛ばされた。
一瞬の出来事だった。
それが終わったときにはアラーニャとキールの周辺には同心円状に食べ物や食器やらの残骸がまき散らされていた。男達はその少し外側に倒れているが―――まあもぞもぞしているから命には別状はないようだが……
あたりはしんと静まりかえっている。
その中央でアラーニャが肩を震わせて―――泣いているようだ。
キールがアラーニャの肩を抱くとアラーニャはふらふらと立ち上がる。
「これって……」
小声で言ったつもりだったのだが、その静寂の中、ティアの声も周囲に聞こえてしまった。
人々の目がティアに突き刺さる。
それからあちらこちらでぼそぼそと「呪いだ!」「悪霊憑きだ!」といった声が上がる。
キールがティアの方を振り向いて、軽くうなずいた。
ティアもちょっとため息をつくとうなずき返して二人の側に駆け寄ると、反対側からアラーニャに肩を貸す。
もはや誰も彼らを見ようとはしなかった。
ティアとキールはぐったりとしたアラーニャを支えながら悪霊屋敷に戻っていった。