二人の王子様 第5章 初めての夜 Part2

第5章 初めての夜 Part2


 だが、砂漠の旅はいきなり難儀だった。

《ひえぇぇぇぇぇ!》

 ティアの目の前には大きな蜘蛛のような奴が這っている。

 狭いテントの中、アラーニャと二人きりだ。しかも彼女は昼間の疲れがたたってすやすやと眠り込んでいる。

 そんな彼女に向かってそいつがのそのそと近づいていこうとしているのだ。

《どどどどどどど……どうしよう???》

 まるで体が痺れたように動かない。でも彼女を助けなければ!

 ティアは小さい頃からフィンと一緒に野山を駆け回って遊んできたこともあって、少々の虫程度ならどうにでも始末する自信があった。

 蜘蛛だってその辺に巣を張っている黄金色の奴くらいなら大丈夫だし、そもそも陰険なお姫様連中に意地悪されたようなときには、主に蜘蛛とかカエルとかで逆襲していたくらいだ。

 だがこいつは……

《無理! 絶対無理!!》

 手のひらほどのサイズがあって、毛が生えていて、巨大な口? があって、お腹がぼてっとしていて、足が十本くらいあって―――確かこんな虫が集団で襲ってきて人間をばりばり食べると、骨しか残らないと聞いたことがあるが……

《ふえぇぇぇ!》

 だがこのままではアラーニャが食べられてしまう!

 ティアはあらゆる勇気を振り絞ってそいつをフォークで突ついてみた。

 そいつはあまりそれが気に入らなかったと見えて、ぴくっとティアの方に向き直ると前足を二本振り上げる。

《&⇒§☆!!★○※←●◎◇◆□■△↑⇔∀!!!!》

 死ぬ! 食われる! もうこうなったら……

 ティアはずりずりと後ろに下がると叫んだ。

「キール! キール!」

 全力で叫んだつもりなのに、しゃがれた声しか出てこない。

 だが彼のテントはすぐ側だ。寝てなければ聞こえるだろうが……

 しかし反応はない。

「キール! キールったらキール!」

 やっぱり反応はない。

 ティアが振り返ると、そいつはまたのそのそとアラーニャの方に向かおうとしている。

 もはや悠長にキールを待っているわけにはいかない!

《こうなったら……》

 ティアは手近にあった小さなスコップを取り上げると、その蜘蛛のような奴めがけて振り下ろした。

 だが、それは空しくテントのシートを叩いただけだった。

 そいつはその気になったらサイズに似合わぬ速度で動けるようで、ティアの動作に気づくやいなやゴキブリ並の速度で飛び下がって、テントの中を滅茶苦茶に駆け回り始めたのだ。


「ぎゃあああああああああああああああああ!」


 実は蜘蛛のような奴の立場から言えば、いきなり巨大な怪物に襲いかかられてパニックになっていたのだが、もちろんティアにそんなことを思いやっている余裕はない。

 ティアが飛び下がった拍子にテントのポールにぶち当たって、テントが大きく揺れる。テントが潰れなかったのが幸いだ。

《ひいぃぃぃっ!》

 さすがにもうそいつをどうにかしようという気は起きない―――というか、腰が抜けて動けない。

 では一体どうすればいいのだ?

 そのときアラーニャがもぞもぞと動いた。

 蜘蛛のような奴は彼女の頭の近くで、何か怒っているように前足を上げ下ろししている。

《えぇぇ?》

 ということは―――彼女が目を覚ましたらあいつといきなりご対面?

 何かやばくないか? それって……


 ―――彼女がパニくってテントを吹っ飛ばしたりしたら……


《いやあぁぁぁぁ!》

 だがどうにかしようにもティアも腰が抜けてしまっている。

 そしてアラーニャが目を覚ました。

《ひぃぃぃぃぃ!》

 彼女は目を開けると―――ぽーっとした目つきでその蜘蛛のような奴をまじまじと凝視する。

《だだかからら……》

 それから彼女は起き上がると目をこすり……

《ややややめ、やめ……》

 ―――ひょいとそいつの背中をつまんで持ち上げると、テントの入り口まで膝歩きしていって、ぽいと外に放してやった。

 そいつは一目散に闇の中に逃げていった。

 ………………

 目を丸くしてその一部始終を見ていたティアに気づくと、アラーニャが寝ぼけた様子で言った。

「まだ寝てなかったんですか~?」

「いや、その、そいつが……」

「ああ~、カメラーニャですよ~。時々入ってくるんです~」

「ああ、そうなの……」

「いじめなければ、噛みませんから」

「ああ、そうなんだ……」

「噛まれたら痛いんですよ~」

「ああ、そうなんだ……」

「ティア様も夜更かしは体に毒ですよ~。おやすみください~」

 そう言うとアラーニャはまたことんと寝てしまった。

「ああ、おやすみ……」

 いや、だから、何というか、その―――田舎の娘は……

 そのときだ。がさがさっと音がしたかと思うと、テントの入り口からイルドが覗き込んだ。

「おい、どうしたよ?」

「遅いわよ! バカ!」

「ああ? 何が?」

「今、蜘蛛が出てて。おっきいの。カメラー何とか」

「ああ、あれか? で?」

「でって、アラーニャが逃がしたわよ!」

「なんだよ。もったいない」

「もったいない? 何が?」

「だってかっこいいじゃん」

 はああ? あれがかっこいいって? 男ってどうしてこう、いつも頭おかしいのよ?

「死ね!」

「ああ? 何だよ? いきなり。来てやったのに」

「うっさい! 大体どうしてあんたが来るのよ? あたし呼んだのキールでしょ?」

「別に一人のときにどっちだっていいだろ。で、用事はそれだけか?」

「それだけよ。いいからもう帰りなさいよ!」

「あんだよ。もう……」

 イルドはぶつぶつ言いながら帰って行った。

 一人になってティアは大きくため息をついた。

《この先……大丈夫なのかしら……》

 小さなトラブルはこうして何とか片がついたが、大局的には全く安心できない状況が続いている。

 彼女達が今いるのはどこともしれない砂漠のど真ん中だ。

 為さねばならないことはこの砂漠を抜けることだ。

 それは理屈の上ではとても簡単だ。ともかく南に向かって進んでいけばいいのだ。そうすればもう少し人の住みやすい地域に出て、そこからなら都への道も分かるはずなのだ。

 だが、その簡単なことがとても難しかった。

 ここは砂漠といっても砂だけでなく、所々に岩山があったりもするので、昼間ならある程度そういった物を目標に動くことも可能だ―――もちろん、その方向が正しければの話だが。

 しかしここの砂漠の砂はやたら細かいので、ちょっと風が吹いただけで巻き上がって何も見えなくなる。そんな中で移動して方向を間違えたら大変なので、結局視界がよくなるまでそこに留まらざるを得ない。

 すなわち空気が澄んでいる時間というのは極めて貴重で、そういうときには昼夜問わずに進んでいかなければならないのだ。

 今晩もそんな感じで空は晴れているのにどよっと曇った感じで、星は全然見えない。だからこうして寝ていられるのだが……

《都だといつも星は綺麗だったのに……》

 あちらでは晴れていれば間違いなく満天の星空だった。だがこちらではそういう日は結構珍しい。

 しかしそんな日に全方向が地平線の丘の頂に寝っ転がって空を眺めると、それはそれは壮観なのだが……

《ともかく寝なきゃ……》

 寝られるときに寝ておかなければ体力が持たない。

 だが今の騒ぎで目が冴えてしまった。

《うー……》

 こんな調子で寝不足になるからラクダのキャミーから落っこちかかったりするのだ。

 おまけに……

 ティアは横で寝息を立てているアラーニャを見つめる。

 昨日は本当に悪いことをした。彼女が今日くったりしているのはティアのせいもあるのだ。

《うー……ごめんね》

 この旅の間、正直色々と不自由なことが多い。食べ物といえばかちかちのパンや干し肉とドライフルーツのみで、水は超々々々貴重品だ。

 当然風呂になど入れる訳がなく肌はもうがさがさだ。おまけに昼夜なく行動しているとあれば文句の一つ二つは出て来るというものだ。

 ところがそれをアラーニャが一々真に受けてしまって、ティアが暑いとか喉が渇いたとか不平を言うたびに「お水はいりませんか?」とか言って持ってきてくれたのだが、それが彼女の分の水を分けてくれていたのだ。

 それでとうとう昨日、脱水症状を起こしてぶっ倒れてしまって大騒ぎになって、今日もまだ本調子ではないのである。

《でも……あたしが文句言うのって、あたしの個性じゃない!》

 長い間慣れ親しんだ習慣という物はそう簡単には変えられないのだ。

 大体今まで彼女の周囲には一言言ったらその何倍も言い返してくる奴や、そのときは黙って言いなりになるのだが、それを全部覚えていて後から「いいでしょ~? 前あれやってあげたんだから~」とか言い出す奴ばっかりで、わがまま収支を勘定したら絶対赤字なのだ―――リアン! エイマ! あんたらのことだぞ!

 ジアーナ屋敷でもルウさんはそういうところを結構分かってくれていて、おかげで彼女には文句をいろいろ言い放題で―――だから床で寝ていても放置されたりするのだが―――だがアラーニャは全くそういうことには慣れていなかった。

 そのためティアのわがままをいちいち全部かなえようとしてオーバーヒートしてしまうのだ。

《でもわがままって言えば、イルドがいたのに?》

 あのアホはティアなんて足下にも及ばないくらい唯我独尊の奴だが、アラーニャには好き勝手言ってなかったのだろうか? 屋敷ではほとんどキールだったからあまり気づかなかったが、確かにイルドのときもあまりアラーニャには無理難題は言ってなかったようだ。

 まあ結局何だかんだ言っても同一人物なのだ。実際二人とも彼女のためを思ってこんな危険な旅に同行しているような物なのだから……

 この旅は掛け値なしに命がけだ。

 要するにキール/イルドはそれだけアラーニャを大切にしているのは間違いない。

《でも、その割には三人とも……》

 彼らの互いの接し方を見ていると、何か妙によそよそしいというか、事務的な感じだ。

 アラーニャが彼らに甘えているような光景は見たことがないし、キールもちょっと彼女が気になる様子だが、それだけだ。

 イルドの方は明らかに彼女には女としての興味がないようだ。

 一度おもしろ半分に「よく同じ屋根の下で暮らしていて我慢できるわね」とかからかってみたら、結構真顔で「あいつは妹みたいなもんだ。そんなんに手を出すわけないだろ!」とか答えられて謝った記憶があるが―――あいつのケダモノ具合から言ったら妹だって全然安全じゃないと思うのだが―――しかも血がつながっているわけでもないし……

 彼らは小さい頃から一緒に暮らしているという。

 彼女がやってきたのは十年以上前の話で、その頃はキール/イルドが十歳、アラーニャが五歳くらいだったそうだ。

 そんな頃から一緒なら確かに兄妹みたいな感じになるのかもしれないが……

 ちなみにその頃の悪霊屋敷にはエーデルさんという女の人がいて、彼女が二人(三人?)の世話をしてくれていたのだが、数年前に事故で亡くなってしまい、アラーニャが屋敷の切り盛りをするようになったのはその後なのだそうだ。

 アラーニャが料理上手なのはそのエーデルさんから習ったのだという。

 何かエーデルさんが亡くなったのが彼らと関わっていたからだ、みたいな噂も流されたらしいが―――いや、こんな風にどうやってでも死ねそうな場所で、呪いも何もあったもんじゃないと思うが……

 アラーニャの規則正しい寝息だけが聞こえてくる。

 あたりは静かだ。

 ―――というか、静かすぎる。

 静かな夜というのを思い出すと、例えばこれがル・ウーダ山荘の夜だと木々のざわめきとか川のせせらぎとか虫や鳥の鳴き声とか、今思えばかなりうるさかった。

 だがここには周りに何もない。

 本当に何もないから音も聞こえてこないのだ。

 音がないことでこんなにも不安になるなんて―――これまで何度それでテントの外を覗いてみたことか。

 だがティアは外を覗く代わりに目を閉じた。

 視界が真っ暗になる。

 だがテントの外もこれと同じなのだ。そこには無限の漆黒が広がっている。まるで本当にあちらの世界との境界にいるように。

 孤立無援という言葉をこれほどよく理解できたのは初めてだ。

 今彼女の側にはアラーニャと、ちょっと離れたテントの中にキール/イルドの三人(二人?)しかいない。

 今の彼女の世界には彼らしかいない。

 テントが風で揺れてぎーっときしんだ。

 そんなことが、何だかちょっと嬉しかった。



 ―――などという生活がまるで朝方見た悪夢のようだ。

 ティアは美しい湖水のほとりでぼうっと考えた。

 空には満天の星が広がっている。

 爽やかな風がさわさわと木々の梢を揺らしている。

《本当にここって……地上よね?》

 何かうっかり間違えてもうあちらの世界に来てしまったのではないだろうか?

 ティアはちょっと手をつねってみた。

 痛い!

 これは―――あちらの世界でも手をつねったら痛いのだろうか?

 もはやあちらとかこちらとか、どうでもいい気分だ。

《出てから結局何日経ったんだっけ……》

 もはやそれも思い出せなくなっている。

 こんなことなら日記でもつけておけばよかったかとも思ったが、彼女はそんなまめな性格ではない。日数が三日より多いことが分かるだけだろう。

 ともかく彼らはその日、這々の体でその無人のオアシスにたどり着いていたのだ。

 そこはかなり小さかったがとても綺麗な場所だった。

 しかし、不毛の砂漠の最深部にある誰も知らないオアシスって……?

『ねえ、まさかここってあそこじゃないわよね……』

 伝説のヌルス・ノーメン―――到着したとき真っ先に思い出したのがその話だ。

 何か結構状況が符合しているのだが……

 それを聞いてイルドも―――昼間はおおむねこいつが出ている―――アラーニャも顔を見合わせる。

『そんなことは……』

 イルドがそう言いかけて、いきなりしゃがんで砂に文字を書き始める。

永遠の乙女を捜そうなんてしないでください

 そりゃそうだ。わざわざそんな危険を冒す必要はない。

 そんなわけでその日は何と水が飲み放題、マルム食べ放題、しかも水浴付きというティア人生最高の日となった。

 マルムというのはオレンジみたいな果物で、こういったオアシス周辺にはよく自生しているのだが、味があっさりしすぎているので今ひとつ好みではなかった。

 だが今日からはティアが食べた中で一番美味しかった果物になることだろう。

 そんなこんなで今日一日、彼女はここでだらだら水浴したり昼寝したりして過ごしていたせいで、夜には妙に目が冴えてしまっていたのだ。

 アラーニャはぐっすり眠っている。

 彼女もティアと同じような一日だったのだが、まだちょっと消耗気味なのだ。

 生まれついての習慣というのはあちらもなかなか直せない物で、ティアが何度も放って置いてくれていいからと釘を刺しても、どうしても彼女に気を遣って気苦労を溜め込んでしまうのだ。

 だからここで何日か休むというのはアラーニャのためにも良い考えだった。

 それはともかく眠れぬ夜、テントの中で悶々としていても仕方がないので、ティアは再度水浴をしに来ていた。

「はあ~……」

 喉の奥から思わず意味のない声が漏れてくる。

 冷たい水で体を清めた後、体がほかほかしてくるところをまた涼しい風に吹かれる―――この感動を言葉にすることなんて彼女にはちょっと無理だ。

 ともかくしばらくはこの幸せに浸っていたい、ただそれだけだ。

 再び風がさわさわ吹き抜けて、泉の水面にさざ波がたった。

 それにしても、本当にかわいらしいオアシスだ。差し渡しは二十メートルもないだろう。

 だがその底から冷たく澄んだ水がこんこんと湧き出して、池の一端から流れ出している。だがそこから流れ出した川は数百メートルも行かないうちにまた砂の中に染みこんでいってしまうのだ。

 何かものすごく無駄な気がするが―――でもそのために彼女はこうしてここにいられるのだし……

「ふう~……」

 正直、砂漠の旅はきつかった。

 一緒にいた四人(三人か?)の中では彼女は最も恵まれていたのだが―――キール/イルドもアラーニャも自分達だけでも精一杯のはずなのに、ティアのことを最大限気遣ってくれていた。なのに彼女は……

《お荷物……よね……?》

 世の中には真性のお姫様というのがいて、自分では何もせずに他人が気遣ってくれるのが当然と自他共に思っている人種がいる。

 主に都にそんな奴らがたくさん生息していて、ティアも最初はそんな身分に憧れていた物だが、何の拍子か本当にそんな夢が叶ってしまうとその生活は何だかひどく味気ない物だった。

《でも……何してあげられるんだろう?》

 都まで行けばいくらでもお返しできるのは間違いないが―――でも疲れた様子でぐっすりと眠っているアラーニャの寝顔を見ると、何かとても居たたまれない気持ちになってくる。

《こんなんだからダメなのよね……》

 お姫様というのはそもそもそんなことも考えないのだろう。

 だからともかく彼女達は都に戻らなければならないのだ。

 自分のためだけではなく、アラーニャやキール/イルドのためにも……

「でも……」

 そう思った途端にここまでの道程の辛さがまざまざと蘇ってくる。

 昼は暑いし夜は寒いし、喉は渇くしお腹は空くし、砂埃は目に入ってくるし口の中もざらざらしてくるし、体はきついし汚いし、テントにサソリやヘビやカメラーニャは入ってくるし、キャミーは可愛いけどあまり乗り心地は良くないし……

《うえ~……》

 あれをまた繰り返すというのか?

 考えるだにげんなりしてくる。特にこんな綺麗な場所に座っていたりすると……

《本当に夢じゃないのよね?》

 実はもう彼女達は砂漠の中で乾きかかっていて、最期の瞬間に見ている夢という可能性も大ありなのだが……

 ティアはちょっと手をつねってみた。

 痛い!

 これは―――とりあえず夢ではないということなのだろうか?

 何だかさっきも似たようなことをしたような気もするが、ともかくこれが現実だとすると……

《うー……動きたくない~》

 それからティアは思った。

 そうだ。ここでゆっくりしていて何がいけないのだろう?

 彼女は十分頑張ったのではないか?

 砂漠のきつい旅にも耐えてきたし、ひどい食事とか虫とかにも。大体そもそも彼女は拉致被害者なのであって、こんなことに付きあう義理はない訳で……

 いや、そういう問題なのだろうか?

 大体それって―――彼女とキール/イルドとアラーニャの三人だか四人でずっと暮らすっていう意味で、それこそあのバカだと『それじゃここで新しい一族の礎となろうぜ』とか言い出すに決まってるし……

 でもここに留まるって事は……

「やっぱないわよねえ。あははは」

 もういろいろと洒落になってない訳だが……

 でも―――やっぱりまたあの旅を続けるかと思うと、気が滅入ってくる……

 などというループを何周か回ったときだった。

 後ろの方の藪の中でがさがさっという音がした。

 このオアシスに大きな生き物は多分三体しかいないはずだ。

 そのうちの二体の居場所が分かっているとすれば……

「誰よ?」

「俺だ、俺」

 やっぱりこいつか。しかもイルドじゃないか! 夜はキールになってろって言ったのに。色々危険だから。

「いつからそこにいるのよ?」

「ちょっと前からな」

「何してたのよ?」

「いや、綺麗だったからつい見とれてな」

 何がだ!

「ああ、確かに綺麗な星空よねえ」

「何言ってるよ。お前のことだよ」

 ティアは吹き出しそうになった。ここまでこっぱずかしい事を言うか? 普通……

 だが、まあ綺麗と言われて悪い気分にはならないが……

「ああ、でちょっとそっち行っていいか?」

「は?」

 ティアは絶句した。

 ちょっと待て! こんな夜中に、彼女は水浴びの後で、下着姿で、ほら、色々と不都合があるだろうが! 常識で考えてみろ!

 だがイルドに常識はなかった。

 彼女が固まっている間にイルドはつかつかやってきて、彼女の肩に上着を掛けた。

「寒くね?」

「え? あ……」

 えーっと、えーっと……

「おまえってさ、泳ぐの好きだな」

「え? まあね。湖の側に別荘あったし」

「銀の湖って向こう岸が見えないって言うけど、本当なのか?」

「本当よ。縦に見たときだけど」

「縦?」

「東西に細長いのよ。だから都の方から見たら向こう岸が見えないの」

「へえ……そんなに水があるなんて信じられないな」

「海だともっといっぱいあるって言うし」

「見たことあるのか?」

「ないけど」

 えーっと、一体何の世間話をしているのだ?

「へえ~!」

 そこでイルドは考え始めた。どうやら見渡す限り水が広がっている光景を想像しようとしているらしいが……

「な、一緒に泳がねえか?」

 どうやらイメージが掴めなかったようだ。

 というか、砂漠の砂を水に置き換えてみたらいいような気がするのだが―――いや、少なくとも湖の平べったさと砂漠の平べったさでは受ける印象が全然違うのは確かだが……

 それはともかく……

「ご勝手に。あたし帰るから」

 そう言ってティアは立ち上がろうとした。

 だがその目の前にイルドが大きなマルムを差し出した。

「ええ? せっかく取ってきたのに」

 よく熟れていて甘い香りがしている。昼間アラーニャと二人で七つ半食べた記憶があるが―――出されるとまた食べたくなってくる。

「じゃ、ナイフ渡しなさいよ。泳いでる間に切っといてあげるから」

「俺一人で泳げってか?」

「当然じゃない」

「その間に全部食って帰る気だろ」

「誰が!」

 と言ってしまってティアは失言に気がついた。本当にそのつもりだったのに、これでそうしたら嘘つきになってしまうではないか。

《全部食べなきゃ嘘じゃないわよね。帰っても……》

 でもそれは勿体ないが……

 などという心の迷いがいけなかった。

「泳いだ後一緒に食おうぜ」

 そう言ってイルドがティアの手を引っ張った。

「え?」

 ティアは思わず引きずられて立ち上がっていた。途端にイルドがティアをお姫様スタイルで抱き上げる。

「こら! なにする気よ!」

「わはははは」

 イルドはそのままオアシスの泉に突進すると、ティアを水の中に放り込んだ。

「ぎゃあああ! 何するのよ! このバカ!」

「わはははは」

「こんの~!」

 ティアはイルドに水をぶっかける。

「うわ! 冷て! このやろ!」

 イルドも泉に入るとティアに水をぶっかける。

 それから二人はしばらく子供のような水のかけっこを繰り広げたあげく、疲れて岸辺に座り込んだ。

 二人とも全身濡れ鼠だ。さわっと風が吹き抜けると、思いの外肌寒い。

「どうすんのよ? びしょびしょじゃない」

「あ、あそこに着替えあるけど」

 イルドはそう言って藪の方を指さした。

「はあ?」

 そんな準備万端と言うことは、間違いなくこれは計画的な犯行だ!

 とは言いつつこのままでは風邪を引いてしまう。

「見るんじゃないわよ?」

「ああ」

 ティアが最初にイルドが潜んでいた藪の方に行くと、確かにそこには着替えとかタオルが用意してあった。

 着替えながらティアは考えた。

《これって……あいつ……その気よね?》

 何というか、下心丸見えというか、最初から何も隠していないというか、だとしたらどうすればいいのだろうか?

《このまま帰る?》

 彼女がその気なら簡単にそうできるだろう。だが―――アラーニャは寝ているし、一人でぼけっとしているのも寂しいのは確かだ。

 だが……

 気がついたらティアはタオルを手にしてイルドの所に戻っていた。

「お、切っといたぞ」

「ちょっと、あんたもびしょ濡れじゃない。風邪引くわよ」

 そう言って彼女はイルドにタオルを放り投げた。

「お、サンキュ」

《って、あたし何してるのかしら?》

「食えよ」

 そう言ってイルドは体を拭きながらティアに切り分けられたマルムを示した。

 まあ、食べ物は大切にしなければならない。

 ティアは横に座るとマルムのかけらを取り上げて口に含む。

 甘みは少なかったが、とにかく瑞々しく体に染み渡ってくる。

「ん~!」

「酸っぱかったか?」

「ううん。美味しい!」

「そっか」

 イルドはにこっと笑った。

《こいつ……》

 こいつのこういう笑顔は結構可愛いのだ。

 そう思うとちょっと顔が熱くなるのを感じた。

 可愛い?

 可愛いから何だって言うんだ? 子豚だって子ネズミだって可愛いだろうが!

《えっと……》

 一体何をしているのだろう? ここで……

 そのときイルドがぼそっと言った。

「お前に会えて本当に良かった」

 急に何を言い出すのだ?―――というか、おのれがさらってきたんだろうが!

 と突っ込まれる前にイルドは真顔で続けた。

「お前にああ言ってもらえて本当に嬉しかったんだぜ」

「ああ言ってって? 何を」

「俺たち両方が好きだってさ」

 今度は本格的に顔が熱くなった。

「何言ってるのよ。物のたとえでしょ?」

 えっと、これはたとえで良かったのか? えーっと……

「俺、色々女は知ってるけど、あんなこと言ってくれたのはお前だけでさ」

「………………」

 えっとこれは何だ? いわゆる一つの、口説かれているというのか?

「あんな風にぶん殴られたのも初めてだったぜ」

「あはは。そりゃ、よかったわね」

「でな、おれもお前を好きになっちまったみたいで」

《☆!◇◆&⇒§□!★○※↑■△!⇔∀!←●◎!!》

 えっと……

 えっと……

 えっと……

「ど、どういう脈絡があるのよ!!」

「なんか電気が走るっていうじゃないか」

「殴られて星がでただけでしょうが!」

 だがイルドは正面からティアを見据えた。

 逃げるなら最後のチャンスだが……

 イルドの手がティアの肩に掛かった。

 その手に段々力がこもっていって、気づいたらティアはイルドにぎゅっと抱きしめられている。

《げげっ!》

 えっと……

 えっと……

 それから顎を上げられると、ものすごく間近にイルドの顔がある。

 そして彼女の唇にイルドの唇が重なって……

 えっと……

 えっと……

 えっと―――何というのだろう。大人のキッスは一応体験済みだが、何かフロウのとは全然違っていて、フロウの唇はとっても柔らかかったが、こいつのは結構がさっとしていて、髭がこすれて痛いし……

 でも……

 でも―――何だか嫌じゃない。

 心臓がさっきから早鐘のように打っている。

《そうだ! 砂漠の旅に疲れてるからだ。絶対そうだ!》

 こ、こんな弱みにつけ込むなんて……

《でも……》

 イルドは人として色々と論外だが、いいところもあるのだ。

 何よりもこいつのいいところは正直なところだろう―――というか、騙すだけの頭もないというのが正解だが……

 だからこいつの言うことは本当なのだ。少なくとも今は……

 だが……

《そうよ。いつ気が変わるか知れたもんじゃないでしょ?》

 ティアはイルドを押して体を離す。

「ちょっと、その……」

「ん?」

「だからその……」

「うん」

「最初っからそのつもりだったんでしょう」

 あわわ! 一体何言ってるんだ?

 だがイルドはそれを聞いてちょっと赤くなった。

「え、まあ、な」

「何よ! 変態!」

「んなことないぜ。そうだったら最初にすっぽんぽんのときにやってるって」

 それってタダの強姦だろうが! って、ちょっと待て!

「何? 見てたの?」

「ああ。見てて綺麗だったから、いろいろ持ってきたんじゃないか」

 そう言ってイルドは食べ終わったマルムの皮を指さした。

「………………」

 再びティアは絶句する。

 するとイルドはティアの横に座ると後ろから手を回して―――彼女の胸をまさぐり始めたのだ。

《☆!◇◆&⇒§□!★○※↑■△!⇔∀!←●◎!!》

 えっと……

 えっと……

 えっと―――逃げようと思えば逃げられるが……

 だが……

 そのときイルドがティアの乳首をかるくつねると、彼女の背筋に電流のような物が走って、思わずびくんと身震いしていた。

「あうっ」

「可愛い声だな」

 ティアは再びイルドを押しのけた。

「ちょっと、その……」

「ん?」

「だからその……」

「うん」

「町の子にも一杯こんなことしてたんでしょう」

 だから何を言ってるのだ? あたしは!

「え? まあな……だから痛くしないぜ」

 いや、だからそういうわけじゃなくって……

「どうせその子達と一緒なんでしょ?」

 そうそう。こうだこうだ。ふ、どう出るよ?

 だがイルドは真顔で答えた。

「いや、お前は特別だが?」

「は?」

 えっと……

 えっと……

 えっと―――そうだ‼

「じゃあアラーニャちゃんはどうなの?」

 それを聞いたイルドの表情が一瞬変わった。

 イルドはうなずくと答えた。

「あいつも特別だ」

 それ見たことかとティアは言った。

「なんだ。やっぱり特別な人って一杯いるんじゃない」

 だがイルドは首を振ってきっぱりと答えた。

「いや、他にはいない」

「え?」

 普通なら信じられるかと言ってひっぱたいて立ち去るところだが……

「あれは、たった一人の肉親みたいなものだ。町の奴らからはハブられて、子供のときからずうーっと一緒だからな。だからあいつのためにはなんでもするさ。でもお前はまた別なんだよ」

「………………」

 こいつの最悪なところは―――バカで無神経だけど、正直だということだ。

 すなわちこんな風に人をだますような奴ではないわけで……

 そうなのだ。キール/イルドとアラーニャの間には、そういった別な深い絆があるのだ。理不尽な理由で呪われていると思われて、長い間村八分状態で置かれていたのだ。

 イルドがスライダを盗んでティアを拉致してきたのだって、その苦しみから何とか逃れようとしてのことなのだ。

 少なくとも今のティアは彼らのその心情だけは理解することができた。

《だ、だからって……人さらいは犯罪なんだからね!》

 だが心の中でそう唱えてみても、それはまるで空虚な言葉の連なりにしかならなかった。

「いいよな?」

「最初っから……そのつもりだったんでしょう」

「ん、まあ、な」

 再びイルドの手がティアの胸に伸びてくる。

「あ……」

 思わず声が出て来る。何だか頭がぽうっとなっていく。

「こうやってみるとお前の肌って綺麗だな」

「んな……な……」

 気づいたら胸は大きくはだけられていて、イルドが舌で乳房を愛撫し始めた。

《やば……なんか……変……》

 それからイルドの指がお腹から段々下の方に伸びていって……



「へっへー。その先はひ・み・つだよっ!」

 いや、話してもらわなくていいんだが。いろんな意味で困るし……

 というか、このガキはなんだ? 人があのチャイカさんの誘惑に耐えつつ、真の意味で命賭けでいろいろやってた間に、実際に乳繰りあってたのはおのれの方じゃないか! ここはマジ怒ってもいい状況じゃないのか⁉

 ―――とは思いつつも、そんなことを言っても疲れるだけで何もならないことは学習済みだったので、フィンは心を鬼にして平静を装った。

「ふーん。そりゃ残念だな」

「なによ~。気にならないの?」

 それにいくら相手が兄とはいえ、こういう事をあっけらかんと話すか? 普通……

 何か前にも増してぶっ壊れてる気がするんだが。こいつは……

「あのなあ、気になったって聞かないのが礼儀だろうがっ!」

「だってお姉ちゃんの話聞いちゃったから、あたしのも話してあげようかな~ってと思ったんだけど」

 何の? って、何だって?

「ちょっと待て。お姉ちゃんって、アウラか?」

「うん」

「じゃ、何か? あのときの話、聞いたのか?」

「うん。すごいね。あの胸の傷。びっくりしちゃった」

 いや、いや、えっと、あのアウラとの初めての時の話は―――そういやコルネに見られたりしたから、みんな知ってるんだったか……

「あはははは」

「まあ、聞きたくないんじゃしょうがないわねえ。でね、すごかったんだ。何か最初から……」

 って、話してるじゃないかよ! どうでもいいが……



「おまえ、初めてだったのか?」

 イルドがティアの頬を撫でながら言った。

「だからなによ」

「本当にお姫様だったんだな」

「最初っからそう言ってるでしょ?」

「痛くなかったか?」

「え? 最初だけちょっと。でも後は……」

 何か余りよく覚えていないが―――何だか体がふわふわしている感じだ。

「おまえ、いい女になるぜ」

「何よ! 今だっていい女でしょ」

「いやいや、俺から言わせればまだまだひよっこだから。これからもっともっと良くしてやるぜ」

「何言ってるのよ! どスケベが!」

 そう言って彼女はイルドの顔を拳骨で、軽く殴った。

「おいおい。都のお姫様って一々顔面にパンチ入れるのか?」

「入れるときは入れるのよっ」

 そんなティアにイルドがそっと毛布を掛けてくれる。

「何でそんなに準備万端なのよ」

「だって途中で尻が冷えるのはやだろ?」

「そうだけど……」

 なんかこう、勢いでこうなったんじゃなくて、何か計画的に言いなりになってされてしまった気がするのがかなり気に入らないが……

「それにさ、こう毛布にくるまってると、こうしたくなるし……」

 イルドはティアのかけている毛布を足下の方からめくり始める。

「ちょっと! やめてよ!」

 ティアは慌てて毛布を体に巻き付けるが……

「それにこうするのも……」

 イルドは毛布にくるまったティアを転がし始める。

「やめんか!」

 途端に思わず毛布がはだけて、ティアの上半身が露わになる。

 それをまたイルドがぎゅっと抱きしめた。

 イルドの唇がティアの唇に重なって―――今度は舌をからめ始める。

「ん、ん……」

 それからイルドの指が下の方に伸びていって……

「あたっ!」

 思わずティアは体を退いた。

「痛み出したか?」

「え? うん……」

 何かさっきは気にならなかったのに……

「そっか」

 イルドは今度はティアに優しくキスをする。

 それから彼女を再びぎゅっと抱きしめてささやいた。

「じゃ、また明日にしようか」

 それからイルドはティアの横にごろんと横になる。

「何、図々しいこと言ってるのよ!」

 とか言いつつ、何か少し期待している自分がいるのに気がついた。

《げ? なに? これって……》

 もしかして本当にこいつのことが好きになっちゃったんじゃ―――て、何か順序が逆じゃない?

《でも……》

 ティアもイルドの側に体を横たえると、イルドの体に手を回す。

 フロウとか後のファラとかと一緒に寝たことは数限りなくあるが、こんながっちりした男が横にいるっていうのは初めてだ。

 でも何だかこれって違った安心感がある。

 そんなことを思っているうちに、ティアはうとうとと夢の世界に入っていった。



 それからどれだけ経っただろうか。

 何だかあたりが明るくなっている。

 ティアはもぞもぞと毛布から顔を出した。

 木々の間から朝日が差し込んでいる。

《あー……えーっと……》

 何だったっけ? 何でこんな所で寝ているんだ?

 と思った次の瞬間、昨夜のことが思い出されてきた。

「え?」

 横を見ると―――裸のイルドが爆睡している! そして自分も―――服を着ていない!

《あ、あ、あ……》

 何かやってしまった! とうとうやってしまった!

 そりゃ確かにこんな所に一人連れてこられて、心が弱っていたというのはあるにしても……

《うわー! どうしよう?》

 イルドの野郎、つけあがるぞ? 絶対! ってか、昨夜既にそんな感じじゃなかったか?

 そんなことを思っていると、遠くから声が聞こえた。

「ティア様~っ! キール様~っ! イルド様~っ!」

 アラーニャの声だ。何かパニくっている様子だが……

 いや、そりゃそうだろう。目覚めたら一人ぼっちで周りに誰もいないのだから―――しまった。悪いことをした!

「アラーニャちゃん! こっちよ!」

「ティア様~っ!」

 アラーニャが駆けてくる音が聞こえた。

 それからティアは慌てた。

《って、この状況、どうしよう?》

 誰がどう見たってこれって二人がそういう関係になってしまったって思われるわけで……

 えっと……

 えっと……

 ティアが答えを見つける前に、がさがさっと藪を分けてアラーニャが出てきた。

「ティア様、あの……」

 そして彼女はそのままぴたっと固まってしまった。

「いや、あのね。ごめんね。一人にしちゃって……」

「………………」

「でもね、その、ちょっとほら……」

「………………」

 ティアは横で寝ていたイルドをがんと叩いた。

「こら、ちょっと起きなさいよ!」

「ん~?」

 この男はいざというときに役に立たないことおびただしい。

「でね……」

 そういって再びティアがアラーニャの方に向き直ったときだった。

 固まっていたアラーニャの目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ち始めたのだ。

《え?》

 アラーニャの涙は止まらない。

 それから彼女は―――いきなり背を向けると、そのまま駆け去ってしまった。