二人の王子様 第6章 名もなき庭園

第6章 名もなき庭園


《え? どうして?》

 ちょっと待ってよ! なによ? これは……

 駆け去って行くアラーニャの後ろ姿を呆然と見送りながらティアは思った。

 驚くのなら分かる。

 だが、なぜ泣く?

 女の子がこういう状況であんな反応をする理由と言えば、ほとんど一つしか考えられないが……

 だがキールもイルドも何もないと言ってるし、彼女本人だって二人の世話をしていると言うだけだし、夕べだってちゃんと妹みたいな物だって言ってたし―――っていうか、そうじゃなかったらあんな事させてないって! 絶対!

 でもあれはどう見たって、兄とその彼女の同衾シーンを見てしまった妹の反応とは到底思えないが……

 ティアは横にいるイルドを睨んだ。

「どうして逃げちゃったのよ?」

「どうしてって言われたって……」

 珍しくイルドがしどろもどろだ。

「アラーニャちゃんは妹みたいな物だって言ってたわよね?」

「ん……まあな」

「だったら、きゃーとか言って指の間から覗いてたりするのが普通でしょうが!」

「そうなのか?」

「そうよっ! あたしだったらそうするしっ!」

「へえ……」

「へえ、じゃないわよ! 何とぼけてるのよ! あれってあんたのこと好きなんじゃないの? 彼女」

「えー? あー……」

「まさか知らなかったとか?」

「いや、その……」

 イルドが珍しく口ごもっている。

 いつもならああ言えばこう言うという調子でのらくらごまかす奴なのに……

 するといきなりイルドの体がむくむくと動き出して、変身を始めた。

「あっ!」

 逃げたぞ! こいつ!

 イルドの場合こんな風に逃げられると始末に悪い。出てきたキールをぶん殴るわけにもいかないし。本当にふざけた奴だ!

「あの、ティアさん……」

「ともかくアラーニャちゃんを探しに行きましょ!」

「そうですね」

 このまま話していても仕方ない。二人はアラーニャの後を追った。

 追跡は簡単だった。オアシス内も地面は砂っぽいので足跡がはっきりついているからだ。

 アラーニャの足跡はオアシスの森の奥の方に向かっていた。

《でも見つけてどうするの?》

 こんな場合一体何と言ったらいいのだろう?

 謝るったって、一体何に?

 大体昨夜だってティアから誘ったわけではなく、かなり強引にイルドに奪われてしまったと言うべき状況なのだ。

 そりゃ、いつでも逃げられるのを逃げなかったというのはあるけれど―――でもだからって……

《えーっと……》

 大体そういうことなら最初っから言っておいてくれれば、昨夜だって絶対拒否していたし、こんな事は絶対起こらなかったわけで……

 でも結果として彼女は何だかすごく傷ついちゃってるわけで……

《えーっと……》

 ともかくそのときはそのときだ。まずは彼女を見つけないと……

 足跡を追いかけていくと、いきなりぽっかりと森が開けた。

「え?」

「おお?」

 ティアとキールは同時に目を見張った。

 そこには美しいお花畑が広がっていたのだ。

 いや、お花畑というよりこれは手入れされた花壇だ。

 その間に生えている木も綺麗に剪定されている。あちこちに大きな岩が転がっているようだが、よく見ると考えて配置された物のようだ。

 ジアーナ屋敷の庭石の配置とちょっと似ていて、でたらめのようで何か調和が取れている。

 広場の中央には―――六本の石柱が立っていて、その中央には噴水が上がっている!

「これって……?」

 ティアとキールは顔を見合わせる。

 どう見ても管理された庭園だ。

 ということは―――ここに誰かが住んでいるのだろうか?

 だが昨日からいるが、このオアシスには人の気配はまったくなかった。

 もし誰かが住んでいるのならあの池の周りには絶対踏み固められた小道ができているはずだ。あの周りは何周も回ったが、そんな形跡は全くなかったが……

「あ! あそこに」

 キールの指した方を見ると大きな岩があって、その側にアラーニャがしゃがみ込んでいる。

「アラーニャ!」

 キールが叫ぶ。

 アラーニャは振り返ると、また逃げだした。

「待って! アラーニャちゃん!」

「アラーニャ!」

 キールがそう叫んで全力で駆けだした。

「あ、ちょっと待ってよ!」

 さすがに男の足は速い。ティアはぐんぐん引き離されてしまったが、そのときアラーニャが後ろを振り返り―――迫ってくるキールに驚いたのか、あっと声をあげると何かにつまずいて転んでしまった。

「アラーニャ!」

 キールが駆け寄って彼女の肩に触れるが……

「いやあああぁぁぁぁ!」

 途端に周囲の物が浮かび上がったかと思うとアラーニャの周囲で渦を巻き始める。

 その“周囲の物”にはキールも含まれていて……

「うわああああ!」

 そのままキールは近くの立木に叩きつけられて、その木の大枝がぼっきりと折れた。

「ああっ!」

 ティアが思わず声を上げた瞬間、今度は飛んできた枯れ枝がティアの頭にもごつんと当たる。

「きゃん!」

 ティアは思わず尻餅をついた。

《えっと、えっと……》

 アラーニャのポルターガイストを見たのはあのとき以来だが―――いや、凄まじいなんてものじゃない。というか……

「キール?」

 何か木に叩きつけられた後、頭から地面に落っこちたように見えたが……

 ティアは立ち上がってキールの方に近寄ろうとしたが、同時にアラーニャも跳ね起きると彼の元に駆け寄った。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 キールがもそもそと動いた。ふう。どうやら死んではないらしいが……

《きゃああ! 血まみれじゃないの!》

 彼の頭からどくどくと血が吹き出しているように見えるし、それに腕も変な方に曲がってないか? あれってもしかして……

「キール様!」

 アラーニャが慌てた様子で介抱しようとするが、キールはそれを遮ってよろよろと近づいて来るティアの方を指さした。

「俺より……」

 それを見てアラーニャははっとした顔でティアの方を見る。

「ティア様!」

 アラーニャは更に真っ青になる。

 それから彼女は脱兎のごとくにティアの元に駆け寄ると、ハンカチを取り出してティアの額を押さえた。

「何よ……」

 といいながら、さっきからちょっとほっぺたが濡れているような気がしていたが―――見ると血が流れている! さっき当たった枯れ枝で切ったらしい。

「げっ!」

 アラーニャは泣き顔でティアの傷の手当てをしようとするが―――何か順序を間違えていないか?

 ティアは彼女からハンカチを奪い取ると言った。

「あたしは大したことないから、早くキールを」

「いえ、だめです。早く洗わないと、膿んだら大変ですから」

「だから自分でできるって。それよりキールが……」

 ところがそれに答えたのはキールだ。

「僕は大丈夫ですから」

「大丈夫って、一体どこがよ? 腕、折れてんじゃないの?」

「えっと、その、キール様は……」

「ん?」

 そのときだった。

 キールの体がむくむくと動き出して、イルドに変身していったのだ。

 その変身が終わった後は―――彼の腕は全く元通りで額の傷も塞がっている。

「え? ええええええ?」

「俺はこうだから。とっとと洗っとけよ」

 ………………

 ティアはアラーニャに引っ張られて噴水の所まで来る。

《えーっと、えーっと……》

 頭の傷は出血の割には大したことなかったようで、押さえているうちに血は止まったが……

「大丈夫か? おまえ」

 イルドが心配して寄ってくる。

「あんた、怪我しても変身したら治るの?」

「ああ。言ってなかったっけ? これだけは便利だぜ」

「聞いてないわよ!」

 ということは……

 ………………

 …………

 ……

「ちょっと‼ ふざけないでよ⁉」

 ティアはイルドに食ってかかった。

「なにがだよ?」

「あたしの手、ずっと痛かったのよ! なのにあんたはとっくに治ってたって訳?」

「何の話だよ?」

「最初の晩に一発お見舞いしたでしょうがっ!」

「ああ、あれな。痛かったぜ」

「でもすぐ治ったんでしょ?」

「ああ、まあな」

「ふざけないでよ! それって不公平じゃないのっ!」

「そんなこと言われたって……ほら、興奮すると傷口が開くぞ」

 うぬぬ……

 何て奴だ。結局あのせいで一週間くらい手が痛かったが、全くの骨折り損だったってことか?

「あの、ティア様、その……」

 横でアラーニャがおろおろした様子で言った。

 そうだ。今はそれどころではないのだ。

「えっと、アラーニャちゃん?」

 ティアが向き直ると、アラーニャはバネ仕掛けの人形のように謝り始める。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

「あのね……」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

「あの……」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

「ちょっと! あたしに話させてよ!」

「あああ、ごめんなさい」

 ティアはアラーニャを噴水脇に座らせると、今度はイルドを睨んだ。

「あんたもそこに座りなさいよ」

「ええ?」

「文句言うな! 今度は、逃げるんじゃないわよ?」

「うー……」

 イルドは渋々アラーニャの横に座った。

 ティアは二人の顔を交互に見ると、まずアラーニャに話しかけた。

「で、アラーニャちゃん、もしかしてイルドのことが好きだったんでしょ?」

 アラーニャはぴくっとして身を固くしたが、やがてこっくりとうなずいた。

 次いでティアはイルドを睨む。

「で、あんたはどうなのよ? それ知ってたの?」

「ん……まあな……」

「で、あんたはどうなのよ?」

「なにが?」

「彼女のこと、どう思ってるのよ?」

 イルドはそっぽを向いたが、やがてぼそっと答える。

「もちろん好きに決まってる」

 あ、あ、あ……

「じゃあ、なんでそんなひどいことができるのよ! 妹みたいなものだとか言ってたから、あたしだってOKしたのよっ! あんた、彼女の気持ち分かってるの? こんなことされたら誰だって泣いちゃうわよ!」

「あの、ティア様……」

「こめんね。アラーニャちゃん。あたしだって、こいつがちゃんと言ってたらあんなことしてなかったから。本当に妹みたいな物って思ってたから、だから……」

 それからイルドを再び睨むと続けた。

「で、さあ、どうなのよ! どうしてそんな嘘ついたのよ! 好きな子の目の前で良くあんなことできるわねえ! あんた、ケダモノ?」

「あの、ティア様……」

「いいの。アラーニャちゃんは。こいつのせいなんだから。かばうことなんかないって!」

 だがそれを聞いてアラーニャは大きく首を振った。

「いえ、違うんです。イルド様は悪くありません」

「え? でも……」

「あの、だから、本当は、その、私もイルド様と……でもそうしたらあれが起こっちゃって、それで何度も怪我されて……で……」

 え? なんだって?

「あれって……あれ?」

 ティアは頭の上でぐるぐる手を振り回した。アラーニャはうなずいた。

 それからティアは今度はイルドを見る。

「今のって、本当?」

 イルドはうなずいた。

 ってことは……

「えっとじゃあ何? あんた今まで何度も、その、彼女に何かしようとしたたびにポルターガイストでKOされてたってこと?」

「ん、まあな」

「すみません、すみません……」

 えっとこれって……

「じゃあ、キールは?」

「あいつに手を出すだけの度胸があるはずないだろ」

 まあ、確かに―――だとすると……

「じゃあ、その、本当は二人とももっと親密にしていたかったけど、あのせいでそうできなかったんで、何か、妹とか侍女とかってことにしてたって事?」

 二人はほぼ同時にうなずいた。

 ………………

 うーむ、これって―――確か専用の言葉があったはずだが……

「いわゆる、はりもぐらのじれんまってやつ?」

「ヤマアラシですか?」

「……いや、そうとも言うわね。あははは」

 なんでアラーニャちゃんにまで―――だいたい合ってるじゃないのっ!

 それはともかく、ということはやっぱり……

 ここに前々から好き合っていた二人の男女がいました。

 そこに都からお姫様がやって来て彼氏の方を奪い取ってしまいました。

 ってことなわけで……

 ………………

 …………

 ……

《それって……》

 ティアは青くなった。

 こちらに来てからずっとアラーニャは本当に親身に世話をしてくれていた。そのことに関しては感謝してもしきれない。

 それなのにその彼女に対して、事もあろうにあり得る中で一番ひどい仕打ちをしてしまったということなのだ。

 ………………

 …………

《でも……》

 彼女はまあ自分で言うのもなんだが、少々わがままなところはあるが、それでも他人の不幸を見て悦に入る趣味だけはない。

 さっきまでは結構幸せな余韻のある朝だったのが、もう全くそんなことを楽しむ気分にはなれない。

 こういった場合はとりあえず……

 ティアは横にいたイルドをごつんとかなり本気で殴った。

「痛てっ! なにすんだよ?」

「うるさいわね? 要するにあんたのせいよ!」

「なんでだよ?」

「何だろうといいのよ! こういった場合は男が悪いことになってるのよ! 都では!」

「ここは都じゃないだろう?」

「住めば都って言うでしょ」

「はあ?」

 さすがのイルドも呆然とするしかなかったようだ。

 後から考えたら、じゃあここに住もうとか言い出されたら困っていたと思うが、それはともかく……

「だからもうおしまいよ」

「なにが」

「夕べみたいな事よ。いや、こっちだって嫌だったんじゃないけど、それは本当よ。でももう無理。アラーニャちゃんのこと考えたら。だからおしまい。分かった?」

「おい……でもなあ……」

 ティアがじろっと見るとさすがのイルドも黙り込む。

 そこにアラーニャが口を挟んだ。

「あの、ティア様?」

「なに。本当にごめんね。もうこいつとはあんなことしないから」

「どもそれだとイルド様が……」

「あ?」

「その、お可哀相で……だからティア様がよろしければ……私は我慢しますから……」

「………………」

 ティアはアラーニャをまじまじと見つめた。

 何ていい子なんだ? この子は……

 ティアは思わずアラーニャをぎゅっと抱きしめていた。

「はうっ!」

 アラーニャが思わずおかしな声をあげる。

 ティアは彼女を抱きしめながら言った。

「あのねえ、そんな我慢なんてしなくていいのよ。あなたが」

「でもあたしじゃダメだから代わりに……」

 ティアは体を離すと、彼女を正面から見て首を振る。

「いや、それじゃ今度はこっちがだめなのよ。誰かの代わりなんてあたし嫌だし。それにアラーニャちゃんが我慢してるって分かって、楽しめるわけないでしょ?」

「………………」

 三人の間に重苦しい沈黙が流れる。

「あ、そうだ。ともかく都まで行けば、アラーニャちゃんは何とかなると思うのよ。そうすれば晴れてイルドとだって、その、できるんじゃない?」

「え? あ……」

 アラーニャの顔がぱっと明るくなって、次に真っ赤になる。

 あはは。なんて正直な子だ。でも、そうすると……

《あたしは?》

 夕べは結構勢いに呑まれていたが、それでも、その、何というか、結局の所、少々あれなんだが、ともかく―――イルドのことは嫌じゃなかった、というわけで……

《これって……もしかして、例のあれって奴?》

 いや、そういう可能性があるというだけなのだということだが、要するに、ちょっとだけ、恋、しちゃってるみたいな? あのバカに? まさかとは思うけど……

 だとしたら―――ティアは赤くなっているアラーニャを見つめた。

《この子が恋敵だって事?》

 いや、だから、夕べは結構勢いに呑まれていたが――(以下略)――で……

 ―――だとしたらここで潰しておくべきなのだろうか?

 今の彼女が圧倒的有利なのは間違いないわけで―――女の戦いに情けは無用だが……

 ………………

 …………

 って、そんなことできるわけないだろーっ!

「はあぁ……」

「どうしました?」

 アラーニャが無垢な瞳でティアを見つめる。

 汚れきったことを考えていたティアの魂はその純粋な輝きに打たれて打ちのめされた。

「え? いや、何でもないのよ。ちょっと考え事。ほら、だからその、何かダメじゃない方法があったりしないのかな? とか、あはは」

 一体何を言ってるのだ?

「ダメじゃない方法? ですか?」

「ええそう。だから、どんな風にだめだったのかな~? って」

 アラーニャはぽかんとしている。

「だから例えばこいつに触られたときだけど、ちょっと触られただけでもだめなのかな?」

「いえ、普通に触られても大丈夫ですが」

「じゃあ普通じゃないってのは」

 アラーニャはちょっと口ごもったが、赤くなりながら答えた。、

「あの、こういきなり、がっと後ろから……胸をぎゅっと……」

 ………………

 ティアはじとっとした目つきでイルドを眺める。

「マジ? 今の……」

「え? まあな」

 はあ―――ただの獣ではないか……

「ま、想像はつくけどね。あんたじゃ。もうちょっと優しくできなかったの?」

「いや後からはそうしてみたんだが、やっぱり胸を触ると決まって……」

 このバカはっ!

「当たり前でしょ。女の子の特別な所なんだから」

「でも他の女じゃ起こらないだろ? お前だってそうだし」

 ティアはまた夕べのことを思い出して顔が熱くなる。

「当たり前でしょうが! あたしに魔法なんて使えないんだから!」

「じゃどうしてアラーニャだとそうなる?」

「んなこと知らないわよ!」

「だが……こう揉んだら、ぐおーんってきたわけで……」

 イルドがおっぱいを揉む手つきで真顔で考えこむが―――まさに下手の考え休むに似たりだ。

「あのねえ、もしかしておっぱいが魔法のスイッチになってるとでも思ってる?」

 まったくこのバカは言うに事欠いて……

 するとアラーニャがぽかんとした顔で尋ねた。

「そんなことあるんでしょうか?」

 んなわけないって!

 ってか、彼女、話をちゃんと聞いてないね?

「だからね、おっぱいに詰まってるのは夢と希望なんで、魔法なんかが……」

 詰まってるわけがない! と、ティアは続けようとしたのだが……


「ええ?」

「なんだ?」


 途端にアラーニャとイルドの顔色が変わった。

《え? 何かまずいこと言った?》

 二人はあんぐりと口を開けてティアの背後を指さした。

 不思議に思ってティアも振り返ってその方を見ると……


《はえ?》


 ―――そちらからサイズが人間くらいもある四本足の奇妙な形をした怪物が何体もやってくるのが見えた。



「それってもしかして機甲馬か?」

 思わずフィンは問い返していた。

「ううん。エルミーラ様とかにも言われたんだけど、その“きこーば”ってのとはちょっと違うみたい。大きさが違うし、足の数も違うし……」

 確かに。フィン達がやっつけたあの機甲馬は足が六本だった。

「で、お兄ちゃんががお姉ちゃんと一緒にそれ、やっつけたんだって?」

 フィンは真っ赤になった。

「どうでもいいだろ!」

 あれは彼の人生最大の栄光であると同時に、汚点でもある訳で……

「ぷっ。見たかったなあ。みんなすっぽんぽんで、わらわらそのきこーば運んでるとこ」

「だからどうだっていいだろ! お前の見たそれってどんな奴だったんだよ?」

「ああ、色は何か黒っぽくて、てかてかしてて、一番上に目みたいな物が、全部の方向に付いてて、手……っていうのかな、そんなのも二本あったんだけど、なんかこう、ふにゃふにゃした感じで伸び縮みするの」

「はあ……?」

 なんだそりゃ?

「で、どうなったんだ? そいつらが襲ってきたのか?」

「ううん、それがね……」



「な、な、な、なに? あれ?」

「いや、知らん」

「イルド様、ティア様……」

 そいつらはついに彼らの前にやってきた。

 あまりのことに三人とも体がすくんで動けない。

《きゃあああ! 殺される!》

 ティアの頭の中にこれまでの人生がハイライトのように流れ始める。うわ! もうこれって死んでるんじゃ―――そう思った瞬間だ。

 変に古めかしい言葉でそいつらが喋った。


『庭園ヲ、修復シマス。危険ナノデオサガリクダサイ』


 は?

 三人が固まったまま動かないので、その怪物は再び言った。

『庭園ヲ、修復シマス。危険ナノデオサガリクダサイ』

 三人は顔を見合わせた。それから一斉にうなずく。

「はいぃぃ!」

「はいっ! すみません!」

「あ、ああ……」

 それから三人はそろそろと後ずさりして、十分に離れたとみるや、怪物達に背を向けて脱兎のごとく駆けだした。

 森の端まで全力で駆けた後振り返ってちょっと見てみると、確かにそいつらはアラーニャがいろいろと滅茶滅茶にした所を修復し始めていた。

「これって……責任取れとか言われないわよね?」

 三人は顔を見合わせる。

 ………………

 …………

 ……

 それから再び彼らは全力で駆けだした。

 キャンプ地まで着いたときにはもはや全員息も絶え絶えだ。

 しばらくぜいぜいと息をついて、やっと喋れるようになる。

「ちょっと!(ぜいぜい)あれ(ぜいぜい)なに?」

「知らん!」

 そのときだ。イルドが落ちていた枯れ枝を取り上げると地面に書き出した。

そういえば、そんな話を読んだことがあります。

「そんな話?」

 ティアが尋ねるとイルドの中のキールは続けた。

永遠の乙女の花園は、そんな怪物に守られているという言い伝えがあるそうです。

 ………………

 …………

 ……

「はあ?」

 ―――ってことは?

 三人は顔を見合わせた。それからアラーニャが恐る恐る言う。

「もしかして、ここって本当に?」

 あの伝説の、ヌルス・ノーメンのオアシスだというのか?

 ティアはイルドを睨む。

「そういう大切なことは先に言いなさいよ!」

すみません。今思い出して。

 あわわわわわ……

 再び三人は顔を見合わせる。

 空を見上げると、今日はいい天気だ―――と、いうことは?

「出発の準備、しましょうか?」

「ああ。そうだな」

「はい」

 これ以上こんな所に長居は無用だ!

 彼らは再び旅だった。



 その日の晩だった。

 ティアはキャンプから少し離れたところで一人、空を見上げていた。

 満天の星空だ。

「ひゃあああ……」

 砂漠ではいったん星が出てしまったら、思わず間抜けな声が出てしまうくらいに、それはそれは壮観なのだ。

 世界の上半分が輝く天蓋になってしまったようだ。しかも満月が近いので目が慣れたら昼みたいな明るさに感じる。

 この砂漠の夜は真っ暗なことが多かったので、何だかとても不思議な気分だった。

《これだったらちょっと休んでから出た方がいいかしら……》

 ここでは晴天というのは極めて貴重な存在だ。だからあのオアシスに来るまでは砂嵐の合間にちょっとでも視界が開けたら、昼夜構わずに行動していたのだ。

 だが今日は珍しく一日中天気が良くて、行程はかなり捗っていた。そのためこの砂丘の上でキャンプすることにしたのだが―――こんなときにじっとしているのは何だか勿体ない気分になってくる。こんないい天気が明日も続くという保証などないのだから……

 でも朝からラクダに揺られっぱなしで体がくたくたなのも間違いない。ラクダだって休ませてやらないと可哀相だ。

 それに本来はそんな長旅でみんな消耗していたので、あのオアシスでしばらく休もうとしていたのに、それがあの騒ぎでおじゃんになってしまった後なわけで……

《うー……もったいない……》

 とはいっても仕方のない物は仕方がない。

 ティアが星空を見上げていると、流れ星が長い軌跡を描いて落ちた。

《わああ……》

 砂漠では流れ星もひときわ明るい気がする。

《アラーニャちゃん、呼んでこようかな……》

 こんな景色を見ないで寝てしまうなんて人生の損失だと思うのだが―――でも彼女は疲れていたのか、食事の後早々に自分のテントに引き籠もってしまっていた。

《もしかしたらやっぱり朝のこと……》

 気にしてないわけがないだろう。

 移動している間は何だかんだで気が紛れていたが、こうして落ち着いてしまうとどうしてもあのことが思い出されてしまう。

 あの怪物騒ぎでうやむやになってしまったが、こういうことはしっかり話し合っておいた方がいい気がするし―――でも何かやっぱりちょっと言い出しづらいのも間違いないし……

 そんなことを考えているときだった。

 後ろの方からかさかさと砂を踏みしめる音が聞こえてくる。この歩き方は……

「あん? どうしてあんたが来るのよ?」

 だから夜はキールになってろとあれほど……

 イルドはそんなことは全く意に介さず、ティアの横に来て座った。

「星が綺麗だなあ」

「そうね」

「おまえ、疲れてないか?」

「え?」

 ティアはイルドの顔を見るが……

《こいつ……》

 その顔はどう見たって疲れてなければ何かしようとか思っている顔だ!

「疲れてるわよっ! もうくたくた」

「ええ? 元気そうじゃないか」

 そう言ってイルドはティアの肩に手を回してくる。

 ティアはその手を振り払うとイルドを正面から睨む。

「あのねえ、朝言ったこともう忘れたの?」

「朝って、あれまじかよ?」

「当たり前でしょ!」

「でもさあ……アラーニャだっていいって言ってたし……」

 この男は―――都合のいいところだけ覚えてるんじゃない!

「だ~か~ら! 本気でそう思ってるわけないでしょ! あの子が一人ぽろぽろ泣いてる横でそんなことできるわけないでしょ? あんた、彼女のこと本気でどう思ってるわけ?」

「うう……」

「あのねえ、大体これじゃあたしが悪役じゃないのよ。あたしが彼女だったら絶対刺すわよ? ある日ぽっとやってきて、これ見よがしにあんたと寝てたりして!」

「でも……」

「しつこいっ! それに言ったでしょ? ずうーっとじゃないんだから。都に着いたらアラーニャちゃんは暴走しないようにできるから、そうしたらって」

「んー、分かったよ」

 イルドは残念そうに座り直して、それ以上は手を出してこなかった。

 結局のところ、こいつも単に欲望のまま生きているケダモノというわけではなく、一応人の気持ちの分かるケダモノではあるのだ。

 ティアはちらっと横目でイルドの顔を見た。

 こうして見ると精悍な顔つき―――と言えないこともない。

 実際こいつには実行力という物はあるのだ。この砂漠の旅でも彼がぐいぐい引っ張ってくれているから何とか頑張れているわけで、ある意味頼れる存在なのは事実である。

《これで思慮があればねえ……》

 そちらはキールの専門だ。

 いろんな会話をするのならやっぱり彼の方が色々話題が豊富で面白いし、とても優しいのも間違いないし……

《本当に二人のいいとこ取りで合体できたりしないのかしら……》

 以前冗談めかして変身の途中で止めたらどうだとか言ったことがあるが、聞くところによると変身中は体の表裏をひっくり返しているような気分になるらしく、途中で止めるなんて論外なんだそうだ。キールがイルド声で話すときにも随分と違和感があるらしい。

《でもこれだって都の大魔導師の人とかだったら何とかできるかもしれないし……》

 そう。都なのだ。全てはそこにある。

 だから彼女達は都に向かわなければならないのだ。

 都に行けば……

 そう。都に行けば……

 だから、都に行けば……

 ………………

 そうしたらどうなる?

 アラーニャの暴走が治ったらキール/イルドとの間を隔てている障害はなくなる。

 そうなったら二人は一緒になるだろう。二人の共有する時間はティアとのそれより遙かに長いのだから……

《そうしたら……》

 結局またティアは一人ぼっちになるのだ。

 あの豪華絢爛だが寂しいジアーナ屋敷の生活が待っているわけで……

 この砂漠の生活は正直きついが、でも別な意味では充実していた。

 キールもイルドもアラーニャも今ではかけがえのない友人と―――恋人……

 ………………

「んー! だめっ!」

 ティアは首を振ってイルドから飛び下がる。

「あ? だからもうしないって言っただろ?」

「いや、それとは別でね、あはは」

「??」

 ついこいつのことを恋人なんて思ってしまったが―――ここで話をややこしくしてどうする?

 何か顔が熱くなってきたのでそろそろ寝ようと思ったときだった。

 後方からぱさぱさと砂の上を走る足音がする。この足音は……

 振り返ると駆け寄ってくるアラーニャの姿が見えた。

「あ、ティア様! ティア様!」

 彼女が何だか嬉しそうに手を振っている。一体どうしたんだ?

 アラーニャは駆け寄ってくると、ティアの横にイルドがいるのにも気がついた。

《あ! これって……》

 ティアは慌てて弁解しようとしたが、アラーニャはそんなことは全く気にもとめず、いきなりティアの手を掴んで引っ張った。

「あの、来てください!」

「え?」

「見て欲しいんです」

「なにを?」

 するとアラーニャはちょっと赤くなって、またティアの手を引っ張った。

「えっと、こっちです」

「どうしたんだ?」

 イルドが声をかけるとアラーニャは首を振る。

「イルド様はだめです!」

「ええ?」

 不満そうなイルドを残して二人が向かったのはアラーニャのテントだ。

 アラーニャは中にティアを招き入れた。

「見てください!」

 と言われても別に変わった様子はない。

 夜には何度も一緒に寝させてもらっていたから、中の様子はよく知っていたが……

「えっと?」

 ティアが首をかしげるとアラーニャが言った。

「できたんです!」

「え? 何が?」

「あれです」

 そう言って彼女はテントの中央を指した。

 よくみるとテントの中央に丸めたハンカチが置いてある。

《え? 確かこれって……》

 その途端、アラーニャはいきなり上着を脱ぎ始めた。

「え?」

 彼女は驚くティアを横目に上半身裸になった。

 それから彼女は自分の胸をティアに示すと言った。

「見ててください!」

《えっと……》

 アラーニャのおっぱいは―――オアシスで水浴びしたときなどに何度も見たことがあるが、何か着やせするタイプなのか、最初に見たときはちょっと勝ってたと思ってたのに、結構豊かで何かいい勝負のような―――じゃなくって!

 呆然としているティアの前で、アラーニャは両の乳房をそっと手で抱えるようにして持つと、ゆっくりと愛撫するように揉み始めた。

「ちょっと、何を……」

「すみません、静かにしてください」

 アラーニャは真剣な口調だ。

「………………」

 それから彼女は再びハンカチの玉を凝視しながら胸を揉む。すると―――ハンカチの玉がすうっと浮かび上がったのだ!

「え?」

 思わず挙げたティアの声に驚いてか、玉がぽとりと落ちる。

「あ、すみません、気が散るとまだ失敗して……」

「いや、あの……」

「今日の昼間、ずっと考えてたんです。ティア様が言われたこと」

「あたしが言ったこと?」

「ほら、私の魔法のスイッチがおっぱいじゃないかって」

「あ、あれは……」

 いや、何か勢いで出た軽いジョークなのだが―――それに微妙に意味変わってないか?

「で、やってみたんです。イルド様に触られたときのことを思い出して、確か、うわーってなったときに、あーって感じで何か周りが動いたんで……そんなことを思い出しながら、そしたら……」

 アラーニャが再びじっとハンカチの玉を睨んで胸を触ると、再び玉がすうっと浮かび上がる。そして今度は、それを睨みながら乳房を左の方に向けると―――玉が左にすっと動いた。

《あわわわわ……》

 えっと、いや、その、正直こんなことになるなんて―――何かよく分からないけど、おめでとう、でいいのかしら?

「あはははは……すごいじゃない!」

「ありがとうござますっ!」

 アラーニャは満面の笑みだ。

 こんな天使のような笑顔は見たことがないが……

「おい、どうしたんだよ?」

 そのときイルドがテントの中を覗き込んだ。

 アラーニャがぴくっとして玉がぽとりと落ちる。

「ちょっと、いきなり何覗いてるのよ?」

 ティアは食ってかかったが、イルドの目はむき出しになっているアラーニャの胸に吸い付いている。

「おまえら……なにしてんだ?」

 そう言いながらイルドはにたっと笑ったが―――絶対何か誤解している様子だ。

 それに気づいたのかどうか知らないが、アラーニャが体中真っ赤になる。

「きゃあああああ!」

 そう叫びながら彼女は自分の胸をぎゅっと掴んでいた。すると―――あたりの物がイルド目がけて一斉に飛んでいったのだ。

「どわあぁぁぁ!」

 イルドは吹っ飛ばされてのけぞった。

「あっ!」

「あっ!」

 ティアとアラーニャは同時に声を上げて、顔を見合わせた。

「正確に狙えるようになったわねえ……」

「はいっ!」

 もしかして本当にこの子、才能があるのかしら? 兄貴なんかはいくらやってもうまくならなかったのに……



 ……

 …………

 あ、あ、あ……

 呆然としているフィンにエルセティアは言った。

「あははは。本当に彼女って、とっても熱心で真面目ないい子なのよ。もうそれから毎日ずっと暇さえあれば練習してて、あはは、もう砂漠を抜ける頃には、いろいろと自由自在だったりして……」

 いや、間違いなくそれが本当なら超一級の才能と言うべきだろう。魔法の制御というのはコツを掴むのが本当に難しく、ダメな奴はいつまで経ってもダメなのだ。

 だが何だ? それはともかく……

「じゃ、彼女、魔法の媒体が結局、その……」

 フィンはおっぱいの仕草をする。

 媒体とは専門用語で魔法使いが魔法を制御する際に利用する呪文や道具などの総称だが……

 エルセティアはそっぽを向きながらうなずいた。

「なんだってぇぇぇぇ?」

「だ~か~ら、怒られたって言ったじゃない! ニフレディル様とファシアーナ様に! もう二人の部屋に呼び出されて、滅茶苦茶かんかんだったんだから! あんたあの二人にあんなに怒られたことあるの? ファシアーナ様は本当に火吹いてるし、ニフレディル様から十三通りの死に方のどれがいいとか、あの笑ってない笑顔で言われて、もうどれだけ怖かったか分かる? あんたがどこかのメイド奴隷さんと……」

「分かった! 分かったからもういいって!」

 あの二人に本気で怒られたというのなら、フィンがこれ以上怒る必要はないだろうが……

《でもなあ……》

 魔法の発動というのは極めて微妙な物なのだ。

 本当の達人は心でイメージしただけで何でもできるとは言うが、普通はある魔法発動に対して特定の呪文、道具、仕草などを関連づけて、一種の条件反射的に発動させるよう訓練する。それによって魔法のスムーズな発動と、暴走の防止ができるのだ。

 だがその関連づけに特別なルールがあるわけではなく、術者本人の好みや慣れなどで好きな方法を選んでいい。

 だが好きに選べるとは言っても実際には“最初に覚えたやり方”がその魔導師の一番得意な発動法になるのが普通だ。

 だからこそ最初の訓練が重要なわけで……

《じゃあアラーニャさんって、おっぱい術士になっちゃったってこと?》

 魔導師をその得意な発動法によって呪術士とか、魔具術士などと呼ぶ呼び方があるが、その呼び方だとそうなってしまうような―――いやまあ、魔具術士の一種なんだろうが……

 フィンはじとっとした目つきでエルセティアを見た。

「なによ~! あたしのせいだっていうの? あんなことになるなんて、分かるわけないじゃない!」

「いやまあ、そうだけど……」

 何で怒られたのか本当に分かっているのか? だから、魔導師の教育に素人が手を出してはいけない訳で……

 そのときふわっと甘いコーヒーの香りが漂ったか思うと、メイが二人の所に二回目の夜食の盆を持って現れた。

「もう随分遅いですよ。お話はどこまで進みました?」

「ああ、砂漠を抜けて、アラーニャちゃんが魔法を上手に使えるようになったってところ」

「あはは。じゃあまだまだですねえ」

 まだこの先長いのかよ!

 そういえばこいつは今“ヴェーヌスベルグの女王”とやらの肩書きらしいが、確かにそこについてはまだそんな噂があったとしか聞いてないわけで……

「それじゃこれ、コーヒー、濃くしときましたから。苦かったらこっちがミルクです」

「きゃあ、メイちゃん。気が利くう!」

 おい! 続きを話す気満々なんだが……

《もう深夜なんだから明日にしないか? なあ……》

 ―――などと言ったら間違いなくメイド奴隷のおっぱいになる訳で……

「あはは。それじゃお休みなさい」

 引き際にメイはちらっとフィンの方を見たが―――そこには何か哀れむような表情が浮かんでいた。