プロローグ 最後の望み

プロローグ 最後の望み


 おぼつかない足取りでアウラと出ていくフィンの後ろ姿を見送りながら、メルファラはふうっと長いため息をついた。

 肩の荷がおりたようなほっとした気持ちだ……

 並んでいたエルミーラ王女もまた同じ気持ちだったようで、目が合うとにこっと微笑み返した。

 ここに至るまでに何よりも恐れていたことは、彼が本当に裏切ってしまったのではないかということだった。

《もしそうだったのなら……》

 そう思って何度眠れぬ夜を過ごしたことだろう?

 都で彼を信じようとする者はほとんどいなかった。

 彼を最も信頼していたエルミーラ王女の一行でさえ、見込みはいいところ半々というところだったのだ。

 だがこれで少なくともその心配だけはなくなった。

 フィンは―――やはり彼女の覚えていたフィンだった。

 彼はまた彼女を救いにきてくれたのだ!

 その事実だけでメルファラは、これまでのことすべてが許せる気分になっていた。

「それでは部屋に戻りましょうか?」

 エルミーラ王女の呼びかけに軽くうなずくと、二人は連れだって二階のスイートルームに向かった。

 そこはこの宿屋最高級の客室だったが、それでも彼女が今まで暮らしていた邸宅に比べたら、物置小屋と言っていい。

 ここは都からはるか離れた草原の小村、クォイオ。

 その名は歴史の教科書の中では見知っていたが、実際にその場所に来ることになろうとは露ほども思っていなかった。

 窓外には延々と大平原が広がっている。

 このような平たい世界を彼女はこれまで見たことがない。

 その中に立つと、まるで自分がとてもちっぽけな存在のように思えて不安になってくる。

 だが、この場所なら安心だ。

 ここが狭い宿屋の中だからというわけではなく……

「何だかちょっと気が抜けてしまいましたね」

 ―――この人、エルミーラ王女が一緒にいてくれるからだろう。

「そうですね」

 メルファラはうなずくと王女の横顔を見つめた。

 見かけの美しさということであれば、彼女は都では月並みだろう―――しかし都には彼女のような凛とした強いまなざしをもった人はいなかった。

 だからなのだろうか?

『寂しいときって、やっぱり誰かとこう、ぺたっとしてると、何となく気が紛れません? それが仮初めの人であっても……』

 そうささやきながら彼女の腕が腰に回されてきたとき、メルファラは魔法にかけられたように動けなかった。

 彼女は“女の悦び”というものがあることを、そのとき初めて知ったのだ。

 ―――それ以来エルミーラ王女とは、言ってしまえば“ずるずる”と関係を続けている。

 もちろん二人とも立場が立場だ。そんな機会がおいそれとあるわけではない。回数を数えれば片手でも余るほどだが、だからこそその一つ一つが今や忘れえぬ思い出の夜だ。

 だが―――そのたびに二人の間の違いもまた再認識させられた。

 彼女とはあらゆる意味で“仮初め”の関係だった。

 彼女は最初から一貫して、きっぱり息抜きと割り切っていた。

 彼女は昼を生きている。

 朝がくれば迷いなく寝床から立ち上がり、日の光の中に歩み出していく。

 だがメルファラはその後ろ姿を見ながら、永遠に明けない夜を待ちのぞんでしまうのだ。

《ティアと二人の頃、こんなことを知っていたらどうなったのでしょう……》

 彼女がまだ“メルフロウ”であったころ、二人はずっと一緒のベッドで眠っていた。

 あのときはそれだけで嬉しかった。なにしろ夜が怖くなかったのだから!

 彼女がひとり寝ているときには、悪夢がつきものだった。

 誰もいない屋敷の中で出口を求めてさまよっている夢……

 湖のほとりでいくら待っていても誰も来ない夢……

 赤黒い洞窟の中で一人、名状しがたい焦燥に駆られて動けなくなっている夢……

 冷めきった料理に囲まれて、誰一人やってこない宴のホストを務めている夢……

 そんな寂しいバリエーションの中に、やがては暗闇の中を誰かに手を引かれて走っている夢が加わってくる。

 だが彼女がいればそんな夢も避けて通ってくれるのだ。

 今から思えばあの不思議な結婚生活は、最高に幸せなひとときだった。

《どうしてデュールとだと……》

 思わずそう思って、メルファラは軽く首をふる。

 エルセティアが失踪してしまったあとは、まるで暗闇の中に取りのこされてしまったようだった。彼女には夫がいるというのに。彼とは何度も床を共にしたというのに、むしろ一人のとき以上に孤独を感じていたような気がする。

 決して彼女の夫、カロンデュールが悪い人間でないことは知っている。

 むしろこれ以上ないくらいに優しい人間だということも。

 だが、彼には欠けていた。

 ―――前年十一月。バシリカが陥落する。

 今年の二月にはアキーラが占領されて、レイモン王国が滅亡する。

 だが戦いはそれでは終わらない。レイモンを滅ぼしたアロザール王国は、戦後の領土分割交渉で旧レイモン領の総取りを主張し、当然のことながら会談は決裂。四月にはアロザールの第一、第三軍がバシリカから東のシフラ、セイルズ方面に展開し、第二軍はアキーラから北東の自由都市メリスに進軍。メリスは建前上は独立を保つが、実質占領されてしまう。

 危険を感じたシルヴェストのアラン王はシフラから撤退。他の王国にも戦わぬよう進言するが、サルトス王国はその忠告を聞かずアロザールと正面衝突する。

 しかしそのときにはサルトス軍にもアロザールの呪いが広がっており、ハグワール王と継承者の王子が戦死してしまった。

 その結果、アロザール王国はメリス、シフラ、セイルズを占領し、旧レイモン王国領をほぼ手中に収めたのである。

 アロザールはかつてのレイモン以上の強敵として彼らの前に立ち塞がったのだ。

 そんな情勢で送られてきたのがあの書状であった……

 もちろん都の評議会は当初は反対の意向を示していた。

 しかし彼らはその敵と対決しようという強い意志に欠けていた。

 なにしろ敵の使った“大魔法”は全く未知の存在で、その呪いが都でも広まってしまったらどうすればいいのだという問いに対して、明確に答えられる者はいなかったからだ。

 だからメルファラは、ならば自分が行ってもいいと公言した。

 内心は誰かが止めてくれるだろうという気持ちと、フィンに会って真意を問いただしたいという気持ちが相半ばしていたのだが―――ところがそれを聞いた評議会は、あっさりと大皇后を差し出す方向に流れてしまったのだ。

 もしそこで大皇が強く拒否していればそんなことにはならなかったはずだ。

 だが彼はそうしなかった―――いや、できなかったのだろう。

 その頃すでに彼女と大皇の不仲は知られており、各家の間で次の妾姫を誰にするかという暗闘が始まっていた。ジークの家は実質滅びており、メルファラの後ろ盾となる大きな勢力はなかった。

 皮肉なことに、かような恥ずべき所行には絶対反対していたはずのハヤセ・アルヴィーロ氏は失脚しており、その会議にエルミーラ王女がオブザーバーに呼ばれることもなかった。

 かくして一応は僅差であったとはいえ、大皇后をアルクス王子の妃に差し出すことが都の合意事項となったのだ。

 ―――それを聞いてぶち切れたのがエルミーラ王女であった。

 そして彼女は自分の臣下が不始末をしでかしているという理由で、メルファラに同行すると決めてしまった。ならばアウラは当然のこと、メイやリモンといった彼女の侍従までが、自分の意思でついてきてくれたのだ。

 それに対して都側から同行したのはファシアーナとニフレディルの大魔法使いのほかにはパミーナと、ハルムート以下の旧臣たちだけだ。大皇側からは形式的な親衛隊が送られただけで、彼らも途中で帰ってしまった。

 一応“出迎え役”の方から中原はまだ危険で、随行員はアロザールの方から用意するから、人数は控えてほしいといった申し入れがあったからでもあるが……

 ―――そのときかちゃりと部屋のドアが開くとアウラが戻ってきた。

「どうでした?」

「寝ちゃった」

 エルミーラ王女の問いに彼女はシンプルに答える。

「そう。少しは寝かせてあげないとね。でも昼過ぎには起こしてちょうだいね」

「うん」

 アウラが手近なソファに腰を落ちつけると、王女は軽く首をふりながら言った。

「ごめんなさいね。まさかティア様が一晩放さないなんて思わなかったから」

「ううん」

 アウラは首をふるが、明らかに残念そうな表情だ。当然だろう。彼とは約二年ぶりの再会なのだから……

 王女は今度はメルファラに言った。

「ティア様って本当におもしろいお方ですわね」

「ええ、まあ……」

 これには苦笑しながらうなずくしかない。

 そう。そのエルセティアといえば……

《こんなところで彼女とまた出会えるなんて……》

 本当にどういった巡り合わせなのだろうか? 永遠に失ったかと思えた人が、かようにも多くの“友人たち”を連れてこんな所にはせ参じてくれるなど……

 しかもその友人たちときたら―――メルファラはくすりと笑う。

「どうなさいました?」

「いえ、ほら、皆様のことを思いだしたら……」

「あらまあ、そうですわね」

 エルミーラ王女にも笑みが浮かぶ。

 遠い西の果てにある砂漠のオアシスに住む、呪われた女たち―――そんな彼女たちと共に今、都の大皇后やフォレスの王女が寝起きしているのだ。

 間違いなく彼女たちの闖入で、当初の計画はいろいろと狂ってしまった。

 だが間違いなく彼女たちが来てくれたおかげで、何やら断然楽しくなってきている。

《もしかして……あのとき以来でしょうか?》

 こんなえも言われぬウキウキした気分―――そう。都でル・ウーダ兄妹とあの“陰謀計画”を練っていたときに感じた気分そっくりだ。

 あのときも未来に希望などないと思っていたのだが……

《今に比べたら……》

 そう思うといつでも吹きだしそうになる。

 どうして都の外に出ることがあんなにも怖かったのだろうか? あのときは都落ちなどをしたら人生の終わりだと、本気で思っていたのだ。

《それなのに……》

 メルファラは再び窓外に広がる大平原に目を向ける。

 今の彼女はこんな場所にいるのだ。五月だというのにもう暑い。彼女の生まれ育った都では、これからが春本番だというのに……

 ―――と、ノックの音がした。

「なあに?」

「コーヒーはいかがですか?」

 その声はメイだ。

「持ってきてちょうだい」

 彼女がコーヒーと手製のクッキーを乗せた盆を持って入ってくると、あたりに甘い香りが立ちこめる。慣れた手つきでカップにコーヒーを注いでいくメイに王女が尋ねた。

「二人の様子は?」

「ル・ウーダ様とティア様ですか? よく眠ってらっしゃいますよ」

「そう。それじゃ、彼女たちに来てもらっていいかしら」

「でも……」

 メイは伏し目がちに口ごもるが、王女は首をふる。

「先に準備しておいても損はありませんから」

「……分かりました」

 メイはうなずくと部屋を出て行った。

 メルファラには彼女が口ごもった理由がよく分かった。

 部屋にしばしの沈黙がおとずれる。

 誰もがこれから行うことの意味を噛みしめていた。

 メルファラは思わず口を開く。

「でも……フィンは……正直どうでしょう?」

「よいお考えをと?」

「ええ、まあ……」

 王女は力なく首をふる。

「見込みは……やはり薄いでしょうね」

 このようなときこの王女は決して気休めは言わない。

 それから再びメルファラの目を見つめると言った。

「だからファラ様も、思い残すことがないようになさっておくべきでしょう」

「……そうですね」

 思い残すことがないように?

 だが―――いったい何をすれば自分は満足できるのだろうか?

 ………………

 再びノックの音がしてそれに王女が答えると、今度は何人かの娘たちが入ってきた。

 侍女のパミーナに続いて、アーシャとルルーというヴェーヌスベルグの娘だ。

 エルミーラ王女がそのうちのパミーナとアーシャに向かって真剣な顔で尋ねる。

「お二人とも、もう一度申しますが、本当によろしいのですか? とても危険な役割なのですよ」

 だがパミーナは涼しい顔だ。

「大皇后様の身代わりになるのはこれが初めてじゃありませんし」

 そう。メルファラの筆頭侍女であるパミーナは、彼女がまだメルフロウ皇子だった時代からメルファラの代役を務めていた。

「あちらにいたらこんなきれいな服なんて、一生かかっても着れませんでしたし」

 アーシャも顔を赤らめながら答える。

「それよりルルーの方がずっと緊張しちゃって」

「だってこんなお服の寸法直しなんて……」

 はるか西方の田舎からやってきた二人は、メルファラのドレスの方に目を奪われている。

《そんなにきれいな服が着られることが嬉しいのでしょうか?》

 間違いなく命がけなのに……

 ところがなぜかここにいるほぼ全員がこの危険な任務につきたがっていたのだ。

 もちろんそのためには少なくとも背格好が似ていなければならないから、それが合わない時点で多くは失格になってしまう。

 そのうえ背丈が合っていても、彼女のドレスが入る娘となればさらに限られてしまったのだ。

《ティアのあの残念な顔!》

 思いだすたびに笑みがこぼれてくる。

 エルセティアがメルファラのドレスを着るには、生半可なダイエットでは無理だろう。丈を詰めたり胸にパッドを入れたりすることなら何とかなるが、ウエストを簡単に広げるわけにはいかないからだ。

「それではお好きなものを選んでください」

 メルファラは彼女の衣装が詰まった長持ちを示した。

 それを見たアーシャだけでなく、パミーナまでもが目を輝かせる。

 二人は長持ちを開くと最初はおずおずと、それから喜び勇んでドレスの品定めをはじめた。

 ―――そんな彼女たちを眺めながら、メルファラはまた浮かない気分になる。

《思い残すことがないように?》

 その言葉に込められた言外の意味は明らかだ。

《フィン……》

 メルファラは常に自問していた。

 あの山荘でもし彼女が行かなかったらどうなっていたのだろうかと?

 そして今、彼がアロザールの手先となって戻ってきた理由は、つまるところ彼女の危機を救おうと努力した結果だったのだ。

《ということは……私たちはお互いに求めあっていたと、そういうことなのでしょうか?》

 メルファラの脳裏になぜか、かつて見た赤い洞窟の悪夢がよみがえってきた。

 彼女はその洞窟の中で強烈な渇望を覚えつつも身動きが取れなかったのだが、もし彼女が勇気を出して踏みだしていたなら、その先に彼が待っていてくれたのだろうか?


 今度こそ、それを見極めてみたい―――メルファラはそう思った。