プロローグ ある夏の日に
高原にさわやかな夏の日差しが降り注いでいる。
冬の間モノトーンだった野山は、花々や若葉でパステルカラーに色づいている。
長い冬の間じっと息を潜めていた昆虫たちは、ここぞとばかりに忙しく飛び回り、それを狙う小動物や小鳥、さらにそれを狙う獣や猛禽達の姿も見える。
彼らはまるで失った日々を取り戻そうとしているかのように、この短い夏の一時を一刻も無駄にすまいとしているかのように、一斉に生の喜びを謳歌していた。
―――だがここにそういう喜びとは無縁な男が一人いた。
「じゃ、行って来るね!」
兵士の制服に着替え終わったアウラが出ていった。
「ああ……」
それを見送りながらフィンは大きくため息をついた。
《い、いつまでこんな地獄が続くんだ?》
フィンは頭がくらくらしてきた。
といっても比喩ではなく、本当にめまいがしていたのだ。なにしろこの一ヶ月のあいだ、彼は夜ほとんど寝ていなかった。
なぜならあの日以来、アウラがフィンの部屋に居着いてしまったからだ。
もちろんそれ自体はフィンにとっても喜ばしいことだった。
彼女が側にいるとフィンは今までにない幸せを感じた。今となっては彼女がいなかったときのことを思い起こす方が困難なぐらいだ。
こうしていま、彼女が少しの間いなくなっただけなのに、部屋の中が急に暗く味気なくなってしまったような気がする……
あの日やっと二人は分かり合えた。
彼女はフィンに微笑んでくれた。
今の彼女が見せてくれる笑顔を、それを守るためならばフィンは命でも全然惜しくないとさえ思う。
だからこそ地獄なのだ!
フィンはアウラにキスすることもできるし、思い切り抱きしめることもできる。アウラも喜んでそれに応じてくれる―――いや、最近はアウラの方が積極的なぐらいだ。
だがそれから?
―――それだけなのだ!
《あの野郎!》
フィンは歯ぎしりした。
アウラを陵辱した男は、とんでもない傷を残してくれていた。
あれ以来フィンは、もう何度か試してみようとしたことがある。
アウラもフィンが何を望んでいるのか知っていた。彼女はそういった知識ならば山のように持っていた。何しろ彼女は遊郭で働いていたことがあるのだ。
だが―――二人のその思いとは裏腹に、アウラの体はそのようには反応してくれなかった。
どうがんばっても最後には必ず彼女の胸の傷がうずき、すさまじい苦痛にさいなまれてしまうのだ。
そんな彼女にそれ以上何ができる?
フィンは泣きじゃくるアウラをそっと抱いて寝かせてやることしかできなかった。
だからフィンは同じ区画であってもアウラとは異なった部屋にするか、少なくともベッドは別にしたかった。
しかし彼はもうアウラがヴィニエーラを出たあとも郭に出入りしていた理由を知っていた。それは当初フィンが考えたような理由ではなかった。
―――アウラはただ温もりが欲しかっただけだったのだ。
一人あてどなく彷徨っていた彼女にとって、郭とは彼女がそれを得ることのできるほぼ唯一の場所だった。
だからフィンは、彼女が立ち寄った郭では遊女の方を楽しませてやり、その後はただ二人で眠っていたと聞いた後には、もう彼女を追い出すことなど不可能だった。
ただ一緒にいたい―――そんなささやかな彼女の望みをどうして断ることができる?
《見つけたらぶっ殺してやる!》
心の中でそう叫びながらフィンはテーブルをどんと叩いた。
だがいくらそうした所で相手がいなければどうしようもない。
フィンは再びため息をつくと、のろのろと立ち上がった。
普段ならここから二度寝するところだが、今日は王と会う約束がある。さすがにみっともない格好をしては行けない。
フィンは身支度を整えながら考えていた。
王に呼ばれた理由は分かっている。以前王にエルミーラ王女の話を聞かされた際に仕官を勧められたが、彼はその返事をまだしていなかった。その返答を聞きたいということに違いない。
と言ってもそのことについてはもう迷ってはおらず、その話を受けると決めていた。なぜならこれは間違いなくやりがいのある仕事だからだ。
もしこの話を受けなかったらどういうことになるだろう?
フィンは今まで何度もそう自問していた。
多分それならばここを出てしばらくは諸国を遍歴してから、結局アイフィロスあたりにに落ち着くことになるだろう。あそこなら家柄を証明しさえすれば、ちょっとした荘園なども手に入る。安楽に暮らせるのは間違いない。
だがそれから?
それだけだ。
アイフィロスの暮らしならば都の暮らしとそれほど大差ないだろう。ならば今後どうなるかはほとんど予想がつく。
しかしここではいったい何が起こるかさっぱり分からない。
このフォレス王国はもはや都の庇護の届かぬ場所である―――というよりは、ほとんど敵地と言った方がいいかもしれない。一歩間違えれば命を失うような羽目になるだろう。演習場にうっかり入り込んだときなどはまさにそうだった。
だが彼が仕官を勧められたのは、それがきっかけだったのだ。
もし彼があのときあんな行動をとっていなければ、果たして王からエルミーラ王女の決意を聞くことがあっただろうか?
本当に面白いことにはここでしか出会えない、そんな気がする。
《面白い? いいのか? それで……》
フィンは何度もそう自問する。
これは一生を左右する問題のはずなのだが―――こんな理由で決めてしまっていいのだろうか?
だが提示された二つの道には、ほとんど選択の余地さえないように思われた。
何度となくフィンは考えて、そして常に結論は同じだった。
「いいんだよな? これで?」
そう鏡に映った自分に向かって問いかけるが―――もう答えは不要だ。
フィンは服の乱れがないかを確かめると、部屋を出て王の居室に向かった。