エピローグ 天国と地獄

エピローグ 天国と地獄


 そんなこんなであっという間にフィンの使節旅行は終わった。

 ベラへの旅は、毎日の時間が非常に濃密だった。

 この地はそもそも都の人間が滅多に訪れない場所である。それだけでも十分に希有な体験なのに、ロムルースの大歓待に始まり、魔導師会館に足を踏み入れたり、挙げ句にあの四十八時間である。

 そのためベラから戻ってガルサ・ブランカの塔を見たときには、ここを発ったのが何だかひどく昔のことだったような気がした。

 フォレスを空けていたのは数えてみれば二週間ほどなのだ。このくらいなら城の図書館にこもっていても気づかずに過ぎてしまう程度の物だ。それなのにフィンは城の自室でやっとアウラと二人きりになれたときは一瞬、何年も彼女に会っていなかったような気分になった。もちろんそれは錯覚にすぎなかい。待っていたアウラはまったくもっていつも通りだ。

「すごい! これ本当にあたしに?」

 フィンがプレゼントしたフラン織りのスカーフを灯火にかざして見ながらアウラが言う。これは大臣のプリムス氏推薦の品で、フラン最高の織り手が織ったという素晴らしい生地に、精巧な刺繍が施されている。その手触りは軽く、まるで羽のようだ。

「気に入ったか?」

「もちろんよ!」

 彼女は微笑んだ。

 それを見てフィンは心から安堵した。

《プリムスさん、さすがフランの領主だけあるな……》

 久々に彼女がこんなに喜ぶ表情を見た気がする。

 フィンとの間のわだかまりが解けたとき、彼は初めてその笑顔を見たのだが、最近はまた例の問題のおかげでご無沙汰していたのだ。そのためだけでも今回のベラ旅行には意味があったと言えるだろう。

 そんなことを思いながらアウラを眺めていると、彼女が言った。

「でも……これどうしよう?」

「ん? どうするって?」

「普段身につけるにはちょっと上等すぎない?」

「ああ? 普段って、あの制服を着てるときとか?」

「うん」

 フィンは吹き出しそうになった。

「それは……ちょっと合わないんじゃないか?」

「でもせっかくフィンがくれたんだし……」

 それを聞いてフィンは少しじんと来た。そこまでして彼のプレゼントを肌身離さず身につけておきたいのだろうか?

「でもな、どうだろう? ほら、俺はお前がドレスを着たときのことを想定してたんだけどな」

 そう言いながら彼はこの間ロムルースがやってきたときの晩餐で着飾っていたアウラの姿を思い出していた。

「ええ? だってそんなことって滅多にないし」

「本当ならもっとあってもいいんじゃないか?」

「え? どうして?」

 アウラはまるでぴんと来ていないという表情だ。

 だが彼女はそもそもエルミーラ王女の義理の従姉妹なのだ。今の従者スタイルは彼女がそう望んでいるからであって、いつでも王族として振る舞っていいのだ。

 それだけでなくアウラは既にその気になれば見事な貴婦人としての立ち居振る舞いもできるようになっている。都に連れて行ったって無問題だ。

 だからフィンとしてはやはりそんな彼女を見てみたかった。

 もちろん今の姿もまた別な意味で好きだったのだが……

「大体これって汚れたら洗うのが大変なんだよ。いい加減に洗うと傷んじまうんだ。だからやっぱり普段はしまっておいた方がいいと思うぞ」

 それを聞いてアウラも納得したようだった。

「そうね。返り血とかを浴びたらいやよね」

 あほか! 何の心配してやがる! まったく!

「そうそう。ついでに言えば、それで薙刀に付いた血を拭うのもお勧めできない」

「そんなことしないわよ!」

 アウラはむっとした顔でフィンを睨む。フィンは笑いながら言った。

「冗談だって」

 だがアウラは冗談は言っていなかった。

「拭いただけだとそこから錆びてくるのよ?」

 あのなあ!

 だから彼女といるとなぜか退屈しないわけなんだが―――でもこういうことならもう少し安い奴を何枚も買ってきてやった方が良かったんだろうか? なんかそれも違うような気がするし……

 この手のことをあまり考えていても仕方がないのでフィンは話題を変えた。

「そういえば俺のいない間、こっちは特に変わったことはなかったか?」

「え? まあ……王女様が一回お倒れになった以外は……」

「な、なんだって?」

 フィンは青くなった。

「一体どうしたんだ? 病気か?」

「違うの。前の晩遅くまでお仕事してて、次の日に謁見中に居眠りして椅子から落ちちゃったのよ」

 それを聞いてフィンは胸をなで下ろした。

 だがそれにしても王女はかなりの激務をこなしているようだ。もうそろそろアイザック王も復帰するとはいえ、本当に体を壊さなければいいが。

「そうだったのか、びっくりした。これについちゃ、ロムルース様やロスカ様なんかも随分心配されててな。向こうじゃ散々そのことを聞かれたよ」

「そうなの?」

「ああ」

 そう言いながらフィンはベラで起こったことをいろいろ思い起こしていた。

 ベラはベラなりに大変な状況であること。ロムルースが首長してははなはだ頼りなく、高官達も末を案じていること。そして彼らはエルミーラ王女に来てほしがっていること……

「そういえばお前、王女様と一緒にベラに行くんだろ?」

「え? うん」

「そのことはロムルース様は本気でお喜びになってたよ。おかげで本当に良くしてもらえた……」

 とフィンは気軽に言ってしまってから後悔した。もしどういう風に良くしてもらったか訊かれたらどうするんだ?

 それに―――そういえば、ロムルースは王女達が行ったら一体どんなもてなしをする気なんだろう? 使者が行っただけであの騒ぎだ。本人が行ったりしたらそれこそ国中で無礼講を始めたりして……

《あはは。もちろん主賓は二人とも女なんだから、さすがにあんな宴は開かないか……》

 いや、それとも美青年を大量に侍らせるのか? まさかそんなこと、いやあいつならというか、エルミーラ様だって調子に乗りそうだし―――旅の恥は掻き捨てって、うわあああ!

 などとフィンが考えていると、アウラが唐突に尋ねた。

「そういえば王女様から聞いたんだけど……」

 その問いにフィンは慌てた。

 聞いたって、もしかしてあの歓待のことか? じゃあやっぱりもうすっかりばれているのか?

「え? もちろん何もしてないよ。はははは」

 フィンは慌ててごまかそうとする。だがアウラはきょとんとしている。

「え?? 何をしてないって?」

「いや。だって王女様から聞いたんだろ?」

「うん。今週末に王様がお戻りなんで、来週からはまた前みたいにゆっくりできるって」

「あ、ああ、そうか」

 墓穴だ!

 フィンは恐る恐るアウラの顔を見る。だが彼女はこういった方面には鈍いので、まだフィンの秘密に感づいているという様子ではない。

 フィンは内心ほっとした。

 しかし彼女はそれとは気づかず次の攻撃を仕掛けてきた。

「で、ベラはどうだった? きれいな子いた?」

「ぶはっ!」

 フィンは咳き込む。

「どうしたの?」

「いや、ちょっとむせて」

「何か飲み物、持って来ようか?」

「あ、ああ、頼む」

 ともかくここは少しインターバルを取ってから、気を落ち着かせて対処しなければ。

 フィンはアウラが持ってきてくれた冷たいお茶を飲んだ。それを見ながらアウラが尋ねる。

「王女様が言うにはね、ベラって女の子がすごくきれいなところなんだって。どうだった?」

 アウラの口調は芝居がかっているような所は何もないが―――これはどっちなんだ? 天然なのか? 鎌をかけてるのか? それだったらもう見たとおりのことを言うしかないが……

「いや、それは本当だったよ。ハビタルの街に入ったらお前もびっくりするぞ。秋に行ったら見てみな」

「へええ! そうなんだ」

 アウラは嬉しそうな顔をする。彼女の男嫌いは以前よりは随分緩和されたとはいえ、通常の基準から言えばまだ十分に男嫌いだ。なので彼女はこういった場合、女の子の方にしか興味を示さないのだ。

《こいつにしてもエルミーラ様にしても、ハビタルなんかに行かせて大丈夫なのか?》

 あそこで妙なことをしたらそれこそ国際問題だ。王女様はまだ自制心があるかもしれないが、アウラの場合どうなんだ? 多分ナーザさんも一緒に行くだろうから、そういった場合は抑えてくれるとは思うが―――そういえばナーザさんはいつ帰ってくるんだっけ?

 フィンがそれを訊こうとすると、その前にアウラが尋ねてきた。

「王女様がね、ハビタルに行ったらロムルース様が歓待してくれるって言ってたけど、フィンはどうだったの?」

 フィンはまた咳き込みそうになった。

《本当にこいつは何も考えてないのか?》

 それとも何かまた陰謀があるのか?

「え? そうだな。いやまあちょっと派手な宴会は開いてくれたな。さすがベラって大国だね。こういう一介の使節にあんな宴を開いてくれるなんてね。ははは」

「へええ。ねえ、もっと聞かせて」

《うあああああ!》

 フィンは内心絶叫した。一体どうしてくれよう? 確かに宴については話そうと思えばエピソードはいくらでもあるが―――でもあんなことやこんなことばっかりで、あまつさえ最後にはパサデラとフルコースを―――などと話せるわけがない!

「えっとな、うん。さすがベラって大国で、とにかく色々すごくってさ……ああ、そうだ。エストラテの川岸にナマズのサンドイッチが売っててさあ……」

 フィンはそうやって話をずらそうと画策したが……

「その宴会って、美人も来てたの?」

 アウラはメイとは違って食べ物の話題にはまったく引っかからなかった。

 言葉つきにすこし棘がある。

「え? まあ……な」

「ふうん。どんな?」

 ますます棘は大きくなっていく。

「そ、そうだね。一番の美人はグレイシーって子だったかな」

 フィンはしどろもどろになってきた。

「その彼女がフィンのお世話をしてくれたの?」

 アウラはじろっとフィンを睨んだ。

「とんでもない! 彼女はベラの後宮の妾姫でロムルース様の第一のお気に入りなんだよ。俺なんかの相手をするわけがない!」

「ええ? でもロムルース様って王女様のことがお好きなんじゃないの?」

 フィンはのけぞった。だからそういう突っ込みはなしだと言いたい。

「まあ、まあそうなんだけどね。ほら、まあその、ロムルース様もお若いし……まあいろいろ事情がね。だからまあ、とにかくまあこのことは王女様には内緒にしといてくれ」

「どうして?」

「いや、だからロムルース様と約束したんだ。男の約束なんだ!」

 それを聞いてアウラはとりあえずは納得してくれたようだ。

 疲れる―――ひどく疲れる……

 だがアウラはまだその話題からフィンを解放してはくれなかった。

「他にはどんな子がいた? フィンの相手してくれたのは?」

 そうフィンに話をせがんでくる。もちろん普段なら話ぐらいいくらでも聞かせてやるのだが、この話題はともかく微妙すぎる。しかしそのアウラの眼差しは―――パパに真剣に話を聞きたがっている娘の目だ!

 フィンが口ごもっているのを見てアウラが言った。

「どうして恥ずかしいの? あたしだって話してあげてるじゃない」

「あはは……」

 確かにそうなのだ。彼女はフィンに、王女と郭に行ったときの話をしてくれることがあるのだ。もちろんそこでの王女の振る舞いに関しては曖昧にしているが、呼んだ遊女達についてはいつも嬉々として細かいところまで話してくれたりする。

 でもそれとこれとを交換できるような物ではないのだが―――とはいっても仕方がない。フィンは渋々話し出したのだが……

「そうだね、俺の相手をしてくれたのはレジェって子で……」

 フィンはいきなり大間違いをしでかした。

 彼はパサデラのことは伏せておこうと思って、適当に思いついた名前を挙げたのだが、これはまずかった。それを聞いたアウラはいきなり飛び上がってフィンににじり寄ってきたのだ。

「レジェ? 何でフィンがレジェのこと知ってるの?」

 恐ろしく真剣な瞳だ。こんなアウラは見たことがない。

 ここで単にすっとぼけていれば何事もなかったことだろう。レジェという名前を持つのはその娘だけではないのだし。

 しかしそのときはフィンもパニックになっていたので、更にポカを重ねてしまった。

「いや、違った。実は、パサデラって子で……」

「パサデラ? もしかしてヴィニエーラにいた?」

 フィンはもうフォローのしようがなくて口を開けたまま凍り付いてしまった。

「そうなのね……」

「いや、だからね」

 もうごまかしようがない。途端にアウラの目が潤んできた。

《うわ! それだけはやめてくれ!》

 何か最悪なことになりつつある。

「ごめん。だから……」

 フィンはアウラを抱きしめた。

 だが彼女の嗚咽は止まらない。それから彼女は小声でささやくように言った。

「そんなに隠すことないじゃない」

「え? でも……」

「知ってたわ。王女様に聞いたもの。だから宴の話をしたら絶対面白いって……」

 あああ! やっぱり‼

「でも王女様、まだ知らないから……あたしがだめだってこと……」

 え?

 フィンが彼女の顔を見ると、その瞳から涙が一筋こぼれ落ちた。

「あたしだって知ってるんだから……でもだめなの! これはフィンなんだからって思っても、いくら頑張ってもだめなの」

「アウラ!」

 フィンは彼女の名前をささやきながら抱きしめてやることしかできなかった。

 涙声で彼女がつぶやく。

「どうしてなの? 王女様だったら全然怖くないのに……」

 一体どうしてくれよう。ともかく一刻も早くこの状況を何とかせねば―――って彼女は今、何て言った? フィンは顔を上げるとアウラに尋ねた。

「えっと、王女様が何だって?」

 それを聞いたアウラはあからさまに「しまった!」という顔をすると、いきなりまくし立て始めた。

「そ、そんなことどうだっていいじゃない! 王女様は本当にお忙しくて、それでいつものお泊まりにいけなかったのよ。だからその、ちょっとだけ二人で一緒にいただけじゃない。あんなに一生懸命な王女様をちょっと慰めてあげただけじゃない!」

 いや、だから詳しく説明してくれなくても。

「フィンだってパサデラとしてたんでしょ!」

 いや、だからそういう問題とは違う気が。というより、もう何がなにやら分からない。

 フィンはアウラを抱きしめて言った。

「アウラ、ともかく大丈夫だよ。このことは前からナーザさんに頼んであるから。ほら、今度の騒ぎで忙しかったから。で、いつ帰ってこられるんだ? ナーザさんは」

「それだったら来週って言ってたわ」

 アウラが涙声で答える。

「そうか。そうしたら万事解決だよ」

 フィンはそう言ってアウラにキスをした。

 その言葉には何の根拠もなかったが、ともかくアウラは納得したようだ。

 同時にフィンは自分にもそう言い聞かせていた。

《ともかく来週、ナーザさんに相談するんだ。そうしたら万事解決だから……》

 それから二人は抱き合って眠った。


シルバーレイク物語第2巻 ハビタルの48時間 おわり