メイの初恋メモリー 第1章 裏窓の散歩者

メイの初恋メモリー


第1章 裏窓の散歩者


 こうして年明け早々急転直下、メイの学園生活が始まってから一週間。

《ひーっ! まずいーっ! 遅れちゃったーっ!》

 メイは魔導大学の中央通りを全力疾走していた。

 子供のころは野山を駆けまわっていたからこの程度平気だったのに、最近はずっと城勤めだ。体が鈍っていることがまさに骨身に沁みてくる。

《どうしよう? 帰っちゃったかなあ?》

 心中半泣きの気分で最後の角を曲がる。ここをまっすぐ行けば銅像広場だが、その中央に大きく聳えるユリアヌス―――ベラ最初の大魔導師の像の下で、彼は待ってくれていた。

「うわーっ(ぜいぜい)ごめん(ぜいぜい)なさいーっ(ぜいぜいぜい)」

「ちょっと、大丈夫かい?」

「いやー(ぜいぜい)だいじょうぶ(ぜいぜい)ですーっ」

 彼―――リザールはメイの息が整うまで、苦笑いしながら待っていてくれた。

「どうも、ほんとうにすみませんっ!」

 待ち合わせの時間にこれってもう三十分近く遅れているのでは?

「いや、遅かったねえ」

「それが、先生のお話、分からないことが多くて、色々尋ねてたら何かこんな時間になっちゃって……」

「あはは、そうなんだ……それじゃしょうがないねえ」

 うー、この人がやさしい人でほんとによかった……

「それじゃそろそろ行かないと」

「はいっ」

 リザールは先だって歩き出した。広場の片隅に美味しいクレープ屋の屋台が出るということで、一緒に食べに行こうという話になっていたのだ。

 メイはその後に従いながら、その横顔を眺めた。

《言われればそんな面影があるのよねえ……アイザック様に……》

 メイもつい最近知ったのだが、このリザールという先輩はエルミーラ王女と曾祖父が一緒、すなわち再従兄弟の間柄になるのだ。

 彼女はこれまでそんな人がいることを知らなかったから、話を聞いて本当に驚いた。

 それは僅か十日ほど前のことだった……



 ハビタルで豪勢な新年のセレモニーが終わると、王女一行は魔導大学に向かった。メイの短期留学の手続きがいろいろあるのと、そこから王女がベラ西部地方の視察を始めるからだ。

 ところがその途中、ほとんど唐突に王女がある村に立ち寄っていくと言いだした。しかも単なる気まぐれではなくアイザック王の用向きでもあるという。

 そこへの行きすがら聞かされたのが、王女の祖父の代にあった御家騒動の話だった。


 ―――それが起こったのはアイザック王がまだ幼少の頃だった。彼の父、ジュリアスとその弟のエイブラムが激しく対立して、一時は国内が二分して内戦の危機に陥ったのだ。

 その原因は今となっては些細な諍いなのだが、両者のバックにはそれぞれベラのフェレントム一族とアドルト一族がついていた。

 その当時は中原でレイモン王国が拡張を始め、隣接するウィルガ王国と抗争が起こった時期だ。その対応に関してフェレントム一族とアドルト一族の間で意見の相違が浮き彫りになってきた時期でもある。

 ここでどちらの勢力に与するかということが、フォレス王国としても大きな問題となってきたのだ。

 そんな支援勢力の思惑もあって、本来ならば些細なケンカで終わっていたような話がこじれにこじれて、最終的にはエイブラムが敗北してフォレス王国の継承権を放棄するという条件で死罪を免れてベラに移り住んだのだった―――


 初めて聞く話だった。

《うわあ……そんなことがあったんだ……》

 メイが生まれてからこのかたフォレスは平和そのものだった。数ヶ月前まではの話だが―――だがあれは外から仕掛けられた戦争だ。身内同士が戦い合うというのとはまた違う。

 そしてこれから向かおうとしているのは、そのエイブラムの子であるイスマイルという人が住んでいる村だった。

 その馬車の中で王女が語った。

「エイブラム様にはお父様は小さいころ何度も遊んでもらったそうよ。すごく楽しいおじさんだったって」

「じゃあ、そんな悪い人じゃなかったんですか?」

 同乗していたコルネの問いに王女はやや自信なさそうに答えた。

「多分……もちろん野心がなかったとはいわないけれど、やっぱり祭り上げられて引っ込みが付かなくなったんじゃないかしら」

《うわあ……》

 その類の話はいろいろ聞いたり読んだりしたのだが、王女の肉親となると何だか他人ごとではない。

「王女様はこの方々と会ったことはあるんですか?」

 メイの問いに王女は首をふった。

「いいえ、今日が初めて。お父様とは何度か手紙のやりとりはあったそうだけど」

「それで急に用事ができたんですか?」

 そんな疎遠な親戚に、急にどんな用事があったんだろう?

 思わずメイが尋ねると……

「お父様が私に、女王になるには避けては通れない話だって言われて。ま、そうよね? 彼らにも継承権はあるわけだから」

 王女はさらっとそう答えたが、さすがにメイにもこれがとんでもなく重要な問題だということは分かった。

「あれ? 継承権の順位って……王女様って……」

 今まではアイザック王には他に身寄りがいないからそういう問題はないと思っていたのだが、これはいったいどうなるのだ?

 そんなメイを見て王女はにやっと笑った。

「ふふっ。そうよ? 王女っていうのは普通は王位の継承なんてしないから」

「え? それじゃ……」

「でもそれは、黙っていれば王女は継承権を返上するっていう不文律があるからで、王位を継ぐと宣言した以上は、私が上ね」

「そうなんですか……」

 メイはほっとした。

「それにイスマイル様にはお父様がきっちり確認しているのよ。エイブラム様が亡くなったという話を聞いて、フォレスに戻る気はないかと尋ねたんだけど、はっきりと断られたの。そこでルースを婿養子にすることに決まったのよ」

「そんなことがあったんですか……で、そのイスマイル様には子供はいるんですか?」

 王女は笑った。

「だからこれからその子に会いに行くの。父親はその子にはフォレスを継がす意志はないと言ったけれど、そのときはまだ小さかったし。本人の意思はしっかり確かめておかないとね」

「…………それで継承する気があるって言ったら?」

 そこでメイは思わず尋ねていたが……

「ふふっ」

 王女は意味ありげに笑った。

《ひいぃ……どうする気なんだろう?》

 メイはそれ以上突っこむことができなかった―――などというちょっと怖い会話があったのだが……

「よくいらっしゃいました。エルミーラ様。むさくるしいところですが、どうかおくつろぎ下さい」

 目の前のイスマイル夫妻は何とも温和な感じの初老の夫婦だった。

「いえ、こちらこそ、急に押しかけてしまいまして」

 彼らがやってきたのは大きな農園だ。

《うわー、広いなあ……》

 一行が通されたのは館の客間だったが、そこからは広々とした農場がよく見えた。

 メイも農場育ちだったが、ここは実家の農場が五つくらいは優に入りそうな広さである。

「なかなかよいところですね」

「はい。住みやすいところなのは間違いございません」

 王女の問いにイスマイルがやや硬い様子で答える。夫人の方も不安げな様子だ。

 まあそれも無理もないことだろう。正面に座っているのはフォレスの王女で、次期女王になろうともしている人物だ。さらにその後ろにはナーザとアウラが控えており、ロパス以下の親衛隊員がその周りを囲んでいる。ついでにメイ達までが一緒にいるのだ。これで緊張するなといった方が無理だろう。

 そこにお茶菓子を載せたワゴンと共に若い青年が入ってきた。少し癖っ毛だがわりと背が高く、結構整った顔立ちをしている。

「どうも、皆様、遠路はるばる、ようこそ、いらっしゃいました」

 しかし彼も両親同様かなり緊張した様子で、王女にお茶を出そうとする手つきが見るからに不器用だ。そこで慌てて夫人が立ちあがって代わりにお茶を出し始める。

「申しわけありません」

 面目なさそうな青年を、王女が軽く首をかしげて見る。

「こちらの方が?」

 それを聞いてイスマイルがやや慌てた様子で答えた。

「ああ、ご紹介します。こちらが不肖のせがれのリザールです」

 それを聞くと王女は立ち上がり、にっこり笑って礼をした。

「初めまして。私エルミーラと申します」

「フォレスの王女様ですか。こんな所に、わざわざご足労、痛み入ります!」

 リザールは直立不動だ。

「いえ、一度はこちらにご挨拶せねばと思っておりましたので。しかし……リザールさんが?」

 ワゴンを見ながら王女が尋ねる。メイもちょっと不思議に思っていたところだが……

「いや、ルレッタが……その、家政婦なんですが、急に熱を出してしまいまして、何しろ貧乏所帯なものですから」

 ばつが悪そうにリザールが答えるが……

《これが貧乏所帯?》

 どう見てもメイの実家などに比べたら比較にならないのだが……

「小領主などをしておりますと何かと物入りで。使用人も極力減らしているのですよ」

 イスマイルがこの土地を管理していく上での苦労談を始める。どうやら大きな家にはそれなりの苦労があるらしい。

 小領主とは領主の下でこの地域の管理を任されているのだが、実体は大きな農園主のような物で、その責任のわりには結構実入りは少ないのだという。

 しばらくそんな話をしていたが、話が一段落したところでイスマイルがふっと尋ねた。

「それで、今日いらっしゃったのは何か特別なご理由がおありで?」

 王女は一瞬虚を突かれたようなようすだったが、すぐににっこり笑って答えた。

「はい。私たちの間には立場上、どうしても避けて通れないことがございます。私がこれから国で何をしようとしているかはご存じだと思いますが、それに関してやはり直接お伺いしておいた方がよろしいかと思いまして」

 イスマイルは逆にほっとした様子でうなずいた。

「ああ、そういうことなのですか。ご心配なさるのも当然かも知れません。しかし私はフォレスにいたときのことを全く覚えていないのですよ。物心ついたときにはここにいました」

「確か、二歳でしたでしょうか?」

「はい」

 イスマイルはフォレス生まれだったが、御家騒動でエイブラムが放逐されたときに一緒にベラに来てそれっきりなのだ。

「以前お父上から同じようなことを尋ねられましたが、私がどこのために生きていきたいかと言えば、この場所なのです。その気持ちは変わりませんよ」

 イスマイルは王女の目を見てきっぱりと答えた。

「さようでございましたか。いきなり不躾なお話し、申しわけございませんでした」

 そう言って王女はイスマイルに礼をした。

「いえ、私どもは何も気にしておりませんので。どうか頭をお上げ下さい」

「ありがとうございます。それで……」

 王女はふり返るとリザールをまっすぐ見る。

「リザールさん。あなたはいかがですか? フォレスに来てみたくはありませんか?」

 いきなりの問いにリザールは慌てて手を振った。

「え? そりゃ美しいところと聞きましたから一度見てみたくはありますよ? でもそれだけですから。そこにずっといて、その、何かしようなんて思ってませんから」

 メイが見ても分かるほどおろおろしている。そりゃさすがにそうだろう。フォレスに来たいとか言ったら王位継承の意思ありとみられても仕方ないわけで。

 そんなリザールに王女はにっこり微笑んだ。

「そうですか。では一度旅行にいらして下さいな。夏のフォレスはそれは美しいですよ。冬は……スキーはおできになります?」

「え? いえ、一度も……」

「まあ、それだと冬は大変かもしれませんねえ」

 王女が笑った。一同、釣られてあたりに笑い声があふれる。

 それから王女が真顔に戻る。

「ともかくご心配なさらないように。今日来たのは本当に、近くまで来る用事がございましたので、一度皆様に会ってお話ししてみたかっただけなのですから」

 それを聞いたイスマイルが尋ねた。

「近くまで来る用事とは?」

「はい、実は今度この子が魔導大学に行くことになりまして」

 そう言って王女はいきなりメイを指す。彼女は飛び上がりそうになった。

「ああっ、はいっ。メイと申しますっ」

 彼女が大きくお辞儀をすると、奥方が尋ねた。

「魔法の修行をなさるのですか?」

 それを聞いた王女が首をふる。

「いえ、普通科に。今後私の手伝いをしてもらいたくて、色々な勉強をしてもらっているのですが、これもちょうどベラに来たついでなので、三月まで短期留学をしてもらおうと」

 するとイスマイルが目を見はった。

「ほう? 実はうちのリザールも今そこに行っているのですが」

「え? そうなのですか?」

 王女が驚いてリザールを見つめる。

「は、はい」

 リザールが口をパクパクさせながらうなずいた。

 そんな彼にイスマイルが言った。

「それならこのお嬢さんの面倒を見て差しあげなさい」

「えっ?」

「えっ?」

 思わずメイとリザール振り返り、互いの目が合ってしまった。

 こんな男の人と正面から見つめあったのってもしかして初めて? こうやって見るとかなりイケメンだし―――じゃなくって!

《うわっ!》

 思わずメイは目を逸らした。

「まあ、出来の悪い息子ですので勉強の面倒が見られるかどうかは分かりませんが、大学を案内することくらいはできると思いますので」

 それを聞いて王女はにっこり笑った。

「まあ、それはよろしいですわね。お願いする?」

「え? あ、はい……」

 メイは思わずうなずいていた。

「それではこの子をよろしくお願いできますか?」

「はい。わかりました」

 そう言ってリザールがメイの方をチラリと見る。

 メイは慌ててお辞儀した。

「お、お願いします」

 胸が何だかドキドキしていた。



 ―――リザールとはこういう出会いだったのだが……

「あ、売り切れてる……」

「ええっ?」

 広場の片隅にクレープ屋のかわいい屋台が出ているのだが、店主はもう看板を下ろし始めていた。

「うわあ、ごめんなさい」

「しょうがないって。待ち合わせの時間でも結構ぎりぎりだったしね。ここって人気あるから」

「うー、ごめんなさい……」

 昨日彼に話を聞いてメイは結構楽しみにしていたのだが……

「だから謝ることないって。メイちゃん、授業の方が大切でしょ?」

「それはそうなんですけど……」

 魔導大学では半年が履修期間の一単位になっていて、カリキュラムはその前提で作られている。だがメイは特例で期間がその半分なので、普通より密度が二倍とまでは行かないにしても、まさに授業がみっちりと詰まっているのだ。

 こちらで最初に彼と会ったときに彼女の時間割表を見せたらのけぞっていたのだが、普通の学生は午後はかなり空いているし、授業内容にはスポーツや音楽、古典や演劇の鑑賞といった物も含まれている。しかしメイの場合はというと午後遅くまで政治、法律、魔法、歴史地理といった実学で埋めつくされているのだ。

《しかも内容難しいし……》

 王女に言われてこれまでも少しずつは勉強していたのだが、ともかく分からないことだらけだ。おかげでその度に先生に尋ねなければならず、時間のかかることおびただしい。

「明日もこんな感じかなあ……」

 リザールが少し残念そうに尋ねる。

「すみません。明日の午後は法学なので……」

 中でも一番わけが分からない奴である。

「ははは……それじゃもう、会うのは……」

「えっ⁉」

 まさかもう止めようかって⁉

 だがリザールはにこっと笑って続けた。

「昼休みにする?」

 メイは心底ほっとした。

「はいぃ。それなら何とかなりますけど」

「じゃあそうしようか。時間短いけど仕方ないよね」

「すみません……」

 ここで個人的な知り合いというのは彼一人である。王女一行は翌日には帰ってしまったので、彼がいなければメイはまさに孤立無援だった。

《普通なら同級生とかがいるんだろうけど……》

 フォレスで行った学校ではもちろん教室にたくさんの学生がいて一緒に勉強していたわけだが、ここでメイは非常に特例だったので教授とマンツーマン授業をしていたのだ。

 聞けばどうやら彼女を入れるのには、相当のごり押しがあったらしい。

 元々今回のベラ行きでは王女付き侍女として働くはずだった。それがセリウス以下のベラ侍従軍団のせいでやることがなくなり、急遽こういう仕儀になったのだ。

 だが大学側だっていきなりそんなことを言われても困るわけだ。

 そこが何とかなってしまったのは、もちろん国長のロムルースが口出ししたからである。

《先生なんかすごく怒ってたみたいだし……》

 とりあえず王女様の気まぐれですみませんとは謝っておいたのだが……

 少なくともメイはそんな国長だの王女だのの期待に応えないわけにはいかないのである。

《でも……本当に私でいいのかしら……》

 何度こう思ったことだろう―――何しろほんの少し前までは、彼女はフォレスどころかガルサ・ブランカから離れたことさえなかったのだ。

 それが何でか知らずに王女様に見込まれてしまって、去年の夏には魚の買い付けに行かされて―――あのときも滅多にない体験だと思っていたのだが、それから半年も経たないうちにこれなのだ。

「どうしたんだい? 深刻な顔して」

「いえ、ちょっとですね、あはは」

「ちょっと歩こうか。東の通りの方、まだ行ってなかったよね」

「あ、はい」

 メイはリザールについて歩き出した。

「こっちの方は大学でも古いブロックで、建物とか百年くらい経ってるのも結構あるんだよ」

 リザールが色々説明してくれる。

「そうなんですか」

 あたりの光景を見てしみじみ思った。

《何だか本当に異国だなあ……》

 町行く人々の衣装も町の光景も、見慣れたフォレスのものとは全く違う。

 この時期フォレスは雪に埋もれて一面の銀世界が広がっているのだが、ここには雪はまったくない。もちろん風は冷たいのでみんな風よけのコートを羽織っているが、手足とかがむき出しの人も結構いる。フォレスだとあれでは一発で凍傷になってしまうのだが……

 町の色も全然違う。ガルサ・ブランカは石造りの家が多く、全体が灰色なイメージがあるのだが、こちらの建物はみんな木造で外壁は土を固めてできているため、茶色っぽい雰囲気だ。

《それにここ全部が学校とか……》

 これも最初驚いたのだが、魔導大学ってどこにあるんですかと尋ねたら、その答えが“魔導大学”なのだ。

 メイはもちろんどこかに町があって、その中に大学があるものだと思っていた。だがここでは話が逆で、大学の中に町があるのだ。

 実際に来てみてその規模には驚いたのだが、ここはベラ魔導師の総本山でもある。いわば白銀の都の“銀の塔”に対比されうる場所であって、ベラ首長国という魔導国家の中枢でもある。

 この大学の歴史は古く、大聖からベラの首長に与えられた子ユリアヌスがこの地の森で魔法の修行を行ったのがその始まりだという。その森は今でも昔のまま残されていて、最初にリザールに連れていってもらったのだが……

《どう見てもただの森だったけど……》

 それでもここはベラ人の心の拠り所なのである。

 そんな場所をリザールと二人で歩いているというのは、何だかとても不思議な気分だった。

《まるで……夢?》

 次の瞬間目がさめてしまっても全く違和感はなかっただろう。

 そんな調子でメイがリザールと大学都市を散策していたら、四時の鐘が鳴った。

「ああ、それじゃそろそろ僕も行かないと……」

《うわ、もう?》

 本当ならもう少し一緒にいたい気分だったのだが、彼にだって彼の都合がある。これだけ時間を割いてもらえたというだけでも良しとしなければ……

「あ、いえ、どうもありがとうございました」

 去っていくリザールの後ろ姿を見ながら、メイは大きくため息をつくと、一人、下宿への道を辿り始めた。



 メイは庭付きの大きな屋敷が立ち並んでいる一角に向かうと、そのうちの一軒の門をくぐった。見事な前庭を抜けると大きな木造二階建ての母屋がある。

「ただいま帰りましたーっ」

「ああ、お帰りなさい」

 奥から大家さんの声がする。メイはそのまますたすたと二階の自室に向かった。

 家の中は綺麗に磨き上げられていて、廊下には立派な絨毯が敷いてあり、階段にはかなり上等そうな絵画も掛かっている。メイは最初お城にやってきたのかと勘違いしたくらいだ。

 彼女に割り当てられた部屋も、学生の個室としてはかなり大きく、内装も立派だ。壁には暖炉があって大家さんが火を入れてくれていたため、部屋の中は暖かい。

 メイは窓際まで歩いていくと、窓越しに館の裏庭を見下ろした。

《あのお庭も手がかかってるわよね……》

 メイも一応ガルサ・ブランカ城に勤めて仕事をしていたから、この屋敷の豪勢さがよく分かる。ここは大学都市に数ある下宿屋の中でも、最高レベルの一軒なのだ。

《私なんかのために……》

 メイとしてはもっと小さくて汚いところで構わなかった。というより、そちらの方が心落ちつくのだが、エルミーラ王女やベラの国長の肝煎りである以上、そういうわけにもいかない。

《でも、あそこよりはマシよね……》

 メイは少し離れた場所にある小高い丘の上に聳える大きな建物を眺めた。

 それは遠目にも立派な造りで、この時間帯は夕日でキラキラ輝いているように見えるが、そこは貴人用の学生寮―――アダマス寮なのだ。

 この大学の学生は、ほとんど全てが遠来から来る。そのため当然みんな学生寮か町の下宿屋に入ることになる。一般的には金のない学生は寮に入り、余裕のある学生は下宿を選ぶ。そのほうがいろいろ自由があるし、食事も美味しかったりするからだ。

 だがそれには一つ例外があった。

 というのはこの魔導大学には魔法使い養成コースの“魔法科”だけでなく、“普通科”―――すなわち一般人のエリート養成コースもあるのだ。

 そのエリートとは要するに国の政治に関わるような人々だが、それには魔法使いとの関わりあいが不可欠だ。そこで伝統的に魔導大学でそういったエリート教育が行われていたのである。

 メイがここで学ぶことになったのは、エルミーラ王女の側近として国政に関する基礎知識が必要だったからだが、それはこの普通科に来る生徒としてはかなり例外的だった。

 というのは普通科にはベラ国内からだけでなく、他国の貴族や王族の子弟がやってきていたからだ。

 彼らにとっては知識を覚えることよりも、若い頃に様々な他国の学生と出会えることの方に大きな価値があった。要するに将来の人脈づくりといった側面の方が重要だったのだ。

 彼らにとっては学校に行ったということがステータスで、勉学は二の次だった。

 その結果普通科では強力な貴族子弟の回りに弱小の貴族が集まった派閥ができていて、その間でいろいろドロドロとした確執もあったりするそうで―――メイは頼まれたってそんな所にはお近づきになりたくなかったのだが……

《いやーヤバかったー……》

 こちらに来る途中にメイの宿泊先の話になって、王女が『ルースがアダマス寮にしてやるなんて言うから謹んでお断りしておいたわ』などと笑っていたのだが、今から思えばまさに冷や汗ものである。

 ともかくここはメイにとって、これ以上申し分のない宿だった。

 そうこうしているうちにカランカランと鐘が鳴る。夕食の合図だ。

 メイが階下の食堂に降りていくと、大家さんがテーブルに食事を並べていたが、今日もメイ一人の分だけだ。

 大家さんは白髪の生真面目そうな人だった。

「みなさん、また遅いんですか?」

「あの子たち試験が近いからねえ」

 ここにはメイの他にアスリーナとラグーナという魔法科の学生が下宿しているのだが、二人とも試験の準備で忙しくて、夜遅くならないと帰って来られないのだ。二人にはメイがここに入った日に紹介してもらったのだが、それ以来ほとんど顔も見ていない。

《何かすごく怖そうな雰囲気だったし……》

 まあともかく触らぬ神に祟りなしだ。

「うわあ、おいしそうですね」

「たんとお上がりなさい」

 ここの大家さんはなかなかお料理上手で、食事は大変満足のいくものだった。こうなれば後はお風呂にでも入って寝てしまいたいところなのだが……

《でも予習しとかないとダメよねえ……》

 メイは再び部屋に戻ってベッドに寝転がると、ため息をつく。

 勉強は思った以上に大変だった。

 多くのことはガルサ・ブランカでも学べるのだが、魔法関係となると話が別だ。この世界で統治をしていく上では、魔法使いとの関わりあいが必須になる。そこで彼女はここで魔法関連とベラの歴史・地理・法律・政治などを集中して勉強することになっていた。

 しかし、前述の通り彼女は例外的な短期留学のため超過密時間割である。

 朝起きて朝食を頂くと、学校に登校する。マンツーマンのため授業は教官の部屋で行われるので、落ち着かないこと甚だしい。午前中のコマはみんな埋まっていて、午後も早い日で三時、遅ければ五時くらいまでは授業がある。

 また空いた時間があっても迂闊に遊ぶわけにはいかない。授業という物には課題が付きものだ。もちろんそれを片づけなければならないし、分からないことだらけなので、いろいろ尋ねていたら予定通り終わらない授業も出てくる。すると残りは補講になってしまうのだ。

 だから今日リザールとの待ち合わせに三十分遅れというのは、メイとしては限界まで端折った結果でもあったのだが……

《うう、ともかく三月までの我慢よね……》

 今が一月半ばだから、あと二ヶ月半。頑張れば何とかなるはずだ。

 メイは大きくため息をつくと、ベッドから起き上がって机に向かって本を開いた。だが……

 ………………

「うわーっ」

 何ページも読まないうちに寝落ちして椅子からずり落ちそうになっていた。

「うー、ちょっとお茶飲も」

 メイは顔をピシャピシャ叩いて暖炉に向かう。そこではやかんのお湯がからから音を立てて沸いていた。

 と、そのときだ。


 コンコンコン……


 何やらノックのような音がしたのだが……

 ふり返るが、そちらには真っ暗な窓があるだけだ。

《?》

 気のせいだったのだろうか? そう思ってまたお茶の準備を続けようとするが……


 コンコンコン……コンコンコン……


 やはり閉め切った窓の方からノックの音がする。

 だがメイの部屋は二階で、その窓の下はすとんと切り立っているのだが……?


「……く~だ~さ~い~……」

 ………………

 …………

《はい?》

「あ~け~て~く~だ~さ~い~……」

 ………………

 …………

《はいぃぃぃぃ⁉》

 メイは腰を抜かしそうになった。

《なにこれ?》

 いったい何が起こっているのだ? この状況にはなんとなく覚えがあるが―――ああ、そうだ。昔コルネと一緒に読んだ怪談に、寒い冬の夜にこんな風に誰かが来て扉をノックする話があって、うっかり開けてしまうと……

「ひえぇぇぇ!」


 コンコンコン。

    「あ~け~て~……」


 いや、しかしあれは間違いなく作り話で、実際にそんなことが起こるわけがないわけで―――それにこっちは窓だし―――いや、それって重要な違いでいいのか? むしろ扉よりもっと異常な状況で……

 ともかくメイは恐る恐る、窓の方に近寄っていった。

 すると窓の外に人影が見えてきて―――いきなり目が合った。


「あ~け~て~く~だ~さ~い~……」


 見たことのない若い女性だ。メイは目を丸くして彼女を見つめた。

 年齢はメイより少し上だろうか。身なりは良く、なかなかの美人といってもいいだろう。素直な亜麻色の髪が冷たい夜風になびいていて、まさに寒さで凍えているという表情だ。少なくとも亡霊でないことは確かなようだが……

《えっと……》

 脳内には色々な疑問が渦巻いているのだが、ともかくこのままにしてはおけない。

 ロックを外して窓を開けると、ひゅーっと冷たい風が流れ込んできた。それからメイが顔を出すと―――本当に女性が一人、窓のすぐ横にへばりついていたのだ。

《………………》

 この下宿は一階の天井が結構高いので、二階といえどもかなりの高さがある。

 足下の外壁にはほんの数センチだが張り出しがあって、頑張れば何とかぎりぎり立てるようにはなっているが……

「えっと、ともかく……」

 ところがそうやって手を差しだした途端に、その女性はいきなりメイの首に抱きついてきたのだ。

《ほわっ?》

 何なのだ?

 だがそのままでいるわけにもいかない。ともかくその女性の胴体に手を回すと、反り返るようにして冷え切った体を部屋の中に引きずり込んだのだが……

「うわあっ」

「ひゃああ」

 そのまま勢い余って彼女の下敷きになってしまった。そして……

「ありがとうございますぅ~」

 女性はそのままメイをぎゅうっと抱きしめた。

「ふわあああ!」

 女性は思ったより大柄で、平均をずいぶん下回るメイは下敷きなったらただジタバタするより他はない。

「あら~、ごめんなさい~」

 状況に気づいたようで、女性はメイの上から降りて絨毯の上にぺたりと座りこんだ。

 メイも慌てて跳ね起きる。

「えと、それでその?」

「あの、もしかして魔法はお使いになれませんでしたか?」

「え? そりゃ普通科ですから」

「まあ、ごめんなさい~。ついいつもの癖で~」

 はあ? 何を言っているのだろう? この人は? それよりも―――と思った瞬間だ。

「ああ、寒いですねえ~。窓、閉めましょう~」

「え? あ……」

 確かにそれはそうなので、思わずメイは言う通りにする。それからふり返ると尋ねた。

「あの、それであなたはどうして?」

「リーナさんのところに行こうと思ったんですけど~、来てみたらいなかったみたいで~」

「リーナさんって……お隣のアスリーナさんですか?」

「そうなんです~。窓に明かりがついていたから、いるかと思って登ってきたんですけど~」

 登ってきた?

「リーナさんの部屋、真っ暗で、降りるに降りられなくなって~」

 えーっと―――なんだ? これは?

 もっと色々尋ねたいことはあるのだが……

「えっと、アスリーナさんのところを尋ねるときは、いつも窓から?」

「はい~。一番近いので~」

 …………

「でも、帰るときはどうするんですか?」

「リーナさんが降ろしてくれるんです~。魔法で~」

 あー、それなら納得!―――とか思ってる場合か? これ……

 要するにこのテンポの緩い彼女は隣人の友達で、部屋の明かりを見間違えてやってきたということのようだが……

 メイはその女性をよく観察した。

 状況からすればまさに不審人物以外にあり得ないわけだが、そんな人物が助けを乞うということもないだろうし、それに何というか、着ている服はかなり高級な仕立てのようだし、本人からも何か気品という物も感じられるし……

 ともかく玄関から帰ってもらうしかない―――そう言おうとした矢先だった。


 ぐうぅ~


 女性のお腹が盛大に鳴った。

「あらまあ~、失礼~」

「ええ? いえ……」

「実は夕食の帳面に記入を忘れてしまって、私の分がなかったんです~。それでリーナさんのところに来てみたんですが~」

「はい?」

「つきましては何か食べるもの、ございませんか~?」

「えーっ?」

 えっと―――夜中に見ず知らずの人の部屋に窓から入りこんで、食事を所望しているということか? この人は……

 だがその女性はまるで当然のようにニコニコとメイに微笑んでいる。

「あの、今ここにはないんですが……」

 夜遅くまで勉強するときに夜食は必要かなと思い始めていたところではあるが、あいにくその日はその通りだった。

「材料があれば作れるかもしれませんが、いずれにしても大家さんに相談しなければ……」

 メイは遠回しに帰ってくれと言ったつもりだったのだが……

「ああ、分かりました~」

 女性はすっと立ちあがると、すたすたと歩き出したのだ。

《え?》

 メイは慌てて後を追うが、彼女はそのまま部屋を出ると階下に降りていく。

《え? ええ?》

 そして大家さん部屋の前に行くと、どんどんと扉を叩き出したのだ。

《えええええええええ?》

 出てきた大家さんは少し不機嫌なようすだったが、ドアの外の女性を見るなり大きなため息をついた。

「イービス様? またいらっしゃったのですか?」

 イービス“様”? もしかして結構身分の高い人なのか?

「はい~。お邪魔しております~」

「でもアスリーナさんはまだ帰っておりませんよ?」

「あ、今日はこちらの方が作って下さるそうなので~、調理場をお貸し願えますか~」

 え?

 それを聞いた大家さんも目を丸くした。

「メイさん、あなたが?」

「え? いえ、その……」

 大家さんはまたため息をつくと答えた。

「でしたらそこの調理場を使っても構いませんよ。食材もご自由にどうぞ」

 いや、確かに料理というのは彼女にとっては息をするようなことなので、それで困りはしないのだが―――でもどうして彼女が作ることが確定しているのだ?

 だがイービスは既に食堂に向かってすたすた歩きはじめていた。

「あ~、それではお願い致します~」

 食堂の入り口でふり返ると、そう言ってメイににこっと微笑みかける。

《なんだろう? このナチュラルな図々しさは……》

 と、そこはかとなく疑問に思いつつも、メイの足は調理場に向かっていた。そして中を見た途端に……

「ま、いっか……」

 ―――そんな気分になる。

 このまま部屋に戻って法律の本を読んでも寝てしまいそうだし、料理をするのは久々だ。いい気分転換になるだろう。

 そこで彼女はどんな食材があるか調べてみた。

《えーっと、あ、夕食のスープの残りがあるんだ、だったらこれと、うん。パンも野菜も色々あるし、タマゴもあるから……》

「えっとあの、オムレツとかでいいですよね?」

「え? はい~。何でも構いませんよ~。お腹ペコペコなんです~」

 そこでメイは手早くスープを温め、オムレツと付け合わせを作ってイービスの前に出した。

 それを見た彼女は目を見はった。

「こ、これは……⁉」

「え? だからただのチーズオムレツですけど?」

「こちらは?」

「それは残っていた野菜とかを適当に切って温めただけですけど? そっちもただのガーリックトーストで……」

 確かに今までの習慣で見た目もきっちり考慮して盛り付けてはいるから、その辺の店で出てくる物に比べたらちょっと格好はいいだろうが……

 続いて彼女がオムレツにナイフを入れるととろけたチーズが流れ出してきて、あたりには香ばしい香りが漂ってくる。

 イービスはまるで恐る恐るといった様子でそれを口に含むと―――途端に再び目が丸くなった。

「まあ……まるでお城で食べてるみたい」

 それからというもの、彼女はものすごい勢いでぱくぱくと食べ始めたのだ。

《いやまあ、確かにお城仕込みではあるんだけど、何か大げさな人よねえ……》

 そうは言っても料理をこんなに美味しそうに食べてもらえるのは、料理人の本懐である。

《普通に美味しいとか言われるのよりはねっ……ははっ》

 そんな調子で彼女の食事が終わり、食後のお茶を出していたときだ。

 ばたばたばたと誰かが慌てたようすで駆けこんできた。

 見ると灰色の地味なローブを身に纏った、イービスよりやや若い感じの女性だ。少し痩せ型で頬がこけぎみで、燃えるような赤毛が背中まで垂れている。

 この人ならメイは見知っていた。お隣のアスリーナである。

 ところが彼女はそこでお茶を飲んでいるイービスを見るなりこう叫んだのだ。


「王女様! どうしていらっしゃってるんですか?」


 王女様?

 何だかすごく聞き覚えのある単語なのだが?

「いえ、このお方に夕食をいただいていたのです~」

 アスリーナは目をまん丸にしてメイを見つめた。

 だがここではメイも断固尋ね返さざるを得なかった。

「あの、この方、王女様、なんですか?」

 アスリーナは一瞬ぽかんとして、それから今度はイービスの方にふり返る。

「王女様はメイ様に名乗りも上げてらっしゃらないのですか?」

 それを聞いたイービスはああっといった様子で答えた。

「あー、申し遅れました。わたくし、フィリア・イービス・ノル・サルトスと申します~。以後、お見知りおき下さい~」

 ………………

 …………

 ……

 フィリア? ノル・サルトス? サルトス王家のお姫様⁉

 このような名乗りを上げられるのは“国王の娘”以外にはあり得ず、必然的に世界中を探してもほんの数えるほどしかいないわけで……

 サルトス王国といえばメイも名前はよく知っている。特に中原の軍事バランスの一角を担う重要な王家だ。要するに彼女はVIP中のVIPということになるのだが……

 ぽかんとしているメイにイービス王女が尋ねた。

「それでこちらもまだお聞きしておりませんでしたが~、メイ様はどちらのお方なのでしょうか~?」

「あ、フォレスですが……」

「ああ、フォレス王国ですか~。それでご苗字は?」

「え?」

「どちらの一族のお方かお教え願いますか?」

 もちろんそんな物があるわけがない。

「いえ、そういうのはないんですが。私、その、庶民なので……」

「えーっ⁉」

 イービス王女は盛大に驚いた。

「そのような方がこちらに~?」

 王女があたりを見回す。確かにこの下宿は一般民がそうそう入れる場所ではないのだ。

「えっと、実は私、こんどエルミーラ様の側近に取りたてられることになりまして、それで王女様からこちらで勉強して来いって言われたんです」

 それを聞いた王女の目が丸くなった。

「エルミーラ様って……あのエルミーラ様ですか?」

 あのってどの“あの”なんだろう? あはは。

「はい」

 メイがうなずくとイービス王女と、さらに横で聞いていたアスリーナまでがしばらく絶句した。

《ああ? 何だろう? この反応……》

 これまでずっと王女の側にしかいなかったから、外から彼女がどう見られているかを知るいい機会―――のようではあるが、何か悪い予感しかしてこない。

「いえ~、つい最近そのお名前はよく耳にしたもので~」

「あー、まあ、そうでしょうねえ」

 セロの戦いがあったのはまだ二ヶ月ちょっと前のことだった。

「何でも最初はティベリウス王が若返りのために王女様をさらっていったとか?」

 メイは吹きだしそうになった。

「え? それは違いますって」

 聞いた王女は大きくうなずいた。

「ですよね~? いくらなんでも変だよねってみんなで話してたんですから~。でも国長様がそれでエクシーレに攻めて行ってしまって~」

「あはは。だという話は聞いておりますが……」

「そのあと今度はアイザック様が都から来た悪い奴に騙されてるからって~、そのままフォレスに攻めて行ったりして~」

「あはは。確かに、そういう話は聞いておりますが……」

「だからみんなで話してたんですよ~。何かこれ、フォレス王国ってなくなっちゃうんじゃないかな~って。そうなったらその後はどうなってしまうんだろうって」

「あはははは。本当に危ないところだったみたいです……」

「そうしたら何ですか? 戦争はフォレスが勝っちゃったみたいで」

「え? いえ、勝ったというか、引き分けみたいな物だと思いますが」

「え? そうなんですか? こちらでは出征していった魔法使いの方々が、大勢ケガをしたり亡くなったりなされて、もうお通夜みたいな雰囲気で……」

「え? そうだったんですか?」

 そこにアスリーナも口を挟む。

「私の先生も一人大けがをなさって……」

 思わずメイは謝った。

「うわあ、すみません。でも、その、多分、こちらもそうしなければならなかったと思うんです」

 だがイービス王女は不思議そうに首をかしげた。

「え? どうしてメイ様がお謝りに? 攻めて行ったんですから、反撃されたって文句は言えませんよね~? 要するにフォレス軍がお強かったということでしょう?」

「あ、はあ……」

 王女はそういうところは全く気にしていないようだった。

「それで最終的にエルミーラ王女様のお取りなしで、両軍は和解されたと聞きますが~……」

「あ、それはそうだったみたいですが」

「そこでお尋ねしたいんですが~……」

 急にイービス王女が真顔になった。

「はい?」

「その間、王女様はどちらにいらっしゃったのでしょう?」

「え?」

「みんなで話してたんですよ~。ティベリウス王にさらわれたんじゃなければ、いったい王女様はどこにいるんだろうな~って」

 …………

 もちろんメイはその間に王女がどういう目にあっていたか知っていた。

《でもそれって……話していいのかしら?》

 正直あの顛末は国長ロムルースの大自爆だった。王女をさらっていったのが実は彼の腹心だった大臣のプリムスで、その口車に乗ってフォレスに攻め込んでいったのだ。しかもそのどさくさにエクシーレにまで攻められて、フォレス王国はまさに踏んだり蹴ったりだったのだ。

《でもそのことはなかったことにしたいのよね?》

 本来ならばフォレス側は激怒していい案件だ。ベラ側はどういう賠償を吹っかけられたって文句が言えないところだろう。

 それなのにアイザック王もエルミーラ王女も、そのことに関してはこれ以上何も言う気はないようだ。すなわち、ベラとの友好関係の方がずっと大切だと考えているわけで―――そんなところに国長の失態をほじくり返すようなことを言うのはどうだろう?

「えーと、そのー、ちょっといろいろあってですね、迂闊には話せないんですけど……」

 その答えを聞いたイービス王女はあっといった顔になった。

「あらまあそれはごめんなさい~。それって国家機密でしたか~?」

「は?」

 国家機密?

 そこにアスリーナも口を挟む。

「王女様。ダメですよ。スパイみたいな真似をなされては」

「ですよね~」

 考えてみたら、そんな感じの理由で迂闊に話せない事実っていうのが国家機密といわれる物のような……

《そんな大事な話だったの? これ……》

 考え出したらなにやら背筋が寒くなってくるのだが……

 と、そこに王女がまた尋ねた。

「ところでもう一つ異な噂を聞くのですが……」

「え? 何でしょう?」

「実はエルミーラ王女様はよく、少々怪しいところに……」

 メイが思わず吹きだしそうになったところに、アスリーナが突っこんだ。

「ちょっと王女様、なにいきなり失礼なことを尋ねてらっしゃるんですか。そんなのもっと機密に決まってるじゃないですか!」

 いや、こっちの方は多分機密じゃないんですが―――フォレスに行けばみんな知ってるし―――とは言っても、積極的に言いふらすような話でもないし……

 何かこのまま放置したらもっと失礼なことを訊きかねないと思ったのだろう。今度はアスリーナがメイに尋ねた。

「あの、それよりメイ様がどうして王女様にお食事を?」

「え? ああ、それはその、王女様が窓の外にいらして、それからお腹がすいてるっておっしゃられて……」

 聞いた途端にアスリーナは状況を理解したようだ。ふり返るとじとーっとイービス王女を睨んだ。

「え? なに? リーナさん……」

 イービス王女の顔に困ったような笑みが浮かぶ。

 アスリーナははあっとため息をつくと、髪が床に届くほどに深々と頭を下げた。

「どうも、申しわけありませんでした。ご迷惑だったでしょう? 本当に、本当に申しわけありません。そして、ありがとうございました!」

「い、いやそれほどでも……」

 そこにまた王女が間延びした声で口を挟む。

「だからリーナさんがいてくれればこんなことにはならなかったのに~……」

「だーかーら、私、近々試験があると申しましたがっ!」

「あら~、そうだったかしら~?」

 アスリーナはまた大きくため息をつく。

「ともかく他所から来た方に迷惑をかけないで下さいませんか? 下手すると国際問題ですよっ!」

「ああ~、そうですよねえ~。それは困りますね~」

「えっと……あはは」

 国際問題というのは少々大げさなのではないだろうか?

 そこにいきなり王女が言った。

「それではお皿洗いは私が致しましょう~」

「え?」

 この人、そんなことができるのか?

 だが止めろと言うわけにもいかないような気がするし……

 メイがおろおろしているうちに、王女はすたすたと食器を下げて流しの方に向かって行った。

「これがギブアンドテイクという物なのですね~」

「王女様。ちょっとそれは違うと思いますよ?」

 何か調子が狂うんですけど―――二人の会話を聞きながらメイはただ唖然としていた。



 外の空気はしんしんと冷え込んできていたが、部屋の中の大きなストーブから発せられる熱で、からみ合う二人の体にはうっすらと汗が浮かんでいた。

「ああ、素敵……」

 とろんとした目で女がつぶやくと、その耳元に男が囁く。

「君こそ、いつまでたっても素敵だよ」

 女はにこっと笑った。

「ま、本当にお上手になったんですね……でも、上手くいっても同じこと、言って下さるの?」

「もちろんじゃないか……」

「どうかしら?」

 女がすねたように横を向く。

「むしろこっちは本当に上手くいくかどうかが心配なんだけど、な」

 男はそう言って女の乳首を軽くひねった。

「あん! もう……大丈夫ですよ。それはお館様を信頼なさらなければ」

 それを聞いた男はふっと鼻を鳴らした。

「王様……ね。何か全く想像が付かないや……」

「何事も初めはそういうものですよ」

 そんな男の背中をなでながら女が囁いた。

「それでどうなんですの? あの子は……」

「はは。まだ子供だよ」

「ふふっ。でも子供なんてすぐ大人になるんですよ? あなただって最初は……ん~っ」

「こら、思い出させるんじゃないよ」

「あ、そこは……」

「ほら、そこがどうなんだい?」

「あ、あ……」

 部屋の中に再び女の喘ぎ声が響き始めた。