寒い国まで来たスパイ
第1章 女の闘い
「はあ~、いい天気だなあ……」
メイは思わずつぶやいた。
彼女が今いるのは、ガルサ・ブランカ城の中庭の片隅にある王女の離宮だ。その庭園のベンチに座ってメイはぽけっと空を眺めていた。
六月とはフォレスが最も美しくなる時期である。
緑の野山には美しい花が咲き乱れ、銀の湖や各地の森には様々な夏鳥が渡ってくる。庭の木立の間からもそんな鳥のさえずりが聞こえてくる。
だがその夏は短い。人々はその間に大急ぎで作物を育て、家畜を太らせ、またやってくる長い冬に備えなければならない。だから農場の娘だったメイはそんな美しい光景をゆっくり堪能できたという記憶がなかった。
だがエルミーラ王女の秘書官見習いとして側勤めを始めると、時々こんなぽっかりと空いた時間ができてしまう。
今日は午後から予定していた会見が急にお流れになってしまって、王女もメイもすることがなくなってしまったのだ。そこで王女はのんびりと自室に引きこもり、メイも夜までは好きなように過ごしていいと言われたのだ。
彼女が王女の側勤めを始めて分かったことは、休めるときには休んでおけということだった。
これが厨房だったら一日のリズムという物があるから、仕事の時間、休息の時間が概ね決まっている。
だが王女付きの場合、いつどういう理由で呼び出されるか分からない。だとすると、こんな空き時間にまであくせく仕事をしていると身が持たないのだ。
厨房にいた頃にコルネが昼間にだらだらしているのを見て、いいご身分だなあと思ったことがあるが、実は深夜に作業をしていたことも多々あったという。
《ま、そういうときには特によくドジったって話だけど……》
噂に寄れば秘書官というのはそれがもっと甚だしくなるらしい。ならば今からそれに慣れておかねばならないわけだ。
そんなことを考えていると……
「イヤアーッ」
パシーン!
離れの裏手の方からそんなかけ声や、打ち合う音が聞こえてきた。
《あ、今日はやってるんだ……》
その音の主はもちろんリモンとアウラだ。二人が薙刀の稽古をしているのだが―――ここでその音が聞こえるのは久しぶりだった。
というのは最近リモンが親衛隊に正式入隊できたため、そちらで練習していることの方が多いからだ。
王女の会見が流れた関係で、アウラもリモンも側に控えている必要がない。そこで二人もここで練習を始めたのだ。
《二人とも本当に元気よねえ……》
互いに暇さえあればああやって練習をしている。
「よし。ちょっと冷やかしてくるか」
メイは声のする方に向かった。
木立の間の小径を抜けていくとちょっとした広場が現れて、そこで二人が稽古をしていた。
リモンは薙刀を構えているが、アウラの手にしているのは木剣だ。
これは王女の護衛の任務に就いた場合は普通、襲ってくるのは剣を手にした男であって、薙刀を持った女ではないからだ。
《それにしても……》
色々と変わってしまった。メイはつくづく思う。
今リモンが着用しているのはアウラと同じ女性警備隊員の制服だ。これまでそれを着ていたのはアウラ一人なので、彼女が二人目になる。そしてそれを見ているメイが着ているのは王女付きのメイド服だ。
つい先日まではそれを着ていたのがリモンで、メイは厨房のエプロンだったのだが……
《あれって凄かったわよねえ……》
彼女たちがベラからフォレスに戻ってきてすぐ、親衛隊で模擬戦が行われた。
その試合は実はリモンの入隊試験も兼ねていたのだが、そのことはロパスとアウラ、それにエルミーラ王女やアイザック王などの間の秘密で、抜き撃ちで行われた。
メイは理由を知らされず、王女に応援してこいと言われたので見に来たのだったが……
―――試合は王女の護衛としてベラに出向したメンバーと、フォレスに居残ったメンバーから五人ずつが選抜されて行われた。
試合は勝ち抜き戦でベラ出向組の先鋒がリモン、副将がロパス、大将がアウラというオーダーだ。そのときのリモンはまだ単に動きやすい作業着姿だった。
もちろん居残り組は怪しんだが、それに対してロパスが、リモンがあちらで練習してかなり強くなったから経験を積ませてやりたい、といった説明をする。
「ともかく俺がいない間にお前達がサボってないか見てやるからな?」
それを聞いた居残り組の一人が言う。
「隊長はともかくアウラ様が大将ってずるくないですかあ?」
「何を言っている! どんな敵が相手だろうと王家の方々をお守りするのが、お前らの役目だろうが!」
そう言われては返す言葉がない。居残り組は集まって作戦を練り始めた。
『ともかくだ。隊長に当たるまでいかに効率よく倒してくかだ。アウラ様にはせめて三人くらいいなきゃまずいぞ?』
そんな言葉が聞こえてくるが―――だがそれを聞いたロパスとアウラ、それに他のベラ組メンバーが何やらニヤニヤしている。
??
そのときのメイにはそのわけが分からなかった。
こうして試合が始まった。
「リモンさーん! 頑張って下さーい!」
メイの応援にリモンがにこっと笑って答える。緊張はしていないみたいだ。メイは少し安心した。だが……
「始めーっ!」
審判の声にリモンが薙刀を、居残り組の先鋒が剣を構える。
前述の通り、親衛隊とはフォレスでも最強の剣士の集まりだ。しかも先ほどの“作戦”を考えれば、先鋒には少なくとも最初の三人くらいは抜いてもらわなければならないわけで、居残り組の中でも特に強い剣士が選ばれているのは間違いない。
《大丈夫かなあ……ケガしないかなあ……》
最初、メイの心配はそちらの方だったのだが……
相手がつつつっと間合いを詰めてくる。そして……
「イヤアァッ」
ゲシッ
「アオッ」
いきなりリモンの一撃が右小手に決まって、先鋒は剣を取り落としてしまったのだ。
………………
審判までが一瞬沈黙してから、手を上げた。
「……勝負ありーっ!」
先鋒の剣士はわけの分からない様子だ。戻って仲間に言う。
「いや、左袈裟だが……見えなかった……」
「上で持ち替えてたぞ。だから届くんだ。注意しろ」
「分かった」
こうして次鋒との戦いが始まったが……
「イヤアァッ」
ゲシッ
「ヌオォッ」
彼もまた瞬殺だった。
「おい、同じ手だろ!」
「いや、速いんだ、思ったより……」
中堅は何とか最初の一撃はかわしたものの、それで体勢を崩した瞬間に続く突きを食らって敗北した。
そのときには居残り組の顔面は蒼白だった。
そんな彼らをベラ組が面白そうに眺めている。
「隊長、これは……」
思わず居残り組の一人が尋ねるが……
「だから『どんな敵が相手だろうと』って言ったぞ? 俺は」
「…………」
それに続く副将はもう少し善戦したが―――それでもリモンに翻弄されたと言ってよかった。そして最後の大将はむしろ彼の方が緊張していて、同様になすすべなく倒されてしまったのである。
観戦していた一同はほとんど声も出なかった。見ていたメイも同様だ。
「というわけでリモン殿を親衛隊の正式メンバーに入れたいと思うのだが、お前達どうかな?」
そんな一同にロパスがニヤニヤと笑いながら言う。
そして初めて人々はこの試合に隠されていた意味を知ったのだ―――
メイがそんなことを思い出しながらやってくると、その姿を見てアウラが構えを解いた。
「あ、メイだ」
「どーもー」
メイが手を振るとアウラが尋ねた。
「フィンは今日は早く帰れそう? 知ってる?」
「あー、ル・ウーダ様は、夕食後もまた別な会議があるみたいで……」
メイも一応“秘書官補佐見習い”なので、城での会議のスケジュールなどは把握しているのだが……
「そう……」
アウラがあからさまに落ちこんだ。
《何か、戻ってからすれ違ってばかりみたいよね……》
二人がとても親密な仲だということは、もう周知の事実である。メイもこっそりとコルネから二人が部屋でどんなことをしていたか聞いたこともある。
《ベッドに縛られてたって……本当かなあ……》
そんな大人の世界をメイはまだ詳しく知らない。
《ぐぬーっ! あいつめ……》
もしかしたらもっと詳しくなれてたかもしれないのに―――と、思い出すだけで腹が立つ!
リモンもふり返るとにこっと笑った。
「それでは一休みしますか?」
「うん」
それからアウラが気を取りなおしたようにメイに微笑む。
「で?」
そう言われてメイは思いだした。
《うわー! しまった……この間約束してたんだっけ……》
メイはあわてて手を振った。
「あの、お菓子、ちょっと今日もないんですけど……」
「えーっ」
二人が顔を見合わせる。それからアウラが大きくため息をついた。
「最近メイ、何も持ってきてくれないし……」
「いや、ほら、厨房が遠くなっちゃって、ちょっと今日も」
「ま、いいけど……」
アウラがまた大きくため息をつく。リモンも凄く残念そうな表情だ。
「本当にこんど頼んどきますからー」
「うん……」
なぜ二人がこんなにがっかりしているかというと、以前はメイがやってくるのは、ほぼ何かの差し入れをするためだったからだ。だからアウラの頭にはメイという存在が、相乗りで同席という以外には“お菓子を持ってきてくれる子”と刷り込まれてしまったようなのだ。
そんな風にうなだれる彼女は、何だか子供みたいだ。薙刀を持てばまさに天下無双だというのに、この人は何というかいろいろよく分からないことが多い。
《それにリモンさんも甘い物大好きだし……》
彼女も口に出しては言わないが、メイのお菓子を待ち望んでいたのは明らかだ。
《あのときもそんなだったっけ……》
メイがリモンと最初にまともに話をしたのも、確か今日みたいな日だった。
―――その日メイは午後の空き時間に王女の離れにやってきた。ここに来るのはほとんど初めてだったが、どうせいるのはコルネ一人のはずだ。それならば少々勝手が分からなくても問題ない。
王宮の庭の片隅にこんもりと茂った木立があって、その奥に王女様が現在引きこもり中の離れがある。メイはその間の小径を通って、離れの入り口まで足を進めた。
「コルネーっ、いるー?」
夕べ彼女が今日は一人で掃除しなければならないとブツブツこぼしていたので、だったら陣中見舞いしてやろうと思ったのだ。ところが……
「コルネさんならいませんよ?」
そう言って出て来たのはリモンだった。
《ひーっ!》
その当時のメイはまだ城に来てから一年ちょっとというところで、王女付きの先輩侍女なんてまさに雲上人だ。
コルネがこの春から王女付きになったのだが、彼女からも先輩のリモンという人がすごく怖いという話も聞いている。
「えと、えと……」
メイは頭が真っ白になる。
「コルネに何の用ですか?」
多分リモンは普通に尋ねたのだろうがそんなメイの耳には……
『これ、そこの小娘! 用もないのにこのような場所に足を踏み込むなど、事と次第によっては容赦致しませんよ?』
―――などと聞こえてくる。
「あ、あのー、実はこれ、持ってきたんですがーっ」
メイはお辞儀しながら手にしていた大きな包みを差しだした。
「それは?」
「ケーキですっ」
「ケーキ?」
その中には厨房で作られたフルーツケーキが、一本まるごと入っていた。
「コルネにそれを全部?」
「いえ、もちろん皆さんにもーっ」
メイは思わずそう答えたが、聞いたリモンの表情が変わった。
「まあ、それはありがとう。じゃ、いらっしゃい」
「え?」
彼女はいきなり中に招き入れられて、わけも分からず後に従った。
「どうしたの?」
そこに出て来たのがグルナだ。
《うわーっ!》
彼女はもっと大人だ。
「この子がケーキを持ってきてくれたんです」
グルナもリモンが手にしている大きな包みを見て目を丸くする。
「パティシエさんが作ったの?」
「はい……シーナさんが……」
聞いたグルナもにっこり笑った。
「それではお茶の準備を致しましょう」
「えっと……その、コルネは?」
「ああ、彼女ならお城の王女様のお部屋をお掃除してますけど? 聞いていなかったの?」
にゃんだとーっ⁈
《あのボケがーーーーっ‼》
確かに王女様の部屋の掃除とは言っていたが、どうしてそういう重要な情報を省くかな? あのアホの子はーっ!
などと蒼くなっていると今度はエルミーラ王女とナーザまでが出て来てしまった。
「どうしたの……あら、凄いケーキ」
メイがぼけっとしている間にリモンとグルナはてきぱきとテーブルを整えていて、そのまん中にもうケーキが置かれていたのだが―――二人を見てメイは蒼くなった。
「えと、その、それって……」
「どうしたの?」
グルナが不思議そうにメイを見る。
「あの、失敗作なんですけど……」
「え? どこが?」
「ほら、そのあたりに焼きムラが……」
だからこそコルネに食わせるので十分と思って持ってきたのだが……
「ああ、本当ですねえ」
それを見てリモンもうなずいた。
「なのでえっと……」
王女様とかに出すには失礼な代物なのだが……
「え? いいじゃない。別に味が変わったりしないでしょ?」
王女はそんなことを言いだした。
「それはそうですが……」
確かに味にはほぼ差はないと言っていいのだが……
「じゃあ頂きましょう」
という感じでいきなり、そんな方々に囲まれてのお茶会になってしまったのだ。
「まあ美味しい。さすがシーナさんですね」
「私じゃこんなのは作れませんから」
「プロなんだから当然よ。グルナのケーキだって美味しいんだから」
「ありがとうございます」
そんな会話を聞きながら、メイは何だか生きた心地もしなかった。
《えっと……どうしてあたし、ここでこんなことしてるんだろう……》
こんな人たちに囲まれてお茶するなんて生まれて初めてなのだが……
そのとき王女がメイに尋ねた。
「あなた、去年一緒にブルーベリーを摘んだ子よね?」
え? 王女はあれを覚えていたのか?
「はい」
メイがうなずくと王女がケーキを指さして訪ねる。
「これ、コルネに頼まれたの?」
メイは首をふる。
「いえ、一人で掃除だって言ってたから、差し入れしてあげようかって……その、学校の友達なんです……」
「あ、そうだったの」
王女がにっこり笑う。
「それじゃまた失敗作ができたら持ってきて頂戴ね?」
「え? あ、はい……」
メイは慌ててうなずいたが、そんなわけで王女の元にはときどきお菓子の差し入れに来ることになったのだった―――
《あの後コルネにはずいぶん恨まれたけどねー》
何だかみんな甘い物が大好きみたいで、コルネに残された分は端っこの方のほんのちょびっとだったのだ。
後から聞いたらその頃はまだ王女が自炊をしていた頃で、グルナが主に食事を作っていたらしい。彼女はなかなかの料理上手なのだが、やはり庶民的なレパートリーしかない。作れるお菓子もマドレーヌやクッキーなどで、メイの持ってきた王宮のパティシエが作ったケーキは、少々焼きムラがあろうともさすがに次元が違っていた。
《あのときのリモンさん、すごく美味しそうだったわよねー》
実はリモンは結構食いしん坊で、王女付きを志望した理由も給金の他に、美味しい食べ物が食べられると思ったからだそうだ。そういうわけでこの時期は彼女的にはちょっと期待外れだったらしい。
ともかくそんな調子でメイは、機を見てお菓子を持って行ったり、翌年の夏にはまたブルーベリー摘みに行って今度は一緒にタルトを作ったりと、王女やその侍女達とは仲良くしていた。
そんな折にアウラがやってきて、彼女とコルネが薙刀を始めたのだ。運動すればお腹もすく。そこでメイは彼女たちが練習しているところによく差入れをしていた。
ところがご存じの通りコルネは数ヶ月でリタイアしてしまうわけだが、それで差入れを止めるわけにもいかない。それでそれ以降の差入れはアウラとリモンのためということになってしまったのである。
《だって本当に一生懸命だったし……》
そこでメイは、痣ができたり豆が潰れて血だらけになったりしながらも一途に練習しているリモンの姿を見守ってきた。
《その上大怪我までして……》
彼女が入院しているときにもよくお見舞いに行ったが、それで彼女が弱音を吐いている姿は見たことがなかった。
だから彼女がこんなに強くなったということは、他人ごとではなく嬉しいのだ。
「どうしたのよ。ニヤニヤして」
リモンが尋ねた。
「いや、リモンさんがすごく格好良くなったから」
「何言ってるのよ」
リモンがはにかんだような笑みを浮かべる。
「でも本当に強くなったじゃないですか。五人抜きだってそうだし、あの後宮のときだって……」
「あれもたまたまよ」
リモンは自分の強さをひけらかすようなことをしない。そういうところがますます素敵なのだが……
「さて、お菓子もないし、続きやろっか」
「はい」
アウラの言葉にリモンがうなずく。
あはははは。
《まったくもう……》
それから二人はまた稽古を始めた。
その姿を見ながらメイは思った。
《やっぱりはやく誰かに頼まないと……》
今の役職に就いてからというもの、自分でお菓子を持ってくる余裕などなくなってしまった。しかし差し入れなしではお腹がすくのは間違いない。そこで誰か別な人に頼もうと思っていたのだ。
なにしろこの間の五人抜き以来、侍女の間でリモンの人気がうなぎ登りになっていたのだ―――というのは、アウラは一応王族でもある上、フィンと周知の仲なのでみんな遠巻きにしているといった感じだったのだが、リモンなら彼女たちと何ら変わらない。だから彼女に憧れる娘が増えているという話を聞いていたのだ。
《フィエルさんならいろいろ心当たりありそうだし……》
顔の広い彼女なら、そういう子を喜んで紹介してくれるだろう……
そんなことを考えていたときだ。
パタパタと急いだ様子で若い侍女がやってきた。
「あ、アウラ様、こちらでしたか」
「ん? どうしたの?」
「実は今、王様のところにガリーナという方がいらっしゃってて」
メイとリモン、それにアウラは三人で顔を見合わせた。
「ガリーナ?」
「はい。そうですが……」
思わずメイは口を挟んでいた。
「うわーっ、これって絶対仕返しじゃないですか?」
「そんな……」
リモンの顔から血の気が引いている。
「でもあのガリーナって人なら、すごく落ちこんでたみたいだし」
「…………」
「あの……?」
わけが分からない様子の侍女にアウラが答えた。
「分かった。今行くから」
三人は慌てて王のもとに向かった。
それはあの川遊び襲撃事件が片付いて、もうすぐ帰郷というときだった。
その日、王女一行はロムルースと彼の妾妃グレイシーに案内されて、ベラの後宮内を見学していた。
後宮とは原則として男子禁制なので、今ここにいるのは王女の他にグルナとコルネ、それにメイといった女性のお付きだけだ。
《ほえー……》
思わずため息がもれてしまう。
後宮とはもちろんベラ首長の妃が住まうところだ。そこは例の水上庭園の隣にあって―――というより、水上庭園の方が後宮の付属施設と言ってよい。ベラにおいては遠来の客をもてなす役は長の妃が行うのが伝統なのだ。
ベラの家屋の伝統どおり、壁も床もピカピカに黒光りする木でできている。柱や窓には見事な浮き彫りが施され、壁には華やかな色使いのタペストリが飾られている。
窓の外には様々な木々や小山、大きな岩などをあしらった見事な庭があり、この時期には様々な花が満開だ。
あの水上庭園も豪華だったが、ここはそこに輪をかけて絢爛華麗だった。
庭園で行われた宴にはメイも一度出たことがあるのだが……
《凄かったわよねえ……お昼の部だけでも……》
昨年の夏にフィンと来たときには、メイはひたすら料理を堪能していた。おかげで厨房の人たちと知り合えたのはいい思い出だが……
《今回あまりご挨拶できてないし……》
聞くところによると例の事件で一緒したパティシエールのファリーナさんが、あの冷凍魔導師のフェリエさんと婚約したとか何とか……
《どんな気分なんだろう? こんな所にずっと住むなんて……》
それはこの地方に住む普通の少女の憧れだと言ってもよい。
もちろん長の“正妃”になるにはそれ相応の血筋が必要だ。だが“妾妃”であればあらゆる娘に可能性があると言ってよいが……
「ぷっ」
思わずメイは吹きだしていた。
「ん? どうしたの?」
隣を歩いていたコルネが不思議そうにメイを見る。
「いえ、なんでもないから」
「?」
可能性とか―――メイにはあり得ない話だし。
そして彼女たちを先導して歩いていくグレイシーの後ろ姿を見る。
《綺麗だなあ……》
メイから見ても何というか、男の人が震いつきたくなるというのがよく分かる。
すらりと背は高く、大きく背中の開いたドレスから見えるその肌は、きめ細かく染み一つ見えない。その上をさらさらと、黒く長い髪の毛が風にながれてキラキラ輝いている。
「こちらが夕月の間になります」
そう言って彼女がふり返ると、今度ははち切れんばかりの胸の谷間に思わず目が吸い込まれそうになるが、あまり見ているととても残念な気分になってしまうので、上の方にも目を遣るが―――そこにある見事に整った顔には少々険のある表情が浮かんでいた。
「まあ、素敵ですわねえ」
エルミーラ王女が感極まったようにつぶやく。
「だろう? ここは一番庭がよく見える所なんだ」
ロムルースはにこやかに王女に話しかけているが、グレイシーは何やら冷ややかにそれを眺めている。
《もしかして怒ってるんじゃないのかしら?》
例のごとくこの訪問も王女の気まぐれだった。
何しろあの襲撃事件のせいで王女達の警備はますます厳しくなった上、事件の事後処理などもあって結局“息抜き”に行く余裕がなかったのだ。
そこで午後にちょっと暇ができたこの日、王女がいきなりベラの後宮が見てみたいと言いだしたのだ。
もちろんそれを聞いたロムルースは快諾したのだが、一行が来てみるとどうもグレイシーの様子がおかしい。
彼女とは正月の儀のときなどに何度か顔を合わせてはいるが、その役柄上、公式の席にはあまり出てこないので、それほど面識があるというわけではない。フィンと行った宴のときもメイはおまけだったので、今回がほぼ初顔合せのようなものだ。
《来たときも何か裏の方で口論してたみたいだけど……》
ロムルースとグレイシーはケンカでもしているのだろうか?
「まあ、すごい! 何なの? あの鳥」
「あれは紅孔雀だな。父上がテルネラから取り寄せたそうだが」
「その横にいる小さいのは?」
「さあ、勝手に飛んできた奴だろう。何しろあいつら羽が生えているからなあ」
「まあ」
王女とロムルースが仲睦まじい様子で話しているが、グレイシーはそれに加わろうとはしない。
《こういった場合、どうにかした方がいいのかしら?》
だがまた変なことを言って白い目で見られても仕方ないし―――メイは隅っこで大人しくしていることに決めた。
そんな感じの何やら微妙な空気が場を支配していたのだが、王女が庭を見るのにそろそろ飽きたらしく、またロムルースにねだった。
「そういえば私、お母様に聞いたのだけど、朝焼けの間っていうのが凄く綺麗なんだそうですね」
「ああ。もちろんだとも」
「だったらそこも見せて下さる?」
「ああ、いいとも。こっちだ」
そう言ってロムルースが王女を案内しようとしたときだ。
「それはいけませんっ!」
いきなり二人の前にグレイシーが立ち塞がったのだ。
見ると何やらカンカンに怒っているような様子なのだが……
「あの部屋をよその方に見せるなど、お館様はどうかなされているのでは?」
「何だと?」
「お見せすることはできませんと申しております!」
「おい、いいじゃないか、ちょっとくらい」
「よくありません! 私は今、この後宮を預かっている身。こればかりはお館様の命といえど、承服致しかねます!」
「おい、何を意固地になっているのだ? ミーラは別によそ者ではないし……」
「それは存じておりますが、それでもあそこに入ってよいのはお館様のお妃だけでございます!」
要するになんだかすごくプライベートな部屋ということなのか? そこは……
《だったらごり押しするのは良くないわよねえ……》
メイはそう思ったのだが……
「長の俺がいいと言っているのからいいだろう?」
「な……」
グレイシーが絶句する。そこを王女が取りなした。
「まあ、ルース。グレイシーさんもそうおっしゃってますし、私は無理にとは申しませんよ?」
「そうか? いいのか? 済まなかったな」
ロムルースはあっさりと引き下がった。それを聞いてメイはほっと胸をなでおろしたのだが―――それを聞いたグレイシーがますます真っ赤になる。
「済まなかったって……どうして長様が謝らねばならないのですか!」
「はあ?」
「そんなこと……」
そこまで言ってグレイシーが王女をぎろりと睨む。
《うわああ……》
もしかしてそんな失礼なことを言った王女に謝れと言いたい―――けれども、相手が王女だから口に出しかねている、って感じじゃないのか?
《とは言っても王女様も素直じゃないし……》
王女は目を丸くしてグレイシーを見つめている。こちらも素直に謝るのは癪に障るがどうしてくれよう、とか考えてるのでは?
《うわあ……えっと……こういった場合どうすれば……》
ここでメイが謝ってもしょうがないし、どうやって取りなせばいいのだ?
―――そんなことを思って焦っていたときだ。
ぱたぱたと足音を立てて後宮警備の一人が何やら青い顔でやってきたのだ。
「あの、お館様……」
「なんだ? 今たて込んでいるのだが」
ロムルースがじろりと睨むが……
「それが、ガリーナがアウラ様とケンカをしてしまいまして」
「なんだと?」
「なんですって?」
エルミーラ王女とロムルースが顔を見合わせる。
「それでどうした?」
「はい。それで勝負をすると言いだしまして……いかが致しましょうか?」
「…………」
ある意味グッドタイミングであったが―――いや、もしかしてそっちの方が問題だったりしないか?
実は後宮見学には今のお付きの他に、アウラとリモンも同行していたのだ。
ところが門をくぐった途端に前庭で警備の薙刀部隊が練習していて、それを見た二人が見学したいと言いだしたので、そこに残してきたのである。
この薙刀術というのは元々このベラ後宮警備隊に代々伝わっている武術で、それをガルブレスが改良してアウラに教えたのだ。二人が興味を示さないはずがない。
《こうなる可能性なんて予見……できたかな? あはは》
他の一行は中がどうなっているのか興味津々だったため、まあ大丈夫だろうと高を括っていたのだが……
ともかくこちらのことは後回しだ。一同は慌てて現場に向かった。
「ケンカって、いったいどんな経緯で?」
王女の問いに報告しにきた警備員が答えるには、次のような経緯だったという。
―――後宮の警備隊がいつものように訓練をしていると、そこにアウラとリモンがやってきた。警備隊員達はまだアウラのことを詳しく知らされていなかったが、エルミーラ王女の護衛ということで見学を許可した。
訓練が一段落したところで警備隊長が二人にどうだと尋ねた。するとアウラがこう答えた。
「すごく練習してるのね。みんなとっても綺麗」
聞いた一同がちょっと誇りに思ったときだ。アウラが続けた。
「でも実戦には向かないかな……あ、でもここじゃ間男を追い出すだけ? ならいいのかな?」
当然一同はカッとくるが、特にその中のガリーナという隊員が完全にぶち切れた。
「それはどういう意味です?」
だがアウラはまさに涼しい顔だ。
「ん? だから外じゃ勝てないんじゃないかなって?」
「ああ? 勝てるか勝てないか、いま見ただけであなたには分かると?」
「うん。だいたいね」
ガリーナはさらに激高した。
「は! 口だけなら何とでも言えます!」
「いや、だってそうだし」
「そんなことやってみないと分からないでしょう!」
「えー?」
アウラはほとほと呆れたという様子で、そしてうなずいた。
「わかった。じゃ、リモン、やってみる?」
驚いたのはリモンだ。
「え? 私がですか?」
「うん。ちょうどいい練習になるかも」
「でも……」
「大丈夫よ。ちょっと練習すれば」
それを聞いたガリーナがふっと鼻で笑う。
「結構ですよ。いくらでも練習なさってきて下さい。それで試合の日取りはいつになさいますか?」
「日取りなんてそんな大げさな。三十分くらい待ってくれる?」
ガリーナが完全にキレてアウラに襲いかかりそうになったところを、仲間に取り押さえられてその場は事なきを得たと言うが―――
あはははは!
《ってか、アウラ様こそ本当に修辞学を学んだ方が……》
彼女が正直なのは間違いない。というより正直すぎるところが問題で、もうちょっと相手をおだてるとかそういったことができれば、いちいち話がこじれずに済むのだが……
一同が前庭に着くと、そこにはすらっとしたショートカットの女性が長い薙刀を立てて、むっとした顔で立ちつくしている。
《あれがガリーナって人?》
メイが見る限り、何だかすごく強そうなのだが……
「それで二人は?」
「あちらの木陰です」
王女一行がそちらに向かうと、そこではアウラが長い薙刀を持って打ち込むのを、リモンが受ける練習をしていた。
「アウラ!」
王女の声にアウラがふり向く。
「あ、ミーラ。中はもう見てきたの?」
「そうじゃないでしょ? リモンが決闘するって?」
「決闘じゃなくて、試合だけど? 真剣じゃないし」
「似たような物でしょ! それで大丈夫なの?」
「え? うん。この調子なら大丈夫だけど?」
アウラはあっさりとそう答えるが―――そのあたりの強さの判断が王女やメイにつくはずがない。彼女がそう言うならそうなのだろうが……
エルミーラ王女は大きくため息をつくと、リモンに言った。
「それじゃやってご覧なさい」
「はい」
リモンも落ちついてうなずくが……
「え? いいんですか?」
思わずメイが尋ねていた。
「だってこうなったら後には退けないじゃないの」
確かにそういう状況ではある。
こうしてリモンとガリーナの試合が始まった。
試合の前にガリーナがぶるんぶるんと長い薙刀を振り回す。そういうのを見ただけでメイなどは怖じ気づいてしまうのだが、リモンはいつもと変わらない様子だ。
「試合は三本勝負で行う。それじゃ両者構えっ!」
審判の声とともに二人が薙刀を構えた。
だがアウラやリモンがいつも使っている薙刀に比べて、ガリーナの物は五十センチ以上は長そうだ。
《あれで大丈夫なのかなあ……》
幾ら心配でもメイはもう応援することしかできない。
「始めっ!」
審判の声とともに両者がじりっじりっと間合いを詰めていく。そして……
「イヤアアアッ!」
そんなかけ声と共に、ガリーナの薙刀が嵐のようにリモンに襲いかかっていった。
《ひぃぃっ!》
メイの方が思わず目を閉じそうになるが―――だがリモンはそれを着実に受けている。
《…………》
やがてガリーナの方が攻め疲れて間を取った。
《…………あれ?》
メイはリモンとアウラの稽古をずっと見守ってきた。だから薙刀の攻撃パターンという物はある程度は分かるのだが―――それからまたすぐにガリーナが打ち込んでいったのだが、今度はリモンはそれを受けるなり一気に飛び込んでガリーナの手元を打ったのだ。
カラン! という音とともにガリーナの薙刀が打ち落とされ、次の瞬間にはピタリとリモンの切っ先がその喉元に突きつけられていた。
「一本!」
審判の声がする。
見守っていた警備隊員の間からおおっという声が上がる。
「両者戻って、構え!」
二人はまた離れて対峙する。
ガリーナの顔が赤くなっている。
「始めっ!」
再び両者はじりじりと互いの間を詰めていき、再びガリーナが一気に攻め込もうとした。
だがリモンはその初手を高く受けると、そのまま相手の薙刀を制しながら一気に間を詰めて、今度は相手の薙刀を掴んで動けなくするとその首筋に刃を当てた。
「うっ……」
ガリーナが思わずうめく。
「……一本!」
ガリーナは何とか戻って礼をしたが、そのまま地面にくずおれてしまった。
戻ってきたリモンを王女が賞賛する。
「まあ、凄かったじゃないの!」
「え? その……」
だがリモン本人が今ひとつよく分かっていない様子だ。
「あれって何? 必殺技なの?」
それを聞いたアウラが首をふる。
「ううん? そんなの三十分じゃ無理だし」
「え? それじゃ……」
王女は今ひとつよく分からない風だ。
メイも同様だったが、一つだけ分かったことがあった。
「あの、ガリーナさんって、長い分、ちょっとゆっくりだったんですか?」
ガリーナもアウラも長さは違えど同じ薙刀を使うわけで、その太刀筋も基本的に同じだ。だがリモンがこれまでずっと戦ってきたのはアウラだ。同じ太刀筋でも彼女の方が間違いなく速く、そして鋭いだろう―――だとすればガリーナの動きはリモンにはスローモーションのように見えたのではなかろうか?
「うん。それもあるけどね」
アウラがうなずく。
「ロパスとかにいつもあんな風にやられてるから、今度はやり返してやればって言ったのよ」
それからリモンに向かってにっこり笑う。
「うまくいったじゃない」
「はい」
リモンもにっこり笑った。ちょっと誇らしげだった。
だが勝者がいれば敗者もいる。負けたガリーナの方をちらりと見ると、彼女は地面に突っ伏して肩を震わせて泣いているようだ。
《うわあ……》
だがこればっかりは彼女にはどうしようもない。
ともかくそんな調子でその場は収まったわけだが……
アウラ、リモン、メイの三人が慌てて王の間まで来ると、そこには本当にあのガリーナが来ていて、床の上にぴたりと平伏していた。
玉座にはアイザック王が、その脇にエルミーラ王女が座っていたが、アウラの姿を見て二人の顔にほっとしたような表情が浮かぶ。
「それではガリーナ殿、アウラ殿だ」
「はっ」
アイザック王の言葉にガリーナが頭を上げると、やってきたアウラの方に向きを変えてまたぴたりと平伏した。
「あ? えっと……」
アウラも何と言っていいか分からず、目を白黒させている。
そんな彼女にガリーナが口上を述べる。
「アウラ様。あのような大口を叩いて試合で無様に負けたあげく、このようなことを言い出せる立場ではないことは重々承知しておりますが、どうかこの私をあなた様のお弟子にして頂きたく、参上まかり越しました次第でございます」
「え?」
アウラが驚いてガリーナを、それからエルミーラ王女の方を見る。
「彼女、そう言ってるのよ。どうしたものかしら?」
アウラはちょっと首をかしげる。
「んー、でも基本はできてるし、あそこの警備なら問題ないでしょ?」
それを聞いたガリーナが少々慌てぎみに答える。
「いえ、中だけで強くとも、外の世界で通用しないのであればお役に立てません。どうか私に技をご教授下さい。せめてリモン殿とまともに戦えるようにと……」
「え? リモンと? だったら二~三日あれば……」
それを聞いたリモンがえっと言う表情になるが、ガリーナも慌てて首をふる。
「いえ、何と言いますか、ともかくもっと強くなりたいのでございます。そのためには後宮の中だけに籠もっているのではなく、アウラ様のご教授を願うほかないのでございます!」
「えっとでも、こっちが使ってる薙刀、短いわよ? あの長いのじゃダメだから」
「望むところでございます!」
アウラがどうしようと言った表情で王女の方を見る。
「彼女、そんな感じで決意が固いみたいなんだけど。それにルースからも添え状があるの。警備隊の中じゃ一二を争う腕みたいだし、凄く真面目に仕えてくれてたみたいで……それとも長い薙刀じゃやっぱりダメなの?」
「そんなことないけど……でもあたし、ミーラの警護があるし……」
それを聞いた王女が笑った。
「だからアウラが専属で教えるんじゃなくて、この間のリモンみたいに、親衛隊の見習いに入ってもらったらどうなの? それに基本的なところならリモンが教えたっていいんでしょ?」
「あ、それならいいけど?」
「リモンもライバルがいた方が張り合いが出るんじゃない?」
「え? あ、はい……」
リモンも否応なくうなずく。
「それではお許し願えると?」
ガリーナの顔がぱっと明るくなった。そんな彼女に王女が言う。
「ええ。でもそれって今後しばらくはこのフォレス王宮に仕えてもらうってことなんだけど。当分故郷には帰れないけど、いいかしら?」
それを聞いたガリーナが一瞬絶句するが……
「もちろん覚悟の上でございます!」
「わかったわ。じゃあ彼女を親衛隊の見習いに入れることにしますが、お父様、よろしいですか?」
「ああ。構わんよ。好きにしなさい」
「じゃあガリーナ。これからもよろしくね。実は女性の警護がもっと欲しかったところなのよ。アウラとリモンだけじゃ忙しすぎるでしょ?」
「あ? もちろん、承知致しましてございます!」
といった感じで、第三の薙刀使いガリーナが王女の警護に加わることになったのだった。